ロアナプラより愛をこめて   作:ヤン・デ・レェ

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ソーフィヤ / バラライカ 前

 

 

 

 

砂色の世界が延々と続いていた。岩と砂。鉄と血。我々はアフガンに何を忘れてきてしまったのだろう。何を置いてきてしまったのだろう。私たちは何かを得た。得難いものを手に入れて、それと引き換えに得たモノの価値を失ったのだ。

 

私は、我々は戦った。命令に従い、信じるものの為に戦った。我々は誇りを持ち、確かにそこに立っていた。大義を見出していた。戦うことに。命を奪うことに。破壊に。何かを出し抜くことに。誰かを守るために。私たちは戦った。懸命かつ勇敢かつ的確に。私たちは誰よりも優秀な兵士であった。軍人であり、称賛を得るに値する献身を、勇気を、実績を示してきた。そのことに疑いはない。疑うことなど、出来るはずが無かった。我々は我々の存在を、心の底から信じていた。その価値を。その意味を。その重みを。その眩しさを。語るに値し、遺すに値する。認められ、誰かの憧れと成るに値するのだと。

 

何時の日か、背負ってきたモノを下ろす時が来て、一糸乱れぬ敬礼により送り出されるのだと。静かに。荘厳に。そこには確かに語り尽くせぬ重みがあったはずだ。嘲笑されてはいけないような。誰もが真剣な表情で、言葉を選んで語る様な。そう強いられるような、重厚で繊細な、何かがあったはずだ。軽んじられるべきではなかった。そう、そうでないのならば、この帽章に、この肩章に、この徽章に、この階級章に、この袖章に、この勲章に、この国章に何の価値があるというのだ。どれだけの重みがあるというのだ。守るだけの、語り尽くせぬ権威があるというのだ。

 

信賞必罰。だが、決して合理だけでは推し量れない何かを私は求めていた。我々は期待していた。

 

情状酌量の余地か。縁故か。温情か。

 

感情と言う、戦場の論理から最も遠い何かに、我々は最後の最後で縋りたかったのではないか?

 

今まで、散々吐き捨ててきた何か。戦友との関係性だけを、戦場での献身にのみ伴うような、そんな心の動きを期待したのではなかったか?

 

戦場に立ち命を懸けて戦うこともなかった相手に、椅子に座って万の命を差配してきた相手に、我々が何よりも軽蔑し嘲笑の的にしてきた相手に、そんな相手が我々を裁くことに憤り、憤りながらも慈悲を請わねばならなかった。我々は、言葉にこそしなかったが、彼らの慈悲と良心を、感情を、結局のところ最後の最後で恃んだのだ。

 

なんと、無様だったか。なんと、惨めだったか。

 

私は、戦場で立派な軍人だったという自負を、誇りを抱いていた。戦友たちは皆、あのアフガンの戦場で同じ思いを得て、その思いを一つにして共に育ててきたことだろう。大事に抱えて、自らの人生の最も譲れぬ、最も目立つ場所に飾っていたことだろう。我々は地獄で同じ何かのために戦った。その場にいる仲間の為に。その場には居ない誰かの為に。目に見える何かの為に。目に見えない何かの為に。

 

我々の心は一つであり、それは何よりも美しいものではなかったか。決して砕けぬ鉄の結束と、忠誠と、互いへの献身と尊敬。素晴らしい。我ながら素晴らしい集団だったはずだ。組織だったはずだ。共同体だったはずだ。

 

一人では決して抱えきれない、強く巨大な存在。イデオロギーや思想や、国家と言う家の為に。夢や、家族の為に。

 

私たちは誰一人として、自分の為に戦っていたわけではなかった。自分以外の何かの為に、惜しげもなく命を投げ出し合ったのだ。

 

そう、信じたかったのだ。

 

私は、難民キャンプの子供を救ったことで、全てを失った。部隊ごと軍籍を解かれて。

 

本来、その処置は正しいものだった。軍人として、私は間違ったのだ。信賞必罰の名のもとに、私は軍人として、その忠誠を裏切ったことへの対価を支払わなければならなかった。当然のことだった。当たり前のことだった。そこには、感情も感傷もなかった。なぜなら恣意的な何かによって、国益の多寡を決めてしまえば元も子もないからだ。戦争をする意味すらない。それは戦争ではない。

 

だけれど…私は納得できなかった。自分の、誇りを傷つけられたと感じた。自尊心が砕け、自分の尊厳が徹底的に貶められたのだと感じた。私の人生が、これまでの軌跡が、努力が、献身が、勇気が否定されてしまったのだと。

 

それは不当に扱われたという感覚が無ければ、そもそもそんな感情は抱かなかった。秘密作戦だったことなど、作戦に従事していた我々が知らないハズが無かった。難民の子供を救うことで、その秘密が漏洩することに繋がり、結果として国家が計り知れない不利益を被る可能性だって理解した上だったはずだ。私には、そのことを考え、理解するだけの頭脳があった。その上で、私は軍人の誇りを胸にその勇敢と献身を全うしたのだという自負に満たされていたのだ。私の行為は完全に裏目に出た。難民の子供という、邦人ですらない誰かの為に、私は、我々は国益を損じたのだ。時間も物も金も、全てを泡沫に帰したのだ。

