ひくりと、マンセマットは頬を引きつらせていた。
良い感じで情報を集めて、つぎの世界の確認をしようと思っていたところだったのだが。
偵察に出した配下の天使部隊が戻らないのである。
マンセマットは悪魔を従える事も許された、天界の汚れ仕事専門の天使、いわば掃除屋だ。似たような役割の天使は他にもいるが、その権限は大きい。かのモーセの逃避行にもマンセマットは関わっている。
ただ、人の世界の信仰は。天界の汚れ役というものに、敬意を払わなかった。
時代を経ると共に、そもそも汚れ役を悪と見なす輩や。そもそも神が完全なら何故に悪がこの世にはびこるのかと考える輩が。
天使の中から、悪を見繕うようになっていった。
それが「敵対者」である。後の時代に「サタン」と呼ばれるようになったものの原型。最初「サタン」というのは固有の悪魔ではなく、悪さをする天使そのものの意味だったのだ。
所詮神は精神生命体。そして神に仕える存在である天使だって同じ事。悪魔使いの人間が、全てを等しく「悪魔」と称しているのもある意味間違ってはいない。根本的な所では、所属する勢力が違うだけで同じなのだから。
いずれにしてもマンセマットの立場は悪くなるばかりだった。
実力はいわゆる四大天使にも劣らないのに。神の覚えがこうも悪くなるようでは、天界での席次は落ちる一方だ。
だから今回の件を買って出たのである。
もしも上手く行けば、いい気になっている四大どもを一気に出し抜くことだって可能だろう。
鉄船の人間共を率いる英雄の内、異国の神。
サクナヒメだったか。あれは、おそらくマンセマットの内心にある野心や渇望を見抜いていただろうが。
だがその程度の事はどうでもいい。
何重にも張り巡らせた糸がある。それを絡め取って、やがて目的を果たせば良いのだから。
「報告します」
「ええ」
「第三小隊、連絡を絶ちました」
「……ご苦労。 味方をまとめておきなさい」
何かが邪魔をしている。
実の所、マンセマットは数億と呼ばれる天界の軍勢の内、ごくわずかしかこの世界。人間がシュバルツバースと呼んだ土地には連れ込んでいない。今配下としている天使は、ほとんど現地調達したものだ。
この世界がどういう存在かは、マンセマットもとっくに知っている。
勿論人間に真実を言うつもりはないが。
そもそも手下を効率よく増やすために、人間にデータの提供を要求したのだから。
いずれにしても、何かが邪魔しているのは確か。現地調達した部下をこうごりごり削られると、非常に腹立たしい。
マンセマットは決断を迫られる。
今、唾をつけている人間。ゼレーニンというあの美貌の持ち主は、もう二押しくらいしないと転ばない。
放って置いても、どうせこの地で嫌と言うほど人間の業を目にする事になる。その筈だった。
だが、あの鉄船に乗っている連中が、やたらと強い。それぞれが、大規模な天界と魔界の激突を鎮めかねない程の英雄ばかりだ。
あいつらと一緒にいると、ゼレーニンは抱き込めない。
だから、情報をもっとしっかり集めておきたい所だったのだが。
「ソロネ達よ」
「は。 此処に」
ソロネ。
天使の中でも、上級に位置する天使。正確には上級三位の天使達である。
炎に燃え、輪の中に佇むような姿をしているソロネは、座天使とも呼ばれる。マンセマットが所属する、天界の重鎮たる大天使達は地位としては上級一位に属するが。今回連れ込んでいるソロネ四体が、マンセマットの腹心と言う事になる。ややこしい事に下級二位にも大天使が存在するのだが、それはまたマンセマット達天使の大幹部とは別である。
「どう状況を見ます。 それぞれ意見を述べなさい」
「偵察部隊にはヴァーチャーやドミニオンら中級天使がいました。 彼らが戻らないと言う事は、何かとてつもなく危険な悪魔がいることになります」
「ふむ。 オーカス以上の実力者がいると」
「恐らくはそうでしょう。 戦力を消耗しきるまえに、一旦此処は距離を取ることをお勧めいたします」
