ロアナプラより愛をこめて   作:ヤン・デ・レェ

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イントロダクション:ロアナプラ

東南アジアにあるロアナプラと言う島に、一人の男と三人の女が移住してきたのは数年前に遡る。世界中から訳アリが流れ着く、居場所のない者たちの居場所。それがロアナプラだった。だが、それも今は昔のこと。已むに已まれず、人生の敗北者たちが負い目と、後悔と、暗い過去を背負って辿り着く場所だったロアナプラは、今や知る人ぞ知る富と成功を象徴する国際都市へと成長していた。世界最大級の歓楽街と高級住宅街を求めて世界中の大物たちが集まるのか、それともロアナプラに来るために彼らは成功を夢見るのか…人々は地上に忽然と現れたユートピアの虚像に嫉妬と羨望の眼差しを送るのだ。だが、華やかな虚像とは相反する側面がロアナプラの本質にして深部を構成していた。それこそこの島を指すもう一つの渾名、犯罪都市ロアナプラである。

 

輝かしい招待制リゾート地は表の顔であり、その裏では世界中の名だたる裏社会の大物たちが集い、日夜鎬を削っていた。マフィアやギャングと名の付く組織でロアナプラに事務所を構えることができるのは極々一握り。だがその一握りのことごとくが、その名を知らぬものなどいない一角の犯罪組織に占められていた。悪徳者たちにとって、ロアナプラは巨大なパイだった。そのパイは世界の他のどの地域と比べても格段に分厚く、広く、重く、高い。東南アジアの片隅にある、この小さな小さな島を支配することは、裏社会に君臨することと同義だと言っても過言ではないだろう。

 

世界中のセレブが集まるという言葉に嘘はない。政治家、外交官、軍高官、弁護士、銀行家…各界で権勢を誇る者は、一人残らず一度はこの島を利用する。それは暗黙の了解であり、我が世の春を極めたものだけが味わえる最高の快楽だった。彼らは当然、この島の本来の姿を知っている。知っていながらも、保身と、野心と、快楽の為にも、他に一歩でも先んじるために、誰かに出し抜かれてしまわないようにと挙ってやってくるのだ。誰しもが口を開けばこれはビジネスだからと言い訳をする。彼らは信頼と実績の歴戦のアウトロー達から、時に買いたたかれ、時に弱みを握られながらも、自分の商売敵や政敵、はたまた個人的な因縁の相手を出し抜くために交渉の席に着くのだ。表の世界と裏の世界が、赤と青のインクが滲み、混じり合うように付かず離れず重なり合う。ロアナプラとはそういう場所だった。

 

しかし、前述したとおりロアナプラとはなるべくしてそのようになったわけではなかった。ロアナプラの変化はあくまでも人為的なものであり、一種のムーブメントと言って差し支えなかった。ただ、一度セレブたちの心を掴んでしまったものだから、見事に下品なドル箱と化しただけである。果たして、この小さな島に二つの相反する社会を招来したのは、一人の男だった。全ては男と、三人の女が移住してきた時から始まった。

 

全ての呼び水は二億ドルだった。二億アメリカドルで何ができる?その答えの一例を女たちは示した。彼女らは何処からどう見ても大富豪には見えなかった。トロフィーワイフにも、はたまた天才起業家にも見えなかった。投資家の走狗にも、投資家本人にも。

 

一人はショートパンツに黒のタンクトップ、両脇にカトラスを吊るした目つきの悪いアジア人の女だった。

 

もう一人は伊達メガネにOL然としたぴっちりしたパンツスーツを着こなす、髪の長い目つきの悪い女だった。

 

最後の一人はチャイナドレスに身を包み、刺さるくらい鋭いピンヒールを履いた、目つきの悪い糸目の女だった。

 

全員そろって人相が悪すぎた。間違ってもカタギではなかろうことは明らかだった。脛に何かしらの傷を持つであろう彼女らを、碧眼で童顔のアジア人の小男が侍らせている光景は現実味が無かった。男の格好はつんつるてんのスリーピースに、べこべこになった革靴で、とても金持ちにも見えなかった。手綱を緩めれば喰い殺されそうな女を、それも三人も従えているという事実が、全くもって不可解だった。不気味なくらい人の好さげな表情といい、ロアナプラの先住者たちは怖気がするようだった。

 

