朝が来た。何の変哲もない普通の朝、いつもの朝、平和な朝。
そんな朝が、すごく重いもののように感じる。
「イリヤさん。そろそろ時間ですよ」
「はーい。あれ、お兄ちゃんは?」
「今日は弓道部の朝練だそうです」
「先行っちゃたかぁ……」
会話も、何の変哲もない、普通のもの。でも、どこかぎこちなくて。
「イリヤさんその……一人で大丈夫ですか?」
「なに言ってるのセラ。大丈夫だよ」
イリヤはそう答えて、逃げるように戸を開けていった。
「いってきまーす」
その背中に、セラは声をかけることができず、ただ見ていることしかできなかった。
♦
「よーうイリヤー! 本日はご機嫌ハウアーユー⁉」
「おはよタツコ。雲がきれいだね」(オーウソーバッード?)
「んだよ朝からそんなんじゃ放課後まで持たな」「うるさい龍子、静かにして」
「ごめん今そんな気分良くないんだよ……」
イリヤ美遊宝による総攻撃の前に龍子は崩れ去った。
イリヤも美遊も宝も、なんだかとっても気落ちした様子である。その中に龍子も加わった。
「だれか優しくしてくれ……」「はっはっはっ、この蛆虫め」
「優しくしてない……と、ともかく。なんか空気悪いね」
ミミの言葉に、雀花がうなづく。
「なんかあったのか? 昨日……」
昨日は割と普通に仲良さそうに、ともすればいつもよりも距離が縮まった風に思えたのだが、今度は前通りというか、前以上に距離が開いているように感じる。
でも、これは別に何かがあったとかいうわけではなく(いや、あるにはあったんだけど。人に言えない事件が)単純に昨日の今日で、顔を合わせずらいというだけであった。
「ごにょにょ(どうやら体調は大丈夫なようですね。イリヤ様も、宝様も)」
「……(あれだけの魔力を放出しておいて無傷、か……宝のほうも、今回は大丈夫そう、だけど……)」
「ごにょのにょ(問題は心のほう、ですね)」
♦
昨夜、一時過ぎ。イリヤとセラは夜間外出の件(と、セラは思っている)で話をしていた。
心が弱っているのを感じたセラによって、セラとだけ、ほかの家族にこのことは伝えずに、二人だけで話していた。
……いや、話してはいなかったかもしれない。イリヤは何があったのかを伝えられなかったから。なにせ、凛やルビーとの約束がある。それに話したところで、きっとわかってもらえない。イリヤが普通の子供であったのと同じように、お手伝いで母親代わりのセラもまた、普通の人間。魔術を信じることは、きっとない。
イリヤは、何も話してくれないのですかと尋ねるセラに、ただ「ごめんなさい」とだけ言っていた。
「……責めるつもりはありません。ですが、イリヤさん。わたしは奥方様から、この家の留守を預かる身です。理由も話してもらえないなら、このような夜遊びを容認するわけには」「行かない……」
「もう……しない、から……今日で、終わりにする、から……」
イリヤの声は泣いていた。きっとそこに、様々な葛藤があったのだろう。しかしそれは、セラも、そしてルビーも知らないところだった。
『いやぁしっかし、親バレはまずかったですねぇ。魔法少女ならぬ非行少女だと思われちゃいましたかねぇ。いやぁ、実際空は飛ぶんですけどね』
授業中、ルビーはこっそり、イリヤを元気づけようとそう声を発する。でもイリヤから、突っ込みは帰ってこず、代わりに普通の返答が来た。
「魔法少女のことも、魔術のことも秘密なんでしょ。どうせ信じてくれないから、もういいよ……」
『も、もちろん! 魔法少女は正体不明がスタンダードですからね、今後ともそこは隠し通していかないといけません!』
「今後とも……でも、わたし、カード回収する気は、もう……」
『別にいいんじゃないですかー?』「え?」
ルビーはあっけらかんと、そう言い放った。一瞬呆けたイリヤに、彼女は追撃する。
『もともとカード回収任務は凛さんとルヴィアさん、それと宝さんに任せられていたものです。もちろん私がイリヤさんをマスターにしたというハプニングこそありましたが……私たちはあくまで貸し出されただけ。本当は一般人の力を借りず、凛さんたちだけで回収任務を行うべきだったんですよ』
「……そういう、ものなの? それに、止めないんだ」
『私的にはカードなんてどうでもいいですしねぇ。私とサファイアちゃんがいなくても、ガッチャがいますし。油断さえしなければ、今までのカードは全部、ガッチャード単独でも倒せていた可能性はありますから。それにですねぇ……あんな血生臭いこと、魔法少女の仕事じゃありませんよ』
「血生臭い、か……たしかに、そうかもね。どんなに取り繕っても、あれは命のやり取りだったんだ」
宝が白い姿になって、セイバーの英霊に殺害されそうになった瞬間は、今でも覚えている。そしてその白いガッチャードは、昨日、自分を……
「タカラ君は、さ。そんな世界に、ずっといたの?」
『宝さんですか? まあそうとも言えますが……でも、実戦をったのは、今回が初めてですよ。戦った回数は、イリヤさんと同じなんです』
「え? でも、魔術師の世界に生きてたって」
