12
ゆっくりと浮上した意識が、自分が暖かいものに包まれていると知覚した。
重い瞼を開けると、控えめな光が網膜を刺激する。それが天井に吊られたシャンデリアのものだと気づいて、意味がわからなくなる。分かるのは仰向けになっているということだけ。
鉛の脳は思考が曖昧で、その先を考えることを許さない。ひどい倦怠感。
四方を支える壁は木目調の壁紙かと思いきや、どうやら本物の木材が使われている。カントリースタイルというやつか。ガストレアの侵攻で国土が狭まった現代において、木造建築は絶滅危惧種のはずだが。
起きあがろうと体に力を入れると、どこからともなくピキッと嫌な音が鳴る。
「〜〜〜〜〜〜ッ!?」
瞬間、死にそうなほどの激痛が走り体が硬直。身を反らしてぴくぴくと悶絶する。ぎゅっと握りしめたシーツが皺を寄せる。
痛みを感じるということは、まだ生きている。
乱れた呼吸を落ち着かせると慎重に体を動かして、なんとか上体を起こす。思わず出てしまった涙を指で拭って、ようやく自分がベッドで寝かされていたのだと気付く。
胸元を見ると清潔そうな白のガウンが目に入る。
当然イチカのものではない。おそらく着ていた服は戦闘の余波でズタボロになっていて、着替えさせられたのだろう。やっぱり自分には白は似合わないなと思う。
恐る恐る白ガウンの襟をめくると、ゆとりのあるパジャマを着せられていた。意識を失った状態の更衣だが、気分は悪くならなかった。
裾をたくし上げて胸のあたりまでを曝け出す。記憶が確かならば深刻な負傷を負っていたはずだが、白い肌には傷ひとつない。内出血によるあざの類いもなし。
だが内部にはガタが来ている。痛打を受けた腹部と首には再生途中特有のむず痒さを感じるし、起きあがろうとしたときの激痛を考えると万全の状態とは言えない。
不意に頭がずきりと傷んで、こちらに向かって振り下ろされる大鎌の鋭利な切先をフラッシュバックする。
改めて実感する。そうだ、自分はムクに負けたのだ。
あれからどうなった? ヒフミは無事なのか? ヒフミがここまで運んだ? そもそもここはどこだ?
首を労りながら部屋を見渡す。
天井にはシャンデリア、壁には本物の材木。
壁面には高級そうな絵画がかけられている。近代アートみたいな複雑怪奇な構造をとった円卓には、自由曲線を思わせる木椅子が伴っている。
壁に備えられたドアは収納だろうか。イチカの知る限り私室というのは物が溢れているものだが、この部屋には一切見えない。生活感がない。
大窓は大胆に空間を切り取って、おしゃれなカーテンで身を立てていた。
どう見ても病院には見えない。いや案外イチカが知らないだけで、病院のVIPルームというのはこんな感じなのかもしれないが、違う気がする。
気付けばベッドから飛び出していた。
踵を床に下ろそうとして、ベッド傍に置かれたルームシューズが視界に入る。イチカにあてがわれたものか。素足でこの豪華な部屋を歩くのは躊躇われたので、許可もなくルームシューズに足を通す。
乱れたシーツを気休め程度に直してドアに向かった。イチカにはベッドメイキングの心得などない。
音を殺してそっとドアノブを回し、薄く開いて外を伺う。
気配はない。ドアの隙間に身を滑り込ませ飛び出る。
思いがけず広い。患者などはいない。もはやイチカがここが病院だとは全く思わなかった。
そこは画廊だった。
壁面には金縁の絵画がいくつもかけられていた。その下には靴を履くみたいにお行儀よく椅子と卓が並んで伴っている。単に通路としての役割のみを持たず、応接の場としても扱われるのだろう。
このレベルの家は東京エリアには……。
そのとき、背後でガチャリとドアが開く音。
なぜか心臓がきゅっと冷たくなって、素早く振り返る。イニシエーターの並外れた時間分解能が、わずかな時間でそれが誰かを認識する。リネンカートを引いている老女。おそらくはハウスメイド。
気付けば、すぐそばの柱の影に滑り込んでいた。
