レベッカ / レヴィ
ある時神父が言った。
「神に祈ったことはあるのか」と。
あたしは応えた。
「祈った」と。
神父は首を振り、ため息をついてその場を立ち去った。
よく考えれば変な話だよな?神様が本当にいるのだとしたら、あたしはこんなとこにはいなかったはずだ。もっとマシな場所にいたはずだ。そこでマシな人生を送っていたはずだ。神父があたしに祈れだなんて抜かすこともなかったはずだ。
神様は信じるに値しねぇ。んなもん犬でも食わねぇよ。世界は広いとよく言うが、あたしらみたいなのに用意される居場所は何時も窮屈で汚ぇ。どういう了見だってんだ。あたしが手前に何をした?先に手を出したのは手前らじゃねぇか。生きるための勇気も覚悟も、それこそ矜持だってありゃしない。そんな綺麗なもんは着飾った連中だけの専売特許だってのか。それならあたしには必要ねェもんだ。
役に立つか、立たないのか。それだけだ。物にあるのはソレだけだ。世の中は気が狂うくらいシンプルに出来ていやがる。その輪っかから外れてみろ、くるくる回ってバン!だ。アメコミのヒーローは女優の尻を追っかけるのに忙しいし、弁護士は死神の弁護で忙しい、警察官はよく磨いた警察手帳でスラムの住民からジズヤを巻き上げるのに忙しい、大統領はカメラと勲章のフラッシュに目を焼かれて何も見えてない、神父は暗い懺悔室で少年のケツを手前の"アーメン"で満たす聖務が忙しい。全員寝ぼけてやがんのか。それとも全員真面目にやっててこれなのか。どっちにしろ、バカは死ぬまで治らない。でもな、それだって幸せなんだぜ?お前らみたいな恵まれたバカ共は、死だって一等上等なもんが用意されてんだろ?死神はクズの予約ばかりを後ろ後ろに入れやがる。社会の爪弾き者は墓穴だって掘って貰えないんだ。野垂れ死にすればそこで終わりだ。物語にもなりはしない。クソデカい名画の前で死ねば一週間は話題に上げて貰えるだろうがな。
どうだ?希望とか、夢とか、そういうもんを考える余裕なんてねぇだろ?少なくともあたしにはなかった。なかったから、文字通り生き残るために何でもやった。汚いことも臭いことも惨めなことも無様なことも。そうまでして生きていたいのかって?ッたりめーだろ、ぶっ殺すぞ?死にてぇ奴はな、幸せなやつとか、一度でも満たされたことがある奴なんだよ。そうでもないと、とてもじゃないが死にきれねぇ。悔しくってな。いや、それは今だから言えることか。そんなこと、考えてられなかったもんな。生きる、とかいうことも考えてなかったよ。腹が減ったから食べる。食べるために盗む。盗むために殴る逃げる走る隠れる嘘を吐く。そんでもってやっとこさ飯にありつくのさ。誰も守ってくれなかったから。だから自分で自分のことを守る。誰にだって理解できる言葉で話してやってるだろ?話、通じてるよな?
