フォックス・ハント   作:簑都薇

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 降り落ちてきた白雪がイチカの頬に留まり、体温でかき消えた。

 闇夜の下、薄雪が散ったアスファルトの道路傍を歩く。設置された照明灯は経年劣化からか時おりジジッと音を立てて点滅。数瞬、全くの闇をイチカの視界に投げる。時間帯が遅すぎるからか、人どころか車さえ見ない。

 

 病院のあった第二十区から社宅のある第三区まで結構な距離があったが、イチカは公共交通機関を使わずに歩いて向かっていた。

 ヒフミに謝ると決めたはいいものの、言葉が全く浮かんでこなかった。どんな顔して会えばいいかわからなかった。だから思考をまとめるために歩きを選んだ。

 

 水たまりは表面だけ凍結していて、踏むと音を立てて薄氷が割れた。

 ふと、あの夜もこんな風に雪が降る夜だったなと思う。

 

 二人になってしまったあの夜。

 雪が降りつづけたあの夜。

 イチカは初めての殺人を冒した。

 

 覚えているのは、突然頭上で鳴ったガゴンという何かが開かれ金属同士が擦れる音。下水道の闇を暴く電気照明の眩い白光。頬を濡らす冷血。背中で震えるムクの体温。

「仕方なかったんだよ」とイチカの耳元でムクが囁く。仕方なかった。そのワンセンテンスがイチカの脳内を広がって、冷え切ったイチカの体温を溶かした。二人で夜を過ごし始めたのはその夜からだった。

 今はひとりになってしまった。

 

 不意に背中に現れた熱が、イチカの思考を現実に戻した。

 背後から腕が回ってきて首に絡みつく。ぎょっとしてイチカは振り向き、目を剥く。

 

「よっ」

 

「ムク……?」

 

 鼻先にショートボブの少女の顔があった。イヤーマフに灰色ニット帽、コートといった防寒装備は変わらず。ただマフラーだけがない。

 イチカに抱きついていたのは誰あろう死んだはずの荊都椋。

 イチカは目の前の景色が願望による幻ではないかと呼吸が止まる。

 対するムクは悪戯が成功したみたいに、目を細め口元を緩ませている。

 

「幽霊見たみたいな顔してるぅ。そんなにムクのことが恋しかった?」

 

 なぜ──いくつもの不可解がイチカの脳を瞬時に埋め尽くした。だがその全てがムクの声音で体温で存在そのもので塗り替えられる。理由などもはやどうでもよくなる。今目の前に生きていてくれている、そんな現実ひとつ理解に収めるだけで満足すら覚える。

 

 ムクが絡ませた腕の戒めをぱっと解いて、今度は自分からムクの矮躯に飛びかかるようにして抱き締める。ムクは驚きもせずイチカのタックルを受け止める。

 不意に溢れ出した涙で視界が歪み、鼻が熱っぽくむず痒くなる。現実を確かめるために発したムクという言葉が震えて凍空に消える。気付けば訳もわからず名前を連呼していた。

 

「聞こえてる。聞こえてるよイチカぁ。私はここにいるから安心して」

 

「ムク、私がどれだけ……あなたが死んだと思って」

 

「うんうん」

 

「真面目に、聞いてください」

 

「聞いてるよぉ。聞いてる聞いてる」

 

 このいい加減な返答。やはり幻ではない。

 再確認した現実に、嬉しさで溢れ出した涙を切り捨てるようにぎゅっと目を瞑る。

 イチカは目を開け、そこで今度こそその思考を凍結した。

 

「えっ」

 

 暗黒の中から浮かび上がるプロレスマスクのような白頭。三対の翼を生やした四つ足歩行の怪物はキツネだった。

 

 悲鳴が漏れるより早く、イチカの肉体がムクを抱きかかえて飛び退こうとし、

 ムクの細腕がイチカの胸を突き飛ばした。

 直後イチカ一人分の重量がイニシエーター特有の脚力によって加速を受け、瞬時に後方数メートル先のコンクリート上に肉体が渡る。

 だめだ、ムクも連れて行かなくては。イチカは腹の奥から叫ぶ。届きもしないのに腕を伸ばす。

 

「ムク、ダメです! 後ろに!」

 

「キツネでしょ。全然キツネっぽくないのにヘンだよねぇ」

 

「何を呑気な──」

 

