ぷかぷかと浮かぶゾディアックから、桟橋に上がったレヴィとロック。二人の背後から、眩しい光が差し込んでいた。水平線に手を掛けた太陽が、ゆっくりと起き上がって来るのが見える。
咥えていた煙草は、ボートの巻き上げた飛沫で湿気っていた。炙り直し、スパスパと空気を入れ替えてやれば、少し湿っぽい煙が喉を潜って肺に染みた。歩き出したレヴィの後に続くロックが、ふと、ボートの上でレヴィの電話に着信があったことを思いだした。
「なぁ、レヴィ」
「なんだ?ロック」
ズンズン前に進む背中に問いかければ、暫く進んでからレヴィの足が止まった。振り返り、ふぅ、と一度紫煙を吐くと、白い煙はその場にとどまることなく解けるように消えた。
「さっきの電話って誰から?」
「張の旦那んとこからだ」
「張さんが?」
「いいや、その部下からさ。合言葉についてだってよ」
合言葉の一言にロックが怪訝な表情を浮かべた。それもそのはず、今頃になってそんなことを言うのは段取りが悪い。とって付けたように感じるのは気のせいなのか。
「…今頃になって、どうして」
「さぁな…っと、少し待ってな。一本、掛けときたい相手がいてね」
煙草を咥えたまま、腰に下げた重たげな衛星電話を手に、レヴィがそう言った。ロックに否やはない。誰に掛けるのか、見当もつかなかった。
「あぁ…俺はいいけど」
「よし…」
レヴィが耳に押し付けて暫くすると、応答があった。そもそも、向こうも同じ物を持っているから掛けたのだが。
「はいはい~…誰か?レヴィか?」
「おう、シェンホアか?ちっと聞きてぇんだが…」
レヴィが掛けた相手は、昨日の女死会を欠席していたシェンホアだった。
「仕事中ですだよ。おとといきやがれですだね」
「手前のご主人関連だっつの」
シェンホアのつれない言葉にも顔色一つ変えず、レヴィがご主人と一言出せばシェンホアの声色が一瞬で変わった。
「それを早く言うよ。なら聞くですよ」
「そう来なくっちゃな…あ~、これはあたしの勘なんだが、お前、今バシラン島にいたりしねえか?」
余りの変わりようにレヴィが苦笑しながら質問すれば、シェンホアの驚いたような声が聞こえてきた。
「…あってるますな。それで、お迎えが必要なのは、お前でしたか?」
彼女に急の依頼が入っていたことはレヴィもエダから聞かされて知っていたが、もしやと思いかけて見れば案の定だった。運び屋がレヴィとロックならば、逃がし屋の用心棒がシェンホアだったという筋だ。三合会の張がシェンホアのお得意様である以上、意外性はない。寧ろ、レヴィとロックの組み合わせの違和感が際立った。
「そうそれ。あたしとロック…イエローフラッグでマニサレラとやり合った時に居ただろ?ひょろっこい日本人だよ」
レヴィが説明すれば、シェンホアもふむふむと受話器越しに頷いていた。
「ああ~…わかるましたね。アレか、なるほど…それで、いつ拾えばよろしいか?」
「街の中で銃声が聞こえたら直ぐに、だ」
銃声と聞いてシェンホアが嫌そうな顔をした。逃がし屋の車内、助手席での電話だったので、隣には当然運転手がいたわけだが、生憎とヘロインジャンキーのアイリッシュである。シェンホアの生き生きとした表情にも、興味なさ気にラリっていた。
「あいや、面倒は御免ですだよ」
シェンホアが即答すれば、レヴィも面倒くさそうに返した。
「そう言うなって、さっさと仕事を終わらせようぜ?」
「それも、そうだです」
シェンホアから同意を取り付けたレヴィは一つ、ロックの方を見て頷くと、彼にも聞こえる声で伝言を付した。
「あと、今夜7時にホテル・モスクワに全員集合な」
レヴィがそう言えば、疑問の声はロックとシェンホアから同時に上がった。
「え?ホテル・モスクワで?」
「今日は何か特別の予定でもありましたか?」
この場合のホテル・モスクワとは、正真正銘、バラライカが経営しているホテルのコトである。ロアナプラでの拠点、つまりは要塞としての機能を有する安全地帯での食事、というワケだった。各々好きな時に、好きな場所で、好きな相手と、好きな物を食べるのが何時ものスタンスである。
そこを踏まえれば、今夜は何か特別なことがあったのかとシェンホアが疑問に思うのも頷けた。
だが、レヴィは首を傾げた。
「特別なことがねえと一緒に飯も食えねえのか?」
そう言われれば、確かにそうだ。
好きな相手と食べる。その相手が今日は全員だっただけである。そう言う日もあるだろう。別段、難しく考えることも無かったっけ。物事はシンプルに、なんとなくでも全然OK。そういうルールで生きているんだった。仕事中だった所為か、レイジの緩さを忘れていたシェンホアは思い出して納得した。
「それもそうでしたか…理解しましたよ」
いつも通りに戻ったシェンホアが軽くそう言えば、レヴィも頷いた。口元には微笑が浮かんでいる。
「ああ。よろしく頼むぜ。今夜のメニューはレバノン料理らしいぜ?」
レヴィが目を細めながら言えば、シェンホアも想像がつかないと首を傾げた。
「食べたこと
「そりゃあたしもだ」
レヴィも同意すれば、きっとレイジも食べたことがないというのが透けて見えた。期待できそうだと納得して、シェンホアは話を切ることにした。予定も分かれば一刻も早く済ませてしまいたい。
「…拾ってやるからくたばるのはノーだです」
「ありがたくて涙が出るぜ。じゃあな」
シェンホアなりに最大限の思い遣りを籠めた言葉に、レヴィもおどけた笑みを声に乗せて応えた。
「レガーチ、仕事よ」
ぷつりと通話が切れると、シェンホアが隣で座席に体を預けて、虚空を見上げながらヘロヘロしていらっしゃる運転手のレガーチに声を掛けた。
「へぇえ~?なんだぁ?…まだ、時間は、あんだろぉ?」
ぼわわ~んと魂が今にも口から抜け出そうなアイルランド系のこの男、自他ともに認める薬物中毒者なのだが、その運転の腕だけは確かである。
「予定変更があるですね」
「聞いてねぇ…」
「今、言いましたね」
シェンホアが二度三度と肩を揺するうちに、次第に覚醒してきたレガーチの目に光が戻ってきた…