あたしにはちゃんとした、レベッカ・リーっていう立派な名前があるんだが。残念。1セントの得にもなりゃしない。金にならなきゃ名乗る体力ですら惜しいのさ。そうやって、黙って闇に消えていく。誰の記憶にも残らずに。誰にも悲しんでもらえずに。…でもな、死んでから悲しまれるくらいなら、生きてるうちに金をくれよ、飯をくれよと、助けて欲しいって思うのは強欲なのか?お前はあたしになれないが、それでも…アンタらお得意の理性だの理論だのに照らしてよっくと頭を回せば、理解できるもんじゃないのか?理解できても動かないだろうが…。わかるよ。だって…あたしだって、そこにいたら動かないだろうからな。
家族ってのは言葉でしか知らないとか、なんてお上品だよ。あたしは言葉しか知らなかったぞ。家族。それだけだ。意味?手前で調べろ。説明しろって言われて、初めて説明が必要なもんだって知った。また賢くなっちまったぜ、次のノーベル賞は堅いな。これであたしも億万長者だ。…冗談はこのくらいにしよう。惨めさだけは堪えるよ。
もしもこの世に神様がいたとして、そいつはどんな面してんのかな?あたしは知らなかった。もしも知っても忘れちまうのだろうか。
ストリートで暮らす連中にも殊勝な親切な奴はいただろう。声も顔も名前も覚えてないが。それでもいただろう。そういう奴らから死んでって、塵取りで集めたみたいにゴミだけが残るってんだから全くファニーだぜ、オイ。
飯を分けてくれたかもしれない。こっそり匿ってくれたかもしれない。励ましの言葉を掛けてくれたかもしれない。ありがとうよ、涙が出るぜ。でもな、あたしの人生はアンタらのちっぽけな優しさだけじゃァピクリともしないんだよ。生まれた時から死体予備軍みたいな人生を歩まされるこっちの身にもなってくれ。自力で生きるしかない中で、何も教えられない中で、何か劇的なもんを期待するのが間違ってるのは理解してるんだよ。でもな、縋って、失望して、貶して、怖くなって、擦り寄って、媚びて…惨めな自分を悲劇のヒロインだと思わないで、逆になんだと思えば好いってんだ?正しいとか、そう言うのはナシだろ?
だから、あの日もあたしはアンタの名前を聞かなかった。礼も言わなかった。直ぐに顔も忘れるだろうから。二度と出会うことはないだろうから。あたしの人生を今よりもっと最悪にする、最低のサプライズだと思ったから。だから真正面から見つめられた時もどうすればいいのかわからなかった。敵意のない視線を知らなかったから。戸惑って、困って。あたしさ、お礼の一つも言う気にはなってたんだよ。ただ、何て言えばいいのかもわかんなかった。そりゃそうだよな、見たことねぇ程上等なコートとマフラーだ。売れば暫く安泰だろう。少し年上にしちゃ子供っぽい男の子。自分よりも幸せそうで身形のいいガキに掛ける言葉なんて上等なものを持ってなかったんだ。何を言っても、あたしには返せそうにないことくらいは流石のあたしにも理解できたから。買って返すこともできないし、まして代わりのものなんて用意できるわけもなかった。碧い眼をした幼くても身形の良いアンタなら、どこの店でも丁寧に対応されただろうが、あたしが店先に立ってたらそれだけで警察がすっ飛んでくるんだぜ?窓ガラス越しに店を覗いたら、まず間違いなく盗みかと疑われるよ。あたしだって疑うさ。店に入れば店員に怒鳴られるか、よくて黙って摘まみだされるだけだ。身形も気にせずに一心不乱に稼いでもそんな所で売ってる物は売ってもらえなかっただろうし、いよいよ盗むしか思いつかなかった。バカだよな。恩返ししてくれなんて言われてもいないのに。二度と会わないって知ってるはずなのに。名前も聞けないくせに、受けた恩をどうやって返せばいいのかに頭を悩ませるだなんて。
困って、悩んで、結局何も言えなかった。あたしがなんか言う前に、アンタは財布ごと金を押し付けてどっかに行っちまった。フツウはアンタの背中を追いかけたり、目で追ったりしてそれが一生脳裏にこびりつくんだろうけど、こんな時でさえあたしが真っ先にしたことは誰にも後を付けられてないか確かめることだった。コートとマフラーをなるだけ綺麗なビニールに入れて、買い手がつくまでゴミ箱に隠して、それから家から離れた出来るだけ人気の少ない暗い場所でアンタから貰った金を数えることだったよ。
