15
唸るような吹雪がイチカの全身を叩きつけた。
ビル森の間を吹き抜ける雪は勢いを増す一方だった。夜空の暗黒を舞雪が遮って、視界を白く染め上げんとしている。もうじき先すら見通せなくなるだろう。
だというのにイチカは寒さを感じていなかった。
麻痺したのか。そうかもしれない。今この胸に宿る不可思議な熱は幻なのかもしれない。
だが確かめる術はない。ならば気にする意味もまた、ないのだろう。
すぅと一回深呼吸して、目を開けた。
イチカの視界には、破壊の轍が引かれていた。
腰のあたりで破断し傾斜したコンクリ壁には降り積もった雪がひと山を築いていた。限界を迎えたのか山の一部分が剥がれ落ちるようにして崩れ、白い絨毯の上に落ちては白煙を巻き上げる。
静寂に包まれているのは積雪による消音効果のおかげでは断じてない。たった今この瞬間に限って、ここには人っこひとり存在しないのだ。
確認できるのは無惨に砕けた道路。ひしゃげた街灯は照明機能を喪失し、役目を放棄して闇の中うずくまっている。なにか巨大なものが通り過ぎた痕跡。
傍の廃ビルは、その足元だけを綺麗に抉り抜かれて不安定な印象を与える。倒壊するかもしれない。
国道を一歩踏み進めると、ぼこりと足が沈む。
よく見れば巨大な足跡の内側に足を踏み入れていた。
風化していない、真新しくできたものだ。イチカの身長の二倍はある。間違いなくガストレアの足跡だ。
荊都椋がガストレアを放流してから十五分が経過していた。
外周区で発生した小規模な感染爆発は多数のガストレアを生み出し、外周区外縁に並ぶモノリスを避けるようにして内地へと侵攻を開始した。
今、イチカが立っているのは三十七区。ここは既にガストレアが去った領域にある。
外周区の住民もガストレアを恐れて既に避難している。対処に乗り出した民警なども内地付近で迎え撃っているため、ここには誰もいない。
いや、正確には少し違う。
「──ここだよ」
傍から届いた声に振り返ると、ヒフミが端末を握っていた。
「ムクがいるんですね。この先に」
ヒフミがどういった機材、人脈でムクの居場所を探知したのか。イチカからすればどうでもよかった。
重要なのは手がかりを得たこと。
ムクとのつながりはまだ途切れていないということ。
「なにかプランでもあるの?」
イチカは両腕を胸の前に掲げて握り拳を示してみせた。
「気合いです。気合いがあれば大抵のことはなんとかなります」
ヒフミは最初、珍獣でも見るような目つきを返したが、すぐに柔らかい笑みに変わる。
「うん。本調子みたいで良かった」
「あなたは遠方から狙撃で支援してください。……まあ、この吹雪では難しいでしょうし、そもそも私ひとりで大丈夫なので必要ないと思いますけど」
ヒフミが背中のガンケースを背負い直す。収納しているのは狙撃銃だ。
「本当に一人で大丈夫?」
「むしろついてこないでください」
ぴしゃりと言い放つと、ヒフミがちょっとショックを受けた表情になる。
イチカはそっぽを向いて前髪を弄った。
「あなたの顔を思い浮かべると……変な気分になるんですよ。だから、ついてこないでください」
「私、変な顔はしてないと思うよ」
「あなたは……はぁ、もういいです」
名残惜しげに引き止めようとするヒフミからなんとか離れて、イチカは豪雪の中へと身を投じた。
荒雪はますます勢いを増していき、とうとう数歩先さえ視認できない域に達する。
深い雪に足を取られそうになりながら、一歩一歩足を進める。
ただ歩き続けていると、ムクのことを考え出す。
化け物を自称し、凶行に走った少女。イチカは彼女を自分とは違う世界の存在と定義し、突き放した。理解したくはなかったから。
ではどうだろうか。全く別の存在と言えるのか。
イチカはかぶりを振る。
生まれこそ違えど、育った環境は同じだった。あの老人のもとで育ち、生きるためにゴミを食い、ついには盗みまで行った。生物としての規格が異なる少女と、それでも同じ人間である少女と触れ合い、類似した環境にいただろう少女たちに裏切られ、死を自称する男に敗れ、幾万の殺意に穿たれ、一つの殺意を反射した。
抱いた感情の深度まで同じだったかは確認できない。その術は誰にもない。だから、違うとすればこの一点。どう感じたか、どこまで感じたかだけなのだろう。
だが全く別の存在ではない。
それを認めてしまったら、彼女にほんの少しでも理解を示してしまえば、何かが致命的に変質すると知っていたから。だから理解をしようとしなかった。
イチカとムクは、きっと地続きで繋がっている。
ムクは偶然が重なったと言った。
そこに意図も理由もないと言った。
だがそうは思えなかった。
諦めなのだ。
未来などないと腐り、奇妙な強がりで自分を覆い隠し、それでも結局心の最奥までは誤魔化し切れなかったイチカが抱いた諦めと同じ。その諦めが殺意のトリガーを引き、黒の銃弾を吐き出させた。
全ての人間がそうなるわけではない。トリガーを引いたのは結局ムク個人の意思で、誰かに言われて引いたわけではない。
であるなら氷鷺イチカは荊都椋に勝利しなければならない。
彼女の諦めを、暗い絶望を超克できないというのなら氷鷺イチカもまた自身の立ち位置を奈落のままとしてしまう。
そうではないから。
そうではないと信じるために。
確保した視界の中、白い絨毯に小さな凹みを見つける。
既に降雪によって埋もれかけているが、イチカには視認できる。ガストレアとは比べるまでもなく小さな足跡。
その足跡は吹雪の向こう側へと続いていた。
確証はなかった。別人のものかもしれなかった。だがイチカには根拠のない確信があった。
イチカは足跡を並べさせるようにして、その跡を追った。
国道脇には放棄された国産車が赤錆の車体を白雪で彩っていた。
四方を廃ビルに囲まれたスクランブル交差点に辿り着く。
中央に、ムクは寝転がっていた。
仰向けになる形で、体の前面には雪が降り積り、地面とほぼ同化していた。
一瞬、死んでいるのではないかと思った。あるいは死にたくて、こんな場所で寝転がったのかもしれない。
だがその自傷行為が自傷足り得ないことを、イチカは遠い昔から知っている。『呪われた子供たち』なら凍空の下、半日は放置されない限り死なない。
「空を飛ぶってどんな気分だったと思う?」
ゆったりとした動きでムクが起き上がり、言い放った。固まった雪が剥落し、地面で砕けて白煙を流す。
「寂しかったと思います。一人で飛ぶのは」
「そうかもね」
「あなたはひとりですか」
「ムクはね、ひとりじゃないよ」
