11
夜の闇と雪の白が世界を二分していた。
突き刺すような冷気に肺が引き攣るのを我慢する。
砕けきった瓦礫が所狭しと敷き詰められた地面の上をイチカは歩いていた。
外周区の末端である四十三区には街灯などありはしない。頻繁に侵入してくるガストレアによって踏み均され、もはや砂状となっている箇所すらある。
闇に慣れた目でここと見定めた場所で立ち止まる。降り積もった雪を足で払いのけると小汚いマンホールの蓋が姿を表す。
イチカは不潔さも気にせず、抉り穴にそっと指を突っ込み、蓋を浮かす。力を解放した状態なので重さは全く感じない。
耳が痛くなるような重い擦過音を鳴らしてどかすと、嗅ぎ慣れた悪臭が漏れ出し鼻の奥がツンとする。
開けきって露わになる円状の闇。
この奈落の先に広がる下水道区画にムクはいるはずだ。
自ずと肺が痛む。すぐに出会うことはないだろう。このマンホールには雪が積もっていたので別の場所から侵入したと考えた方がいい。
だが確かに対決の瞬間に近づこうとしている。
イチカは頬をぺちんと叩く。怖気付いている暇はない。
南無三と唱えて、マンホールの穴に飛び降りる。
直後に起こるゾッとするような浮遊感。足が空を蹴る。本来の昇降用に取り付けられたタラップがすぐ横を高速で滑り抜け、すぐに両足が地面を捉える。
タンと硬い音が地下空間を跳ね返って、エコーを起こし音が遠ざかる。
膝のバネを使って、全身を駆け上がる衝撃を分散。油断なく周囲に気を向ける。
静かで冷たくて、真っ暗。鳥目のイチカだが、すっかり暗闇に慣れていたので視界は確保できていた。
左右には正円型のトンネルが伸びていた。
イチカが降り立ったのは台風暴雨に伴う洪水氾濫防止用の地下トンネルだった。下水管で処理できないレベルの大量の雨水を貯水槽に送り届けるための空間だ。ガストレア大戦前に作られたものを引き続き利用しているため象牙色のコンクリートが目に映る。
トンネルはセグメントというコンクリートのピースを嵌め込んで構成される。だが経年劣化によってか至る所でヒビ割れが出現していた。補強作業が行われていないのだ。資源不足というのも理由の一つだろうが、最大の理由はイチカのような下水道に住んでいる化け物だろう。
なにかを擦り付けたような巨大な横線状の汚れまである。
どちらに進もうかと考えて、やめた。
判断材料なんてないのだから適当に進む以外に選択肢がない。直感に従って右のトンネルに足を向けた。イチカの記憶が確かならメンテ用の作業場に繋がっているはず。
腰ほどの高さにあるトンネル円の底に膝を上げ、服が汚れるのも構わず身を乗り上げる。汚泥の匂いは絶対に取れないだろう。この服はもう着れないな。
足元に溜まった汚水はくるぶし辺りの高さに達している。水色は土のようで底を見通せない。
水音を反響させながら進んでいくと、でっぷりと太ったドブネズミが土気色のなにかに群がっているのを見つけた。なにかと眼を凝らすと人間の砕けた頭骨だった。頭頂部に穴が開いていた。
ああ、と思わず息を漏らす。
ここで殺されたわけではないだろう。長い時を経て流れ着いたのか。
罪悪感からか気持ちの悪いものが胃から迫り上がってきて、喉を鳴らして飲み込む。しゃがみ込んで、群がるドブネズミを手で押し除けるが、次から次に群がってくるので手に負えない。ここで時間を使うわけにもいかないので、諦めて立ち上がり先を急ぐ。いつか回収しなければ。
ほど無くして狐火めいた淡青色の光が見えた。作業用のスペースに備えられた照明が漏れ出ているのだ。
