ロアナプラより愛をこめて   作:ヤン・デ・レェ

7 / 36
ロザリタ / ロベルタ 後

私の前には二つの道がありました。

 

一つは日本人を二人殺す任務。

 

もう一つは、一人の日本人を攫う任務。

 

何方も任務で、どちらも革命実現の為。

 

これまで幾度となく目にしてきた文言が並び、その全てが整然であり、簡潔であり、この上なく素っ気なかった。人の命のかかわる任務というよりも、まるで予算編成の上申書みたいだった。

 

私は悩むこともなく、自分でも意識しない内に一人の日本人を攫うほうを選んでいた。命令が下り、私はすぐにキューバに向かった。

 

キューバの地は、馴染みのあるものだった。そこで戦う術と、殺す術を学んだ。敵を効率的に屠り、痛めつける術を身に着けた。努力して、一生懸命に学んだ。私には才能があって、誰よりも上手くやれた。そのことは称賛されるに値したが、称賛されればされるほど、私は私ではない、一兵士としての自覚を得た。そこには冷たい自負があり、鉄のように思い遣りが無い。なんでもやる。文字通り、革命の為ならばありとあらゆる任務を完璧に熟す、そういう生き物として解釈された。そんなことは、すぐに身に染みて、悟った。

 

だが、そのことと革命の成就は比べるまでもなく。比べるまでも無いはずで。そうであるならば、私は犬でもよいとも思った。犬畜生の扱いを受けていても、巨大な共同体だとか、掛け替えのない思想、偉大なイデオロギーの燦然と輝く歴史の一頁、そのインクのシミにでもなれるのであれば、それは素晴らしいことであると思われた。だから私は殺したし、傷つけた。良心の呵責と引き換えに…いいえ、違う。ダメ。それは、ダメなのよ。

 

私は、楽しんでいた。自分の学びが生かされて、自分で自分の強さを、優秀さを実感できていたことが。自分に恵まれた才能を、十全に発揮することで世界に居場所を得た気になって、それで何か偉大な、自分を他人よりも上等なものだと思いたかった。思い込んでいたのだ。そこには、醜い自尊心があり、同時に後戻りが出来ないこの修羅道の道半ばで倒れたり、或いはこの道を捨てたことで半端者だと詰られることに耐えられなかった…そう言う恐れが、付かず離れず、私を追い立てるように付いて回った。

 

私を甚振る影法師は、日に日に大きくなり、私の恐るべき才能の開花と成熟、その実績を積み上げるほどに、その影法師も存在感を増した。その影はそのまま、私の、この世界の不条理に対する優越感を含んでいた。底に敷かれていたはずの真心は、イデオロギーと言う缶バッジのせいで色褪せてしまった。泥を被って見えなくなって、腐葉土に邪魔されて。正義の為。私の殺しは賛美され、その手口の繊細なるを、酷烈なるを、獰猛なるを、その無慈悲を称揚されて悦に浸っていた。彼らの称賛を愛していたのではない。その称賛に動じることもなく、泰然自若として、粛々とこの聖戦に身を投じる己を愛していたのだ。

 

私は名誉の為ではなく、大きな何かのために戦っている。誰かのために戦っている。

 

その実感。その傲慢。岸ははるか遠く、私は水には浮けない程に良心を脱ぎ捨ててしまった。良心の喪失さえ、彼らは賛美した。私はそれに無意識に追従し、冷えて硬くなり、鉄のような女になった。獣になった。殺すしか能がないにもかかわらず、まるで世界の悪を懲罰するような心地で。私は疑念を抱かなかった。自分にも。上官にも。殺した相手にも。私を殺そうとした相手にも。私は強いから、だから生き残ってしまった。でも、強いことが生存の必要条件じゃないことなんて、とっくの昔から言われてることでしょう?そこに、適応したから生き残れるの。

 

イギリスの作家にレイモンド・チャンドラーと言う人がいて、彼は著作の一つであるハードボイルド小説の中で、主人公のフィリップ・マーロウにこんな風に語らせたの。

 

「強くなければ、生きていけない。優しくなければ、生きていく資格が無い」

 

私もそう思う。確かにその時の私はその言葉を正解だと考えていて、だというのに今の私には強さだけが残っていた。私のどこに、人間としての優しさが残っているのだろう。私はどこまでも自分のことだけを見ていた。革命に重ねた自分のことだけを。革命の朝を迎え、英雄として、そして全てを称賛されるその日を。赦しを与えられるその日を。信じた大きくて強いものからの赦しの言葉を聞く瞬間を。私は只管に、待っていた。その日がくれば、私は元通りになり、優しい人間に戻れるんだろうって。でも、その日は来なかった。来なかったのよ。私は、優しさなど要らない程、強かった。私は強くて、私に殺された誰かは皆揃って私よりも弱かったの。生きる資格の有無なんて、私の理不尽な強さの前では、何の意味も齎してくれなかった。大昔の聖人に与えられたような、私の力が通じない奇跡を、優しい誰かを私の魔手から生き延びさせる何かを。私は期待してもいたのかもしれない。そんな奇跡が、決して起こらないだろうと自分と、その奇跡だけが生存の目である犠牲者たちに対して底意地の悪い嘲笑を抱きながら。

 

私は殺しに気持ちよさなんて感じなかった。だってその方がカッコいいから。正しいことをしているように思えるから。苦しみながら、でも大義の為に心と体をボロボロにしてまで戦った方が、皆は憐れんでくれるの。負けても、きっと美しい絵になるの。物語絵画、歴史画のように。その死は記憶され、私は人殺しじゃなくて、革命に殉じた戦士として記憶されるの。私が殺した人間の家族は、私を責めるかもしれないけれど、私にも大義があって、実は等身大の人間で、弱さがあって…お涙頂戴の和解を遂げるかもしれないし、或いは虚しさを遺族に与えながら、見事に死ぬかもしれない。美化されて、磨かれて。私は一つの宝石に生まれ変わるのかも。イデオロギーというクラウンを飾り立てる為の、アクセサリーに生まれ変わるの。

 

でもね、人間は弱くて惨めで、自分を簡単に誤魔化してしまえるの。雪玉の中に小石を入れて、平然と人に投げられるの。

 

だからね、多分、私は楽しんでいた。認めたくなかっただけで。誇らしく思っていた。もっと褒めて欲しい、それくらいには思っていたのよ。人間は弱いから、きっと日向の道に出れば、これが悲しかっただとか、悪いことをした後悔しているなんて…そういう言葉が口をついて出るの。それって醜い事じゃない。そんなことをするくらいなら、完成された殺人機械の方が、最後は何かを残せるのかもしれない。度の過ぎた何かを、私たちは恐れる。でもね、恐れることは弱いことだから、その弱さを隠し、誤魔化すために、人間はズルい手を使うの。彼らと自分たちの共通点を探して、彼らの素晴らしい点を見つけて、無理矢理に自分たちの傍へと寄り添わせようとするの。恐れて大嫌いだと叫ぶより、彼らにも色々なことがあったんだと、如何にも彼らのことを隈なく知っているような、真理を見極めて、思索を重ねた風な口を利いた方が賢しらに聞こえるもの。

 

凡人にとって、英雄も極悪人も一緒なの。憧れる対象で、恐れる対象で。きっとそんな彼らを自分なら理解できるんじゃないかって、そう思ってるのよ。君たちの崇高な考えは知っているよって。君たちの苦悩は理解しているよって。君たちの努力を知っているよって。彼らの命の価値を、何処までも恣意的に決めているの。美しいものも、汚いものも。口の利けない死人を相手に、私たちは必死に腰を振っているのよ。彼らは文句を言えない。だから私たちは口を開けるの。時間の壁が守ってくれるから。

 

私は、その壁の向こうで生きていたかった。理解されない存在として、せめて理解されたかった。それは私の本来の姿ではないし、間違った解釈に過ぎないけれど、でも、使い古された人形みたいに、一人だけボロボロで立っているのは嫌だった。私だけが熱狂の渦に取り残されて、革命が終わった後の世界に不要だと断じられることが。革命の為だけど、革命の為じゃなかったの。私は革命を捨てられても、革命に捨てられることに我慢できず。だから革命が永遠に続けばいいとさえ思っていたのかもしれない。私は無数の、同じような泥だらけの戦士たちの中でのみ、燦然と輝くことが出来たのだから。そこには当然居場所があり、私こそが革命を示す居場所そのものなのだと信じていたから、頼まれもせずに神の声を叫んだの。私は革命になった気になって革命の意味も忘れて、それは記号に過ぎなくなって、私の革命の為に…つまりは自分の為に人を殺してきた。そのことを認められないままに、人殺しを重ねてしまった。逃げ道が無くなって、私は寡黙な戦士を気取った。負け惜しみも、勝利宣言もしなかった。私は沈黙を守った。なぜなら、私の背後には死体しかなかったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キューバの地で、貴方を見た。誘拐の為にキューバに呼ばれ。そこで貴方に出会った。

