ロアナプラより愛をこめて   作:ヤン・デ・レェ

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Jihad for whom:Never better II

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レイジはポケットからラッキーストライクをケースごと取り出した。一本引き抜いて口に咥えると、ケースをテーブルの上に置いた。ライターは持っていない。

 

「吸うのか?」

 

エダが愛用の金のライターの蓋をパチリと跳ね上げて火を差し出した。キラキラと光っていたので、レイジは気になってエダの手元をジッと見つめた。ダンヒルのポケットユニークだった。

 

「なんとなく。口が寂しいんだ」

 

「そっか」

 

意識はエダのライターに集まっていたが、彼が打ち明けるようにそう言った。彼女は彼の視線を感じながら、焦らすように先端を炙った。火が離れると、無闇に寂しくなった。

 

友達でも親でも映画やドラマの中の俳優でも、誰か自分が尊敬する人が使ってた物、持ってた物。そういうものがなんでも輝いて見えた。欲しい気がするけれど、やっぱり、自分では持たずに見ていたい。手に入ってしまうと、きっとあの時感じた憧れと高揚は味わえないことを知っているから。

 

「変かな?」

 

エダがライターをしまうと、彼がそう問いかけた。

 

「変じゃないさ」

 

皿とカトラリーがこすれ合う音が響いて、咀嚼音と会話も聞こえたが、時間を区切るように、静寂が二人を襲った。

 

「でもよ、美味くねえだろ?」

 

エダの言葉にレイジは素直に頷いた。

 

「焼き芋みたいな味が喉に引っ掛かるんだ」

 

「ハハハ…なんだそりゃ。無理するもんじゃないよ。早死にするぜ?」

 

レイジの感想にエダが笑って言った。

 

何時もなら彼は笑っただろう。

 

けれど、彼は笑わなかった。慣れない手つきで煙草を指に挟んで、口元から離すと、咽ながら言った。

 

「長生きできないよ。多分、癌で死ぬ」

 

レイジはそう言って、自分で吐いた言葉を除けるように、煙と一緒に手で払った。

 

「そう言うこと…言うなよ、あたしを泣かせてえのか?」

 

エダは咄嗟に言葉が出なかった。何と返せばよいのか、珍しく言葉に詰まった。

 

だが、レイジは悲壮には見えない。寧ろ、仄かに笑みを浮かべていた。

 

だからエダも、笑ったり泣いたり出来なかった。中途半端に眉を顰めて、そう言うしかなかった。

 

「ごめん…でも、死ぬに早いも遅いもないよ」

 

レイジはさっぱりとした口調でそう言い、再び煙草を咥えた。伏し目がちに、煙草の先端が燃える様をジッと見つめていた。煙の所為で涙目になっていた。

 

「言えてる…けど、お願い、言わないで。わかってるから。理解はしてるの。だから、お願いだから、もう二度と言わないで」

 

肩が掴まれて、振り向くとエダがサングラスを外していた。今にも砕け散りそうな瞳をしている。曖昧な笑みを浮かべられほど、レイジは意地悪でも賢くもなかった。彼を羞恥が襲った。なんてことを言ってしまったんだろう。何の気なしに、言った言葉だった所為で、酷く無機質に響いてしまった。

 

ふと、周囲を見れば、いつの間にか静寂が部屋の中を支配していた。理解していることと、納得していることは違うことを、レイジは痛いほどに知っている。だから、この沈黙の意味も、静寂の意味も知っている。()が彼を見ていた。()が耳を澄ませていた。彼が見回すと、音も時間も元通りに動き出した。何事も無かったかのように。わざとらしく笑い声まで聞こえてきた。レヴィの声だ。ロックが何か面白いコトでも言ったのかな?当のロックは笑っていなかった。青い顔で、レヴィから肩を叩かれていた。バラライカはロシア語でボリスと会話を始めた。意気込むように語気が強かった。シェンホアは顔を覆って暫くじっと動かなかったが、彼の視線を受けて手をどけた。真っ赤の目元を腫らして微笑んでいた。仕事中の彼女を知る誰もが口を揃えて信じられないと言うような、穏やかで優しい微笑みを浮かべていた。ロザリタは割ってしまったグラスと皿を片付け始めていた。フォークとナイフが知恵の輪のように一塊にされていた。フォークとナイフに関しては、後程彼女が自分の手で元通りに直していた。双子は抱き合って震えていたかと思えば、何かを思い出したのか部屋を飛び出して何処かへ行ってしまった。()()を片付けて来ると言っていた。ネタはなんだと問えば、二人は声を合わせて「()()」だと答えた。