 

だのに、軍人として国家を裏切ったという自覚が私には、我々にはなかったのだ。

 

そう…なかったんだよ。そんなものは。なかったんだ。なかったのよ。

 

私は、私と共に戦ってきた部隊ごと軍籍を解かれた。私たちは、国から、軍から、イデオロギーから、思想から捨てられた。形あるものと、形無きもの。その両方からいっぺんに、外方を向かれてしまった。国の中にあって、我々は孤独だった。私は孤独だった。孤独な者たちが、孤独なままで身を寄せ合った。我々には捨扶持すら与えられず、その待遇は困窮を極めた。物質的な困窮だけではない。精神的な、非物質的なものにすら、我々は困窮したのだ。

 

私たちが感じたことの中には、罪悪感は含まれていなかった。正しいことをした。そう言う自覚があった。充実感があった。だから、だからこそ今の自分たちの境遇を直視することが何よりの苦痛だった。屈辱だった。我々は誰からも相手にされず、誰も我々の話をしなかった。我々は躾の成っていない獣として扱われたのだ。

 

生活に困窮し。いよいよ、我々は瀬戸際に立たされた。賊に、身を窶すのかと言う。祖国には我々を養う余裕などなく、我々がこの手で守ってきた何かからも門前払いを受ける始末だったからだ。我々に命を張らせた、我々が守ってきたと思い込んできた人民と言う何かに、我々は含まれていなかった。素っ気なかった。冷たく、実に迷惑そうに物を渡され、或いは何も持たされずに警官を呼ばれ、詰られた。彼らは彼らの生活を守るために必死で、そんなことは祖国の禄を食んできた我々にとって新鮮な事実であり、残酷な現実だった。

 

我々は、鮮やかなまでに路頭に迷った。敗残兵を守る仕組みは存在せず。自助と言う名の放逐が全てであった。命の対価。勇気の対価。献身の対価。誇りすら捨てて、地を這いずるという選択肢を採ることは、惨めに過ぎた。それでも、最後の最後まで我々が、私が軍服を脱がなかったのは、そこに軍人としての矜持があったからだ。自分の信じるものに対する、自身の選択に絶対の自負があったからだ。それは凝り固まった執着に過ぎずとも、余りにも児戯的で幼稚な思い込みや勘違いの類であったとしても…ほんのわずかな期間、世間を嘲笑し糾弾するための根拠となり、私に苦い酒を嗜ませる時間を与えた。その怠惰が、結果として私に、我々に自らを責め苛む気づきを与え、悶絶させ、絶望に導き、否応なく岐路に立たせ、そして前へと進むための踏み台として機能したことは、実に皮肉なことだった。愉快&痛快とは、正しくこのことだ。

 

時間を追うごとに我々はすべてを価値に換えていった。残り数少ない何かを。

 

遂には私は、我々は、いよいよ持ちうる全てを、掛け替えのないものまで、形のない大切なものまで質屋の形に入れざるを得ないような状況になっていた。

 

明日を生きるために。その為だけに、私は、我々は、その肉体に宿した魂までを売り払う支度をしなければならなかった。私は負い目から真っ先に全てを失った。そのことに後悔はなかったが、引き換えに思い出も自尊心もが滅茶苦茶に引き裂かれ、量り売りの肉のように何処へともなく消えて行った。私は、この段になってようやく理解した。気が付いた。気が付いてしまったのだ。

 

私たちが罪悪感を感じずに、ただただ怒りと侮蔑とに心身を燃やし尽くされそうになっているのは、私たちがそもそも、我々がそもそも嫌悪し侮蔑してきた連中と、お題目を弄し勇敢と献身を軽んじてきたKGBやノーメンクラトゥーラの連中と、何らの違いもありはしなかったが故であるという…余りにも残酷な事実を、余りにも淡白な答えを掘り当ててしまったからだった。

 

難民の子供を助けたことが、誰にとって正しかったのか。その疑問が、結局は終着点であり、始発点だった。

 

私は暗い部屋の中で考えた。焼けるような酒で喉を潤しながらも考えた。

 

そして気が付いたのだ。あの行為は、私の、我々の自己満足であったのだと。自己満足であり、そのことを評価されるものだと、称賛されるべきものであったと、そう誰一人として疑っていなかったのだと。我々の自己満足が、国益を凌駕し、我々は論理やイデオロギーを超越することが出来るのだと。それだけの価値がそこにはあり、その実現には莫大なる代償が支払われるが故に、我々のようにその代償を物ともせず、何の利益も我々には齎さない難民の子供を救うことこそが、絶対的な正義に取って代わるのだと。英雄の誕生に、我々は直面しているのだと。国家や人民。そういった矮小な物よりも、遥かに崇高で立派な行為をしているのだと。だから、国益を損じようが、部隊員を路頭に迷わせようが、関係が無い。覚悟があれば、それは正当化されて、自分だけは絶対不可侵な正義の衣をまとうことが出来るのだと。

