フォックス・ハント   作:簑都薇

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 手術中を示す赤いランプが視界の上で薄光を放っていた。

 病院の待合室は空調が効き過ぎていてイチカは寒さに震えた。ここが命を救う場であると知らなければ墓地のように感じる。

 延珠は壁際に設置されたクッション椅子の上に尻を乗せて、ずっと手術室のスライド扉を向いている。その表情は最愛の人の無事を祈るような深刻さで、もし自分が神様だったらその人を助けてあげたくなるだろうなとイチカは思った。

 

 扉の向こうで命を救われているのは善野だった。

 

 豪雨で覆われた工場で起きたことは、今遠くで病院スタッフと何やら話している蓮太郎から聞いた。

 遁走した善野は、辿り着いた作業場で延珠と蓮太郎に遭遇した。ちょうどあの時、あの場所で延珠たちは突如出現したガストレアを駆除していた。出現場所に最も近いスーパーでもやしのタイムセールに駆り出していたらしい。

 

 半狂乱になっていた善野を見咎めた蓮太郎が問いただす。既に理性を放り出していた善野はあっけなく白状した。相棒を死なせちまった。いや俺が殺したわけじゃない。買うって奴がいたから売っただけ。そいつが変態趣味だったのが運の尽きだ。そうだ、運が悪かったんだ。それなのに逆恨みしたイニシエーターが俺を追ってる。俺を殺そうとしてるんだ。イカれてんだろ。金は出す。連れ出すか、あいつを殺してくれ。頼むよ兄ちゃん。

 

 蓮太郎は拒絶した。

 激昂する青年に、善野は仕方がないと拳銃を抜き出し脅迫を仕掛ける。

 だが、抵抗する蓮太郎よりも早く、トリガーを引く善野よりもさらに早く、延珠の踵下ろしが炸裂していた。

 

 ────どうしてそんな酷いことができるのだッ。

 

 おそらくは相棒を守るために放ったその脚撃は、およそ人間相手に振るっていい威力を大幅に超過していた。

 叫んだ延珠は、頭から血を流し倒れている善野を見て沈着を取り戻す。今、自分がやったことに、つまり感情任せに人間を傷つけたという事実に愕然として。

 もうその時には現れていたイチカに、延珠は気付きもしなかった。それくらいに思考を碧落の彼方へと放っていた。

 だから、もしその場ですぐに蓮太郎が彼女を抱き寄せていなかったら、延珠は理性を投擲し一生取り戻せなかったかもしれない。

 蓮太郎は彼女を落ち着かせると、善野を背負って内地の病院に預けた。

 そして、今に至る。

 

 

 

 担架に乗せられた善野が手術室の中に消えてからずっと沈痛な眼差しをする延珠に、イチカはそろそろ我慢の限界を覚えていた。彼女の態度がイチカを苛立たせていた。

 ならば私は延珠にどんな態度をとって欲しいというのだ。喝采せよとでもいうのか。馬鹿な。

 

「どうして」

 

 だが気付けば言葉が喉を突いて出ていた。

 

「その人は正真正銘のクズなんですよ。なんでそんな落ち込んでるんですか。喜び祝い合ったっていいぐらいだ」

 

 延珠はその汚言でイチカの存在にようやく気づいたようだった。ひどくゆっくりと顔を向けて、瞼を震わせてイチカに視線を注いだ。イチカにはそれが、泣いているようにも寝ぼけているようにも見えた。

 

「妾には……お主が何をそんなに怒っているのか分からない」

 

 延珠の言葉は驚くほど鋭利にイチカの心に刺さった。

 あなたに対して怒っているのだと、そう告げればいいはずなのに、それだけでいいはずなのに、何故かできない。

 もうそろそろ気づいてもいい頃だった。

 この場において自分は嫌な奴だった。怒りの矛先は、延珠越しの自分でしかなかった。

 

「死ぬことは、悲しいことなのだ。民警はその悲しいことを起こさないためにあるって、蓮太郎が言ってた。妾もその通りだと思う」

 

 どうして。

 

「民警は立派な仕事なのだ。妾はイニシエーターだということを誇りに思ってる」

 

「なんのために、戦ってるんですか」

 

「みんなを守るために」

 

 どうして──それしか意味を持たない思考の塊が、イチカの脳内を跳ね返っていた。

 どうしてこの少女はそんな泣きそうな表情で言い切ってみせるんだ。

 どうして。

 どうして、自分には言えないのか。

 

