街に入ってすぐのことだった。レヴィとロックの進路を阻む様に、一台のランドローバーが角から飛び出してきたのだ。
レヴィは咄嗟に銃口を向けた。車のウィンドウが下がっていく。
「運び屋ってのはお前さんたちか?」
現れたのは、イスラム過激派には逆立ちしたって
「あぁ、そうさ…」
レヴィが銃を構えたまま頷くと、男はクシャリと笑った。
「そうかい、なら話が早いや。乗んな、案内すんぜ?」
手振りで後部座席を指したが、レヴィは動かない。男がきょとんとした顔で首を傾げた。
「
レヴィが言うと、その目をちらりと男が見た。サングラス越しに、睨む様に。
「おーおー…そうだったなぁ、相方ならトイレを探して走り回ってる」
けろりと頭を掻いて薄ら笑う男に、レヴィも顰めていた眉を戻した。気を緩めたのか口に煙草を咥え、火を点けた。だが、片手には銃がまだ。
「不用心だな」
そう言うと、男が片手で拝むように頭を軽く下げた。実に、日本人らしい素振りだと、ロックは思った。
「悪かったよ」
「別に構わねえ…あぁ~っと、そうだった…『三合会は?』」
「さぁ…どうだったか…」
「おいおい、笑えねえジョークだぜ?つい撃っちまいそうだ…」
レヴィがニヤっと笑って銃口を向けた。男は怖がるように肩を竦めて見せた。
「ハハハ!冗談の通じねえ娘っ子だなぁ…まあ、いいや」
レヴィも笑って言った。
「ハハハ!シャレのわかってねえオヤジだぜ。さ、もう一度だ。『三合会は?』」
「『超サイk」
男が言い切るより早く、レヴィが引き金を引いた。
Bang!Bang!
「ッッk…っこォぉ』!?」
両肩を撃ちぬかれた男が前のめりに突っ伏したが早いか、レヴィが運転席のドアを開き、男を引きずり出した。
「レヴィ!?いきなり撃つなんて何考えてんだよ!」
「騒ぐなロック、それとドアに近づくんじゃねえ」
ガンガンガンッ!!!
レヴィの突然の行動にフリーズしていたロックが再起動して詰め寄るが、レヴィは口の端から煙を吐きながら、躊躇せずに後部座席に銃弾を叩き込んだ。くぐもった断末魔が上がったが、それもすぐに止んだ。
「…わかった」
「オーケイ。そんじゃ、このオヤジを引きずってくれねえか?あたしが援護する。シェンホアが拾ってくれるまでの辛抱だ」
ロックは言われた通りにぐったりした男の両脇に手を差し込んで引きずった。車の陰に隠れた瞬間、何処からともなくジープがわらわらと湧き出してきた。
目元以外をスカーフで覆った男たちがカラシニコフを乱射しだした。どうやら男は死んだと思われているらしい。そう思われているなら仕方がない。レヴィが牽制目的で応射するが、銃口の数が違いすぎた。早くも銃撃戦というよりも一方的な掃射を受けている状況に陥っていた。車が蜂の巣にされてる内はまだいい。だが、連中が迂回するのも時間の問題だった。
「おい!ロック!鞄を向こうにぶん投げろ!」
頭を低く、でも男は掴んで離さないロックがぶつぶつ「最悪だ…」とぼやいている横で、レヴィが思いついたように叫んだ。
「えぇ!?電話も入ってるけど?」
さっき預かった電話も鞄の中なのだ。決して安くない代物である。あとでお前の所為だ、とかは御免だった。
「だからだよ!」
その一言で一蹴すると、レヴィが鞄をぶん!と投げた。放物線を描いて、アタッシェケースが向こう側とこちら側の中間地点に投げ込まれると、一瞬銃火が止んだ。
「今だ!移動するぞ!その男をみせびらかしながら向こうに走れ!」
ガンガン!と闇雲に弾をばら撒きながらレヴィが叫んだ。
「ええええ!?」
ロックが叫ぶがレヴィは引かない。
「ここで黙って待っててもじり貧だ!挟まれる前に動くんだよ!」
マガジンを片手間で交換しつつロックの目を見て言い切ると、一足先に細い路地の方へと走っていってしまう。
「わかった!ああああ!今日は、ホントに、とんだ、一日だ!!」
手招きされている方へと、人質にとった男が生きていることを、これ見よがしに見せながら走った。男を引きずって走ったので、土ぼこりが立ってズボンも服も汚れたが構いやしなかった。
「逃がし屋は!?」