 キツネとムクの距離はカギ状に曲がった鋭い嘴が届くほど。

 そこで、キツネがムクを攻撃せずに棒立ちになっていることに遅れて気づく。まるで、何かを待機しているようで。

 ムクが、不可解なものを見るように眉を跳ね上げていた。

 その唇が、色っぽく吊り上がる。

 

「あぁそーゆーこと! なんにも、なぁんにも教えられてないんだッアハ!」

 

「何を、言ってるんですか」

 

 イチカの掠れた声に、ムクが鷹揚に両腕を左右に広げて見せる。

 

「私が、キツネを運んでる」

 

 イチカの脳内を不可解が埋め尽くした。

 私がキツネを運んでいる。そのワンセンテンスはどこをどう切り取ってもイチカの理解を受け付けることはない。

 

「秘密結社ってやつ、現実にもあるんだよねぇ。それがエリアにガストレアを放って、民警に狩らせて遊んでるって言えば、『狐狩り』の全ては伝わるかなぁ?」

 

「そんな……なんでそんなことを」

 

「楽しいんじゃない? 知らんけども」

 

「そいつらのことはどうでもいいんです! あなたがなんでそんなことをしたのかって聞いてるんです!」

 

「理由が必要?」

 

 イチカは絶句する他なかった。

 

「『偶然』ムクに白羽の矢が立った。『偶然』ムクはそのときそんな気分だった。『偶然』この子の調教が完璧だった。……『偶然』をあといくら足せば納得してくれる?」

 

 人の命をなんだと思っているのか。

 あるいは他者を巻き込んだ自暴自棄か。

 ムクはワシ特有の黄色い嘴を撫ぜながら小馬鹿にした笑いを漏らす。キツネはムクに身を委ねて身じろぎひとつしない。

 

「でも、あのスプリンクラーには焦ったよ。あいつの仕業でしょ」

 

 ──あいつ?

 

「民警が招集されたときの……」

 

 ムクが嘴の上に尻を乗せて、足をぶらぶら振る。

 

「そう。あれのせいでフェロモンが想定より薄れちゃって、消えたりはしないんだけどこの子どう動けばいいかわからなくなっちゃったんだよね。だから下がらせたの。まったく現場の仕事はツラいよねぇ。働きたくないオトナの気持ち、ちょっとわかっちゃったぁ」

 

『あれがキツネって仮説が正しいとするならだが、アリの『道しるべフェロモン』を連想したんだ』

 脳裏に里見蓮太郎の推測が蘇る。

『フェロモンで巣とエサの間に道を作るんだ。すると他のアリもエサの場所を感知して集合。各自でエサを担いで巣に貯蔵する』

 

 イチカの脳は、混乱し続ける心を置いてけぼりにして思考を始める。

 ムクが「運ぶ」と表現したのは、フェロモンを所定の位置に撒く行為だろう。

 目の前にはムクの為すがままにされているキツネがある。ムクの支配下にあることは事実らしい。そして、そんなことをムク一人でできるわけがない。背景に秘密結社がいるというのも、認めたくないがただの冗談ではない。

 ただガストレアを放っても知能の低い単一個体がいつまでも民警の網を掻い潜ることなど不可能。そのために人間を側におき、誘導させているのか。

 キツネがいつも逃げるのは誘導によるもの。おそらくフェロモンによる指令は単純明快なものしか機能しない。指定場所に移動させる、待機の最低二つの指示が機能するなら、今までの事件と目の前の状況に説明がつく。

 ならば加里屋が見つけたムクの遺体が、同定不能の有様だったのもムクの仕業なのか。死を偽装し、犯罪を告白しているのはもう逃げるからで──。

 

「あの遺体は、なんなんですか。なんのつもりで、死んだふりなんて」

 

 一周遅れた心が喉を動かしていた。

 ムクが右肩を落として顔を傾げる。ボブカットの毛先が揺らめいて弧を描く。

 

「あれはムクも想定外だったんだよ。なんか急に誘拐されて、縛られてプレス機に放り込まれちゃってさあ。ひどくない? 死ぬかと思ったぁ。まあ用意してた死体と入れ替わって逃げ出したんだけど。人の命をなんとも思ってない奴らって、何しでかすか見切れなくて怖いよねぇ」

 

「……そこまでして、なんで私の前に顔を見せたんですか」

 

 ムクがきょとんとした上目遣いでイチカを見て、思い出したように息を吐き指を鳴らす。

 

「ああ、忘れるところだった。ありがとぉ。実はイチカにお願いがあってね」

 

 ──お願い?

