誤字ですが前回言及されなかったのでこのまま進めます。
都立勉強高校は進学高の弱小野球部である。
学問であればそれなりに有名な高校であるが、東大に常時入学する実力もない程度の学力でしかない。そんな人材の高校にある野球部が強くある筈もなく、彼らの目標は一回戦勝ちというせせこましい願望だった。
そんな高校故に一回戦の相手が巨人学園高校と決まった時には監督を含めて皆が落胆した。相手のエースである大友はプロ顔負けの本格派投手であり、こちらの打撃では到底歯が立たない代物だったからだ。監督の好意で160キロのバッティングマシンで練習はこなしたが、外野すらまともに飛ばない。来年にお任せかな、とチーム全員が項垂れて考えがまとまっていた。
しかし、試合当日に顔を会わせれば何やら様子がおかしい。あちらの監督はおらず、それどころかあの最近行った大学との練習試合にいた一軍面子がほぼいない。すわ入れ替えかと思ったが、あの緊張ぶりは既視感がある。本番慣れしていない固まりの動きだ。己の勉強高校の練習試合があんな感じだった。
勉強高校は今や別の意味で困惑していた。何故か大友は書類を審判に見せながら頭を下げているし、受け取った審判自体も同情の色合いが強い。勉強高校のキャプテンである中沢は監督の水島と目を合わせた。解答は浮かばない。
「キャプテンの大友です。挨拶が遅れてしまい申し訳ございません」
「あ、ああ。構わないよ。そんなことより、君は大丈夫かね?顔色が優れないようだが」
「大丈夫です。ちょっとプレッシャーに晒されているだけなので」
大友の口から出た謝罪は埒外のものだった。
「し、集団食中毒!?だ、大丈夫なのかね!?」
「幸い命に別状はないようです」
一軍の一部と監督達が食中毒になり、無事な一軍も感染症の疑いから出場停止を受けたという話だった。監督がいない以上、指示は大友達が行うことになる。その為に大友はタイムなど遅延が発生すると前もって依頼しに来たのだった。
「監督が不在なのでタイム等の頻度は上がります。ご迷惑をおかけしますが…」
「いやいや構わないさ!彼らは病院かい?数人程度なら試合が終わったら車で送ろう」
「ありがとうございます!」
中沢達は混乱するばかりであった。生真面目な彼らには店で食中毒になるのも驚きだった上、それが直近の対戦相手にズバリ当たるとは想像にすら上がらなかった。水島の送るという好意に大友はようやく顔を綻ばせ、相手ベンチに戻った。
「ゆ、夢か?」
「夢じゃないよ。いつもならコールド負けの俺たちが掴んだチャンスだ」
「で、でも大友は無事だろ?どうやって点を取るんだよ」
「いや、大友は投げないみたいだぜ…?」
チームメイトの指摘に勉強高校の全員が大友を見た。彼は拙い手つきでプロテクターをつけたままレガースを装着していた。ミスマッチな光景に勉強高校は蠢いたが、ただ一人、ピッチャーの中沢だけは別の感想を持った。
「…取れないんだ」
中沢の呟きに水島は振り向いた。背後では巨人学園が守備練習をこなしている。野手の正面にノックを飛ばす巨人学園だが、守備陣の動きは些かぎこちない。それでも勉強高校より守備範囲が広いのはさすがと言うべきところか。やがて、大友の代わりにマウンドに上がったのは強肩俊足のフィジカルモンスター、真田一球だった。
「あの中では大友の球が誰も捕球出来ないんだ。それどころか捕手自体がいない、はず。だから一番緊張に強い一軍レギュラーの大友を一年ピッチャーの相方にしている。あの状況なら投手なんかできっこない」
「私達の相手は真田となる訳か」
大声とともに投球する一球の球は速い。スピードガンを持たない勉強高校でも、その速度が中沢より速いことは判断できた。だけど、絶対では無かった。勉強高校は全員が無言で円陣を組み、中沢が震えた声で呟いた。