「ほぉかい…んでぇ、運び屋の連中はぁ?(*´Д`)」
かと思いきや、速攻でどろりと溶けてしまった。相当にキマっていらっしゃる。シェンホアが肩を揺するから頭を叩くに変えると、流石に目に力が戻ってきた。
「すぐ来ますね。エンジン掛けて、何時でも出れる準備するですよ」
「あいあい~…うぅ~ちょっと待った、漏れそうだ」
ハンドルに手を掛けた状態でブルリと震えると、レガーチからそんな言葉が飛び出した。助手席で咄嗟に飛びのきそうになったシェンホアは呆れたようにため息を一つ。
「早く済ませるよ、歳の所為ね、それ」
「バカ言え、俺ぁまだ40だぞ?連中が何時まで経っても来ねぇんで、水分補給が過ぎちまっただけだ」
車内は汚したくないが、道路を汚すことは気にしないので、飲み干した端からビールの缶を窓の外へと投げ捨てていた光景が思い出された。何本捨てたかは覚えていない。
「ヤクでもサケでも何でもよいな。早く
「俺が愛車に漏らすかよ!」
「はいはい、わかったですよ」
レガーチは心外だとでも言うように叫ぶが、シェンホアは全く気にした素振りも無い。手元に視線を落としたシェンホアは、コンパクトを開くと化粧直しを始めた。マイペースなのはお互い様なのか、レガーチもそれ以外は何も言わずにトイレを探して車を飛び出した。見つからなければ野にでも放つだろう。
シェンホアとレガーチの様子はさておき、レヴィとロックは市街地に向けて歩きながら、先ほどのホテル・モスクワでの夕食について…ロックが招かれていることについての説明をレヴィがしていた。因みに、使い終わった衛星電話はロックが運んでいる。
レヴィ曰く、ロックが招かれた理由は特になかった。
だが、折角同じ仕事をした直後の話だからと、彼を招くことをバラライカから承諾を取っていたらしい。ロックにとっては寝耳に水である。
「な、なぁ…今更かもしれないが、相棒ってことで聴きたいことがあるんだ…」
「おう、なんでも聞いてくれ。ただ…聴いて好いコトと、聞かなくていいコトの選別は任せたぞ?」
立ち止まった気配を感じて足を止めたレヴィが、そうからかうように笑うと、ロックは申し訳なさそうに頷いた。
「あ、ああ勿論だ。張さんのとこでは悪かったって…」
「分かってんならいい…それで?何から聴きたいんだ?」
レヴィに促されて、ロックが聴きたいことを順に訊ねた。
ロックが訊ねたことは三つ。
最初は、レイジとレヴィとの関係性。
次に、レイジ以外の、あの家に集まった人間…つまりはバラライカやエダやメイドに双子…とレヴィとの関係性。
最後に、自分…ロック…とレヴィとの関係性。
この三つについてだった。
ロックが聞きたいことに、どうしてだとか、なんでだとか、そういうことは含まれていなかった。詮索屋は嫌われる。聞かなくていいコトを、聴かなかった。この二つのポイントを守っている時点で、レヴィの中では合格だった。
「詳しいことはどうでもいいんだ。気にならない訳じゃない。ただ、俺は事実を知りたいんだ。言ったろ?俺だけを、闇の中に残さないでくれ。相棒なら、な…」
ロックはそう念を押すように言った。ロックにとって、レヴィは特別だ。何か性的なあれこれでは割り切れない、一種、信仰めいた感情を抱いていた。そのことに、つい最近気づいたのだ。より言えば、ついさっき。今回の仕事の始まりから、今ここに至るまでの間に。
ロックは自分の言葉を言い終えると、大人しくレヴィの返答を待つことにした。胸ポケットから新しい煙草を取り出すと咥えて火を点けた。そして、ケースごとレヴィに勧めた。ついさっき、レヴィが自分にしてくれたように。応えてくれることを、ロックは期待していた。
「そうかい…あぁ、いいとも」
レヴィはそう言って指を伸ばした。細くしなやかな、白い指だ。それだけ見れば、何となく頼りない。だが、その手は銃把を握り、手放さない力強さを宿す。使いこなす柔軟さを持つ。手付きもよく見ればごつごつとしていて、女の細腕ではない。使える筋肉だけがつきながらも、削ぎ落されずに残った脂肪が、柔らかさを添えるように二の腕回りにも女性らしい丸みを残していた。
煙草を引き抜くと、歯で確かめるように挟み、ライターでゆったりと煙草の先端を炙りながら、唇の隙間から息を吸い、吐き出した。白い煙を薄く吐くと、唇を閉じて咥えて、口の中で煙を転がした。肺に入れる前の熱いままを、口腔で味わうように。
一服目を、肺に入れずに鼻の孔から逃がすと。レヴィは煙草を咥えたまま、ロックと目を合わせた。真正面から見つめると、ロックも力強く見つめ返してきた。レヴィを腕の立つ不思議ちゃんとして崇め奉るのは止めにしたいらしい。
ロックは自分の中で作り上げた、理想のアウトローとしてのレヴィの虚像を壊して欲しいのだ。
地に足がついていないような、フィクションの中に入り込んだまま、滑稽に踊りたくはなかった。
ロックは事実を知りたかった。自分の役割はなんだ。俺に何を期待しているんだ。レヴィ、君は何を見ているんだ。俺には見せてくれないのか。教えてくれないのか。
じゃあ…どうすれば教えてくれるんだ。君と同じ景色を見たいんだ。君のようには生きられないが、どうすればそんな風に生きられるのか、君の世界を教えてくれ。
ロアナプラの中でさえ、俺は何か、ピントのズレた世界を生きてしまう。ふわふわしていて、まるで本当の人生じゃないみたいだ。それが気持ち悪くて仕方がない。
俺を見てくれ。俺を知ってくれ。俺にも、君を見せてくれ。君の世界を見せてくれ。本当のアウトローって奴を。憧れのまま、このままこの世界で生きていくなんて嫌なんだ。
アンタが何を見てるのか、どうして、そんな風に自由に見えるのか、どうしてそんなに楽しそうに、充実しているように、身軽に見えるのか。教えてくれ。俺も、そんな風になりたいんだ。そんな風にはなれないかもしれない。でも、このあやふやな夢に形を与えたいんだ。自分を変えたいんだ。自分のまま、アウトローになれたらいいさ。でも、君の中には答えがあるんだろ?その答えが、俺には眩しいんだ。何か、俺よりも広い世界を知っている気がするんだ。