ムクが片手で目元を覆う。指の隙間から覗くのは赤眼。既に力を解放している。残る片手には大鎌が握られている。
「これだけの力を持って、人を外れた力を持って……それでもどうして『子供たち』は反乱しないのか、考えたことある?」
イチカはかぶりを振る。
「民警のシステムがプロモーターとイニシエーターの一対一構造を取る理由がここにある。それはイニシエーター同士が直接繋がりを得ないためだ。みんなが孤独だと、現状を変える力などないと、無力感を与えるため。じゃあ、それが違うと示せば?」
ムクが大鎌を振り下ろし、雪を割って地面に突き刺す。そのまま乱暴に引きずって、一線の破壊の轍を作る。
「ムクがエリアに切先を振り落とせば、それを起点に多くの赤目が奈落に落ちる。みんなみんなッ、奈落で一緒。そして人間と赤目の対立区分が発生する。きれいに境界線が引かれる。赤目が赤目だけの社会を構成し、力を合わせれば。みんなが期待なんかやめて諦めてくれれば……何が始まるかなぁ」
「地獄しか作れませんよ」
「地獄を乗り越えることさえできれば、さらにその先には楽園があるんじゃないの? その土地で咲き誇れないなら、焦土にしてからそこに花畑を作ればいい。子供でもわかる解だ」
ムクが一歩、イチカへと足を伸ばす。
今のイチカには、これが、彼女なりの演説なのだと理解できる。
「みんなが中途半端に期待を持ち続けるから、いつまでも変わらない。ひとつにあれないから立ち向かえない。だから、なるんだよ。奈落の底で。呪いの産声をあげるんだ。みんなで」
これが、ただの外装でしかないのだと理解できる。
「だからイチカ、ムクの手をとって」
これが、ムクの曝け出した最奥なのだと直感できる。
「私は、今のあなたの手は取れません。今の、ただ奈落へと落ちようとするあなたの手は」
ムクが鼻白む。
「私はあなたの手を、引っ張り上げるために取りたい」
「まったくのアホだねぇ。まだそんな勘違いをしてるの? 私たちはずっと落ち続ける。奈落の底で呪い合う。生まれた瞬間そう決まっていて、自分で足を踏み外して落ちたんだ」
ムクが鷹揚に両腕を広げる。
「私たちにあるのは呪われた力! 誰かを呪うための力だ!」
「私は今、自分が『子供たち』であることに感謝さえしています。この力で、あなたを止められる。そのための力です」
「わかんねーか。わかんないよな。……なんでムクと同じなのにわかってくれないの?」
ムクの嘲るような笑いが凍空に溶ける。脱力して腕がだらりと落ちて、疲れ切った声が漏れる。
「なんでだよ」
暗い表情が一瞬で切り替わって、にへら顔が貼り付いた。
「なんてねぇ、うそだよぉ」
「…………」
「ムクはただ鬱憤を晴らすためだけにガストレアをけしかけたイカれたやつなんだ。理解できるはずがない。生物としての規格が違う。イカれてるんだ」
「……ずっと苦しかったんです。望む生き方をしたくて、でもそれはできなくて。それでもと期待し続けるから、苦しさが続く。──でも」
イチカは深く息を吸い込む。突き刺すような冷気が、回復の済んでいない肺を満たす。
「私は信じたいんです。苦しくても、未来を信じたいんです」
イチカは背負い式ギターケースに腕を回して、飛び出た持ち手を浅く握りしめた。
「ヒフミさんが言う未来を、ムクが生きている未来を。私が生きていく未来を。……あなたの語る未来、きっとその世界にあなたはいない。そうでしょ。──私はそんなの断じて許容できない。だから今ここに立っている」
「そっか──…………そっか、わかった。じゃあ」
ムクは寂しそうな笑みを浮かべて、すぐに邪悪な笑みが貼り付けられる。
「先に地獄に行ってて。ムクもすぐいくからさ」
背負ったギターケースの口を腰の横に流し、飛び出た持ち手を強く握る。抜き取りざまに手首をしならせると、折り畳まれた漆黒の刃がスライド展開し、しゃんと鋭い刃鳴。
そのとき吹雪が途切れ、差し込む月光。片翼の如く広がる三日月型の刃面が光を受けて夜闇に己の存在を主張する。
イチカ、ムクの瞳がさらに赤熱。感覚が捉える肉体が実在以上の範囲に広がる錯覚。全身の細胞が騒がしく目覚めのときを迎える。知覚できる時間単位が改変され、世界の進行速度が確かに遅延する。
痛む肺をいたわりながら、ゆっくりと口で深く息を吸う。
静かな空間に、口蓋を撫ぜて吐き出した呼吸だけがやけにうるさく聞こえる。
目を閉じる。祈りはしない。そこに化け物などはじめから存在しないと、今のイチカは理解している。
決然と目を見開く。
目標、はるか遠く。
だがイニシエーターにとっては一瞬。
イチカとムクが動き出したのは同時だった。
最初は歩き出すように小さく一歩ずつ。だんだんと速度と歩幅を上昇。やがて踏み込んだ足が地を砕き、衝撃で堆積していた雪塊が跳ね飛ぶのと同時に両名もまた飛びかかっていた。
物体の高速飛翔によるソニックブームが轟音をあげて背後に存在するオブジェクトをあらかた吹き飛ばし、遅れて全身を引き絞る加速感。叩きつけるような空気の壁に目を細める。
空中で腰をツイスト、四肢は螺旋を描く。互いにほぼ同時に振り上げた大鎌が頭上で月光を鈍く反射。これより招かれる死を予言する。
「シィィィッ」
重なる呼気。唸りを上げる二振りの切先が空気を切り裂き、螺旋軌道を描いて正面から激突する。断末魔の如き金属の絶叫が火花と共に闇夜を弾けて轟く。
直後、物体同士の高速衝突によって二者間に存在していた空気が凄まじい勢いで押し出され、パァンというインパクト音と共に舞う雪が全て吹き払われる。のみに留まらず、大鎌を強く後ろへ引き上げられるような力に腕を持っていかれる形でイチカの肉体もまた押しやられ、暴力的な推進力によって後方へ吹っ飛ばされる。撒き散らされる衝撃波の奔流に逆らう術はない。
大鎌を握るイチカの腕を鋭い痺れが駆け上がり、思わず歯噛みする。大鎌という重量武器の激突は未発達の矮躯を容易く吹き飛ばす威力を持つ。
猛烈な勢いで滑り抜ける視界。背中に吹き付ける突風が白ワンピースの裾をはためかせる。
イチカは空中で身を翻し、ビル壁に垂直に接地。
瞬間、膨れ上がった風圧で周囲一体に降り積もった雪が白翼の如く舞い上がる。
無意識のうちに一歩、壁面の上を踏み込む。先の慣性がイチカの肉体を壁面に縫い付けていた。
次の瞬間、吹雪の帷を切り裂いて回転する大鎌が背中すれすれを擦過して飛び込んでくる。抉り飛ばされた瓦礫が跳ね上がりイチカの背中を叩きつけ、思わず矮躯が痙攣。肺が押し絞られ強引に空気を吐き出す。
思わず振り向き、壁面に突き刺さる大鎌を見る。ほぼ偶然の回避成功にゾッとする間もなく、イチカの直感が第二波を予告する。