 

国家を軽んじ、人民と国益の軽重を恣意的に量り、或いは作戦失敗の背景で犠牲になるであろう圧倒的多数の名も知らぬ誰か。彼らを、その全てを、最初にこの手で投げ捨てて見せたのは、果たして何方だったのだろうか。

 

私は、それまで飲んだ酒を全て吐いた。嘔吐せずにはいられなかった。

 

どうして?なんで?私には、我々には、初めから矜持も誇りも、そんなものは無かったのと同じじゃないか。

 

私は、私と言う人間を、人間の感情と言うものを、自分の抱える良心と言うものを、あまりにも、あまりにも上等に考えすぎていた。思い違い。思い上がりも甚だしかった。我々の誇りは、全て全て、他ならぬ我々にのみ向かうものだったのだ。軍隊は我々自身。国家も我々自身。我々の結束は固く。であるがゆえに、我々は帰る場所に、帰るべき場所に後ろ足で砂を掛けた。唾を吐き、そのことに悪びれもせず、或いは身勝手で独善的な正義を振りかざして憤っていたのだ。不満のはけ口は今までと同じで、ずっとずっと同じ場所に向かっていた。行きついていたというのに。とうの昔に、我々はこの無恥な答えに辿り着いていたというのに。

 

我々は、同族嫌悪の果てに、実に仕様もない、些末な理由でこの身を敵の前に曝け出しただけだった。身綺麗にして、下味迄つけて、丁寧に丁寧に磨いてから、後は召し上がるだけの状態で、憎んできた相手に我が身を差し出したのだ。親切にも。

 

私たちが憎んできたのは、他ならぬ我々が抱えてきた自己矛盾であり、自己欺瞞であり、そのことに最後まで気が付かなかったがために、まんまと自ら掘った陥穽に落ちてしまっただけなのだ。

 

私たちは、賢かった。決してバカではなかった。そして、自分を見つめざるを得ない現実が、余りにも冷徹で過酷な現実が、ようやく我々に鏡を差し出したのだ。我々はようやくその眼を開き、はっきりと自らの醜悪な正体に思い至った。

 

お門違いの憎悪と不平不満が、そっくりそのまま、自分の身に降りかかったのだ。投げつけたはずの石が、巡り巡って我々の頭の上に落ちただけなのだ。

 

憎んで、罵って、嘲って、徹底的に嫌ってきた相手が、他ならぬ自分の醜悪で卑怯な姿を現身のように見せていただけだなんて…。

 

直視するには、この現実は眩しすぎて、でも私たちは直視するしかなかった。その光に目を焼かれなければ、私たちはただの道化に堕ちてしまうから。

 

何も知らず。今のままの、恥知らずで卑怯なまま、醜悪なまま、自分が最も軽蔑した存在に成り下がってしまうことだけは避けたかった。これこそ正に、最後の矜持だった。意地でしかなくて、惨めさに殺されるか、貧しさに殺されるかの違いでしかなかった。

 

私はその日から何日も固形物を口にすることが出来なかった。口にしたが最後、信じられない悪臭がしたからだ。惨めで情けなくて悔しくて疲れてしまって、それでも生きようとする自分の、この生きながら腐った傷から立ち昇る腐臭が、私に生きることを拒否させようとしていた。

 

私は酒だけを口にした。酔っている間は、思考が緩慢になったから。そのまま眠ることもできず、願わくば何も考えられなくなって、そのままに死んでしまいたかった。

 

私には何も遺されていなかった。全てを切り売りしてしまった。大切な物も、二つと無い物も。そして、遺された唯一のものだと思い込んでいた、勘違いしていた軍人としての自分を、剰え自らの手で殺してしまった。

 

…いいえ、当の昔に死んでいたの。生まれてさえいなかったのかもしれない。完璧な軍人でも、完全な人間でも無かった。端からそんなものになりたかったわけではなかった。けれど、自分が目標とし、かく在れかしと信じてきたものが全て血と泥に汚れ、当の昔に白骨化した幼いころの自分自身だったとは思いもしなかったのだ。

 

誰かの為。そうだった。私は、がむしゃらに生きてきた。誰かの為に。

 

落ち目の家を再興するために。軍人として戦友を守るために。或いは国家と人民の為に。そうやって、誤魔化して、嘘を吐いて、騙して、騙して、騙して、騙して…。

 

私は本当に難民の子供を救ったのか?戦火から遠ざけただけで、あの子供のそのあとの運命になど意識が回っていなかったのではないか?私はあの子供を救うことで、他ならぬ自分自身を救いたかったのではないか?見捨てた自分と、見捨てなかった自分のどちらが気持ちいいのか、自分にとって都合が好いのか、綺麗でマトモに見えるのか。その天秤を弄んでいたんじゃないのか?自分の心を守る事ばかり、満たすことばかりだったんじゃないのか?私は、あの子供の手を引く自分を、客観視していたのではないか?どこまでも恣意的に、客観視していたのではないか?美しい映画のワンシーンのように。そんな風に見ていたんじゃないのか?そんなことを微塵も考えていない風な自分を、自分の行為を偽善だと罵る自分を賛美していたのではないか?自分も知らない内に、ほくそ笑んでいたんじゃないの?綺麗になりたかったんじゃないのか。赦されるとでも思ったんじゃないか。罪の数も、その罪の影すらも掴めなかったくせに。背中の汚れがどんなに酷いものだったか知りもせずに、知ろうともせずに手をかき回していたの。掻き毟っていただけなのよ。

 

考えても詮のない事。でも、そのことを考えずに、私は私を赦しておけるのか?私は私を愛することなど出来るのか?