八寒地獄へと招き入れるかのような光に身震いする。薄光の絨毯を踏みつけて、トンネルを潜り作業場へと入る。
天井が高く広がる。吹き抜けになっていて、三階構造のうちの二階部分にイチカはいた。
すぐ側の欄干に足を伸ばす。イチカの頭より若干上の高さがある欄干に手を掛け、『呪われた子供たち』の身体能力でさっと蹴り上がる。
柵の上でバランスを取り一階を見下ろすと、覚えのある灰色ニット帽の少女が立っていた。
ムクが目覚めたばかりといった曖昧な瞳でイチカを見上げる。
「来ると思った」
「さっきみたいな援軍はここじゃありませんよ」
「必要ない、これがあるから」
ムクが低く下ろした右腕にはブラッククロームの大鎌が握られ、その切先を地面に落としている。肉体同様に弛緩しきった声でイチカを向く。
「そっちこそ仲間呼ばなくていいのぉ? 一人で来るとは思わなかった」
「必要ありません、これがありますから」
イチカもまた背負い式ギターケースから持ち手を抜き取り瞬時に大鎌展開。笹鳴りに似た刃鳴が閉塞空間を跳ね返り己の存在を主張する。
「投降する気は?」
「ないよ。ヤだね。逃げるよ」
ムクが小馬鹿にしたように舌を出してみせる。
「ケーサツ行っても死刑じゃん? まあ妥当だとは思うけど、それ分かっててムクに捕まれって?」
「……なんで、ガストレアを放つなんて真似したんですか。脅されたんですか」
「理解できないなぁ。切実な理由があったら許してもらえるの?」
「情状酌量の余地があれば減刑できるかもしれません」
「ないよ、全くない。故意、計画的、私利私欲の三拍子揃ってる。なんなら『狐狩り』がエリアに与えた影響も考慮に入れられるだろうね。『呪われた子供たち』の手でエリアに危険が及んだって事実がどう扱われるか、見ものだと思わない?」
カッと激情が脳髄を沸かせる。もしそうなれば世間が『呪われた子供たち』を見る目は一層厳しくなるだろう。
「そこまで理解していて、なんでそんなことを! 今も変えようと、わかってくれるまで、戦おうとしてる子はいるのに邪魔するんですか!」
ムクが歯を剥き出しにしてほくそ笑む。
「知ってるよぉ! ここには自分が人間だって勘違いした、恥知らずの人間気取りが多すぎるッ。目を閉じてるアホどもがたくさん! そいつらの目を開けさせたいんだよねぇ」
理解できない。目の前にいる存在が同じ存在なのだと理解したくない。
「何をする気なんですか」
「壊すんだよ。『子供たち』への風当たりが強くなればさあ、そいつらの内のギリギリ踏ん張ってる奴らが目を覚ますだろ。そしたら人間は赤目を今よりもっと恐怖して、赤目も人間を恐ろしいと思うだろ。そしたらそしたら、その時点での踏ん張ってるアホが落ちる。そうやって連鎖的に恐怖の渦が広がり、行き着く先は地獄だ! みんな一緒にね!」
「それがあなたの目的だというのですかッ。そんな自殺行為、無駄です!」
「正ッ解! 無駄だよ。踏ん張ってること自体。頑張るのも無駄。理解してもらおうとするのも無駄。助けを乞うのも無駄。無駄無駄無駄、無駄ァ。あは、あははははは!」
「狂っている」
ムクの相貌から笑みがすっと消える。
「ひどいなぁ、家族だろ」
ムクが弛緩した所作で一歩踏み出す。大鎌の切先がコンクリートを削って異音を立てる。
「残念です。あなたを傷つけることになるなんて」
「やってから言えよ」
イチカ、ムクの瞳が同時に赤熱。感覚が捉える肉体が実在以上の範囲に広がる錯覚。
欄干から飛び降りるように身を前に投げ出し、たわませた膝のバネを開放。欄干を蹴って下方、ムクに飛びかかる。全身が締め付けられる加速感。背後で軽金属がひしゃげる音が鳴るが、一瞬で遠ざかる。