「……いくら守っても裏切るだけです。何も得られず、失うか奪うだけ。あなただって、そうなんじゃないですか」

 

 それは返答を必要としない、ただの醜い同族願望かもしれなかった。

 延珠は答えない。ただ瞼を下ろして返答の代わりとする。

 くすぐったそうに細めた目には悲しみが覗いていた。

 この少女はきっと、イチカですら想像もできないほどの苦悲(くひ)をその身に受けて、それでもなお今こうしてこの場に立っている。立ち向かっている。

 気付かない内に握りしめていた拳は、爪が肌に食い込んで血を流していた。

 翻って自分は。

 私は何もせず、落ちているだけだ。──自分だって。

 

「……どうしてそんな簡単に受け入れたように言うんですか。悲しく、ないんですか」

 

 嫌な奴が、勝手に泣き出していた。

 

「私たちはどこにも行けない。いや、どこかには辿り着けるかもしれない。でもどこに行くのかはわからない。ガストレアになるだけかもしれない」

 

「でも、違うかもしれない」

 

「どこに行くかもわからないで、なんで進めるんですか」

 

「隣に蓮太郎がいる。蓮太郎と一緒にいきたいから。どこだろうと平気だ。お主にもいるはずだ」

 

「私には、もう」

 

 それ以上延珠を見ていられず、剥がれ落とした視線がリノリウムの床を舐めた。

 沈黙が再び場を支配した。延珠は言葉を続けなかった。それがイチカには救いにも思えた。

 

 しばらくして、イチカの肩の上に熱が乗る。

 ぼうっとしながら振り向くと、ブラックスーツめいた制服の青年がイチカの肩に手を置いていた。

 眉にしわを寄せ、口を噛み締めた蓮太郎の表情は、言外にもうよせと告げていた。イチカと延珠の口論を聞きつけたのだろう。

 

 手を引かれる。イチカは蓮太郎に身を委ねる形で、待合室を出た。歩行運動が危なっかしくて、自分が夢遊病者になった気分。

 あれ以上のヒートアップを避けるための隔離だと、ロビーにたどり着いた頃にようやく気付いた。

 

 イチカはロビーの待合椅子に座らされた。

 蓮太郎はイチカを置いてロビーを歩き渡ると自販機の前で立ち止まる。サイフを取り出して「ゲッ」と不吉な声を漏らして、ロボットみたいなガクガクした動きで価格ステッカーを睨む。世界の終わりに立ち会ったみたいな嗚咽を漏らす。押しボタンに伸びる指が出たり引いたりして、ようやく覚悟を決めたのかボタンを押した。そんなに悩むなら買わなきゃいいのにと思ったが黙った。

 蓮太郎は重い足取りでイチカのもとに戻ると、腕を上げて差し向ける。

 

「の、飲むか?」

 

 差し出された手はリンゴジュースの缶を鷲掴みにしていた。もう片方の手にあるコーヒーは彼が飲むらしい。

 

「最近は羽振りがよくてな」

 

 キツネによる大発生は確かに民警各員に恩恵を与えていた。

 だが先の購入に至るまでの苦悩を全部見てしまった手前、それが蓮太郎の痩せ我慢であることは分かりきっていた。痩せ我慢で優しさだった。イチカの卑怯な部分が、その優しさに乗っかった。

 

「リンゴジュースですか。子供扱いですね」

 

「子供だろうが」

 

「コーヒーブラックでも飲めます」

 

「そういうところが子供なんだよ。いい加減わかれ」

 

 思わずムッとするが、謝意を告げて缶を受け取る。缶の低温がイチカの手のひらを覆った。プルタブを引くと、ぷしゅっという小気味のいい音が出る。

 口に含む。イチカには少し甘すぎた。蓮太郎が隣席に腰かけたときには糖分が凍えた舌を溶かしていた。

 

「私、あの人を殺そうとしました」

 

 蓮太郎の目が鋭くなるのを感じた。

 

「アイツは俺たちの前に来た。お前は殺さなかった」

 

「……すみません」

 

「責めてるわけじゃねぇ。むしろ、それでいいと思ってる。殺人の持つ一番恐ろしい性質は慣れることだ。人を殺し、だが自分が罰せられないと知ったとき、そいつは次の殺人を容易く実行できてしまう。理性のタガを外しちまったら、もうそれは人間じゃねぇ」

