「Drop the Bomb Exterminate Them All!」
(爆弾を投下してすべてを殲滅せよ)
ウォルター・E・カーツ大佐
フランシス・フォード・コッポラ監督
『地獄の黙示録』(原題:Apocalypse Now)1979年より
タケナカが目を覚ますと、そこはどこかの倉庫の中だった。椅子に座った状態で縛り付けられていたが、目隠しなどはされていなかった。見上げれば天井が高く、自分の周囲には何も置かれていなかった。正面には物を吊るすためのフックが突き出た壁だけが見えた。
「ねえ、オジサン。腸って何処まで伸びるか知ってるかい?僕はね、知らないよ」
「私も、
声のした方を向けば、喪服のような黒い服を着込んだ子供がいた。薄暗いが、微かな照明のお陰で二人の美しい容貌が茫洋と浮かび上がった。片方は長い竿物を背負っており、もう片方は丸めた絨毯のような物を持っていた。
まだ子供じゃないか。タケナカは理不尽な怒りを覚えた。
「さて、じゃあ…早速で悪いけど、僕達も時間が無いんだ」
「オジサンは日本人なんでしょう?なら、
「姉様、そりゃあ出来るさ。オジサンは革命家なんでしょう?じゃあ、そう言う覚悟があるってわけさ」
双子はそう言って笑い合った。
「お兄さんが言ってたよ、『ミシマ』もそうやって死んだんだって。思想とかイデオロギーとか…そう言うのが大好きな人だったんだもんね。愛国心とか、そういうの。同じなんでしょ?日本の為とかなんとか…だからね?オジサンにだって出来るでしょ?」
ヘンゼルがそう言って、タケナカの目の前で真っ白い布を敷いた。
「ふふふ。蜂の巣になったおバカのチャウシェスクも、英雄気取りのゲバラも、不潔な豚の
「「皆みんな、黙ってさっさと死ねばいいのに!!!」」
あははははははははははははははははははは!!!
ヘンゼルとグレーテルが声を合わせて笑った。
「余計なことをしてくれちゃってまぁ…お陰で僕らは生まれたわけで…」
ヘンゼルがバケツ一杯の水を持ってきて、そこにプラスティックの柄杓を差した。
「オジサンが全部悪いわけじゃないわ。お兄さんと出逢えたのも、考え方を変えればオジサンたちみたいな人たちのお陰だものね…」
グレーテルが悲しそうな顔をした。胸の前で硬く握られた手が真っ白になっていく。
「でも、思うんだ。それはそれ、これはこれ。お兄さんも、僕も、姉様も。今は幸せだけど、その幸せは別にオジサンたちのお陰じゃないんだ。オジサンたちの尻拭いを、お兄さんが酷い目に遭ってまでしてくれたってわけさ!」
ヘンゼルがぱぁっと明るい笑顔で言い切った。それからアハハと笑った。
「お兄さん、とっても辛そうだったわ…それもこれも、オジサンみたいな誰かが誰かに不愉快で赦しがたいことをしたからなのよ?」
グレーテルの脳裏に、つい先ほどの、壊れかけの彼の姿が現れた。涙をポロポロ零しながら、彼女は背中の荷を下ろした。
「恥知らずにも、誇らしげに、大声で叫びながら…ね?」
ヘンゼルも、ニコニコしながら、唾を吐き捨てるように言った。さっさと終わらせよう。何でもないように。糸屑を捨てるように。台無しにしてやるんだ。
「兄様、これ見て見て!この前、エダお姉さんから貰ったカードを早速使って買ってみたの!」
イタリアの帰りにスイスに寄った際、エダが双子名義で口座を作り、数億ドルを振り込んでおいた。お陰で二人は大金持ちだ。だが、欲しいものも欲しくないものも、今のところ思い当たらなかった。人殺し以外で考える必要などなかったから。その内、着たい服や、食べたい物、好きな音楽や玩具を買うようになれば好いのだが。それは彼女ら次第だ。無理に欲しいものを探さなくても別にいいし、二度と生きる上での何事にも困る事さえなければいいと、レイジは言っていた。
グレーテルが買ったものの初お目見えだ。黒漆塗りの鞘から引き抜けば、ギラリと光る白刃が姿を現した。数百万円の名刀を買った甲斐があった。
「わぁ!姉様、とっても綺麗な
ヘンゼルが褒めた。試しに振ってみると、風を切る音が聞こえた。子供の細腕から奏でられるものではなかった。
「うふふふふ…あら?兄様のそれは何かしら?」
グレーテルが見上げた先には、壁から突き出たフックがあった。
「壁に引っ掛けるフックだよ。グリーンティーの巨匠でリキュウってサムライがいたんだけど、その人はハラキリしてから、天井まで自分の腸を投げつけたんだってさ!凄いよね!」
ヘンゼルが瞳をキラキラさせて言った。
「もしかして、そこにひっかけるつもりなの?」
グレーテルが首を傾げると、ヘンゼルは満面の笑みを浮かべた。
「うん!オジサンは自分の腸で首を吊るんだ!」
ヘンゼルの言葉にグレーテルが手を叩いた。
「まぁ!素敵だわ!それに、オジサンが頑張れば苦しみが早く終わるだなんて、とっても優しくて人道的だわ!」
双子は手を重ねると、キャッキャウフフと、チョウが舞う様にゆらゆら踊った。
「そうでしょう?僕もそう思ったんだ。アレ……ねぇ、何?その眼は…」
ぴたりと踊りが止まった。ヘンゼルの目は真っ黒だ。黒目が収縮して、大きくなってを繰り返した。タケナカの憐れむような目が、双子の逆鱗に触れた。
「兄様、オジサンはなんだか嫌そうね」
グレーテルが不思議そうに言った。心底、理解できないと言うように。
「はははははははははははは…オジサンはこれまで、僕達みたいな人間が頼めば、許してあげたことがあるのかな?」
ヘンゼルがそう問うたが、グレーテルがプンスコ!と叱った。
「あはははは…うふふふ…ねえ、兄様?そんなことはどうでもいいじゃない。気分で許したことがあっても、許したことになるでしょう?それじゃあダメだわ」
グレーテルの指摘にヘンゼルがてへりと笑ってぺろりと舌を出して反省した。
「えへへ…爪が甘かったね。ごめんなさい姉様。じゃあ、こうするね」
そう前置きすると、タケナカの目を覗き込みながら、双子は声を揃えて言った。
「「泣いても喚いてももう遅いから諦めてね、オジサン♡」」
「「
これは脅迫でも、ハッタリでもなんでもなかった。
ヘンゼルとグレーテルは、自分たちが死ぬまで、恥知らずな悪党を殺し続ける。
「殺したいから、殺すんだ」
「言い訳はしないわ」
双子はそう言って、白い服に着替え始めた。