 

初めて見た時、私が考えたことは貴方の隣に居る女をどうやって始末するかだった。だが、その女は狼のように目敏かった。私はしばらく手を出さずに、貴方たちを観察した。

 

貴方たちを観察して、私はすぐに後悔した。

 

ただの金持ちを誘拐するものだと考えていた。貴方たちは人々から搾取する悪であり、貴方たちには人格がインストールされていなくて、悲しみも痛みの感情も希薄で、貴方たちを傷つける正義の私に慈悲を乞い、或いはその弱みを見つけて牙を剥くために、善良で弱い振りをしているのだと。だから殺しても心は痛まない。むしろ、一人でも多くの名も知らぬ人間を救うことに繋がるのだと。これまで傷つけられてきた弱者の代わりに、彼らの無念と痛みを味わわせ、敵討ちをするためにも積極的に傷つけるべきで、苦しめるべきなのだと。その体を、心を。

 

そう考えてきた。そう教えられてきた。そう信じてきた。

 

だというのに、貴方たちは高級品を買い漁るでも、或いは横柄な態度で住民に威圧を振りまくでもなく、ただただ生きていた。私が守りたいと思ったような弱者の様に。

 

露店で買った一本の葉巻を、店先で二人でふかしていた。呑気に煙をふかしながら、話してることは専ら食べ物のことばかり。ビジネスはおろか、どこまでも私的なことしか話していなかった。政治のことも、軍事のことも、経済のことも何も話題に上がらない。どこの何が美味しかった。また食べに行きたい。あそこのベッドは硬くて寝違えた。今朝、歯磨き粉の量を間違えた。だの、かんだの。そんなことばかり。

 

日常風景を見せられて、私は後悔した。最早、たったの一時ですら、相手を人間だと思ったらお終いなのだ。相手を、自分と同じ人間だと思ってしまったら。

 

私は計画を変更するしかなかった。なんとかして、ノルマを達成しなければ。任務を完遂しなければ。そう考えて、男が本当に同じ人間なのか、少しでも憎めるところはないのかと、男の粗を探すことにした。

 

私は二人組を追いかけまわし、観察し続けた。それでも、私はなぜか、最後の一歩が踏み出せなかった。男の方は私の影に微塵も気づかず、一方で女の方は確実に私の影を、いいえ、姿を既に認めていた。その上で、まるで見せつけるかのように男に好きに振舞わせた。私によく見えるように、食事をさせ、煙草の煙を耳に吹きかけ、肩を抱き、男の肩に首を預けて、まるで猫のように微笑んでいた。私は無性に腹が立って、吐き気を催した。胸が苦しくて、胸が痛かった。知らない何かを、逆に引き出されてしまった。私はすぐにでも、彼らを殺すべきだった。既に気づかれていて、その上で弄んでくるような強者だ。だというのに、私は毎日毎日、二人組の跡を追い、女の振る舞いに腹を立て、気が付けば男の姿を目で追った。男はよくよく蹴躓き、何もない所で転び、口の端に食べ物を付けて、鼻も一人でかめなかった。どうしてあんな男に、これほど鋭い女が付き従っているのか、甲斐甲斐しく世話を焼いているのか。理解できなくて、理解したくなくて、でも共感できるような気がして、それが怖くて否定するための論理を組み立てるためにも理解したかった。

 

女は来る日も来る日も、鼠を弄ぶ猫のような瞳で私に語り掛け、見せつけるように、自慢するように男に寄り添った。毎日同じベンチに座ることに気付いてから、私は即日盗聴器を仕掛けた。そして次の日、女は座る前にベンチの下を覗くと、にやりと笑って…何もせずに、いつも通りに過ごして時間になると男の手を引いて立ち去って行った。

 

盗聴器から聞こえてくる音に、息を殺して耳を澄ませる自分がいた。女と目が合って。あ、とも言わぬうちに。女が男の肩を抱き寄せた。耳に唇が着くくらいに近づけて、何かを囁いていた。気づいたらスピーカーに耳を押し付けてた。ぼそぼそとした会話が私の耳に届いた。

 

 

 

 

 

 

「おい、目立ってるぜ」

 

「えぇ…なんでさ」

 

「知らねぇよ、でもさっきからこっちを見てる女がいてな…どうする?」

 

女の声にはっとして、とっさに住宅の外壁に隠れた。手持ちのコンパクトを角から出して、恐る恐る、期待を込めて覗き込むと、ベンチから少し身を乗り出した男の顔が見えた。初めてこっちを向いてくれた。嬉しいと思った。コンパクトを閉じられなくて、手が動かなくて。じっとりと背筋に冷や汗が伝った。

 

「どうもしないよ。ほっとけば」

 

彼の声が聞こえて、私は息を吐いた。体が気怠くて、何だか虚しくなった。

 

私の抱える複雑なんか、彼らには微塵も関係がなかった。

 

「そうもいかねぇだろ?ほら、サービス精神ってやつだよ。美男美女のカップルなんて、目薬垂らすより効果てきめんだ。キリストの血よっか、目に好いはずさ」

 

意味の分からない理屈を捏ね回しながら、女は彼の喉仏を人差し指でなぞって見せた。私は今にも吐きそうだった。

 

「ぅぅ…レヴィは美女だけど僕は美男じゃないでしょ。そもそもそんなこと知らなかったよ。レヴィは物知りだなぁ…でもさ、それってレヴィはいいの?迷惑じゃない?」

 

理解不能の理屈に、何故か納得してしまった彼に、私はコンパクト越しに懇願するような視線を送っていた。それは、どっちだったんだろう。見たかったのか、見せられたかったのか。見て欲しかったのか。

 

「あん?何がだよ?」

 

「俺たち、カップルだったんだって…」

 

彼は照れ笑いを浮かべた。私は今にも飛び出して行って、女を殺してやりたかった。

 

「へへへ…いいじゃねぇかよ?アンタもさ、薄着のあたしンびびっと来てんだろーが、え?違うのか?」

 

暑いキューバ。快晴の下、デニムジャケットを脱いで、インナーの黒いタンクトップ姿の女が体を彼に押し付けた。あぁぁぁぁ!!!!

 

「違わないけど…ちょ、近いって。あ、柔らかい」

 

彼はほんの逡巡もなく女を受け入れた。コンパクトが砕けて、私の手に破片が刺さった。痛みはない。身を乗り出せる限界まで、私は自分の目で二人の実像を目に納めた。

 

「役得役得。公共の利益に貢献しようぜ?なぁ?」

 

「今日のレヴィはなんか変だけど…あ、柔らかい…うん。全然いいかも。もうなんでもいいよ」

 

私が少しでも邪魔できるように、気を引けるようにと殺気を込めた視線を送ると、すぐに気付いた女が、彼の頭を自分の胸に埋めてしまって、彼の視界から完全に私を追い出してから、私に向かって挑戦的な、酷薄で凶暴な流し目を送った。私は、立ち止まり、生唾を呑み込んだ。

 

「そう来なくっちゃな…ほら、コッチ向けよ」

 

私の期待を汲んだかのように、女は彼の顔を肩に回していた手で、片手間に腕に抱いて、指先で順に顎を撫で上げて、まるで常日頃からそうしているような、こなれていて、無駄のない動きで彼の唇を奪い取ろうとした。

 

「え、あ、ちょ…見てる見てる!」

 

しかし、唇同士が触れ合う寸前のところで、女はわざわざ体を少しひねり、彼の視界に唐突に私が侵入した。彼は私に気付くと人差し指と中指を立てて、その忌々しい唇を堰き止めた。

 

「ん?…クククク…おぉっと、危なかったぜ。あたしも抜けてんな。なぁ?」

 

私は安堵して。直ぐに、それが間違いだったのだと知った。女が見ていた。舌をチろりと出していた。舌先が、彼の首元に這う直前で引込められて、窘めるように息を吹きかけた。

 

「あう」

 

落胆し、興奮し、自己嫌悪に見舞われているうちに、二人は立ち上がった。私は一瞬の間の後に、壁の内側に引っ込んで銃に手を伸ばした。

 

「もう行くの?」

 

そんな声が聞こえて、物陰から出ると二人は遠ざかっていった。

 

「ククク…ウサギが出て来たな。悪いな、今日はもう店じまいなんだ」

 

私が呆然としていると、彼は女に手を引かれてその場を立ち去ってしまった。女が一瞬振り返り、何かを言ったような気がした。でも、私は彼が振り返るのではないかと期待して、その背中を見るので手一杯だった。彼は振り返らなかった。

 

私は、一体何を見せつけられたのだろう。なんて滑稽で、諧謔で、淫靡で、残酷なんだろう。生と性が、私の目の前に怠惰に横たわっている。まざまざと見せつけて、あの二人は私の歩みを止めたのだ。私の、これまで維持してきた熱狂に、実に悪辣で、効果的な手段で冷や水を浴びせかけたのだ。