 

 ならば自分は。

 

「ヒトでないのなら、なんだっていうんですか」

 

 見上げたイチカの瞳は、震えていたのかもしれない。蓮太郎の表情が強張り、拳が強く握り締められる。

 瞳の奥で揺れる真実を見抜かれたのだ。

 

「…………まさか、お前」

 

 蓮太郎の視線から逃れるようにうつむく。

 

「延珠はすごいですね。イニシエーターなんてものを、誇りを持ってやってる。人を守るためなんて目的意識をちゃんと胸に抱いてる」

 

 無理やり逸らした会話の流れに、蓮太郎がコーヒーをひとくち啜ってから乗っかる。

 

「お前は延珠のこと、少し勘違いしてるぞ」

 

「……どういう意味ですか」

 

 イチカは顔を傾けて蓮太郎を見上げた。視線が絡みつく。人間の瞳と無機質な瞳がぶつかる。

 

「延珠が民警って仕事を誇りに思ってるのはそうだろうが、延珠がイニシエーターになったのは人を助けるためだけじゃねえ。あいつは……」

 

 本人の了承を得ずに言っていいことかどうか考えるように顎を引いて。

 

「延珠は両親に捨てられたんだ。でもあいつはまだやり直せると思ってる。イニシエーターになって序列を上げてけば、きっと自分を見つけてくれるはずだって。…………今もそう思ってるかは分からないけどな」

 

 蓮太郎が息を吐いて続ける。

 

「あいつは間違いなく善人だよ。でも決して聖人なんかじゃねえ。等身大の目的を持って、等身大に頑張ってる。俺はそんなあいつを誇りに思ってる。もし都合のいい理想形を延珠に求めてんなら、そいつはひどい間違いだ。厳しいようだが言わせてもらうぜ。それはいつかお前の身を滅ぼす。やめろ」

 

 そう言い切ってみせる蓮太郎の瞳は真剣で、少し怖くて、それだけ延珠のことを大事に思っているのが伝わってくる。なるほど、懐くわけだ。

 

「……覚えておきます」

 

 蓮太郎の鋭い視線が揺れを見せる。

 

「……悪ぃ。お前のこと何にも知らねぇ癖に。延珠のことだってそうだ。なんもできねえから逃げてるだけだな。クソッ」

 

「違います」

 

 イチカは蓮太郎の制服の裾をぎゅっと握る。背筋を伸ばして見上げる。驚く蓮太郎と目が合う。

 胸の底から湧き上がる妙な気分を押し殺すので精一杯だった。

 

「延珠は! たぶん大丈夫だと思います!」

 

 蓮太郎が意図を図りかねたのか眉をあげる。

 言語がうまく構築できなかったのを遅れて恥じる。

 

「今はあなたがいるから。両親がいなくても」

 

「…………」

 

「えと、だから、何にもできてないわけじゃないというか、その」

 

「わかってる。伝わってんよ」

 

 ふっと蓮太郎の頬が緩むのを見て、妙な恥ずかしさがイチカの頬を熱した。

 

「なら頷くとかしてください」

 

「悪ぃ」

 

 軽い感じの蓮太郎にムッとして、イチカは席を立つ。

 蓮太郎の目が瞬間的に剣呑なものに変わった。

 

「妙な考えなら捨てろ。何にもならねえぞ」

 

「手術室に乗り込んで善野の息の根を止めに行くとでも? しませんよ」

 

「……ならいい」

 

「ヒフミさんに謝りに行くだけです。…………いろいろひどいこと言っちゃったので」

 

「そうか。送るか?」

 

「いえ、あなたは延珠のそばにいてあげてください。私と話してる間に、彼女にかける言葉のひとつふたつは浮かんだんじゃないですか」

 

「……さすがIQ二百。お見通しだな」

 

「バカにしてます? してますよね?」

 

 イチカの面倒臭い突っかかりを受け流すように蓮太郎が席から跳ね上がった。

 どちらも立った状態だとイチカは顎を精一杯逸らさないと目線が合わない。すぐにでっかくなろうと心に刻んで、イチカは病院をあとにした。

 

 目を閉じて、想う。

 藍原延珠は懸命に戦っている。里見蓮太郎は彼女を教え導いている。

 私もまた民警として人々を守ろう。

 そんな、綺麗事を言いたい気分だった。

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