その後、我々は暗闘を展開した。彼から託された無尽蔵の資金により、我々は全てを買い揃えることに少しの苦労も必要なかった。あっけないほどに、超大国の残骸は安いものだった。私たちは走り回った。駆けずり回った。必死に金を使った。使っても使ってもなくならず。それどころか、途中からあからさまに額面が膨れ上がっていく資産には恐怖すら覚えた。だが、その恐怖は即ち力への高揚でもあった。
私は貴方のことを考えないようにした。きっと、直ぐに蝕まれてしまうから。思考も何もかもを。それでも甘い。もっと徹底的に、自分を試したい。貴方への、自分の想いを試したかった。あの日、戦友たちに向けて告げたことはすべて真実だ。その宣言は私を酔わせた。高揚させ、耽溺させ。同時に私の脳裏に未来図を描かせた。この世界を二分するが如き、壮大で矮小な絵地図を。誰に話しても絵空事だと言われるだろう。だが、私には遠慮も、慈悲も、その全てが彼の為に生きるには重すぎて、軽すぎて、だから唾棄することに少しも迷わなかった。
貴方の資本は魔獣だった。まさに、魔獣だった。これまで抑圧されてきた、この巨大な社会主義国家へと念入りに復讐するように暴れ狂った。
私は全てを買った。金で買い漁った。階級を買い、勲章を買い、武器を買い、兵器を買い、工場を買い、港を買い、銀行を買い、造幣局を買い、土地を買い、街を買い、道を買い、基地を買い、空港を買い。人を買い、物を買った。
我々は全てを手に入れることにさほどの苦労もなかった。過去に類を見ないほどの荘厳な授賞式を、アフガンで共に戦った者たちの為だけに執り行い、彼らは最高の栄誉を手に入れた。ありとあらゆる高級品も、ありとあらゆる形ある名誉も、形無き栄光も手に入れた。
我々の軍服は勲章の輝きで埋まり、階級章は五つと、六つと、いとも容易く特進した。旧連邦諸国への資金援助を行い、各国の退役軍人を搔き集めた。旧連邦全土から搔き集め、選別し、鍛え直した。最高の環境と最高の待遇を約束し、最高の兵士を要求した。
一介の大尉でしかなかった私が、今や誰を大臣の椅子に座らせるのか選ぶ立場になっていた。オリガルヒの頂点に立ち、あれ程憎んでいたはずのKGBとノーメンクラトゥーラ共にも手を差し伸べた。部下たちは驚きこそしていたが、何も口を挟まなかった。
KGBと党の重鎮共を手懐け、飴と鞭で思いのままに従わせられるようになったことで、私は自身の立場が単なる軍人の範疇を越えたことを理解した。そしてこのままでは、仕事が終わった後で貴方の元に駆けつけることに支障をきたすことが容易に想像された。私は隠れ蓑を必要としていた。
何物にも縛り付けられない立場を欲した私は裏社会に進出した。鍛え直した自己と、アフガンの地獄を死に損なった精鋭だけを選抜した。覚悟のあるものだけを選んだつもりだったが、我が隊は全員が参加を志願した。私と彼らは高揚を抱えながら、実に軽快にアウトローの道へと足を踏み入れた。
戦車と戦闘機と空挺師団。この三つを惜しみなく注ぎ込んだ。過剰なほどに弾薬を消費し、たかだかマフィア相手に十万発使うことも珍しい事ではなかった。我々はモスクワを拠点にしていたロシアン・マフィアの『ホテル・モスクワ』を強襲し、完全に沈黙させたうえで、KGBの連中と旧軍部高官連中で幹部層を再編し、その上で私は表向き上は発言権のある武闘派の中堅幹部としての席を得た。無論、隠れ蓑に過ぎなかったが、それでも幹部に選ばれた連中は実に愉快に踊ってくれた。軍務に励む様に忠実に、非合法の利権が生み出す甘い汁を一口でも多く舐めとろうと、顔の無い
そのピョートルの顔が、実はよく知る
電話や無線越し、或いは書面を通じて私は『ホテル・モスクワ』を手足のように蠢かせた。私の立場は大頭目直属のトラブルバスターといったところ。私がどこで誰の為に何をしていようが、ピョートルは何も言わない。資金も武器も建物も、全て全てピョートルが抑えているのだから、当然幹部も何も言わない。何も言えない。彼らに出来ることは、与えられたオモチャでマフィアごっこを必死になって演じるだけ。演じてる自覚なんてないままに、死の恐怖と成功の蜜に惑わされながら、ね?