「勝ち目は薄い。多分いつものように負けると思う。でも、チャンスは出来た。──勝とう、勝つんだ!今度こそ!!」
『一勝入魂!!』
サイレンが鳴り、試合が始まる。先攻の勉強高校打者の柏崎は平静に打席に立てた。いつもなら震えている膝も、今回ばかりは笑わない。ここまで来てかく恥など存在しなかった。
急造であろう巨人学園のピッチャーもまだ一年生。柏崎より背の低い一球に身体が出来上がっていないと感じたのは一瞬だった。一球のストレートに柏崎は球の遥か下をスイングした。脳内の弾道とまるで異なるその球に、柏崎は改めて才能の違いを実感した。
一球の投球は奇抜なモノだった。スリークォーター気味の投法に忠実な上半身と比較して、下半身は奇抜そのものだった。一球の左脚がマウンドを跨ぐように深く深く踏み込み、右膝は地面に擦れるほど下に沈み込む。腰よりも低い位置から投げ出した直球は、物理的に浮かび上がってキャッチャーミットに収まった。
異様な球筋に観客席は様々な反応をした。あるものは不敵に笑い、あるものは将来のエース候補に頭を悩ませ、スカウトはその完成度に唾付けを躊躇わない。その中で、五味兄は弟に対して一球の投法を解説していた。
「速度のない下手投げを解消するにはどうするか。…そう、
「…それがあのフォームか、兄さん」
「ああ。右膝が地面に着くまで左足を前に、限界まで伸び切った身体で腕を振り切る。下手なアンダースローよりも低いリリースポイントから投げ出された球は上に向けて投げられる。──アンダースローの利点をそのままに速度を維持した、強靭な下半身を持つ者だけに許されたフォームだ」
『ストライク!バッターアウト!』
先頭バッターの見事な三振劇にも、五味はひたすらに無表情だった。執念と努力がコーティングされた顔面はプロ投手も顔負けの代物と化していた。
『ボール、フォア!』
試合は一方的だが互いに毎回得点となる馬鹿試合だった。急造ピッチャーの一球のコントロールは安定せず、勉強高校はノーヒットながら犠打、送りバンド、そしてスクイズを重ねて得点を積み上げ、対する巨人学園高校はヒットと長打で奪い返す。互いに褒め合いながらの熱い展開だった。
九回表の時点で、彼らのせめぎ合いは14対10と巨人学園が微有利となっていた。長打とアウトカウントの差から出た結果であり、勉強高校が食い下がった結果だった。
寡兵の勉強高校の有志達による応援団のボルテージは最高潮だった。コールド負けが常の彼らが最終回まで僅差なのは初めてであった。喉が枯れるほどの応援は初めてであり、歓声に混ざるレベルまで音声は下がっていた。
「あああ!」
それでも勉強野球部にとって十分だった。四番が叫び声混じりに振ったバットは音を立ててセンター前へと飛んだ。四球で一塁にいたランナーが必死の形相で三塁まで飛び出し、ヘッドスライディングでグラブを掻い潜った。審判のセーフの宣言に、勉強高校は喝采をあげた。
「タイム!」
大友が出したタイムに次の打者である中沢は暗い喜びを覚えた。制球難や守備シフトで相談(ピッチャーなので当然だといえる)以外の、勉強高校が与えたタイムだったからだ。一箇所に集まる巨人学園を尻目に、彼はランナーを返さんとゆるゆるなスイングを振り回した。
「隠し球しません?」
「まあそれもありだな」
勉強高校の浮かれ具合とは裏腹に、一球達は冷酷だった。彼らの青春を台無しにするダーティプレイをする程度には真剣に対処していた。勝利の為に油断をつく。弱小高校の熱意の無さが実力差を浮き彫りにしていた。
「あの隙だらけさは確実に決まります。どうです?」
「わからんでもないが…まだワンアウトだ。流石に一球が打ち取った後に再度のタイムは許されないだろう。それならいっそ次試合まで持ち越したい」