恐れていた銃弾は飛んでこず、レヴィの元に命からがら辿り着いたロックが叫ぶとレヴィはニヤリと歯を見せて笑った。
「
次の瞬間、再開した銃火を割って、ジープのチェロキーが撃ち合いのど真ん中を爆速で走破して登場した。
レヴィたちを銃火から守るように、彼らが逃げ込んだ路地に蓋をするように横腹を晒すと、直ぐに後部座席のドアが開いて、見慣れた顔が手招きした。
「レヴィ!さっさと乗るよ!」
「ナイスタイミングだぜシェンホア!ロック!そいつも一緒に後ろに乗っけろ!」
シェンホアが気を利かせて助手席に、ギアを跨いで乗り移ると、レヴィとロックが乗り込み、二人に挟まれる形で男も押し込まれた。
「俺の車を血で汚すんじゃねえ!!」
肩を打ちぬかれて朦朧としている男をバックミラー越しに確認したレガーチが叫んだ。
「張の旦那が払ってくれるさ!ほら!急いで出しな!」
「うるせえクソアマ!言われなくても分かってる!」
文句たらたらのレガーチだが、車体が鉄の雨に晒されてる方が問題だってことには流石に気付いていた。
ギャリギャリと地面を削りながら、全速全開で走り出せば、前評判通りの腕である。乗り心地は最悪だし、相当に危なっかしいが。
こうして、レヴィとロックは男…タケナカ…の略取に成功した。
レヴィは笑った。
「手間が省けたぜ。ロック、あたしらはこのまま帰るぞ」
煙草を咥えてうまそうにふかしながら、レヴィがそう言った。
「いいのか?もう一人いるんだろ?」
ロックが業務内容を思い出してそう訊ねたが、レヴィは首を肩を回してから、煙をふうと吐いて言った。
「その為に、さっき招待状を送っといただろうが」
「鞄のこと?」
「んの、中身だよ」
レヴィの言葉に頭を悩ませたが、ロックは直ぐに合点がいった。
「!?…なるほど、電話のことか」
「そーそー。あたしらの仕事はここで終いだ」
ロックが頷いたのを横目に、レヴィは助手席のシートに手を掛けて暇そうなシェンホアに言った。
「シェンホア、バラライカの姐御にでも電話しといてくれるか?早く帰りたいんでね」
「あいや…わかりましたよ。レガーチ、私たちもお仕事おしまいよ」
「はぁ?何言ってんだよ、基地に行くんだろうが?」
相方と客が変なことを言い出したぞ、とレガーチが訝しむように言った。
「基地にゃ行かねえ。連中のキャンプの近くにヘリポートがある。急造だけどな」
「話が違うぜ?」
レガーチの目が細められた。急ブレーキを何時でも踏めるようにと、足を乗せた。
……が、そのブレーキが踏まれることは無かった。正確には、立ち止まる為には。
「汚れたシート代は出す。何だったら、イギリス経由のヘロインを回してやってもいい」
「量は?」
「1キロ」
「乗った!!!!!」
レヴィの言葉に、一瞬で取引に応じたレガーチは、その場で車を百八十度方向転換させると、急加速して森の中に突っ込んだ。道なき道を最短経路で直進しだしたのだ。
枝を折り、泥を被り、木の葉に塗れながら、突き進むチェロキーの姿は勇壮である。レガーチの瞳にはこれまでになく光が宿り、眩しいくらいに希望に満ち満ちていた。
薬中と4WDの面目躍如である。
果たして、一同はヘリポートまで三時間とかからずに到着すると、レガーチはヘロインのことを念押ししてから意識を火星に飛ばしていた。
レヴィとロックは、夜襲アリと考えて待機していた護衛部隊と合流し、タケナカを引き渡した。手ぶらになった後は、部隊とシェンホアと共に、降下してきたMi-6へと乗り込み、バシラン島を後にした。
実に、上陸から四時間後のこと。正午前のことだった。
タケナカが攫われて、文書も奪い返せなかった。運び屋の痕跡は消え、手掛かりは皆無だった。
身動きが取れず、イブラハの思考が停滞したところに着信があったのは、午後二時頃のことだ。
鞄の中に入っていた、押収物の衛星電話が、突然鳴りだした。
同時刻、ヒズボラ上層部から緊急の連絡が、イブラハのいる司令部に入っていた。
イブラハが通話に応じたのと、司令部要員が受話器を取るのは同時だった。
「はじめまして」
「何者だ?」