施す奴ってのは、大抵は相手の記憶に残りたがる奴が多いもんだ。覚えもしないガキの名前を聞きだして、待ってましたと金を渡して名乗りを上げる。コイツは中々上手い手口で、金を貰った方からすれば腐っても恩人だ。あの人は好い人だ。誰が聞いてもそう答えてくれるさ。そう言っとけば、金を返せだなんていわれることはないだろうって、浅い知恵を絞って考えんのさ。そう思い込みたいんだよ。自分が特別に目をかけて貰ったとか、有名人に助けられたとか、自分はいつか成功していつの日にか恩返しするために名前を覚えておく。そういうもんさ。そうやって、生きるために何かに縋るしかない奴には効果てきめんなのさ。それしか奴らは知らないし、それだけで実に助けになるからだ。自分の命とか人生とか、あたしらは哲学者だって真っ青なくらい考えてるんじゃないか?理論もへったくれもないが、やることがなくて、出来ることもないと時間だけは持て余す。だから仕方なく、正気でいるために、生きることに前向きでいられるように必死に無い脳みそを有効活用するってわけさ。健気だろ?同情するなら金を寄越しな。
で、だ。貰った金を数えてみたらあらビックリ。皴一つない、シミ一つないあたしよりもピカピカの百ドル札が十枚入ってた。偽札かとも疑ったが、それならそれで使い道があった。でも、あたしは偽札じゃないという確信があった。この千ドルは特別なんだって。自分の人生が変わる。何かが変わるきっかけなんじゃないかって。これだって所詮は思い込みで、救いようもない頭の悪いガキの妄想って奴だ。でも、妄想できるうちはハッピーでいられる。金のかからない麻薬みたいなもんだ。使えるうちに使っとけ。現実で心が擦り切れて、ヤクの効き目が切れる迄しか使えないんだ。今だけの特権なんだから、と。
あたしはその十枚全部に名前を書いた。拾ったペンで端にレヴィってな。特に理由もなかったが、なんとなくそうしたかったのだ。自分にとって特別な何かを持っている間だけ、あたしは最高に幸せなバカでいられるだろう。それだけだった。願掛けも何もなく、本当にそれだけだった。生まれてこのかた見たことも持ったこともない大金を掴んで、あたしは最高にハイだった。金は力だと、この時既に信じていたからだ。知ってもいたからだ。何よりも便利で、何よりも必要になる物だ。暫くの間、好い思いをできると考えて、その日は素直に家に帰った。ただ今日くらいは雨にも風にもこの高まった気持ちを邪魔されたくなかった。
十人のベンジャミン・フランクリンがあたしに何をしてくれるのか、あたしはさっぱり知らなかったし、想像力を働かせるには腹が減りすぎていた。勿体ぶって使わないべきか、自分の将来とやらの為に大事に使うべきか…あたしが答えを出すより早く、答えは向こうからやってきた。アンタに会ってから、あたしの人生は風を受けてグングン進むバイキングの船みたいに、勢いよく前へ前へと進んでいったんだ。漕ぎ手は一人で船員も一人だ。止まることもできないが、あたしは止まるよりもそのほうが何万倍もマシだと思った。
まず手始めにコートとマフラーの買い手がついた。アンタの千ドルと合わせれば二千ドルにはなっただろう。かなり買いたたかれてその額だった。売上で手に入れた金はブリトーやピザに姿を変えてあたしの空腹を満たし、短い間だったが安モーテルに避難する余裕を手に入れた。いつもって訳じゃなかったが、逃げ込める場所が出来た時、心がうんと軽くなった。ここだって安全じゃないが、少なくとも殺してやりたいくらいの父親はいなかった。二晩。金が盗られないか心配で眠れなくて、三日目でようやく眠ることが出来た。つっても二三時間ってとこだったが…起きてマットレスの下に隠してた金が無事だったことに気付いて、あたしは心底ほっとした。飛び起きてマットレスをひっくり返して、金を下着の中に突っ込んでモーテルを後にした。
