ロアナプラより愛をこめて   作:ヤン・デ・レェ

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本編もないのにいきなり外伝って…そう思ったけど。


外伝
外伝 鷲峰雪緒 その零


 

 

 

彼が鷲峰雪緒と知り合ったのは高校に上がってからのことだった。

 

そこそこお金がある家の子供が通うような、特に面白みもない私立の学校だった。校舎は真新しいわけでもなかったし、図書館に漂う紙の匂いも他所とそう変わらなかったはずだ。

 

その年に入った新入生の中でも、雪緒は特別に目立つ子ではなかった。彼女は地味でも、ましてや陰険でも無かったが、かと言って特別に異彩を放つ存在でも無かった。

 

彼の目から見ても、彼女は普通であった。景色に溶け込むような娘子であった。

 

影が薄いと言うわけでも無く、かと言って溌溂としているわけでも無く。落第でも無ければ、秀才でも無かった。

 

彼女に対する印象は悪くなかったが、それ以上でも無かった。育ちの良さは感じるが、それは生粋の上流階級に見られるような洒脱さではなく、かと言って成金の取って付けたようなものでも無かった。

 

彼女は世間知らずな才媛だとか、浮世離れしたお姫様などではなかった。寧ろ、丁寧に育てられた、絵に描いたような箱入り娘であった。

 

成績は悪くなかったが、秀才と言うほどでもなかった。交友関係は狭くも無ければ広くもないように見えた。人に嫌われる様な人品はしていなかったし、誰にでも真摯に応じ、その物腰は嫋やかであった。

 

彼女の容姿はその見事な長黒髪と相まって美しく整っていたが、野暮ったい楕円の眼鏡が聡明な印象を与えることで中和されていた。

 

背は特別低くも特別高くもなく、声は澄んで好く通るものだったが、その声を積極的に張るような場面はあまり見られなかった。

 

彼女のことが校内で盛んに取沙汰されることは無かったが、わざわざ彼女の陰口を叩く者もいなかった。

 

淑女だとか、大和撫子だとか。体の好い言葉はあるにはあったが、どうにも、どうにも、そのどれもが肩透かしを食らったような印象を抱かざるを得なかった。

 

彼女が何を好むのか、何も知らない頃の彼もまた、そういった踏ん張りの効かない、得体の知れなさを彼女に抱いていた。

 

言い換えれば、それは違和感を与えずに、しかし見るものが見れば自ずと虚実と知れる演技を見ているような感覚である。

 

恰も実があるかのように鑑賞者に思わせる、そう言った騙し絵的な…トロンプルイユと言えばいいのか、創り込まれた世界観だとか、そういう素晴らしい技量や、振る舞いの一途さに対する感心を覚えていたのだ。

 

彼がそれを実体験を踏まえた解釈を通じて明確に再認識するのは、彼女が彼を、自らと同様に変哲のない存在から、幾分過剰な性質をもった無力で平凡な同類として再認識する瞬間と、ものの見事に合致した。

 

そして、それは高校一年生の時分。放課後の図書室でのことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「哲学書とか、読まれるんですね」

 

声を掛けたのは雪緒の方からだった。図書室で本を読んでいた彼に、彼女の方から話しかけた。

 

彼は「まぁ」とだけ。

 

それが二人の初めての会話だった。

 

彼が読んでいたのはキケロの『国家について』だった。ずいぶん昔の本だ。

 

九十年代後半になっても、言語哲学だとか、分析哲学だとかは哲学の主流から外れているわけではなかった。大陸系ならフッサールからフーコーだとか、英語圏の哲学ならソシュールからウィトゲンシュタイン辺りだろうか。

 

ともかく、今更古代の哲学をするのは、時代遅れとは言わずともトレンドではなかった。ただまぁ、それだけではあるのだが。

 

「プラトンの『国家』はもう読まれたんですか?」

 

雪緒が次に聞いたのはそれだったが、彼の方は今度は黙って首を振った。

 

「…」

 

沈黙。そこで一旦会話が途切れた。

 

何が彼女の興味を引いたのか、雪緒は徐に彼の隣の席に座った。周りには誰もいなかった。

 

彼が口を開いたのは、暫くしてからだった。

 

「君は読んだの?」

 

彼の第一声はソレだった。今度は雪緒が首を振った。

 

「実存主義とか、現代哲学ばっかり読んでいて…ハイデッガーとか読まれました?」

 