モスクワ全土に影響力の根を張ったことで、私は事実上のロシアのツァーリとなった。実態の掴めない巨大な影。無数のオリガルヒの集合体のように見えるけれど、その実態は軍人崩れの狂った女だなんて…誰も信じてくれない。誰も信じたくない。でも、だから私には好都合なのよ。
私は飛翔の時を前に、遂にその時が来たと考えて部隊を再招集した。彼らには、最早何の束縛もない。今や彼らはこの国で誰よりも持っている側であり、誇りと矜持と許しを与える側だった。命令を下すに足る立場と名誉を手に入れて、その肩書と名誉に見合う豊かな生活を許された一握りの人間だった。一等兵は少尉になり、伍長は大尉に、軍曹は大佐になっていた。大尉だった私は大将の地位を前にして昇進を辞退した。もとより、今の私にとっては軍での栄達など無価値も同然だった。地位も。物も。満たされてしまえば、何もそれ以上が無かった。欲しいものなど何一つなくて。所詮それらの全ては、欲しかったものでしかなかった。
今の私が欲しいものは、欲しくて欲しくて堪らないものは唯一貴方だけだった。貴方を安心させたい。貴方を安心させて、今度こそ私のことを受け入れて欲しかった。私のことを求めて欲しかった。それだけ。それだけだった。それ以外には執着など何一つなくて。ただただ、貴方を安心させ、貴方を高揚させ、貴方に差し出すための貢ぎ物程度の価値しかなかった。貴方が捨てろと言えば、私は自分でも信じられない程にあっさりと、その全てを捨て去るだろう。二度と振り返ることもなく。惜しむことも、悲しむこともなく。
私は、見違えた戦友たちを見つめた。一人一人を見つめ、その一人一人と目を合わせた。我々は実によくやった。腐ってボロボロになった祖国を、金と暴力だけで半ばまで立て直すことに成功したのだ。これ以上、何の義理を果たすことがあろうか。唯一の未練である戦友も、共にアフガンで戦った勇士たちも、いまや立派な国家の英雄だ。一番マシな椅子に腰かけて、少なくとも飢えることも、その誇りに疑いを持つ必要もなくなったのだ。私は、柄でもなく自分の情けなさから滲んできた涙を堪えた。一番泣きたいのは、未だもって何を得ることもなく、健気に私を待ち続けてくれている貴方だというのに。
私は、今、赤心から誇らしかった。どんな勝利よりも。どんな称賛よりも。私は、私の未練をきれいさっぱり押し流し、あらん限りの名誉と栄光と勝利と、その全てが金で買われた代物であったとしても、誇らしかった。散々言い繕っても、憧れの殿堂に至る事が出来たからこそ、足ることが既知になったからこそ回顧できることだった。ずっと欲しかったオモチャを手に入れて私は素直に嬉しかったはずだ。ピカピカの勲章を貰った。軍人として位人臣を極めた。私の一言で今や百万人以上を動かすことだって不可能ではない。党の有力者だけが乗れた高級自動車よりも、遥かに高価な車を国産車であろうと外車であろうと好きにできる。軍服の改造も咎められず、自分の為だけに空挺軍総司令官の階級章だって特注で作らせることが出来る。自分の為だけに勲章を新設することも、未来永劫その勲章を自分だけが着用を許される代物にだって出来る。法律を変えて不動産収入に対する税率を下げることも、指揮下にある戦闘機と戦車を原隊から勝手に動かすことも、その足で敵対マフィアの拠点を制圧することだってガス爆発事故で処理されてしまう。邪魔者の粛清も。忌々しいKGBを顎で扱き使うことも。
私は全てが思いのままだった。でも、それだけだった。その素晴らしい全ての権能を、どうすれば貴方の為に役立たせることが出来るのか、貴方を喜ばせるためにはどんな風に使うことができるだろうか。私の頭に浮かんでくることは、寝ても覚めてもそればかり。もう、私は後戻りできない。とっくの昔に理解していたはずだ。だが、それでも一度自分を欺き、一度自分に絶望した自分を、貴方を傷つけた自分を他ならぬ私が許せなかった。貴方を幸せにできる、喜ばせることが出来る、安心させることが出来て初めて私は私に許すことが出来る。貴方に仕えることに矜持が持てる。