アンタから貰った千ドル以外は、あっけなくその姿を別のものに変えて行った。服に食べ物、そして銃。そうだ、あたしは銃を手に入れた。オートマチックで弾薬も十分に買うことが出来た。力に狂う人間の気持ちが分かる。弱ければ弱いほどに。強い振りをしていなくちゃ、自分は強いんだと思い込まなくちゃ、息もできないんだよな?怖いんだよ。怖くて怖くて仕方ねぇ。でも縋りつく先もなくちゃぁ、声を上げて泣くこともできない。弱みを見せたら腐肉に集る蝿やゴキブリみたいな連中に、骨の髄までしゃぶられちまうからだ。銃を手に入れてから、人気のない所で何度も何度も練習した。パーカーを着込んでフードを深くかぶって。ポケットの中から銃が無くならないかと気が気じゃなくて、常にパーカー越しにグリップを撫でてた。硬い感触がして、鉄の部分は冷たくて、大人よりもよほど頼もしく感じた。
銃を手に入れてから、あたしは順調に罪を重ね、運に恵まれて年を一つ一つ増やしていった。大人びる体に、整っていく顔。周囲の見る目はカモから、別の獲物を狙う目に変わっていった。あたし自身にあたしのガワの価値を認識させたこと以外、どれをとってもカスみたいな毎日だったな。どーにかこーにか駆けずり回って食いつないでいたが、遂に年貢の納め時がやってきた。父親に襲われかけて、その拍子に撃ち殺したのが警察にバレたのだ。誰にも気づかれないと思いきや、実に運がいいクズだと思った。白けた気分で、殺人の容疑で署に連行されて、そこで適当な罪をでっちあげられてあっちゅうまに獄中生活だ。男の次は女に狙われて、もう散々だった。フツウ、失っていないことが異常なんだ。だってのに、あたしはカラダだけは綺麗だった。ロマンス映画の中でならこういうのをこんな風に言うハズだ。『まるで誰かを待ってるみたいに』ってな?体で稼ぐほうが、銃をぶん回すよりよっぽど上等で行儀が良かったが、それでもあたしは銃を選んだ。ずっしりとしていて、冷たくて、唯一あたしに忠実な奴だ。それとも、なんだろうか、自分のガワを綺麗に保つことに執着があったのかもしれねぇな。客をとることは立派な商売だ。病気をうつされれば碌な死に方はできないかもしれないが、少なくとも客も娼婦もお互いを受け入れてことに及ぶんだ。それに比べて犯されるのは訳が違う。一方的に押し付けられて、おまけに向こうには受け入れる覚悟も度胸もねぇときた。そんな気遣いもクソも微塵もねぇからそんなクソしょうもない事に及ぶんだろうが。とにかく、生き残るためには女どもを調教する為に体を張る必要があった。幸いにして才能があったようだ。クソくらえだよ、ガンマンなのにストリップバーでしか役に立たねぇ才能じゃおまんま食い上げだっつーの。
刑務所の中では犯罪歴とヤッた相手の数でしかマウントをとれないクズしかいなかったせいで、自分のことが少しまともに思えたほどだった。あたしは折れずに時機を見て出所となった。だが、出所早々にあたしをパクッて牢屋にぶち込んだ署の連中からお呼び出しがかかり、断ったら執行妨害だので銃を突きつけられてお縄となった。向かった先は署の独房で、どうやら味見をし忘れたことに今頃後悔し出したらしい。後悔していたところに、あの女が娑婆に出て来たぞと…ちょうどいいからヤッちまえと、まぁそう言うこった。あたしがどれだけ的当てが上手いっつったって、力はメスガキ一匹分だ。銃突きつけて来るポリ公相手に何ができるってんだ。そうだよな、なんにもできねぇんだわ。だからここでお話はお終い。優しい正義の警官は現れないし、バットマンがこの猿共の脳みそを秘密兵器で独房の壁にミートソースみたくぶちまけてくれるなんてことも起きねぇ。あーあ、やめだやめだ。何に期待してんだか。