ハカマと言うらしい。ハラキリの時に使うらしいのだが、詳しいことは分からない。多分執行人が着るのだろう。
「だってこれが『調整』なんだもの」
グレーテルがギラリと刀を構えた。真っ直ぐに、腹に突き立てて、鋸のようにギコギコするのだ。
「お兄さんと、僕と、姉様にとっての、僕たちの中で生き続ける、あの子供たちに捧げられる唯一の『癒しと救い』だから」
ヘンゼルがなんとなく水を撒いた。そうやって浄めるらしい。本で読んだからね。
双子の声が重なり、倉庫の中で反響した。
「「だから、大切に殺してあげる」」
「「トイレに隠れてても、見つけ出して殺してあげる」」
ヘンゼルが縄を切ると同時に、タケナカは走り出そうとしたが、出来なかった。
足の腱が、切られていた。
「ふふふ…お薬を使った甲斐があったね。もう、足の感覚がないのかな?名前何だっけ?えーっと…キートン?」
「兄様、それはこの前お兄さんと一緒に見た映画の登場人物よ。違うわ、えーと…コバヤシよ」
封切されてから三年もたっていない面白いと話題だった映画を、二週間ほど前に三人で鑑賞したのだ。少しお高いアイスクリームを三人で食べた。一口ずつ味見し合うつもりだったから、初めから三つとも違う味にした。甘くて冷たくて美味しかった。多分、来週には映画の内容は忘れているかも。でも、美味しかったり楽しかった記憶は残るかな。
「姉様姉様。見て見て、コバヤシが逃げ出そうとしてるよ、悪い子だね」
ヘンゼルがそう言って、タケナカの頭を蹴り上げた。硬いローファーで蹴り抜いたせいで額が切れて血が出たのが、ヘンゼルは面白かった。
なんだ血が出るんじゃないか。やっぱりね。血が出るなら殺せる。
「あらあら…逃げ出そうとするなんて悪い子。悪党だから当然だけど」
「芋虫みたいに逃げてもダーメ。逃がさないよ?」
ヘンゼルがタケナカの足を引きずって、白い布の上に転がすと、グレーテルがなんの迷いもなく刀を突きだした。
「えい!」
グレーテルは日本刀の切っ先でタケナカの手指の先を念入りに引っ掻いた。指の裏表に無遠慮に刃を押し付けて、引いたり、戻したりした。
「姉様姉様、僕にもやらせて?」
「いいわよ。兄様は反対側をお願い。足の指も同じようにね。さ、交代しましょ」
グレーテルがヘンゼルに刀を手渡した。
「えい!」
ヘンゼルが反対側の手指も、足の指先も同じようにズタズタにした。白い敷布は直ぐに真っ赤になった。
「ざーく。ざーく。ざーく。」
グレーテルはタケナカの表面にある突起物を片っ端から削ぎ落していった。
「うーん…やっぱり全然臭くないや。お兄さんが特別なんだね」
彫刻に励むグレーテルの横で、ヘンゼルが血と糞尿の匂いに鼻をぴくぴくさせながら呟いた。グレーテルも頷いていた。
「弱ってきたら瞬間接着剤で手に貼り付けようか。そしたら自分一人で出来るかな?」
手指だけは形がしっかり残っている状態で、ヘンゼルがそう言った。
「お手伝いしてあげるわ。だから、一人で上手くできなくても安心していいのよ?」
グレーテルはそう言って笑った。
そこから1時間ほど、傷口を逐一接着剤と焼き鏝で塞ぎながら、双子はタケナカで遊んだ。
正直、そこまで楽しいものでもないが、退屈しのぎにはなった気がする。
血だるまだったが、生憎とタケナカはまだ生きていた。
「姉様、そろそろ飽きたよ」
「兄様、じゃあ、コバヤシにはバイバイしましょうか」
グレーテルに促されてヘンゼルが満面の笑みで手を振った。
「ばいばい!コバヤシ」
「手にくっつけてあげるわ。はいどーぞ」
だが、タケナカは動かなかった。動く気力もなかったと言えばいいのか。
「ちぇっ…つまんないの」
「そうねえ…じゃあ、約束通りお手伝いしてあげるわね」
そう言うと、グレーテルは日本刀を脇腹にプスリと差し込むと、そのままニュッコニュッコと抜き差しし始めた。
刃がゆっくりと体の中心部分に向かうが、体の中心に来たところでぴたりと止まった。
「疲れちゃったわ…兄様」
「ハラキリって、思った以上に面倒臭いんだね…」
「もう、どうでもよくなっちゃった…」
「帰ろっか?」
「ええ、そうね。そうしましょうか」
双子はそう言うと、瀕死のタケナカのことなど全く記憶にございませんと、背中を向けると手を繋いでその場を去って行った。
と…数歩進んだところで、ヘンゼルが足を止めた。
「兄様?忘れ物かしら?」
「うん。そう言えば、腸の長さがわかんないままだった」
「まぁ、大変!すっかり忘れていたわ!」
「僕が引っ張るから、姉様が測ってね!」
そう言うと、ヘンゼルはタケナカの元に走り寄った。そして、刀を力任せに体から引き抜くと、無造作に放り捨てた。そして、脇腹の傷口に手を突っ込むと、温かい体内を鞄の中身を探すようにゴソゴソと掻き混ぜた。
「兄様ー?見つかったー?」
「あった!あったよ姉様!」
「手触りはどう?」
グレーテルに言われてヘンゼルが手を握り締めたり開いたりした。
「なんかぶよぶよしてる!キモいよ姉様!」
ヘンゼルが涙目で叫んだ。
「バッチイわ兄様!直ぐに捨てなさい!」
「直ぐに捨てるよ。でも測ってから。じゃないと勿体ないよ!じゃあ行くよ、せーのっ!」
ヘンゼルはそう言って走り出した。凧糸を勢いよく引いて走るように、腸を引きずり出しながらヘンゼルは走った。ヘンゼルの額から、汗が散ってキラキラ光った。
「わぁ!長い!すごい長いや!」
「すごい!…あら?でも、もう終わっちゃったわよ」
ビンビンに張り詰めた腸を、ヘンゼルが全力で引き抜くと、腸以外のカラフルな内臓が一気に飛び出した。胃袋が破れて嫌な臭いがした。双子は顔を顰めた。
「うーん…こんなもんかぁ。でも、思ってたより長かったから別にいいや…姉様、シャワー浴びよ?」
「ええ、兄様。それもそうね」
ピクピクと痙攣したまま、死ぬに死ねないタケナカを残して、双子は倉庫を後にした。二時間もすれば処理班が訪れて中を見ることなく火を放つ。倉庫ごと跡形もなく焼き尽くしたって問題は無い。なにせ、この倉庫だって双子がお小遣いで買ったものだからだ。何も残らないし、何も遺さない。それだけ。それだけ。
スッキリした双子はシャワーでさっぱりしてから、絶対安静でベッドに優しく縛り付けられたレイジの両脇を占領して、この日の夜もぐっすりと眠った。
タケナカのことはレイジに話さないのかって?