直感任せに全身を死に物狂いで仰け反らせた直後、弾丸の速度で蹴り足が頬をかすめて目を剥く。追撃に飛び込んできたムクが振り下ろす蹴りは、イチカの回避位置を完全に予測していた。ワンテンポ行動が遅れていればイチカの首はあっけなく蹴り折られていただろう。着弾箇所の壁面は蹴り抉られ破片が爆裂飛散する。
ムクが壁面に接地ざま、流れるような動作で突き刺さった大鎌を握る。
咄嗟に壁面を蹴り上げて、地面へ飛ぶ。直後足元を過ぎ去る大鎌薙ぎ払い。切り裂かれた空気がワンピースの裾を捲り上げる。
肩口から地面に落ちざま前転してシームレスに両足を接地。壁側を見ずに大鎌を背後を掬いあげるようにして振り上げる。
直後、鈍い金属音と共にイチカの肩を重い反動が跳ね返る。
ムクが壁面を蹴り、落下しながら大鎌を振り下ろしたのだと視界外で理解する。重力を味方につけた重い一撃に、イチカの矮躯が軋む。
その悲鳴が、直後に消えた。肩にのしかかるような重圧もまた消え去る。
ハッとして体ごと振り向く。
思惑を悟ったときには、ムクの大鎌は重力に従って落下を開始していた。持ち手をムクは握っていない。ムクはイチカの懐に滑り込むように肉薄していた。
互いに大鎌攻撃圏の死角。
ムクは落下の勢いのまま体を折りたたむ形で低い姿勢をとる。見開いた赤眼は狂気の輝き。
爆発的な殺意の投射にイチカの脳髄が沸き立つ。
鬼人の如き踏み鳴らしが地面を揺らし、ムクの拳がイチカの腹へ飛び込んでくる。殺意を乗せた拳は満足に喰らえば内臓破裂は確実。
イチカもまた一瞬の判断で大鎌を放棄し、深く腰を落として迎撃体勢に移行。突き込まれる拳を手首を払うことで弾く。静夜を弾ける肉の打擲音。
保持を失った大鎌が思い出したように落下し、両者の間に躍り出る。
無造作に突き出した掌底で大鎌刃面を叩いて、勢いままにムクの顔面めがけて跳ね飛ばす。重い金属面は切れ味はなくとも直撃すれば頭蓋が割れるほどの威力。──だが当然の如くムクは払い上げた腕で受け止めてみせる。
「ざーんねん!」
まだだ。幅広い刃面がムクの視界を完全に遮った瞬間には、地面を強く踏み締めていた。
地を蹴り、突進力を乗せた跳び回し蹴り。
落下する大鎌の上を飛び越す形で、跳ね上がった脚撃が唸りをあげ迫る。ムクからすれば大鎌刃面で予備動作のほとんどが視認できていない。避けられる道理はない。
だがやはり、当然の如くイチカの甘い予想は裏切られる。
大鎌がずり落ちて露わになったのは沈み込んだボブカットの毛先。
ムクが姿勢を大きく仰け反らせたのだと知覚したときには、既にムクの頭部は脚撃軌道外へと脱していた。
蹴圧でぱっと跳ね散らかるムクの毛先。髪で覆い隠された彼女の口元は確かに笑っている。
直感的に悪寒がして視線を落とし、すぐに正体を悟る。
イチカの跳び足が着地予定にある地点めがけて、ムクの払い足が伸びていた。
気づいた時には遅すぎる。避けられるわけもなく、着地直前の片足にヒット。激痛が足から跳ね上がって脳内で弾け飛ぶ。
地面が急に横滑りしたような感覚と共にイチカの肉体が回転し、視界に地面が飛び込んでくる。
それでも、まだだ。咄嗟に両手を雪面に突き、頭を下にした姿勢で腰を深く捻る。
ムクが痛恨の表情を浮かべた瞬間には、イニシエーター特有の筋力を込めた膝がムクの側頭部を叩き砕かんと唸りをあげ流星の速度で駆け上がる。
鍛錬で昇華された一撃は、満足に食らえば即敗北の一手。
ムクは慌てて腕を側頭部と膝の間に滑り込ませ直撃を阻止。着弾した瞬間、鈍い炸裂音がムクの腕内部から弾け、あり余る威力に衝撃波が撒き散らされ周囲一体の粉雪を細断して吹き消す。だが威力は殺しきれない。ムクの肉体は横殴りの衝撃に持っていかれ、粉塵を巻き上がらせながら地面を滑り、はるか遠くまで吹っ飛ばされる。
だめ押しの一撃を与えようと傍に突き立った大鎌持ち手を握り、抜き払う。一歩踏み込んだところで弾け飛ぶ激痛。うめきを漏らしてよろめく。
片足がじくじくと痛みを発していた。先に食らった足払いがここに来て足を止めさせた。せっかくの追撃チャンスをフイにする。
顎を跳ね上げてムクの方向を見据える。
ムクの横断によって積雪が巻き上げられ白い霧が立ち込めていた。霧面に影が映り込んだと思ったら、晴れて姿を露わにする。
乱れ髪の下、ムクの赤眼がイチカを射抜く。
ムクのガードにあげていた腕はだらりと垂れ、手の甲を伝って血が地面に数滴滴下する。先の一撃はムクの片腕を無惨にへし折っていた。
イチカは大鎌をムクへと突き向ける。
「まずは一発。貯水槽での借り、お返ししましたよ」
「指折り数えてるの? 律儀だね」
「記憶力がいいので」
「殺す」
ムクはコートのポケットから二振りのサバイバルナイフを抜き放ち、逆手に構える。
ゆらぁとムクの身が踊ったかと思うと、一転して凄まじい速度で雪上を疾走。白景色に赤い眼光の尾が引かれる。
おそらく全速力ではないと直感する。要所で変速してイチカを惑わす腹積りか。
投棄されたままの大鎌を奪わせまいと、ムクの大鎌前に横跳びして陣取り、腰を落とし込んで迎撃体勢をとる。
こちらの一刀の間合いにムクが侵入する。瞬間、イチカの手が瞬き、大鎌が螺旋軌道を描いてムクの胸を食い破らんと吠える。
薙ぎ払う切先が到達する寸前、ムクが振り上げたナイフで受け、逸らそうとするが無駄だ。金属同士が擦れ合い火花が吹き上がった直後、重量のある大鎌はナイフを容易く弾き飛ばし、のみならずムクの矮躯も弾き飛ばす。
だがここでイチカの顔は驚愕に染まる。
ムクの姿が横滑りする。弛緩しきった動きは弾き返しの速度を殺さず、流れるようにイチカの背後に回り込んだのだ。
思わず目で追う。恐ろしい速度の移動に目を剥くが、捉えられない速度ではない。
速度を読み切り予測した座標に突き込んだ石突は、ムクの突然の加速で彼女の側頭部横に置き去りにされる。
だがそれはこちらも織り込み済みだ。間髪入れずに避けた側へ大鎌を薙ぎ払い、長柄がひゅんと空を切って側頭部めがけて唸り迫る。軌道、速度ともに直撃必至の一撃。まともに受ければ脳震盪は確実──。
しかし寸前でムクの姿がブレて消える。
ムクは瞬間的な加速で全身を深く落とし込み、回転領域の下を掻い潜っていた。まさかの多段階変速。長柄はムクの頭上を擦過し、取り残されたボブヘアが裂けるようにパッと吹き飛ぶ。
遅れて、耳を貫く異音。
イチカには聞き覚えがある。かつて死を自称した男に組み伏せられたとき、聞いた音。筋肉が引きちぎれる音に、イチカの表情が驚愕に染まる。痛みはない。イチカからではない。ムクから? なぜ?
