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神殿を思わせる支柱の並びを二つの赤い眼光が二重螺旋の尾を引いて突き抜ける。
膝あたりまである水溜りを蹴り跳ねて、腰をツイストさせながら放つ幾条の大鎌軌道。しかしそれら全てが相対する大鎌軌道によって打ち落とされ目標に到達することはない。
大鎌が激突する度、火花と共に重い金属音が弾けて閉塞空間を跳ね返る。
矢継ぎ早に描かれる螺旋軌道に目を剥きながらも無我夢中で舞踏めいた攻防を続ける。
互いが互いに有効打となる一手を打ち込めないでいた。
だが拮抗しているように見えて状況はイチカに不利に働く。先の攻防によって負傷しているのはイチカのみ。蓄積されたダメージが思考能力を蝕む。
こちらは気が狂わんほどの脳内演算を以って相対しているというのに、対するムクは冷や汗ひとつかかず一手一手を処理している。こちらの緊張の糸が緩むのを待っているのだ。持久戦はムクに味方する。
仕掛けるならこちらから。
視界の端で描かれる大鎌軌道予測曲線を捉えると同時に捩じ込む大鎌軌道。
袈裟懸けの軌道を取る二つの大鎌外峰が衝突し、金属が擦れ合って火花を吹き上げ一瞬の静止。
刹那の判断で刃を翻し、大鎌内刃同士が噛み合いロック。
腰を落とし地面を強く踏み締め、ありったけの力を込めて大鎌を釣り上げるように引き込む。
ムクは無抵抗にリリース。拳を柔らかく握って腰を落とす。完全な徒手空拳へ移行。迷いがない。
イチカもまた大鎌を手放し、構えを取る。二つの大鎌は噛み合った状態で釣り上げの勢いのままに螺旋を描いて後方空を舞う。
ガラ空きになったイチカの脇腹へ、ワンテンポ早くムクの型なしの拳打が恐ろしい勢いで突き込まれる。ガストレアをして骨格破壊は免れない魔拳。
死に物狂いで軌道を見切り、腰を捻りながら手のひらでそれをいなす形で傍へ受け流す。同時に水底を舐める足払いを放つ。
ムクは小さく跳躍して回避。跳ね上げた膝がイチカの視界いっぱいに飛び込んできて視界がホワイトアウト。
飛び膝蹴りをまともに食らったと知覚したときには、ぼやけた視界に噴き出した鼻血が舞い、脱力して背後に倒れ込もうとしていた。
空を舞う血の向こうにムクの喜悦した笑み。空中で腰を捻り追撃の回し蹴りをイチカのこめかみに叩き込まんとしていた。
間違いなくトドメの一撃。
ゾッとするイチカの思考と知覚を置き去りにして肉体だけが動作を始めていた。
空気を薙ぎ払って迫る蹴り足を跳ね上げるようにして鷲掴み。瞬間、手のひらを直撃し肩まで駆け上がる激痛にたまらず雄叫びを上げる。あまりの威力に押し出される足を気合いで踏み換え、背中を斜めに引き落としながらムクもろとも力のベクトルを反らす。逸らしきれなかった膂力がイチカの全身を蹂躙。だがいける。ムクの驚愕する表情も一瞬で横ブレる。
ハンマー投げよろしく自身を回転ゴマにした変則的な回転投擲。
回し蹴りを受け止めるのではなく流すことで、回転力と遠心力、二人分のイニシエーターの身体能力が余すことなく加算された投げは弧を描いた直後にムクを射出。凄まじい速度で屹立する円柱めがけて吹っ飛ばし、壁面に激突させ轟音を打ち鳴らす。ムクの矮躯はコンクリを砕き割って全面に強烈なひびを刻みつけ、爆心地はひどく陥没。姿を見通せない闇の中に消す。
遅れて反動で災害級の突風が地下貯水槽に巻き起こり、イチカの足元の水面を根こそぎ掻っ攫って、揺り戻しで津波が発生。押し飛ばされるような高波に、地面を強く踏み締めて耐える。
並のイニシエーターならば円柱への激突で即死していてもおかしくはない。だがイチカにはムクがこの程度では死なないという確信があった。
崩落したコンクリ片が水面に没し、ぼこりと音を立て波紋が広がる。