 

女は、結局。私の前で彼の唇を奪わなかった。舌も、その肌に触れることはなくって。私は、彼らが去ってから、盗聴器の始末の為にベンチの下に手を入れて、そこで初めて全て女の手の平の上だったと気が付いた。乱暴な筆跡で書き殴られたメモが、挟まっていたからだ。私は、とっさにメモ用紙の匂いを嗅いだ。

 

バカな事をしたと思う。でも、私はほんの少しだけ、期待せずにはいられなかった。そこに、私の手の内にあるこのメモが、あの二人の情事のあとで書かれたものではないかと。

 

メモからはほんのりと汗の匂いがして、私はベンチに腰を落とした。鼻先を拭うような仕草で、メモ紙を揺らした。香水を振りまくような、そんな優雅な心地だった。目だけが虚ろだった。あぁ、私はどうかしている。けれど、私の頭の中には、彼の姿が巨大なホログラムのように浮かび上がり、巨人のように鷹揚に私を見守ってくれるような気がした。父親にも感じたことのなかった、もっと身近で、人に見せられない恥ずかしいような、見せたくて、でも出来なくてもどかしい様な感情だった。心の中が千々に乱れ、女の表情が、彼の表情が交わったり、重なったり、離れたりした。私は二人の間に挟まれて、彼らのほんの日常の一幕に言い知れない興奮と敗北感を覚えていた。そして、自分が怖くなるくらいに、優しい気持ちも。何か…そうだ、核廃棄物の燃料棒でも拾ってしまったような気分だ。私を滅茶苦茶に砕いて、引き裂いて、造り直してしまうような。拾ってはならない何かを、私はまんまと拾わされたのだ。

 

頭を振って、メモの文字を追った。まるで宮殿の装飾のように感じていたそれは、むしろそれ自体が宮殿のような内容だった。メモには、彼が昼食に立ち寄るレストランの名前が書いてあった。私はメモを燃やして、走って隠れ家に戻った。戻る途中で服屋に立ち寄って、経費を切って清楚なワンピースを買った。ついでに化粧品を手に入れて、その日は報告書も書かずに寝た。

 

私は何かに、期待しているとでもいうのだろうか。これまでの、これまで自分が殺してきた彼らと、目のまえの二人のどこが違うというのか。彼らはダメで、彼らはイイなんて、そんなことが許されるのか?

 

私の思考は堂々巡りに陥り、最終的に、彼が昼食をとるレストランでの相席に踏み切った。今日、この場で見極めるのだと。わざわざめかしこんでまで。薄い化粧を顔にのせ、慣れない手つきで紅を引いた。恐る恐る声を掛けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこから先の記憶はない。気が付けば、泣きながらベッドの上で一心不乱に自分を慰めていた。思い出すのは彼の、私の肩に触れた彼の手の感触だった。

 

薄い、あっさりとした手の平の感触。ぽんっという擬音がつくような。軽くて、素っ気なくて、でも、優しかった。確かに温かくて、ワンピースの薄い布越しに、私は石を溶かしてしまうほどに熱くなった。勘定も済まさずに店を出ても何も言われなかったのは、店主が気を利かせたのか、はたまた彼が私の分も払ってしまったのか。恐らく後者だ。お願いだから、後者であってほしかった。少しでも、勘違いのような、誤差のようなものでもよかった。なんでもよかった。優しかった。その優しさが、もう、ダメだった。

 

私は意識を失うまで、汗みずくになって、指を噛んで、喉を鳴らして、涙を流して。生まれて初めて自分を愛した。愛でれば愛でるほどに、彼のことだけが思い起こされて、その姿を薄めるように、奪うように女の顔が浮かんだ。淫靡で、余裕があって、自信に満ち溢れていた顔。自分が、彼に愛されているという自覚がある顔だ。その顔だけで、私は壊れて、崩れて、暴れずにはいられなかった。隠れ家の壁に穴が空いて、家具が粉々になった。ベッドだけが残って、頭の中は空っぽだった。

 

彼の顔が思い出せなくて、女の顔が鮮明で。彼の手の平を探して。あの温もりが欲しくて。私は狂ったように笑った。一時間も共に過ごさなくて、真正面から顔もまともに見れなかったのが、今頃になって思い出された。彼は何かを話しかけてくれたけれど、私は黙って黒々としたコーヒーのカップの淵を見つめてた。コーヒーに移る自分の顔も、怪訝な貴方の顔も見れなかった。自分が壊れるのが怖くて。これまでの自分が、貴方を傷つけるのが怖くて。嫌われたくなかった。俯いていると視線を感じて、だから俯き続けた。彼の視線が心地よくて、私は息をするのも忘れていた。心臓がうるさくて、貴方の声も届かなかった。貴方の声が心地よくて、言葉の意味も分からなかった。音色のように、完璧な旋律のように。染み込んでばかりで、あまりにも私の体に染み込んでしまうのが早すぎて、私は手で掬い取ることもできなくて。だから答えることも、反応することもできなかった。

 

あの時間を思い出して、ようやく思い出せるようにまでなったのだと気が付いて、初めて自分が一人きりだと気が付いた。

 

落ち着いていた。私の心は凪いでいて、不思議なことに何も怖くないような、全能感が湧いて来た。そうだ、と思った。彼を手に入れよう。

 

私は報告書を書き上げて、誘拐するまでもなく説得に成功し、有力な協力者を獲得したと結論付けた。そんな事実はなかったが、ないなら作ればいいと思った。女を人質に獲ってでも、私は彼が欲しかった。なんでもいい。もうなんでもいい。彼が欲しい。私を、見ろ。それだけ。それだけ。思考も、行動も、シンプルになった。私は確かに、自分の為に彼が欲しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二人は、驚くほどに協力的で、FARCに疑念を抱かせるまでもなく、敵地なのに緊張感も気負いも感じていないようだった。女…レヴィの方が警戒心を張り詰めさせていたのは知っていたけれど、彼はいつも通り。呑気で、寡黙で、穏やかだった。

 

私は、彼の声を声として、言葉を言葉として理解するのに長い時間がかかった。監視と護衛を名目に一緒に暮らすようになり、私は直ぐに貧血になった。独りになった途端に、私は鼻血が止まらなくなってしまったのだ。理由は明白で、脳みそが焼き切れるほどの幸福に毎日毎日、浸っていたからだった。彼は優しくて、淡々としていた。少しも、ほんの少しでも私の経歴や任務に対して、快も不快も示さない。そんなことは初めてで、私は自分に興味を抱かれていないことに深い絶望を抱いた。だが、それは私の勘違いだった。私が彼の人間性を、その本性をうかがい知れるようになったのは、ようやく会話が成立するようになってからだった。

 

「今の、もっかいやってよ」

 

彼は、初めから私に興味を示してくれていたのだ。そう教えてくれたのは意外にもレヴィだった。彼女は私に対して、時折、彼の取扱説明書の一節を漏らした。彼女によれば、彼は自分に出来ないことが出来る人を素直に好んでいるらしい。表情の変化が乏しいが、それは子供のころからそうであったと彼は語り、その証拠にご機嫌な時は、もう一回を強請ってくれる。私は手慰みのバタフライナイフを披露し、そのもう一回を強請られた。

 

彼は無関心ではなく、善悪の判断が頗る鈍いのだ。私も一年近く共に過ごせば理解できるようになった。そして、そんな人間は知る限り、これまでに誰一人として見たことも聞いたこともなかった。彼はサイコパスではなく、精神異常者でもない。理性があり、論理も理解していて、良心もあった。ただ、人よりも少しだけ考えすぎるだけなのだという。レヴィの言葉をうのみには出来なかったけれど、私は光明を、分厚い雲の隙間からか細い光が私に降り注いだような気がした。私は、その光を追う。この光に次はないと確信したからだ。

 

私は懇願した。自分でも、何を言っているのか理解できないことを。私は、私の革命の理解者として彼を欲したらしい。あぁ、何と言うことだろう。私は、ここまで来て、腰を抜かしたのだ。言葉を選んでしまった。自分を、高く見積もり、丁寧におめかしをしてから、彼の前に身を晒した。この姿が本当の姿です、と。嘘偽りなどないのだと、虚飾を誇りながら宣った。レヴィは舌打ちし、見下げ果てたような目で私を見ただろう。だが、それは私に向かうものではなかった。自己嫌悪、なのだろう。彼女は、醜い私に、醜かった自分を見て、醜い今の自分を見たのかもしれない。それが辛くて、悔しくて、けれど変える気も、変えられる気も起きなかったから、そんなものを端から見せるなと、気分を害したのかもしれない。私だったら、恥ずかしくて目をそむけただろう。彼女は、少なくとも革命という毛布で身を包んで、これを裸ですと悪びれもせずに、平然とした調子で言い張った私よりも勇気があり、恥を知っていた。私は自分に失望しかけたが、私の足元が崩れ去るよりも早く、貴方が私を拾ってしまった。