 

彼は微笑んだ。

 

「うん。言わないよ」

 

彼はそう言って微笑んだ。口に煙草を咥えて、ふこふこ、煙を肺に入れないままにふかしていた。何かを誤魔化すように。

 

泣かずに済んだのは奇跡だったと、誰かが心の中で呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「食事は済んだか?」

 

食後の一服をふかしながら、頃合いを見てエダがイブラハに声を掛けた。

 

「ああ…満足だよ」

 

「そいつぁ、結構だ…そんで、電話で話した通りなんだが…その前に、一つ昔話を聞かせてくれ」

 

口を布巾で拭ったイブラハが神妙に言うと、煙を吐きながらエダがそう言った。

 

「聞かせて何になる?」

 

「話したろ?二番目の望みを叶えるためだ。ご協力願おう」

 

「いいだろう…聞かせてやる」

 

剣呑な空気なのは、イブラハはこんな状況だからだが、エダは今さっきのレイジの発言がこびりついて離れないからだった。

 

「レイジ、聞いてくれ。あいつ、イブラハってんだけどよ、アンタに話があるんだ」

 

「うん。わかった。何でも聞くよ。最後まで聞くよ」

 

エダが煙を魂のように吐き出した。白い煙は地を這うほどに重かった。レイジは彼女の言葉に疑問など何一つ持たずに頷いた。顔には快も不快もなく、大事な話に耳を傾ける態度を、組んでいた足を解き、椅子に深く座り直して背筋を伸ばし、両膝に力を抜いた手を乗せることで示した。二本目の煙草は、結局吸わなかった。食後に一服だけすると、そこからは誰も煙草に手を伸ばさなかった。

 

イブラハは、異様な緊張感に包まれながら、身の上を話した。ここまで来て、どうして嘘を吐く理由があろうか。思えば、これほどまでに明け透けに話したこともなかった。イブラハは自分が何のために戦っているのか、どうして戦わねばならなかったのか、そうでもしないと生きられなかったのか、そのことについて、言葉を尽くして話した。途中から、英語以外の言葉が混ざり、次第に話の内容から理屈が省かれていく。言いたいことは最初から最後まで同じだから。だから、それも至極当然のことだった。

 

イブラハの話は、息子についてだった。全て、殺された息子についてだった。透かして見れば、神の言葉も、ヒズボラの論理も、全てが息子の為だった。父親である自分の為だった。戦う理由のなにもかもが、畢竟、彼の息子を奪った人間に、息子が味わった痛みと苦しみを、自分が味わった痛みと苦しみを、同じくらいに味わわせてやる為だった。

 

同じ、と言うのは量では表現できなかった。何故ならば、本人を傷つけることが、今まで、如何したって出来なかったからだ。これからもできないに違いない。本当は、命令を下した奴を傷つけてやりたい。引き金を引いた奴を苦しめてやりたい。あれだけの酷い仕打ちをしておきながら、息子の痛みも苦しみも、自分の痛みも苦しみも、何も知らずに、偉そうに踏ん反り返っている奴らに味わわせてやりたい。奴らをその椅子から引きずり降ろし、その幸せを、平穏を、日常を、ある日突然奪い取られる苦痛で、その全てを苛んでやりたい。当然だ。当たり前だ。寧ろ、それが何よりもしたいことだった。直截、奴らに直で復讐できれば、これほどに満足できることもない。大願成就の言葉を体現できることもない。

 

だが、出来ない。そういう奴らほど、大事にされているからだ。大事に守られているからだ。だから、そんな奴らを大事にする連中を、守られていない人々を、代わりに傷つける道を選んでしまった。

 

「……」

 

知っていたんだ。

 

知っていたさ。

 

知っているんだよ。

 

忘れてなんかいないんだ。

 

これが、決して良くはない(Never better)ってことくらい…。

 

復讐が、間違っているのか、考えなかったわけじゃない。でも、復讐以外に、自分が生き残った理由がわからなかったんだ。息子が死んだ。自分の全てだった。あの日、たくさんの息子が死んだ。たくさんの娘が死んだ。たくさんの家族が死んだ。たくさんの、たった一人の息子が死んだ。たくさんの、たった一人の娘が死んだ。たくさんの、たった一人の家族が死んだ。同じ人間などいない。一人一人が、掛け替えのない家族だったはずだ。誰かの家族だったはずだ。