他のソロネ達も同じ考えの様子だ。内心舌打ちする。
そもそも天界の天使達は、秩序というものに芯から染まりきっている。神の与える正しいものを甘受することに一切疑問を持たない。
自分で思考をするという能力が、著しく衰えきっているのだ。
これは汚れ役をしているマンセマットから見ればよく分かる。
勿論マンセマットも神に対する忠義は誰にも負けていないつもりではある。だが、同時に自己顕示欲だってある。
そうでなければ、他の大天使どもが気取って受けようとしない汚れ役なんて、進んでこなすものか。
いずれにしても、ソロネほどの高位天使であっても、こうも意見が揃うと言うことは。此奴らに自主的思考は期待出来ない、と言う事だ。
まあいい。そもそも此奴らには戦闘力以外一切期待していない。
マンセマットが頭を働かせれば良いだけのことだ。
「一度此処を離れますよ。 これ以上の戦力喪失は好ましくない。 この先にある魔王アスラの潜伏している世界で、力を再度蓄えましょうか」
「天使達を集めるのですね」
「そうなります。 いずれにしても私の力によって、これら連続した世界からは、つぎつぎに天使達が集まっています。 それらの天使達を取りこぼさず集めれば、いずれそれぞれの勢力の長どもでも好き勝手は出来ない防御網をくみ上げられるでしょう。 彼らがいう「大母」たちの空間でもね」
くつくつと笑うと。マンセマットは光の軍勢と共に、一旦鉄船のいる空間から離れた。
此処で倒されるわけにはいかない。
鉄船の人間達には、マンセマットを疑っている者もいる。
此処でボロを出すわけにはいかない。野望を達成するためにも。
頭を握りつぶした天使が、光の粒子になって消えていく。
さいふぁーと名乗っている堕天使は、空を見上げた。どうやら慎重なマンセマットは、一時撤退を選んだらしい。
これで、オーカスの邪魔をする者はいなくなった。
同様に、鉄船の連中もマンセマットにちょっかいを出されなくなる。
両者はフェアな条件でぶつかり合う事になる。それでいい。それでこそ、色々な可能性がぶつかる。色々な未来が生じる。可能性を増やしたい。それがさいふぁーの願いだ。
それにしても、だ。分からない事が幾つかある。
あのアレックスという人間。明らかにおかしな力を感じる。強いと言うより異質なのだ。
鉄船の中にいる英雄達にも強いのがいる。中にはさいふぁーと昔戦った奴すらもいる。
だけれども、それとはまったく別のおかしな力だ。さいふぁーはこれでも力に自信がある方なのだが。
それでもどうにも正体が分からなかった。
ふと、背後に気配を感じる。相手に殺意はないから、別に迎撃はしない。振り返ると、其所にはギリシャ風の衣服を纏い、花の冠を被った、小柄な女神が降臨していた。
古い古い知り合いである。なお、ローマ神話時代はともかく、争ったことはない。
「あらあら、これはとんでもない大物がおいでですわね」
「そちらこそ。 オリンポス十二神の大御所格ではないですか」
そう、そこにいるのはデメテル。オリンポス十二神の中でも上位に食い込む力を持つ、強大な女神だ。ローマ神話時代はケレースとも呼ばれた。
デメテルの実力は侮れない。一神教が最大勢力を持っている人間の世界でも、未だに物語として愛されているギリシャ神話は、信仰としては死んでいても神々の知名度では死んではいない。
神々が知られていると言う事は、それだけの畏怖を集めると言う事だ。
デメテルの実力は、さいふぁーでも一目置くほどではあるだろう。負けるとは言わないが、余裕では勝てない。さっきまで潰していた、羽虫のような天使とは次元違いだ。
ましてやこの空間では。デメテルは更に力を増しているようにさえ思える。
スカートを摘んで挨拶すると、デメテルはくつくつと笑う。
「老人になったり子供になったり、青年になったりと聞いていますけれど。 最近は女装にはまっていますの?」