貴方に仕えることに誇りを抱ける。私は私の憧れた軍人に、軍人を辞めることで初めてなる事が出来る。貴方の為だけに、貴方の戦争を行う軍人になれる。思想でもイデオロギーでも国家でも無くて、貴方個人にだけ仕える忠実な軍人に。貴方の独善を肯定する。貴方の低俗を称賛する。貴方の不安を抹殺する。貴方の希望を守護する。貴方の平穏を持続させる。恣意的で個人的な軍人に。軍人の本分を決めるのは私なのだよ。私が、軍人の矜持も誇りも、その全てを断定するのだ。そして、その絶対命令を覆すことが出来るのは貴方だけなのだ。覆すことに、塗り替えることに理屈は要らない。貴方が望む。そこに不可能か可能かは存在しない。関係ないの。私は実行する。私は断行する。ただそれだけなのだ。一つだけ。大事な事。考えなければならない事。必要な事。それは貴方だけなのだ。
集まった全員に向かって、私は語り掛けた。
「親愛なる同志諸君。我々は今日を持って、全ての軍務から解かれる。これは上官としての最後の訓示であると同時に、最後の命令である。これから私が言う言葉をよく聴き、よく考え、よく理解した上で各人が、自ら望んだ道へと進め。」
彼らは身動ぎせず、私の言葉に傾注した。
「諸君には全てが揃っている。軍人としての栄誉も、生活の豊かさも。有形無形の全てに囲まれて、諸君はもはや軍人でいることすら選択の内の一つでしかない。我々は祖国に十分にその義務を果たした。ここから先、諸君の上官は諸君自身が決めるのだ。諸君が選んだ旗の下で、諸君が望んだように戦え。それが私からの最後の命令である」
「さて、ここで改めて問おう。私はこれより、私の極めて個人的な欲求に従い、自らが主人と定めた一個人の為に軍務に就く。そこには国家が与えてくれる栄誉など望むべくもない。また、称賛に値する勝利もない。憧れも憎悪もない。得られるものは、自己満足だけである。我々の運命を狂わせた一人の狂人を守るだけである。日陰の中で身を寄せ合い、この世界の片隅に追いやられて蹲っていた我々に、未練を断ち切り憧れと誇りとを世界から奪い取る力を与えておきながら、全てを与えておきながらも、何一つとして見返りも求めない狂人の、その平穏で優雅な生活を影に日向に見守るだけである。守りたいがために、守るだけである。戦いたいがために、戦うだけである。私の望みはそれだけ。ただ、それだけなのだよ諸君」
「この実に…実に下らない、果てしなく壮大で矮小な茶番に、文字通り死ぬまで付き合う覚悟のある物好きだけがこの場に残ることを許そう」
私は言うべきことを伝え終わると、暫しの間、眼を瞑り。ただ沈黙した。
「覚悟は決まったか?」
私の問いに、一人の男が前に進み出た。男の階級章は大佐の物に代わっていたが、もともとの階級は軍曹だったのだから驚きだ。
「どうしたボリス大佐。何も言わずに立ち去っても咎めだてはせんぞ」
私は部隊の者が誰一人として欠けていないことに、静かに期待を寄せ、高揚を覚えた。
私の言葉を受けて、ボリスは見事な敬礼と共に声を張り上げた。
「ボリス退役軍曹は現刻を以て
ボリスの声を呼び水に、次々に声が上がっていく。男たちが解き放った熱狂は渦を巻いた。宣誓の声は共同墓地に響き続け、最後の一人に至るまで、その一言一句を聞き届けてから私は、それでも、無粋だと理解しながらも彼らに念を押さずにはおられなかった。
半端な覚悟なら、私は戦友を殺さなくてはならなくなる。私は私の心に傷がつくことを望まない。私の心は彼の物であるべきであり、その為にも誰一人としてこの国の軍人を連れて行くことは出来なかった。この国の軍人にはこの国で役に立って貰えばいい。だが、貴方のもとに向かう人間は須らく貴方個人に帰属していなければならなかった。その為の、最終確認だった。
ボリスは、神妙な表情を崩さずに言った。
「水臭いですよ。
私はその言葉に応えるに相応しい言葉を探し、最も相応しい、二度と使うことも無いと考えていた言葉を選び取った。
「諸君と共に戦えることが、私が祖国から勝ち得た唯一の『誇り』であると確信する。諸君の帰属を心から歓迎する」