なぜ隠れるんだ。訳のわからない自分の行動を、遅れて理解する。
一般的に、『呪われた子供たち』は恐怖される。あのハウスメイドが、もっと言えばこの家の人間が赤目を発見したとき騒ぎが起こるのではと考えた。イチカは自分が今この家にいる状況が歓迎されるとはどうしても思えなかった。
隠れていたほうがいいと直感が告げていた。今は直感に従うことにする。
車輪の回転する音が聞こえた。
ハッとして影から顔を乗り出して様子を伺うと、ハウスメイドがこちらの方向にカートを押していた。もう少しすればイチカの隠れる柱も通り過ぎるだろう。
急いで飛び出して逃げる? だめだ。それではメイドの視界に映る。
このままじっとする? それもだめだ。柱はイチカの身がぎりぎり隠れる程度の幅しかない。通り過ぎざまに見つかるリスクがある。
ハウスメイドが近づいてくる。あと一秒の猶予もない。
自身の不手際と浅慮に頭がくらくらした。頭を抑えようと腕を持ち上げて、
肘に固い物が当たった。
振り返ってそれがドアノブだと気づいたときには、ドアを薄く開けて身を捻り込んでいた。
直後、ドア越しに車輪の音が過ぎ去るのをイニシエーターの聴覚で見届ける。
とりあえずの危機は去ったと、ほっと息を吐く。
「何者ですかッ」
思いがけず鋭い声。
瞬時に振り返ると、間髪入れずに鋭利な刃物が喉元に突き向けられ硬直する。切先は持ち主があと少し前に押せばイチカの喉など食い破ってしまう距離。一連の所作に、イニシエーターのイチカは反応できなかった。
イチカの目の前には、同年代くらいの女の子が刃物を手にして立っていた。
なんだか鋭利な雰囲気の少女だった。黒のロングヘア。前髪は水平に切り揃えられ、見える柳眉は逆立っていた。キッと目を吊り上げて睨みつけている。
睨み殺さんばかりの視線にあてられ、じっとりとした汗が噴き出すのを感じる。ひどく難儀しながら唾液を飲み込み、切先へと視線を逃がす。
刀だ。なぜ武器を持っている。イニシエーターなのか。しかし刀身は白い。バラニウムではない。普通の武器。普通の子供……?
女の子の目線がちらりとイチカの足元に降りる。信じられないものを見た表情で女の子は一歩後ずさった。
「それ、私の。……あなたがなぜ」
「……ルームシューズのことですか?」
返答は無言の睨撃だった。盗まれたとでも思ったのかもしれない。困ったことに最悪の第一印象だ。
「あなたのものだとは……傍に置かれていて、つい。その、ごめんなさい」
イチカの声は先細りしてしまう。目を合わせるのが苦痛で逸らすと、女の子の右頬あたりで目が留まる。
うっすらとだが赤い線が見えた。
おそらく傷跡。皮膚同士の境界は癒合を完了しているのだろうが、イニシエーターの視覚は微細な世界も逃さない。
思考の中でヒフミの声が再生された。
『妹は私とは歳が離れててね。彼らは妹が、『呪われた子供たち』なんじゃないかって怖がって…………殺そうとしたの。自分たちも赤目に殺される、だからその前にって』
『妹は、確かめるためにつけられた傷が顔にまだ残ってる。 もうだいぶ見えなくなったけどね』
顔の傷。そうか、この子は──。
「妹さん……?」
女の子の表情が強張った。悟ったのだ。
妹という単語を使ったことで、イチカがヒフミの関係者であることを。
妹だと推測したことで、顔の傷を見られたことを。
瞬間、膨れ上がる烈火の如き怒気にイチカの産毛が逆立ち、切先を突く気かと身構える。
しかし女の子は握りしめた刃物を動かすことはない。
暴力では『呪われた子供たち』に勝てないことを知っているのだ。
「お姉様の関係者ですか。貴様のような赤目に、妹さんなどと呼ばれる筋合いはないのですが?」
尊大な態度に思わず怪訝に眉を寄せる。
延珠も口調こそ尊大だが、目の前の少女は自分自身を明確に上だと規定している。そしてそれが当然だと慣れきっている。
たじろぐイチカに気をよくしたのか、刀を下ろし滑らかに納刀。