 自首、減刑の二つの単語が脳裏を過ぎる。イチカにそれを掛け合えるほどの力はないかもしれないが、できることならなんでもしてあげたい。

 そこまで考えて、その考えが全くの無駄だと悟る。

 

「プロモーターの女、あいつ殺そ」

 

 瞬きを忘れたのをイチカは自覚した。──ヒフミを?

 ムクが嘴から飛び降りて、無警戒な様相でイチカに歩き寄る。靴底が雪を蹴散らす冷たい音だけが夜を支配する。

 

「なんていうんだろうなぁ、勘っていうのかなぁ。イニシエーターならわかるでしょ。たまに感じる根拠がない確信ってやつ。それがあの女殺せってうるさいんだよねぇ」

 

 ムクが近づく。イチカは動かない。動けない。

 

「放置したらやばいと思うんだよ。そこでムクちゃん考えました。イチカが背中から刺せばいいのです。得意でしょ、人殺すの」

 

 イチカが息を呑む。見計らったようにムクが軽く跳んでイチカの目前すれすれに降り立つ。着弾の衝撃で堆積していた雪が砕け舞い散り、隠されていたアスファルトの黒を暴く。

 

「そんで一緒にこのクソ溜めみたいな場所捨てて、どっか別のエリアに行こうよ。どこだろうとクソ溜めだろうけどイチカとなら多少はマシだと思うんだ」

 

「わたしは……」

 

 思わず、脳裏に善野が怯えた表情で命乞いをしている様が浮かぶ。その瞳越しに映る、イチカの殺意の眼差し。あのとき確かに殺意を持って命を奪おうとして、自分はそれを是とした。それを楝ヒフミに止められなければ。

 止められなければ、殺意の引き金は軽くなっていただろう。

 返答への遅れを迷いととったのか、すり寄るようにムクの顔が近づく。

 燃え盛る炎の如く赤く発光する瞳が至近距離でイチカを射抜く。

 

「イチカだってあの女にむかついてるでしょ。ムクわかるもん。綺麗事ばっかり。何にも知らないくせに言葉だけは立派なやつ。そんな奴とはオサラバしよ?」

 

「……できません」

 

「んー?」

 

 蚊の鳴くような小さな声にムクが鼻で返事をした。

 

「できませんと言ったんです。今のあなたはおかしいです。本当のあなたは誰かに引っ付いてないと何もできない子供じゃないですか。それを、そんな」

 

 泣き縋るような声に、ムクの表情が一瞬固まり、継いで失望混じりのため息を吐いて身を引く。

 

「前から思ってたけどさあ。イチカってほんと、アホだよねぇ」

 

「……アホじゃ、ないですッ」

 

「もういいよそれ。聞き飽きた」

 

 ムクはショートボブに引っ付いた白雪を指で潰す。

 

「それは生存戦略だよ。個としていくら強くたって集団には勝てないでしょ。だからムクは集団を作ったんだよ。まあイチカと二人だけだけど。襲われたとき真っ先に狙われるのはいつもイチカだったの、覚えてない?」

 

 思い出そうとして、かぶりを振ってやめた。ムクのいうことが真であると認めたくなかった。

 

「イチカの頭ん中にある妹の理想形、演じるのけっこーメンドかったよ。じゃあね」

 

 ムクはイチカの肩にぽんと手を当て、傍を通り過ぎる。

 振り下ろされた手首を掴んで引き止める。

 

「行かせると思ってるんですか。あなたを拘束します」

 

「なんで?」

 

 悪気が一切ない微笑みを浮かべてムクがささやく。

 手と手が結ばれた距離にあって、イチカはムクとの距離の遠さをようやく理解する。

 

「あなたは犯罪者です。社会秩序を脅かす危険因子は市民として、市民を守る民警として見過ごせません。あなたを拘束し、しかるべき機関に身柄を引き渡します」

 

「市民扱いされたことあるの? 特定個人にされたとかじゃなくて、社会って巨大な枠組みからさ」

 

「…………民警は人命を守る仕事です」

 