波の発生源から視線を跳ね上げて、円柱に開いた洞穴の闇を見据える。
ぬっと音もなく闇から手が浮き出て穴の縁を掴み、ボブカットが姿を表す。
その姿にイチカは耐えがたい寒気を覚えた。
頭蓋が割れたのか額は真っ赤に濡れている。吊り上げた口の端からは赤く染まった唾液が垂れ、獣めいた鋭い眼光でこちらを射抜く。
大ダメージをまともに食らったのは明白だ。どうしてまだ動けているのか理解できない。一体何が、いかなる執念が立たせているのか。
だがイチカの力は荊都椋に確かに届いた。──勝てる。
「いったいなあ。あー、頭ガンガンする」
「……降参するなら今のうちですよ」
「イチカのそういう態度がさあ、イラってくるんだよねえ!」
ムクが獣の咆哮をあげ膝をたわませる。
瞬間膨れ上がった闘争本能にイチカの脳髄が泡立つ。音もなく壁面を蹴るムクの足を視野が光学的に収める。
この時点でイチカは荊都椋の力量を完全に見誤っていた。
耳を震わす破裂音を聞いた直後、顔面に衝撃が走る。
「アハッ」
「──えっ?」
耳元に現れたムクの嘲笑を、イチカは絶望的な表情で聞いた。
いつの間にかに肉薄したムクの手が顔面を鷲掴みにしたのだと理解した瞬間、世界が反転し、水没する。瞬く間に視覚が暗色に支配される。水面に頭を叩きつけられたのだ。反射的に水を飲み込むまいと呼吸を抑止する。ばかな、速すぎる。
背中がコンクリの硬い地面に激しく押し付けられ引き摺られ、ガリガリと鈍い音を立てて轍を作る。全身が擦り切れるような激痛に思考が漂白。
半ば狂ったように跳ね上げた爪先がムクのどこかを抉ったと知覚した瞬間、戒めが解かれ投げ出される。
有り余った慣性で水面を割って転がる。水切り石の如く跳ね続けるのを、なんとか地面に足を蹴り付けて制動をかける。摩擦で靴底がすり減り、水飛沫を左右に散らす。
限界を超えた駆動の連続にとうとう全身が軋みをあげる。たまらず膝を突きかけ、歯を食いしばって耐える。
跳ね上げた視界に赤い眼光の尾を捉えて、全身の産毛が逆立つ。
貯水槽天井へ逆しまに接地したムクの手には漆黒の大鎌。イチカが水没している間に回収したのか。
対してこちらは徒手。防御はできない。
咄嗟に地を蹴り後ろに飛び退く。
直後、破砕音と共にイチカの鼻先すれすれを大鎌切先が擦過する。斬撃で押し出された突風がイチカの髪を吹き乱し水気を飛ばす。
着弾の余波で海が割れたかのように水面がえぐれてコンクリの地面が剥き出しになる。切先は深く地面に突き刺さり、湾曲した外峰がイチカの目の前に屹立していた。
紙一重の回避に背筋が凍る。
まだだ。ムクの足が地面を捉え、握る腕が力むのを見た瞬間、イチカの両腕は跳ね上がっていた。
瞬転して漆黒の外峰がイチカの視界に飛び込んでくる。切先が突き刺さった状態で無理やり力任せに大鎌を前進させたのだ。瓦礫を撥ね飛ばしながらイチカを真っ二つにせんと吠える外峰。刃がなくともイニシエーターの膂力で打ち出されるそれは斬撃に及ぶ。
死に物狂いで両手を翻し、刃を挟み込む形で手のひらを打ち付ける。インパクトの瞬間、パァンという音が鳴り響き生じる圧倒的な風圧。手のひらが痺れ、肩が外れそうなほどの反動。イチカの筋骨が断末魔をあげる。
だが確かな手応えがあった。
イチカの胸先数センチに大鎌が静止する。
絶対的窮地からの脱出に、思わず気が緩み、
突如、視界いっぱいにムクの靴底が躍り出た。
首に真正面から鈍い衝撃。
『呪われた子供たち』特有の規格外の蹴りが致命的な部位に致命的な威力で到達。イチカの筋骨を完全に破壊し尽くして、のみならず衝撃で後方へ吹っ飛ばす。