ほっとする間もなく、女の子はにやりと嗜虐的な笑みを顔に刻む。
「川に流れる子どもの遺体を、あなたは目にしたことがありますか?」
それはガストレアショックによる嬰児遺棄のことを言っているのだろうか。突然の話の流れに前後を失いかける。
「……いいえ」
「ええ。あなたの年齢ならそうでしょうね」
女の子は手のひらを右頬に当て、傷跡のある部位を隠す。
「座間元首相の中絶禁止で、赤目を産んだ母親は子を川に流して殺しました。ですが、この子殺しはすぐに収束しました。国が産婦人科に出産に関するガイドラインを設けたからです」
出来事を知り尽くしているとばかりに滔々と女の子が続ける。
「妊婦の血液を採取し、胎児のDNAを検知、赤目かどうかを事前に知らせるというものです。あくまでガイドラインですから法的強制力はないのですが、ほとんどの病院は従いました。病院はあくまで知らせるだけで、胎児の生死を決めるのは親たちですからね。そしてほとんどの親は死を選んだ」
川に流れなくなっただけで、病室で命が消えていった。
腹の底が冷える感覚がイチカを突き刺した。
「勘違いしてはいけませんよ。中絶を悪というわけじゃありません。母親の持つ当然の権利であり、善悪で測れない選択です。母体保護の観点で見れば紛れもなく善と言えましょう。私でも同じ選択をする。それに彼らは生まれてきても幸せにはなれなかっただろうし、親もその子を愛せない自覚があったから選んだ。仕方なかったというだけのこと」
「それが、なんだっていうんです?」
「産婦人科に出生前DNA鑑定を事実上の義務化させたのは、私とお姉様の父です。── つまりこの家で、あなたたち赤目は排除されるべき存在として扱われるということです」
喉がひくついて、ムクの痛打がぶり返す。
予感はしていた。おそらく、この家は東京エリアの中でも最奥にある。そんな地に住んでいる家系は必然と限られる。
だがイチカの心が、その予測を叩き出すのを食い止めていた。
「この家はいったい」
「まだわかりませんか」
女の子が哀れなものを見る目でイチカを向く。
「──私は天童です」
「天童って……ッ」
天童──そのワードを聞いて息を呑んだ。イチカにも聞き覚えがある家名だ。
東京エリア代表である聖天子には聖天子付補佐官というサポート役が存在する。そのポストについているのが天童菊之丞。現在の聖天子が若いことを考えると、実質的な政治的権力を握っているのは菊之丞と言ってもいいだろう。天童家自体もまた数々の名だたる政治家を輩出している。
つまりは天上人、東京エリアの支配者だ。
脳裏でヒフミの黒セーラー服がはためく。
──なんだってそんな奴が民警に。
考えに夢中だったせいで、背後で開いたドアに反応するのが遅れる。
「あ、いた! 探したよー、イチカちゃん」
入室早々ヒフミがイチカにふわふわ声を浴びせると、女の子と視線を交差させ、気まずそうに笑う。
「あっ、いたんだ。いろはちゃん」
「いますよ。私の部屋ですよ」
「そ、そだね。ええと、これには事情があってね……」
「ヒフミさん」先のお姉様呼びとは打って変わって他人行儀にいろはが吠える。「あなたがあのような職に身を落とすのは許容しました。いえ、許容はできてはいませんが、一応の対話はしました。ですが赤目を家に入れることは話してくれませんでしたね。もちろん許されませんよ」
「そこは緊急避難でどうか。ほら、怪我してて……」
いろはが乱暴げにイチカの体に視線を投げる。
舐め回すような視線にイチカは居心地の悪さを覚えて腰が引けた。『呪われた子供たち』なので、既に外見でわかる負傷は残っていない。
「なら尚更病院にでも放り込めばいい」
「いやーあはは。それもそれで難しいんだなー」
イチカも内心で難しいだろうなと同意した。
赤目の治療は拒否されるケースが多い。外周区の子供たちは戸籍がないために保険も加入しておらず、治療費を払えないことを理由に治療を拒否される。だがイニシエーターで、治療費の問題はないとしても印象の問題で拒否されることは往々にしてある。