互いを認識してから、少し饒舌になった雪緒が問うと、彼はまた首を振った。

 

「倫理関連の書籍で少しだけ。でも、僕は現代哲学はあんまりかな…ウィトゲンシュタインもちょっとだけだけど、ハイデッガーよりは好きかな」

 

「そうなんですね…」

 

「…」

 

またしても沈黙。淀みつつ、二人は暫く無言で文字を目で追った。なんとなく、二人とも耳を澄ませていたりして。

 

それから数時間。二人は一言も交わさずに本を読み続けた。雪緒は読むのが早かった。彼は遅かったり速かったりした。

 

チャイムが鳴って、二人は同時に本から視線を上げた。

 

「私、明日も来ると思います」

 

丁度読み切った本を閉じながら、雪緒は言った。

 

「そっか」

 

彼はまだ半分は残っている本を、未練など欠片も感じさせずに閉じて言った。

 

「はい」

 

「うん、じゃあね」

 

雪緒は頷き、彼も頷いた。

 

あやふやな距離感を引きずって、どちらもふわふわとした足取りで図書室を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あの日から、二人は不定期で一緒に本を読むようになった。図書室でだけの付き合いだ。ほとんど会話も弾まなかったが、逆を言えば不満とて微塵もなかった。二人が居心地の良さと言うものを沈黙に見出すまで、それほど時間は掛からなかった。

 

放課後に本を読むようになってから半年が経っても、二人は互いの最低限のことすら知らなかった。多分、彼の方は彼女の名前も知らなかったと思う。それくらいに、二人は自分の話をしなかったし、そのことにそもそも頓着していなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ある日のことだった。珍しいことに、その日は彼の方から雪緒に話しかけた。内容は、自分についてだった。

 

「僕ね、父親が政治家なのね」

 

「そうなんですか?初めて知りました」

 

「うん。初めて言った」

 

「…それで、えっと…」

 

気まずかった。

 

何を聞けば好いと言うのか。そも、そんな会話をする仲だっただろうか。そも、仲なんて二人の間にあったんだろうか。

 

正直、二人とも気まずかった。けれども、彼が言いたいことは別のことにあったらしい。

 

「なんかね、こう、わかんなくなるんだよな」

 

「わかんなくなるというと…」

 

雪緒のほうが分からなかった。何も分からない相手から、何も分からない話を聞かされているのだから当然だった。

 

とはいえ、雪緒の性分からしても、隣で本を読んでいるだけの関係性だとしても、無いよりはマシな縁だった。

 

逃げ出すこともなく、雪緒は腰を椅子に深く沈めた。

 

彼は親指のささくれをいじりながら、凝り固まった顔のまま、ぎこちなく口を動かした。

 

「親がいてさ、親が一生懸命働いて稼いだお金があるお陰で、僕は飯を食わせて貰ってるんだ」

 

「綺麗な服を着せて貰えてるし、欲しいものは大抵買ってもらえるし、頑張れば成果はともかく褒めてくれる」

 

「凍えたことも無ければ、飢えたこともない。僕らのことを、世間じゃ飢えを知らない世代だなんていうけれど、自分に限れば全くその通りだと思う」

 

彼が話していることは、どうにも都会の私立の学校に通っている子供の中では特別御大層なものでも無い様な気がした。だから雪緒の返答もありきたりなものになった。

 

「いい親御さんじゃないですか」

 

雪緒が言うと、彼ははにかんで微笑を浮かべた。その表情に憂いは無い。

 

「うん。ありがとう」

 

彼は、それから眉を寄せて、ぎこちなく笑っているような顔をした。それは見方を変えれば、何かに恥じ入っているような表情に見えた。

 

「例えばね、そんな立派な親がさ、世間様にとってはお世辞にも立派だなんて呼べない人間だったら…僕は一体どうすればいいんだろう」

 

「…」

 

雪緒は口の中があっという間に干上がっていくのを感じた。つばを飲み込もうとしても、まるで喉が詰まったようだった。息まで止まるような沈黙に襲われて、雪緒は言葉が出てこなかった。

 

「僕は、家族に対して、父に対して…ほんの少しの敵意も無いんだ。これっぽちも憎しみなんてなくて、悪感情なんてなくて、ただただ感謝しかないんだ。けれどね、それとこれとじゃあ話がまるで違うんだ」

 

彼は深く沈むような声で言葉を紡いでいく。

 