『呪われた子供たち』特有の脚力によって生み出された人外の跳躍が、背後にソニックブームをもたらし埃を巻き上がらせる。
大鎌の重量が手足を後ろに反らせ、弾丸の速度で落下する。
全身のバネを使って手足を前へ放り、振り下ろした大鎌が空気を切り裂き唸りを上げ、ムクの脳天に伸びる。明らかに致死軌道。重力が加算された一撃は鋭く重い。
ムクは緩慢な動作で大鎌を胸の前に縦に掲げると、その切先を攻撃軌道に寄り添う軌道で捩じ込む。
切先同士が無音の衝突。両者の大鎌が外峰を擦り付けて束の間静止する。
不意に奇妙な浮遊感がイチカを包み、全身が下方へずり落ちる。
力のベクトルを手前で弧を描くように逸らされたと悟ったときには、押し出されるような力が肩に働き、後方へ吹っ飛ばされていた。ムクがイチカごと外峰を腕力だけで押し退けたのだ。
地面が高速で滑り、足が空を蹴る。強引な推進力付与に肩がズキリと痛み、思わず眼を細めて歯噛みする。
予期した壁への衝突は来ない。イチカの肉体は一階地点で水平に移動させられ、ちょうどトンネルへと投げ込まれていた。視界の端からトンネル枠が現れてものすごい速さで光が遠のき収縮、闇が視界を支配する。
ムクが地を蹴り、弾丸の速度で突っ込んでくる。砕かれ巻き上がった地面の破砕音声が届くより早く、ムクの赤い眼光が一刀の間合いに迫る。
ムクが腰を捻り大鎌を背後に振りかぶる。イチカの脳が反射的に軌道予測。袈裟懸けの軌道を見切り、持ち手を握り替えながら腰をツイストさせ大鎌に螺旋を描かせる。進行する切先に対して面垂直に大鎌外峰を捩じ込んで弾く。
互いの大鎌が衝突した瞬間、イニシエーター特有の膂力を間接的に受けた空気が破裂しパァンというインパクト音が洞穴を響き渡って、足元の汚水が円状に抉れて跳ね返り飛沫をあげる。
持ち腕を駆け上がって肩で炸裂する激痛に表情が歪む。
だが対するムクの表情に変化はない。弛緩しきった動きは力の変化に対して逆らわず、筋骨の損傷を最小限に抑えているのだ。
ムクの大鎌切先が翻り、返す刃の石突がイチカのくるぶしを砕かんと重量を伴って斜めに飛び上がる。
戦闘中の足破壊は即敗北を意味する。
イチカは背後に押し返された大鎌の重量を頼りに、死に物狂いで身を引き膝を曲げて足を後方へ逃す。ブォンと恐ろしい音を置き去りにして石突が脛付近を擦過。トンネル側面を穿ち、砕き破られたコンクリート片が視界を舞う。直撃していたらとゾッとする。
ムクの恍惚とした笑みが至近にあって、イチカの全身の肌が粟立つ。
不意に腹部を衝撃が貫く。
「ガッ」
ムクの拳がイチカの無防備なへそを抉っていた。
呼吸が一瞬止まる。容赦なく内臓を押し潰す圧迫感が脳髄をかけあがり目が眩む。本能的に身を捻り腹部を庇い、体がくの字に曲がる。
脱力しきったイチカの肉体が殴打の勢いで後方へ投げ出される。横隔膜が不規則に痙攣し、呼吸すらままならない。
足が空を蹴るイチカに対し、ムクは汚水溜まりに着地。存分に膝をたわませて再跳躍し、逃げ場のないイチカへと飛び迫る。
──二度も同じ手を食うか。
互いに一刀の間合いに突入する寸前、イチカは大鎌を翻して無造作に振り放つ。
大鎌切先はムクの遥か前方を通り過ぎて、トンネルの湾曲した内壁に深く突き刺さる。
一瞬ムクが理解できない顔をする。
目測を見誤った訳ではない。イチカの狙いは正しく機能している。
大鎌を握る腕に強い力が働き、イチカの身を大鎌貫通地点に縫い付けようと急制動がかかる。彼我の距離が一瞬にして肉薄。
