あれから幾ばくか、というほどでもない時が過ぎ、六月も残すところあと数日となった。
そんな、初夏との別れが迫る放課後、本格的に調子を上げてきた日差しに
生徒相談室に入るなり影沢先生は、当然のように施錠し、そそくさと前回と同じ席に座った。
部屋の中央にあるテーブルには、クッキーとペットボトルの紅茶がきっちり二人分、用意されていた。学習したのかクッキーは抹茶味だった。食べていいらしいので、頂く。
「前に夏目君に言われたとおり例の男の人と会ってみたんです」と影沢先生は口を切り、その男の名前──
「自虐風自慢風
ハイパーおしゃべりモードの女は無敵ということなのか、影沢先生は俺の茶化す相づちを華麗にシカトし──というか、耳に入っていないのかもしれない──話しつづける。
「今まで生きてきて、『魅力的』だなんて言われたこと一回もなくて、頭が真っ白になってしまって、お見合いでは何を口走ったかまったく記憶にないんですが、次も会う約束をしていたんです。結婚相談所の仲人さんが言うには真剣交際中という扱いになっているそうで──」真剣交際というのは結婚前提のお付き合いのことなんですが、と業界用語の説明を挟み、「どうやら伊達さんは本当にわたしを気に入っているみたいで、何が何やらわからないですし、何でわたしなんかをと思うと不気味に思えてきて、そういうふうに考えてしまう自分も気持ち悪いですし、もう全部気持ち悪いし、どうしたらいいのか……」
万人受けするように調整されたカスみてえな味の最高にイカすレモンティーでクッキーを胃に押し込んで俺は、口を開いた。
「
蛙化現象とは、意中の相手から好意を向けられることによりその相手へ嫌悪感を抱くようになる現象のことで、具体的には〈自分♡→好きぴ〉のうちはよくて〈自分♡→←♡好きぴ〉になると〈自分←♡きしょいやつ〉になるということだ。
ただし現在は、〈好きな人の
原因ははっきりとはわかっておらず、俗説が乱立している状況が続いている。
──という程度の知識は影沢先生にもあったようだが、
「たしかに人より自己肯定感が低くてネガティブかもしれませんが、蛙化現象が起こるのは若い子だけなんじゃないんですか」
と自身の蛙化については懐疑している。
「そうとは限らないと思いますけど。つーか、影沢先生は恋愛経験値的には小学生と変わらないんだから、それってつまり恋愛EQはメスガキレベルってことっすよね? 若い人だけだとしても十分ありうるっしょ」
「それはそのとおりですが……」と何やら言葉を飲み込むような気色を見せ、「わかりました、わたしが蛙さんになっている可能性が高いのは認めます──でも、それならどうしたらいいんでしょう。よくよく考えなくてもあんなハイスペ男子に貰ってもらえるチャンスなんてもう二度と訪れないでしょうし、理屈では彼と結婚したほうがいいというのは理解しているんですが……」
影沢先生は、世界の不安すべてがのしかかってきているかのような弱りきった表情をしている。
「マリッジブルーもまざってないっすか? 何かすげーめんどくせえ相談っすね」
「めんどくさい女でごめんなさい」
と言う影沢先生の眉間には、もうこれ以上はないというほど深いしわが刻まれていた。その悩ましげな隆起は、しみ真実困り果てていることを証明しようとしているようでもある。
──こういう疑心に満ちた解釈は暗鬼を呼び寄せそうだな。
などと思いつつ抹茶クッキーを頬張った。来てもこいつはやらねえぜ。
「ところで」
影沢先生は不意を衝くように言った。「夏目君は、伊達さんがわたしと結婚したがる理由は推測できてるんですよね?」
「まあたぶん」
「でも、それを教える気もないんですよね?」
「まあはい」
「わたしがそれを知ったら両生類から哺乳類に戻れたりはしないんですか?」
「しないでしょうね。理由を聞いたところで簡単に受け入れられるかも疑問だし、仮に受け入れたところで自己肯定感の欠如って問題が障害にならないレベルまで緩和するとは思えないですし」
「そうですか」
影沢先生は肩をしょんぼりさせた。
さあて、どうすっかなあー。
抹茶クッキーをすっかり平らげて学校から帰った俺は、リビングのソファーに寝そべりながら天井を見ていた──否、影沢先生の相談について頭を悩ましていた。テーブルにあったのがバニラクッキーやチョコクッキーだったら、生徒相談室を出た瞬間にあんなうじうじ
絶対に蛙化の呪いを解いてやる! 抹茶ジャンキーの名に懸けて!