 

それを連中は、敵を殺したのだと言う。自衛の為に殺したのだと言う。なら、俺が大義の為に殺したとしても、連中は同じことが言えるのか。同じように、復讐を叫ぶんじゃないのか。復讐を我慢できるのか。それが大義の為ならば。それが平和の為ならば。それが真実の為ならば。それが自由の為ならば。それが利益の為ならば。それが国家の為ならば。ならば、家族を無惨に殺されても、文句は無いんだな。俺を非難しないんだな。それは仕方のない事だから。仕方のないことだから、褒めるんだろう。俺の息子を殺した時、あの日あの時から、同じようなことを繰り返して、手に入れた勲章を、手に入れた地位を、手に入れた利益を、そっくりそのまま返して貰う。俺にも呉れるんだろう。褒め称えることが出来るんだろう。派手なパレードを中継して、荘厳な祭典を開いて、豪華な式典で。違うと言うなら、是非とも否定して欲しい。間違いだったと。赦せないことだと。そして償ってくれ。全てを捨ててくれ。全てを奪われてくれ。そうして、初めてトントンだ。天秤が釣り合うんだ。それが、本物の正義って奴だろう。殺したのと同じように、殺されてくれ。息子が苦しんだように苦しんでくれ。俺が苦しんだように苦しんでくれ。そうして、息子が死んだように死んでくれ。

 

それが嫌なら、息子を返してくれ

 

どうか、俺の息子を返してくれ。あの日奪われたものを、その全てを過不足なく返してくれ。そうしてくれれば、何も求めない。あの日からやり直せれば、それ以上は何も求めないから。あなたたちからは何も奪わないし、あなたたちには何も求めないから。だから、お願いだ…返してくれ。

 

どれだけ祈ったのか。どれだけ望んだのか。数字で伝えられるだろうか。一億回も、祈ったことは無いだろう。一千万回も、望んだことは無いだろう。

 

だが、喜びを数に表すことなどできないように、苦しみも数で表すことなどできない。

 

何リットル涙を流せば、悲しんだことになりますか?

 

何度眠れぬ夜を明かせば、苦しんだことになりますか?

 

何回、食事を抜けば、飢えていることになりますか?

 

あなた方の道具の中で、数字と、基準というものほど、空虚なものはない。

 

数で表せないものを表そうとし、基準という篩にかけて、機械的に全てを選別する。

 

そのくせ、自分に都合の悪い結果を受け止めることは無く、癒しと救いを求めて長い長い列に並んで待つ俺たちを後目に、順番を飛ばし、自分たちが作ったルールを振りかざして、或いは自分たちで作ったルールでさえ守れずに、好きな時に好きなだけ、都合の好い結果を貪る。

 

連中は、嘲笑するのだ。すし詰めの映画館の中で一つの椅子を取り合う俺たちを観ながら、自分たちはガラガラに空いた映画館の客席を二つも三つも占有しながら。

 

イブラハの話を聞いているうちに、レイジの目の色が変わった。青い目が、妙に黄緑がかって見えた。光の加減だとしても、兎に角、不気味には違いない。

 

彼は徐に立ち上がり、イブラハの席まで歩いて行くと、迷いもなく膝をついた。座るイブラハよりも低い目線から、見上げて、目を合わせた。

 

決して良くはない(Never better)。だが、間違ってはいない。決して、悪くなどない」

 

レイジの口から出てきた声は、聞いたこともないほど、低いものだった。喉の奥から鉛を引きずる様な、重くぶ厚い声が響いた。その場にいる全員が微動だに出来ず、瞠目した。メイドだけが恍惚とした表情でレイジの背中を見つめていた。

 

「大義により殺されるよりも、私情により殺された方が、いっそのことマシだ。少なくとも、その死には一緒くたに出来ない意味がある」

 

「敢えて言おう。その通りだと。そのまま進めと」

 

「好きにすればいい」

 

「好きに生きて、好きに死ぬのが好い」

 

「生きてる内に気が済むまでスッキリしてから逝った方が、死ぬにも気が楽というものだ」

 

「納得してから死んでいけ」

 

「奪われたものは、どのみち戻ってこないんだ。なら、奪った奴が何と言おうが、奪えるだけ奪ってから捨ててやれ。スッキリして死んだもの勝ちなんだよ。そういうルールを決めたのは、他ならぬ奴らだ」

 