瞬間的に理解する。ムクは筋肉に過負荷をかけて瞬間的に超スピードを実現しているのだ。だが破断した筋繊維が再生するまで、スピードは落ちるはず。
膨れ上がった殺意の圧にイチカの思考が途切れる。
ムクが撓ませた膝のバネを解放して懐に飛び込んでくる。残る一本のナイフを腰溜めにしての突進。回避できる距離ではない。
刹那の迷いもなく大鎌を投棄、両手をフリーに。ムクの突き出した上腕を包み込む形で掴みかかる。
直後、イチカの肩を人外の馬力が押し出した。
スピードが落ちると確信していたからこそ、脅威のタックルに押し込まれる。肩が外れそうになるほどの突進力に現実を疑う間も無く、両足は地面を強く踏み締めて抵抗する。グググと押し込まれて足が擦り退く。
背後へ引き摺り込まれる形で靴底が雪面を割って、下部の地面を抉り割り、破壊の轍を引きながら破砕音楽を奏でる。
ムクの押し出す力とイチカの対抗する力が相殺され、数メートルの距離を移動してようやく静止する。
視線を落とせば、イチカの臍のすぐ前をナイフの切先が乱舞していた。ムクの腕は依然として刺し貫こうと力を強めている。筋繊維が運用可能な域にまで再生している。あり得ない再生速度に本能的な恐怖を覚える。カラス因子にそのような能力は発現しない。
からくりを思考する暇も意味もないと本能で知っていた。
目と鼻の先に浮かぶムクの必死な顔。極寒の冬の中にあって額には脂汗が噴き出ている。肩を大きく上下させ、歯を剥き出しにした口から漏れる喘鳴。
「あなたの方がッ、よっぽど気合い任せの戦い方じゃないですかッ」
「気合いじゃねえよ。ムクは頭使ってこのやり方にしてんだ。アホのイチカと一緒にすんなッ」
息が吹きかかる距離にあるムクの叫びに釣られ顔を凝視しようとして、ハッとする。あからさまな視線誘導。反転して視線を再び落とす。
懐へ伸びる手首のしなるような動きを見て、背筋に冷たいものが走る。
イチカの手が固定しているのはムクの上腕。手首の可動は保たれている。
橈骨手根関節の動きだけで行われるスナップ。ナイフが指先から弾けるようにしてイチカの顔面めがけて飛び上がる。
イチカの表情が真っ青になる。視界に迫る銀の閃きにぞっとして思わず半身が仰け反り、遅い、だめだ。直撃コース。回避もガードもできない。死ぬ──。
目の前で甲高い破裂音と火花が弾ける。
予期した痛みは来ない。ナイフが視界から消えた。何が起こった? 理解が数瞬遅れて、ムクの口元が不気味に吊り上がることでようやく理解する。
「やっぱりッ」
弾丸が吹雪の帷を切り裂いてナイフを弾いたのだ。ヒフミの狙撃。常人の知覚できる時間単位では捉えきれないはずの攻防を人の身で予測したというのか。
ヒフミの尋常ならざる予測狙撃に心強さを感じる間もなく、ムクの赤眼が弾道をなぞって狙撃位置──吹雪の帷に影を映す廃ビルを射抜く。
「そこかあああッ」
意図せずムクの視線がイチカから逸れる。
その隙を見逃すイチカではない。
──行かせるものか。
仰け反っていた頭部をありったけの力で鞭打つようにしてムクの鼻っ面に叩きつける。ガンという音と共に吹き散る鼻血。ムクが脱力して数歩たたらを踏む。ヘッドバットをまともに喰らった今、ムクの思考は間違いなく停止している。
指先の間合いにあったムクのコートの襟首を掴み、斜めに切るようにして引っ張り込む。
疎かになったムクの両足を払い上げざま、勢いままに身を捻って懐に滑り込む。腰でムクの上半身を跳ね上げる要領で膝のバネを開放。簡略的な背負い投げ。
不意に、背上で重心の不可思議な変調が起こりムクの体重が消える。
異常を察したときには、背面を浮いたムクが脅威的な身体操縦でイチカの背を飛び越え地面に足をつける。
イチカの投げ体勢に入って前傾した視界に、ムクの足が地面をにじるのを見る。
まずいと思った瞬間、腹部を衝撃が突き上げ胃の中を戻しそうになる。ムクの跳ね上げた膝がイチカの薄い腹筋を容易く蹴り砕き内臓を揺らしたのだ。
うっと仰け反り、喘ぐ間もなく視界に飛び込む掌底。
死に物狂いで背面を仰け反らせた直後、恐ろしい勢いで掌底が鼻先を掠めて、膨れ上がった風圧がイチカの前髪を吹き上げる。
紙一重の回避に喉が引き攣る。
直後に、体が破裂したかのような錯覚。
「ガッ」
ムクの拳がイチカの無防備なへそを抉っていた。
呼吸が一瞬止まる。容赦なく内臓を押し潰す圧迫感。表情筋が制御を離れ表情が歪む。
脂汗が噴き出して目の前が真っ暗になるのを気合いで堪え、雄叫びをあげながらの足払い。──ヒット。
足元を撥ね上げられ横回転するムクは、しかし空中で即座に体を丸めると、半回転し頭を下に両手を地面に突く。たった先ほどイチカが見せた脅威の身体操縦。
舐めるな。それくらいできると思っていた。
ムクの曲芸機動を見越して、身を捻り強引に滑らせる二段構えの払い足。
接地するムクの両手に払い足を伸ばすが、接触寸前でムクの身が跳ね跳ぶ。両腕の筋力のみでの小跳躍に、イチカは目を剥き絶叫する。
払い足が虚空を切ったと知覚した瞬間には、視界いっぱいをムクの靴底が埋め尽くしていた。
咄嗟に背筋を跳ね反らすが、無理やりの足払いが祟って避けられない。逸らした顎先に爪先が突き刺さって視界がホワイトアウト。
即座に昏倒から復帰するが、あまりに致命的すぎる隙。
たたらを踏んだ直後に腕をぐいっと引っ張られる感覚。出鱈目な膂力に引き込まれたと思ったら、非現実的な浮遊感に全身を包まれる。
上下反転する視界で、頭上にある地面が恐ろしい勢いで奥に向かって滑る。
放り投げられたと知覚し遮二無二受け身を取ろうとして──
瞬間、再び腹部を衝撃が貫く。
「があああッ」
イニシエーターの渾身の蹴りが魔拳の貫いた腹部を正確に射抜いていた。投げられている最中に追撃の回し蹴りを喰らったのだ。一挙動が恐ろしく早い。
フォーミュラカーの激突に匹敵する速度と重量を伴った蹴りは、未発達の矮躯に埋まり込み筋骨を歪ませ折損し粉砕。過剰なまでの威力が全身を突き抜けて、イチカの肉体を吹っ飛ばす。
暴力的な慣性に身を持っていかれ、足は地面を見失い、背中を強風が叩きつける。内臓が捩じ切られ肺が圧し潰されて唾液混じりに空気を吐き散らす。圧迫感に意識がかき消されそうになる。