彼らはスラムよりは居心地がいい程度の土地を相場の数倍の値段で買い上げると、自分たちはモーテル暮らしをしながら、好待遇で労働者を募集しだした。工事開始時期は未定、それでも募集したその日から日給で給金を払い続けるというのだから堪らない。支払いはドル。アメリカドルだ。何の文句もなかった。食事も現地の屋台やマーケットを貸し切ってありったけ供給し、遂には島の外からうわさを聞き付けた人々が大挙して押し寄せた。工事が始まるまでの間に、数万人にも及ぶ人々が集まったのは壮観だった。彼らは工事が始まれば逃げることもできたが、いざ工事が始まってみるとほとんどそんな奴はいなかった。気力充分。彼ら自身が驚くほどに、真面目に作業に汗を流していた。

 

呼び水の二億は実に様々な伝手を辿って世界を巡り、終いにはロシア、アメリカ、日本、中国などなどの大国が挙って資本を投下し、自国の業者を先を競ってねじ込んだ。何が彼らをそんなに駆り立てるのか、当のロアナプラの住人には見当もつかなかったが、そんなことは直ぐに気にならなくなった。なぜならば、日陰で缶ビール片手に女の膝枕で寛ぐ気の好い碧眼のアジア人のほうが余程彼らの興味を引いた。晴天の下、ぬるいバドワイザーを舐めながら足を投げ出してチャイナ姿の美女に扇がれる様が、何故か異様に似合っていた。

 

 

 

 

 

 

「ビールがぬるいね」

 

美女の膝に頭を預けて足を投げ出しグデンとしている男が、半目で飲みかけの缶を睨むとぽつりとつぶやいた。

 

ちろりと舌先が見えていた。口直しに湿っぽい風をぺろりと舐めた。ぬるいビールは喉越しが悪くて苦みが強く感じてしまうからだ。端的に言って不味い。男は涙目になった。

 

「仕方ないね。クーラが届くまでちょっとの我慢よ」

 

柳のように見事な長髪を垂らす、糸目の美女が眉を八の字にして首筋に張り付いた髪を後ろに流しながら答えた。もう片手で団扇を動かし、生ぬるい風を受けていた。のぼせたように顔が赤い。

 

「あづい…ねぇ、シェンホアぁ、あおいで」

 

「む…扇ぐより離れる方が早いだよ」

 

男が見上げて縋るようにシェンホアと呼ばれた女を見た。シェンホアはさらりと暗に暑いから離れろと言った。

 

シェンホアのつれない返答に男は顔をくしゃくしゃにした。可愛い系でもなく、単に童顔なだけなのに不快感を感じさせない少年のような愛嬌のある表情だった。

 

「やだですだよ」

 

「水被るか?離れるか?ご主人にぎゅーされてると、私も暑くて倒れそうだよ」

 

からかうような返答にシェンホアがジト目で男の顔を見下ろした。目だけで見下ろすサディスティックな素振りが似合った。

 

男のレスポンスは早かった。

 

「…寂しいから、水被るよ」

 

ずぶぬれの捨て犬のような表情を浮かべて立ち上がったかと思えば、躊躇なくビールクーラーに溜まった生ぬるい水を頭から被った。

 

唖然とするシェンホア。口がポカンと開いて、困ったように笑った。

 

「もぅ…ご主人はワガママだよ」

 

男の手を引いて、彼の頭を自分の膝に誘った。

 

「ごめんて」

 

借りてきた猫みたいに身を縮める男にシェンホアの顔は緩まざるを得なかった。ちょろい。

 

「褒めてるですよ~」

 

詠うように言って頭を撫でられると、安心して定位置に納まった男が無邪気な笑顔を浮かべて寝返りを打った。

 

「にゃはははは!ちょ、ご主人!くすぐったい!悪い子!ダメねっ、ここは外ですだよ!」

 

鼻先で腹を擽られたシェンホアの笑い声が響いた。

 

男のアロハはあっという間に乾いてしまって、今度こそ二人は涼を求めて屋内に引っ込んだ。

 

 

 

 

 

腑抜けた顔も、情けなく女に抱き着く姿も、普通なら腹が立つものだがそれがなかった。アイツを働かせても役に立たないだろう、だとか。美味そうにビールを飲むなぁ、だとか。そんなことばかりが頭に浮かんでくるのだから不思議だった。碧眼のアジア人は、これといって特徴もない目立たない見かけに相反して、実に清涼感のある存在感を放っていた。誰も邪険にはしないし、かと言って無理に構うこともない。言い方はともかくとして、男の存在は実に平和ボケていた。

 