「僕は家族が大好きなんだ。本当に育てて貰った恩しかない。出来の悪い僕を、全く邪険にも扱わないし、愛情をたくさん注いでもらってきた自覚があるんだ。だから、まずもって僕には何かをやらなくちゃっていう気にはちっともなれないんだよ」

 

「そもそも、僕が何かを変えようと思っても、変えられないことの方が遥かに多いし、僕が考えているよりも父の周りの出来事は遥かに大きいんだ」

 

「父にその気がなくっても、周囲に巻き込まれる形でそうなってしまったのかもしれない。或いは、誰にもそんな気は無かったのに、そうなってしまったのかもしれない」

 

「なんて言えばいいんだろう…この、最初っから詰んでる感じがね、もうね…如何ともしがたいんだよ、本当にさ…」

 

彼はそこまで話して、重く長い息を鼻から吐いた。

 

雪緒は黙って聴いていたが、一つ気になっていたことがあった。

 

「どうして、私に…そのことを、話してくれたんですか」

 

喉が鳴りそうになるのを必死に抑えて、雪緒は慎重に言葉を選んで言った。

 

彼は言った。

 

「ごめん」

 

「…謝ることなんて、何もないじゃないですか」

 

そうだ。謝るべきことは何も無いはずである。

 

元より、彼は何一つ断言していない。何一つも明言していないのだから。

 

「でも、ごめん…鷲峰君にしか、話せなくて」

 

その一言がトドメだった。

 

「…そう、ですよね」

 

雪緒は愛想笑いにもならない弱弱しい微笑を浮かべた。

 

「知らなかったんだ…ホントに、何にも知らなかったんだ」

 

彼は俯いたままそう言った。肩を落とした姿を初めて見たな、と雪緒は現実逃避気味に思った。

 

「知りたくなかった、ですか」

 

雪緒の口から、そんな言葉がポッと出た。彼が顔を上げた。そして、図書室の窓の外に視線を遣った。

 

「いや…どうだろう。わからないよ。ずっと知らないままではいられなかっただろうから」

 

横顔は、こうしてみれば精悍に見えた。慎ましくも悲し気な眼光は涙で潤んでいる。だが、一滴とて零されてはいない。

 

「…強いんですね」

 

見通すような視線が、自分に突き刺さらなかったことに、雪緒はただただ安堵を抱いた。

 

彼は自嘲気に口元を歪めて浅く俯いた。

 

「弱いんだよ。だって、致命的な時に、その時になってから知ったって、きっと苦痛が大きくなるだけだからね。寧ろ、心の準備が出来るだけ今の内に知ったほうがマシだと思ったよ」

 

「そうでしょうか…私なら、そんな風に割り切れるかどうか…」

 

「どっちでも一緒だよ。気持ちが楽な方を選ぶのが吉だと、僕は思うよ」

 

もう、どちらも、自分が何を言っているのかすら覚束ない心地だった。現実味を帯びない、全てから切り離された時間を、与えられた分だけを淡々と空費しているような。

 

いずれにしろ、二人は互いのことを見直した。二人は共に善良であった。素直に、それだけは認めることが出来た。ただ、そのことが幸運だったと言い切ることは出来なかった。

 

二人はそれから一時間ほど本を読んでから帰った。別れの挨拶は互いに手を上げただけで済んだ。声を出す気力が底を尽いていた。緘口令を敷かれたみたいに、緊張で舌の根が痺れていた。

 

気まずさなんか気にならなかった。それよりも、うんと不愉快で、不躾な体験だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鷲峰雪緒の実家は鷲峰組と言って、戦前から数えて十三代続く極道の家系である。関東一円の任侠組織が属する関東和平会に属する一家であり、その親分衆の一角を占める香砂会とは親分子分の関係である。

 

雪緒の父であり鷲峰組の先代組長であった鷲峰龍三は、親分である香砂の先代会長と兄弟分の盃を交わしており、その関係性は形式的には対等であった。両者が存命中、鷲峰組にとってはまさに蜜月の時代であった。

 

組織の長同士の個人的な友誼によって、鷲峰組はその組織の規模からは考えられないほど僅かな上納金だけで、香砂会との関係性は元より、任侠組織としての維持を見逃されてきた。

 

この背景には鷲峰龍三が個人的な執政方針として、薬物の売買、売春、銃器売買などの所謂『外道』商売には手を出さないという禁を掲げてきたことが大きい。

 