 

いいえ。無理。決して、できない。意地なの。もう、理由も大義も無くて、意地なの。考えて、自分を責めることでしか、自分を赦すこともできないの。子供を救っただけじゃ、本当に救ったのかも分からないそんなことで、そんな自己満足だけではまるで心を満たせないの。この穴を埋めることは出来ないの。憧れが余りにも眩しくて。初めて直視する憧れが胸を締め付けて。こんなんじゃ、こんな私じゃ、胸を張ることなどできないじゃない。恥ずかしくて、息もできないじゃない。我々が我々でいることすら覚束ないの。私が私でいることすら覚束ないの。

 

自分の為に、私は、我々は、自分のことが、自分たちのことが大好きだったのだ。我が身が可愛かった。カッコイイ自分たちのことが。美しい自分たちが。立派な自分たちが。ドラマティックでロマンに満ちた、そんな幻想の為に、我々は自分が吐いた嘘の内容を忘れて、平然と新しい嘘を塗り重ねてしまった。欺瞞に次ぐ欺瞞が、最後に辿りついたのは感情で、正義とか倫理とか人間性とかいう、実に頭の悪いお題目だった。自分たちが馬鹿にしてきたソレだった。殺して殺して殺してきたソレだった。汚して汚して汚してきたソレだった。最後の最後に自分に、その矛先が向かった瞬間に、私は、我々は、その罪を、恥を、気づくこともないままに棚に上げ、自覚のないままに自らの罪を、恥を数え上げた。気づかないままに世界を憎んだ。気づかないままに飢え、気づかないままに互いのことだけを見て、互いの献身と勇気と、過去の栄光に縋り、自分たちの無知を、その無恥故に肯定し合った。

 

私たちは、賊に身を窶すよりも、遥かに見苦しいことを、当の昔に数えきれないほど重ねてきてしまったのだ。全て、自分に都合が良かったから。全て、自分に都合が悪かったから。単純明快な答えを、何処までも煙に巻いて。全てを戦場に漂う硝煙と煙草の煙に巻いて。悍ましい顔で、ずっとずっと笑っていたんだ。

 

生きている意味を感じられなかった。賊に身を窶すことへの忌避感すらも、最早劣等感を呼び起こす劇薬でしかなく。また劣等感に沈むためのスパイスでしかなかった。私は酒に溺れて、戦友たちと傷を…自傷の跡を舐めあった。私は現実と幻想の狭間で揺れ、その中で、この暗い水底の停滞しきった世界を揺さぶる光を見た。音を聞いた。振動を感じた。それは偶然であり、必然であり、私にとっては縋りつくのに格好の獲物だった。穢れ切った自分を見ることが嫌になったの。

 

だから、この腕の中にまんまと転がり込んできた、アメリカ国籍で碧眼のアジア人を探した。彼を探した。彼を仕留めて、手軽に、麻薬のように一過性の快楽を貪ろうとしたの。飢えた醜い私は、貴方を近所のバーで見つけ、ほくそ笑む顔を戦場で手に入れた鉄面皮の下に隠して、少しの躊躇もなく正義感を振りかざした。私の中にしかない正義感を、軽々しく当然の物として振りかざしたの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

13発のマカロフ弾を受けて尚、貴方は死ななかった。それは、紛れもなく奇跡だった。疑う余地のない、私の敗北だった。

 

貴方に唇を奪われた時、私は貴方を引きはがそうとした。当然よね、だって会ったばかりの、名前も知らない男から唇を奪われたんだから。

 

オマケに貴方は敵国人で、私の正義の為にも、確実に始末しなくちゃならなかった。私が正気を保つために。私が正気にならないようにするために。

 

私を支配する現実を、私はそれでも愛していたの。愛着があった。怖かったの。このまま、慣れ親しんだ場所で朽ちる方がマシなような気がして。これまでの自分と、私の部隊が積み上げてきたコトとモノを、結局最後まで裏切りたくなかった。そもそもそんなものはまやかしに過ぎなくて、幻想に過ぎなかったとしても。それでも、私は弱かった。部隊が、私の部隊が捨てられて、そのままに腐っていく時間を、ゆっくり、じっくり横から眺めているだけだった。私は弱かった。自分のことが可愛くて。誇りを失いたくなくて。矜持を手放してしまいたくなくて。胸の底に仕舞い込んで、世界に罵声を浴びせ続けたの。駄々っ子と同じで、聞き分けのない愚か者に過ぎなかった。それでも、自分が憎んできた連中が、自覚があるという分、自分たちよりも上等な存在だなんて現実を受け入れられなかった。連中を殺す想像は、そっくりそのまま私を赦してくれなくて。でも、連中に頭を下げることも、媚びを売ることも出来なかった。弁明すらできなくて。負け惜しみさえできなくて。