もちろん、医者としての使命を全うする医者も大勢いるし、イチカは過去にそういう人間たちに救われたことが何度もある。感謝しても仕切れない。
今回はそういう医者ではなかっただけだ。
「侍医さんならなんとかなるかもって連れてきたんだけど」
「あの人はもうその地位にありません。ただの主治医と呼ぶべきです」
「そうだったね」
たははと笑うヒフミがいろはの前で膝を折って目線を合わせると、傷跡のある右頬に手を添わせて顔を覗き見る。
直後にいろはの顔を見て、イチカはぎょっとした。その顔は真っ赤になっていた。唇はわなわなと震えてさえいる。
怒りのあまりヒフミを斬り殺すのではないかと心配になる。
「で……だめかな」
「だめ……いえ、いいで……いえ………………だっ…………いっ……………………」
蚊の鳴くような細い声が漏れた。
それが薄く開いたいろはの唇から出たものだと理解するのに、情報処理に秀でたスピード特化型のイチカをして数秒を要した。
ハッと顔をあげたいろはがこちらを向き、屈辱そうにぷいと顎をそらす。
「あっ…………だめです。……だめです!!」
念を押すように強い口調で否定された。
「まあダメって言われても治療は済んだんだけど」
「…………ヒフミさんのそういうところ、嫌いです」
「私はいろはのこと大好きだよ」
「嫌いです。出ていってください」
「私はいろはのこと」
「出てけ!」
いろははヒフミの追撃を平手で無理やり押し退けて、ついでにイチカをグーでぼこすか殴りつける。普段なら絶対に痛くないが、今ばかりは傷に響くのでやめて欲しい。
『呪われた子供たち』の認識はともかく、彼女らの間は円満のようで安心する。イチカのような存在のせいで家族が引き裂かれるのは嫌だった。
ふと部屋の内装が目に入り、違和感を覚えた。
鏡の類が一切ない。
不便ではないのかと疑問が浮かんで──ああ、傷跡を見ないようにするためか。
自分の傷を見たくないのはよくわかる。意図したことではなかったが、いろはに傷のことを意識させたのは悪いことしたなと思う。
もっともイチカの謝罪など、それこそ傷跡に塩を塗る行為か。
「じゃあ出て行こうか。イチカちゃんも退散しよう?」
「…………はい」
ヒフミが差し出した手を一瞬だけ見つめて、イチカはその手を取らずにドアを潜った。
遅れて出てきたヒフミの隣に付き添う形で画廊を歩く。壁の肖像画からの視線まで痛く感じる。
ヒフミの足はすぐに止まった。
イチカが最初にいた寝室の扉前だった。
ここが目的地で間違いないとばかりにヒフミはドアを押し開けて部屋に入り、ベッドに腰掛けてイチカを手招きする。
「出て行かなくていいんですか」
「気にしないで。あの子、怒ってるわけじゃないから。それになし崩し的に同意はとれるだろうし」
「嫌な姉ですね」
「自慢の妹だよ。たまに心配になるぐらい」
「やっぱり嫌な姉ですね」
ふっと薄く笑って、ドア下の境界をまたいで入る。
だがドアを閉めて、そこで止まる。ヒフミの座るベッドとドアは数歩の距離。それがイチカと彼女の距離だった。
「…………天童って」
聞いちゃったか、と小さな声が届いて。
「うん、分家なんだけどね」
ヒフミは両掌を合わせると薄く息を吐いた。
「いろはが物騒な物持ってたでしょ。あれ、ウチで武術のお稽古があるからなの。蓮太郎くんとも本当はそこで知り合ってる」
「蓮太郎さんが?」
「彼、天童の養子なの。これでも許嫁だったんだよ」
「……狐狩りの依頼のとき、初対面って言ってませんでしたっけ」
半信半疑の声音にヒフミが抗議の声をあげる。
「や、本当なんだよ。病気で御破算になっちゃって、表に出られなかったから蓮太郎にもすっかり忘れられちゃったけど」
「ひどい男ですね」
「それはもう、本当にそうだよ。感動の再会だーって泣きながら抱き付いたら忘れられてたんだよ?」
「ご愁傷様です」