足も腕も抑えられて、服をたくし上げられて、パンツを擦り降ろされた時、ふいに胸が詰まって顔をそむけた。思い浮かんだのは、名前も覚えてない碧い目の少年の顔で、その顔だってぼやけて輪郭だってはっきりしない。声なんて想像でしか聞いた試しがない。声聞いとけばよかった。お礼言っとけばよかった。そしたら今度会った時、あの男の子に自分がどんな目に遭ったのか教えよう。彼なら憐れんでくれるかもしれない。泣いてくれるかもしれない。でも汚いだなんて思われたらどうしようか、撃っちまうか、いやできない。あたしがどんな目に遭ったのか、どんな場所で育ってきたのか、アンタがフツウに着てるような服も、フツウに食ってる食べ物も、その全部がフツウじゃないんだって偉そうに説法してやろうかな。彼は怒るだろうか。貧乏人めと蔑むだろうか。それとも笑うだろうか。悲しくって泣いちゃうかも知んねーな。マフラーを巻いてくれた手は大きく分厚くなってんのかな。好い匂いがするかもな。爪は切りそろえられてて、イイとこの坊ちゃんだからヤスリで磨いてもらってても可笑しくないや。きっと割れ物でも扱うみたく女のことも優しく抱くんだろうな。背は高くなって、今も見下ろされちまうかな。それは少し癪だった。ヘタレ臭い顔のボンボンに見下ろされるとか心外だ。あぁ、小男だと彼が気にしてしまうかもしれない。とりとめのない考えが次々に溢れだして止まらなくなる。自分を守ろうと汁気を帯びるカラダが憎らしい。全身を這いまわる手と舌の動きも、はっきり感じてゲロ吐きそうだ。殺してやる。オマエら全員殺してやる。自分のことも棚に上げて思った。
あたしは人殺し。父親殺しの鬼子に違いない。文字面でしかあたしのことを知る事が出来ない連中の方が、世間様には多いんだ。とっくの昔に知ってるよ。理不尽でくだらなくて惨めな中で、ようやく何かに触れたと思ったのに。与えられてきたものが少なすぎて、奪われたものでしか価値を測れないんだよ。他に知らねぇからそうするんだよ。でっぷり太った白人の署長がそろそろいいだろうと言った。ベルトをカチャカチャやりだして、あたしはいよいよ笑えてきた。捨て鉢にもなったし、どうしても自分と同じようなアジア人の小ぶりな顔に嵌め込まれた彼の薄く澄んだ碧い眼を振り払えなかった。あはははははは!今の今まで忘れてたってのに、どうしてこうまではっきりと、鮮烈な瞳の色だけが脳裏をちらつくんだか。信号機が青になって、黄色になって、赤になって。人生の順番ってのはそんな風にできてないんだよ。青だと思ったら車が突っ込んでくるし、赤だと思ったら皆渡って行きやがる。一人残って、黄色で渡った途端に人でなしだと指をさされて笑われるんだ。いいよ、こいよ。ぶっ殺してやるよ。お前ら絶対許さねぇ。あたしの人生滅茶苦茶にしやがって。好き勝手にしやがって。あたしの理性が無いのはお前らの責任ってことでいーんだな?これ以上、あたしから何奪おうってんだ?与える時は勿体ぶるくせして、奪う時だけ全力かよ。もう遠慮とかしないからな。せめて命だけでも自由に使ってやる。好き放題にしてやる。
考える気になると、自然とポケットの中の財布のことが思い出された。結局、使うに使えなかった千ドル。唯一姿を変えずに、財布と一緒にずっとそのままそこにあった。数年持ち歩いたせいでピカピカの新兵が今や老兵の姿だ。あたしはそむけていた目を署長の薄汚い顔に向け、口を開いた。
「いくらで見逃してくれる?」という問いに、少し考えてから署長は700ドルで考えてやってもいいと言った。「遣るから見逃してくれ」と言うと、やっぱり1000ドルだと言われたが、丁度あったので言われるがままに支払った。金を踏んだくった連中は機械みたいに、何かを思い出したみたいにそそくさとあたしをおいて独房を出て行った。なんだったんだ。でも、何はともあれ助かった。フツウなら、奴らのことだから根こそぎ持ってかれたはずなのに。考えるまでもなく、脅して金も快楽も、どっちも思い通りにしただろうに。だのに、奴らはあっさりと手を引いた。魔法みたいだ。運が良かっただけなのかな。怖くて膝に顔を埋めて、少し泣いた。声は出さなかった。喉の奥で。猫がえづいた時みたいに。笑いを堪えるみたいに泣いた。強く抑えられて鬱血した手首や足首、黒ずんだ手の跡が付いて赤くなっていた太もも、撫でまわされた腹に胸。全部を、まるで狂ったように手の平で擦っていた。汚れが落ちてくれるように。ばっちぃ。ばっちぃ奴らの痕跡があたしのどこにも残らないように。奴らの温度も匂いも皮膚の乾きも、全部全部、二度と思い出さないように。何年振りか分からない。誰にかも分からない。だが、確かにあたしは祈っていた。