仕事の話はしない。
双子は仕事の話は家に持ち込まない主義である。
双子がぐっすりと眠って好い朝を迎えた日から、イブラハの復讐は始まった。
そしてそのことは、
全力で。全身全霊で復讐に望むために。レイジの世界を調整するために。無菌室は清潔でなければならない。作られた潔癖であっても、清潔なことには違いない。
偽物でも本物でも関係ない。温かくて柔らかい、優しいものだけが真実だ。ならば、真実を奪い取った人間を生かしては置けない。
彼らは、この狭い世界の禁忌に触れたのだ。悪党の世界の唯一の理に、運悪く抵触してしまったのだ。
エダとソーフィヤはありとあらゆる手段を使って、87年のベイルートでイブラハの息子の命を奪った人間を全て洗い出した。命令を考えた人間。命令を下した人間。引き金を引いた人間。それで金を貰った人間。名誉を得た人間。その悲劇を利用した人間も。すべて。すべて。
洗い出された人間の関係者まで洗い出した。その人間の立場も肩書も関係なかった。
最終確認の為にエダが寝室を訪れると、彼がロザリタにあやされていた。
はだけさせた素肌の胸に頬を寄せて、感極まっているのか泣いているレイジに、エダが簡単な説明をした後で問うた。
「こいつら全員死ぬけど、どうする?」と。
レイジは、ロザリタの唇にむちゅーっと唇を押し付けてから、くんくん首の匂いを嗅いだ。そして、エダの方を振り向くと笑った。あの日向ぼっこの真っ最中の猫のような魅惑の微笑みだった。心底穏やかな笑みだった。
「どうでもいいよ。どのみち僕の所為だから。だから、どうするかはイブラハに聞いてよ」
彼はそう言うと、溶けた猫のようにロザリタの体に自分の体を沈めていった。そのまま、彼の頭はロザリタのお腹辺りまで下がると止まった。
エダは言って早々、ひんひん泣き出した彼の頭を一つ撫でてから部屋を後にした。
そして、イブラハに問い、全てを話した上で問い、イブラハはイブラハが望むままに選んだ。
誰かの家族を殺した誰かの家族を殺すことを選んだのだ。
イブラハからそう言われて、レイジは頷いた。
「好きにしなさい」
彼はそう言った。それから、
「おやすみなさい。僕はもう寝るね」
そう言って、彼はベッドに入った。心配して布団に潜り込んできたレヴィを抱き締めて眠った。寝るまで頭を撫でて貰って。彼女の匂いに包まれて眠った。暑くて眠れなくて、結局寝返りを打って、そのまま離れた。けど、またくっついて寝た。
次の日から、連日連夜、人が死んだ。世界中のいたるところで死んだ。色々な理由で、色々な手段で死んだ。気づいて逃げようとした人間もいたが、アフリカの端っこでも、アマゾンの奥地でも関係なかった。便所の中まで、探し出されて殺された。酷く淡白に殺されていった。淡々と。まるで仕事のように。
だが、それは断じて禄を食む為の仕事ではなかった。金の為でも名誉の為でも無かった。
軍人。政治家。資産家。銀行家。学者。テロリスト。聖職者。妻子。果ては飼い犬まで。
財産を根こそぎ奪い去って、邸宅も豪邸も焼き払い更地にして不動産に換えた。車をスクラップに換えて、臭いの沁みついたものは全て焼き捨てた。
換金できるものはすべて換金した。死体からは装身具から内臓まですべて奪い取った。すべて売り捌いて金に換えた。
死んだ人間の人種は関係なかった。
イスラエル人もアメリカ人も死んだ。レバノン人もパレスチナ人も死んだ。イラン人もイラク人も死んだ。中国人もロシア人も死んだ。イギリス人もフランス人もドイツ人も日本人も死んだ。白人も黒人も黄色人種も死んだ。アラブ人もヨーロッパ人もアフリカ人もアジア人もみんな死んだ。みんなみんな死んだ。
組織も立場も関係なかった。
世界中の恥知らずが、清々しいほどに殺されていった。
人材の損失も、社会への影響も関係なかった。
誰かを食い物にして、平然としている人間。口では綺麗ごとを叫び、罵詈雑言で敵を罵り、自分の手は汚さずに、いとも容易く他人の殺害を命じる。そうして自分は平穏無事に、家族まで作って、社会不安にも左右されない幸福で贅沢な生活を送っているような人間。自分で作った法を弄び、特権的に身分を保証されているような人間。
レイジが言った。
「まるで自分を見ているようで反吐が出る」と。
そういう人間。
違いと言えば、それが私情か、仕事なのか。その違いだけだ。
恥を知るのか、恥知らずかの違いだけだった。
仕事だと。高尚な義務だと。
そのために、どれだけの人生を踏み躙り、食い潰してきたのか。
アメリカ合衆国の人間も、イスラエルの人間も、ヒズボラの人間も。全員揃って誰かの家族を殺しておきながら、自分は家族を作って、優雅に、豊かに、平穏に、笑って、幸せそうに、楽しそうに暮らしていた。
こんな奴らの仕事の為に、俺たちは生き方を捻じ曲げられたのか。
そう思えば、自然と悔しくてやりきれなくて悲しくてもどかしくて涙が出た。
世界中で殺し屋が動き回った。事故に見せかけて殺したり、狙撃したり、通り魔にかかったり、背後から射殺されたり、家ごと燃やされたりした。自殺に見せかけて首を吊らせたり、上空の飛行機やヘリから突き落としたり、拷問に掛けて情報を搾り出してから酸の海に投げ込んだりした。
悲しくもなんともない。酷いことをしている。正しいことではなかった。
これは正義ではないし。これは論じるまでもなく悪党の所業だ。
だが…じゃないんだ。うん。だが、は必要ない。
うん。酷いことをしている。議論は必要ない。そんなものの余地はない。
お陰で、スッキリできる。それは紛れもない事実だった。それだけは、曲げられない。
すげー救われてる。スッキリしたよ。死んでも、何も恨まないし、憎まずに済むだろう。
イブラハはそんな言葉は使わなかったが、言葉短く礼を言った。
それからも、名簿に載せられた人間が一人残らずいなくなるまで徹底的に、世界中に張り巡らせた、愛好会によるレイジの為の陰の世界の本格的な試運転だとばかりに、レヴィもエダもイディスもロザリタもシェンホアもソーフィヤもヘンゼルとグレーテルも、そしてロックとイブラハも飛び回り、走り回り、殺しまわった。レイジは一人の時間が増えて、寂しくてちょっと泣いた。
愛好会の尽力により、世界中で、イブラハの直接的な怨敵は次々に一掃されていった。
現職の大統領も、閣僚も、官僚も、将軍も、社長も。金持ちだろうがそうじゃなかろうが関係なかった。等しく、全てを削ぎ落せば、畢竟、好きか嫌いかで判別された。目についた不愉快で赦し難い行いをしておきながら、恥知らずにも優雅にのうのうと、誇らしげに、時に被害者面しながら平穏な日常を過ごしてきた人間を根こそぎ叩き潰した。どうせ、何時かは更新されるだけなのだとしても。首がすげ代わるだけだとしても。それでも構わなかった。レイジとイブラハがスッキリできればそれで好かった。
リストはあっという間に消化された。戦場でも平和な国でも関係なかった。見つけ出してありとあらゆる手段で抹殺した。
調整すること三か月ほどで、イブラハの為に制作された名簿の名前の上には、全てに赤鉛筆の取り消し線が引かれていた。