 

「飽きるまで、満足するまで好きにしなよ」

 

貴方はそう言って、まるで何でもないような動きで、私にその全財産が詰まったバッグを押し付けた。

 

「足りるんじゃない?知らんけど」

 

私が弁明するより先に、レヴィが貴方を食卓に誘ってしまった。あぁ、これではもう話は聴いてもらえないな。腹ペコの彼にとって、今何よりも大切なことは夕食だった。レヴィも同じようで…いや、私に、今の私は二人が執着するほどの存在でもないようだ。確かにそうだろう。今の私は、彼に言わせれば「面倒臭い女」だ。そして同時に、お金よりも価値がある女ではあるらしい。彼にとって、お金の価値がどれほどのものだったのか、私には知る由もなくて、でも私よりも下に何かがあって、その何かよりも少しでも、ほんの少しでも上に立てていることが、私には無性にありがたかった。浅ましく安堵して、自分の価値が気になった。貴方にとって、私はどれだけのものなんですか。貴方は、私に価値を付けてくれるのですか、と。私はたどたどしく言葉にした。彼は答えた。

 

「それはご飯よりも大事なことなの?」

 

私は面食らった。そして頷こうとして、彼に制された。彼は口の中のものが無くなるまで黙って咀嚼して、それからグラスに入った炭酸飲料で流し込んでから私に向かって言った。

 

「聞きたいなら明日教えるよ。それよりご飯が冷めちゃうよ。何時だって最後の晩餐なんだから」

 

レヴィはにやにやと、実に楽しそうだった。椅子に深く腰掛けて股を惜しげもなく開くと、片足をたたんで、フォークを揺らしながら片方の肘を突いて体重を傾けて、リスのように片頬だけ膨らませて、緩慢に顎が動いていた。お行儀が悪いのが、妙に様になっていて、色気を生み出していた。意地の悪い半目が私を観察していた。

 

私には食べ物を味わう余裕が無かった。彼から与えられる価値が、如何ほどの物なのか、期待と不安で圧し潰されそうだったからだ。咀嚼して、呑み込むだけ。機械的な動きを続ける私に、レヴィは不躾な視線を送り続けた。その視線を避けることは簡単だったが、避けてしまえば自分を見透かされていることが怖くて逃げたと後ろ指を刺される様な気がして、逃げることが出来なかった。私はまだ、目に見えない大きくて強いものを手放すことが出来なかった。この安全な場所から、彼と対等な人間として見られたかったのかな。それは傲慢で、強がりで、切実な叫びだった。

 

その日は眠れなくて、だから朝、散歩に連れ出された時は何時ものような警戒心が薄れていた。端的に言うと油断していたのだ。

 

私は、盛大に泥濘に躓いた。何時もならあり得ないことだ。でも、事実起こった。私の全身は泥だらけに汚れて、何が漂っているのかも分からない酷い匂いの汚泥だった。不潔で、決して心地よいものではなかった。洗い流せばいいだけの、何の価値もないものだ。私は立ち上がろうとして、立ち上がれなかった。彼が私の転んだ泥濘に勢いよく突っ込んだのだ。何の躊躇もなく、寧ろ楽しそうに、犬が泥遊びをするように彼は全身を泥だらけにしてしまった。一目で高価だとわかる革靴も、背広も、腕時計も、朝から丹念にレヴィが洗って櫛でといていた髪も、ハチャメチャに泥だらけになっていた。

 

私は彼が可笑しくなったのだと思って、強い口調で問い詰めた。彼は私の詰問に耐えられず、顔を涙でべしゃべしゃにしながら言った。

 

「泥だらけのロザに、触るのが嫌だったんだよぉ…」

 

い、意味が分からなかった。だが、少し考えてレヴィの言葉を思い出した。彼は、しばしば過程をすっ飛ばして脈絡もなく結論を告げてしまうのだ。欲求が論理の一歩先手を打つ、彼らしい特性とも言えた。だが、そうなるとますますわからなかった。

 

私は自惚れを自覚しながら、彼が私に抱き着きたかったのだと仮定した。そうすると、私に抱き着くために私だけを汚しておくわけにはいかないと、泥沼に飛び込んだのにも納得できそうだった。

 

だが、そうなると彼の導いた結論と齟齬が生まれた。彼は、抱き着きたかったのではなくて、汚れた私に触りたくなかったのだ。では…と、頭を悩ませていると、昨日の彼の言葉を思い出した。今日、彼は私の今の価値を教えてくれると言っていた。では、もしも彼が私に私の価値を教えるためにこんな行動をとったとして、さっきの彼の言葉を思い出せば…。

 

私は、唖然とした。

 

つまり、だ。彼はこう言いたかったのだ。綺麗な背広を着ているので、汚れた私には触りたくなかった。でも、それでも私に触れたかったから、綺麗な背広を汚すことにした。そしたら恐ろしい剣幕で怒鳴られて号泣してしまった…と、いうことだろうか。

 

私は、意地悪なことを聞いた。

 

「貴方にとって、汚い私は綺麗な背広よりも大事なものですか?」

 

貴方は即答した。

 

「綺"麗な"背"広"のほうが大事に決"ま"っでる"じゃんかぁ"ぁ"ぁ"ぁ"!」

 

貴方はそう言って、プライドも外聞も感じさせない大号泣を始めてしまった。私の泥だらけの戦闘服を掴んで、私の胸に顔を突っ込んでしまった。熱い息が、涙の滲みが。私には心地よかった。温かくて、優しくて。どうして、どうしてそこまで、惨めで卑屈で自尊心に乏しくて…あぁ、なんて可愛いの。私は気が付けば彼を抱きしめたまま、ぼうっと流れる雲を眺めていた。悪臭を放つ泥を落としたのは、私たちを遠目に見守っていたレヴィが駆け付けてからだった。痩せっぽちの彼を横抱きにして運ぶレヴィは、実に様になっていて、彼もまたレヴィに完全に委ねていた。

 

私はぼんやりと考えていた。汚い私よりも、彼にとっては綺麗な背広の方が大事だった。けれど私に触れることのほうが、綺麗な背広を汚すことよりもずっとずっと大事だったらしい。汚れた私に触れたいがために、一緒に汚れるというのが、彼がその不器用なりに伝えようとしたことだった。私は、怒鳴ってしまったことを、今更になって後悔した。そして、胸が張り裂けるくらいに痛かった。心地よい痛みは、耳鳴りと頭痛まで運んで来た。

 

私にとって、FARCも革命も。それらは本当に、彼が汚した綺麗な背広よりも価値がある物だろうか。泥だらけの私の為に、彼らは泥を喜んで被るのだろうか。私は、その答えを導き出すことを躊躇い、結局その場ではうやむやにしてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私たちは、三人で二年近くの時を過ごした。コロンビアでの二年間は、私の人生を根本的に変えてしまった。私の人生には新たな道が用意され、その道の先には、終着には言うまでもなく彼が立っていた。ぽつねんと、一人所在なさげにして。周囲をきょろきょろと見回して、私を見つけて嬉しそうな顔をする。安堵の表情を浮かべて、そわそわと私の到着を待ってくれていた。私はそんな彼のことが可愛くて可愛くて、食べてしまいたかった。骨の一つも残さずに、私は彼の全てを平らげてしまいたかった。こんな獣に眼をつけられて、本当にお気の毒様。でももう遅いから諦めて頂戴。優しくしてあげる。気持ちよくしてあげる。もう私以外、いらないと思えるくらいに満たしてあげる。そう、思っては、最後の最後で忠実な小型犬に、彼の寵愛を横取りされた。この二年間ずっとだ。レヴィは私の情念を実に巧みに堰き止めた。雲散霧消させた。先延ばしに次ぐ先延ばしで、私の理性はぐつぐつ煮立っていた。

 

もう、二年が経つ頃になると、私の中に棲んでいたのは、すっかり懐いてしまった狂暴な猟犬と、そんな犬を睨みつけるお高く留まった人間の私だけだった。そんな、小奇麗でお行儀の良い私も、その内心は野犬と同じ魂胆で、彼を食い散らかすことしか考えていなかったのだ。構って欲しくて仕方がない。堪え性のない色狂いの犬同士の共食いだった。私の頭の中は、日に日に私に心を赦し、私に身を預けるようになっていくいじらしい彼のことだけで一杯だった。

 

この二年で、フローレンシアは私にとっての理想郷に近づいていた。彼は私に頭を使えと言った。革命って何なのって。革命で何がしたかったのって。私が何をしたいのか。その為に何が必要なのか。私は、そこで初めて、自分が、自分と言う人間が戦士でも革命家でもなく、本当に飼い犬に過ぎなかったことを理解した。考えたこともなかったからだ。何をしたいとか、全てが終わって何が残るのか、何を遺したいのか…なんて。

 