背面に衝撃が走り、矮躯が跳ね上がる間も無く轟音が耳元で鳴る。何かに身が埋まり込む感覚と熱線に身を貫かれたような激痛。
ぱらぱらと顔面に落ちるコンクリの粉末で、自分が今ビル壁を突き破って、抉れたコンクリートに身をもたれかけていることを知る。
起きあがろうとして走る激痛に喘ぎ散らかす。
剥き出しになった内部の鉄筋が、不幸にもイチカの背面を突き刺して埋まり込んでいた。壁に磔にされたかたち。
噴き垂れた血が背を伝って地面に滴下する。白ワンピの裾あたりが真っ赤に染まりぐずぐずに血を含んで重くなる。呼吸するたびに鉄杭がズレて気絶しそうな痛みを吐き出す。
ハッとして顎を跳ね上げムクの姿を探す。
ムクは既に踵を返してヒフミの狙撃ポイントへ振り向いていた。
ゆらぁとムクの体が揺れたかと思えば、足元の雪が抉れ跳ね上がる。ヒフミの狙撃と直感する。ムクレベルのイニシエーターに狙撃は意味をなさない。まずい。
イチカはなんとか身を捩って鉄筋を引き抜こうとするも、脳髄を激痛が染め上げてしまうせいでうまく進まない。
「遠いなあ。……なーげちゃお」
悪戦苦闘しているうちにムクが道路に突き刺さった大鎌を抜き払って疾走を開始。
だが狙撃ポイント方向とは真逆。
意図を測りかねて、ムクの行く先を見て嫌な予感がする。
進行方向には赤錆に塗れた小型車が鎮座していた。大戦期に捨て置かれたもの。もはや動きはしない。
動きはしないが、動かすことはできる。
疾走するムクの大鎌が螺旋軌道を描き、殺到する狙撃弾を弾いて火花が散る。駆け抜ける速度を一切失うことなく車両を飛び越えざま、車両の屋根に切先を滑り込ませ固定。
そのままムクが車両の影に身を投げれば、大鎌で接続している車両が横転して狙撃から身を守る盾となる。
だが遮蔽物欲しさに取った行動ではない。ムクは弾丸を脅威と見做さない。
ボディがひしゃげる音と共に車両が浮き上がる。浮かせているのはムク。『呪われた子供たち』特有の超膂力が数トンする車両を軽々と操らせる。
ムクは足を踏み換え、身を捻る。瞬間、ムクの足元が爆ぜたように巻き上がる。車輪の如く大鎌を振り回し、砲丸投げさながら車両を遠方へ──ヒフミの狙撃ポイントである廃ビルへと振り投げた。
慌てたように狙撃弾が数発続けて飛翔する車体を貫くが、無駄な抵抗だ。重量のある車両はナイフのようには弾けない。
投擲された車両は、隕石もかくやといった速度で吹雪を切り裂き唸りを上げながら夜空を駆け抜ける。
まずいとイチカが身を強張らせた瞬間、廃ビルに車両が着弾する。
瞬間、この世の終わりかと思うほどの轟音が鳴り響き、夜の静寂をぶち破る。ビル壁全面に視認できるほどの亀裂が走り抜け、爆発して吹き上がった粉塵が一画を覆い隠す。激突による衝撃波がイチカのもとまで到達し、傍にある喫茶店の半壊した屋根を根こそぎ剥がしては吹き飛ばす。足元の地面が突き上げられたかの如く揺れ、電柱に吊り連なった電線が軋みを吐き出し撓んで踊る。
それをイチカは絶望的な表情で見尽くした。
狙撃は止んだ。
並の人間ならば当然、今ので死んでいる。ヒフミが、死んだ……?
イチカはかぶりを振る。──違う、断じて違う。
肝が冷えたが、ヒフミは生きているに違いない。根拠のない確信が、イチカにそう教えていた。
ならば今の自分がやるべきことは相棒の安否に思考を割くことではない。
歯を食いしばりながら、突き刺さった鉄筋から身を剥がす。
呼吸が浅く荒くなる。横隔膜が激しく振動し、鼠蹊部の辺りがきゅうきゅうと締め上がる。
激痛により意図せず漏れ出した喘ぎを知覚した直後、戒めが解かれて体が急に前へと投げ出される。受け身も取れずに顔面から地に叩きつけられ額が割れて噴血。
だがイチカの両目には戦闘の意思が残っている。
噛み付くようにムクを睨み上げると彼女も気付く。目が合う。
ムクが顎を揺らして赤眼を細めるのを見た瞬間、イチカの体は爆発したように跳ね上がり地を蹴り疾走を開始。
目標はイチカとムクの中間地点に投棄され屹立する大鎌。
高速で眼前に迫る大鎌持ち手を握りざま、疾走の速度を一切落とすことなく抜き放ち地を蹴り跳躍する。
余力を残そうとは思わなかった。背後に逆巻く雪渦巻きを残し、踏み抜いた地面は陥没。激震を起こす地面は亀裂を走らせ、砕けた破片が反動で跳ね散る。
空気を切り裂く刃鳴を静夜に撒き散らしながら地面を舐めるようにして滑空し、ムクとの距離を瞬く間にゼロにする。互いに一刀の間合いに入った瞬間、視界を埋め尽くし乱舞する必滅の大鎌予測軌道。
近接戦闘の幕開けと同時に、イチカの知覚能力が爆発的上昇を開始する。
知覚できる時間単位が改変され、視界が捉えるムクの動きがこれまでになくスローに。
五感で取得できる情報量が通常の数十倍に拡張され、互いが狙い澄ます指の速度も、握った大鎌の切先が描く螺旋軌道も、四肢がこれから先に揺れ動く座標もすべてを知覚におさめる。
──そして。
イチカの内側で世界が芽吹くイメージが炸裂した。
知覚により取り込んだ外部世界の変動を、思考による演算で内部世界に再現。
これよりとりうる一本の運動制御軌道を引いて、描画された予測軌道に沿ってイチカの肉体が運動する。無論ムクもまたこちらの動きの変化を読み軌道を変えるが、変動を知覚し、内部世界に存在する軌道へと反映する。
知覚、思考、肉体のループが構築される。
ここにイチカの肉体と思考は完全な統合を果たした。
腰をツイストさせて切り掛かる。身を捻り抜き放つ大鎌切先は、ムクが地面に袈裟懸けし突き立てた大鎌長柄に受け弾かれる。切先がバラニウムを擦れて散る火花、鳴り響く重快音はイチカの聴覚には音程を外れた奇妙な遠吠えとして知覚される。
大鎌の重量級斬撃は子供の軽い体を容易く吹き飛ばし致命的な隙を生むため、切り払いの運動量を地面に流すことで防ぐしかない。
だが大鎌は回転する。
返す刀の石突が重量を伴って、ガードに立てたムクの大鎌に激突。大きく横に跳ね倒してガードを開ける。
ガラ空きになったムクの胸郭めがけ、突進の勢いままに突き込む飛び回し蹴り。ムクの大鎌中部を握る指先が白くなったと思ったら、出鱈目な運動軌道を描いて全身が腕の筋力だけで脚撃軌道を潜り込む形で仰向けに沈み込む。