やりきったことを、明確に、何か特別なものとして感じることは無かった。ただ、静かに泣いた。声を殺して泣いた。部屋の片隅に痩せた体を押し込んで泣いた。
イブラハは泣いた。それから笑った。大声で笑った。
「あっはっはっはっはっは!」
「あっはっはっはっはっは!」
「あっはっはっはっはっは!」
「あっはっはっはっはっは!」
「あっはっはっはっはっは!」
「あっはっはっはっはっは!」
「あっはっはっはっはっは!」
「あっはっはっはっはっは!」
「あっはっはっはっはっは!」
「あっはっはっはっはっは!」
「あっはっはっはっはっは!」
「あっはっはっはっはっは!」
「あっはっはっはっはっは!」
「あっはっはっはっはっは…は、はは………」
泣きながら笑ったイブラハは、呆気なく終わった復讐を、これと言って美化することもなかった。大変だとも思わなかった。
脳裏を過ったのは、最近は、満足に食べさせて貰ったなと言うことだった。美味しい料理をたくさん食べることが出来た。狂った姿は恐ろしかったが、日常の中で食事を共にする分には、レイジは温厚で気持ちが好い素直なひとだった。イブラハは、息子のことを話した。レイジもよく聞いた。どんな人だったのか。どんな物が好きだったのか。誰と仲が好くて、イブラハとはどんなことを一緒に経験してきたのか。どんな風に苦しんで死んでしまったのか。
レイジは、名も知らぬ少年を、自分に近づけようとしていた。聞くことでしか出来ないことがもどかしそうであった。触れることも、声を聴くことも出来ない。写真だって、残されたものは無かったのだ。だから、レイジは最低限の、理解した気分にすら浸れなかった。何度も何度も、恐れるように、忘れないようにとイブラハに聞いた。
全ては自分自身の為だ。だから彼は常に申し訳なさげに教えて欲しいとイブラハに頭を下げた。話を聞きたいとせがんだ。だからイブラハは何も言わずに語って聞かせた。
レイジは話を黙って聴いていた。その場では、怒りを見せず、悲しみも見せず、ただただ、事実を見つめようとしていた。現実を受け止めようとしていた。
そして、全て終わってから一人でベッドの中でしとしと泣き出す。泣くくらいなら聞かなければいいのに。
そう思ったイブラハが彼のことを思ってハッキリとそう言った。するとレイジはこう答えた。
「聞かなければよかった。知らなければよかった。いつも思うけど、それ以上に、知らないまま、恥知らずになるよりマシだ。こんなにも泣いてしまう自分が憎く思うけれど、泣けることに安堵もしてる。何も知らずに生きてても、何かを知って生きてても、多分僕は変わらない。何もできず。何も変えられず。何も変えず。そうして生き延びるんだろうな。野垂れ死ぬまでね。でも、だからこそ、どうせなら知って置こうって気持ちになる。せめて恥ずかしいと思って居ようって。その方が、野垂れ死ぬとしても、君たちに殺されるとしても、きっと憎まずに済むと思うから。恨まずに済むと思うから。だから、正直聞きたくないけど、知りたくないけど。知らなかったら絶対後悔するし、聞けるのに聞かなかった自分が嫌いになるから。だから聞かせて欲しい。教えて欲しい。お願いします。僕には、これしかないのです。僕には、これだけなのです」
レイジはそう言って跪いて、イブラハの手を握って、上目遣いに頼み込んだ。頭を下げて、でも泣かなかった。
「泣かないんだな…意外だ」
イブラハが言うと、レイジがにこっと笑った。
「僕が泣いたら、話さないとイブラハが冷たい悪者みたいになっちゃう。それは嫌だよ。自分も、すぐにそう言う風に判断する人も、その人に腹を立てるけど人に物を言えるほど上等じゃない自分にも腹が立って、実際同じ立場に立った時に同じように判断してしまうかもしれない自分にも…兎に角僕は僕のことがますます嫌いになるから」
イブラハも笑った。たぶん、「そうか」とか、「わかった」と返した気がする。覚えていない。
…誰も、息子のことを見ていなかったな。自分でさえも。いつの間にか見えなくなっていた。
息子って言う人間を、確かな一人の人間を、その肉体が、温度が、柔らかさが、優しさが、匂いがあったことを、イブラハは長く、長く、忘れていたかもしれない。
いつの間にか、記号に変わっていたんじゃないか。そう思うと、ゾッとした。
神と息子が、置き換わっていても気づけなかったかもしれない。
忘れてしまっていたからには、今思い出している何かも、懐かしんでいる何かも、まやかしに過ぎないのかもしれない。
嗚呼、だが、こんなにも、このまやかしを愛おしいと感じるのは何故だろう。失ったものを取り戻せたわけでもないというのに。
この手に感じる温もりは、息子のものなのだろうか。俺には分からない。分からないんだ。信じられないんだ。
でも、それでも、今はいい気がするよ。自分を、彼のように赦せる気がするよ。せめて、気づくことが出来たのだから。
スッキリ、したなぁ…。酷いことをした。たくさんたくさん。でも、それでも、やらないまま死んでしまった時の方が、きっと嫌な気持ちを抱えたままだっただろう。
完全にスッキリできたわけじゃない。でも、うんとマシな気分だ。
長かったなぁ…。いや、本来なら一生かかっても出来なかったことが、たかだか三か月で成し遂げられたのだから短かったとするべきか…。
いや、でも…ここに辿り着くまでが、長かったなぁ…。
タケナカ、お前は、恐らくもう既に生きてはいないのだろうな…。
ベッカー峡谷で会った時、俺も、お前も、燃えていたな。熱意に。情熱に。
俺はな、あの時の自分を否定はしない。できないよ。お前のこともな。
だけどな…今は、ただただ、恥ずかしいよ。恥じ入るって言うのは、こういう感覚なのか…。
だが、進まなければ知らないままだったんだろうな。だから、その恥じでさえも、いや、恥ずかしさこそを、純粋に認めてやれる気がするよ。あの時の惨めさを。あの時の苦しみを。報われたと、言えばいいのか…。
今日、この日に辿り着くまでの、全てが神の導きだとすれば…そう思ったこともある。
だから、ふざけて彼に訊ねた。
「君は神になるつもりか?」と。
彼は言った。
「僕が神様なら、そもそも君と息子を引き離したりしない」
だから、彼は神にならないし。神を信じない。神を語らないし、騙らない。
「では、何を信じるんだ?」と問えば、彼は言った。
「温かくて柔らかいもの。好い匂いがして、優しいもの。それだけだよ」
彼はそう言った。
なるほどな。息子の手が、どんな感触だったのか、どんな声だったのか。そんなものは、もうすっかり俺の中でだけしかないんだ。それが息子の本当の姿だなんて保証はどこにもなかった。
だが、息子を愛していたことも、温かったことも、優しかったことも。全部全部覚えてる。
どうとかこうとかそんなもの、細かいことなんだ。
確かに俺はそこに縋って生き延びてきた。それが例え幻想でも、偽物でも本物でもどうだっていいことなんだ。確かに俺はそこに縋って生きてきたんだ。偽物だったとしても、捨てられる程に安くも粗末なものでも無かった。
俺から息子を奪った連中にも、彼にも、そしてタケナカにも、そういうものがあったんだろう。でもな、そんなことはわざわざ言わんでくれないか?