ムクがイチカの狙いに気づいて眼を見開く。大鎌の攻撃有効範囲はドーナツ型。イチカは無効となる内側にいきなり飛び込んだ形。
柄を支点に振り上げた足をムクの胴めがけて突き込む。肉体が水平をとる型無しの即席脚撃。
だがムクは大鎌の重量を利用した身体操縦で身を捻り回避。暗闇に赤い眼光が弧を引く。
体勢を斜めにとった半身の前を蹴り足が通り過ぎざま、片手で掴みあげられる。握撃がイチカの足首を捻り潰し思わず呻く。
ムクの口角が吊り上がり、赤眼が不気味に揺れる。
直後出鱈目な力でイチカの下半身が引き込まれる。振り投げるつもりだ。
まだだ。ムクの掴む手を起点にして、腰を捻りもう片方の足を跳ね上げる。空中にいながら側頭部狙いの蹴りが流星の速度で駆けあがる。
ムクの手はイチカの蹴り足を掴むのと大鎌保持で両方とも使っている。ガードはできない。──いける。
「シィィィ」
重なる鋭い呼気。ふっとムクの顔が沈み込む。蹴り足は空中に取り残されたムクの毛髪を跳ね飛ばすだけに留まり、驚愕にイチカの顔が強張る。
ムクはイチカの蹴り足を迷わず手放し、驚異的な身体操縦で上半身を深く落とし込み脚撃の軌道から逃れたのだ。
もはや曲芸師めいた運動制御に目を疑う。相対して初めて理解した。ここまで強かったのか、荊都椋というイニシエーターは。
大鎌で固定され静止するイチカの直下を、慣性に従って低姿勢のままムクが通過する。
一瞬の交錯。ムクの限界ギリギリまで開かれた赤眼がイチカを射抜き、本能的に身を引こうとする。邪視に生理的嫌悪を覚える。
視界の端でムクの手がコートのポケットに伸びる。
ほぼ反射の速度で振り払ったイチカの手刀が、取り出した物体が何かも確認せずムクの手の甲を直撃して物体をはたき落とす。思わず目で追う。空を跳ねる香水瓶。いつか見たフェロモン剤。
だがなぜ。この地下空間でガストレアを召喚するなど不可能だ。イチカの知らない第二の効果があるのか────いや。考えても仕方がない。
ムクの進行方向とは真逆に跳ね飛んだ香水瓶から目を逸らし、視線をムクへ。
こちらを睨む銃口に目を剥く。
一瞬の間に数メートルの距離を慣性により渡ったムクが拳銃を握り、イチカの額に照準していた。
しまったと心の中で絶叫する。
あの香水瓶はブラフ。視線を逸らすためだけに打った手札だったのだ。まんまと引っ掛けられたイチカの挙動はワンテンポ遅れている。
まずい。
窮地を前にイチカの知覚能力が火花を散らす。世界の進む速度が遅延する。イチカの聴覚はトリガーの軋みさえ認識し、視覚は弾丸がこれから先描く致死軌道を予測。
──回避するだけではだめだ。二の弾丸が身を穿つだけ。──回避と妨害を同時に行え。
全身の筋肉を総動員させ、負荷を一切考慮せずに一瞬だけ大きな引く力を持ち腕に入力。イチカと大鎌、互いが互いを引き合う。トンネルに突き刺さっている大鎌切先が筋力だけで浮く。大鎌の重量に引かれて肉体が跳ね上がったように横に逸れる。直後に頬を熱線が擦過。
弾丸が通り過ぎたのだと理解したときには背後でガラス質の破砕音が鳴る。弾丸はイチカをすり抜けて後方を跳ねるフェロモン剤を射抜いたのだ。おそらく散布されたフェロモンはイチカにのみ付着。だが下水道内だ。キツネは現れない。問題ない。振り向かない。
イチカの筋力で強引に引き抜かれた大鎌が弧を描いて、外峰が横合いから拳銃のバレルに激突。衝撃で手元から弾き飛ばせる。イニシエーターの膂力が与えられた拳銃は砕き割れ、内部パーツを無惨に飛び散らせる。
欲を言えばここでムクの手を潰しておきたかったが、ワンテンポ遅れをとったことが災いしてレンジから逃げられていた。