一人の男と女三人がやってきてから、あっという間に一月が経った。ロアナプラは空前の好景気に沸いていた。爆発的に人、物、金が流入し、目まぐるしく経済が回転した。建てた端から家が足りなくなり、需要と供給をギリギリのラインで保っていた。真っ先に建てられたのは巨大な歓楽街だった。昇るばかりの発展途上で、思い切りが好いにも程があった。だがいざや開店すると、連日満員御礼。安すぎる物価と不釣り合いなほどに洗練されたサービスが、先進国の観光需要を掻っ攫った。観光需要が落ち着くころには、今度はセレブ御用達となり、歓楽街の規模が拡大するのに伴い、眠らない街の郊外でもう一つの世界…暗黒街…が構築されていった。夜景はシンガポールや香港と比較されるまでになり、しかしサービスも値段も高止まりしたことから客層の絞り込みが着々と進んでいった。世界有数の利権畑だと周囲が気付くころには、貧相なスラムにモーテルや酒場くらいしかなかったロアナプラは一変していた。港や倉庫街に面して営業を続ける酒場(イエローフラッグ)を除いて、一切の面影が残されていなかった。ただ、一つだけ変わらないことと言えば、他の観光地と違いこの地に暮らす人間は元より変わっていなかった、ということだ。他の観光地や名所と比較しても、圧倒的に人口比が偏っているのだ。昔からここに棲んでいる流れ者たちが、そっくりそのままこの街を形作っていた。それは当局により"掃除"が成されなかったことを示した。杜撰に過ぎると言えたが、一方でロアナプラは二つの世界を内包し、片や世界的な遊興地、片や世界最悪の犯罪都市だった。莫大な額の金が動くのは、取りも直さずこの二本柱に支えられてのことであり、またドル箱である招待性のカジノや風俗の客層は、そのほとんどが遊興もさることながら裏の顔に用があるのも事実だった。

 

持ちつ持たれつ。その一言で片づけるには、余りにも生臭い世界だったが、それでもその生臭さのお陰で今日の禄を食む人々が何万人といるのだ。

 

…いや、この街に根を張る組織に関係する組織、そのまた関係組織も含めれば優に数百万人のメシのタネになっていた。彼らはそのメシのタネを守るために一つに固まっていられるし、彼らを縛る側も交渉と妥協の余地を見出せた。互いに互いの余裕を確保しつつ、利益と安定を確保することに躍起になっていたのだ。誰も望んで不安定な道を歩きたがらないのは何処も一緒だった。

 

時代に取り残されたようだったロアナプラは、海外資本の過剰な投下により最先端の技術で急速に開発されていった。暗黒街の中心地に自治機関を置き、事実上の独立行政で島全体を運営していた。要塞と見紛う庁舎の周囲には島への影響力が強い順にロアナプラ〇番地〇号と、名だたる大物たちが居を構えていった。さらに一段外縁に向かうと各組織で棲み分けられた事務所の群れが並び立っていた。さらに外側に向かえば、そこからは東側に住宅街が、西側の海に面した商業地域にはマーケットやバー、風俗店などが乱立していた。名誉あるロアナプラの民が思い思いに家を建てているかと思えば、基本的には各組織の縄張りで棲み分けが成されており、意外にも機能的な作りであった。とはいえ、温帯の自由奔放で緩い気風を舐めてはいけない。やはりそこはロアナプラクオリティ、隠し田ならぬ隠し倉庫に隠し家、隠し風俗など…街のルールを知らない新参者が入ってくるたびに地図が書き変えられることも珍しくなかった。

 

二億ドルの呼び水は見事にロアナプラを局地的に安全で快適な島にした。勿論クーラーもネットカフェもある。最先端の設備とローカルルールが通用する、歪な秩序と利権に守られた島、それがロアナプラだった。

 

ロアナプラに最初に乗り込んだのは二つの勢力だった。一つはCIA、もう一つはロシアン・マフィアで最大勢力を誇る『ホテル・モスクワ』である。

 

片や世界最強の諜報機関の一つに数えられると共に、ハードにもソフトにも対応できる対外行動部隊と最新鋭の設備・装備を保有しており、片や度重なる実戦経験に裏打ちされた歴戦の退役軍人をソ連崩壊の混乱に乗じて数万人規模で吸収した武闘派集団であり、国営企業の乗っ取りから始まり、文字通り無尽蔵の資金に物を言わせて東側の正規軍装備を搔き集め、今や一国の軍事力に匹敵する殲滅力を有する準軍事組織であった。両者は互いの正体を看破した上で、あくまでもフロント企業を前面に出して国家の意向を暗に仄めかしつつ、ロアナプラ建設事業への大規模参入により、利権を折半することで妥協した。CIA側はロアナプラの内情…暗黒街の勢力推移やその実態の把握…が知りたい。ホテル・モスクワはロアナプラに秩序を齎しつつ実質的な運営者になりたい。両者の都合は危うい面も多々ありつつも、結論として実現する運びとなった。古くから半ば忘れられ、無法地帯として自由と危険を享受してきたロアナプラだが、ホテル・モスクワの構想は文字通りこれまでとは桁が違った。双方が互いに利用価値と将来性を認め合った結果だった。