そんな分かり切ったこと、皆みんな知っているんだ。理解していて、それでも納得できないから、だから俺は復讐することを選んだんだ。言い訳はしないと誓って。欺瞞を用いて命を奪い、自らの選択を正当化することだけはしないと。連中が息子にしたことを、俺は連中にはしてやらない。これは俺がしたいと望んだからするんだと。それだけは、誓って。
タケナカ…お前は恨んで死んだのか。お前は憎んで死んだのか。それとも…お前は恨まれて死んだのか。お前は憎まれて死んだのか。
俺にとっては、もうどちらでもいいことだったよ。
息子のことを、彼に話してる時に、ふと思い出した。それまで、お前のことなんて忘れてた。
悪かった。だがな、俺はお前と出会わなかった人生の方が、遥かに幸せだっただろうな。
最期の最期で、彼に出会えたことは、本当に運が好かった。
そうだ。運が好かっただけだ。マシなだけだ。最高でも無ければ、最低でもない。だが、マシなんだ。こっちのほうがずっとずっと。そう思わずにはいられなかったよ。
同じ偽善でも欺瞞でも、こっちのほうがずっとずっと、俺にとっては都合が好かったんだ。それだけだって言うのにな…。
酷い話だな。タケナカ。…お前は良い仲間だったよ。
でもな、少なくとも、彼を選んだことに後悔などしてない。彼を憎むことなどできない。彼を恨むことなどできない。彼のことを、どうして俺が指弾できようか。糾弾できようか。
そんな恥知らずな真似は死んでもできなかった。
俺が俺の為に、息子の為に怒り狂ったように、彼もまた彼の為に、俺の為に怒り狂っていた。
俺たちは間違ってる。俺たちは正義なんかじゃない。
でも、正義を叫んでいた時よりも、心が穏やかだよ。開き直れたんだ。これでも、こんなんでも赦してくれる誰かがいるんだってな。
同じ悪党でも、俺はこっちの方がよっぽどマシだ。
マトモに生きていたかった。でもな、そうはならなかったんだよ。
でもな、そこでこの物語は終わらなかったんだよ。
だから俺は、戦うことが出来た。今度こそ、父親として。息子は怒るかな。でも、俺は怒られても構わない。胸を張って、息子に叱られてやれる。父さんは、少なくとも、連中と同じにはならなかったよ、と。少しはマシな道を選べたんだと。
人種とか、国籍とか、職業とか…そういう階層を憎んでしまったら、きっとこうはならなかった。本来なら、きっとその道しかなかったんだろうな。だから、これは異常なことだ。俺の方が異常なんだ。
真っ直ぐに、酷い仕打ちをした張本人たちに、直截復讐することが出来たのだから。
これは異常なことで、極めて稀なことだっただろう。敵は強大で、対して俺は統計上の数字の1でしかなかったのだから。
だが、何がどうしてか、彼が俺を選んだことで、その常識こそが非常識に変わった。
俺は、父さんは復讐を果たすことができた。
神が許さなかったことを、彼が許してくれたんだ。
お陰で、世界なんてものを恨むこともなく、憎むこともなく。俺は死ねる。爽快な気分だ。心が、こんなにも軽かったことは未だかつてなかった。
正義も、神も、そういうものを信じたままだが…彼はそれでもいいと言っていた。
俺は、どっちが好いんだろうな…よくわからないよ。
彼に聞けば、こう言うだろうな。
「なんとなく勿体ない気がする時は、賭け事なら捨て時で、それ以外の思い出とかならそのまま持っておいた方が好い気がする」
ああ。その通りにするよ。
俺は、教えも何もかも、ここまで生きてきたものも携えて、息子の元に行こう。
彼は、彼女たちは、換金したものを全て、俺に放り投げて寄越してくれた。けれど…それが必要になるのは生きている人間だけだ。あんたらの好きに使ってくれ。随分、金も使わせてしまったからな。石油利権でも不動産でも金塊でも、何かの足しにしてくれれば俺も少しは気が楽だ。
俺にはもう何の意味も無い物だ。だが…そうだな、死ぬ前に、一回だけ浴びるほど酒を飲んでみようと思う。1000ドルほど貰うよ。これで買えるだけ買うことにする。
思い残すのは、少し…なんとなく、勿体ない気がするからなぁ。
「イブラハが死んだよ」
レヴィが寝室に来て服を脱ぎながら言った。最近ソーフィヤから買ってもらった、彼女とお揃いのパジャマに着替えたレイジが顔を向けた。
「そっか」
レイジはそう言うと、ベッドの上でごろんした。レヴィが電気を消すと、真っ暗になった。目が慣れてくると、輪郭線だけが分かる。近づくと、顔のパーツも分かる。瞳が揺れてるのが見える。目の中に張った涙の膜が光るから目立った。匂いが好く分かる。二人とも、鼻をクンクン鳴らした。つい、嗅いでしまうのだ。安心する匂いだから。
「部屋で倒れてたんだってよ。酒瓶がごろごろ転がってた」
「へー」
レヴィが彼の隣に入るとそう言い、タオルケットを腹の上にふんわりと流すように掛けた。少し風を包んで涼しかった。風呂上がりだから肌に布が当たる感触もサラサラしていた。蒸し暑くて、結局タオルケットもほっぽりだす羽目になるだろうけど、今は安心の為のアイテムだ。
「苦しそうじゃなかったよ」
「うん」
レヴィがぼふんと枕に頭を乗っけて、鼻からゆっくりと長い息を吐いた。レイジは尻の収まりがしっくりする場所を探してもぞもぞくねくねした。そして、ぴたりととまると、彼は天井をジッと見つめた。ぱちりと目を開いたレヴィが目敏く顔を向けた。レイジがドキリとした。
「なあ、アンタ、今自分もそれでイこうって想像したよなあ?」
「え!?…あ、いや、えっと…」
レイジはしどろもどろしたが、レヴィは知っている。その顔は嘘を吐ければ楽だが、嘘を吐いたら自分が嫌になるから、かと言って誤魔化すにしても悪いコトだし…という顔だ。レヴィはタオルケットを早々に放り捨てると、ガバリと起き上がってレイジの上に覆いかぶさった。重力に従って垂れた彼女の髪の毛先が彼の顔をこそこそ擽った。髪からふわりとシャンプーの香りがする。同じものを使っているはずなのになぜこんなにも好い香りがするのか…。髪が短いせいなのだが、レイジはレヴィが好い匂いの源だと思っている。