すこし会話がぎこちない。
互いに切り出そうか迷っているのだ。なぜヒフミが地下貯水槽にあのタイミングで現れたのか。
おそらく、それを聞けばイチカはこんなふうにヒフミとは話せなくなる。
イチカは一瞬だけぎゅっと目を瞑った。祈りはしなかった。
「……あなたは、なぜあんな場所に」
思いがけず鋭い声が出た。
「狐狩りがある秘密結社の遊びだってことは知ってます。ムクが教えてくれました」
「私が全部話すよ」
ヒフミがベッドの上で居住まいを正した。
「その結社はスポロシストと名乗ってる。東京エリアの寄生虫だよ。私はスポロシストを解体するために動いてるんだ」
思えばIISOで初めて会ったときも彼女はそんなことを言っていた。
「……狐狩り事件を根本から解決するために」
「エリアの監視網に引っかからずに現れ、感染者を増やしては姿を消すガストレア。そんなのがいまだに駆除されないのは異常だった。だから、キツネを人間が誘導しているのは予想していた」
──は?
イチカはヒフミの言っていることがしばらく理解できなかった。
固まったイチカをヒフミがきょとんとした表情で見上げていた。
「はじめから?」
「うん。何らかの組織が背景にあることも予測してた。最初はテロかと思ったよ。でもいくら待っても致命的な事態に繋がらなかったから、これは何者かの管理下にある遊戯なのだと直感した」
「そんな……」
そんなの、私には何も言ってくれなかったじゃないか。
息が止まった。呼吸の仕方が分からなくなった。
「なら、コマはなんだろうって考えて、民警にたどり着いた。監視網が捉えられない以上、ガストレアの移動経路は空か地下かの二択。下水道に網を張ってたらキツネと荊都椋がすぐに見つかった」
待ってくれ。
「そのときキミの相棒が退職したんだ。荊都椋がキミに執着しているのは調査してすぐにわかったから、手元にキミを置いておきたかった。私にとって加里屋隆の負傷は紛れもなく幸運だった」
なんだよそれ。
「平良笙子がスポロシストメンバーであることは知っていた。彼女の招集はゲームの始まりを意味していた。あちらとしては正確にはマンネリ打破のつもりだったのかもしれないけど」
呆然とするイチカにヒフミは言葉を続ける。
イチカは自分が果たしていまだ立っているのかすら分からなくなっていた。
「そして招集場所が地上七〇〇メートルって時点で、キツネが来るのは予測できた。あの高度は天然の逃走経路として効果的に機能する。あっちこっち動くガストレアの誘導がフェロモンの濃度差で行われているのはすぐに分かった。フェロモンは滅多なことでは消えない。単純に有無を検知してるだけなら一度撒いた場所から離れないから、スプリンクラーで希釈して逃走を選ばせた」
あなたがやったのか。いつの間に。
「スポロシストを解体する上で、どうしても荊都椋の確保が必要だった。彼女は重要な手札として機能するからね。でも彼女の周りには彼らの手があった。スポロシストの監視下で荊都椋を連れ去るのは、包囲網を感知した彼らが逃亡するリスクがあるので取りたくない。見えない領域で確保するのがベストだった」
ヒフミは静かに息を吸う。
「だから、払い除けてもらった。スポロシストのゲームは悪趣味な干渉を奨励していたから、それを使って
イチカは息を呑む。それはムクを殺そうとしたと言っているようなものだ。
「もちろん彼女が死なないという予測をしていた。もともと荊都椋のポジションはスポロシスト側としては重要ではなく、ゲーム終了時に口封じする算段だった。それがわからないほど彼女は愚かじゃない。彼女は返しの手札を用意する」
自分が呼吸していることに違和感さえ覚えていた。舌が震える。
「……無秩序なあの子が?」
「いやあの子は結構理性的だよ。あの地下貯水槽で、彼女はのこのこ現れた私を瞬殺することもできた。でもそれをしなかったのは、私があの場に現れた理由を知る必要があったから。彼女は自分の行動が与える結果について考えているよ。理性的に狂っているんだ」
