フォックス・ハント   作:簑都薇

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 イチカは執務机に紙の山を置いて、ふうっと息を吐いた。

 ブラインドを上げた窓からは曇り空ゆえに陽光が控えめに差し込み、室内を照らしていた。革張りの社長椅子に尻を預けて、掃除を終えたばかりの室内を見渡す。昨日の雑然とした様相は多少改善されていて、かすかに達成感を覚えた。イチカは割と綺麗好きだった。

 

 イチカは楝民間警備会社の一室で寝泊まりした。

 だがヒフミは朝になっても帰ってこなかった。

 夜のパーティー楽しみすぎたのか、学校にもう行ったのか。彼女がどうなろうが知ったことではないと昨日決心したばかりなのに、気付けばヒフミのことを考えていた。

 

 一応お嬢様らしいからお付きの人とかいないんだろうかと考えて、ハッとして端末を取り出し通話をかける。相手は元プロモーターの加里屋隆。

 荊都椋が件の廃墟になぜ現れたのか、彼女と連絡が取れないのなら彼女の周囲の人物越しに確認を取ればいいのだとようやく思い至った。

 数コールの内に加里屋が出る。

 どこか疲れ切った声に心配しつつも一通りの挨拶を終え、本題を切り出して。

 そこでイチカは、え、と声を漏らして思わず聞き返した。

 

「混乱するのはわかる。もう一度言うぞ。──ムクは死んだ」

 

 気付けばギターケースを担いで飛び出していた。せっかく片付けた書類が吹き飛んでいたが、どうでもよかった。

 

 

 

 大粒の雨がイチカもろとも地面を打ち鳴らしていた。

 ガストレア大戦中に放棄された工業地域の一画を、イチカは大鎌の切先を地面に擦り付けながら歩いていた。目は赤熱し、感覚が捉える世界が肉体に囚われず拡張されている。雨粒で体温が下がり、自身と外の境界が曖昧になっていくのを感じる。

 鎮座するタンクも空を走るパイプラインも錆び付いており、所々が破損して内部を晒している。錆びたトタン屋根を大粒の雨が叩く。規則的に配列された貨物倉庫の間を、知覚の網を張り巡らせながら氷点の心で進んでいく。

 

 イチカの心中にあるのはただ、標的を追い詰めることのみ。

 

 ややもせずどこかの水たまりを足が踏み入り、靴先で水飛沫が跳ね飛ばされる音を、イチカの鋭敏な聴覚が捉えた。

 間もおかず地面を蹴りつけ、横殴りの衝撃をその身に受けながら音の発生源へ──波打つスレート壁に肩から体当たりしぶち破って屋内に押し入る。

『呪われた子供たち』の強靭な肉体によってただでさえ脆いスレート材は引き裂かれ、細かく砕け散った金属粉が舞い上がる。知覚できる時間単位が改変され、スローの世界で舞う金属粉の雲越しに標的の姿を捉える。

 男が見事なランニングフォームで走り抜けようとしていた。突然壁をぶち破ってきたイチカはその行く手を塞ぐ形。目が合う。逃がさないというイチカの怨念が貫く。逃げられないという恐怖が男の目を染める。喉が引き攣る異音まで聞こえる。

 

 無意識か男が地面を蹴りつけ即座に横へ方向転換。

 イチカはその予備動作が見えた瞬間には、既に大鎌を鞭打つように男の足元へ叩きつけていた。

 男の一歩先の地面が割れたように深く裂け、切り飛ばされた土くれの一部が男の腹部を強打し突き飛ばす。

 瓦礫と共に土絨毯の上に降り立つイチカの目の前で、男が腰を引かせながら尻をつき後退る。

 

「もう逃げるのはやめにしませんか。善野プロモーター」

 

 事務所を飛び出たイチカはまっすぐムクのプロモーターだった善野逸の居住地に訪問した。しかし歴戦のプロモーターとして培われた直感からか、善野は扉を開けることなく裏口から逃走。ここ、外周区へと逃げ延びた。

 イチカは背後に破壊の轍を引きながらそれを追いかけた。イニシエーターの身体能力であれば途中で立ちはだかることも可能だったが、イチカとしては人目の少ない外周区に向かってくれる分には歓迎だった。人間をこうやって追い詰める経験はイチカにはそれなりにあったから、袋小路へ追いやるのは簡単だった。

 

「ふざけんな! 俺に指一本でも触れてみろ。IISOに反社会性ありって訴えるぞ!」

 

「それまで生きてると思ってるんですか?」

 