「アンタはマジで嘘吐けないんだから諦めろ!オラ!服脱げバカ!このバカ!人の気も知らねえ…訳でもねえくせに!人の気ばっか知ってるくせに!バカ!」
「あう…ごめん!ごめんなさい!レヴィ!悪かったよ!ゴメン!痛いのも苦しいのも嫌だけど、そう言うのが気になっちゃう時もあるんだよ!」
レヴィがポカポカ叩く様に、レイジの頬をこれでもかと優しく撫でた。乱暴な振りして、直前で勢いを殺して、唇をしっかり押し付けてやる。風呂上がりだから肌の油や汗の嫌な感じもしない。好都合だ。ぐしぐし自分の口付けた場所を拭って、もう一度。重ねては塗り直すように。
「ごめん…ごめんよ…でも、自分だったらどうするかなとか…別に死にたいわけじゃなくて…でもさ、なんとなく、不安で怖くなって、それで、ぐっすり、気持ちよく眠ったらさ、そのまま…もう二度と明日がこなければいいのにって、それなら苦しくもないし、怖くもない。とっても気楽なのになって…そう思う時が、あるんだよぅ…我慢したくても、堪え切れなくて、如何しようもできなくなって、何も考えられなくなって、それで、そうなっちゃう時があるんだよぅ…」
レヴィの口撃に負けて、レイジが申し訳なさそうにボソボソと言った。そんなことは知っているのだ。レヴィは彼の脇腹に手を這わせた。フェザータッチで擽ってやる。
「そういう奴だもんな。知ってンだよ!目え離さねえかんな!覚悟しろ!」
「あはははは!くすぐったいよ!レヴィ!勘弁して!ロザぁ~!助けて!あはははは!わ、笑い殺される!ひー!ひー!く、苦しいってば!あはははは!」
レヴィの手が這いずり回れば、一往復するまでもなくレイジは息も絶え絶えになった。これは技術でも何でもない。単純にレイジが敏感過ぎるだけだ。びくびくし切りで、三往復もする頃には完全に降参だ。レイジに秘密は守れない。嘘もダメ、我慢もダメだ。でも、レヴィはそんなこいつのことが可愛くって仕方ない。
「うりうり!…いいか?死にたくなったらあたしに言え。死にたくなくなるほどひどい目に遭わせてやる…わかったな?」
「う…うん…そりゃね、別に…わざわざ痛くて苦しい目に遭ってまで死ぬほどの価値は無いよ。苦労してまで痛い上に苦しいことするくらいなら…僕にそう思わせたもの全部道連れにしてから死ぬくらいじゃないとコスパがなぁ…なんか、めんどくさいよねえ……んぐ」
レイジがはははと笑った。気負いない純粋な笑みだ。むふっと笑っている。レヴィは黙って口を塞いだ。両頬に手を添えて、抑えつけると言うより、捧げ持つように。
伝われば好いな。この、もやもやが。切なさが。そう言う思いを込めてキスをした。お願いだから、一緒にいてくれ。今しかないんだ。死んだら離れ離れになるかもしれない。だから、確実にアンタと一緒に居られる今だけを見てくれ。アンタも今だけを見てくれよ。今のあたしだけを。何度でも、この幸せな今を繰り返させてくれ。今だけが、本物なんだから。疑ってる暇もないくらいに。
「…それでいい。いざとなったら、全員道連れにしてやるから。だから、ずっと物臭なままでいろ。そのまま、面倒臭がってろ…いいな?」
レヴィが唇を離すと、彼の顔は真っ赤になっていた。一生慣れないままだろう。それでいいとも思うし、偶には強く前に出ろとも思う。でも、やっぱりどっちでもいいかな。
レヴィは頭を撫でる。彼の頭を何度も何度も撫でた。そこに確かにあるものを確かめるように。彼は直ぐに、そういうものを、感情とか、熱とか、切なさとかを受け取ってしまう。直ぐに受け取って、自分のものにしてしまう。だから、もう泣きそうになってる。何かを堪えるように、湿っぽくて荒い鼻息を漏らしていた。
「うん。レヴィ。僕、君の言う通りにする。君が好きだから」
「気が合うな、あたしもだよ」
やっとの思いで彼が口にした言葉は、レヴィの痛ましいほど素直な言葉で木っ端微塵だった。腹筋を使い切るつもりで身を起こして、レヴィの胸に飛び込んだ。胸元は涙ですぐにびちょびちょになった。思いっきり息を吸い込んだ。レヴィの手がレイジの頭の上に置かれた。遠からず、彼女の唇が彼の耳を食むだろう。
温かい。柔らかい。好い匂いがした。これ以上に何があるだろう。これ以外に何があるだろう。中々眠れない夜にお腹が空いて夜食が欲しくなる時はあるけど、飢えなんか経験せずに暮らせてる。美味しいものもご馳走してもらえるし。しんどくて悲しくて不安で怖くて…仕方なくなる時もあるけど、それでも楽しいこともある。お小遣いも十分に貰ってるしなぁ。おまけに、可愛くて美人で素敵で柔らかくて温かくて優しくて…兎に角大好きな人もいる。その人が僕のことを愛してくれているなんて!ゆっくり眠れるし。ちょっと変なことしても怒られないし。
最高じゃないか。
うん。僕はやっぱり何もしないでおこう。なんか、面倒臭いし。勿体ない気がする。
だから今は死なんとこ。
実際、痛いのも苦しいのも嫌だもんな。楽に死ぬ方法も、僕のバカな頭じゃ思いつかない。どれも辛くて苦しそうだ。面倒臭いから、死ぬのがどうでもよくなるまで、だらだら生きておこうかな。逃げられなくなるまで逃げたって構わない。寧ろ、逃げられるうちは逃げた方が、なんだかお得な気もするよ。ダメでもともとなら、試さないより試した方が好きな感じだ。自分が悪くないのに、僕が何かを捨てたり諦めたりしなきゃなんないのは納得できないし腹が立つ。