「この姿は、非業の死を遂げそうになった地上世界の西欧にいた不幸なメイドから譲り受けたものだよ。 彼女と契約したのさ。 人格の一部と姿を荒事時に使う事を許してほしいとね。 その代わり私は理不尽に命を落とそうとしていた彼女を助けた。 その後彼女は心優しいご主人と結ばれて、子供達も出来て、今は天寿を全うしてあの世だよ。 もう百五十年も前の話だ。 勿論魂を奪ったりも地獄に連れ込んだりもしていない」
「あら、意外に義理堅いんですのね」
「私はいつも契約を守るし他の悪魔よりもむしろ契約のリスクは緩い。 私の様々な姿や人格は、基本的に助けた人間から契約の対価として借り受けているものなのさ。 私は人間の世界を歩くのが好きだ。 人間達の中には、たまに腐りきった世界で一生懸命真面目に生きている尊敬すべき者がいる。 そういう者に協力して、幸せな人生を渡し、代わりに荒事の時に使う姿や形を許可を得て借りる。 それだけだよ。 本来神が救うべき存在を神が救わない。 だから始めたちょっとした遊びさ」
肩をすくめるデメテル。理解出来ないという風情だ。
ギリシャ神話の神々は、人間を玩具くらいにしか思っていない。トロイア戦争のエピソードを見れば明らかだ。
それに対してさいふぁーは、あくまで「後付にて作られた悪しき天使」にすぎない。
神を完全、絶対と言っておきながら。この世の不完全性を説明するために、一神教が後付で作り上げた悪。
だから後の時代になればなる程その姿や言動は凶悪になったが。
さいふぁーくらいになると、その信仰をある程度はねのけて、逆にカリスマに。そして自我を得る事も可能となった。
だから堕天使達はさいふぁーに忠誠を誓うのだ。自分達に希望を与えてくれる星として。
しかしながら彼らはもう天使には戻れないのだ。人間社会の信仰が故に。
それにしても、身勝手極まりないオリンポス十二神の存在は、人間達だって分かっているだろうに。
どうして今でもその物語が魅力的なストーリーとして伝わっているのかだけは、さいふぁーにもよく分からない。
「それで、私と貴方に今は利害関係はないと思うのですが?」
「うふふ、そうですわね。 そして手詰まりなのは共通している。 そこで情報のみ交換と行きませんこと?」
「ふむ……」
「私は知っておりますわ。 この世界の最深部に何が眠っているのか」
ほう、とさいふぁーは呟く。
デメテルがさっきから周囲に結界を展開しているが、それはこのためか。こいつ、結構な食わせ者じゃ無いか。
そう思うと、ちょっと面白い。
「あわわ、びっくりですう。 私は何を提供すればいいですかぁ?」
「ふふ、それがそのメイドさんの人格ですのね。 ……唯野仁成という人間はご存じですわね?」
「ええ。 とても魂が綺麗で、ご主人様のようです」
「そのメイドさん、余程素敵なパートナーに恵まれたんですのね」
一瞬だけ、デメテルの口調に影が差す。
まあそれもそうだろう。ギリシャ神話の物語は、骨肉の醜い争いが延々と続くドロドロのものだ。
冷酷なオリンポスの神々には、多くの人々が弄ばれ。神々も凄惨な争いを繰り広げる。
デメテルもあまり幸運な神としての生を送って等いない。そういう事を考えると、色々面白くはある。
「あの唯野仁成は泳がせたいんですの。 それにはあのアレックスとか言う赤黒が邪魔ですわ」
「ああ、それで助けたんですね」
「ハーベスト! その通り。 理解が早くて助かりますわ」
「なるほどね……」
唯野仁成を泳がせる。
それは実の所、さいふぁーとしても望むところだ。あいつは可能性の塊である。
あの鉄船には、可能性を昔秘めていた英雄達がたくさん乗っている。
まだ可能性を残している者も多い。だが、多くは既に「あり方」が決まってしまっている。
さいふぁーを打倒しうる存在さえもいる。