だから、俺をそっちに、入れてくれよ。仲間に入れて欲しいんだ。
今の自分が、このままなんとなくで終わるのが怖いんだ。確かなものを求めてる。せめて、手が届かなくても、その何かがあることを知りたい。確かなものがあるってことを、教えてくれ。あるのか、ないのか。それだけでいいんだ。
何か、自分の人生が、後悔せずに済むような、納得できるような形に変えられるきっかけになる気がするんだ。
日本じゃ手に入れられなかった。ここでも、俺の日常はどこか弛緩してる。それが…どうしようもなく嫌なんだ。
ロックの言葉が、果たして届いたか、どうか。それは大事なことじゃない。自分でさえ自分のことを完璧に理解することなんてできない。実際、ロックは、ロックが自分で思っている以上に、その可能性をレヴィから高く買われている。それがどこに端を発するものなのか、単なる感覚頼りのものなのか。それはわからない。
ただ、ロックが本気だってことは、レヴィにだって理解できた。
彼女の白い歯が、噛み合わせられた牙の輝きが、色っぽくその口元を彩っている。煙が天に向かってゆるゆると伸びていた。
レヴィは半歩進み出ると、口を開いた。
「イイ機会だ。アンタには話しておこうかロック…まず最初の一つに関してだが、そうさな…なんて言えば伝わるのか、正直なとこ、あたしにもわかんねえ」
いきなりの曖昧な返答にロックは目を細めた。
「成り行きで、一緒に暮らしてるのか?」
ロックが訊ねれば、レヴィは煙を噴き出して、ゲホゲホ咽ながら、ぎゃはははと笑った。
「あははは!面白いぜロック!そいつは、ぁあ…かもなぁ?そうかも知れない…」
「…同居人、ってことか?恋人とかじゃ無くて?家族でも無くて?」
レヴィが目尻の涙を拭きながら答えると、ロックは彼女の笑いが収まってからそう問うた。レヴィは誘うように首を傾げた。
「さぁ、な?…好きに決めなよ。正直、形にはこだわっちゃいねえな。あたしも、
「そう、か…」
ロックは唸るように言った。レヴィはニヤリと笑った。穏やかな顔だった。邪気とは無縁で、その微笑が、ロックには酷く眩しく映った。
「ふふ…羨ましいか?」
「あぁ、多分ね…」
真っ直ぐに見れなくて、ロックが遠くを見つめれば、レヴィは視線を取り戻すように呟いた。
「そいつはご機嫌だ。今度アイツに話せるな」
「それは勘弁してくれ!恥ずかしいじゃないか!」
弾かれたように目を向けたロックは、レヴィの顔に浮かぶ明るい笑みに、照れくさい思いを抱いた。からかわれている。でも、楽しい気がする。
「ハハハハハ!そうか、そうかよ!ま、いいさ…じゃあ、次の質問に答えるか…」
「…バラライカさんと、エダ、メイド、それから…え、と…双子?」
「双子だ。ヘンゼルとグレーテルって言う」
同居人なのだから当然だが、子供の名前をちゃんと言い直すあたりに、ロックはほっこりした。だが、同じくらい、なんとも言葉にするには汚いような、生臭いむかむかが胃をせり上がってくる気がした。
「じゃあ、その子たちと君の関係性について、教えて欲しい。できれば簡潔に」
気の迷いのようなものを振り払うように問えば、レヴィは腕を広げておどけた。
「あぁ、簡潔に、な?…教えてやるさ。要するにあたしらは、全員が同じもんを信じてるのさ」
「あ~…宗教かな?デリケートな問題なら悪かった…」
デリケートな話題だったかと舌打ちしそうになるロックだが、レヴィは全くそういった、神妙さを感じさせない軽快な調子で首を振って見せた。
「何でも好いのさ。好きに呼んでくれ。宗教でも、思想でも、イデオロギーでもな?ただし、断っとくが、そいつは生き物だぜ?」
「生き物なのか!?」
生き物を信じるとは、これ如何に。自然崇拝とも違うだろう。そんな柄には見えないし、レヴィに言ったら確実に笑い飛ばされるだろう。
「あぁ。だから、そいつが死んだらおしまい…そういうもんさ」
虚しさも、寂しさも感じさせずに、さっぱりと言い切ったレヴィの姿は、やはりロックにとっては特別で眩しい。目を細めてしまうのは、今日の日差しが眩しいからだ。早朝の静けさの中で、柔らかい朝日を浴びながら、ロックは詭弁で胸の穴を塞いだ。
「なら、宗教でもないな…思想とも、イデオロギーとも言えないんじゃないか?」
「そいつは結構。じゃあ、アンタは何て呼ぶんだ?身内なんかは仲良しクラブって言ってるが」
「うーん…俺にも、何と言えばいいのか…ビジネスライクなかんk」
「そいつは違う」
ビジネスライクな関係と言おうとしたところで、レヴィがはっきりと拒絶を示した。低い、強い言葉だった。ロックは目を見開きつつ、頷いた。反射的に頷くしか出来なかった。
「あ、はい。え、じゃあ…よくわかんないな。確かに、仲良しクラブかも。愛好会とか?」
ハッタリ気味に、愛好会と言ってみれば、レヴィは打って変わって大笑いを上げた。
「あはははは!そ、それだ!それだぜロック!でかしたロック!あたしらは愛好会だったわけだ。愛してるし好きなわけだな?くくくく…言えてる、言えてるぜ」
「あはは…お気に召したようでよかった。えっと、まぁ、仲がイイんだね?友達って言うか、同好の士って感じなわけだ…OK。納得したよ。一先ずは」
ロックも、そしてレヴィも、お互いに何を掴んだのか、頻りに頷いているのが可笑しかった。どことなくシュールな光景だ。
「よし。なら最後だ。コイツは簡単だ」
「うん…」
「相棒だ。それ以下でもそれ以上でもねえ」
ロックが頷くのを見てから、レヴィはきっぱりと言い切った。
「Oh…えっと、それは、なんていうか…それでいいのか?」
落胆を隠せないような、納得したような。変な安心感を抱えて、ロックはつい、そう踏み込んだ。
「これ以上は、一線を越えるって奴だ。仕事の前に話すには重すぎる。手前の意識が火星までぶっ飛んでも好いなら話すけど」
レヴィは目をぱちくりさせて、そう言った。要するに、覚悟を問うているわけだ。だが、一見すれば軽い調子で訊ねているようにしか見えなかった。
「あ~…いや、聴きたい。教えてくれ!いま聞かないと、多分一生聞けない気がする!」