ミシリと頚椎が軋みをあげる。視界がスパークする。暴力的な慣性が全身に働き、間髪入れず背中を叩く衝撃。矮躯が跳ね上がったように海老反りになり、衝撃で肺が絞り締められ空気を吐き出す。意識が飛んで覚醒状態が強制終了する。
ムクの飛び蹴りを首に食らって、貯水槽壁面に叩きつけられたのだと理解したときには、視界が滑り水面が迫っていた。
咄嗟に足を前に踏み出そうとして、不幸にも瓦礫を踏んでつんのめる。なす術もなく顔面から水面に叩きつけられ水底に倒れ伏す。
こぽと吐き出したなけなしの酸素が気泡となって水面を上昇する。
ムクが終盤見せた一連の動き、同じスピード特化型であるイチカの超人的な動体視力を持ってしても見切れなかった。速すぎる。
だめだ、勝てない。
起き上がれない。もう四肢に力が入らない。息ができない。
暗い。寒い。
死ぬ。
沈む思考は脇腹に走った激痛で強制的に引き上げられる。
情けない喘ぎ声が地下貯水槽を跳ね返る。
気付けば水中から脱して壁面に背をもたれかけていた。
滲んだ視界で、ムクが蹴り足を引いていた。爪先だけで体を蹴り飛ばされて、強引に起こされたのだ。
「もうお願いはしないよ。命令する」
ムクは大鎌を腰の後ろに回して、赤らんだ顔でイチカを見つめていた。額に映る赤黒い血痕さえなければ、恋心を告白するかのようで。
「楝ヒフミを殺せ、氷鷺イチカ」
呼吸するだけで肺が痛む。鞠玉みたいに絡まった唾液をなんとか飲み込む。
「い……や、です」
不意に顎が跳ね上がって、遅れて突き刺すような痛み。視界が明滅。顎を蹴り上げられたのだ。
「気に入らない回答をしたら蹴る」
暴力行為の予告を前にして、イチカはキッとムクを睨みあげた。
暴力で信念が折れると思ってもらっては困る。
「民警は、人命を守る仕事です」
「今日クズを殺そうとしたやつのセリフとは思えないねぇ!」
息が止まる。見ていたのか。
先の威勢が瞬く間に消えた。
ムクは指で円を作って、右目の前に掲げる。
「見てたよぉ。善野を殺そうとしてるところ。ムクは目がいいからね。あれがオマエの本性。心の根っこにある真実の姿なんだよ。オマエはヒトじゃないんだ!」
喉が引き攣る。呼吸がうまくできない。
「わたし、達はっ、人間です! 私が人であるために、人として生きるために守るんです!」
「それ、自分が本来バケモノだって認めてるようなもんでしょ。わざわざ何かしないと、そう思えないって!」
ハッとする。
「いい加減人間を気取るのはやめろよ。ムクたちはヒトモドキなんだよ。化け物らしく暴れていいんだよ」
「違う! そんなの違う!」
ムクは鷹揚に両手を広げて見せ、踊るように体をくるくると回す。歌うように叫ぶ。
「私は化け物だ。私たちは化け物だ。お前も化け物だ!」
「私は人間だ! あなたも人間なんだ! やり直せるんだ!」
「ふせぇぇぇぇかぁぁぁぁい!!」
「私はッ」
イチカの叫びは最後まで続かない。不意に振り上げられた爪先が土手っ腹を射抜き、思わず身を捻って喘ぐ。体の内側で嫌な音が鳴る。ぐっと気持ち悪いものが込み上げてきてどす黒い血を吐き出す。
「どうしちゃったのイチカぁ。正解がわからないの? ボコボコにされてそこまでアホになっちゃった? かわいそうに、可哀想に!」
ムクの凶相がぬっと目と鼻の先に迫る。
思わずぎゅっと目を瞑る。お願いだから消えてくれ。
祈りは届かない。
頭を鷲掴みにされたと思ったら、無理やり瞼をこじ開けられる。ぶちぶちと顔面の筋肉が裂け、血が噴き出るが即座に傷が塞がる。『呪われた子供たち』の超再生能力。感情が昂って速度が増しているのを感じる。
ムクの悍ましいまでの赤眼が突きつけられる。瞳にくずおれたイチカが映る。
化け物がそこにいた。
「見苦しいぞぉ、氷鷺イチカァ。私たちは化け物だ。どうしようもなく化け物だ。始まりからすでに終わってるんだよ。詰んでるんだよッ。いい加減に現実を見よう。目を閉じるのはもうやめよう!」