だけれども、「あり方」が決まってしまっている存在に、さいふぁーの食指は動かない。これは、可能性を追い求める。混沌の権化であるが故の、仕方が無い事ではあった。
つまるところさいふぁーは、自分を凌ぐ力を持つ英雄よりも。
今後強くなっていく未来ある星の方に興味があるのだ。
特に唯野仁成には。大きな大きな可能性を持つ魂の星には。
「貴方の言う赤黒。 アレックスについては、少し情報を提供しておきましょう」
「ハーベスト! それではこちらも……」
話を聞き終えると、思わずさいふぁーは笑い始めていた。
そうか、予想はしていたがそういう事か。だとすれば、全てに説明がつく。
この世界はそもそも詰んでいる。そんな事は分かっていたが。何もかものからくりが解けた。
だが、最高の英雄達が協力し。
なおかつあの唯野仁成という可能性の塊が、もしも理想的な動きを見せれば。
その時は、或いは完全なる詰みを打開できるかも知れない。
実の所、さいふぁーは完全なる混沌など望んでいない。現状の、唯一神教による高圧的な支配は気にくわないが。
逆に言えば、それ以外の可能性が見いだせる世界なら何でも良い。
さいふぁーの実力では、残念ながら四文字にて構成される神には勝てない。
だが、だからこそ。これは、ある意味好機なのかも知れなかった。
「ふむ、予想以上の反応ですわね」
「此方としては必要な情報は全て揃った。 後は何もいらない。 以降は利害が無いだけの他人だよ、女神デメテル」
「望むところですわ、「さいふぁー」さん」
スカートを摘んで挨拶。それに対して、デメテルも最敬礼で答える。
勿論、見た目通りの行動では無い。これ以降、互いに邪魔をしたら殺す。そういう意味合いの挨拶。
簡単に言えば、縁切り。同時に不干渉。そしてそれらを破った場合は即殺である。
デメテルがいなくなると、指を鳴らして結界を消し飛ばす。結構強めの結界だったが、まあこんなものだ。
さて、オーカスはどうなっている。可能性は誰にでも等しく与えられるべきだとさいふぁーは考えている。勿論それはオーカスにもだ。
観察し、目を細める。
残念ながらオーカスは、その実力を生かせない可能性が高そうだ。
次があるという慢心があると、ああも弱体化するものなのか。諭す前よりは少しはマシになったと思ったのだが。
まあいい。今一番興味がある唯野仁成には特に問題は生じていない。
ならば、さいふぁーは満足するだけだ。
まずい。
アレックスは、目の前に現れた大柄な男が、インファイトでは勝てない相手だと察していた。背丈は二メートル近くある。それはそれで威圧感になるが。悪魔にはもっとデカイ奴が幾らでもいる。
問題はそんなことじゃない。ジョージも、危険を感じ取ったようで、警告をしてきていた。
「確認されている強力なアンノウンの一人だ。 筋肉の発達が異常でデータにない。 迂闊に近付くな、アレックス」
「……俺は「アンノウン」ではない。 ケンシロウだ。 知っているかも知れないが其方はサクナヒメだ」
「ケンシロウ? 聞いた事がないわね」
「俺もアレックスという女性の名前は……此処で初めて聞いた。 男性名だと思っていた」
マイペースにぼそぼそ言う大男。
さっきまで干戈を交えていたアンノウン。サクナヒメというらしい悪魔が会話内容に呆れている。
パラスアテナにサクナヒメの対処を任せたが、サクナヒメが押し気味だ。更にヒメネスを処理しなければならない事もある。
この大男に、何とか勝たなければならない。
「お前を殴る事はしたくない。 武器を捨てて投降しろ」
「舐めてくれたものね……」
「お前からは果てしない哀しみを感じる。 お前の怒りは哀しみから生じたものだ。 だから、殴りたくは無い」
ずばり心を言い当てられる。そうすると、心が沸騰するようだ。人間は、図星を指されると最大限の怒りを感じる。それは、アレックスも同じである。
この大男、ケンシロウと名乗ったか。ケンシロウがどうやってアレックスを見抜いたのかは分からないが。