私は答礼を長く長く続けていたが、火急の要件が出来たとのモスクワの連絡員からの報告を受けてその場を後にした。
私の足取りは軽かった。今度こそ、私には何の未練もなかった。
火急の要件は二つ。一つはCIAからの接触があったということ。もう一つはルーマニアから私に名指しで数千人の孤児と数十億ドルの資金が流れてきたこと。
私は瞬時に理解した。どちらも貴方に関わる事だろう、と。
案の定、CIAのフロントマンからはロアナプラという名前も聞いたことが無い東南アジアの島での利権について、その交渉の席に必ず出席する確約を求められ、それと引き換えに東欧全域に対して、現地での情報網の構築とその共有、また各種の資金援助や、米露間の国家規模でのインサイダー取引や資源の共同開発案件の提示や、先物取引に関する譲歩などを示された。私の予想は的中した。私に否やはない。これほど都合が好い理由など明白である。相手も私と同じことを考えているからだ。私も向こうも狂っている。だからこんな非常識が罷り通った。米露の歴史的な関係性など私には一ルーブルほどの価値もない。そして何兆ルーブルであっても、貴方と比べれば紙くず同然である。
さて、私とCIAの狂人との関係はさておき、唐突に送られてきた孤児に関しては、技術提供と資金援助、私の手持ちの企業誘致と引き換えに世界中にルーマニア人の孤児を送り込むことにした。この際だ、徹底的に洗脳措置を施してから。孤児たちの人生を変えたことは事実である。だから事実だけを教えた。誰が助けてくれたのか。誰が助けてくれなかったのか。貴方がどれだけの対価を支払ったのか。そういうことを、嘘は一切つかずに淡々と教え込ませた。こういう仕事はKGBの十八番だった。私は実に迂遠に彼の存在を示唆した。新手の神として。孤児らが大人になった時に、その時になって初めて意味を理解できることを期待して。彼の指示通り、私は孤児には過ぎた大金を一人一人に餞別に持たせてから送り出した。有力者の養子にでもなれれば…彼らの今後に期待である。
そして、必死に国を回し、組織を回し、そうしてようやく私の番が回ってきた。ボリスに後のことを任せて、私は一人でCIAの手引きのもとでロアナプラへと空路で向かい、彼が暮らしている貧相なモーテルで、彼と再会できるのを心待ちにした。
貴方は再会しても、驚くほど自然体だった。そして、会うなり私にこう言ったのだ。
「おかえり。待ってたよ。突然でゴメンね、あのさ、おさがりで好いからソフィーが着てた"しましま"のが欲しいんだけど…」
「………は?」
私の思考は停止した。完全に停止してしまった。おかえりと言われたことが死ぬほど嬉しいというのに。待ってたという彼の一言を一日千秋の想いで願い続けていたというのに。期待し続けてきたというのに。聞けた余り、胸が心地よさの余り痛いほどだというのに。
「あの、えっと…エダがさ、部屋着変えろってうるさくてさ。それで、明日会うんだから部屋着に一着貰ってくればって」
「…テルニャシュカのことかしら?」
「あー…たぶん」
あの狐女。
私の脳裏にはつい昨日交渉の場で会ったばかりの傲慢なアメリカ女を思い出していた。東西に分かれて彼の守護者を自認する私たちだが、あの女は誰よりも愉快犯的な恐れ知らずな部分がある。そのことに警戒していたが、まさかこれほど先手を打つのが早いとは…。
しかし、よりにもよってテルニャシュカが欲しいとは…。
「ねぇ、私の可愛い人、もっと他に欲しいものはないのかしら?」
再会の喜びをあらわにすることも無ければ、淡白に過ぎる彼の反応が気になった。
あの不信心なCIAが何を考えているのか、私には皆目見当もつかなかったが…まず間違いなく、目の前の彼にのみ有意義な何かであろう。それだけは信頼できた。
「欲しいもの…」
私が優しく貴方の手を取ると、貴方は全く抵抗しなかった。まるで当然のように私の手に手を重ねてくれた。指に指を絡めてくれた。私は背筋がゾクゾクとした。
何年。何年この感覚を、この瞬間を待ちわびたことか!