「やだっ……わたしはッ、私は人間だ!」
ばっと勢いよく突き放され、背中が壁に当たる。そのままずるりと落ちて、イチカは尻をつく。
ムクは自身の顔と腹を手で抑え、耐えきれないとばかりに笑い声を弾けさせる。全身が病的な痙攣を見せる。
イチカにはなす術がない。ただ怯えながらムクを見上げる。
すぐにムクの痙攣が止まり、ふっと表情が消え去る。残ったのは抑鬱的な無表情。
「こんなもんか。……想像していたよりは楽しくないねこれ」
両膝を曲げてイチカの目線の高さに合わせ、鼻先が擦れ合う距離にムクの顔が浮かぶ。
「ムクがなんでここまでイチカに殺させたいか、気持ちを汲んでくれないかなぁ。一緒に来て欲しいからだよ」
「なに、いって……」
「さっきイチカはムクに逃げるのかって聞いたけどさ。逃げてんのはイチカの方でしょ」
髪を鷲掴みにされて放り投げられる。後頭部を強打、視界に星が散る。項垂れようとして、大鎌外峰で首を壁に押しやられる。
「ぅ、ぉ゛……」
「自分がやったこと、傷つけたこと。そういう過去から逃げて、今の自分が前を向くためだけに、正義だの倫理だのの力を借りてる。そうでもしないと自分が人間だって思えないんだねぇ」
首が壁と外峰に挟まれ、気道と血管が閉塞。顔面が締め上げられ、意識がふらつく。首元のバラニウムが燃えるような熱を持つ。
息ができない。酸素を得ようと舌を突き出し喉をひくつかせるが、出るのは無様な喘ぎ声。苦しくて涙が出る。
思考が形を保てない。
「イチカはさ、ドブネズミなんだよ。死体を貪る小動物。外周区でどれだけ汚いことをしたと思ってるの? どれだけ血を浴びたか覚えてないの? そんなきったない身と心で綺麗事語れると、語っていいと本気で願っちゃってるの?」
わかっている。本当はわかっている。綺麗事をいう資格はないってことくらい。
だから、それを言える彼女たちが羨ましくて、恨めしくて、きつく当たった。
ごめんなさい。
もうわかったから。どうか、私を。
「目を閉じるなよ。いくら祈ったって許されるわけないんだから。飛べないんだよ、どこにも。足元に転がる死だけが現実だ。カミサマはムクたちに翼なんて与えてくれなかったろ?」
いやだ。飛べないんだよ。重くて。こんなの抱えちゃ。
「オマエにその資格はないってことだよ。地べたを這いつくばって泥水を啜って生きろって言ってるんだよ」
外峰の圧迫が強まり、首に埋まり込んで頚椎が悲鳴を上げる。ムクが大鎌に体重をかけたのだ。
死の気配を明確に感じ取った。イチカは今、生と死の狭間に立っている。
敵だと認識しているはずなのに、体が勝手にムクに助けを求める。腕がふらふらと持ち上がってムクに伸びる。
突然、外峰の圧迫が消える。
支えがなくなったことで自ずと体が前に倒れ、咳き込むように酸素を取り込む。
呼吸するたび死にそうな激痛が走るのに、酸素が恋しくてたまらない。イチカの肉体が生きろと叫んでいる。わけのわからない涙が出る。
「ムクが助けたげる」
何を言って──そう言葉を発す前に、そっとムクの手が伸びてイチカの頬に添わす。細指の触れた部位が火傷したみたいに熱く感じられて、呼吸が浅くなる。視野が狭まってムクが大きく見える。目に映るのは一転して慈愛に満ちた少女の微笑み。
「息が苦しい?」
頷く。涙が出る。
「それは藻搔いてるからだよ。息をしようとするから息苦しくなるんだ。呼吸を止めるんだ。全部全部、拒絶するんだ」
ムクの発する言葉が唯一の真実みたいに聞こえる。
そうだ。その通りだ。足掻くこと考えることが苦しいのなら、やめてしまえばいい。このまま考えるのをやめて、全てムクに委ねてしまえば。