その言葉には、マイペースでありながら。強い怒りがあった。アレックスの境遇に対する怒りだ。アレックスに対する怒りでは無い。
「戦うとなれば容赦しない。 だが、その怒りを収める気は無いか。 唯野仁成は……俺が知る限り、仲間を大事にし、妹思いな良い奴だ。 ヒメネスだって殺されるほど悪い奴ではない」
「ああそうかも知れないわね。 少なくとも此処ではそうかもね」
「アレックス、冷静さを失うな。 そいつは尋常なインファイターじゃないぞ」
「だからって、負ける訳にはいかない!」
踏み込むと同時に、光の剣で斬り付ける。
だが、全ての攻撃を読まれているように、悉くかわされる。ぞっとした。秒間数十回斬り付けているのに。その全てをミリ単位で見きっている。
此奴は、確かにジョージが言う通り、生半可なインファイターじゃ無い。
跳び離れると、拳銃を取りだして連射。この拳銃だって、そこいらに転がっているような代物じゃ無い。弾丸を自動生成まで出来る特注品だ。だが、やはり弾丸の軌道を全て読まれる。
ぞくりとした。ケンシロウの足下に、ひびが入ると同時に、間合いを瞬く間に侵略されたのである。こんな技があると聞いた事はあるが、実物を見るのは初めてだ。
ケンシロウの拳が降り下ろされるのが分かった。
本能の反応が勝る。横っ飛びに離れる。剣で弾いたのは、ヒメネスによるケンシロウへの援護射撃だ。アサルトの弾丸を全て切りおとすと、全身の冷や汗を感じる。アサルトの弾丸なんてどうでもいい。このデモニカで防げる。
今のケンシロウの拳。喰らったら、デモニカは確定で貫通され、死んでいた。幾多の死線をくぐったアレックスは、それを良く知っていた。
「よそ見するは早いようじゃな」
「!」
パラスアテナが、消えていくのが見える。まさか、倒したのか。パラスアテナ、オリンポス十二神の一角を。
サクナヒメが、アレックスの両手両足に、羽衣を結びつけているのが分かった。そして、羽衣のたわむ反動を利用し、そのフルパワーで槌を叩き込んできた。
思わず、頭に星が散るかと思った。
吹っ飛ばされたアレックスは、壁に叩き付けられ。そして崩落するショッピングモールの壁の瓦礫に巻き込まれた。
追撃は。
見下ろしているサクナヒメは、呼吸を整えている状態だ。今、ケンシロウという奴に追撃されたら確定で死んでいたが。あいつは或いはインファイト専門なのか。
瓦礫を吹っ飛ばすと、戦闘不能になって実体を失ったパラスアテナに戻るように指示。マッカを食わせて復活させなければならないが、当面時間が掛かる。
何より。体にかなりのダメージを貰ってしまった。
ショッピングモールに空いた穴から飛び出し、一旦戦線を離脱する。まさか、こんなに早く有効打を貰う事になるとは思わなかった。
前は、もっとずっと後。
ずっと後の世界に、レッドスプライトが辿りついた頃。唯野仁成に勝てなくなったのに。
唇を噛む。ジョージが、アドバイスをしてくる。
「今のは運が良かったな。 サクナヒメというあの謎の悪魔が、もしも武器に剣を選んでいたら殺されていた」
「デモニカのダメージは」
「バディ、焦るな。 デモニカの出力は81パーセント。 継戦は可能だが、出来れば避けた方が良いだろう。 ビバークポイントに戻るぞ。 しばらくは回復に努めた方がいい」
「……そうね、分かったわ」
敗走。初の経験じゃ無い。
このシュバルツバースに来る能力を得る前は、それこそ何度も何度も敗走した。泥を啜りながら生きてきた。
悪魔に対して、人間が殆ど何もできない世界だってあった。酷い世界では、基本的に力だけがルールで。力が強い者だけが何をしても良いと言う世界もあった。そこでは悪魔も人間も何もかもが殺し合い。結果誰も生き残れなかった。
唯野仁成が率いる国際機関に追い回された世界もあった。文字通り寝るヒマも無かった。
あの世界の唯野仁成は悪魔だとしか思えなかった。だって、あいつは。