聞き届けられることもない祈りでも、案外ご利益はあったのかもしれない。その時はそう思った。夜になって、さっきの連中の一人が勝手にあたしの独房を開けて中に入ってきたのだ。入ってくるなり体を抑えつけられて、船を漕いでたあたしは咄嗟に奴と取っ組み合った。そして、運よく奴の手から銃を奪い取ることが出来た。銃を頭に押し付けて、鍵と弾をポケットに突っ込んだあたしは滑らかに引き金を引いた。パンとはじけて、警官は二度と女に手を出せなくなった。あと三人か。あたしは一人残らず消すことにした。あたしの肌を知ってることも、あたしの温度を知ってることも、あたしの匂いを知ってることも許せなかった。義憤が何だか知らないが、狼男を追い詰めるハンターのような心地だった。高揚と強い怒りだ。あたしは奴らが集まって来るより先に、当直の一人を脅して連中の居場所を聞き出すと、一人に一発ずつ鉛玉を御馳走してやった。勿論情報をゲロった哀れな当直が一番乗りだ。署長以外はまだ仕事が残っていたようで、外回りの一人を最後に署内のデスクを即席の墓場に換えてやった。巡回中の一人を後ろから声もかけずに撃ち殺し、リロードしてから署長宅に乗り込んで、家族の目の前で射殺した。妻子持ちだったらしく、ごちゃごちゃ詰られたが、それだけだった。殉職おめでとう。アンタらがマジの正義の味方だったらあの世でユースティティアにしゃぶってもらえるさ。
あたしは署長の財布から
警察官を五人も殺したんだ。もうアメリカにはいられなかった。だというのに清々していたし、あそこで泣き寝入りするなんてできない相談だった。なるべくしてなった。そうだったんだ。あたしは納得して空港に向かった。かなり無理を行ったから、ここで百ドル無くなった。
空港についてすぐに服を買った。空港の物ってのは高級志向らしい。確かに物はよかったが、お陰でまた三百ドル無くなった。靴まで買ってから、小腹が空いていることに気が付いた。軽食を買って、チケットを買ったところで見覚えのあるような…誰がどう見たって怪しい挙動不審の男が目についた。革張りのアタッシェを抱えるようにして持った、酷い顔色の男だった。アジア人の風体で童顔。背丈は特別低くないのに、その猫背の所為で小男に見える。不安げに揺れる瞳は碧かった。
あぁ、なんだ。やっぱり特別だったじゃないか。
自分が特別だと思い込みたいだけのバカ女だと笑えよ。でもさ、こんなの、もう、そうなんだとしか考えられなかったんだよ。そうかそうか、そうだったんだな。あたし、アンタの為にとっておいたのか。大事にしといてよかった。自分の人生に色がつくかもしれないんだ。可能性がゼロじゃないんだって、映画の主人公になったみたいな心地だった。体が今にも浮いて、空に飛んでっちまうんじゃないかって。息が苦しくって、胸が痛くって、喉が鳴って、手が震えた。たどたどしい感じで、慣れてないのが丸わかりの素振りでチケットを買う後ろ姿を見て、彼の行き先が分かって。あたしは考えるより早く窓口に齧りついて、返金作業もせずにさっき買ったばかりの別の行き先のチケットをゴミ箱に突っ込んでさ、鞄を重そうに持ちながら、キョロキョロしながら飛行機の席に向かうアンタの隣に辿り着いたんだよ。シートまで真隣って…アンタ、あたしのこと好きすぎだろ。
アンタの不安が何なのか、そんなの知らないし、正直どうでもよかった。でもとにかくアンタの為になりたくて、お礼も言いたくて、逢えただけでうれしくて。あぁ、よかった、生きててよかった。こんなことってあるんだって、もう、泣かなかったのは奇跡だった。カッコつけたくて準備の時間が欲しかった。出会えた理由とかもしっかり考えてさ、少しでも悪くない女だと思ってもらえるように。でもアンタの捨て犬みたいな顔見ていたらそれどころじゃなくってさ。どうにかするしかなくなって、声かけちまったんだよ。そしたら、アンタがあたしを見てさ。アンタが見てくれて、それで、えっと、勿論顔だけじゃわからないから、少しだけ期待して財布を出したらちゃんと覚えていてくれて。どれだけ嬉しかったとか、どれだけ…ごめん、よくわかんなくなっちまった。もう、わけわかんねぇよ。どうして、こんなのってありかよ。あんまりだ。あんまりにも、なんつーか、熱いっつーか…悪ぃ、あたし、こういう時に使う正しい言葉とかわかんねぇ。