「奴らの論理で戦ってやる必要などない。奴らの論理で戦わない理由もない」

 

そこで一度言葉を切ると、彼は手を伸ばして、膝の上にあったイブラハの右手を両手で包み込んだ。穏やかに、しかし、決して手放さない強さで。

 

イブラハは何が起こっているのか理解できない。だが、イスラムの高名な師の説法を聞いた時よりも、遥かに、目の前の男が堂々としていて、少しの疑義も許さない、無防備な状態で自分の前にいることだけは伝わってきた。真っ直ぐに見据える瞳の何と力強いことか。涙がボロボロに溢れているし、鼻水も垂らしたままだ。声は震えてぎこちないが、それでも小動もしないで、イブラハに向かって語り掛けている。

 

全ての矛盾を呑んで、その上で尚、レイジもイブラハを()()ことにした。選ばれなかった無数の誰かの為に怒るイブラハの為に、レイジは怒っている。

 

この恣意的で、恥を知るべき行為を、恥を知った上で、敢えて選ぶことにした。

 

これは美しいことではない。これは正しいことではない。

 

だが、これは醜いことではない。これは間違っていることではない。

 

不愉快な人間を一人殺すことで、その人間に人生を壊された一人の人間が救われるのであれば、僕はその選択を否定できない。その不愉快な人間が吐き捨てた、見てこなかった、或いは知っておきながら、見ておきながら、その不愉快な人間の優雅な暮らしの、平穏な日常の背後で苦痛に喘いできた、理不尽にさらされてきた無数の人間の心だけでも救われるのであれば、僕はそれを否定できない。否定することなどできない。

 

称賛される選択よりも、否定することのできない選択のほうが、僕は遥かに貴い選択だと信じている。

 

不愉快な強者として弱者を殺すよりも、弱者として不愉快な強者に殺されたい。弱者に、弱者として殺されたい。弱者として、不愉快な強者を殺して死にたい。強者として不愉快な強者を殺し尽くしてから、弱者の手で殺されたい。

 

弱者には、不愉快か否かの選択ですら困難である。生きるか死ぬかの瀬戸際で、最低限の安心と安全の保障がなくして、どうして正常な判断など出来ようか。

 

誰かを思い遣ることを称賛し、万人に奨励すること。その枠から少しでも外れれば激しく排斥しようとすること。排斥すればその功績を新たな美徳として称賛し、奨励すること。

 

これらは、余りにも多くの苦痛から目を逸らす行為である。

 

そこには、理不尽も苦痛も困難も、その全てを当人の責任だと断じて、無慈悲にも十把一絡げに掃き捨てることと、どれだけの違いがあるというのか。

 

そんなものが人間なのか?神が創造し給うたと言う、お手本となるべき人間の姿だというのか?

 

ならば、僕は喜んで人間をやめる

 

自分の中に宿る、癒しと救いを求める叫びに、僕は嘘を吐きたくない。

 

好きか、嫌いかで問われれば、大嫌いだ。その声に嘘を吐くことだけは出来ない。その声にだけは、嘘を吐いてはいけない。

 

それは、余りにも恥知らずだ。恥知らずな行為だ。恥をかくことは出来る。だって恥をかかせる人間の方が遥かに嫌いだから。

 

でも、恥知らずな行為だけは堪えられない。そこには自分しかいない。最期の最期で、自分以外に逃げ道などない。どれだけ遠回りしたところで、最期は自分と向き合う羽目になる。

 

そのことを知っているのならばこそ、僕は恥知らずにだけはなりたくない。どんな恥をかいても、好きだったり嫌いだったりした自分と言う存在が、嫌いでしかなくなるから。

 

そうなったが最期、原因を皆殺しにした上で、自分を殺すことでしかスッキリなんて出来なくなる。

 

そんなのは、御免被る。

 

Jihad for whom(誰が為の聖戦)なのか、それが問題だ。誰の為に戦っているんだ。自分と、自分以外の誰の為に…それが重要なんだ」

 

レイジはイブラハに問いかけた。

 

「全ては自分の為なんだよ。だけど、その上で誰の為に?君は誰のために戦いたいんだ?誰の為に、そんなに苦しんできたんだ?頭の中では誰を想っているんだ?誰のことを思い出すんだい?誰の顔を?誰の体温を?誰の肌の感触を?誰の声を?」

 

「それは神のものなのか?それは師のものなのか?それは教典のものなのか?それは思想なのか?それはイデオロギーなのか?」

 