「正確には私たちみたいな赤目を使い潰して『奪われた世代』の命を守る仕事、だよね。アンフェアだ。義理立てする理由なにも、なぁんにもないじゃんか。もう一度だけ聞くよ。あの女、殺そ?」

 

 視線の険しさで返答とした。

 わからずや、とムクが毒づく。

 

「そもそもなんで人を殺しちゃダメなのかな。倫理に反するから。社会集団から排除されるから。あなたが殺されないために他人を殺してはいけませんって? 全部人間のためにあって、人間が守るルールだ。私たちはバケモノなんだから、バケモノのルールで動くべきなんだよ」

 

 言っていることがめちゃくちゃだ。理解するに値しない戯言に、イチカの心が氷点まで冷え込む。

 

「……理由が必要ですか。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「その発言の意味、本当にわかってる? オマエが言っても響かないってことに」

 

「…………」

 

「さんすーの時間だ。今まで氷鷺イチカちゃん九歳はどれだけの命を奪ったでしょうか。たしかおじいちゃんが逝っちゃったときに五人、あのクッサい下水道から飛び出して内地で火炎瓶なんてもん投げてきたバカが一人──」

 

「十八人です。あなたを含めなければ」

 

「やるってなら付き合うけど?」

 

 目の前にいるのは敵。

 イチカ、ムクの瞳が同時に赤熱。感覚が捉える肉体が実在以上の範囲に拡張される。イチカが握るムクの手首が固く圧迫される。

 ムクの意識がその圧迫された手首に移るのを感じた直後、空いた方の肩から先だけの動きで放つ顎先狙いの掌底。

 予備動作ほぼ無しの不意打ちに、ムクが重心を後ろへ倒しながら上半身を深く倒し、リーチギリギリの地点で制止。その白肌数ミリ隔ててイチカの掌底が止まる。完全に見切られている。

 

 だがイチカの狙いは不意打ちそのものではなかった。

 指先の間合いにあったムクのコートの襟首を掴む。ぎょっと目を見開くムク。彼女の意識が上半身の抵抗に移った。構わず斜めに切るようにして引っ張りざま、疎かになっている足首を地面を舐めるようにして払い上げる。ただでさえ先の回避で重心を崩しているために否応なく足が浮く。

 足払いの勢いままに身を捻りざま、腰を落としてムクの懐に潜り込む。最初に掴んでいた手首を前へと引き落としざま、その脇下に襟首を掴んだ肘を押し込み固定。全体重の受け皿が完成し、必然ムクの軽い体が浮き上がる。背中でムクの上半身を跳ね上げる要領で、膝のバネを開放して投げる。『呪われた子供たち』特有の膂力に任せた変則的な背負投げ。

 

 不意にイチカの背に鋭い痛みが走りうめきを漏らす。

 膝で蹴られたと知覚したときには、イチカの絡み手は解かれ、ムクの体重が消える。

 ムクはイチカの背を踏み台に、脅威的な身体操縦で背負い投げから脱し上空を跳んでいた。

 

「手が早いからスピード特化型なんだっけぇ?」

 

 上空十数メートル上からムクはコートの裾を風で旗めかせ、赤い眼光でイチカを見下ろす。その両手は腰のポケットに突っ込まれている。

 

「手だけじゃないです」

 

 背負い式ギターケースから大鎌を抜き出し瞬時に展開。しゃんと刃が空気を切り裂き月光を反射する。

 空を舞い落ちるムクは徒手。イチカの斬撃を防御する術はないだろう。

 

 脳内で仮想軌道を叩き出し、それに沿って跳躍。

 踏み鳴らしたアスファルトは想定外の力を加えられ無惨にひび割れ、突然の高速飛翔体の出現に大気が震え夜の静寂をぶち破る。

 身に降りかかるGによってもたらされる肉体が千切れそうなほどの圧迫感も一瞬。

 上空を落ちていたムクにひと息で追いつきざま、大鎌底部、石突を振り上げてムクの側頭部に叩き込まんとする。重量を伴ったスイングが唸りをあげてムクの頭部へ迫る。

 

 対するムクはポケットから手を出し、香水瓶のようなものをイチカに向ける。微かな射出音。刺激粒子か。だが既にイチカの知覚の網はムクの軌道を捉えている。今更感覚を奪われようが無意味。

 いける──このまま意識を刈り取れる。

 