 善野が信じられないと顔を引き攣らせ、出張った眼球をぐるぐる回してあたりを見る。

 

「まさか殺す気かッ?」

 

「はい。死体に口なし。幸い目撃者もいなさそうですし」

 

「ま、待ってくれ。ころさないでくれ」

 

「まだ殺しませんよ。あなたには聞かなきゃいけないことがある。加里屋さんも、全てを教えてくれたわけじゃないんです」

 

「わ、わかった」

 

 善野はそこに救いを見出したかのように雄弁に語り出した。

 

「俺たちはキツネを追ってたんだ。でも感染者が多くて、俺たち二人じゃ対処できなかった。荊都は俺を守って死んだんだ。すまねえ。でも俺は決めたよ。心を入れ替えるよ。あいつの分まで生きなきゃってな。だから頼む。殺さないでくれ」

 

 思わず冷笑的な息を漏らしそうになった。できれば正直に答えてほしかった。それで美談に仕立て上げたつもりか。

 

「うそです」

 

「ちがう。うそじゃない」

 

「いいえ、うそなんです。加里屋さんは、全て教えてくれました。あなたはムクを売った」

 

 善野の眉間が深い皺を作った。観念の吐息を漏らして動きを止める。

 

 ──ムクを買いたいってやつが現れた。

 最初は冗談かと思った。だが続きを語る加里屋の声は、普段の軽さなど一切見当たらなかった。彼が語るそれが、彼が辿り着いた真実なのだと受け入れるのにそう時間はかからなかった。

 世の中には常人ならば酸鼻を極めるような、悪趣味な人間がいる。彼らは裡に潜めた加虐性を放出するに値する道具を探している。普段は外周区で身を潜める子供を標的とするそうだが、その刺激に飽きた人間が今度はイニシエーターを標的と定めた。ガストレアと戦うだけの力と覚悟を持った人格が、金と裏切りでその身を陥れられることに快感を覚えるのだ。

 加里屋が売りに気づいた頃には全てが終わっていた。

 買い手は身を隠していた。後に取り残されたのはたった一つ、野外で雨曝しにされた、荊都椋の成れの果て。

 加里屋はそれが何者なのかを、首に巻き付けられていたマフラーで確認したという。

 加里屋は決して語らなかったが、身元の確認を所持品で確認した以上、遺体は原型を留めていないのだろう。

 

「寒かったでしょうね。知ってました? あの子は、いつも私にくっつくようにして眠っていたんですよ」

 

「待てよ。俺は知らなかったんだ。あいつらがそこまでやるなんて。死ぬなんて思わなかった」

 

「嘘だ」

 

 イチカの足が一歩踏み込み、善野が後退する。

 

「本当は、なんにも思わなかった。でしょ?」

 

「それは……」

 

「あなたからすれば、仕事道具に変な高値がついたから売っただけなんでしょう。その先で道具がどう壊されようと、道具なのだから罪悪感などない」

 

「わかった。こうしよう。金ならやる。半分、いや全部やる。だから見逃してくれ。殺さないでくれ」

 

「もういいです」

 

 善野の強張った顔が一瞬安堵に緩む。

 

「あなたを殺します」

 

 その顔のまま、善野は固まった。

 

 一切の同情は呼び起こされなかった。炭化した黒い激情が産声を上げていた。

 やれ。買い手との繋がりは切れている。こいつを生かしても手がかりにはならない。生かす理由はない。だが殺す理由ならばあるはずだ。おそらくこいつは裁かれない。それをお前は黙って見ていられるのか。荊都椋という一個の人格を持った存在がこの世界から抹消されたのだ。彼は裁きを受けるべき存在であり、しかし彼は裁かれない。ならばお前が裁け。お前にはそんな資格などないが、幸い慣れているのだろう。今更泥を一山被ったとて変わらぬほどとうに汚れているのだろう。

 さあ、やれ。

 大鎌を握る力が強まった。指先に跳ね返るバラニウムの冷血。

 

 腕が、固まった。

 

 指先にかかる力は健在だった。だが腕を持ち上げようとする指令が、脳から発せられなかった。

 人を殺すのははじめてじゃない。

 だが、自分の意思で殺害するのははじめてのことだった。

 今までのイチカの殺害理由は、どれもそうしなければ死ぬのは自分の方だったから、という緊急的なものだった。殺意と共に銃口を向けられ、窮地を乗り切るために、そのための解決手段としての殺害があった。