スピーカーから聞こえてきたのはボイスチェンジャーを通した声だった。だが、語り口は丁寧で、言葉選びもどことなく女性的だった。
「私は
「どういうことだ?」
イブラハが問えば、相手は平坦な声で答えた。
「貴方が二番目に望んでいる物を用意することが出来る人間を知っている」
「まるで、一番目に望んでいる物を知っているような口ぶりだな…」
イブラハが失笑を堪えるように、声を潜めた。
「一番目は我々の力を以てしても手に入らない物だから」
「…言ってみろ」
恐る恐るイブラハが問うた。相手は、急ぐでもなく答えた。
「87年のベイルート。あの日、貴方の息子は、手の届かない場所に行ってしまった。少なくとも、貴方たちの信仰に則れば、神も天国も実在するのでしょう。あの日から、今日まで続いていたはずの日常を取り戻すことは出来ない」
イブラハは叫びそうになるのを堪え、激しい言葉を飲み込んだ。目頭が熱くなる。怒りと、怒りを支える嘆きが自分の中で込み上がって来るのを感じた。
「そうか…確かに、その通りだ」
「もう一度言う。私は、貴方が二番目に望む物を用意することが出来る人間を知っている」
「…何が望みだ?」
イブラハが再び問えば、相手は即答した。
「彼と会って欲しい」
誰と?なぜ?…問いは多いが、時間はあまりなさそうだ。イブラハは、覚悟を決めた。何かが自分の現実に這い寄っている。これが神の導きか、それともそれ以外なのか。
「どこで?」
「今夜七時にロアナプラにあるホテル・モスクワで」
時計を見れば、あまり時間は残されていなかった。
「今から急いで間に合うかだな…信じていいのか?」
当たり前の質問を最後に投げかけた。すると、初めて相手の声に感情が乗ったような気がした。
「貴方には行かないと言う選択肢があるけれど、その選択肢の先には、貴方の望みを叶えるという選択肢は存在しない。私は、そう思うわ」
少なくとも、向こうは自分のことを一人の人間として見ていることが分かった時だった。相対した瞬間だった。イブラハは、目を細め、諦めたように口を引き締めた。
「…わかった。初めから…選択肢などなかったようなものだ。今更驚くことでもない」
「では、後程」
ぶつりと通話が切れると、ドアがノックされた。応じれば、連絡要員が入室した。
「どうした?」
「司令官、上層部から緊急の連絡です…」
連絡要員から、上層部の決定が告げられたイブラハは、何も言わずに頷いた。
その日の夕刻を待たずして、イブラハはキャンプから姿を消した。
昼過ぎ、ヒズボラ上層部は、謎のフィクサーから申し出を受け取っていた。内容は武器と資金の援助と引き換えに、イブラハの除籍だった。イブラハに何の恨みがあるのか、彼らは知らなかったが、大義の実現の為に一時的な処置だと弁明した上で彼を除籍した。
正式な文書の発行を待たずして出奔したイブラハを、間もなく捕捉したバシラン島の治安部隊が捕縛。そのまま彼の身柄はロシア人に引き渡された。
機上の人になったイブラハは拘束を解かれていた。窓越しに見えたのは、眼下に広がるロアナプラの街並みだった。故郷とは比べ物にならない、混沌と絢爛が渦巻く世界に、イブラハは恐ろしいものを見たような気がした。この狭い島には、底なしに深い闇が広がっている。その深淵に、今や自分が呑み込まれようとしていた。
だが、万人が深淵と見つめ合う機会に恵まれるわけではないことも知っている。だから、イブラハは敢えてこの一歩を踏み込むことを選んだ。
何か、指先に触れるものを、手繰り寄せられると信じて。
ホテル・モスクワは中身も外観も一流のホテルだが、鉄筋コンクリートと防弾板で覆われた要塞でもある。ロシアン・マフィアのロアナプラでの拠点であり、バラライカの牙城でもあった。
さて、そんな所の片隅も片隅、スタッフ・オンリーな地下の貯蔵庫や予備発電機の置かれた区画を抜けて、RPGの直撃にも耐えられる分厚い防弾扉を抜けた先に、複数の部屋があった。
その中の一つに、落ち着いた雰囲気の狭い部屋があった。小中学校の教室くらいの広さで、三十人も集まれば手狭なくらいだ。