私の高揚が、意識の手綱を振り払い、暴騰を始めた。幸福の絶頂を味わうのもそう先のことではなかった。
「そう、欲しいものよ、あなたの欲しい物をなんでも教えて頂戴。私の可愛い人。今の私なら、なんでも用意してあげられるから。なんでも捧げることが出来るから」
そうよ、文字通りなんでも用意できるの。貴方が望むなら核ミサイルだって。このモーテルの床下にミサイルサイロを建設しても構わないの。
全部貴方のお陰。私のものは貴方のもの。全部全部。貴方のものは貴方のもの。全部全部。だからね、教えて頂戴。貴方を教えて。私に気を許して。体を預けて。甘えられたいの。貴方を甘やかしたい。振り回して欲しいの。もっとわがままを言われたいの。私を貴方のワガママで困らせて。貴方の為に苦労をさせて。その全てが、私にとって甘美な実感なの。私にとって都合の良すぎる快楽なのよ。
「……」
「ねぇ、ないのかしら?何でもいいの。なんでもいいのよ?」
彼はじっと私のことを見つめていた。考える素振りをやめてしまった。
私は焦った。あぁ、どうしよう!どうすれば、どうすれば私は赦してもらえるのだ!自分に許すことが出来るのだ!お願い。お願いよ。もう我慢できないの。もう待てないの。お願い、私の腕の中に、貴方を閉じ込めてしまいたいの。貴方に飛び込んで欲しいの。貴方を委ねて欲しいの。絶対に後悔させないから。絶対に私が満たして見せるから。だからお願い!もう、もう狂いそうなのよ!貴方のことを見た瞬間から。貴方のことを考えただけで、カラダが言うことを聞かないの!
私の叫びが聞こえたのか、貴方は何も言わずに私の胸の中に身を委ねてしまった。
まるで飢えた人間の為に、火に身を投げる健気な子兎のように。無防備に。
「ど、どうしたの?私の可愛い人。お願い。私に教えて。言葉で、言って欲しいの。お願い。お願い。貴方の声で聴かせて」
貴方は、臙脂色のスーツの胸元から覗く私の火傷の痕に吸い付いて、そのまま何も言ってくれなかった。
「ねぇ、坊や。坊や…お願い、もうこれ以上は許して…」
私は必死に懇願した。貴方は赦すとも、赦さないとも言ってくれない。私の傷を、犬や猫がするみたいに、その傷を癒すように優しく優しく慰めるだけだ。舌と吐息が触れるのすら戸惑うように、丁寧に、繊細に。
彼のことを愛でるつもりでいた。可愛がるつもりだった。彼を誉めて。彼に褒められて。そうやって、和やかな会話を楽しめると思っていた。臣従儀礼のように、彼の手ずから宣告されるものだと思っていた。でも、何時まで経ってもそんなことは起きない。私は悶絶して、戦場でも経験のしたことのない焦燥と興奮で頭がおかしくなりそうだった。息が荒くなり、彼の頭を壊れモノに触れるように恐る恐る撫でる事しか出来なかった。密着した彼の心音は落ち着いていて。私の心ばかりが持久走のように無理を強いられていた。
もう、もう無理よ。限界。限界だわ。
私が今にも彼を押し倒しそうになった時、部屋のドアがノックされた。
…誰かしら?