 

だから、私に最後に残った、私を最後まで裏切らなかった、私の道具が貴方を殺さないことを私の意に反して選んだのだと理解した瞬間に、私は木っ端微塵に吹き飛んだの。滅茶苦茶に飛び散ってしまった。元の私はね、西部劇のガンマンみたいに決闘に負けたの。貴方に殺されてしまったの。完膚無きほどにね。清々しいほどに負けたわ。これまで、一度だって認められなかった敗北が、結局のところ最後の最後で私の心を救ったのよ。

 

私の人生は、あの時、貴方の前に屍を晒したの。もう本当に、何にもなくなっちゃったの。貴方の所為で。貴方のお陰で。

 

誰もね、面と向かって言葉にはしてくれなかったの。皆嘘つきで。皆皆怖かったから。自分に真実が返ってくることが恐ろしくて。だから誰もが口をつぐんだの。あれは正しいことだった。あれは正義だった。称賛されるべきことだった。私たちは影の英雄で、祖国の敗因は私たちを見捨てたからだって。そう相手を慰めるつもりで吐いた言葉はね、全部全部自分の為だったの。自分に言い聞かせるため。自分で自分の嘘を信じる為。自分を守るための便利な嘘だったの。

 

貴方だけが。終ぞ、終ぞ。敵も味方も教えてくれなかった真実を、貴方だけが教えてくれたの。それも、とびっきりに過激で、私の心を鷲掴みにしてしまうロマンチックな方法で。

 

よりにもよって、この期に及んで私は軍人であろうとした。顔を上げようとした私を。前を向こうとする女の私の頭を抑えつけたの。そうやって、貴方に抵抗した。真実に抵抗した。私の手を引こうと、誰もが出来なかったことを、本当の勇気を示した貴方のことを…私は、傷つけた。暴れて。引っ搔いて。掻き毟ったの。

 

でも、無駄だった。

 

だって貴方は強かったから。

 

私が出会ってきたどんなに優れた人間よりも。打ち斃してきたどんなに勇猛な戦士よりも。看取ってきたどんなに誠実な人間よりも。

 

貴方は強かった。

 

その強い力で貴方は、殺す気で暴れた私を力任せに抑えつけて、抱き締めて、介抱して、あっという間に倒してしまったの。

 

貴方よりも顔のいい人間を知ってる。貴方よりも賢い人間を知ってる。貴方よりも腕の立つ人間を知ってる。貴方よりもよほど口の上手い人間を知ってる。貴方よりも…貴方は、本当に、何処まで行っても取るに足らない人間だ。

 

だが、私は貴方よりも強い人間を知らない。

 

私は、私に勝てる人間を貴方以外に知らない。想像もつかない。

 

私は、負けを認められる相手を貴方以外に知らない。考えたこともなかったことだ。

 

貴方はとるに足らない人間で。劣った人間で。醜い人間で。

 

でも、嘘だけは吐かなかった。決して。決して吐かなかった。

 

私に勝てるのも。私が負けを認めたのも。私が、私の女が疼いたのも…貴方だけだった。

 

世界中を探したら、貴方のような人間は他にもいるかもしれない。

 

だが、現に私の目の前にいるのは貴方だ。貴方だけだ。そして、二人と貴方は要らない。他の者には申し訳ないが、私は貴方だけで十分だった。もう、まやかしに惑わされることも、自分を欺くのも、自分に絶望するのも御免だった。

 

気が付けば、舌を絡めていた。貴方の口の中はバーボンの風味が残っていて、私の口の中はきっと胃酸の味がしたに違いなかった。

 

最低最悪のファーストキスだ。でも、これ以上のものは考えられなかった。

 

ムジャヒディンの捕虜になって、寸刻みで皮膚を焼かれた時だって、奴らは私を恐れるばかり。部下からも畏敬と忠誠を受け取るばかりだった。

 

だれも、女の私を必要としていなかった。そのことに、今更気付いて可笑しくなった。苦笑を浮かべてしまう前に、貴方のカラダから力が抜けて。貴方は瞼を閉じたまま動かなくなった。

 

呼吸はしているから問題はないだろう。私は、救急車が来るまでの間、彼の体を抱いていた。ピエタのようだ。けれど、マリアは貴方でキリストは私なのよ?貴方が、微笑みかけてしまったから。もう、遅いの。

 

私は、彼の体を抱いて、その唇を重ねたまま動けなかった。自分で撃って、自分で傷つけたのに。胸が張り裂けそうだった。愛おしさで、私は貴方の頭を撫でる事しか出来なかった。何か、自分を押しとどめることが出来なくなると思ったの。貴方のカラダを、自分の欲しい侭にしてしまいそうで。貴方の前で、乱れてしまいそうだったから。

 