当然窓はない。明るい照明は暖色で、変哲のない家具が置かれている。テレビはない。十人くらいで囲める大きめの長方形の食卓が一番立派な家具かもしれない。座り心地の好い布張りの椅子が十数脚、木製の食卓を囲んでいた。
食卓の上には大皿に盛りつけられた料理が並んでいた。取り皿と箸とナイフとフォークとスプーン、それからアルミニウム製の灰皿が各席に置かれていた。飲み物は卓上でいくつかにまとめて置かれていた。冷蔵庫から取り出されたばかりの缶や瓶のビールやワイン、ジンやリキュールにウィスキーなどの酒類に加えて、ポットに入った白湯やコーヒー、ペットボトルの炭酸飲料や茶や水なんかと、用意された物は様々だった。
午後七時になると、少しずつ席が埋まっていった。
最初に座ったのは饗応の役を務めるバラライカだった。傍らには執事のようにボリスが立った。
次に席に着いたのはレヴィとロックだった。
「よぉ、姐御。やるこたやったぜ」
手を上げて席に座ったレヴィとロックに対して、バラライカは二本目の葉巻の吞み口をカットしながら微笑んだ。
「お疲れ様ね、レヴィ。それとロックも」
「どうも、バラライカさん…本日はお招きいただき誠に」
「そう言うのは好いのよ、別に。楽にして頂戴。本当に、いつも通りに夜ご飯を食べるだけだから」
「そうだぜロック。リラックスだぜ?リラックス」
サラリーマン時代の習性で、いきなりペコペコし始めたロックをバラライカとレヴィが止めさせた。実際、珍しいことではない。連絡会も兼ねて食事を共にすることはこれまでにも頻繁にあったことだ。
二人が来てから間をおかずに、次に席に着いたのはシェンホアとエダだった。道中で一緒になったようだ。
「おい、レヴィ。張の旦那んとこは心配すんな。ブレンドとシュガーには、あたしの上司に連絡させといた」
席に着くなりエダがレヴィに向けて言った。ロックにも勿論聞こえていたが、耳打ちもしない。この場に居るなら、そう言うことだからだ。
「助かるぜ。手間ぁ掛けさせたな」
「気にすんなよ。これがあたしの役目なもんでね」
レヴィが手を軽く上げて礼を言うと、エダも手を振り応えた。これも慣れたやり取りだ。
「そいや、シェンホアはまたなんでエダと一緒に来たんだ?ここについた時はあたしらと一緒だったろ?」
レヴィが首を傾げると、シェンホアも首を傾げた。
「レガーチのクスリのお話、覚えてないでしたか?」
「あ”!」
レヴィの喉の奥から濁った声が出た。シェンホアはうんうん頷いて手を合わせた。
「やぱりね、だからお願いしといたですだよ」
「すまねえ、運転が酷すぎて頭ん中から抜け落ちてわ」
レヴィの弁解にシェンホアは気にするなと頷くだけで済ませた。エダはと言えばどんなに酷い運転だったのか想像して笑っていた。
二人に続いて、直ぐに次が来た。
メイドを引き連れ、双子に手を引かれたレイジであった。
「今日は、ロックも来たんだ」
「お、お邪魔してます」
レイジは黙って頷いた。相変わらず、笑った時の顔が日向ぼっこ中の猫の顔にそっくりだった。
ロックはビビりつつも和むという器用なことをしながら、レイジを観察していたが、彼が座ったのはお誕生日席ではなく、お誕生日席から見て左側の席だった。長方形の長机の端っこである。最奥で饗応役のバラライカからは一番近い席だった。着席して視線を少し右にずらせばバラライカがすぐそこに見える位置で、真向かいにはレヴィが、真左側を向けば隣の席にはエダが座っている。席順はレイジだけが固定で他は月番交代制である。忘れたらそのままらしい。それでもいいのか…。
「温かいうちに食べちゃおう。さ、ボリスとロザも座って」
粗方メンバーが揃ったと見るや、レイジがそう言った。彼が「いただきます」と呟いて食べ始めると、全員が食べ始めた。手近な皿から料理をよそうにしても、飲み物や調味料を手渡すにしても、文字通り、ふつうに夕食だった。
緊張が解けると言うのは、こういうのを言うのだろう。
ロックは全身に張り巡らせていた針金が、一瞬で溶けて無くなったような気がした。
「(どうしよう、なんか、本当に特別でも何でもなかった…)」
「(メイドとか、給仕役にしか見えない人なのに隣の人からお皿を受け取ってるもんなぁ…)」