どうせなら、僕をこんな目に遭わせてくれちゃった奴を酷い目に遭わせてからでも遅くないだろう。遅かれ早かれ死ぬんだし。死ぬのに遅いも早いもないもんな。正しいとか正しくないとかじゃなくて、好きか嫌いかだもんな。こんな人生嫌いだったよりかは、最期の最期で好きにしてやったぜのほうがマシな気がする。自分で自分を捨てるのは、正しいコトでも悪いコトでもないけどさ、僕だけ捨てるのは嫌なコトだし、なんとなく勿体ない気がするもんなぁ。
「よそ見すんな。こっち見ろ。あたしだけ見てろ。余計なこと考えんな。あたしのことだけ考えてろ。あたしもそうする。だからアンタもそうしろよ」
レヴィは思考に沈んだレイジの意識を取り戻すように、その唇を奪った。
「今夜はあたしがアンタを抱く。疲れて眠っちまうまで抱いてやる。寝ちまっても、あたしのナカに閉じ込めといてやるから。朝が来るまで放さねえ…だから安心しろよ」
「また夜が来れば、どっかに流されて行っちまわないように抱き締めといてやるからさ。あんま、心配すんなよ。何度でも教えてやる。何べんでも言ってやるから」
そして、そのまま彼の前開きのパジャマのボタンに指を掛けた。
爪がボタンに擦れる音に耳を澄ませる余裕もなく、レイジの隅から隅までを、レヴィの舌が絡めとっていった。傷の痛みも苦しみも、その全てを舐め取るように。悩みも過ちも喜びも、その全てを受け止めるように。
夜が明ければ、また新しい気分が生まれてくるだろう。
この夜は永遠のものなどではない。
朝は訪れる。だが、同様に夜も訪れる。
何方が救いなのか。何方に癒しを見出すか。それは人に依り、物に依る。
この言葉そのものに価値などない。
この言葉そのものに意味などない。
この言葉は金でも銀でもない。
この言葉で腹は膨らまない。腹を満たすことなどできっこない。
この言葉は温かくなどない。柔らかくもなければ、好い匂いもしない。剰え、優しさも。
出来ないんだ。どうしても、できないんだ。
何も出来ないんだ。何も。何も。どうしたって、伝えられるもんか。
100円玉のほうが貰った誰かは嬉しいだろう。駄菓子だって買える。
コンビニのおにぎりの方が誰かのお腹を満たせる。
使い捨てのホッカイロの方が、同じ消費物でも誰かのことを温められる。もっと確かな温もりを伝えることが出来る。
オナホールや人をダメにするクッションの方が柔らかくて気持ちいい。
消臭力や野花の方がはっきりと好い匂いがする。
無力だ。余りにも、無力だ。
でも、この物語の中でだけは。僕にとってだけは。或いは、まだここにはいない誰かにとっては。
レイジに限れば。レヴィに限れば。
この夜は、確かに命を明日に繫げる為の希望となる。希望を得るための一助にでもなればいい。
言葉を踏みしめて。言葉を踏み越えて。言葉を足蹴にして。
形のない言葉を、形のない心で踏み躙ってでも前を向け。今だけを見てくれ。
命そのものには、然程の価値もない。生死にも。
真に難しいことは生きること。生き延び続けること。
長さは関係ないが、短すぎても長すぎてもだ。これもまた、人に依る。
だから、生きることが嫌になって、逃げたり隠れたり、もう何処かへと流されるだけ流されて、消え去ってしまいたくなった時は、それがあなたの所為ではないのなら、否、そのように感じてしまう以上は、断じてあなたの所為などではないのだ。
あなたは悪くない。
悪くないと思えれば。
生きることを捨てるのがなんとなく面倒臭くなる程度には。
明日の夜まで、或いは明後日の夜まで。それでいい。それだけでいいんだ。そのことでさえも、常識とか普通とか、そういう言葉なんか何の役にも立たない。言われた通りになんか出来ないし、もうどうにもこうにも立ち直れないくらいにしんどくて堪らないんだ。些細なことでも傷ついて立ち上がれなくなるんだ。倒れたまま、ずっとそのまま寝ていたいんだ。でも、明日が来ちまう。朝が来ちまう。
だから、これだけ。せめて、それだけ。
ぶっちゃけ休んで欲しい。逃げて欲しい。なんでもいいから生き延びて欲しい。
死んで欲しくない、ってのとは違う。それは僕が胸糞悪くて気分が悪くなるから、目障りなものを見せるなって言ってるのと同じだから。
そうじゃない。せめて、何か楽しんでいってほしいんだ。正直全部クソだったけど、最期の最期で楽しかった。これでマシにはなったかなって、そうなればいい。
何とでも言えるし、何とでも塗り重ねられちゃうけど、それでも他の人とかどうでもいいから、せめて今だけは、全部忘れて楽しんで欲しい。
どうにもならないけど。何にもならないけど。何も変えられないし。何も変わらないけれど。虚しくなるかもしれないよ。そうだよ。そうなんだよ。そうなんだけどさ。
真面目で、融通が利かなくて、要領が悪いと言われて、物覚えが悪いと言われて、人と接するのが怖くて、でも根が優しくて、人からは単に甘いだけだと、優しいだけだと言われて、傷つくことが怖くて、傷ついてばかりで、人のことを傷つけられなくて、人の所為にすることも苦手で、ノリが悪いと言われ、ノリとかがそもそも苦手で、些細なことでも影響されてしまって、些細なことでも惨めになって、切なくなって、悲しくて、不安で、怖くて、情けなくて。
そう言う人が救われてくれよ。そう言う人こそが癒されてくれよ。
普通に生きられる人とか、偏見とか常識を恥ずかしげもなく振りかざせる人とか、そういう人は正直どうでもいいから。あなたが少しでも楽しく生きてくれ。あなたが一回でも多く幸せな瞬間と出逢ってくれ。僕の言葉で出逢わせられれば好い。僕の言葉に何かを認めてくれるなら、泣きたくなるほど最高だ。そりゃあ最高だよ。
でも、出来ない可能性の方が百億万倍も高いんだ。百万回に一回あればマシだと思う。
だから、助走をつけるための踏み台にでもなれればいい。
「熱語り乙www」と笑ってくれ。笑いだけでも提供できるというのなら、一笑の価値があるのなら。こんなバカの所為で時間を無駄にしたわと、他の嫌なことから目を逸らすことが出来るのなら。嫌な上司よりも、多少はマシな程度で好い。気を逸らして、楽しいことを探す気分になれれば、切り替えの為の踏み台になれればそれで好いから。