だから、私は考えた。私は考え、彼に全てを伝えた。そして彼は私に全てを惜しみなく与えてくれた。惜しみなく注いでくれた。躊躇もなく。ただただ、そうしたいからと言う理由だけで。貴方は一つも、誤魔化すということを知らなくて。

 

「ロザリタが欲しいから」

 

貴方はそう言って、だから何でもあげる、と言った。私は、自分が分水嶺に立っていることを、ようやく自覚したのだ。

 

もうずいぶんと、その然るべきときは過ぎてしまっていて、だからレヴィはもうすっかり私に呆れていた。それでも表情にも出さないのは、彼が私を誰にも譲りたくないから。きっと、私が彼に応えなければ、彼は黙って去るでしょう。それでもいいよ。そう言うように。貴方は泣いてくれるかも。欲しくて仕方が無かった私を手に入れられなかったと。でも、きっとレヴィはそんな貴方を上手に慰めるの。そうして貴方を短い間だけでも独占できる僥倖をくれた、バカで間抜けな私に感謝を捧げるのでしょう。

 

フフフ…冗談じゃなかった。私は、今、何も遺さないようにしているのだ。準備をしているのだ。彼と共に生きるための。彼と共に死ぬための。

 

私は、今度こそ自分に嘘を吐きたくない。私は私を騙さない。誤魔化さない。もう、誰にも憚らない。私が欲しいものは目の前にあり、彼は私に全てを置いて行けという。だから私は喜んで、今度こそすべてを投げ捨ててしまおう。

 

私は自分を試し続けた。決して、そこに嘘が混じらないように。彼に愛してもらえるように。少しでも、私が憎んだ私を、汚れて穢れた私のことを、貴方の前に引きずり出せるように。この醜くて、卑怯で、狂暴で、愚かな雌犬を、貴方に一片も隠さずに差し出せるように。貴方が私を選べるように。私が貴方を選べるように。心から。心から。

 

私はフローレンシアに遺す事業を選定し、その全ての経営権を彼から譲られた。彼は喜んで私に数十億ドル規模の事業を手渡した。本当に、感嘆するほど執着が無い。だから、それとは比較にならない程強く独善的な執着を彼に抱かれていることに、この私が彼から求められていることに、言語に尽くせぬ理不尽な陶酔と優越感が溢れだして止まらない。感じれば感じるほどに、それは麻薬のようで。二度と手に入らなければ、それはもう死ぬことでしか救われることが無い苦痛なの。彼に赦されるか、或いは死か。私にはプライドも、外聞も、誇りも、もう何も残っていなかった。私が自らの手で、それらを二年と言う月日をかけて殺したからだ。追い出したからだ。彼とレヴィとの生活が、私の背中を押し、引き金を引く勇気を与えられ、足蹴にする快楽を教え込まれたのだ。

 

私はFARCを脱営する日取りを決めると、一時的に『猟犬』の皮を被った。従順で狂暴で…邪魔者を消すのにうってつけの駒を演じた。

 

そして、案の定上級司令部から発令された、彼とレヴィを始末するための任務に志願し、寸前まで部隊と行動を共にした。私は最後だと思った。余りにも彼らが哀れに思えて、だから励ました。大丈夫。心配することはない、と。なぜならフローレンシアの猟犬が、お前たちの後ろにはついているのだと。

 

私の言葉に彼らは奮い立った。そして時を同じくして、散々煮え湯を飲まされたキューバの地元勢力やFARCからの要請に応えた軍の任務部隊、また利権に擦り寄るカルテルの連中による混成部隊が配置され、最早鼠の一匹も逃げ出せない状況だった。誰も彼とレヴィを助けにはいかない。フローレンシアの住人で彼の世話にならなかった人間は誰一人としていないにもかかわらず。彼らは襲撃を知らせることも、匿うことも、逃げるのに手を貸すことを申し出ることもなかった。

 

私は、とても、とてもそのことが嬉しかった。あぁ、私が信じていたことは間違っていたんだ。私が信じたい貴方が、やっぱり正しかったんだって。これは賭けじゃなくて選択。私は正しい選択をした。正しい選択と言うのは、私が死んでもいいから自分でそうしたいと心の底から思えること。やらなかったら死んでも死にきれない後悔を背負うようなこと。そこにはイデオロギーも思想もないの。正義も悪もないの。私が好きか嫌いかだけなのよ。

 

ここまでやって、ここまで尽くして、ここまで変えても。それでも私は、私の大切なものがまんまと飢えた野獣の群れの中に取り残されたのを目の当たりにした。だというのに貴方は何処までも無垢だった。彼らを恨むことも、頼ることもしなくて、できなくて。いつも通りに生きていた。穏やかに、静かに、私と一緒にいられることが嬉しい、楽しいと言ってくれて。そのことが私の心を引き裂いた。

 

誰にも助けて貰えず、誰にも声掛けすらされず、彼とレヴィは完全に他人扱いだった。もう数日もすれば二度と顔を見ることも、会うことも無いだろうから。彼らは自分の命と、心の平穏を選んだ。私は嬉しかった。ようやくだ。ようやく私は彼の物。彼は私の物。そして、私は少しの躊躇もなく、自分の全てを貴方につぎ込める。守るべきものは貴方だけになり、貴方に私の心を守ってもらえる。間違いを正して、罰を与えて、優しく赦して。もう何にも、縛られずに生きていけるの。

 

私はね、貴方にだって縛られる必要がないの。だって、他ならぬ貴方が全てを私に与えてしまったから。何時でも旅立ってしまえるのよ?何時だって貴方のもとから飛び立ってしまえるのよ?私が飛び立てば、貴方は泣いてくれるのね。でもきっと、レヴィは私を追いもしない。貴方は泣いてスッキリすれば、またすぐにレヴィと一緒に前を向いてしまうわ。そして、またどこかで出逢った時に、過去も不義理も気にせずに、「君が欲しい」と私に言うの。私は、喉を掻き切って死んでしまうでしょうね。悲しくて。悔しくて。自分のことが許せなくて。貴方のことが愛おしくて。貴方のことを愛して愛して、その最後の最後で自分に嘘を吐いた自分を生かしておけなくて。私はまだ死にたくないの。貴方と一緒にいたいの。

 

お金はあるのだ。彼がくれた。どこへとでも行ける。私は、選びさえすればどこへなりとも行ける。この地獄を抜け出して、フローレンシアの恥知らずな住人から搾取すれば延々と金が入ってくるのだから。どこへでも。スイスにでも行けば、死ぬまで平穏に暮らして行けるだろう。彼とレヴィを見捨てて。目の前で彼が食い散らかされるのもみずに済む。私の心も穏やかだ。

 

でも、嫌。嫌なの。他の全員を殺しても、私は屁とも思わない。だって貴方が私に、貴方のことだけを考えていて欲しいって、そう望んでくれたから。余計なことなんて考えずに、脇目も振らずに自分の為だけに生きろって。高尚な理由なんて必要なくて、ただ、貴方が私を欲しがって。私も貴方を欲しがって。他の全てから嫌われることよりも、貴方に嫌われることが辛いの。嫌なの。世界を敵に回すよりも、貴方を敵に回す方が恐ろしいの。だって貴方は私のことを傷つけてさえくれなくなるから。罰を与えて、痛めつけて。それすらしてくれないということは、貴方に、貴方にすら赦してもらえなくなるということだもの。私のことを、この世で唯一赦せる貴方を失うの。汚い弱い狂暴な私を愛してくれる唯一の人を失うの。悲しいの。貴方に忘れられることの方が、貴方以外の全員に忘れられるよりも自分の価値を信じられなくなるの。生まれてきた意味を考えられなくなるの。良心もいらない。誇りもいらない。名誉もいらない。栄光もいらない。英雄にも成りたくない。貴方の犬にして。勝手に暴れて回るから。貴方を困らせて沢山褒めて貰うのよ。貴方のことが大好きな、賢い賢い狼になるの。貴方が好きなことをして、貴方が嫌いなことは死んでもしないわ。

 

他のどんなことでも私の心はもう動かないけど、貴方が傷つくことも、貴方から離れることも、貴方を見捨てることなんて…もってのほかで、嫌なの。心がしくしくするの。

 

だから、貴方のもとに走った。そこでも貴方はいつも通り。

 

「何がいるの?何が欲しいの?」

 

それから今回はこうも

 

「なんとかして」

 

困った顔で、まるで家の雨漏りを直してと頼むみたいな。可愛くて可愛くて食べちゃいたい。

 

私はレヴィと一緒に買い付けに向かい、私はまんまと友軍の振りをして待機中のFARC部隊から武器を巻き上げた。それを二度三度と繰り返してから、宿舎に戻って準備を整えて、貴方を安全な地下に隠してからレヴィと少しだけ話した。思えば、ちゃんと話したのはこの時が初めてだった。

 

 

 

 

 

 

「よぉ、ようやくマシなツラになったじゃねえか」

 

「貴女は、どうして私にメモを遺したの?」

 