「…いいだろう。いいぜ、伸るか反るか、その判断は大事だぜ。賭け時を見誤ったらアウトロー失格だ」
ロックはそう言い、レヴィもそう言った。
どちらも正直な言葉だった。ロックにとって、そしてレヴィにとって、相棒が何を意味するのか、という根本的な問いだったからだ。これは答え合わせだった。
「…俺は、レヴィにとって何なんだ?なんで、あの時、コッチの世界に誘ってくれたんだ?」
ロックが、ずっと気になっていたことを聞くと、レヴィは煙草を捨てて、一言、一言、ゆっくりと言い聞かせるように打ち明けた。
「そいつはな、ロック。アンタが、コッチの世界じゃ、とんだイレギュラーだったからだよ」
「…それで?」
ロックは、不穏な感じがした。胃がむかむかして、知る事が怖かった。でも、それと同じくらいに、期待していた。不安と期待に圧し潰されるみたいだ。喉が渇いて、気を紛らわせるように煙草の煙を肺に流し込んだ。レヴィの目は澄んでいた。
「あたしはな、アンタに期待してんのさ。アンタが、アウトローとして、悪党として立派に
「
レヴィは微笑んでいた。だから、ロックは怖かった。後悔先に立たずと言うが、ロックは既に後悔し始めていた。二人の関係性が、音を立てて崩れていく。
「急ぐなよ、いいか?この世界も、人生も、遊びだ。だがな、遊びだからこそ、全力で遊ばなくちゃ楽しくない。だろ?」
「あ、ああ…」
話は、言葉は、音は、目に映る全てのレヴィが、次第に変質していく。虚像が殺されていくのを感じた。胸の底が冷えた。息が苦しい。これほど瞼が重いこともなかった。
今、ロックは酷い気分だった。なのに、特別な感じだ。真実に触れる恐怖は、計り知れない。だが、同時にその快楽もまた、想像を絶する。何か、少しだけ自由になれた気がしてしまう。錯覚でもいい、それは確かに自分が今ここで感じているものだから。
「あたしらの愛好会はな?要するに、ソレを楽しむことが目的なのさ。その為に、お互いに融通を利かせ合ってる。お互いの人生を楽しむために、な」
「あたしらにとって、ロアナプラは狭くてデカい舞台なんだよ。あたしはその舞台の上で、一緒に踊ってくれる奴を、探してた。そんな時に、都合よく、アンタが現れたわけだ」
レヴィはロックに、少しずつ言葉が沁み込む様に、ゆっくりと語った。
この告白は、種明かしであり、一種の仕上げでもあった。
今ここで、ロックと言う人間が、悪党になる為の、一線を越える手伝いをしてやるつもりだった。
それはいっそ、真心だった。裏も表もなく、全力で、真剣な、仕上げでしかなかった。相棒を仕上げようと言う、レヴィの熱を、ロックは冷たいとすら感じていてもおかしくなかった。だが…
「…じゃあ、俺は、レヴィのお眼鏡にかなったわけだ」
「ああ、それで、
だが、ロックは嬉しかったのだ。否、嬉しいの一言では足りない。余りにも言葉不足だ。ロックは、選ばれたという事実を、手放す気などなかったのだ。選ばれたままに、ロックは自分の道を選ぶための機会を待つ身だった。
何か、特別な、そう言う瞬間を待ち望んでいたのだ。
そして、その感覚は、痛いほどにレヴィの胸を打つ。既知であり、感慨深い感覚だったからだ。自分にもまた、待ち望んで与えられた瞬間があった。
ならば、ロックの
「…俺を、悪党にしたいのか?」
ロックの目が細くなった。睨むようなそれは、眼光と呼ぶにふさわしい剣呑な色を宿す。
だが、レヴィは笑った。優しい微笑を向けられて、ロックは今にも泣きだしそうだった。目に涙が溜まるのも時間の問題だった。
「もう、なってるだろ?今日までにいくつ日向の法を破ったよ?」
「…まだ、足りないのか?今だって、一緒に仕事をしてるじゃないか」
違うんだ。違うんだ。俺はそんなことを言いたかったわけじゃないんだ。
ロックは何度もそう思い、けれども、反発する気持ちを隠せなかった。
恥をかきたくないという思いが、強く、自分の喉を抑えつけた。
そんなことを言いたいんじゃない。もっと、素直に、素直になりたい。
「アンタは、相棒ってもんを勘違いしてる。相棒ってもんはな、
「ど、どういう?いったい、何を言って…」
ロックが、脱皮の為にもがいていた。そのことを、レヴィは理解している。だから、敢えてここで彼の拠り所に唾を吐いた。
気取るな、と。
それは逆説的に、気取らなくてもいいのだと。気取らない、君を教えてくれと。見せてくれと。そいつを、あたしは欲しているんだと。
「ロアナプラにも。悪党にも。『あっち』も『こっち』もは、そんなモンはな、ねえンだよ」
「……俺は、君たちの愛好会には入れて貰えないって訳か?」
ロックが、尚も抗うが、レヴィはにっこりと笑って言った。
「少し違うな。あたしが言いてえのはな、ロック。
「出来るわけがッ!」
ここでの
「出来ねえか?」
「…期待外れで悪かったな」
嫌味を言えば、レヴィも嫌味を返す。何時もならそうだ。だが、今回は違った。ハッキリと、首を振ったのだ。
「…いいや、違うね。アンタは、アンタが思ってるほどに安定志向じゃない。手前はそんなお利口じゃねえ。お人好しでもねえ。アンタが一番に、アンタ自身を見誤ってる。そのことに早い所気づくんだな。そうすりゃ、
「…敵になれってのか?」
余りにも、レヴィの肯定は過激だ。ロックと言う、鬱屈とした人間の箍を外すためだとしても、それは正しく劇薬だった。
やってはいけないことを、そのように教えられてきたことを、逆に褒めてやろうと言うのである。これまで日の当てられて来なかったものに日を当てる気なのだ。
レヴィは、これまで目を向けられてこなかったロックの人間性を、掘り返そうとしていた。不器用にも。だが、であるが故に丁寧に。懇切丁寧にも。
「敵も、クソもねえよ。
「……なんで、俺が…」
「ベニーやダッチには出来ねえことだ。アンタと、あとは張の旦那くらいだろうなぁ」
「……な、なぁ…何をさせる気だよッ……何がしたいんだよッ!俺に何をしろって言うんだよッ!レヴィ!答えてくれ!何の為にこんなッ!」