と意気込んだはいいが、だ。研究が進んでおらず未解明な部分が多いのが蛙化現象だ。そのブラックボックスじみた謎現象を素人の俺に解決できるのかというと、難しいわけで、つまりはなーんも浮かんでいなかった。
──りん。
と鈴の音がした。かと思うと、
ペロッ。
顔に湿った温かさを感じた。
ペロッペロッ。
「みゃー」
ルナが俺の顔を舐めてきていた。こういうときの彼女は甘えていることがほとんどだ。構ってほしいのだろう。
今ちょっとそれどころじゃないから後にしてほしい、とは思うが、誰に似たのか言ってわかってくれるような存在ではない。舐めてきたり頭をすりすりとこすりつけてきたりとバチクソに鬱陶しい。
やむを得ず、「わかったわかった」と起き上がってソファーに座り直し、ルナの頭を撫でてやる。耳の付け根の辺りから顎にかけてふにふにと触ると、彼女は気持ちよさそうに目を細め、液体のように身体を弛緩させて俺の太ももに垂れてくる。
「気持ちいいか?」と尋ねると、
「にゅうー」と媚びるような声。
手を動かしながら思考を再開する。歯磨きしながら新聞を読んでいる気分だ。
──影沢先生の蛙化の最大の原因は、本人にも言ったが、その自己肯定感の低さにあると思われる。一回り以上も年下のクソガキである俺ら高校生に軽んじられても、怒るどころか、より辛辣な自己評価を口にし、へらりと卑下た笑みを浮かべるのだからその自己肯定感、自己評価の低さは相当なものだろう。
なぜそうなっているのだろうか、と考えて一番に思いつくのは、これまでの人生での成功体験の少なさから来ている可能性だ。
しかし、影沢先生はあれでも(過去の栄光のみを根拠に)名門と呼ばれる女子大を出ている。成功体験が皆無のガチの無能というわけではないのだ。
ということは、もしかしたらもっと前の段階、幼少期の環境に問題があったのかもしれない。
例えば、自分より圧倒的に優秀な兄弟姉妹と常に比較されて
──ま、事実は違うかもしれないが、成功体験の少なさが原因の単純な劣等感よりもずっと厄介なものを影沢先生が抱えているというのは、間違いないだろう。
本来ならカウンセリングなどで少しずつ認知の歪みを修正しつつ成功体験を積ませて自信をつけさせていくという気の長いアプローチが必要なのだが──それは、かーなりめんどくせえ。
かといって適当に褒めても影沢先生の自己肯定感は上がらないだろうし、それどころか伊達がそうであるように、「この人はわたしのことを何もわかっていない」「どうして褒めるのかわからない」「嘘を言っているに違いない」「気持ち悪い」「怖い」と嫌われて終わりだろう。
本人が少しでも、あるいは無意識にでも自信を持っているところがあれば、そこを褒めることで反感を最小限に抑えつつ自己肯定感を高めてやれそうではあるんだが、付き合いも浅いし、そんなのあるかもわからないし、あっても何がそうなのかわからない。
マジめんどくせー女。最高に人間してて最高にクールだ。
「何か、こう、スパッと裏技的に解決する方法はないかねえ」
腕を組んで独りごちる俺をルナの
そんなご都合主義あるわけないでしょ?
そう言いたげな顔にも見える。
そんなことよりもっと撫でて、とルナの心の声が聞こえてきたわけではないが、頭から尻のほうに向かって背骨に沿うように、指の腹で細かくさするように、小さな円を描くように優しく撫でていく──と、腰の辺りに来た時、ひらめくものがあった。
これなら影沢先生の琴線を探り当て、共感を誘う旋律を奏でられるかもしれない。願わくは、その演奏が彼女の心の雑音を打ち消さんことを、といったところ。
俺の思考の揺らめきを敏感に感じ取ったらしきルナが、「にゃ」と小さく反応した。単に、指が止まったから、こらこら集中しなさい、とたしなめたかっただけかもしれないが。
「ちょっと中断な」と断り、スマートフォンに手を伸ばす。
LINEの友だちリストから〈影沢先生〉をタップ。ルナの体温が残る指で彼女へのメッセージを打つ。
『週末に予定ってあります?』
すぐに既読がつき、
『日曜日は伊達さんとドライブです』
『じゃあ土曜にデートしましょう』
すると、『いじめですか?』『そこに春風さんもいます?』と来た。
こりゃ筋金入りだな。あきれるやら、感心するやら。
『高校生にもなってそんなことせんて』『普通に誘ってるんすよ』
〈既読〉の文字が現れてから次のメッセージが表示されるまで少し掛かった。
『わたしのことをATMにしようとしてます?』『教師の給料なんてたいしたことないですよ?』
ようやく返信が来たと思ったら、これである。溜め息が出る。
『何でもいいっすけど、とにかく土曜は一日付き合ってもらいます。いいですね』『駄目って言ったらガチでC組全員でいじめますよ』
今度は早かった。『わかりました』
しかし、その下にすぐに、『ちょっと待ってください。わたしこれでも教師なんですけど、生徒とデートしろって言うんですか?』と表示された。『それにそれって浮気じゃないですか』
『文句あるんすか』『一年間地獄を見ますか』『みんなのATMになりますか』『俺はそれでもいいですよ』
『なえです』
焦っている姿が目に浮かぶぜ。