「君の信仰などどうでもいい。好きな物を信じればいい。奪う気も、変えろとも捨てろとも言う気はない。興味がない」

 

「だが、誰かの命を奪うのに、誰かを傷つけるのに、最も相応しいものは何なのか、どうかよく考えて欲しい。誰に喜んで欲しいんだい?誰に手向けようとしているんだい?」

 

「復讐を遂げた時、君が最初に報告する相手は誰なんだ?案外、最初に神か誰かにするかもしれない。それならそれで、別にいい。君は僕じゃないし、僕も君じゃないからね。順番よりも、喜びだ。癒しと救いだ。何に感じるんだ?誰に感じるんだ?」

 

イブラハは「アッラーの為に」と言い掛けた自分を恥じた。そして、確かに「息子の為に」と答えた。

 

「イブラハ…もしも君が、イスラムの戦士としてではなく、テロリストとしてではなく、父親として戦うと言うのならば…」

 

汗をかくほどに、レイジは語り、それからイブラハの目を見つめた。イブラハも、汗をかきながらレイジと目を合わせた。

 

「僕は、帳尻合わせの為に、必要となる全てを用意すると約束しよう」

 

「僕は僕の為に。他でもない自分自身の帳尻合わせの為に。自分以外の誰かの力を利用する。僕には返せるものなど何もない。借りてしまえば嘘になるから。でも、それでも頭を地面に擦りつけてでもお願いして利用させてもらう。与えて貰えるように頼み込むんだ。それぐらい屁でもあるけど!でも、それでも、恥をかくより嫌なんだ。調整して、ちゃんとしてないと、僕の目が届く範囲だけでも、僕が知ってしまった範囲だけでも!この理不尽と不愉快と憤怒を、この胸糞悪さを調()()するために」

 

次第に、何時もの碧眼が戻ってきた。だが、イブラハの手を掴んだままだ。手汗でびっしょりになっていた。手が熱い。

 

「全部全部自己満足で、自分勝手で我儘だ。人の都合なんざ考えちゃいない。人の迷惑なんか考えてない。実は考えてて後でもの凄く自己嫌悪するし、その矛盾に死ぬほど恥ずかしくて悶えて苦しむけどッ!でも、それでも、自分勝手なのは変えられない。どうしたって変えられない…」

 

「でも、その何が悪いんだ?」

 

「なんで、僕はダメなの?あいつらはよくて、僕はダメなの?」

 

「そんなのってないよ」

 

「絶対絶対、そんなことはないんだよ」

 

あの目だ。まただ。やっぱり気の所為じゃない。彼は確かに踏み越えるたびに、何かを投げ捨てる代わりに、何かを手に入れている。

 

それは恐ろしいものだ。常人には許されていないものだ。決して赦されないものだからだ。だが、彼には関係なかった。

 

なぜならば、この狭い世界の中でだけは、彼が赦しを与えるのだから。それを許す者たちが、この世界を作り上げ、管理し、拡大してきたのだから。

 

悪党は悪党の世界に。彼の理不尽によって、彼の恣意によって『調整』できる世界に。

 

『不愉快で赦しがたい強者』『真の弱者』から遠ざけるために、彼が無い頭で考え、それを彼女たちが形にした世界だ。

 

イブラハはレイジの目の中に、絶望と憤怒を見た。

 

やりきれない思いへの悲痛な感情だ。胸糞悪い世界への反抗だ。

 

「生きてることが許せねえよな。幸せそうにしてるのが我慢できないんだよ。苦痛なんて知りませんって顔で、平然と暮らしてやがる連中のことが大嫌いなんだよ」

 

声音は変わり、いっそ乱暴になった。遂には立ち上がり、激しく地団太を踏んだ。

 

「人の足を踏んだら、せめて優しく踏み返して貰えるように素直に謝って、殊勝な態度をとらなくちゃならない」

 

「だのに、連中ときたら、そういうもんがない。後悔もしていない。恥もしていない。剰え、誇らしげだ。立派なことをしたと思い込んでる」

 

平坦な声で、殺したような声で叫びながら、彼は地団太を踏んだ。激しい激しい地団駄だ。部屋の中で、唯一自分しか傷つけずに済む床を蹴りつけ始めた。

 

「なんて奴らだ。よくもまあ、そんな振る舞いが出来たもんだ」

 

「せめて恥じることが、どうしてできない?」

 

「悩むこともなく。悲しむことも。悼むこともできない。そのうえ、奴らときたら被害者は自分たちだと思い込んでるだなんて…なんてことだ」

 