「氷鷺イチカはムクに敗北し、死んだ。だからまだここにいるオマエの命はムクがあげたものだ。つまり、ムクのものだ。ムクが死ぬときオマエも死ぬんだ」
この命は今まで五人のプロモーターの人生を狂わせてきた。外周区時代に行った、生きるための悪逆を含めればもっと犠牲者は多い。
ムクのいう通り、イチカはドブネズミだった。他人の命を貪る小動物。
そんな、他人を踏み台にして動くこの心臓が嫌いで。
失わせてきたものに見合う生き方などなくて。取り返しがつかなくて。
罪が重すぎた。どこかに捨て去りたいと思うほどに。
だから目を閉じた。
化け物みたいな現実に、目の前からいなくなってくれと祈って。
でもそんなの無意味だ。化け物は内側にいた。
こんなふうに生きたかったわけじゃないのに。
「ムクが生き方を教えてあげる。死に方かもしれないけど、生き方だって落下点は同じ死なんだから違わないよね。私たちはいつだって落ち続けてるんだ。足掻いたって飛べないんだ」
綺麗な生き方をしたかった。
でも無理だ。既に汚れていた。生まれた瞬間から間違えていた。
綺麗事を言う度、イチカの視界には二重映しで死体が浮かんだ。お前にはその資格がないと血の涙を流して訴えていた。目を閉じた。消えてくれと祈った。
考えても考えてもどうすればいいのか分からなかった。
だから、その答えをくれるなら、もう苦しまなくていいのなら、私は──。
──生き方って、そんなふうに誰かに与えられるものだっけ。
涙が急速に引いた。
それはなんだか、諦めの言い換えに聞こえた。
「独りがそんなに怖いですか」
「は?」
意識して言ったわけではなかった。
だがイチカの放ったこのワンセンテンスは荊都椋の温度を急激に下げた。
この瞬間、確かにイチカはムクの冷え切った赤眼に、狂気以外の何物かを見出した。
「ガッ」
突如、イチカの視界が上振れ、喉が燃え上がるような熱を発する。爪先で突かれたのだ。喉が潰れて声が出ない。
「ざーんねん! そーゆー態度とられたら、殺すしかないね」
明確な殺意だった。
思わず喉がひくつく。ムクの大鎌を握る指先が白くなる。持ち上がる大鎌の軌道を、イチカの視界が捉える。ひどくスローモーションで。
心臓の音がうるさい。血液が凍ったような錯覚。肉体の感覚が失われていて。
そこでようやく自分が動けないでいるという現実を理解した。
イチカは貯水槽の液面から上半身だけを出す形で、へたり込んでいた。
大鎌が頂点に達した。
あとは落ちるだけ。死刑宣告をするかの如き絶対零度の唸りをイチカは聞いた。空気を切り裂き、ガストレアをして抉る凶器の切先がイチカの頭上に迫る。
本気の殺意に射抜かれ、足に加えた力は霧散し太ももを震わせるだけ。立ち上がれない。イチカの戦意は完膚なきまでに叩き折られてしまっていた。もはやここにいるのは戦士ではなく犠牲者。無様なかすれ声さえ漏れていた。眼球が乾くのを感じる。眼を瞑ることさえできない。
死ぬ──。
接触直前、ガキンという音がして、切先がわずかに逸れる。
「──あ?」
何が起こった。横合いから銃弾が叩き込まれたのだ。高速移動する大鎌の刃面に。そんなことができるのは。
思わぬ事態にハッとした表情のムクが振り下ろしをキャンセル、下手人の方も向かずに地を蹴り跳躍。
直後、たった今ムクが立っていた地点の水面が爆発し小さく飛沫をあげる。
続く三発の発砲音と銃弾がムクの回避場所を見計らったように穿つ。
空中で逃げ場がない。だがその程度の問題はムクレベルのイニシエーターには通じない。
滑らかな動きで翻した大鎌が螺旋軌道を描いてその全てをあっけなく叩き落とす。暗闇に弾ける火花と金属音。
重力に引かれたムクが着水。軽い体重の着弾で水面が小さく揺れる。安全圏だろう円柱に隠れるそぶりすらない。銃弾の雨を脅威と見做していない。