ロックは遂に決壊した。泣きはしなかったが、癇癪を起したようにレヴィに詰め寄った。胸倉を掴もうと手を伸ばしたが、レヴィの方が早かった。
「ヘイヘイ!落ち着きやがれってんだ。まぁ、なんだ…まだ、その時じゃねえってだけだわな。悪ぃ…少し早すぎた。手前で止めとくんだったな…まぁ、今頃遅いか」
優しく、手を握られてしまった。ごつごつとした手だと思い込んでた。でも、実際は柔らかくて温かいじゃないか。
ロックは途端に自分の行動が切なくなった。苦しさに胸が潰れそうだった。
自分は何をしているんだろう。
それは格好悪くて、恥ずかしくて。だから、レヴィのことが酷く大人びて見えたんだろう。
それは対等な立場の人間同士が描く、絵に描いたような潔癖な憧れとか、リスペクトに支えられた関係性ではなかった。
ロックは、ある種、年上の家族に求めるようなものを彼女の中に見ていたのだ。
おおらかな。父性的で母性的な。そんな安心感をレヴィという人間の中に求めていたのだ。
わがままを、聞いて欲しかったのか。受け入れて欲しかったのか。
そのことに気が付いてしまった。
しっかりと自律していて、人間として立派で、強くて、カッコいいその姿に、安心と庇護を求めていたのだ。
煙草をクールに、実に吸い慣れた振る舞いで味わう彼女に。
余裕たっぷりに微笑みを浮かべている彼女に。
そんな彼女に、ロックは父親と母親の両方の虚像を見ていたのだ。本物は、自分になど興味が無かったから。
育てて貰っただけでは、人は満たされない。愛を注がれても尚、人は求めずにはいられない。
だから、猶更だ。当然だ。
見て見ぬふり。気づかぬふりをしてきた。
受け入れれば最後、ロックは、あっという間に飲まれてしまう。
だから、彼女と自分は対等な人間だという、そんな矜持が、願望が、瘦せ我慢が、最後のあがきを見せた。
「…レヴィ!こたえてくれっ…俺は、本当に、相棒なのか?」
ロックの叫びは、レヴィには響かない。なぜなら、レヴィとて同じだからだ。
向かい合い、ぶつかり合う。波が互いを掻き消し合うように、同じような叫びが、レヴィからレイジに向けられている。そして、レイジはその叫びに応えた。
彼が私にしたのと同じように。
ロックが欲しいもの。ロックに足りていないもの。
それと同じものを、レヴィは誰かに与えて貰える。
何度でも与えて貰えるだろう。何度でも与えられてきたのだから。
それは手放し難い。誰にも譲り難いものだ。
けれども、何となく、自分と似ている誰かになら、多少なりとも分けてやれないことも無かった。
狭量だと思われるのも心外で、そう思えば、いつの間にか心に余裕が出来ていることに気が付いたから。
ロックにとってのレヴィが、レヴィにとってのレイジならば。
それは、断るのもなんとなく、嫌な感じがする。勿体ない様な、気がしてしまう。
レイジから注がれて、溢れた分を、無駄にするのも癪だから。
でも、誰にでも好いってワケじゃない。だから、ロック、アンタにやるよ。
アンタのことは、嫌いじゃない。
だから。
理由は、ただそれだけ。それだけで十分だった。
だからレヴィは、ロックの叫びを打ち消す。それで好いと肯定することで。迎え撃ってやる。受け入れてやる。その為に、言葉を重ねた。
レイジは、嫉妬するだろうか?
それは、それで素敵だ。彼の瞳の奥に見える不安が、きっとあたしを興奮させる。
彼は何度でも、あたしを狂わせてくれる。だから、やめられない。何時までも。何度でも。まるで子供だ。ああ、そうだ。何時までだって子供のまんまだ。
子供のまんまだから、恥だって、迷惑だって掛けるのさ。大人ぶるのは外でだけ。
「それは確かだ。あたしはアンタに
「
ロックは、確認行動に移った。今の彼は、まさに不安の海原の真っただ中だ。自分が選ばれたこと。自分が特別なこと。自分が、レヴィに、相棒として、選ばれたこと。それを補強して、安心させて欲しい。
だから、レヴィもゆっくりと、はっきりと語った。波を、穏やかに。大丈夫だと言い聞かせるように。笑いかけてやるように。強く、抱き締めるように。
「バラライカも、エダも、シェンホアも、ロザリタも、ヘンゼルも、グレーテルも。誰も、懸けちゃいない。だから、あたしは
レヴィの悪びれもせず、逃げも隠れもしない、明け透けな言葉の波に、ロックは戸惑ったように身を引いた。
身を引いたのは、恐れや不愉快からではない。それは納得だった。
「君が、言っていることは、よくわからないよ…」
ロックはそう前置きしてから、間をおいた。言葉を整理しているのだ。思いの丈をぶつけられるように。レヴィに、自分と言うものを多少なりとも理解してもらえるように。
「……」
「けど…」
「……」
レヴィは口を挟まなかった。茶化さなかった。
それでいい。批判も否定も相槌すらも不要な時がある。ただただ、意志ある誰かに、安心できる相手に、自分の訴えを、血を吐くような叫びを、この静かな嘆きを聴いて欲しい時が。
レヴィは知っていた。レヴィはレイジに同じことを何度となくしてきた。そして、レイジもまた、レヴィに何度となく声を吐き出してきた。涙と共に。
だから、レヴィはロックの言葉を何時までだって待つことが出来た。今この時だけは、二人は世界から隔離されていた。ロックの前にはレヴィが。レヴィの前にはロックが。そしてレヴィの脳裏には、レイジに縋りつく自分の姿と、レヴィに縋りつくレイジの姿があった。
優しくて、温かい気持ちに、レヴィの方が泣きそうだ。涙脆くなったな。ホントに。
「期待を、懸けてくれてることと、相棒だと思ってくれていることは、理解したよ…その、正直、自分でも、自分がよくわからないんだ…なんで、こんな風に感じてしまうのか…変だよな、嬉しいなんてさ…信じられてるんだって、変な感じだよ…」
ロックが、どうにか、こうにか、そう言った。それだけなのに、酷く息が切れた。
スッキリした顔つきだった。自嘲する様な、照れクサくて、何て言うかカタルシスとも違う何かだ。吐き出しただけじゃなくて、色が変わったような感じだった。