『魔術師の世界をそんな地獄みたいに言わないでください。あってますけど。大正解ですけど。宝さんは、お父さんやお姉さんたちに守ってもらっていたので。普通だったんです、確かに普通の子だったんですよ』
「……そっか。じゃあ、タカラ君も」
『きっと、昨日の自分が怖いと思っているのでしょうね、あの意気消沈ぶりを見るに。それは当たり前のことです。自分の中の不思議な力にも、殺し合いにも。どれにも怖いと思うのは、人間として当たり前のこと。とても普通のことなんですよ』
ルビーは諭しながら、またはっちゃけて。
『むしろ凛さんたちに、ここまでよくつきあったもんです。ほめてあげたいくらいですよ!』
「あはは、ありがとルビー。でも、これからどうすればいいのかな……」
『ふむ、そうですね。やっぱりもともと責任があることではないとは言っても、何も言わないでバックレるのはまた違いますし……まあ、一応』
♦
『凛さんに、ぶっちゃけちゃいましょうか』
放課後、ルビーのその言葉通りのことをすることになった。凛を呼び出して(一応作った)辞表をおずおずと渡す。それに対して凛は。
「昨日はあのまま帰ってこなかったわね……大丈夫かって心配していたのだけど、これは……そういうこと、よね」
受け取りつつ「ま、こうなるとは思ってたわ」と言って。
「……何か言いたいことがあるなら、聞くわ」
そう、促した。
「………………最初は、正直……面白半分と、興味本位が半分で。でも……」
言葉はいくらメルヘンでも。ファンタジーのように、見えても。
「考えが甘かったって、思い知って……」
そう、どう取り繕っても覆せないものがある。
彼女はもう、二回も。死にかけていたのだから。
「だから……」
今頃になって、ミユの言葉が深く突き刺さったような気がした。
タカラ君もミユも、戦う理由があるのに。
私には、そんなものはなかったんだ、って……
「もう、戦うのは……イヤです」
そう言うと、凛さんは呆れたような、でも少しだけ優しい顔をして。
「そう、わかったわ」
そう言ってくれた。
「一つ、確認したいのだけど」
「っ」
「昨日のあれは、自分の意志で引き起こしたこと?」
それは、ちが「違う! わたし、あんなの、一度もやったことない……」
「でも、ルビーにあれほど大出力の爆発は起こせないわ」
「っ……それは」
『凛さん、一回ストップです。これからイリヤさんは、カード回収が終わったら、魔術との接点はなくなります。ですから、もう聞く必要はないと思いますよ』
それ以上に踏み込もうとした凛を、ルビーが止める。
そうね、と一息、彼女は。
「本当に怖かったのは、そのことなのね……わかったわ」
凛は辞表を受理。ルビーを取ろうとして、掴んだ。
「協力を要請していたのはこっちだし、辞表を受け取らない理由はないわ。いくら戦力が足りなかったとはいえ、小学生の女の子に代わりに戦ってもらうなんて……判断が甘かったと言わざる負えないわね」
『ところでなんかつかまれてますけど私戻る気なんてないですよ?』
「は? いやあんたもいないと最後のカード倒せないんだけど⁉ サファイア達だけじゃたぶん無理よあれ⁉ だからマスター登録を元に戻しなさい!」
『やーなこってす! 私のマスターは私が決めまーす!』
凛はルビーをめっちゃ引っ張った。丸いところがめっちゃ引き延ばされた。でもルビーはおれなかった。
べしっ
「……いいわ、どうせカードは残り一枚だし。回収がすんだら私もルビーも、ロンドンに戻るし。それで全部終わり、もうイリヤには関係ないことになる」
「そう、ですね……」
「……うん、今までよくやってくれたわ。本当にお疲れ様。もうあなたは私の命令を聞かなくていい」
優しい声音で、彼女は言う。
「今日までのことは忘れて。魔術の世界なんて、結局首を突っ込んでもいいことはないの。全部、夢だと思って……忘れてくれていいわ」
それは、確かに存在したつながりを、二人の間の契約を消す言葉だった。
それは、自分で望んだことのはずだった。
でも、なぜか。
なぜか、心が痛い。
「日常に戻って。宝も、きっともう魔術のことは何も話さないから。……それでいい?」
そうして凛が声をかけたのは。
「美遊、宝」
一人は、真剣な面持ちで、今夜の戦いに臨む少女と。
対照的に、意気消沈といった様子の少年だった。
「はい」「……大丈夫です」
「ミユ、タカラ君……」
「あの、イリヤちゃん。昨日は」
思わず話しかけた宝の声に、イリヤの顔がこわばる。
襲い掛かってきた彼に対する、トラウマにも近いある種の恐怖。思ったわけでもないのに、体が反応して、一歩下がってしまった。
「あ……」
「宝。イリヤには、あのことも含めて忘れてもらう。だから、いつも通り……ってわけには、いかないわよね」
「……そう、ですね」
「……今日で終わり。この関係も、全部。最初に言ったとおりには、ならなかったけど」
美遊が言う。
「貴女は、もう戦わなくていい。あとは全部、私たちが終わらせるから」
その言葉はあの時と同じ。でも、響きに含まれたものは。
……いや、今はいいだろう。
次が最後の戦い。
冬木の廃ビルの、最上階。そこに集った面々は今日、最後のカードと相対する。
これが、正真正銘の。
「ラストバトル……始めるわよ!」