この方針は、龍三の存命中から鷲峰組の構成員にとって一種の誇りや不文律と化し、また数ある任侠組織の中でも一目置かれる要因になったと同時に、その経済力の低迷に伴い組織全体を弱体化させる最大の要因となった。

 

鷲峰龍三という個人的な渡世人によって陰に日向に維持されてきた鷲峰組は、その死が決定打となりあらゆる方面から体制的な欠陥に対する苛烈な攻撃に晒されることになったのである。

 

高校一年の春から遡ること約二年。鷲峰龍三の兄弟分であった香砂会の前会長が死んだ。

 

そして、先代会長の死によって新たに香砂会の会長に就任したのが香砂政巳であった。この男は、先代会長と鷲峰龍三、両者との仲が非常に険悪であることで知られており、先代会長と鷲峰龍三との兄弟盃による安全保障が失効した鷲峰組にとっては最悪の人選と言えた。

 

だが、まだこの時点では鷲峰組の状況は絶望的ではなかった。なぜなら、鷲峰組にはまだ鷲峰龍三がいたからである。

 

戦後の関東任侠世界を牽引してきた生き字引として確かな影響力を持ち、その仁義を重んじる姿勢から多くの渡世人からの尊敬を集める鷲峰龍三が存命である限り、香砂政巳がどれだけ親分子分の関係性を振りかざして横暴を働こうにも、その上に君臨する関東和平会における人脈を鑑みても、その義理場での立場において、絶対的な優位を鷲峰組に対して確立することは難しかったからである。

 

しかし、先代会長の死から間もなく、鷲峰龍三がこの世を去ったことで周囲は加速度的に鷲峰組に対する風当たりを強めていった。

 

良くも悪くも、鷲峰龍三は一代の華であった。その生き様に、渡世人の多くが敬意を払った。だが、それは現在の任侠世界の礎を築いた彼個人の実績や人徳に対してであり、必ずしも鷲峰組という一組織が有するロマン主義的な体質への賛意に裏付けられたものではなかった。

 

実情として、親分であり、最も親密な関係を構築してきたはずの香砂会ですら、尊重していたのは鷲峰龍三個人であり、それ以上でもそれ以下でも無かったのである。

 

さて、となれば鷲峰龍三という元勲亡き今、鷲峰組に残された物は何であろうか。

 

それは思うに、仁義の首枷と親分たる香砂会の現会長との確執、そして父も母も亡くし、剰えカタギとして育てられた龍三の娘・鷲峰雪緒だけである。

 

数えてみるに、この三つが鷲峰龍三の遺産である。強いて付け加えるならば、生前に彼がその人徳を以て忠誠を勝ち得た一端の渡世人が一握り…これで今度こそ、龍三の遺産は全てである。

 

龍三の死後、何に気兼ねする必要もなくなった香砂政巳は、今度こそ真綿で首を絞めるように鷲峰組に対する破壊工作を開始した。

 

上納金が少ないことや、組長の不在など、鷲峰組は破られた部分を繕おうにも、抑々、始まる前から穴だらけだったのだ。

 

弥縫策を打ち出そうにも、大きすぎる先代が自ら開けた大穴である。表社会であれ、裏社会であれ、経済的な利潤の追求のために採れる選択肢が極度に限定されており、尚且つそれらのハンディキャップを除外した条件下でのノウハウすら確立されていない状況下では、鷲峰組に出来ることと言えば親分である香砂会からの要求に唯々諾々と従う他なかったのである。

 

この従順な態度には、当然極道社会における階級構造が持つ、上位者の命令は絶対であるという気風が下地にある事は言うまでもないが、一方で先代鷲峰龍三の方針として組員の誇りにさえなっていた仁義に対する真摯な姿勢が、龍三亡き今や組員を縛る鎖となり、親分である香砂会によって逆手にとられ、組員に絶対服従を強いられる状況を甘受せしめたことは否めないであろう。

 

反抗心を抑え、愚直に仁義を貫き通すことを優先する家風が、あくまでも任侠組織としての存続を目指す鷲峰組にとっては最大の弱点と成り得たのだ。一方で、任侠組織として仁義の枷から解き放たれ、建前として仁義を掲げつつも、経済的な利潤の追求を組織の是とする営利団体への脱皮に成功した香砂会にとって、格式ばった束縛を受けながら、剰え自ら進んでダブルスタンダードを受け入れる鷲峰組は極めて与しやすい組織であった。