目の前の女はイチカよりムクのことを理解しているとほざいていた。
「スポロシストと荊都椋の分断ができたら、あとは彼女を確保するだけだった」
「でも、ムクが生きていることを組織に知らせたから、彼女を確保しにくくなった。……私の、せいですね」
抑えきれず引き攣ったような枯れた笑いが出る。
「……あなたは、とんだ偽善者だ」
疲れ切っていた。もう誰も信じられない。自分とヒフミが同じ部屋にいることはわかっていても、同じ地平を踏んでいるとは思えなかった。イチカだけが底にいて、ヒフミはそれを見下ろす。そんな被害妄想まで生まれてくる。
膝がくずおれて、背中をドアに擦り付けながら座り込む。
「なぜ私に全てを話したんですか。なにか、しろと。ムクを捕まえろと? 無理です。他の人を操ればいい。私には……私には何もできない」
膝を抱えて、顔を埋めた。眼球を押さえつけるように交差した腕に密接させる。潰れてしまえとすら念じた。仮に潰れたとしてもイチカの再生能力なら数週間で完治するだろうが。冷え切った部分が改めて自分が化け物なのだと実感を得ていた。
自分は化け物だと宣言してみせたムクの凶相がフラッシュバックする。
「ムクの言う通りだ。はじめから無意味だった。私、ムクと戦うとき、綺麗事を言おうとしたんです。でもそんなの許されない。一度汚れたら、一度落ちたらもう終わり。ムクの言う通り、もう全部無駄なんだ。バカみたいだ。…………信じられない。誰も。自分でさえも」
控えめなスプリング音がして、のろのろと顔をあげて見やる。
ベッドから立ち上がったヒフミがゆっくりとイチカのもとへ歩み寄っていた。目の前で膝が折れて目線がイチカと同じになる。
「イチカちゃんは、もしかしたら自分の生き方はもう変えられないと思ってるのかな」
「人生相談するような仲じゃない」
「プロモーターは一応イニシエーターの保護者なので」
「今更だ。パートナー関係も……私自身も」
「私はそうは思わないよ。まだ終わってなんてない。これから、変わっていくことは十分にできる」
「そんな、できるわけない」
「今すぐは、できないかもしれないね。でもいつかできるよ」
心の最奥を手が這いずり回っている感覚。胸の底がざわめいて。
その手を退けろと脳がうるさい。
「そのいつかはきっと来る」
気付けば拳を握りしめていた。眼球が燃え上がりそうな激痛。
「どうして……ッ。あなたはそんなふうに言い切れるんですか!」
「だってあなたはまだ終わってないから」
わかったように言うヒフミに怒りが湧く。
「あなただって、私と同じだ。人を操って傷つけて。綺麗事を語る資格なんてないでしょ」
脳裏にいつか聞いたヒフミの綺麗事が去来する。
『みんなに余裕ができれば、それだけ誰かを助けられる誰かが、善人が増える。『呪われた子供たち』も『奪われた世代』も関係なく』
「あの言葉も、嘘だったんでしょ。善人で溢れる世の中だなんて、思ってもいないんでしょ」
目の前に座るヒフミと、あの日の彼女が二重映しになってすぐブレる。
「善人の定義次第だけど、善い行いをする者と定義するなら──うそだ」
知らず深い息が漏れていた。否定して欲しかった自分がいた。
「善悪は二元論的に語れるものではないし、語れると定義したとして人間はどちらかで永劫固定されるわけじゃない。分かち合おうとする属性で固定化された集団は略奪者が流入すれば瞬く間に壊れる。そんな構造は欠陥だ。私が見ているのは社会だ。私が定義する善人は、社会を構成する上で善性に働く状態、人のとる相であって人そのものではない」
「何でもかんでも思い通りにしたいってことですか。支配者に君臨するあなたが」
「それは少し違う。別に私はそんな権力も権利もないよ。いろははキミにどう接した?」
「は? ……お世辞にもいい感情は持てない態度でした」
「だろうね」
それがなんだ。話を逸らす気か、そんなことで?