ただ、こう胸がきゅうってして。他のことはどうでもよくなって。頭がくらくらして。体がアツくって。とにかく、アンタの顔を見ていたくて。アンタと何でもいいから話していたくて。声が聞いていたくて。あたしを見ていて欲しくて。そのまま目を離さないでいて欲しくて。抱いて、抱いて欲しかった。ぎゅーってして欲しかった。体が二つに折れるくらい強く。あぁ、でも優しくしてほしいとも思った。どっちもしてほしかった。も、もうわかんねぇよ。こんなこと初めてなんだよ。難しいことすんなよ。こんなことに何年かけてんだよ。どんだけ時間かけてんだよ。もっと早く来いよ。それでもあたし、逃げたりしなかったよ。磁石みたいに引っ付いちまうよ。そのまま離れられるわけないだろ。どんだけよぉ…あたしらが、どれだけ期待して、祈って、そうやって地べた這いずりまわって、上を見上げて生きてきたと思ってんだよ。飛びつくに決まってんだよ。離すもんか。絶対に放すもんか。自由にするわけないだろ。絶対に許さない。そんなことは許せねぇ。全部赦してやるから。全部全部受け止めてやるから、だからそれだけは許せねぇ。
何の価値もないって打ち捨てられて、神様だってそっぽ向いてたんだぜ?ずっと、ずっと。皆、皆。みーんな、な?待ってんだよ。そーいうので好いんだよ。安っぽくても、生臭くても、偽善だろうが、エゴだろうが、ダサかろうが、情けなかろうが。いーんだよ。アンタが正しいんだよ。アンタが好きにすればいいんだよ。あたしが、アンタがアンタを否定するとよ、まるでアンタがあたしを救ってくれたことを否定するみてぇじゃねぇか。嫌だよ、んなの。
だからずっと、ずっと面倒見てやる。これからずっと。死ぬまでずっと。アンタの代わりに何でもするよ。だから踏ん反り返ってろ。アンタは、それでいい。びくびくしながら偉そうにしてろ。褒められて媚びられて笑え。欲しいもん貢がせて、好きな女抱いて鼻の下でも伸ばしてりゃいい。全部全部アンタだろ。打算でも何でも、あたしに差し出した手に嘘はねぇだろ?1000ドルは嘘を吐かなかったンだぜ。ならアンタも正直者でいいじゃねぇか。最後に残ったこの百ドルだって、最後の最後でアンタにあたしのことを思い出させてくれたじゃねぇか。あたしのお守りさ。あたしを救ってくれた。最後まで。心は心だろ。上も下もねぇよ。口だけ出して手を差し出さない中で、アンタだけがあたしを拾い上げてくれたんだよ。
今ここに、この場所に辿り着くまでにいろいろなことがあった。ついさっき、人を殺してきたばっかなんだよ。なのにさ、どうしてこうも清々しているんだろうな。あたし、アンタの所為で狂っちまったんだ。でも、あたしよか、よっぽど狂ってるのはアンタなんだって、あたしはとっくに知ってるよ。こういうのは女の勘って言うんだろうな。きっと今、あたしが人を殺してきたって話したところで、アンタは「へー」で済ましちまうだろ?アンタ、死ぬほど選民思想が酷いって理解してないよな?平凡な顔で魔性みたいなフェロモン振り蒔きやがって。金にも頓着しねーし、常識も通じねぇし…頭じゃなくて脳みその深っかいトコ、いきなりぶん殴って自分の言うこと聞かせる振る舞いとか、自覚ナシなら生まれながらの女衒だな。それ、選ばれたくて選ばれたくて、救われたくて救われたくて、そーいう期待で頭おかしくなっちまいそうなメスにゃ、効きすぎるくらいにキくってことを、早い所理解した方が好いとおもうぜ?あたし?あたしは教えたりするわけねーだろ。どうしてわざわざ自分を否定しなきゃなんねーんだよ。ましてやソコが、アンタのイィーところ、だろ?