 

鷲峰組と香砂会は同じ任侠組織としての体を成しているが、両者が使う仁義という言葉が持つ性質は全く異なるものである。

 

鷲峰組の仁義は拡大解釈による適用がほとんど許されず、にもかかわらずその文脈を積極的な利敵行為に転化する上では非常に有用であり、またその大義名分としての機能は極めて受動的であり、寧ろその性質に強い被虐性を抱えていることは言うまでもない。思想的にも、制度的にも致命的な欠陥を有しており、同質かつ同規模程度の組織や個人に対してのみ、それも極めて狭い条件下でのみ有効に機能し得ることが想像に難くない。

 

対する香砂会の用いる仁義は、無期限かつ無制限に、自身よりも立場の弱い相手に適用可能な特権に類するものであり、限定的な条件ではあるものの、格下に対しては拡大解釈の必要すらない強力な機能を有するものである。この場合の仁義は鷲峰組が内外に行使し得る仁義に対して、攻撃性が強く、また利敵行為に対しては解釈次第で明確に反駁し得る点で違いは歴然である。前者に対して、後者は言うなれば国連憲章における敵国条項や、或いは常任理事国の拒否権にも似ている。それは剥奪し得ず、また一方的に行使することが可能であり、また如何なる場合であっても遡及して正当性を確保することすら許されている。

 

このように鷲峰組と香砂会は丸きり土俵の違う戦いをしていると言っても過言ではない。前者はスタート地点に立った時点で敗けており、後者はスタート地点に立った時点で勝っていた。

 

最早これ以上の闘争にはびた一文の価値も認められない以上、鷲峰組に許されるのは営利団体としての幕引きか、或いは任侠団体としての幕引きかの二つに一つであった。

 

一般的な価値観から言えば、経営者としての責任を取るべき鷲峰龍三は既に故人であり、後継者となるべき者は世襲制の観点からは(また香砂会からの兄弟盃を新たに交わす条件として)唯一の直系である鷲峰雪緒の他に選択肢は存在しないものの、彼女をカタギとして育てた先代の意志、もとい彼女の現在の保護者を務める鷲峰組の幹部連中の意向もあり論外であり、組織の再編の為に奮闘する若頭の出身は関東ではなく西国であり、どれだけ実績を積んでも余所者は余所者であった。

 

香砂会から送り込まれた組長代行を断った以上、乗っ取られる形で幕引きを図ることも出来ず、況してやこの期に及んで雪緒を表舞台に出すことは先代に対する仁義を失することになり…。

 

とどのつまり、形式的にでも誰かに責任を取らせねばならないが、肝心の適任が存在しない、または適任だが皆何かしらの就任できない理由を抱えている状況である。

 

状況から言って、仁義のケースバイケースは最早通用しなかった。延命するにしろ、再興するにしろ、鷲峰組にとって仁義は足枷以外の何物でもなかった。それは先代によって掛けられた強力な呪いに他ならなかった。

 

苦慮の末、組織の実務責任者を担っていた若頭である坂東次男は仁義を切り売りすることを選択し、任侠組織としての鷲峰組の面影を遺しつつ、営利団体として香砂会に上納金を納めつつ、組織の地力回復の為に手段を択ばない二極体制を構築するに至った。

 

それは苦渋の決断であり、現実的な選択肢の中でも最も仁義に則った選択であっただろう…が、結論から言ってこの選択肢は鷲峰組に致命傷を負わせることになった。

 

この際、誤解してはならないことは、外部勢力を招き入れる以前に、より厳密に言えば香砂会への反撃を企図するよりも以前に、とっくのとうに鷲峰組は死んでいたということである。

 

この際、責められるべきは若頭・坂東次男では断じてない。それはあり得ないと断言できる。与えられたカードの中で、政治的な次善…つまりは現実的な最善…の策を辣腕を振るい、曲がりなりにも軌道に乗せて実現し、尚且つその善後策まで用意しようと尽力してきた事実は、執政者としても経営者としても一流であったと称賛されることはあっても、貶められるべきではないことだけは確かである。実績を伴う行動力を、喫緊に迫る外患を前に冷静に、かつ情熱をもって示したことは驚愕に値する。

 

若頭である彼の選択は最高であり最善のものだったが、その最高で最善のものであっても回避できないほどに鷲峰組はボロボロだったと、言うなればただそれだけの話である。

 