「あの子がなんでそういう態度を取るかわかる? それは怖がってるからだよ。あの子は『子供たち』も『奪われた世代』も怖がってる。だから、遠ざける。突き放す。『奪われた世代』もおんなじなんだ。恐怖が、彼らを突き動かす。自分が殺されるかもしれないと考えるから攻撃する。いろはが君にとった態度は理性的とは言えない。むしろキミを怒らせて殺されるかもしれない」
思わず跳ね上がったようにヒフミを見上げる。
「私はッ、そんなことはしません!」
「知ってる。だから今私はこうして話せている。でもいろははキミのことを何も知らない。だから挑発的な態度は冷静に考えれば損をするだけだ。でも、やってしまう。そうでもしないと不安感を補償できないから。軽視することで恐怖に値しないと誤魔化してる。……人はときに合理的でない選択をする。それが損しかしない選択だとしても選んでしまう」
「それが、なんだっていうんですか」
「恐怖を発端とした非合理な選択の結末を、恐怖がもたらす混沌地獄を、私はこの目で二度見た」
ヒフミはしばらく目を瞑ると、夜色の瞳でイチカを見上げた。
「他者を全く異なる存在だと捉え、排斥し続けた先には何も残らない。そんな未来、私は断じて許容できない。これだけは嘘じゃないよ」
その瞳に、かつての夜を思い出しそうになって。
「私が民警になったのは恐怖の起点をどうにかしたいから。恐怖や憎しみを捨て去って、みなが冷静に考え抜けば、誰かを憎むことがどれだけ損しかしない選択なのかをわかってくれるはず」
それは──また別の綺麗事ではないのか。
イチカは夜色の瞳から目を逸らした。それ以上見ていると、いつか感じた不可解な気持ちが蘇りそうだった。
ひどく惨めな気分だ。
「どうして聞かれてもないのに打ち明けるんですか。ムクもあなたも」
「それは、私のことをわかって欲しいからだと思う。きっと荊都椋も」
「あなたの言葉を信じろっていうんですか。あなたのそれは言葉だけだ。力はない。資格もない」
「それでも、言うんだよ。言っていいのかなんて知ったことじゃない」
膝の上に置いたイチカの手にヒフミの手が重なる。
「私の言葉には力がない。中身もない。でも言い続ける。いつかこの言葉が力を持つ日が来る」
「そのいつかって、いつ来るんですか」
「わかんない」
怪訝な表情になったイチカを見てヒフミが困ったように笑う。
「いつ来るなんてわかんないよ。来るかどうかもわかんない。でも、ううん、だからこそ、今日この瞬間に全てを放り出す必要はないと思うんだ。今、答えがわかるはずないんだから」
気付けば、心の奥底でどうしようもない感情が湧き上がっていた。無性に切なくなって、目を抑えたくなってしまう。
「イチカちゃんは、自分に綺麗事を言う資格はないって言ったよね。でも私は、そんなのわかんないと思うんだ。まだ人生の途中。答えなんてまだ分かるはずないんだよ」
「じゃあどうすればいいっていうんですか」
「今は、ただ呼吸するの。過ち、罪悪感、恐怖、誤魔化し。全部その体に取り込んで、ただ生きるための糧にするの」
どうして。
「いつか正しい答えを見つけられるその時まで、呼吸し続けて」
どうして、そんな悲しそうな表情で言えるんだ。
どうして、自分には言えないのか。
脳裏にムクの声が蘇っていた。
『さっきイチカはムクに逃げるのかって聞いたけどさ。逃げてんのはイチカの方でしょ』