「(…なんだろう、凄く、フツウだ…)」
「(悪党でもお腹が空くって、なんか変な感じだな…いや、それは俺もか…)」
「ロック。ん」
「え?」
とりとめもない事を考えていると、隣のレヴィから皿を突き出された。受け取ってみると、誰かがよそって回してくれたらしい。
「飲み物は?」
「あ、いや、お構いなく…」
真向かいのエダから問われてぎょっとした。ロックが胸の前で手を振り遠慮すれば、エダはそうかと頷いた。
「飲みたいもんは自分で立ってとってこいよ?」
「ははは…子供じゃないんだから」
レヴィに言われて咄嗟にそう言ったロックは、気恥ずかしいのか、何なのか、この場の空気感に馴染めていないことを自覚した。
「(あ、アットホーム過ぎる!いきなりなんなんだこの落差は!?)」
「アウトロー…って、なんだ?」
そう呟いたロックは、考えることを止めた。
状況に呑まれてしまって、今一料理の味が好く分からないままだったが、ロックはこの興味深い晩餐を注意深く観察していた。
この場には実に色々な人間がいた。
ボリスやバラライカ、それから
レヴィは育ちが悪いはずなのだが、誰に教えられたのか、或いは見様見真似なのか、意外にもお行儀がよかった。噛むときは口を閉じたままだし、足を組んだりもしない。時たま箸も使ったりするが、持ち方が様になっていた。口の端に物をつけたままなのはご愛嬌である。
エダに関しては、テーブルマナーの域に到達しており、特にスープの飲み方などは、味噌汁を啜るのが基本の日本人からすればじれったくなるほど丁寧だった。スプーンで掬い、音もたてずに口に運ぶのだからロックは感心しきりだ。食事の際の背筋も綺麗だった。会食の場では一番の華になるだろう。
シェンホアは基本的には箸を使っていた。使い慣れればナイフやフォークよりも便利なものが箸である。兎に角、使いこなせれば液体を掬う以外には融通が利く。この便利さはロックも箸を使う日本で生まれ育ったから強く共感するところだった。自分と同じ所を見つけて、なんとなく安心感を感じていたが、シェンホアはシェンホアで特徴的だった。なにせリスのように口に詰め込んでいたからだ。うーむ…ちょっと、子供っぽい。
しかし、ここに居る人間のそれぞれが辿ってきた人生に、酸いも甘いもあったことを納得したロックである。
残るはレイジと双子だったが、なんとこの三人、お行儀の好い子供という表現が最も合うと言う点で共通していた。レイジなどは箸もフォークもナイフも使うのだが、テーブルマナーに則って、と言うよりは子供の頃に教えられた通りの食べ方を未だに守っている様子である。背筋がくにゃりと猫背になっているのに気づくと、ぴくんと小さく身を跳ねさせて背筋を正すし、食事中に手が止まり、ふとぼーっとしたり、再起動してキョロキョロしたり、かと思えば脇目も振らずに食べ物を掻き込んだりするのだ。何と言うか…双子の方が大人びて見えるようにさえ感じた。
ロックは、育ちは好さそうだが、如何せん子供っぽいレイジの振る舞いに、何となく、気持ちが楽になった。
「(多分、野生の小動物とかの食べ方だよなぁ…)」
などと、思いながら。
意外と夕飯は静かだった。ロックはてっきりワイワイガヤガヤと言うものを想像していたのだが、やはりフィクションと本物は違うと言うことか…。
言葉少なに今日あった話やとりとめのない会話を交わした程度で、それ以外は基本的に皆黙って食事をしていた。過度にべたべたするでもなかった。悪だくみをしたり、酒を酌み交わしたり、そう言うのもナシ。なんだか拍子抜けだな…。
今度こそ気が抜けて、食事の真っ最中だって言うのに欠伸が出た。
その時、ドアをゴンゴンと叩く音が聞こえた。ロックの欠伸が止まった。途中で呑み込んだせいでモヤモヤした。
「ゲストが届いたようだな」
バラライカがそう言った。彼女の方を見ると、薄く笑っていた。
レイジがキョロキョロしだした。あ、君も知らなかったのね…。
ロックが自分以外にも何も知らない人がいることに密かに安堵していると、ボリスがドアを開いてゲストを中に招いた。
「ドアの前で説明は受けたか?」