被害を最小限に抑えた結果、その最小化した被害ですら鷲峰組を殺すには十分過ぎた、否、寧ろ弥縫策の成功によって手が届かない希望が釣り餌のように垂らされ、余力を残した状態での降伏という選択肢が消失してしまったと考えれば、最早回復の見込みのない圧倒的に不利な戦線を複数抱え込んだ国家の末期症状にも似ている。それは悪あがきですらない、妄想に衝き動かされた暴走である。そして、暴走状態は全てを出し切り、全てを食い潰すまで止まらない最悪の状態である。

 

暴走状態に陥った鷲峰組は、若頭主導の下で自滅的な事業の拡大を開始した。

 

しのぎの規模は小さく、莫大な財源と成り得た薬物や売春、銃器の商売は龍三の死後に若頭が始めたばかりの新芽に過ぎず、その手腕が如何に優れていようとも周辺の同業他社には年季を必要とする信頼性においても、事業規模においても、またそもそものノウハウにおいても蓄積が足りず、龍三の時代に禁忌とされてきた事業への新規参入は困難を極めた。

 

各勢力による既得権益勢力によって完全に掌握された、いわば熟しきった市場を新規開拓することは、不動産にしろ、風俗にしろ、闇金融にしろ、その全てが他の任侠組織や営利集団との利害の対立を招く結果となるのは火を見るよりも明らかであった。そして、そのような変化を求める新規参入者に対して、既存の受益者らは極めて冷淡である。

 

ただでさえ鷲峰龍三という個人によって存続されてきた鷲峰組は、今やその長い歴史とは裏腹に、道理を知らぬ小生意気な若造を煙たがるが如く、あらゆる方面から白眼視されるに至ったのだ。

 

組織の再編と上納金の増額の為に若頭が辣腕を振るった結果、その強引な手腕によって確かな利益を計上した一方で、長期的に見れば鷲峰組の味方になり得た中立的な任侠勢力との間にすら有形無形の確執を抱えることとなり、起死回生の一手が、結果的には背後からの一突きを警戒する必要性に駆られるまでに鷲峰組の評判を貶めてしまっていた。

 

しかし、もはや若頭にも、その周囲の者にも、そのことに気付き軌道修正を図る余力など残されていなかったのが実情であろう。

 

 

 

 

 

そして、そんな絶望的な状況下の家業から意図的に距離を置いて育てられた鷲峰雪緒にとって、同級生の彼の言葉は余りにも粗削りに二人の現実を叩きつけた。

 

己と他ならぬ彼女自身の人生と言うものが、一体全体誰から許されたものだったのだろうか、と。

 

彼の言外の問いかけに、雪緒は答えられなかった。そして、彼もまた答えようがなかった。

 

二人のあずかり知らぬところで、二人の関係性はより強固に、残酷なまでに機械的に結び付けられてしまったようだ。

 

二人は何を知り得るのだろう。

 

二人は何を語り得るのだろう。

 

 

 

 

 

 

一体、何をどうしろって言うんだ。

 

 

 

 

 

 

二人は明日もまた、放課後に図書室で会うだろう。明後日も。その次の日も。

 

そこに理由が生まれる日が訪れれば、或いは何かが変わるかもしれない。

 

けれど、僕にはまだそれが何時なのか、或いは起こり得るのかすらも想像が尽かないみたいだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




不定期だけど、書ける時に続きを書きます。あんまり長く続けるつもりはないです。サクッと終わらせるつもり。でも結局どうなるかはその時の僕次第です。

外伝は雪緒編だけでも終わらせないと気持ち悪いし、かと言って無理に本編と繋げるのはもっと気持ち悪いから、日本は日本で隔離して、完全に雪緒と「彼」+αの最低限の登場人物でお送りします。二人が二人だけの世界でお上品に狂っていく様子を淡々と綴りたいかな。

雪緒編が終わったら、別の原作…マギとかぬらりひょんの孫とかエヴァンゲリオンとか…の二次創作を一本か二本書いて、それからまたBLACK LAGOONもしくはヨルムンガンドで新しく二次創作を一本書きたい。今後ともより高純度なヤンデレを、より大量に供給していきたい。ついでに、好きな相手に積極的に危害を加えて来るような奴はメンヘラであってヤンデレじゃないってことを作品を通して伝えていきたい。
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