『自分がやったこと、傷つけたこと。そういう過去から逃げて、今の自分が前を向くためだけに、正義だの倫理だのの力を借りてる。そうでもしないと自分が人間だって思えないんだねぇ』
『イチカはさ、ドブネズミなんだよ。死体を貪る小動物。外周区でどれだけ汚いことをしたと思ってるの? どれだけ血を浴びたか覚えてないの? そんなきったない身と心で綺麗事語れると、語っていいと本気で願っちゃってるの?』
全部、覚えている。私がしたことは全て。私の罪は全て。わたしは。
ようやく分かった。言えないのは、目を閉じているから。
罪を誤魔化しているからだ。
「わたし……」
知らぬ間に声が漏れていた。
イチカは、聞かれてもいないのに自分のことを語り出していた。
言いたくなかった、隠したかった過去。それは罪の懺悔に似ていた。ヒフミは合いの手を入れず、辛かったねとか頑張ったねとかも言わず、ただ真っ直ぐな瞳でこちらを見つめていた。だからイチカは話し続けた。
ヒフミはきっとイチカの苦しみの億分の一さえ理解していない。でもそれでよかった。欲しいのは理解じゃなかった。
過去のことを話し終えると、ヒフミが「これからどうするの」と問うた。うまく言葉が出なかった。でも心の奥底には確かにあって。
「イチカちゃんは、どうしたいの」
ヒフミは重ねて問う。
「わたしは」
最初はぽつりぽつりと、でもすぐに堰を切ったように言葉を吐き出す。言葉と一緒に涙まで出る。
「わたしは、本当は」
でも肝心なことが声に出ない。出しちゃいけないと無意識が喉を縛り付けている。
不意に柔らかい体温。
ヒフミに抱き寄せられたのだと感じたときにはイチカの凍った喉は溶けていた。
はじめは期待した。始まりは汚泥にあっても、これから先は綺麗に生きようと。生きられると、自分に期待した。
でも、綺麗事を言う度、イチカの視界には二重映しで死体が浮かんだ。お前にはその資格がないと血の涙を流して訴えていた。目を閉じた。消えてくれと祈った。
考えても考えてもどうすればいいのか分からなかった。
そのうち、諦めを覚えた。自分に嘘をつくようになった。自分の外側に目を向けて、全てそいつらが悪いのだと誤魔化した。しょうがなかったんだと放棄した。
でも心の最奥は誤魔化しが効かなかった。
仕方がないはずないんだ。自分は人間じゃなかった。こんな醜い化け物は消えてしまえばいいと思った。
苦しかった。息苦しさが続くのは息をしようと喘いでいるから。呼吸を止めようとした。だけどできなかった。
なんでだ。それがわかっていて、それでも息をしようとするのは──。
期待しているからだ。
なにか変わるかもしれないと、そんないつかが来ることを期待しているからだ。
もうやめよう。期待などしていないだなんて誤魔化すのは。
これからは、せめて自分に素直に生きよう。
「私は本当は、延珠みたいに、あなたみたいに、嘘を吐かずに生きたかった」
次回投稿はだいぶ後になります
三億円の賞金首(九歳赤目)があなたの家の前で倒れています。どうやら体力が限界でしばらく何をしても起きないみたいです。あなたはどうしますか?
-
二、三発撃って起こす。あなたは保脇だ
-
餌付けして事情を聞く
-
身包み剥がして放置する
-
無視して寝る。あなたはブラック企業勤めだ
-
まったく小学生は最高だぜ
-
かぐ