もう驚きはしない。そう動くことも、これからどう動くかも全て知っている。それはムクも同じだと本能が告げている。
イチカの着地タイミングを正確に見計らって、接地寸前のイチカの片足に迫るムクの払い足。避けない。これは避けられない。地面が急に横滑りしたような感覚、足払いにより付与された回転方向の運動量に逆らわずイチカの肉体が回転し、視界に飛び込んでくる地面とムクの蹴り足。激痛が太ももを伝って脳を駆け上がるよりも早く、イチカの脳が全身に運動指令を発する。
宙に放り上げていた大鎌を翻しざま、ムクの蹴り足を狙い澄まして落とす羽ばたきめいた斬撃。
表情を歪ませたムクが大鎌を頼りに自身の肉体を後方へ強引に引き込む。直後、すり抜けた斬撃が大地を激しく抉る。が、跳ね散るコンクリ片は避けられない。散弾の如くムクの肉体を襲い掛かり、肌を突き破って矮躯が痙攣。
ムクは自ら跳ね飛び隙を晒したかたち。
後ろ向きの慣性に従って遠ざかるムクに、追い縋るようにして跳躍、距離を詰める。
ムクがコートのポケットから拳銃を抜き取りざま狂ったように連射。だがもはや銃弾程度でイチカは止まらない。銃弾の軌道はムクがトリガーを引く前に予測していた。全軌道から身を逸らした直後、音もなくソニックブームが肌を浅く裂いて弾丸が擦過する。
銃撃が通用しないと思い切ったのかムクが拳銃を投棄。こちらの袈裟懸けを受けるために、返す刀でイチカの喉笛を掻き切らんと構える。
二つの螺旋軌道が真正面で交差する。
全く同じ武器、同じ因子、同じ戦闘理論を持ったイニシエーター同士の戦闘は、いかに自分の動きを有効に通し、相手の動きを妨害できるかで決まる。
隙という隙をなくしていく戦いが、運動量を無駄にしない域まで至る。イチカとムクは大鎌使いの最適運動を会得しようとしていた。それを、互いに本能で理解していた。
絶体絶命の窮地にあるにも関わらず、イチカの全身はほぼ弛緩しきっていた。大鎌を持つ腕に加える力も、地を蹴る脚に加える力も必要最小限を維持していた。あらかじめどれだけの力を加えれば済むのかをイチカの脳は余さず理解していた。
余計な力など不要だった。
重力、筋力によって発生した力。それらに身を任せ、しかし自在に方向を変える。
例えるならば風に揺れ落ちる雪。
例えるならば翼をもち滑空する鳥類。
そうだ、今私たちは翼を得ている。
螺旋を描いて踊るように四肢は運動を続ける。
ただ流れるように振るわれた切先が、寄り添うように絡み合い力の方向を逸らされ次の運動を開始する。嘴めいた切先の接合は逢瀬のようで。
互いに大鎌という凶器を振り回す殺し合いという状況の中にあって、イチカは自分の頬が緩むのを自覚した。
全てが致死軌道にある大鎌の挙動も、時おり不意打ち気味に飛び込んでくる徒手空拳も、全て内部世界による予測が捉え、ほぼ無意識のうちに受け流し反撃する動作をイチカの肉体に入力する。同様のことをおそらく、いや確実にムクも行う。
こんな状況にあって、イチカはムクと通じ合っているという事実を認識していた。
視界の端で描かれる大鎌軌道予測曲線を知覚が捉えるより早く、予め置くかたちで捩じ込む大鎌軌道。
大気を切り裂いて袈裟懸けの軌道を取る二つの大鎌外峰が衝突し、金属が擦れ合って火花を吹き上げ一瞬の静止。
外峰同士が噛み合わさった瞬間、ムクの大鎌がガキンと音を立てて捩れ互いの大鎌内刃をロック。
直後にイチカの大鎌に引き寄せる力が作用する。咄嗟に抵抗してなんとか離さまいと強く握り締める。イチカの軽い体が浮き、大鎌ごと振り上げられる。
逆さの視界に映る地面が高速で頭上を擦過する。
大鎌の動きだけで投げられたと知覚した直後、背中を壁に叩きつけられ肺の空気を吐き出す。着弾の衝撃で壁には亀裂が走り噴き落ちた粉末状の建材が雲となり視界を遮る。一時的に視界から得る情報が途切れ、予測軌道が霧散する。
直感がイチカの意識を貫く。まだだ、次が来る。
風を切る音だけで大鎌の軌道を予測。跳ね上がりざまにもうもうと立ち昇る塵煙を切り裂くように大鎌切先を振り上げる。
直後、白煙で閉じられた空間を金属音が弾け、火花が散り、肩に重い反動が跳ね返る。
斬撃の余波で粉塵が吹き飛び、視界が回復する。
晴れた視界の中、弾かれ跳ね上がったムクは既に低空で身を捻っていた。最高速度で振り落とすムクの大鎌が空気を切り裂き吼える。
だがこの距離で大鎌に固執するのは失策だ。
ムクの懐に潜り込むと同時に腰を落とし、地面を踏み鳴らす。肘を曲げて拳を引き絞る。
渾身の力で抜き放ったイチカの拳が、振り下ろされる大鎌よりわずかコンマ秒早くムクの剥き出しの脇腹に到達。拳が柔肌に深くのめり込み、ガストレアをして骨格破壊は免れない膂力による衝撃がムクの矮躯を駆け抜ける。ムクが苦悶の表情と共に呼気と唾液を撒き散らし吹っ飛ぶ。
まだだ。追撃の踏み込みで弾丸の如く空間を渡る。
苦悶の叫びを吐き捨てたムクは水切り石の如く水平に殴り飛ばされ、地面を何度もバウンドしながら廃墟街の一角、コンクリート剥き出しの鈍色の壁に激突──
──する直前、進行方向へ大鎌を投げつける。地面に突き刺さった大鎌の持ち手にサーカスの曲芸師めいた動きで足を飛び乗せ、余剰推進力によって地面をガリガリと削りながら制動をかけることでイチカを迎え撃とうとする、が、無駄だ。
ムクが顎を跳ね上げ赤眼を見開いたときには、既にイチカの身はムクの眼前へと躍り出ていた。
制動に踏み抜いた地面が陥没。あたりに激震と共に亀裂を走らせ、イチカの身を縫い止める。
弧を描き掬い上げるような神速のアッパーカットが大気を震わせムクの腹を突き破らんと咆哮。
凍りついた表情でムクが防御に跳ね上げた両腕ごとイチカの魔拳がムクの胴を抜き穿ち、ムクの肉体を上空へと吹き飛ばす。吐き捨てた唾液を空に跳ね散らかしながらムクの身が上空十数メートルを躍る。
浅い。まだだ。イチカは地面が砕けるのも構わず地を蹴り跳躍。ソニックブームの尾を引いて、上空のムクへと追い縋る。
赤眼と目が合う。ムクからすれば後がない。避けられない、ならば弾いて遠ざけるしかない。追いあげるイチカをなんとしてでも遠ざけようと、ムクが空中で身を捻り大鎌を無造作に放る。