自分の汗の匂いに安心して、ついつい嗅いでしまった時のような、そんな変な感じだった。
「気分が悪いのか?それとも悪くねえのか?どっちだ?」
「いきなり、なんだよ…」
レヴィは笑ってそう言い、ロックは、照れくさくて笑えなかった。難しい顔をして、不機嫌な振りをする。本当は、レヴィの顔が優しすぎて見れないだけなのに。甘えている自分が情けなくて、知らない感覚だった。安心していた。このままでいたいのに、このままは嫌だった。
羽化の時を、ロックは意識した。
「好いから、応えろよ」
レヴィに言われて、ロックはしぶしぶ…に見せかけて、実にノリノリで語った。聞いて欲しかった。そして、願わくば共感して欲しかった。レヴィと、少しでも同じ何かを持っていたかった。
だから。
「あぁ…変な感じだ。でも、何て言うか、悪くないよ…変だよな。映画みたいだ…映画の中に入ったみたいだ。フィクションじゃない。なんていうか、特別な感じで、撮られてるような。俺なんかがわざわざ選ばれて、巻き込まれて、それで、映画にでもされるみたいな。そんな気分さ。ははは…夢みたいだ…」
ロックがそう語ると、レヴィは煙草を取り出して咥えた。息が、湿っぽい。目元がいやに熱い。思い出すのも照れクサい。大切過ぎて思い出したくもない。
思い出すたびに記憶の回数券が切れやしないかと不安になるのだ。忘れてしまうのが怖い、そんな記憶が蘇る。
もう、すっかり元の形なんか残ってなくて、記憶の中の世界はどんどん狭まっている。
「そうかい…奇遇だな。あたしも、知ってるよ。そう言う気分。なんて言うか、言葉がダメになっちまう」
「言えてる…ははは…笑える」
ロックにとって、それが今なのだとすれば、レヴィは腹を抱えて笑うだろう。
バカな奴。でも、好いやつだな、と。
レヴィはやはり、ロックと言う人間を気に入っていた。
こいつは、なんか、あたしに似てる。シェンホアとも違う。
きっと、ロックは性根が腐ってやがんだな。そうに違いねえ。だから、何となく、仲良くしときたくなる。
レヴィはそう思うことにした。
「笑うしかねえのさ。全く、困った話さ…」
「レヴィ、君は、何時だった?俺は、今だよ…今この瞬間だ。ハハハっ…あぁ~…なんて言うんだ?知りたくなかったけど、知らなかったら後悔してた。絶対にね…」
ロックの乾いた笑いが、だんだんとハリを取り戻した。喉から湿気が這い上がってきた。目尻に涙も浮かんでた。
利用するとか、利用されるとか。そう言う感じじゃなかった。
人生なんか遊びだろ?
なら、お前も一緒に楽しもうぜって。
友達みたいに誘われたんだ。
だからロックは、こんだけのことがあったのに、スッキリしていた。
なぁんだ、そんなことか。うっすいなぁ…でも、なんか、好いなソレって。
そんなことなら、もっと早く言ってくれよって。
ロックはそう思った。
記憶の中には、もうずっとレイジしかいなかった。
なんか、思ったよりも覚えてないもんだ。あの日の天気も。あの日に食べた物も。忘れられない日だからって、何でもかんでも覚えてるもんじゃない。
レイジの姿だって、あの青い目のことばかり目で追ってた割に、どう光ったとか、どんなふうに綺麗だったとか、そういうことはさっぱりだった。
でも、もやもや、ドロドロした、形も不確かで、ぐるぐる頭の中で回ってる記憶の淵に、引っ掛かるように、笑いかけられたり、かけられた言葉だったり、匂いとか、感触とか、そういうものが、全て切なさに変わって、温かくて、泣きたくなるほど優しくて…そう言うもんに置き換えられて、脳裏にこびりついて離れない。
なぁ、こういうのって、何て言うのかな。匂いって言うのかな。切なくて、胸がしんどいよ。でも、乱暴するなんて出来っこないんだ。大事過ぎて、手放せないんだ。
重くもなんともないんだ。味も臭いもしない。
もう、なんていうか、湧いてくんだよなあ。腹の底からさ、背骨を伝って、首の後ろが寂しくなってさ、眼を瞑るのにも勇気がいるんだ。
気持ち悪くないのに、何かを吐いちまいそうになる。酷い感じで、あの頃に帰りたいような、でも、帰ることは出来ないし、そもそも変えたくなんてないんだよ。
あの瞬間が、何度でも、何度でも、瞼の裏で繰り返すんだ。光がチカチカしてさ、溢れて来る涙が熱いんだ。
涙越しにアンタを見るんだ。あの日のアンタを見たくてさ。アンタにも見て欲しくて。
でも、そんなことは出来っこなくて。出来ないことが、幸せで。忘れられることが嬉しくて。でも、それが、悲しくなるのが怖いんだ。
忘れられる幸せが、忘れたって次が訪れるって期待が、もう底を尽くんじゃないかって、この幸せが底を尽くんじゃないかって、気が気じゃないんだよ。怖くて怖くて仕方ないんだ。
毎朝飛び起きちゃ、汗でびっしょりになってるんだ。隣を見て、アンタがいるのを見て安心するんだ。寝てるアンタの首に顔を埋めて、鼻先を押し付けて匂いを嗅いでさ、そしたらアンタからも汗の匂いがしてさ、今すぐにでもあたしを安心させてほしくなるんだ。
だから起きて欲しくて、でも起こしたくなくて、中途半端な力で抱きしめてさ。
朝一の煙草を吸うと涙が出るよ。ベッドに腰かけて、一口吸って灰皿に放るんだ。贅沢だよな。
んで、それから苦い唇をアンタに押し付けて、舌を突っ込んで起こしてやる。
寝起きの口の中の味は、アンタのだからって好きになれない。不健康な味がする。酷い目覚めだ。
でも欲しくって堪らないんだ。
だってよ、嘘でも夢でもないってわかんだろ。
アンタが生きてることがわかるじゃねえか。汗の匂いも。寝起きの味も。苦いから。思い通りにならない、夢でも何でもない、アンタだってわかる。アンタが生きてる証だって知ってるんだ。
アンタが生きてるってことを思い出すよ。安心して、夜になったら明日が怖くて、明日に期待して。足を絡ませてないと眠れないんだ。
あの日のボスの顔も、あの日のボスの声も、あの日のボスの体温も、あの日のボスの姿も…そう言うモン、何一つ覚えてないんだ。
どんなものだったかとか、どんな感じだったとか、そう言うの、正直さ、全然覚えてない。