 だが善野の場合は違う。自分の意思で、命を刈り取ろうとしている。激情の解決手段としての殺害。

 魂が奈落へ沈んでいくのを感じる。

 それがなんだ。何が違うというんだ。人の命を奪うということは最大の悪逆だ。理由がどうあれ、いや理由による差が存在したとして、人道を外れたという一点においては変わらない。

 お前は、もう落ちたのだ。

 これ以上落ちることを気にしてどうする。

 

 ほら、疑問は解かれたぞ。続きを。さあ。

 

 声と共に腕の戒めが消えた。

 

 イチカは激情に身を委ね、大鎌を握る右腕を跳ね上げる。見計らったように落雷が鳴り響き、大鎌が反射した白光が善野の顔を舐める。

 特に力も入れずただ重力に任せた一振りが善野の脳天めがけて落ちる。

 

 接触直前、ガキンという音がして右肩に痺れが走ったと知覚した途端、大鎌の軌道が逸れ、切先は善野の肩を掠めて地面に深く突き刺さる。

 側面からの飛来物衝突によって強引に弾かれたのだと気づくのに数テンポかかる。

 ハッと頭を跳ね向けて、今度はイチカが眉間に深い皺を作る。

 

 篠突く雨に曝されながら立ち尽くす影が一つ。輪郭だけで誰か知れた。マテバ社製キアッパ・ライノを握っているのはヒフミだ。雨を吸った黒セーラー服が肌に張り付くのも構わず、照準をこちらに合わせながら油断なく近寄ってくる。

 イチカの脳内が漂白され、逃げるように一歩後ずさる。──ああ、見られてしまった。私の本当の顔、暴力を是とする浅ましい本性。昨夜の語らいに時を戻したくなる。

 

「殺しちゃだめだよ」

 

 ゾッとするほど冷え込んだ声音がイチカを刺す。

 

「……こいつと同じになるからですか。そんなのどうでもいい」

 

「それもあるよ。けど、キミが人を殺したら、私はキミを」

 

「処分するっていうんですか。だったらすればいいッ」

 

 イチカの自暴自棄な叫びに今度はヒフミが足を止める。

 そのとき視界の端で、膠着を見切った善野が跳ね起きて遁走を開始する。重心が前のめりになって走るフォームは合理性からは程遠いが鬼気迫るものがあった。

 完全に意識外に追いやっていたことが災いしてイチカは反応が遅れた。大鎌を強く握り、追いの一撃で足を切り飛ばさんと踏み込む。

 そのワンテンポ早く、接地予定の地面が小さく爆ぜる。

 ヒフミの銃撃だと気付き飛び退いたときには、善野は刃圏の外に飛び出していた。思わず歯噛みする。チャンスをフイにした。

 

 ヒフミはどうやらもう一歩も先へは行かせないつもりらしい。イチカの知覚はトリガーの軋みさえ捉えていた。おそらくヒフミは躊躇いなくイチカを撃ち抜くだろう。

 脳裏に昨日撃ち倒されたプロモーターの姿が過ぎる。あの精度の射撃を全て弾けるかと自分に問うが答えは出ない。

 倉庫の陰に去る善野を目で追うのをやめるとイチカは腕を振り払って叫ぶ。

 

「どうしてあなたは冷静でいられるんですか。まさか納得してるんですか」

 

「してないよ」

 

「じゃあなんでッ」

 

「この納得できない気持ちを、怒りという形で消費したくないの」

 

 ならばこの持て余した激情をどう御せというのか。

 

「……いいですよね。あなたは当事者じゃないから、そんなふうに冷静でいられる」

 

 イチカの中でヒフミに対する失望が沸き起こった。目が沸騰しているみたいに熱く感じる。きっと今のイチカの目はこれまでになく赤い。

 

「結局、あなたは部外者だ」

 

「部外者だからこそできることもあるよ。キミは一度落ち着くべきだ。彼を殺害しても事態は何も解決しない。キミの人格を汚損させるだけだ」

 

「『解決』って何を指していってるんです? 人の命は一度失われれば戻ってこない。解決なんて存在しない」

 

「そうだね。大切な人を失った気持ちは、いつまでも解決なんてしない。でもキミが殺人を犯したら、キミはまた別の苦しみを抱えることになるんじゃないかな」

 

「勘違いしてますね」

 

「なら確かめる時間をくれないかな。今全てを諦める必要はないよ。まだ遅くない。立ち止まるんだ」

 