視界の端から飛び込んでくる大鎌切先に目を向けることもなく、その軌道上に添い遂げるようにしてイチカの大鎌が緩やかに舞う。
突如、重なり合う刃音。
しかし、イチカの身は跳ね飛ばされない。
イチカは大鎌から受け取った力をその場で回転力に変換し尽くしていた。貯水槽で見せたムクの流し技、その意趣返し。
ここに来てムクが初めて余裕を無くし絶叫する。
絶叫を掻き消す裂帛の咆哮。
「しまっ──」
「──らああああああッ」
空の一点に留まり、イチカの四肢が螺旋を描き空を舞い踊る。
今生最大、ありったけの力を込めた渾身の回転蹴りがムクの腹部に叩き込まれ、瞬間、物体同士の高速衝突によって弾き飛ばされた空気がパァンという破裂音を鳴り響かせ、ムクの矮躯が弾丸の速度で空を吹き飛ぶ。螺旋の暴風を撒き散らしながら凍空を突っ切って、視界の端、ボロボロになった廃墟一画のビル壁を突き破り砂塵が爆裂飛散。着弾の瞬間、膨れ上がった衝撃波が地面を駆け巡り大気を揺るがして降雪全てを跡形もなく掻き消す。
全ての力を振り絞ったイチカは荒れ狂う白嵐に吹き飛ばされ、力なく地面に足先から落下。爪先から駆け上がる痺れに思わずつんのめって、地面に顔面から叩きつけられる。
跳ね起きた直後、ふらつきながらも大鎌を握りしめ、倒れかかるようにして走る。
先の一撃の反動現象が第三十七区全体を襲っていた。
災厄的な運動エネルギー爆発の余波でアスファルトは無惨に砕け散って菱形に笹くれ立っていた。左右の廃墟群には暴風の爪痕が細かく刻まれていた。
耳の痛くなる金属がひしゃげる高音が鳴っていると思ったら、赤錆びた広告看板とその支柱がひん曲がって倒壊していた。
やがて、いまだ着弾の余波で粉塵が舞い上がったままのビル足元へ辿り着く。
ビルの中腹の高さにがっぽりと空いた着弾地点を見上げつつ、この惨状に一定の手応えを感じる。
余波でこれだけの威力、まともに喰らったムクは即死こそしてはいないだろうが半死半生程度はいっただろう。あの一撃は間違いなくムクの戦闘能力を奪ったはずだ。
もしかしたら瓦礫に埋もれているかもしれない。早く探し出さなくては。
イチカは目を細めると、粉塵が立ち込めるエントランスホールへと足を踏み入れる。
──突如、風を切る刃音が、油断し切ったイチカの耳朶を打ち鳴らした。
咄嗟に地を蹴り横へ跳んだ直後、たった今までイチカがいた空間を薙ぐ暴風。噴き上げる粉塵が一転して爆発したように消し飛ぶ。
予期しない事態にイチカの表情が真っ青になる。
直感が警告を放つ。立ち止まるな。
半ば反射的に地面を蹴り跳躍する。直後、足元すれすれを擦過する斬撃。
漆黒の大鎌切先を視界に掠めたと知覚したときには間髪入れずに大鎌が翻って、跳び上がったばかりのイチカめがけて恐ろしい速度で下段から強襲する。
ゾッとしながらも空中で身を捻りざまに遮二無二振り落とした大鎌外峰が重い斬撃を受け止める。金属が激しく擦れ合って弾ける火花。
鈍い反響音を聴覚が捉えれば、肩を跳ね上がる反動にイチカの軽い体が呆気なく突き上げられる。
視界に高速で迫る天井に、姿勢を翻して逆さまに接地する。激甚の運動量がイチカの体を天井に縫い止める。遅れてイチカの身を引き締める圧迫感。
逆さまの視界、天井面に走る亀裂からこぼれ落ちる破片と共に映る襲撃者の姿にイチカは息を呑む。
直下、エントランスホール中央に立ち、大鎌を振り抜いて踊っているのは誰あろうムク。
顔面は割れた額から垂れ落ちる赤血で染まり、差し込む月光を受けてゾッとするような輝きを返す。着ているコートは瓦礫に突き破られてもはやボロ切れ同然。飛び出している生足も小枝のように所々が曲がっており、煤と内出血で埋め尽くされている。どうしていまだに立っていられるか疑問でならない。
いや。
考えるのは後でいい。
重要なのはムクがまだ立っている事実。戦闘続行の意思があるという脅威のみ。
イチカは覚悟を決めると共にカッと目を見開く。
天井を蹴りあげ急降下爆撃じみた挙動でムクの脳天めがけ大鎌切先を突き下ろす。空を切る大鎌の速度は音を置き去りにする域に達している。
直撃寸前、ムクの頭部がだらりと倒れたと思ったら、切先は額すれすれを掠めて地面に突き刺さる。イチカの両足は振り下ろしの勢いで仰け反るように跳ね上がり弧を描いて空を蹴る。
だが重量のある大鎌切先は地面を深く食い破るだけに留まらず、破砕音と共に斬り抉られたコンクリ片が舞い上がってムクの半身を打ち叩く。脱力して倒れ込むムクを見てイチカはいけると確信する。
ムクのかすれた呻きを聞きつけたときには、地面に突き刺さった大鎌を支点として腰を捻っていた。
放るように投げ出していた足が翻り、変則的な回し蹴りをムクのこめかみに叩き込まんと放つ。強引すぎる身体操縦に全身が引き絞られる。
不意に蹴り足を鋭い痛みが襲う。
ハッとして視線を投げると、ムクの両手が跳ね上がったようにしてイチカの蹴り足を鷲掴みにしていた。
しまったと思ったときには出鱈目な力でイチカの全身が引っ張り込まれる。
ハンマー投げよろしく自身を回転ゴマに見立てた変則的な回転投擲。
貯水槽で見せたイチカの返し技、まさかの意趣返し。
視界が恐ろしい速度で横滑りし、肉体が上下にちぎれそうなほどの遠心力がイチカの身を引き裂く。直後、弧を描いて射出され、人外じみた力にイチカの体が空中でバラバラになりそうなまでに回転、天地を見失う。
背中に衝撃が走り、ボコリという破砕音と共に肉体がビル内部へと投げ出される。
なおも止まらないイチカの肉体はテーブルに載った機材をあらかた撥ね飛ばし転がり続けて、卓上に大の字になって突っ伏す。
「ぐっ……あっ……」
ひどい耳鳴りがして、天地の感覚が掴めない。視線を定めようとしても、目が勝手にあらぬ方向を向く。ひゅうひゅうと喉を引き攣らせ、息も絶え絶えに腕を地面に突きようやく仰向けに向き転がる。
全身が衝撃でズタボロになっていた。激しい吐き気をなんとか抑え込む。
とにもかくにも態勢を立て直そうと立ち上がった瞬間、腹の底を揺るがすほどの激震がフロアを跳ね上げる。
──地震ッ?