好かったな、ってことだけだ。それだけ。
でも、思い出すたびに、あの日の物も、あの日の事も、こん中には、何も入ってないのに、代わりに、今のアンタがいるんだよ。目の前の、アンタがいるんだ。
今のあたしの隣に居るアンタの姿が目に浮かぶんだ。今のアンタがそこにいるんだよ。
あたし、あの空港に夢ン中で何度も通ってるんだ。
あの当時のことを、本物のあの日の事を思い出したくて、でも、思い浮かぶのは今のアンタばっかりなんだ。今朝会ったボスのコトばっかりだ。昨日の夜に見せてくれたアンタの表情ばっかりなんだよ。
天気とか、光の感じとか、味とか、匂いとか、体温とか、そんなの全部違うのにさ。さっき見たばかりのアンタが、10年前の記憶に置き換わっちまう。毎日毎日、常に上書きされちまってるせいで、アンタが年食ってんのか、そう言うこともよくわかんないんだよ。
毎年毎年、毎日毎日、昨日よりも今日のアンタの方がなんか、好きな気がして。なんていうか、惚れ直してんだよ言わすなバカ…。
最初っから、こんなに好い男だったっけかな?とか。いっつも思うんだよ。バカだろ?あたし。
知るはずも無かったあの日のあたしが、アンタの匂いを知ってるんだよ。アンタの耳の内側に黒子があんのを知ってんだよ。アンタの体温も、アンタの匂いも、アンタの泣き声も、アンタの涙の味も。
だからさ、笑うしかないのさ。幸せ過ぎて、笑うしかないだろ、こんなの。
壊れて欲しくないんだよ。このままずっと続いて欲しいんだよ。
でも、アンタ、気づいたら消えていなくなっちまいそうだから。だから、あたしと一緒に居てくれるように、頑張るから。
飽きさせねえからよ。一緒に遊ぼうぜ。もっともっとさ。ずっと、一緒にさ。
面白いヤツを見つけたんだよ。ロックってんだよ。こいつ、あたしに似てんだよ。あたしに似てるから、だからきっとアンタにも似てる。
仲良くしような。アンタ、シャイだからさ。アンタの代わりに、あたしがアンタより先に友達になって来るから。
あいつが、あたしとアンタの遊び相手になってくれるように。
「15とか、そこらの時だ。愛好会の始まり始まり…十年位前だったかな、アメリカのNYはJFK国際空港での話さ。忘れもしない…大事そうに鞄を抱いてキューバ行の便に乗り込む、碧眼のアジア人の面を拝んだ瞬間だったよ」
「ははは…そうか……」
「あぁ、そうさ」
ロックは、レヴィの目が充血していることに気が付いた。鼻声にもなっていた。
だから、ロックは目を逸らさなかった。真正面から見つめて、悔しそうに笑った。
「悪くなかったんだろ?」
ロックの問いには、何の気負いも無かった。本当に、軽くて、素っ気なくて。まるで、気になったから聞いただけ、だった。
「ああ。
レヴィはそう言って笑った。鼻を啜ると、煙草を数度、立て続けに短く吸った。
しゃくりあげるように、空を見上げた。瞼を閉じないように。そのままじっと動かなかった。
これ以上は、溜めておけない。元の通りに前を向くと、ロックと目が合った。
そして、ふと、彼女はそのまま顔を横に背けて、二度、三度と忙しなく瞬きをした。
顔を元の通りに、ロックの方に向けると、顎から、ふいに何かが滴った。
頬に一筋刻まれた、濡れた軌跡を辿れば、それはレヴィの瞳に行き着いた。
ロックは胸が詰まった。だが、信じられないくらいに、今、この、目の前にいるレヴィのことを美しいと思った。
俺じゃない。俺も、そうじゃないと思う。俺じゃなかったんだよ。
でも、俺じゃないから、きっと、綺麗なんだな。こんなにもさ。
どっちが好きなのか。どっちの彼女の方が好きなのか。
それは、迷いようもない。最初に出会った彼女だろう。今、目の前にいる彼女だろう。
俺は、この彼女しか知らない。
俺にとって、彼女は、目の前の、この、彼女しかいないんだ。
そうか、そうだったのか。道理で。勝てないわけだ。そもそも、戦いですらなかったなぁ。
不思議と悔しくはない。ロックは、美しさに、とっくのとうに、目も胸も焼かれていたのだ。
だから、盲目でいられる。
例え、手に入らない物であっても、満たされてしまうほどに。その美しさの前には、無力だった。
意地も何も、格好悪くていけない。
「へえ…その時の、君の顔を見て見たいね」
ロックは心底からそう思った。せめて、知りたいと思った。彼女を変えた誰かのことを。それは、もしかすれば、彼女と名状しがたい関係性を有する、かの同居人なのかもしれない。いや、それ以外には思い当たらなかった。
ロックは、あっさりと辿り着いた真実に、呆れ半分、納得半分だった。
なんだ、隠す意味もないじゃないか。あんなにも、見せつけておいてからに、と。
「飛び切りの間抜けツラだっただろうなぁ…今の手前と同じさ。捨てられてたから拾った奴がいたんだよ」
レヴィはロックのことを見れなかった。折角張り切ったと言うのに、勝手に感極まってしまったからだ。恥ずかしくって仕方なかった。赤っ恥だ。
自嘲気味にそう言って、それから、切り替えるようにロックを見た。口に咥えた煙草が燻ぶる。喉がカラカラだった。
「………何に、捨てられたんだ?」
「世界だよ。アンタは?」
ロックの問いに、レヴィは半笑いで応えた。今ではどうでもいいコトだ。新しい世界も、ほらこの通り。狭くても、自分ひとりには十分すぎる広さだ。
憎むことも、恨むことも疲れるばっかりでね。だから、代わりに愛することにした。馬鹿馬鹿しいくらいに。他のことが全部、馬鹿馬鹿しくなるくらいに。
先に愛してくれたのは貴方だったから。見様見真似で、一生懸命に。子供らしくね。お陰でいつもわちゃわちゃしてる。
それでも好いと、言って欲しくて。
「会社。あと、運にも」
レヴィからの問い返しに、ロックも苦笑気味に応えた。い~っと歯を見せて、しししと笑うような。らしくないロックの表情に、レヴィは笑った。
「あははははははは!!!そっ…そいつは結構!はぁ~…それで?相棒のままでいるか?」
「暫くはそのつもりだけど…」
何とも締まらないが、まぁ、こんなもんだろう。劇的でも何でも無かった。後味もクソもあるか!