「ならツーアウトで暴投します?一点献上はタイムに値するはずです」
「あー、それなら「待ってくれ大友」…どうした?小倉」
躊躇なく処されようとした勉強高校の青春に待ったをかけたのは二軍の代表役である小倉だった。大友達の目線にたじろいだものの、彼は真剣な目で大友達に提案した。
「このまま投げて欲しい。我儘だが、
「確実ではないぞ?逆転されたらどうする?」
「─俺達が打つ」
大友が薄ら笑いを辞めて小倉達を見据えた。才能も、一芸も磨き上げられない小倉達の信頼を測る情のない目だった。数秒だったはずだった。大友は口をへの字に曲げて一球にボールを渡した。
小倉達は喜び勇んで守備位置へ駆け出した。動く必要のない一球は笑いながら大友に揶揄した。大友は恥ずかしげにマスクをつけた。
「演技下手ですね大友さん」
「うっさい」
ワンアウト、ランナー一三塁。苦境が見える中一球の球に翳りはなかった。ボール、ボール、ストライク、空振り。身体が固まった中沢に対して一球が投げたのはど真ん中だった。絶好球に中沢のバットは球を捉えたが、彼の握力は球の球威に足りていなかった。ライナー気味に浮かんだ打球は跳躍したファーストの左手に収まり、着地した足は一塁ランナーが戻る前に辿り着いた。
「…あっ」
『アウト!ゲームセット!!』
劇的な逆転劇は起こらず、順当に勉強高校は敗北した。
ふわふわと地に足がついてない歩みで勉強高校一行は撤収していた。他のチームメイトが健闘を讃えあうなか、中沢は今更ながら緊張が手に余ったような熱を覚えた。帽子を外せば、その中は熱気にこもった汗がむわりと浮かんだ。ピッチングをしていた時には気付かなかったが、身体は全力を尽くしていたらしい。肩が重くなり、背中の付け根が痛んだ。
「よお」
鈍い身体を起こして出た廊下には巨人学園の選手である小倉がいた。勉強高校にトドメを刺した彼は帽子を払って中沢のそれを剥ぎ取り、入れ替えた。サッカーのユニフォーム交換のように渡されたそれを掴み、中沢は困惑して小倉を見た。
「は、え。…僕にかい?小倉だったよね…どうして?」
「俺の甲子園はコレで終わりだからな」
晴れやかに笑う小倉に中沢はようやく彼らも幸運であったことに気付いた。巨人学園の一軍が復活する以上、彼らの役目は中沢同様に終わっている。小倉は最後に掴んだであろう球を撫で付けた。
「今回がイレギュラーなだけで俺達二軍が試合に出ることはない。応援で就職かと思ってたが、まさかの出場だ。お前達と勝負出来て良かった」
「はは。順当に負けてた気がするけどね」
「いや、誤差だったよ。エラー4の巨人学園とエラーなしの勉強、どちらが
小倉の謙遜に中沢の口が一瞬止まった。一軍の実力を知っている彼が話す褒め言葉に邪推が入った己に嫌悪した。もっと努力すればよかったと中沢は思わざるを得なかった。
「…なら。…そちらこそ、打撃力は到底敵わなかったよ。僕が出来たのはひたすら微細な変化球で芯をずらすだけだった。抑えきれなかったけど、君から取った初三振は嬉しかったよ」
「うわ。恥ずかしいな。あれが初めてかよ」
互いに褒め合いながら裏の内情を話していく。中沢と小倉の話は一時間ほどに及んだ。チームメイトは全員いなくなり、観客席の脇で高校生活を話し合った。ただ、隠し球の話に言及された時は流石にぞっとした。負けるべくして負けたのだと、中沢は確かに確信した。
「じゃあな。─楽しかったよ」
寂しげに小倉は別れを告げた。中沢は彼と交換した帽子をまじまじと見つめた。土と汗に塗れた、汚らしい帽子だった。これほどの苦労をしてなお届かない。高みを知るのと合わせてようやく彼らは負けたことを受け入れた。
中沢達の夏は終わったのだ。
彼は清々しく涙をこぼした。