「誰かしら」
口に出ていた。私の存在を確認した誰かは名乗らずにドアを開けた。
「ボスいるか?」
見知ったアジア系の女がずかずかと入ってくるなり貴方の顔を覗き込んだ。
「あぁ、貴方ね」
「おう、何年ぶりだ?あたしレヴィっての。よろしくな、えぇっと…ミズ・エカチェリーナ?」
貴方の顔から眼を離さずに、レヴィは大仰な手振りでご挨拶を片付けた。
「フフフ…お上手ね。でも残念。バラライカと呼んで頂戴」
「ん。そんで、ボスなんだけど…ありゃりゃ、寝てら」
私の言葉をさらりと流して、貴方の頬を二度三度指先でそっとつついたレヴィは直ぐに声を潜めて言った。
「…寝てる、の?」
私も声を潜めると、レヴィは物知り顔で頷いた。貴方の熱い鼻息が生地越しに私の心臓に届いていた。血に、鼓動に、自分の匂いを染み込ませるように。
「あぁ…こりゃあ、しばらく起きねぇぞ」
「そう…残念ね」
私は素直にそんなことを思った。少しでも、貴方が欲しがるものを用意できる力を示したかった。自分の便利さを示す最良の機会だと考えていただけに、その落胆は隠せなかった。
「…欲しいもの、気になるか?」
「…地獄耳なの?それともグラスでも持ち歩いてるのかしら?」
レヴィの言葉に不信感とからかいを込めて返すと、彼女は鼻で笑って不機嫌そうに答えた。
「どっちも違えよ。親愛なるクソ尼がアンタの話をあたしにも持ってきたんだよ」
「あら、本当に手が早いのね…それで、何を聞いたのかしら」
この発展途上のロアナプラで早くも教会と言う形で地元に根を張り影響力を確保してしまっている辺り、あのイディス・ブラックウォーターという女は与しやすい相手ではないことは明らかだった。だが、にしても殊、貴方に対しての造詣が不気味なまでに深いことは悪いことではないのだろう。
私はレヴィの言葉を待った。期待と不信を抱えながら。
「絶対にアンタの思い通りに事は運ばない。だから、凹んでたら慰めてやれ、だとよ」
レヴィは深い笑みを浮かべ、その笑顔を穏やかなものへと、貴方を見つめるや流れるように変化させた。
「信心深いシスター様だこと…」
私はレヴィの言葉に皮肉で返すしかなかった。事実、期待していた通りの成果は得られなかった。
「だろ?言ったとおりだ」
私はレヴィの視線を受けながら、貴方へと視線を向けた。眠ってしまったのね。私はお気に召さなかったのかしら。お話するのにも、値しなかったのかしら。じゃあ私はどうすればよかったのかしら。
「……」
「なぁ…アンタ、そろそろ気づいたらどうだい?」
私はレヴィの言葉を呑み込めなかった。
「…言っている意味が、よく分からないわ」
「……」
「……ねぇ、なんとか言ったらどう?」
レヴィは私の言葉を無視して、貴方の寝顔から目を離さなかった。貴方のことしか見ていなかった。
「ククク…見ろよこの顔。安心しきってやがる」
レヴィはそう言った。
「………そうね」
あ…。ふふふ…そう、そうなのね。あら、もう、仕方がない人。本当に、私の可愛い坊や。坊やは不器用なのね。そう。そうだったの。赦してくれるのね。初めから、怒ってなんて居なかったのね。最初から、出会った時から、私は貴方のものだったのね。そう、そうね。だから『おかえり』なのね。
「…恋しがるから。なんか匂いついたもん用意しとくと好い」
「えぇ…」
レヴィの言葉に、何かものを考えて言葉を返す余裕はなかった。ただただ、貴方のことが愛おしくて。貴方の頭を撫でる手に力が入ってしまいそうで。
「どうだ?まだ、ボスに欲しいもんを聴く必要あるか?」
「ないわ。えぇ。ないの」
そう、必要ないの。欲しいものが目の前にあるのに、その欲しい者から何が欲しいかと聞かれるなんて、照れくさくて言えなくて当然だった。