彼の連れの女二人は、結局私に何もせず。何も言わなかった。私は、二人に無言で目礼した。彼女らは素っ気なくその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

緊急入院した貴方のもとへ、私は来る日も来る日も通った。自分でも頭がオカシイと思っていたが、私よりも遥かに頭のオカシイ人間がまだ三人もいたから気にならなかった。私は貴方を求めていて、でも貴方は求めてくれないことが悔しくて、悲しくて、頭がおかしくなりそうだった。

 

私はすっかり、これまで唾棄してきたことにのめり込んでしまった。心を奪われて、彼に入れあげた。軍務が無いのをいいことに、私は彼のもとに毎日通い、彼と言葉を交わし、少しでも長くその体温を感じ取ることに躍起になった。

 

私の口は滑らかで、家族にすら語れないようなことでさえも、聴かれれば答えてしまいそうだった。

 

私は貴方に自分のことを語った。私のことを、少しでも知って欲しかったの。少しでも、女として見て欲しかったの。少しでも、私を軍人として見て欲しかったの。少しでも、貴方に私の弱さを見つけて欲しかったの。少しでも、貴方に私のことを詰って欲しかった。貴方に、貶められたかった。貴方しか、貴方しか真実を語る勇気を持っていないから。自分のことが可愛くて、自分で自分を傷つけることが怖くて。認められなくて、言葉に出せなくて。だから、貴方にその代わりを求めたのよ。

 

貴方は、私を責めなかった。貴方は、私を貶めなかった。貴方は、私を傷つけなかった。

 

優しくて。優しくて。優しくて。残酷だったの。

 

貴方は、決して私を逃がしてくれなかったわ。私は、貴方から逃げられなかった。もう二度と手に入らないものだと思ったから。

 

私は貴方を撃ったのよ?私は貴方を傷つけたのよ?

 

なのに、私は貴方の傷にすらなれないの?貴方は私を求めてくれないの?

 

私はこの期に及んで勘違いをしていたの。私が素直になれれば、私が貴方のことしか見えていなかったら、私がこの国に未練を何も遺していなかったら…貴方は私のことをその場で受け入れてくれた。そんなことは分かり切っていたことなのに。

 

貴方は私の未練に気が付いていて、だから私に言ったの。

 

安心できないって。私は貴方を、まだ安心させられないんだって。

 

どんな強さも。どんな美しさも。今の私には、私の持てる全てを使っても、何一つとして満たしてあげられなかった。返すこともできなかった。

 

私は貴方を我武者羅に求めた。結局、あの頃と何も変わらないワガママで、お題目で目を曇らせて。

 

貴方は退院する日に私に教えてくれた。自分を安心させろと。

 

安心できないから、だから抱かないじゃなくて。

 

安心させて。僕を安心させろ。安心させることさえできれば、今度こそ君を受け入れるからって。

 

どうすれば貴方を安心させられるのかわからなくて。だから黙ってキスしたの。一度しか使えない切り札だった。貴方からしたのよ?って。一度だけ言えるから。だから、もう二度と貴方に会えないのなら。貴方を想えないのなら。貴方に、求められることもできないまま、私が死んでいくのなら。そう思ったから。次なんてなくて。今だけの為に、全部を捧げて、全部を赦してもらおうって。貴方にしか出来ないことを、私は無理やり自分で自分を納得させる為だけに使わせてもらったの。身勝手な理由で。身勝手な振る舞いで。きっと、この先の一生涯抱えていく大事な何かを譲ってもらうつもりで。温かくて柔らかい、貴方の一部を盗み去った。

 

私は幸福だった。貴方に出会えて。一時でも貴方を感じられて。一瞬でも、一回きりでも貴方に確かに女として認められたことが。私を弱い人間として、見つめ続けてくれたことが。私から、こんな私から、私が直視できない私を、私自身の代わりに見つめ続けてくれたことが。目を離さないでいてくれたことが。最後に、一度だけ貴方を奪えたことが。自分の欲望の為だけに。自分の為だけに動いて、それを貴方の為に使えたことが。

 

私は絶望していた。貴方が去ってしまうこと。私は貴方についてはいけないこと。私は私の未練を抱えたまま、克服できない現実に殺されてしまう。そのことを、貴方に忘れられてしまうかもしれないことが。でもそんなことは些事でしかなくて、もう二度と貴方に触れることも、言葉を交わすことも出来ないことが、そのことだけが私を絶望させた。私には、もう信じられなかったから。貴方が、無理矢理に覚えさせてしまった温もり以外を。信じるに値するのは、その力強さと、混じりけのない真実だけだった。ほんの短い、ほんの薄い関係性が、これほどまでに私のことを惹きつけてやまない。

 

何処にも行ってほしくなくて。でも、何処へでも行って欲しくて。だからかしら、とても素っ気ないものになってしまった。だのに…それでも、温かくて柔らかかった。貴方の名残惜しそうな顔を見れて。そのことが切なくて。嬉しくて。

 

私は貴方の背中を見送りたくなかった。遠ざかる貴方との距離を測るなんて、耐えられそうになかった。自分の希望を、他ならぬ自分の弱さがみすみす逃がしてしまうことを。

 