慣性に従ってムクの笑みが瞬く間に遠ざかり暗闇に消える。
逃すか。今度はこちらが追撃する番だと体勢を整えようとして、突然走る激痛に喘ぐ。力が抜ける。
イチカの肉体が思い出したように重力に引かれ、汚水溜まりに横たわる形で落ちる。
ムクが腹部に捩じ込んだ打撃は想定以上のダメージを与えていた。
じくじくと痛む腹を庇いながら起き上がる。不規則な呼吸が喉から掠れ声のような異音を放っていた。浅い呼吸を繰り返すことでなんとか落ち着かせようとするが、できない。
今は時間が惜しかった。
呼吸を整えることを放棄して汚水を蹴ってトンネルを駆け抜ける。
イニシエーターの脚力ですぐに開けた場所に出る。
そこは空中だった。
風に煽られてスカートがはためく。足が空を蹴る感覚。
暗闇が満ちているが、目を凝らせばコンクリートの地面が見える。軽く見積もって二十メートルの高さに、イチカの身は放り投げられていた。
神殿のようにコンクリートの円柱が立ち並び天井を支えていた。地下貯水槽だ。
疾走の勢いのままに円柱の脇を通り過ぎざま、壁面を手で叩いて方向転換。回り込むかたちで円柱の間に身を捩じ込んで、円柱の一つに足を蹴りつける。
三角跳びの要領で円柱の間を飛び跳ね続け、速度を殺しながらずり落ちる。
水が溜まった地面に落下し、膝のバネで衝撃を殺し切る。着水の反動で水面がめくれて波が広がる。
おそらくこの波音で、ムクにはこちらが侵入したことはバレた。
音を殺して走っても意味はない。
現在の水位は膝のあたり。音も気にせず、透明度がやや増した水を跳ね飛ばして進む。
疾走を続けながらもムクの気配に知覚の網をかけていたおかげで、いち早く急速接近する殺気に気づくことができた。
こちらへ迫る赤い眼光を視界の端で捉え、全身のバネを使って転がるように体を前へ折りたたむと、やにわに大気を根こそぎ削り取る巨大な
回避の勢いのままに水溜りを転がり、ぱっと跳ね起きる。
突進してきた物体を見上げて、目を疑った。
ムクではない。ガストレアだった。
十メートル近い体長はどう見てもこの地下空間には辿り着けない。
プロレスのマスクを履いたような白頭からはカギ状に曲がった鋭い嘴が伸びている。見慣れた特徴。
しかしキツネだとは思えなかった。
頭部より下はタコのようにいくつもの触手がわかれて、地面の上を這い、粘液を垂らしながら蠢いている。
別個体かと油断なく大鎌を構える。
だが次の瞬間、イチカは自身の正気を疑うことになる。
触手が編み込むようにして整形されていき、四つ足のフォルムへと変貌。触手のカーテンの内側から甲冑めいた硬い装甲が浮きあがるように出現し、パズルを嵌め合わせるように急所を塞ぐ。背後へ伸びた触手も組み合わさって三対の剛翼となる。
瞬く間にイチカの知るガストレア『キツネ』の姿を象る。
非現実的な光景にハッとする。自由な変形能力。これを利用すればトンネルに潜り込むことだって可能なのだ。
ガストレアのなんでもありさに、恐れを通り越して呆れがくる。なんなんだ、おまえらは。
キツネは剛翼を背後へ引き絞ると、翼が爆発的膨張。瞬間、パァンと空気が破裂したかのような轟音と共に、足元の水を割って突進。巨体に反してそのスピードは亜音速に達するほど。
だがそんなことイチカの心中では些細なものだった。
そんなことよりも、ずっとずっと、ムクとの決闘に横槍を刺されたことが気に食わない。
「邪魔を──」
視界に飛び込んでくる赤眼を見据えて、迷わず大鎌を投棄。切先が水面を割ってコンクリートに突き刺さる前に予備動作が始まる。