 イチカの確信は、ムクのつまらなそうな呟きでかき消える。

 

「──いいよキツネ、殺しちゃって」

 

 瞬間的に膨らんだ寒気に全身の肌が粟立つ。直感任せに大鎌を翻し、真横にかざして対ショック姿勢をとる。

 直後横合いから伝わる暴力的な衝撃。

 脳が揺れて思考が星になって散る。

 ジェットエンジンじみた轟音が耳朶を打ち鳴らしていた。粘液混じりの硬い物体がイチカの頬を押し除け、視界に映る景色が猛スピードで横に流れる。超至近距離にワシの白頭とカギ状の嘴。

 

 飛び出してきた『キツネ』の剛翼に横合いから撥ねられたのだ。

 高速ゆえに身動きも許されず、正面に磔にされた状態で上空を高速で移動させられていた。

 急になぜ動き出した──イチカは遅れて理解する。ムクが吹きかけた香水瓶のようなもの、あれがキツネを誘導するフェロモン剤か。

 際限のない加速に内臓が揺さぶられる。本能が現状維持は悪手だと告げる。

 死に物狂いの腕力で自分の肉体を強引に跳ね飛ばし磔から脱する。

 

 重力に引かれて肩口から国道に斜めに落下。衝撃で肺の空気が全て飛び出す。なんとか気絶だけはしまいと歯を食いしばる。土煙が噴出し振動が周囲の電灯を瞬かせる。

 しかし慣性は殺せない。

 土煙を切り裂いて水切り石の如くほぼ水平角度でアスファルトを何度もバウンド。慣性を殺そうとするが、地面に接触するたび全身を細切れにせんばかりに衝撃が襲いかかり──だめだ、この勢いでは文字通り擦り切れて死ぬ。

 

 地面を転がり滑りながらも、咄嗟に大鎌を進行方向へ無造作に投げる。螺旋の尾を引いて大鎌は数瞬先の地面に深く突き刺さり、柄で空を仰ぐ。

 恐ろしい勢いで迫る柄を遮二無二両腕で掴みとる。

 直後ふたつの腕に砕けんばかりの力が作用しビキビキと音を鳴らしながらもイチカの肉体を大鎌貫通地点に縫い止めようとする。両足が投げ出されて空を蹴る。

 イチカの蓄えた慣性にアスファルトが耐えきれず、大鎌がガリガリと轟音を鳴り響かせ破滅的な轍を引く。視界を滑る地面が勢いを無くしていく。

 

 とうとう柄を握る両腕が弱音をあげ脱力。イチカの肉体だけが大鎌から放り出され、民家の石垣に背中から叩きつけられ砕き割って埋まり込み静止。

 致死レベルの衝撃に全身揉みくちゃにされたイチカはもはや眼球運動すら満足に制御できない。天地を見失って、顔面から地面に転げ落ちる。額が割れて噴血。喉からは死人みたいな喘鳴が漏れ出る始末。

 だが生きている。

 

 なんとか腕だけで上半身を持ち上げて、夜空を仰ぎ見る。

 イチカをここまで撥ね飛ばしたキツネは一転して、戦闘機めいた直角軌道で直上へと飛び上がり、すぐに視認できなくなった。ムクの下した指令が効果を失ったのか、新たな指令を受けて消えたのか。

 ハッとしてムクを探すが当然視界にはいない。キツネのせいで随分遠くまで飛ばされてしまったようだ。

 だがイチカの心中に、逃げられたという感覚はなかった。

 ムクの行く場所なんて手に取るように分かる。

 

「……私たちが逃げる場所なんて、あそこしかないじゃないですか」

 

 イチカとムクにとって実家とも言える場所。二人が育ち、飛び出した家。

 東京エリア第四十三区下水道。

 

『民警は立派な仕事なのだ。妾はイニシエーターだということを誇りに思ってる』

 

 不意に延珠の泣きそうな声が脳裏に蘇る。

 ムクが意識しているかはわからないが、イニシエーターである彼女がエリアに危険を招いたという事実は、同じ『呪われた子供たち』全員の状況を悪くする。

 彼女たちは頑張っているんだ。報われて然るべき人間なんだ。──それを邪魔するのだけは何者だろうと許されない。私は許せない。

 一刻も早く事態を収拾させなければ。

 イチカは震える足を叩いて、なんとか立ち上がった。

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