茹でたジャガイモよりも美味しくないけど、食べられなくもない。寧ろ、茹でたジャガイモにバターとマヨネーズをかけて食べたくなるような、そんな物足りなさで構わない。相対的にマシになれればそれで好い。それが好い。
見たいもの。聞きたいもの。知りたいもの。読みたいもの。食べたいもの。飲みたいもの。出逢いたいもの。
どんなに小さいことであれ、他人を差し置いて何も悪くない自分を捨てることが勿体なくなるものがあれば好い。踏み出すのが億劫になるのに足る何かがあれば好い。なんでもいい。マジでなんでもいい。逃げられる限り逃げ続けてくれ。正々堂々戦わない相手なんか無視しろ。卑怯でも何でもいい。生き残った奴が一番偉いんだから。
貴賤など関係ない。そんなものは存在しない。強者の戯言に惑わされてはいけない。弱者には弱者の論理がある。生き残るためならば。この一夜を越えるためならば。明日をやり過ごせるならば。そんなものは些事でしかない。
遠い未来のことも、一年後のことも、一週間後のことなどどうだっていいんだ。
今の、今目の前のこの苦痛から逃れ、錯覚でも何でも、一瞬でも幸福を噛み締めることが出来るならば。
言うまでもなく、それはありふれている。世に溢れていることだ。
だが、それは、どうしたって否定できないことだと思う。
健康を害さない麻薬で、一瞬一瞬を誤魔化しながら生きるのも悪くないんだ。
弱さと向き合いながら、弱さを受け止めながら、弱さを認めながらも、それでも誤魔化し切れない、無視できない弱さと醜さに打ちのめされながらも、猫背でも好い、スマホ首でも好い、毎日のちっぽけな絶望を殺せるように、脆い自分を守れるような心の底で澱のように溜まる、羞恥と執着とを一時でも満たせる何かを搔き集めながら、自分を傷つけるように生きている姿は、確かに美しくなどないだろう。
だが、恥知らずの人でなし共に文句を言われる筋合いはない。
醜くても情けなくても無様でも惨めでも、何でもいいから楽しく生きて。生き延びて。死ぬにしても、スッキリしてから、少しでも楽しんでからのほうがお得だから。だから、勿体ないから、圧し潰されるように死んでしまわないで。見聞きするたびに、忘れてしまうたびに自分が嫌いになるから。こんなふざけたことを書く僕を恨め憎め、そうして、コイツよりはマシだと思って唾を吐いてでも楽しんでから死んで欲しい。
人は誰しも死ぬ。生まれた瞬間から不公平なのに、無理矢理平等に、幸せを追い求めさせられた挙句、死に向かって歩まされる。反吐が出るほど酷い話だ。
でも、だからこそ楽しんでから。楽しいでも美味しいでも、そういう思いをしてから、あなたは何も悪くないのだから、やり返すだけやり返してから、マシになったと思ってから死にたいじゃないか。マトモなのが馬鹿に想えるなら、真面目なのが、正直なのが馬鹿らしくなるなら、そう思わせた奴らを皆殺しにしてからでも遅くない。連中に地獄を見せてからでも悪くない。
そう思って。思うだけ思って。何もしなくたって構わない。何も出来なくても、それでも好い。そこから、少しでもマシな何かを見つけることが出来るならば。自己嫌悪と羞恥心に悶えながらでも、生き残ることが出来るなら。
恥知らずにだけはならないように。恥知らずの人でなし共に、僕が、あなたが、あんな奴らに人生を壊されてしまわないように。
僕はしつこく書く。塗り重ねる。剥がれても好いように。何度剥がされても知ったことではないと。これ以上ないほどの恥の上塗りで、僕は僕と、それから僕みたいな誰かが潰れてしまわないようにしたい。泣いてしまってもいいから、弱い自分を愛せるように。弱いままでも、そのことを、自分のことを憎まずに済むように。自分の人生を恨まずに済むように。みすぼらしくとも雨風が防げるのならば、裸よりはマシだ。恥知らず共に圧し潰されてしまわぬように。どうか、あんな連中に圧し潰されてしまいません様に。報われずとも、何も変えられずとも、変えられる誰かに届きますように、或いは、誰かの気分が一瞬でもマシになりますように。
書かないより、書いた方がマシだから。それだけ。それだけ。
一先ず、ここまで読んでいただきましてありがとうございました。第何章か数えてないのでわかりませんが、第三部『never better』はこれにて完結です。次回からは、日本・雪緒編です。思いつけば幕間を挟むかもしれません。
何処まで書けるか分かりませんが、自己欺瞞の苦痛に耐えかねての発作で発狂して筆が執れなくなるまでは書きます。草臥れたら、他の作品の二次創作を何の脈絡もなく投稿したりするかもしれません。まぁ…どこまでいっても、何を書いても何を描いても主題はヤンデレなんですが…悪しからず。
ここまで続いたのも誰かが読んでくれて、誰かが評価してくれて、誰かが感想を書いてくれたからです。本当に、最初から最後まで読者の皆様のお陰でございます。心からの感謝の念を送ります。ありがとうございます。ありがとうございます。
願わくば、ここまで辿り着かれた、精鋭読者の皆様とは今後とも末永くお付き合いができることを。僕の拙い二次創作から、少しでも得るものがあれば好いなと常々思います。願い過ぎだし求め過ぎだし高望みが過ぎるのも理解していますが。その上で、恥ずかしい自分を受け入れられるような作品をこれからも書き続けるつもりです。
熱語り失礼しました。
今にも完結しそうですが、まだ、もう少し続きます。ですので、あとがきの場で恐縮ですが、改めましてどうぞよろしくお願い申し上げます。感想、評価、お気に入り登録、本当にありがとうございます。執筆に留まらず、僕が生きる上での励みになっております。重くなりました。ここまで読んでいただきありがとうございます。では、然らば。