私は貴方の病室を後にしようとして、そのまえに声を掛けられた。立ち止まってはいけなかった。振り返ってはいけなかった。

 

だってそんなことをすれば、私は必ず頷くから。迷いもせずに頷かざるを得なかったから。頷いてしまえば最後、私は二度と戻れない。貴方のことを忘れられない。貴方と一緒に行きたかった。もっと早く貴方と出会いたかった。でも、私の時間を形作ったものは、余りにも大きい未練は、この大地に遺されていて。私の同志は、私と同じ病に、死に至る病に罹ったまま動くことが出来ないでいた。そのことを知りながら、今日この日まで、あの夜からずっと、貴方と出会った日からずっと、見て見ぬふりをしてきたの。だから、ダメなのよ。私は、この先の生を彼らの為に使うつもりでいたから。そのことに託けて、自分を貴方にほんの短い間だけでも縛り付けた。

 

振り返ってはいけなかった。私はただ、黙って病室を出て行かなければならなかった。でも、出来なかった。

 

私の顔は、きっと今までにない酷いものだったに違いない。情けなくて。汚い泣き顔だったはずだ。悔しくて。情けなくて。それでも貴方に縋ろうとする醜い魂胆がこの身を焼いて、思考を焦がして、心を奪って。貴方はあまりに眩しくて、私は狂うことも許されなかった。私は膝をついて、すぐに貴方の傍に常に控えてきたアジア系の女に腕を引かれ、その場で立たされた。体を支えられ、私は笑う膝に力を入れて、女に引き絞られるように立ち尽くした。逃げることも、貴方を抱き締めることもできない自分が憎い。そんな私を見透かしたように、女は私を励ますように、叱咤するようにその腕を強く引いた。

 

ボロボロの私に、貴方は言った。

 

「すっきりしてから、迎えに来て欲しい。待ってるから」

 

貴方は自分勝手で、でもそのことを隠そうともしなくて、そのことが眩しくて、貴方は言葉足らずで、なのに私は貴方の言いたいことが理解できてしまって。

 

でも、貴方は待ってくれなくて。私を残して貴方は病室を出てしまった。

 

崩れ落ちる寸前に、狂犬のような気配を放つ女が彼の鞄を開き、中身の殆どを私の前に差し出した。私は、それが何なのか、見当もつかなかった。けれど、貴方が私に機会を与えてくれたことだけは理解できた。私は貴方から与えられた力を、自らの未練を断ち切るために使わなくてはならない。貴方を待たせるわけにはいかなかったから。貴方は、いつまでも、どこまでも私のことを待っていてくれるから。貴方はきっと待ちくたびれてしまうから。

 

私は立ち上がり。そして彼を見送った。

 

見たくなかったはずの、貴方の背中を見送った。遠く遠く、見えなくなってしまうまで。

 

私は、自分と言う人間が恐ろしく現金なことを知った。私は貴方に機会を与えられ、再び逢えると知っただけで、受け入れて貰える可能性が少しでも生まれたと理解しただけで、これまで自分を守るために使ってきた浅ましい自分を、これまで自分が憎んできた醜悪な自分を何度でも受け入れ、その皮を被り直し、道化のように踊ることに快楽さえ覚えてしまいそうだったから。貴方の為。貴方の為。貴方の為。貴方の為。私が好きな私の為。貴方に受け入れられたい。貴方に愛されたい。貴方に詰られて、貴方に傷つけられたい。もう自傷は飽きたの。もう自分を憐れむのは疲れたの。もう何かを憎むことも、何かに追われることも魅力的に感じられないの。だから、貴方を迎えに行くから、貴方の為に演じるから、貴方の為に踊るから、私のことを見ていて。私を評価して。私を認めて。私を褒めて。私を、利己的で愚かなまま飼って欲しいの。それ以外を、私はもう二度と認めることも受け入れることもできないから。本当の私を、もう二度と見誤らないように。見落とさないように。

 

私は軍人になりたかった。私は英雄になりたかった。我々は軍人になりたかった。我々は英雄になりたかった。

 

誇りも。矜持も。理想も。思想も。

 

その全ては憧れのまま。今も憧れのまま。その光に焼かれた私たちは、私たちの腕の中で死んでしまった。

 

彼らは二度と戻らない。終わらない夢の中を彷徨い続ける亡者となり、きっと永遠に戦場に忘れて来たものを探し続ける羽目になる。

 

そこに名誉はない。そこに正義はない。そこに誇りはない。そこに矜持はない。あるのは醜く節くれ立った意地だけだ。

 

戦友は戦友の為に死ぬことを望み、死への憧れは勝利への憧れに勝り、何れ至るべき殿堂に想いを馳せながら、落ちぶれた我が身を虚飾の権威で包み隠して老いていくのだ。

 

平穏を得られず。ただただ、真実から少しでも長く目を逸らし続けるために。真実から少しでも遠くへと逃げてしまえるように。

 

だから私は幸運だった。なぜなら、彼に逢い、彼が私に与えてしまったからだ。

 