言いたいことも言ったしなぁ。二人は笑いあった。なんとも、行き当たりばったりな笑みだ。何に笑っていいものか…そう悩んでいることが、可笑しかった。
「オーライ!さ、今晩のゲストを待たせてると悪い。帰りの便に間に合うように、昼前には仕事を済ませちまおう」
レヴィが顔を腕でぐしぐしすると、肩を回してそう言った。
「ああ。同感だ。全く…お陰でとんだ一日になったよ」
ロックも頷きそう言う。
「まだ終わってねえぞ。鞄をしっかり抱いてな、ロック」
「了解だよ。レヴィ」
鞄を指で指してから、ロックに釘を刺したレヴィは、彼からの応答を背中を向けて受け取ると、ズンズンと歩き出した。いつの間にか日が上がって来ていた。時間に遅れているかもしれない。二人が走り出すのも時間の問題だった。
レヴィに急かされながら、鞄を後生大事に抱いて走るロックの顔は愉快気に歪んでいた。
やっぱりこの世界は狂ってる。でも、どちらかといえば、コッチの方がマシな気がする。
なにせ、コッチにはレヴィって言う、優しくて強くて格好良くて余裕のある、そんな美しい人がいるのだから。
ロックは何の気なしにレヴィを盗み見る。
盗み見ては、彼女がロックに問う。
「あたしの顔になんかついてるか?」と。
ロックは言う。
「いいや別に何も」と。
レヴィは言う。
「へー…そうかい。ま、好きにしな」と。
ロックも言う。
「ああ。好きにするさ」と。
レヴィはロックを否定しない。
レヴィはロックの視線を受け止める。
気が済むまで、好きにすればいい、と。
レイジが彼女にそうしたように。
レヴィは、案外にロックと言う人間を愛しているのかもしれない。
それは、ロックと言う他人を通じて、あの頃の自分を愛でているのかもしれない。
だが、経由路であったとしても、ロックは嬉しかった。
そこには確かに自分がいて、自分越しにレヴィはレヴィと向き合っているのだから。
そこには確かに自分がいて、自分の中に彼女と同じ何かを持っているということだから。
性愛とも違う、屈折していて、純粋な、そんな感情を何と呼べばいいのかロックには分からなかった。
この感情に名前を付けることは困難だ。
ただ、煩わしさから切り離されて、嫌いな自分のことも忘れられた。
酷く心が落ち着いた。
ようやく、自由になれた気がした。
素直に、受け入れられた。今の自分も、これまでの自分のことも。
レヴィに抱いていた何かも、未だに抱いている何かも、新たに抱いている何かも。
全部全部本物で、全部確かに感じてることだ。
かっこよくて綺麗で優しくて、でも届かない。
欲しいのかな?
疑問形になるくらいには。欲しいってのとは、違うと思った。
自分なんかのものにしちゃったらダメな気がした。
恋ではあったと思う。叶わなかった恋だった。
なのに、こんなにも心が凪いでいられるなんて。
なのに、こんなにも幸福でいられるなんて。
なのに、こんなにも素直でいられるなんて。
これからも、こうして彼女の隣にいられるなんて。
相棒って言うのは、なんて素敵な言葉だろう。
言葉でしかないのに、如何でもよくなってしまった。
親友でも、恋人でも。多分、何でもいいとレヴィは言うだろう。
好きなままだ。これからも、多分変わらない。
あの眩しさを、忘れることは出来ないから。
でも、彼女は決して自分にカラダを許すことも無ければ、その唇を与えることも無いだろう。
でも、やっぱり、悔しいとか、悲しいとか、そういうのとは違う感じだ。
それはそれ、これはこれだ。
寧ろ、そういうのもアリなのは嫌な感じだった。解釈違いってアレだ。
そのままでいてほしい。そのままの彼女が好い。
祈るとか拝むってのは、本当は、こういうことを言うのかもな。
わざわざ手を合わせたりはしないよ。だって、絶対にからかわれるに決まってる。
そうじゃなくて、ふとした瞬間、一方的に、そういう気持ちに駆られるんだ。
押し付けだよな、結局はさ。でも、それを赦されてるからこそ。
自分の中で溢れた何かを、注ぎたくなるんだ。大切な何かで、彼女が呉れたものだから。
満たされたことに気付いてしまって、貪欲でい続けることは疲れてしまう気がした。
彼女の期待に応えられるのなら、それで認めて貰えるのなら。
なら、それでもいい気がした。
それが誰の掌の上であっても。
ロックは、レヴィと、レヴィの大切な誰かの望みを、驚くほどあっさりと受け入れた。
それでもいい。別に、悪くないかもしれない、と。
そして、同じように、ロックが抱いている全てを、レヴィも彼もまた受け入れた。
それくらい、別にいいやって。
多分、三人とも似ていたから。
だからなのか、結局、大して知らないお互いにさえ、彼らは寛容だった。
一度や二度、しっかり話したことも無かった。互いに、互いの人伝で聞いただけだった。
それでも君が言うのなら、と。
とはいえ単純に、まぁまぁ、好きだったんだろうな。
悪くないって思ったのかもしれない。
レヴィも、ロックも。
この話を聞いたレイジもまた。