面白いものを見たように、ムクのかき開いた目が笑う。
「ずいぶん乱暴なノックなんだねぇ。出てこないとこいつを殺すよ?」
いっときの静寂。
しばらくして足で跳ね散らされる水音が近づいてくる。
暗闇の中から抜け出すように黒セーラー服の少女が現れる。
回転式拳銃を握りしめているのはヒフミ。既に再装填を済ませているのか、ムクの胴に照準を向けたままだ。
その姿を見てイチカの心が凍った。来ちゃだめだ。殺される。
「リボルバー? ずいぶん時代遅れなんだね。楝ヒフミ」
「ヒフミでいいよ。ジャムらないのが魅力なんだ」
「どーでもいーよ、どっちも」
イチカの願いを知ってか知らずか、ヒフミは目をムクに向けたまま、へたり込んでいるイチカに寄る。
必死に逃げろと言っているのに、潰れた喉は発声を許さない。
涙目になりながら必死に顔を横に振ってノーを示す。
このままではヒフミは確実に死ぬ。私が弱いせいでまた人が傷つく。
いやだ。もうそういうのは。
「遅くなってごめんね。こんな奥まで潜るとは思ってなかったんだ。浅慮だった」
「別れの挨拶、それで済んだぁ?」
不機嫌にムクが笑う。退屈そうに跳ねあげた足先が水飛沫を散らす。
「確かにオマエの射撃は上手だ。でもムクを殺すには足りない。予測とか精度とか、そんなものムクのスピードの前じゃ無意味なんだよ」
「……そうだね。私じゃ百遍やってもキミには勝てない」
「それが分かっててなんで逃げなかったの? イチカと同じアホなの」
ヒフミはちらっとイチカを見て、すぐに視線を戻す。
ムクが怒気を纏わせてヒフミを睨みつける。
「おとなしく殺されに来たなら、残念。オマエを殺したら次はイチカだ。誰かを助けられたとか思わせない。勘違いはさせない。無意味な人生だったと嘆きながら死んでもらう。ゆっくりゆっくりと恐怖をその身に染み込ませてあげる。得意なんだよ、ムク。そういうのはさ」
ムクの絶対零度の殺意が膨れ上がり空間を満たす。ゾッとイチカの芯が冷え込む。凍結されたかのように動けない。
だがヒフミの口は動く。
「キミが生きていることを知らせた」
ムクのニヤけ顔が固まった。
「キミは知らなかったようだけど、そのガストレアには発信機がついていてね。エリアの中ならどこだろうと居場所がわかっちゃうんだ。この意味がわかるかな」
「ばかな。そんなはずがない。確認した」
「ガストレアの肉を引きちぎって?」
ムクが逡巡を見せる。理解できない顔をして。
イチカにはその理由に皆目見当もつかない。
この事態はつまり、ヒフミとムクの間にイチカが知らない前提があるということだ。
「……思ったよりオマエ、アホだったんだね。わざわざ作った状況を巻き戻すような真似じゃん。それで困るのムクだけじゃないでしょ」
「確かに私も困ります。とても。でも使える手札だったので使いました」
「ふーん、道具に情が湧いた感じ?」
開き切ったムクの赤眼に当てられてなおヒフミは涼しい表情で答えない。
空間を満たしていた殺気が引いていく。
「中途半端なやつ」
捨て台詞を吐いて、ムクの姿が貯水槽の闇に溶ける。
殺意に代わって静寂が空間を支配する。
ムクが引いたのだ。
よかった。これでヒフミは死なない。ムクには殺されない。
イニシエーターとしての知覚がムクの退場を確かに感じ取って、一転、意識が混濁する。
思い出したようにゴフッと血を吐き出す。
ぎょっとしたヒフミが膝を折ってイチカを覗く。必死に呼びかけているようだが聞こえない。今にも死にそうな彼女の顔がそばにあって、しかし次の瞬間、闇で塗り潰される。
寒い。血を流しすぎた。
ふっと体が沈み込む感覚。無限に続く奈落へと落ちていくようで。
落ちる意識が最後に、引き上げられるような力を知覚した。