咥え煙草をしながら、愛銃の手入れをしていたレヴィに向かって私は問うた。

 

「どうしてだと思う?」

 

レヴィは口元の笑みを深めて、不敵に私に聞き返した。

 

「私に、何かを感じ取ったの?」

 

私の言葉にレヴィは鼻で笑った。口の端が上がって気分よさげだった。

 

「へッ!これだからインテリはダメなんだよ」

 

「じゃあ、何だったの?どうして私だったの?どうしてあんなふうに、見せつけたの?」

 

レヴィは煙を吐いてから、煙草を潰して立ち上がった。両脇のホルスターに銃を突っ込んだ彼女は、私の顔を見上げるように覗き込んで言った。

 

「イイ機会だ。教えといてやるよ」

 

そう言って、レヴィは親指で背後を指した。地下室に続く扉の奥で、彼は鞄を抱えてちょこんと座っている。

 

「ボスの女の好みはな。タッパがあって、乳と尻のデカい、ツラの好くて、目つきが死ぬほど悪い、頭と腕のイイ女なんだよ」

 

「わかったか?二度は言わねぇから覚えとけ」

 

レヴィはそう言うと自分の持ち場に向かってしまった。しばらくしたら敵の攻撃が始まるだろう。

 

にしても、なるほど…そうか。そうだったのか。

 

そうだったのだ。それは運命でもなんでもなくて、でも確かに選別と優劣の基準があって。そのルールは呆れるくらいに単純で、くだらなかった。

 

「うふふふ…なぁんだ、私の独り相撲だったんだわ。貴方に心奪われた瞬間から、私の負け、貴方の勝ちだったのね」

 

負けたからには腹を見せなければならないだろう。私は少しも悔しくなくて、純粋に選ばれたことが嬉しかった。猟犬としての私でもなんでもなくって、ただ人間としての私があの人のタイプだったから選ばれた。あの人は、最初から私が犬だろうとそれ以外の獣だろうとちっとも気にもしていなくて、私のことだけを、不躾なくらいに見つめてきてたのね。知らなかった。知らないままなら、きっとずっと勘違いしていただろう。私は自分の強さを自分の価値の勘定に入れてしまって、それが私と言う人間に偶然ついてきたオマケだったことを見誤っていただろう。

 

汚くても。強くても。彼にとっては些事だった。確かに、目つきの悪さも、カラダの肉付きも、顔の造形も、私の経歴がどれだけ汚れようが変わらない唯一の価値だったのかもしれない。毎日鏡で見ていたはずの自分の顔が、カラダが、目つきが…今はこんなにも愛おしかった。貴方に愛される為にあるのだと。貴方に愛される形を色を熱を帯びているのだと。私と言う人間の全てが終わり、全てが始まる今この時に知れたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

殺人機械として完成された私には、焦りも、恐れも、慈悲も、侮りも存在しなかった。人を殺すことが、これほどに単調だと感じたこともなかった。私は自分が人殺しであることを悪いとも正しいとも思わない。都合が悪い者は殺す。都合が好いので生かしておく。それだけである。彼にとって、快不快のいずれかを与える存在であるという事実が重要なのであり、私にとってそれ以外はすべてが些事だ。イデオロギーも、思想も関係が無い。国家も組織も関係ない。彼が好きなのか、好きじゃないのか。それだけが唯一絶対の判断基準なのだ。私は、生まれて初めて自分の殺しに誇りを持てた。自分の存在が、ようやく世界に受け入れられたと感じた。だってこんなにも嬉しい。楽しい。自信を持てる。一人殺すごとに。一人殺すごとに。私の中で彼への愛が狂おしいほどに膨らんでいく。気持ちがいい。気持ちが好くて仕方が無かった。殺しの感覚が気持ち好いんじゃない。私は彼に愛される自分のことが堪らなく好きで。汚くて、醜くて、卑怯な自分も、美しく、気高く、強い自分のことも、全ての自分を愛されていることが嬉しくて堪らない。

 

だから、こうして彼に敵対的で、邪魔になる様な、私の大切な彼を殺そうと、傷つけようとする奴らが憎くて仕方ない。だから殺す。不愉快だから殺す。それはとても汚くて醜いことで。私は自分が血と泥に汚れて行くのを感じている。でも、彼が愛してくれるのだ。もっともっと愛される為に、私はもっともっと殺したい。もっと汚れれば、彼が汚れた自分を愛してくれるから。綺麗な私ばかりを愛されると、汚い私がやきもちを焼いてしまうから。だから、私の汚れを気づいて!穢れた私をもっと見て!愛して!

 

私はお化粧をする様な感覚になった。どんどん、私と言う存在が彼に愛される何かに変わっていく。彼の好みはそこには関係が無くて。彼が汚い私を愛してくれることに胡坐をかいて、縋りついて、不安を否定してダメな私を肯定して欲しくて。欲しくて欲しくて仕方がないから。だから、貴方に構ってもらえるように。貴方があの日、綺麗な背広を泥だらけにしてくれたように。貴方に私と一緒に汚れて欲しいの。穢れて、汚れて、醜くなって。そんな貴方だから、私は心置きなく媚びて尻尾を振って服従して屈服して…。

 

私は内心の興奮をおくびにも出さずに、ただただ淡々と、流れ作業のように敵を殺し続けた。ときどき心配になって彼の方を見たけれど、レヴィも人殺しに躊躇なんてなかったみたい。迷惑で不愉快な蝿を叩き落とすみたいに、ライフルと拳銃で宿舎に近づく敵を確実に仕留めていた。若さに目が曇りがちだけど、身体能力も精神強度も並じゃなかったようで安心した。流石は彼が一番傍に置く女、とでも言えばいいのかしら。

 

危なげなく戦い。一方的に殺し続けた。私は自分が死ぬかもしれないとも生き残りたいとも思わなかった。彼の死生観は淡白だ。死ぬときは死ぬ。そうじゃない時は死なない。ただそれだけ。私は彼に首を垂れるにあたり、彼のその死生観に深い感銘を受けた。

 

そうだ、鉄火場での、戦場という地獄での理なのだ。彼は死んでいないだけ。誰も彼もそうなのだ。生き残るというのは不適当なのだ。誰もが死に損ないなのだ。死ぬ時まで、生きているだけ。いつ来るかなど分からない。今かもしれないし十年先かもしれない。彼は心底そう考えて、だからどんなときも落ち着いていられる。淡々と、淡々と。

 

私は身を晒すことに恐れを抱かない。常に動き続けていればいい。私にはそれが出来るのだから。

 

私たちは日が暮れるまで敵を殺し続けた。武器が底を尽けば、奪って戦った。私も、レヴィも死なず、彼は途中から飽きて眠ってしまった。戦場のど真ん中で鞄を抱いて目を閉じてしまった時は驚いたけれど、寝息も聞こえない環境なのに、すぐそこで彼が寝ているような、寝息が聞こえてくるようだった。

 

日が暮れて、宿舎の周りの森を焼いた。徹底的に敵を炙り出し、カルテルの人間も軍の人間も一緒くたにして火に投げ込んだ。燃えて死んでいく敵を見て、私は何も感じなかった。ただ、臭いと感じていた。私服に匂いが付くのが嫌だったので、彼を背負って空港に向かい、少し手前の空き地で軍服を脱ぎ焼き捨てた。空港に向かって、シャワーを浴びる暇もなかったけれど、何とか無事にコロンビアを出ることが出来た。

 

寝起きの彼は、事の顛末を聞いてこう言った。

 

「へー」

 

「お疲れ様。疲れたでしょ?たくさん殺してくれてありがとうね。レヴィもロザリタも。僕にはできないことだから。凄く助かったよ」

 

「いやぁ…悪いね。大変だったでしょ、あんなに人数が多いんだもんなぁ…」

 

貴方はしみじみと語ると、最後に「二人とも凄く臭いよ」と言うや私とレヴィに抱き着いた。撫で回して、顔を埋めて、鼻を鳴らした。臭い臭いと言いながら。ばっちいばっちいと言いながら。手は止めなかった。大事そうに頬を擦り寄せられ、蕩けるように優しい力で触れられた。

 

「空港つくまで寝るよ。おやすみなさい」

 

貴方はそういって再び眠りについた。私たち三人は血と泥と汗とでぐちゃぐちゃだった。酷い匂いがした。

 

私の可愛い彼は、おろしたての綺麗な背広をまたしても私と触れ合いたくて汚した。故郷も、古巣も、これまでの経歴も誇りも。この穢れほどに価値があるとは思えない。

 

私は彼の寝顔を見つめていたが、ふと後ろの席から視線を感じた。振り返ると案の定レヴィで、彼女は悪い顔をして歯を剥いた。

 

「ちゅーしちゃえよ」

 

私は眠る貴方を見た。涎を垂らして半開きの口に目が釘付けになった。

 

「ほれ、ほれ、どうなんだ?やるのか?やらないのか?」

 

レヴィが器用に小声で囃し立てた。ニヤニヤと意地悪な目をしていた。あの時の目と同じだ!