彼はぴたりと止まった。突然、電源が落ちたように床の上に寝転がると、泣きながら大口を開けた。

 

「俺はなッ…そうゆうッ…偉ッそうにしてる恥知らずがッ…どぅぁ、大ッ嫌いなんだ!」

 

「大大ッ大っ嫌いだッ…」

 

嗚呼あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

泣き喚きながら両手の甲を床に叩きつけて駄々を捏ねた。

 

まるで子供だ。子供のまんまだ。

 

彼は泣き叫んだ。

 

 

「ヴあああああああああああああ!!!!」

 

「うぉおおおおおおおおおおおん!!!!」

 

「うええええええええええええん!!!!」

 

「レヴィいいいいい!エダああああああ!イディズぅうぅぅうううううう!ロォオオオザァあああああ!ジェンホアぁああああああああ!!そーふぃいいいいいい!ヘぇンゼルうううう!グレーデルぅぅぅうぅううううううう!」

 

「もうやああだああああああああああああ!!!!何なんだよごの世界はもぉぉおぉおおおおおお!!!ぐぞったれええええええええええ!!」

 

「どいつもこいつもふざけやがってえええええええ!!!もっど優しくしろよおおおおおおおお!!!何が欲しいんだよおおおおおおお!!もうなにももってねえんだよおおおおおお!!!ウガアアアアアア!!!!」

 

陸に上がった魚のような暴れ具合だった。どったんばったんとんでもない。力のリミッターが解除されているので限度が無かった。このままでは体が危ない。早くも手の甲から変な音が聞こえだしているし、口の端からは血が垂れていた。舌を噛んでも気にならないのだ。アドレナリンが過剰分泌されているに違いなかった。

 

「ご主人様!お鎮まりを!お鎮まり下さい!」

 

余りの狂態に呆然自失だったが、真っ先に我に返ったロザリタが彼に覆い被さり、体を壊さないように力を抑えて拘束しようとしたが、その細腕のどこから力が溢れて来るのか、彼は軽々と彼女の腕を振りほどくと、更に力強く床の上で羽ばたきだした。どだばだどだばだ。めりめりと皮膚を突き破って、手の甲の骨が勢いよく突き出した。血飛沫が飛んでロザリタが血相を変えて、全力で抑えつけるも踠くのをやめなかった。

 

「レイジ!やめろ!落ち着けって!ボス!おい!しっかりしろ!ボス!」

 

我に返ったレヴィも応援に駆け付けた。何とか、二人がかりで動きを留めさせたが、目は虚ろだし、涙も涎も垂れ流しだ。酷い有様に、レヴィの目から涙が伝った。

 

「ボリス!急いで医者を呼べ!麻酔医もだ!」

 

ソーフィヤは髪を振り乱してボリスにそれだけ命じると、女の子座りで床に座り込んで、彼の傷ついた手を握ったまま、がたがた肩を震わせて項垂れたまま咽び泣きだした。ひっくひっくと、年の割に幼い泣き声が漏れ響いた。

 

「ご主人!水飲みますよ!酒は染みますよ!ね!ね!落ち着くですよ!」

 

「落ち着くのは手前だシェンホア!こういう時に限って双子がいねえ…ったく。おい!イブラハ!貴方!お願いだから退出してくださらない?今日はここに泊まって。明日から始めるから。好いわね?見ての通り、今それどころじゃないの。彼がシラフじゃないと、私たちも動けないの。だから。よろしくって?ごめんなさいね、強い言い方になってしまって…」

 

水を飲ませればいいのか、酒を気つけで飲ませればいいのかと、グルグルお目目で叫ぶシェンホアを宥めながら、エダが唯一正気を保っているイディスに後を任せた。とはいえ彼女にも余裕などなかった。矢継ぎ早に済ませると、医者が来るまでの間に、片づけと応急処置を始めた。

 

「あ、ああ…」

 

「ロック!イブラハを案内してやってくれ!」

 

「了解!エダ!」

 

ロックの案内で部屋へと向かうために、イブラハはその場を後にした。

 

レイジの泣き叫ぶ姿が、不思議と無様には思えなかった。

 

部屋でロックと別れてから、ふかふかのベッドの上で横になると、イブラハの目に無性に涙がこみあげてきた。

 

「ひん…ひん…ふ…う…ふっ…うっ…ぐ…ふッ…ぅぐ………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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