腰を落とし、地面を踏み鳴らす。防御も回避も考えない。
拳を下に、肘を曲げて後ろに引き絞る。
キツネの鋭い嘴がイチカの胸を貫通せんと一足一拳の間合いに侵入する。
「──するなああああああぁぁぁ!」
弧を描き掬い上げるような神速のアッパーカットが音速を超えて嘴下に激突。インパクトの瞬間、物体同士の高速衝突によって押し出された空気が足元の水溜りを抉り吹き飛ばし、爆発的運動の余波で地面が砕け大音量が地下貯水槽を跳ね返る。
破滅的な重量にイチカの骨格が悲鳴をあげ脱臼しそうになりながらも、拳がめりめりと音を立てて硬い嘴に沈んでいく。
ふっと肩の負荷が消えた。
キツネの数トンする巨体が跳ね上がり螺旋の暴風を生み出しながら直上へ弾き飛ばされる。貯水槽天井に叩きつけられ、広大な天井一面に亀裂。慣性によって縫い付けられるが、数秒後思い出したように落下し、イチカの目前に墜落する。
着弾の衝撃で水面が爆発して巻き上がった水が雨となって降り注ぐ。
キツネは身じろぎひとつしない。先のアッパーカットで脳を揺さぶられたのだ。死んだわけではないだろうが、これでしばらくは邪魔されまい。
不意に吐き出すような咳と共に血泡を噴く。
気付けば肩を上下させながら口で呼吸していた。額には玉粒の汗が張り付いていた。視界がぼやけ、ふらつくのを気合いで留める。まだだ。まだ何もできていない。
イチカの聴覚が水の跳ねる音を捉える。
横に跳んで大鎌を掴み取り、抜き取りざまに音の方角へ向ける。
規則的に連続する拍手の音と共に、闇の向こうからムクが現れた。
「派手にぶっ飛ばしたねぇ。イチカぁ」
浅く短い呼吸を繰り返しながら、少しでも回復させようとする。
「援軍は必要ないのでは?」
「使える手札を使わない理由がある?」
「……キツネが突然現れる理由がわかりました。下水道を利用したんですね」
「そうだよぉ、下水道には監視カメラがないからね。その子、おデブさんに見えてマンホール通れるくらいには体が柔らかいの」
「私もあなたも、この一帯の下水道区画で過ごしていたから、構造には精通していた。それもあって、あなたにキツネの運び役が任されたんでしょう?」
「あのゴミどもの考えなんて知らないよ。実はめちゃくちゃ考えてたかもしれないし、案外くじ引きで決めたりしてても驚かない。脳みそよわよわだからねぇ」
「あのときも……加里屋さんが腕を失ったときも、あなたが誘導を?」
脳裏に死人のように青ざめた加里屋の顔が浮かぶ。
生きてこそいるものの、欠損の代償は大きいはずだ。明るい未来が待っているとは思えない。
「もちろん。すべてムクが関わってる」
「加里屋さんは仲間だった。なんで平気な顔で傷つけられるんですかッ」
「仲間なもんか。アイツは人間だ。私の仲間はずっと化け物だけ。あの子もそう」
ムクはイチカの背後で轟沈しているキツネを視線で示してみせる。
カッと憤激がイチカの全身を貫く。
ガストレアに仲間意識でも持っているのか。正気じゃない。この狂気が加里屋隆をはじめとしたいくつもの人間の人生を破壊したのか。
生きている世界が違う存在を前にし、殺意のボルテージが上昇する。
憤怒の吐息を漏らすイチカに、ムクが悪魔の笑みを浮かべる。
「いいの? せっかく休む時間をくれてやってるんだよ。そんな体でムクに張り合うってぇ?」
「もう十分です。その口、閉じてください。不快だ」
「やぁだ」
もはや回復など思考の外に追いやられていた。
反応も待たず地を蹴り弾丸の速度で空間を渡る。蹴り抉られた水面が爆ぜ、飛沫をあげる。
彼我の距離が一瞬で縮まり、互いに大鎌の有効攻撃範囲に入った。