 

「い、いいの…?ほんとうに、いいの?」

 

「つべこべ言わずにヤッちまえよ」

 

「どうしてそんなに落ち着いてるの?」

 

「スればわかる、ヤんなきゃ一生わかんないぜ」

 

ええいままよ。私は息を手に当てて確認してから、そっと貴方の唇を奪った。

 

恐る恐る唇を重ねると…。

 

「ーーーーーし、舌がッ!?」

 

「ウシャシャシャシャッ!やっぱり引っ掛かかりやがった!ほら見ろ、シなきゃわかんねえこともあんだろ?」

 

私はしばらく無言でシた。眠ってる人間がここまで器用に舌を動かせることにも驚きましたが、それ以上にレヴィがこのことを既知の知識として知っていたということが問題です。再現性に確信が持てるということは、つまりこの子、私よりも若いくせに既に彼相手に幾度となく…。

 

舌を抜き取った時には、私の舌は完全に脱力しておりました。力が入らなくて、だらりと垂れてしまうほどでした。ぬるりとした、貴方のベロと唇が、子猫が乳を食む様に物欲しげに私のそれに縋って来るのを見せられて、私は涙を呑んで顔を離しました。

 

私は口元を念入りに服の袖で拭ってから、ご機嫌なレヴィに向き直りました。

 

「あの…」

 

「なんだよ?随分熱心だったじゃねえか。美味かったろ?礼ならいらねえよ。あとでボスからせしめるさ」

 

手をひらひらさせてロシアの観光案内を熱心に読み込んでいるレヴィとは目が合いません。しかし、これだけは聴いておかなくては…。

 

「その、自覚はあるんでしょうか…」

 

「…なんだいきなり?気持ち悪い敬語使いやがって…」

 

「…え?敬語、ですか?」

 

言われて初めて気が付きました。一人称がワタシではなくワタクシに変わっておりました。何時から変わっていたのでしょうか。自分では全く気が付きませんでした。

 

「どっちも自覚ナシ。これでいいだろ?」

 

ページをめくり、観光名所にこちらも空港で買った赤ペンでマーカーを塗ることに集中なさっているようで、私は会話を切り上げました。

 

「…は、はい…結構でございます」

 

「へッ!眠りの森の美女が王子様のキスでお目覚めってワケかよ?」

 

私のしおらしい反応に困ったのか、レヴィは私に向かってそのように言いました。貴方が、私の王子様?

 

なんて甘くて、現実離れして、不格好で、低俗で、幼稚でチープ極まる妄想でしょう。

 

「そ、そんな…王子様だなんて」

 

私は妄想の中の貴方と出会って数秒でベッドの中に潜り込んでいました。私は頭の螺子をどこかに忘れてきてしまったようです。色狂いの狂犬だなんて、この世界広しと言えども、好んで食すのは貴方ぐらいでございましょう。

 

「…ったく、ボスは罪な男だな。キチガイしか愛せない星のもとに生まれちまったのかねえ…まぁ、そっちのが好都合っちゃ好都合か…」

 

「お、王子様と言うよりは、ご主人様と言う方が…」

 

「…おい!いつまでキマッてやがんだ…たかだか一回でジャンキーぶってんじゃねえ!コロンビアは機内サービスでドラッグが提供されるわけでもねえだろうな?ヘロイン・オア・コカインってな」

 

それからしばらく私は幸せな妄想に浸り続けました。妄想の中の貴方と、現実の貴方のどちらが好いのかと問われれば、勿論後者に向かうでしょう。自分の思い通りにならない。気まぐれで、淡白で、優しくて、温かい。汚い私を選んでくれる貴方のことを。革靴と背広姿のまま、飼い犬のワガママに付き合って泥沼の中で全力で遊んでくれる素敵な狂気の飼い主様を。私もまた、自分の好みで。ただそれだけの理由で、他でもない貴方のことを選んだのです。末永く飼って下さいね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

貴方がシェンホアを望まれた時、その時に私は誓いを立てました。

 

貴方はあの日、私に言いました。

 

「殺して来い。シェンホアが欲しいから」

 

貴方はそう言って、私に自分の都合だけで人殺しをしてくるようにと言いました。

 

ただそれだけで、私には何の憂いもなく彼らの命を奪えたというのに。だというのに貴方は、私にわざわざ言いました。語り掛けました。

 

「これは、べ、別に、向こうが、悪いわけでは、そういう、アレじゃなくて、ね。そうじゃなくて、僕が、シェンホアのことを欲しいと思った、んだけれども、え、ええっと、それで、その、僕が、殺しに行くと、逆に、殺されちゃうし。だから、代わりに殺して来て」

 

「彼らにも、家族とかは居るかもしれないけど、でも、なんていうか、そう言うのはどうでもよくって、とにかく、えっと、行ってきてくれないかな?ロザが一番上手だから、僕よりも強いから、えぇっと、嫌ならそれでいいんだよね。殺し屋を雇えばいいかもだし。えっと、まぁ、ごめん、一番近くにいたから、言ってみただけ」

 

貴方は。あの時の貴方の顔は、死を覚悟した顔でした。

 

貴方は、私のことを犬だと言ってくれた。飼ってくれると。けれど、貴方にとって自分と言う存在は、自分の飼い犬よりも遥かに弱く、醜く、卑怯で、情けない、価値の劣った存在だと、そう自ら信じ込んでいるのですね。そのように考えて、疑っていないのですね。

 

私は貴方にとって、自分よりも遥かに優れた存在で。遥かに恐ろしい存在で。遥かに強い存在で。貴方はそんな私のことを愛している。でも、その愛の当然の対価として愛されることを、自分が愛されていることに対する自負が、余りにも希薄なのですね。

 

自分が愛されていいはずがないのだと。でも、どうしても相手のことが愛おしくて、欲しくて、放したくなくて、離したくなくて、傍に居て欲しくて、自分のことを考えていて欲しくて、愛して欲しくて、赦して欲しくて。欲しくて欲しくて仕方がないのですね。自分と言う存在が、相手への愛が強ければ強いほどに、より悍ましく。より醜悪で。より救いようのない存在だと感じてしまうのですね。自分のことが憎くて。弱い自分が、努力できない自分が、その理由を探す自分が、弱さに沈んでいく自分が、人に縋るしかない自分が、縋る事すら怖い自分が。貴方は憎くて憎くて仕方がないのですね。最後の矜持から、他人のことを汚い言葉で罵ったり、悪口を口にしてしまわないように、恥をさらしてしまわないようにと必死なのですね。

 

でも、その道以外に生きる方法を知らなくて、新しく知る勇気も、気力も湧いてこなくて、居心地の好い静かで暗い海底で、自分よりも強い誰かに、隣に居座ることを赦して欲しいんですよね。でも、理由もなく、実績もなく、時間の蓄積もなく、ましてや人一倍劣っている自分が、そんな特筆すべき理由もなく愛してもらうことはできないのだと。そんな自分を愛さないで欲しいんですね。貴方は脈絡もなく誰かを愛してしまうのに。相手に幸せになって欲しくて、でもその為には自分が不幸になるしかなくて。でも我が身可愛さで、温もりを手放すことが出来なくて。自分を罰することが出来なくて。だから、こうして…私に、レヴィに…自分が一方的に愛してしまった被害者たちに、せめてもの仇を、罰を自分に与えて欲しいと望んでしまうんですね。恩を無理やり売りつけて、その義理を果たさせるように自分の傍に縛り付けてしまった。自分よりも遥かに優秀で美しくて…そんな相手を愛してしまって、愛したくて、愛して欲しくて、でも、それでも自分なんかを愛して欲しくはなくて。幸せを願ってしまって。息を吸うのも辛くて、愛おしさと憎しみに狂ってしまっているのですね。助けて、欲しいんですね。自分のことが、世界で一番可愛くて、そんな自分を世界で一番憎んでいるんですね。

 

貴方は、なんて…。

 

貴方は、なんて、なんて…。

 

貴方は、なんて非道い人なんだ。

 

貴方は、なんて愛おしい人なんだ。

 

貴方は、私に自分を殺させたいわけですね。殺してくれると、そう考えているんですね。きっと、こんなことを考えているんでしょうね。痛いのかな、とか。僕が死んだら泣いてくれるかな、とか。覚えていてくれるかな、とか。その真逆のことを血を吐くほどの狂おしさで祈りながら、悪びれることも出来ないまま。貴方は私を怒らせて。私の矜持を傷つけて。私の義憤を喚起して。私に貴方を傷つけさせて。私に貴方を止めて欲しいんですね。そんなもの、私はとうの昔に捨て去ったというのに。他ならぬ貴方への愛ゆえに。私がそうしたかったから。

 