 

事業参入の一番乗りは旧二大超大国による独占市場となった。更に数か月の間を置いたのちに大幅に後れを取りつつも中華本土の黒社会、香港の三合会やイタリア、中南米諸国の麻薬カルテルなどが名乗りを上げた。巨大なパイを半分こにした米露との全面戦争を覚悟した後発組だったが、意外なことにホテル・モスクワが利権の分配とロアナプラの縄張りの切り取りに関して譲歩を提案した。これに対して後発組は罠か何かかと警戒しつつ、願わくば米露の潰し合いを期待した。だが、CIA側がホテル・モスクワの提案を支持したことでその目論見は外れてしまった。よりにもよって犬猿の仲の巨人が不気味な協調路線を採っていることに衝撃を受けた後発組は、一歩身を引いた姿勢でのロアナプラ参入を渋々受け入れた。

 

生え抜きのアウトローが紳士協定を結んだという情報は世界を駆け抜け、世界中の注目を集めることとなった。現地には暫定自治政府とも言うべき常設議会が置かれ、ロアナプラの領域内でのみかじめ料などは各勢力が縄張りに投資するなり本国で運用するなり好きにできる自由財源扱いとなり、またその税率などは組織間の均衡を保つべく共通とされた。実質的な経営者の顔触れはロアナプラに根を張る地域勢力の中でも最大勢力から各一名ずつの選出となった。尚、CIAの目的は統治ではないためにこのコミッションには席を設けられず、彼らもまたそのことを望まなかった。

 

仮称ロアナプラ暫定自治政府の最高意思決定機関『コミッション』の初代メンバーは席次より順に以下の通りである。

 

議長 バラライカ(ホテル・モスクワ)

 

議員 張維新(香港三合会(トライアド)

 

議員 ヴェロッキオ(コーサ・ノストラ)

 

議員 アブレーゴ(コロンビア・カルテル)

 

書記 大シスター・ヨランダ 代理人 シスター・エダ(リップオフ教会)

 

ユーラシア、アジア、ヨーロッパ、アメリカ大陸、現地ロアナプラ…。各地域の利益集団を代表する組織から一名ずつ選ばれた彼らが、実質的なロアナプラの支配者に選ばれることになった。無論、世界的な組織の腕は広く長い。ロアナプラの支配者であっても、母体となる巨大組織内での立場には上下が存在し、依然として彼らの多くもまた大局的に見ればフロントマン、或いは番犬でしかないのだ。重要なポストであれ、彼らが望んでいることは組織からの独立でも、はたまたロアナプラの支配でもなく、ロアナプラでの"仕事"を上首尾で終わらせて、上司からの高評価を貰い、そして母体となる組織内での更なる栄達を目指すことだった。それは現実主義的であり、かつ組織に属するアウトロー達にとっての宿命だった。より高い場所へ、より多くの利益を、より強い権力を…そう言ったものを追求する点では一般企業ともさしたる違いはなかった。ただ彼らの場合、失敗とは高い確率で死を意味した。

 

ロアナプラで如何に舐められずに、如何に幅を利かせられるのか。それが一大事であった。

 

故に、彼らは全くもって想像だにしていなかったのだ。

 

ロアナプラと言う一つの全く新しいシステムが、たった一人の男の心と体の平穏を守り、かつその退廃的で優雅な生活を養うためだけに構築されたのだという…そんな質の悪い悪夢のような現実を、彼らは知る由もなかった。

 

世界中で恐れられ、溢れんばかりの憎悪と畏怖を恣にしてきた百戦錬磨の老獪なアウトロー達は、哀れにも彼らよりも遥かに狂った男と、そんな男に狂った女たちが踊る壮大で陳腐なWaltzに巻き込まれてしまったのだ。赤い靴を履いた少女のように、彼らは踊る事だろう。自らの意思で踊っているのだと思い込み、信じながらも。彼らが自分以外の沢山の人たちにそうしてきたように。或いは彼らが忘れてしまった忘れられない傷の痛みを思い出させるように。

 

楽しむことが許されたのは彼と彼女たちだけなのだ。何という喜劇。何という悲劇。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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