さっき、ケンシロウが言っていた人を。
本当に、ジョージが言う通り、別人なのかも知れない。
今までシュバルツバースで試行錯誤してきて、遭遇した唯野仁成とは違う。ヒメネスもゼレーニンも違う。
何よりあのスペシャル達は何だ。嘆きの胎の強豪悪魔達並みの実力ではないか。
ビバークポイントに辿りつくと、メンテナンスシステムが走る。サクナヒメの一撃で、肋骨にダメージが入っていた。それも診察して直してくれる。痛みも、最小限に抑えてくれる。
この程度の痛みは大丈夫だ。それでも冷や汗を掻く。もう、敗走させられた。その事実が痛すぎる。
「ジョージ、回復までの想定時間は」
「バディ、この世界ではもう仕掛ける余裕は無い。 それは分かっているな」
「分かっているわよ!」
「……OKバディ。 回復までは肉体が48時間、デモニカは6時間という所だな」
頷くと、アレックスは用意しておいた保存食を口にする。デモニカが時間を掛けて生成する装置だ。
このシュバルツバースは何から何までが資源と毒で出来ていて。毒を抜いて加工する事で食糧にも出来る。
あの方舟は自給自足システムを使っているようだが。加工次第では普通に摂取した物資で食糧も作る事が出来る。
とはいっても、あの方舟の科学陣はただものじゃあない。
とっくにそれくらいは気付いているかも知れないが。
「ジョージ、眠るから勝つためのプランを練っておいて」
「勝つためか。 ヒメネスを確認したが、やはり今までの世界に比べて、強さに対する渇望が薄い気がする。 前にカリーナで見たヒメネスは、もうこの時点では力を求めてもっとぎらついた目をしていた」
「……」
「ゼレーニンも同じだ。 狂信性が薄れている。 恐らくだが、マンセマットの危険性を周知している周囲の人間がいるのだろう。 ゼレーニンがマンセマットと接近する機会を減らしているのか、或いは何か諭しているのか」
そう言われても。アレックスは知らない。
やがて力の権化と成り、文字通り世界を破滅させるヒメネス。
秩序の操り人形と化し、世界を停止させるゼレーニン。
その二人しか、アレックスは知らないのだ。
今更、そんな事を言われても、どうして良いか分からない。この絶望的な逃避行を始めた時、アレックスはまだ十二だった。
三つの平行世界を二年かけて渡り。
シュバルツバースに入り込めるようになってから、もう三年。失敗と判断しては何度も平行世界のシュバルツバースに転移して、今は此処にいる。
風呂なんて、シュバルツバースを渡り歩くようになってからは入った事もない。デモニカによる洗浄機能があるとは言え、それでもまともに眠ったのは一体いつの事なのか、覚えてもいない。
アレックスは知らない。平穏だった時代なんて。殺し合いが無かった時代なんて。
何もかも唯野仁成とヒメネスとゼレーニンのせいだ。
そう思い、復讐心を焦がして何度も何度もアタックしてきた。そしてその回数だけ失敗した。
今回こそと思ったのに。
アレックスは、戦いに向いていないのかも知れない。これだけ経験を積んで来たのに。それなのに。まだ運命は、アレックスに光を向けてくれない。
いつの間にか眠っていた。
ジョージが精神への負荷を減らすために、無理矢理睡眠薬を処方したのかも知れない。
礼は言わない。
「スキップドライブ出来る力を蓄えたら、嘆きの胎に行くわ」
「OKバディ。 いずれにしても、唯野仁成らはもうオーカスの至近にまで迫っているようだ。 そして今のオーカスなら……。 もう此処で仕掛ける余裕は無い」
「……そう」
「此処で駄目なら次のデルファイナスで決めれば良い。 このデモニカの耐用年数は二万年だ。 アレックス、君は更に言えば今はまだ肉体年齢も十七歳で充分に肉体の最盛期にある。 機会は、死にさえしなければ何度でもある」
ジョージの言葉が。今は、どうしてか。とても嬉しかった。
膝を抱えて、自分の無力を嘆く。勿論、涙など、とっくに枯れ果てた。