 ヒフミが困ったように笑う。

 あいつが初めての相手だとでも思っているのだろう。だが実際は違う。今更汚損されるような余白はイチカの人格に残っていない。

 既に汚れ切っている。一度落下を始めた以上、壊れ尽きるまで落ち続けるしかない。

 

「私が、人を殺したことないと思ってるんですか」

 

 よせば良いのに、自ら告白していた。

 

「何人も、何人も手にかけてきました。マンホールの下に閉じこもって影に紛れて暮らしても、その影を暴こうとする人間は多かった」

 

 ヒフミは応えない。

 

「私は人を殺すことに何も感じない。引き返せるポイントはとうに過ぎてるんです。あなたは私のことなど何一つ理解していない。あなたの言葉に、力はない」

 

「なら、なんでそんなに苦しそうなの」

 

 咄嗟に手で顔を触る。雨に濡れてぐちゃぐちゃだった。この行為自体がヒフミの言を補強してしまったと悟って、必死に理由を手繰り寄せる。

 

「奴はムクを殺しました。でもおそらく裁かれない。だから私が代わりに裁きます。そうするしか。そのやり方しか私は知らない」

 

「そっか、そうするしかないか。──よかった。君はまだ引き返せる」

 

 違う。私は引き返せない。

 

「そうするしかないってのは、そうしたいって感情とは全く別のものだ」

 

 違う、と声をあげたかった。

 私は善野に対して殺意を抱いているのだ。殺したくて殺そうとしたのだと訂正したかった。

 だがイチカの口は動かなかった。ああ、まただ。善野を殺そうとしたときと同じく、脳が指令を発してくれない。

 それが真だとでもいうのか。うそをつくな。

 

「キミがやりたいことは、もっと他のこと。ただその方法を知らないだけだ」

 

 違うんだ。

 

「深呼吸して、自分が本当にしたいことを思い浮かべて」

 

「……だから、遅いって言ってるじゃないですか」

 

 違うんだ。私にはもうそんな資格はないんだ。

 いつだか感じた、どうにかなってしまいそうな感情が胸の底から湧いて出た。無性に切なくなって、目を抑えたくなってしまう。

 ぎゅっと目を閉じて、溢れそうになった涙を殺す。このままヒフミと会話しても、無意味だ。今は善野を追うことだけ考えろ。そのために必要なのはヒフミを動揺させること。

 さあ、口を動かせ。鋭利な言葉で相棒の心を切り裂け。

 どうにでもなってしまえ。

 

「あなたは動いた方がいいんじゃないですか。これまで何か成し遂げたんですか。一人でも子供たちを助けたんですか」

 

「何一つ、一人として助けたことはないよ」

 

「今はっきりと理解しました。あなたがそうやって綺麗事を、火中の栗を拾おうとできるのは炎の熱さを知らないからだ。──あなたは口だけです」

 

 この否定はヒフミの精神に一定の効果を与えたらしい。

 ヒフミの視線が剥がれ落ちる。一気に老け込んだように疲れ切った息を漏らす。捨てられた赤ん坊みたいな濡れた目でイチカを見た。

 

「キミの言う通りだ。キミは正しい」

 

 そんな目で私を見るな。

 

「落ち着いて聞いてほしい。おそらく荊都椋は──」

 

「もう、何も聞きたくない。あなたの口から出る言葉は、何一つ」

 

「待って!」

 

 照準されていないことを確認すると制止を振り切り地面を蹴る。身が引き締まるような加速感と共に横殴りに叩きつけられる雨粒。ヒフミの声はあっという間に掻き消える。

 倉庫の間を一息で駆け抜ける中、雨粒の速度が増していることに気づく。耳朶に轟音が叩きつけられ、これでは音を拾うなど不可能と悟る。

 壁面に絡みついたパイプラインを蹴って跳躍。一際丈がある煙突の上に着地し、全体を見下ろせる位置にあると確認して、

 

 破鐘を突いたような鈍い大音声が豪雨を切り裂いて鳴り響く。

 

「────どうして、そんな酷いことができるのだ!」

 

 何かが起こった、いや、終わったのだと直感した。

 音の発生源はすぐにわかった。軽く煙突の縁を蹴って、その場所、屋根が裂けた作業場に飛び降りる。

 雨で濡れて黒くなった床材の上に膝をたわませて落ちる。半身と共に顔を跳ね上げて、視界にそれを収めた。

 

 頭から血を流し倒れている善野と、それを呆然と見下ろす延珠の姿があった。床に広がる善野の指先からは拳銃が溢れていて、延珠の足元には小さな穴が開いていた。

 一目で決着がついたのだと分かった。

 

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