現金な奴だよな。一緒に居てもいいんだってわかった途端に、調子に乗っちまった。乗っちまうよ、夢だったんだから。見れないはずの夢なんだ。妄想が現実になっちまったんだよ。自分でさえバカにして、虚仮にして、嘲笑って、そうやって誤魔化してきた願望が、欲しくて欲しくて仕方なかったものがいきなり目の前に差し出されて我慢できるわけないだろ!考えないようにしても浮かんで来て、誤魔化したくても誤魔化すと途端に惨めになるんだよ。自分まで自分を蔑ろにして、その程度の価値しかないんだから死ぬまでじっとしてろって言われてるみたいでさ、悔しくて、情けなくて。大切だったものも何もかも否定しなきゃ、自分を守る事すら出来ないなんて。心の中でさえ自由も幸福もあったもんじゃなくって。どうしようもなくて、頭が働かなくって。そーやって泥だらけで腐ってたらいきなり優しく抱き上げられて…温かくて、手が離せないんだよ。アンタの背中を見送った後で、何度も何度もアンタのことを馬鹿にした。どうしようもないバカで、無責任で、クズで、生まれだけが良くて、偽善者で。そういう奴なんだって。そういう奴だから、あたしの人生はずっとこのままでも仕方が無いんだって。その程度の奴だから、あたしはアンタよりもマシなんだって。上等な人間なんだって言い訳して、何とか息をしてたんだよ。アンタさ、これ言っても怒ってくんないだろ?むしろ謝るんだろ?やめろよ、マジで。怒れよ。叱れよ。もっと、乱暴に扱ってくれよ。滅茶苦茶にしてくれよ。そしたらもっと、アンタのことだけ考えるから。アンタに怯えてやるから。アンタに支配されてやるから。アンタに腹を見せて服従するんだ。あたしは好い子だからアナタに逆らいませんってな?そうやって、躾てくれよ。躾け直してくれよ。このクソみたいな世界をかき混ぜて、あたしをアンタの為に生かしてくれよ。使ってくれ。利用してくれ。もう頭がおかしくなっちまったんだ。元には戻せないし。直せる奴は端から居ないさ。安心してくれていいんだぜ?アンタ以外の誰にも懐かないし、投げ捨てられても自分の骨を拾ってアンタのもとに帰るから。笑って死ねるし、笑って殺せるよ。
アンタが生きる世界に連れてってくれよ。どこまでもさ。引きずり回してくれ。リードを引いて、散歩させてくれよ。上手に尻尾を振るからさ。アンタはバカでキチガイだから、あたしの気持ちを理解できるだなんて思っちゃいないが、死ぬまで可愛がってくれるのは疑ってない。不器用だし、弱っちい、くしゃくしゃの笑顔でいてくれよ。くだらないこと、下々のことはあたしらみたいなのに任せてさ。ぼんやり生きててくれよ。平和とか正義とか、そういうのにどっぷりつかるんじゃなくってさ、むしろ奴らを笑ってくれよ。アンタが笑ってるとあたしも嬉しくなるんだよ。あたしでも笑っていいんだって教えてくれよ。政治家も、学者も、思想家も…皆みんな大バカ野郎さ。アンタは奴らのやってることを、必死こいてバカやってる奴らのことを、一等バカにしてやってくれ。アンタのことだ、嘲笑うんじゃなくて、ホントにツボって笑うんだろうなぁ。「凄いバカもいたもんだなぁ」ってね。はぇ~って素面でしみじみ呟いてくれよ。あたしは隣で腹抱えて笑えるからさ。
くくく…皆みんな、誰にも想像がつかねぇコトをしようぜ?楽しい事さ。長く楽しめることさ。一緒に楽しめることさ。別に祭りを起こすわけでも無いのさ。バカな奴らが地雷原で勝手にステップを踏むからさ、アンタはあたしの膝の上に頭を乗せて、ビール片手にそれを眺めてればいいんだ。アンタとあたしはいつも通り。世はことも無し。アナタとワタシ、二人の世界はこともナシさ。