「そりゃあ、重畳。じゃあ、エダの頼みも聞いたことだしあたしは出て来るわ。邪魔したな」
レヴィはそう言って、貴方を抱いたままソファから身動きの取れない私を置いて出て行こうとした。
「レヴィ…」
「…ん?」
私の声に振り返った彼女は、何かを察したのか犬歯を見せて口角を上げた。
「この子、いつもこうなの?」
「あぁ。可愛いだろ」
全くもって同感だ。私は彼が起きるまでこのソファから動くことが出来ない。ロシア政府でも阻害できない私の動きを、眠っているだけで阻害できるのはこの世で貴方ただ一人だ。
「…もうお手上げよ。モスクワに帰りたくないわ」
私の本心からの言葉にレヴィは声を殺して笑った。
「ふっ…ククク。じゃあ、ボスの子守りよろしくな」
「貸しにしとくわね」
美味しい役回りを、これは譲られたと言えるのだろう。私は素直にレヴィに礼を言った。
貴方が起きるまでの時間。私は貴方のカラダに触れ続けた。撫でて、触れて。刺激も何もなくて、たったそれだけだったけれど、それがこの数年間の宿願の果てに私に与えられた価値あるものの中で、唯一私を深く満足させた。
少しずつ。少しずつ。私は貴方の色に染まっていくのだ。
私は貴方と一緒に暮らすために、拠点をモスクワからロアナプラに移す計画を大幅に前倒しにした。その為に、余りある資産を採算度外視でこの辺鄙な東南アジアの島に投入した。私に遅れまいとラングレーの狐女も面白がるように数十億ドルを軽々とばら撒いた。超大国の息の揃った動きは、世界に向けて鉱脈の発見を宣伝したようなものだったが、そこにある鉱脈の真の価値を知っているのは私を含めても未だ世界に十人もいなかった。そのことが私達に高揚と優越感を抱かせ、同時に貴方の生活の平穏を担保する上で重要な役割を演じていることは言うまでもない。
私はこの島の番人になろう。貴方と私が平穏に暮らせる愉快な島の番人に。
バラライカとロベルタの違いは、一度でも倫理的に正しいと思えることをしたか否か、また一人だったか一人じゃなかったかです。重い軽いで言えば、一人で抱えるしかなかったロザリタの方が重篤だったことは言うまでもありません。ソーフィヤは弱さと強さを共有できる他人がいた分、また好いか悪いかはともかく人助けでどん底に堕ちた分だけ、真っ黒なロザリタよりは相対的にマシでした。二人とも泣く子も黙る最終兵器でしたが、人格と良心をもち、また強い意志の力がありました。意外に思うかもしれませんが、二人とも理性が強すぎたのだとも言えます。理性が強い余り、論理的に正しく、また社会的に求められることに忠実でありました。両者は英雄ですが、何かを変えるような英雄ではなく、既存の何かを守る英雄でした。彼らはアレキサンドロスやナポレオンにはなれなかった。ジャンヌダルクや岳飛や蘭陵王やスティリコだったと言えば伝わるでしょうか。主人公は二人を手に入れるために、まず手始めに二人の理性と負い目を満たしたわけです。お金しか持ち合わせていなかった彼ですが、論理にも倫理にも縛られずに巨額を溝に捨てられる彼にしか出来ないことでもありました。足りなかったものと、欲しかったものを満たされたことで、金で全てを買うことができたからこそ、そこまでしてようやく初めて、金では買えないものの価値に気が付くわけです。主人公は期待こそすれど、お金を返して欲しいとも思いませんし、そのまま独立独歩で人生を歩んでいったとしても責めませんでした。またどこかで会った時に改めて口説くだけでしょう。ありとあらゆるものを手に入れてから、その上で自分を選んで欲しいという主人公の欲望が、結果的に一人で救うには余りにも大きなものを救ってしまっただけなのです。