未練を断つ力を。未来を繋ぐ力を。真実を受け入れる為の力を。亡霊に肉を与え、生者へと蘇らせるための力を。

 

憧れを実現するための力を。

 

私が望んだ真実を、贖うための力を。

 

我々が希った真実を、贖うための力を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「親愛なる同志諸君。我々は今日を持って、全ての軍務から解かれる。これは上官としての最後の訓示であると同時に、最後の命令である。これから私が言う言葉をよく聴き、よく考え、よく理解した上で各人が、自ら望んだ道へと進め。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は、気が付けば戦友たちとともに共同墓地に立っていた。今日この日まで、余りにも目まぐるしく時間が流れた。私は金で全てを買った。

 

私は自分が憎んだ全てを。私は自分が憧れた全てを。私は私が欲しかったものを全て買った。

 

あれだけ軽蔑し、憎み、嘲ってきたKGBやノーメンクラトゥーラの連中のように。金で全てを買った。

 

彼が私に与えてくれた力は実に雄弁だった。私の誇りが、矜持が…その全てが、如何に虚飾に満ちていたのかを克明に、無慈悲に暴き立てていった。

 

私は、私の部隊を招集した。彼らは疑いなく私の呼びかけに答えた。

 

私は言った。

 

「諸君。我々はこれより軍務に復帰する。これは国家からの命令ではない。党からの許可ではない。人民からの慈悲でもない。私が望んで、私が選んだ結果である」

 

「諸君。私は諸君に約束する。諸君はこれまで与えられなかった全てを与えられる。諸君はこれまで望んでも手に入らなかった全てを手に入れる。手始めに、諸君には選び取る権利が与えられる」

 

「もしもここに、祖国や、思想や、人民や、金や、矜持に忠誠を誓っている者がいるのならば、速やかに立ち去れ。例え立ち去ろうと、諸君には一切の不利益が生じない。これは今日まで積み上げてきた我々の結束に誓って、必ず履行される」

 

「その上で、私は諸君に伝えなければならない。私の主人は国家ではない。私の主人は思想ではない。私の主人は人民ではない。私の主人は矜持ではない。私の主人は金ではない。そんなものを私は信じない。そんなものに私は服従しない。そんなものを私は望まない。私の主人は、一人の形ある人間である。私の主人は弱く、情けなく、臆病であり、矜持もなく、誇りも無く、軍人ではなく、政治家ではなく、学者ではなく、人民ですらない。彼はただの矮小で醜悪な人間である」

 

「だが、私は彼に喜んでこの身を捧げる。この忠誠を捧げる。私の持ち得る全てを捧げることに、何らの躊躇もない。私は彼を疑う術を知らず。私は喜んで彼に服従する。なにより、私は彼を望んでいる」

 

「なぜならば、彼は決して嘘を吐かなかったからだ。真実を告げる覚悟と強さを持ち、その力が私に力を与えた。力を得た私は、諸君をこの場に呼び寄せたのだ。その上で、私は宣言する。我々は国家を捨てる。思想を捨てる。人民を捨てる。矜持を捨てる。誇りも理想も。私は与えられた力を使うことに何の迷いもない。それがどれだけ汚いものであれ、どれだけ惨めな代物であろうとも。私は、二度も見捨てられるつもりはない。私は、二度も憧れに殺されるつもりはない。私は、二度と、他人のせいにはしない。私は、二度と、誰のことも憎まない。私は、私が望むが故に殺し。私が望むが故に戦う。私が望むが故に守り。私が望むが故に生きる。そこに名誉は不要である。そこに倫理は不要である。そこに誇りは不要である。そこに嘘は不要である。」

 

「諸君は何を望む?何を望んだ?」

 

「地位か、富か、名誉か。欲しければ与えよう。私はこれから祖国を殺す。我々は祖国に生かされるのではない。我々が祖国を生かすのだ。人民に生かされるのではない。我々が人民を生かすのだ。その逆もしかりである。私はこの国を消費する。二度と、私は誰にも消費されはしない。怪物に誇りは要らない。怪物に矜持は要らない。我々は善悪の彼岸に立ち、悪党と善人を選ぶ側に立つのだ。その為に、我々はこれより一時的に軍務に復帰する。内部から切り崩し、この国の日向と日陰を支配下に置くのだ。我々は、来るべき日に向けて暗闘を開始する」

 

「諸君は古き忠誠を捨て去り、自らの過ちと恥を顧みる勇気はあるか。諸君はその上で私と共に戦場の憧れと軍人の誇りを、この世界から奪い取る覚悟はあるか。この戦いの末に、諸君は栄光を手に入れる。輝かしい未来を手に入れる。確固たる希望を手に入れる」

 

「その時、全てを手に入れたその時に私はもう一度諸君に問おう。その時に、諸君は真の意味での自由を手に入れるであろう」

 

私の言葉に、戦友たちははちきれんばかりの沈黙で返答した。一糸乱れぬ敬礼と共に、彼らは未来と希望という、安直だが価値ある道を私と共に歩むことを選択した。

 

 

 

 

 

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