貴方が幼少期から、この世界から自分が取り除かれることだけを願って、一心に願ってきたことを、私たちは知っていますよ。貴方が何も言わなくても。貴方のことしか考えていない私たちです。貴方自身よりも、よっぽど貴方のことを知っているつもりです。こんなことも、ご存知でしたか?貴方が破滅願望の裏で、それでも希望を捨てられなくて、痛いことが嫌で、怖くて不安で悲しくて悔しくて、愛したくて愛せなくて、愛して欲しかったんですよね。愛の為だけに、生きてきたんですよね。温かくて優しい何かだけを求めて。それ以外の全てに関わらないようにしてきたんですよね。自分が何かをしてしまうと、必ず世界に迷惑をかけるからと。隅っこの方で大人しく、誰の目ざわりにもならないで、迷惑にもならないように。少しでも、少しでも自分を赦せるように、自分が生きていられるように、自分で自分が生きていたっていいんだって信じられるように。家族からの愛情が、期待が、その全てが自分の実態からは、自分の願いからはかけ離れすぎていて。

 

だから、貴方は今ここに居て、私の手の平の中に、自分の命を投げ出したんですよね。

 

あぁ、お可愛い。不安な顔。今にも泣きだしそう。喉が震えて、涙で潤んだ碧い瞳が綺麗で。体が震えて。冷や汗をこんなにかいてしまって。

 

最後の最後で、一度だけ。たった一度だけ。お願いだからこれで赦してって、そうおっしゃるんですね。

 

私の手で終わらせてくれと。世に憚るのはもう疲れてしまったんですね。誰からも恐れられて。何もしないように、誰とも関わらないようにしてきたのに。それでも私たちのことだけは、我慢できなかったんですね。貴方が勇気を振り絞って、自分の願いを裏切って、私たちを救ってくれたんですよね。掬い上げてくれたんです。貴方が。貴方だけが。私たちのことを、こんなにも愛してくれている。こんな、ならず者のことだけを考えて、心を震わせてくれている。

 

殺せるわけないじゃないですか。傷つけられるわけないじゃないですか。なんなんですか。そんなことするくらいなら死んだ方がマシなんです。

 

でも…私は何も言いません。今はまだ、何も言いません。その時が、来るのを待ちます。何時か、貴方が、貴方を赦せる時が来るまで。貴方が弱音を吐いてくれるその時まで。

 

だから…一つだけ、貴方の安心の為に誓いを立てて差し上げます。これは絶対の誓いでございます。私の全てと引き換えに、私は貴方が望まれる限り、貴方がどうしてもこの世界に居場所を見つけられなかった時。その時が来たら、私が貴方を殺して差し上げます。貴方の命を頂きます。

 

この世界を破壊し尽くしてから、私は貴方を殺します。そして、貴方の手をお借りして、私は私の命を貴方に奪っていただきます。刺し違えましょう。そうしましょう。そして、語らせるのです。語り継がせるのです。世界を滅ぼそうとした大悪人は、名もなき貴方という英雄の手によって討ち果たされたのであると。貴方が、この世界に居場所を見つけられなかった時、私の骸が貴方の居場所になります。貴方が私にしてくれたように。私は転んで汚れて泣いている貴方に抱き着いて、一緒に汚れて差し上げます。喜んでこの身を捧げます。希い、その通りにこの心を捧げます。私が、そうしたいから。私が貴方を愛しているから。貴方が世界に嫌われて、貴方が自分を憎んでも私が貴方を愛します。貴方を愛し、貴方の願いをかなえます。例え貴方が望むものが、他ならぬ貴方自身の死であったとしても。

 

ただ…どれもこれも、もしもの話です。

 

ご主人様。可愛い。可愛い。私だけのご主人様。

 

どうか、もう泣かないでください。貴方が思っているほど、私は立派な人間でも、優れた人間でもないのです。

 

私はね、貴方に褒めて貰えるなら、喜んで女子供を殺せるのです。それはもう、どれだけだって。貴方は本当に非道いお人。これだけ愛に狂っておきながら、決してご自分のことだけは愛して下さらない。だから、貴方がご自分を愛せない分だけ、貴方がご自分を憎まれる分だけ。私たちが貴方のことを愛して愛して愛して愛して…もう二度と、自分を憎んでいる暇も無いほどに愛して差し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ、ねえ、ロザ。泣いてるよ」

 

彼の今にも泣きだしそうな声で目が覚めた。深夜だった。目元を拭うと確かに濡れていた。

 

ロアナプラに住み始めて三年が経つ頃。ある晩に、私は夢を見た。長い長い夢だった。もう、何も思い出せないけれど。

 

「どうして、かしら」

 

長い長い旅路を終えたような倦怠感が体に重く伸し掛かっていた。何も着ていない。あぁ、そうだった。

 

「辛いの。どこか、痛いとか」

 

隣を見ると彼がいて、私の心臓の音を胸に耳を当てて聞いたり、お腹を優しく摩ったり、おでこ同士で熱を測ろうともちゃもちゃしていた。可愛くて、だからおでこを合わせたまま、鼻先をすり合わせて微笑んで見せた。彼を安心させるように。

 

「いいえ、いいえ、ご主人様…私は、わたしは嬉しいの」

 

にこりと微笑んで、彼の顔が日向ぼっこする猫のように和らいだ。

 

「カッコいい顔してる」

 

今にもにゃーんと聞こえてきそう。私の頬を両手で抑えて、愛おしそうに私を見つめてる。

 

「ねえ、ご主人様。可愛いご主人様」

 

「な、なに」

 

「メイド服なんて、どうかしら」

 

どぎまぎする貴方に、どうしてそんなことを言ったのだろう。

 

「え"ッ」

 

「きらい?」

 

私が尋ねると、貴方は恥じ入るようにシーツを頭から被ってしまった。

 

「別に嫌いじゃない、けど…」

 

「けど…?」

 

「小っちゃい頃、お手伝いさんがお世話してくれて、それで、五歳になるまで一人でトイレができなかったんだッ」

 

くぐもった声が聞こえてきて、最後には悲鳴のように震えてた。きっと、今の顔は真っ赤に違いない。余程のトラウマらしい。ご飯を食べるのもへたくそで、鼻も上手にかめないのはその所為なのね。でも、私たちにとっては好都合でしかない。貴方の御両親には感謝しても足りないわね。

 

「あらあら、まぁまぁ…うふふ」

 

「なッ…ね、ねぇ、どうしたのさ、いきなり。なにか、あったの?」

 

貴方がシーツの隙間から私を仰ぎ見て、そんなことを聞いた。私は温かい気持ちが落ち着いてから、ゆっくりと言葉を選んで、自分でもよく分からない何かの正体を掴もうとした。碧い瞳が月明かりを受けて、妖しい魅力を放っていた。目が、離せなかった。

 

「なんにも、ないの…そう、なんにもなかったの。ただ…なんていうのかしら…」

 

「…う、うん」

 

何と言えばいいというのか。わからなくて、探していると、ふと脳裏に何かの映像がよぎった。

 

メイド服を着て、穏やかな生活を送る自分。目の前でプルプルしている彼以外に仕える自分の姿。それは本当に穏やかな生活なの?アナタのそれは、それこそ張りぼての平穏なんじゃないの。アナタは、外から誰かが見た時に、誰から見ても穏やかに生きていると、そう言ってもらえる生活に憧れていただけではなくって?その証拠に、本当の心の平穏を、アナタは最後まで手に入れることが出来なかった。それは、理想と言う名の虚像に縋りついていたかっただけなのではなくって?

 

…あぁ、そうか。

 

 

そうだったのね。

 

わたし、自慢したかったのかも。

 

今が幸せで。心がとても、とても穏やかなの。

 

私も、わたしも、貴方も、みんなみんな狂っているの。でも、だからこそ、私は自分が殺した相手の亡霊に縛られることはなく。良心の呵責もない。

 

幸せなの。怖いくらいに、幸せ。貴方の隣にいることが。

 

今日、私は知ってしまったから。ずっとずっと、切望してきたものを手に入れてしまったから。貴方に抱かれて。初めて抱かれて。

 

永遠に満たされてしまった。永遠に満たされなくなってしまった。

 

私は足ることを知った。貴方さえいれば、私の世界は完結してしまうのだと。貴方に愛されるだけで、他には何もいらなかった。

 

私は二度と満足できなくなってしまったの。貴方がいなければ。貴方に愛されていなければ。貴方と触れ合っていなければ。

 

貴方だけで好い。貴方だけが好い。貴方でしかイけないの。

 

「当てつけ、ね。強いて言えば、当てつけ」

 

私の言葉に貴方は目を丸くした。見れば見るほど、猫みたいで、犬みたいで。

 

「誰に対しての」

 

誰…そうね…。

 

「…自分に対して、よ。救われなかった自分に対しての当てつけなのよ」

 

そう。救われなかった全ての私への当てつけなの。他の男を愛した別の自分への当てつけなの。罰であり、赦しなの。

 

唯一救われた私からの、ね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。