エダが問うた。
「汚い言葉を使わないこと。お行儀よくすること。匂いの強いものを持ち込まないこと、尚彼の好きなものは除く。果物を持ち込まないこと、尚柑橘類は除く。…どうだ?他には何か?」
浅黒い肌のアラブ人がそこにいた。イブラハだ。
「いいや。親から教えて貰った最低限のマナーが守れれば問題ない。後半の二つはウチの特別ルールってだけだ。さ、席についてくれ。アンタの為にわざわざコックを呼んだんだ。故郷の味ってやつだろ?」
ワインを一口含んでから。エダがそう言ってイブラハに席につくように促した。
「……話が先だ」
イブラハが言うが、エダは首を振った。
「いいや。飯が先だ」
エダはきっぱり断った。
「……最後の晩餐か?」
席に着くなり、イブラハがフォークを手にそう言った。
「さぁね?あたしは銀貨じゃ動かない」
エダの言葉を聞いて、ようやく彼は料理に手を付けた。
中東の料理と聞くと、僕なんかは、まず初めにケバブを想像し、次にインドのようなスパイシーなイメージを抱いてしまう。だが、百聞は一見に如かずとも言う。どういう風の吹き回しか、突然今晩の夕飯の献立がレバノン料理になってしまった。ソフィに聞けばそう言う気分だったそうだ。なら仕方ない。ロザリタが作るのかと聞けば、そう言うわけでも無い。じゃあ誰が作るんだ?
ちゃんとした専門の料理人を呼ぶと言うので、なら物は試しだと食べてみることにした。
実際出されてみると、レバノン料理と言うのは野菜を使ったメニューが多い。ピタという薄いパンが米とか麺とかの代わりらしい。パンは好きなのでこれは食べられる。
パンをかじっていたら皿に盛られた料理が幾つか回ってきた。モロヘイヤの山かと思いきや、タブーリなるサラダだった。全体的に濃い緑色だ。サラダのイメージは専ら葉野菜だったので、恐る恐る口に運んだ。うーん…ドレッシング要らず。食べたことのない味がする。初めてインド料理屋さんで本場のインドの炊き込みご飯を食べた時振りの驚きだった。
他にも、ざっくり言えばキッビと言う挽肉と野菜のコロッケだったり、クリーム状の練り胡麻とかひよこ豆からなるタヒーニなる調味料もあった。揚げ物なのでキッビは食べられた。揚げ物は大好きだ。胃腸が弱いので量は食べられないが、ともかく食べられる。これはいい。しかし、問題はフムスだ。うん。なんか、パンをディップしたりするのに使うメッゼという軽食メニューの一つらしいのだけれど、僕はひよこ豆が余り得意ではなかったのだ。うん。それだけです。あとは余計なことは言わないでおこう。
他にも、色々とあったのだが…慣れない味の数々で僕の胃腸が悲鳴を上げる一歩手前だったのだ。慣れない物とか、想定外の物は大の苦手である。全てが刺激になってしまうので、真向かいのレヴィに指摘されるまでもなく僕は自分でも顔が青いのが分かった。
手が込んでいる料理だから、味も触感も美味しいのだが、如何せん体には合わなかった。不思議なもので、幾ら美味しくても食が進まず…結局そのままグロッキーになって、禄に食べられなかった。
あとでロザに頼んで大手チェーン店のハンバーガーを歓楽街の市街地から買って来て貰おう。そうしよう。僕はジャンクフードが大好きだ。同じメニューしか頼まない。しっくり来たのをリピートするので、悩む必要もない。手の込んだ料理も好きなのだが、シンプルな料理の方が好きだ。偶に食べることすら面倒臭いと感じる時があるんだよなぁ…そのうち、呼吸することすら面倒臭くなりそうで怖いな。
唯一文句なしに美味しかったケバブ。その切れ端を少しだけ取っておいて貰えるように頼んでおこう。あとでハンバーガーにでも挟んで食べたい。申し訳程度の中東を感じたい。寧ろ、僕にはそれくらいが丁度いい。本場の料理だからといって、万人受けするワケではないというだけだ。中華料理然り、日本食然り。食でストレスを感じることほど悲しいこともないもんな。人生の潤いだってのに…まぁ、食べ慣れれば話は別なのかもしれないが。
粗末にするのは納得が行かない。食べれないわけではなかったから、僕は皿に盛った分だけは食べ切った。