ハッとして視線を下げる。
違う。
揺れているのはこのビルだけだ。
イチカの背筋に冷たいものが走る。
来ているのだ。下から。ムクが。
直後、ボコリという破砕音と共に床が割れ、飛び散る瓦礫と共に階下から飛び上がってくるのはムク。
ムクの手が瞬くのを視界が捉えるのとほぼ同時に、イチカは無様に雄叫びをあげながら大鎌を翻していた。
致死軌道を描いて恐ろしい勢いで唸り迫る大鎌切先を、歯を食い縛り肉体限度を超えて振るい落とす大鎌軌道で迎え撃つ。
二つの軌道が衝突し、弾ける重快音。相反する力にイチカの肉体は容赦なく突き上げられて、気付けば宙に吹き飛ばされていた。
だがこれで距離と時間は稼げる。
イチカのそんな甘い考えは激痛で塗り潰される。
イチカの肋骨にムクの爪先が突き刺さっていた。
肺が潰れんばかりの激痛。擦れた喘ぎを置き去りにしてイチカの肉体は強く蹴り押され、吹き抜け構造のビルを駆け上がり、天井窓を叩き割って夜空を飛翔。ビル屋上に背中から叩きつけられて、衝撃で舌を噛み切りそうになる。
安心する暇などない。殺意の放射で脳髄が灼けつく。
わかる。たった今イチカが貫いた大穴を通り抜けてムクが雷鳴の速度で飛び込んでくる。
跳ね起きざま、半狂乱になりながら直感任せに振るった大鎌が、直後にイチカの肩に反動を蹴り返して弾ける金属音。
思わず目を細めたイチカの視界に映る弾き飛ばされたムクの表情は、だが決して敗色を帯びてはいなかった。目を限界まで見開き瞳孔は拡散、至上の快楽を打ち込まれたが如く口元は緩み、口角を割かんばかりに大きく開いていた。
後ろ向きの慣性に身を引かれるムクは大鎌を背後へ振り引き絞ると、間合いを大きく外しているというのに薙ぎ振るう。
ふと視界を舞い落ちるカラスの黒羽を幻視する。
薄ら寒い光景に、イチカのイニシエーターとしての条理を超えた直感が今生最大の警報を鳴らす。うなじが燃えるような熱さで焦げ付く。
咄嗟に前面に大鎌をかざし、来たる『それ』を受け止めようとして、
耳元を通り過ぎるヒィンという音と、イチカの身を何かが超高速で突き抜ける感覚に失敗を悟る。
視界に勢いよく血が噴き出て足元を瞬く間に濡らす。
イチカの胸元がばっさりと切り抜かれていた。
それだけに飽き足らず、イチカの背後、廃墟群の中腹部分までもが断ち抜かれていた。コンマ秒遅れて、それが義務だとばかりに上半分の建築が爆音を轟かせながら倒壊を起こし、激震。直後に巻き上げた砂塵で一帯を埋め尽くす。
「ああ、ようやく。ムクは──」
「ば……か、な…………ッ」
「────『成った』」
戦闘中にありながらひどくゆったりとした動きで、イチカは自身の胸部を見下ろした。
横一文字に割かれた胸部は嘴で啄まれたかのように抉れている。
気付けば奥歯がカチカチと打ち震えていた。全身がぴくぴく痙攣を起こして、膝が笑って崩れ落ちそうになる。
遅れて激痛がイチカの思考を染め上げ、息を吸おうとして、だが肺が掴まれているかのような圧迫感に空気を取り込めない。
今、イチカとムクの間には十数メートルの距離があったはずだ。間違いなく大鎌の刃圏の外にいた。なのに斬撃はイチカの身に到達し、そればかりか背後の廃ビル群を薙ぎ払ったのだ。馬鹿な、あり得ない。これではまるで。
──射程距離のある斬撃。
ゾッとした直後、とうとう体がくずおれて膝を突く。
幸いにも大鎌と肋骨によって斬撃は減衰し心臓までは到達していなかった。加えてバラニウムによって直接傷付けられたものではなく、故に再生能力は機能したが微々たるものだ。即死は免れたが戦闘などもはや……。
鈍い動きで視線を巡らせると、十数メートルの距離を隔ててムクの赤眼がイチカを射抜く。
ムクは獣の形相で腕を水平に振り払う。
「どうして続けているのか。期待しているから? 違うッ。死ねないからだ。死ねず生を続けるしかないだけだ。続けようとしている訳じゃない。続けるしかないだけだッ」
「それがなんだっていうんですッ」
「ムクは明日なんて要らない。なんにもない。渇きは消えない。何にもよくならない。ずっとずっと続く。意味なんてない。それでも続けろっていうのッ? 誰が祝福するでもない、誰も求めていない生をッ」
「私が祝福します。私が求めます」
「なにポジティブになってんだよッ。気分が上がったからって自分がやったことが消えるわけないだろッ。それとも悪人なら殺していいってかッ」
ムクは頭部を掻きむしって苦しみ悶える。
「化け物はさあ……死ななきゃいけないんだよッ」
「違うッ。あなたは人間だ。私も人間だ。私たちは人間なんだッ」
「お前は世界の異物だッ。世界はお前を承認しない。これが最後だ、イチカ。ムクの手を取れッ。クソッタレの世界に怒りを吐き捨て、共に奈落へ落ちようッ」
ムクが手を跳ね上げて、イチカへと差し伸ばす。
「生まれるんじゃなかったと思うときがある」
「ムクもだよ」
「でも外周区でムクと、おじいちゃんとツバサちゃんと過ごした頃は楽しかった」
「ムクもだよ」
「そういう時だけは生まれてきて良かったと思った」
「……ムクも、そうだよ」
「それで私は十分だ」
静夜越しにムクの息を呑む音を聞く。
「……そうか。ムクとオマエは違うんだな」
怒りで震わせたムクの目元は、直後に力が脱け、旧友に今生の別れを告げるような寂寞を滲ませた表情に変わる。
「わかった。じゃあ、先に死ね」
イチカはもはや血で汚れていない部分の方が少ない白ワンピを引きずって跳ね起きる。
噴き出した血で足が滑りそうになる。咳き込むように吐いたどす黒い血が足元のコンクリに奇妙なアートを重ね描く。
靴底を強く地面にねじりつける共に顎を跳ね上げて、決然とムクを睨む。
ムクもまた大鎌を足元に落とし込む独特の構えを取る。
放出される殺意の濃度に目が眩む。夜が凍結されたかの如く悪寒が腹の底からイチカを貫く。
もはや余力など残されてはいなかった。
一撃。ただ一撃振るえたら、もうそれで満点をあげてしまいたくなるほどに疲弊し切っていた。
大鎌を握る指も持ち上げる腕も震えていたし、全身は汗びっしょりで呼吸は荒く不規則だった。最悪に近いコンディションにありながら、イチカの意識はなおムクへと向けられていた。
互いに一手か、でなくとも二手で決着がつくと本能で知っていた。全筋肉の震えが止まり意識の制御下に置いて、やがて来るその時を待つ。
内部世界が立ち上がり、互いに裏をかこうと脳内演算を開始。うなじが熱い。舌が渇く。
意識が濃縮され、知覚できる時間単位が加速的に細分化される。
ふと。
なぜ必死になって私は戦い続けているのか。
そんな、場違いなワンセンテンスがイチカの脳内を跳ね返った。
生きていてもいいんだと、存在意義が欲しかった。
存在全てを消すほどじゃないなと思えるように。
生きるために。
……それは少し違う気がした。
良いことをしても悪いことをした事実は帳消しにならない。人生に辻褄合わせをしたくてやったわけじゃなくて。
そんな、後付けの理由ではなく。
ずっと過去の罪を、挑戦しない理由にしていた。
だが同じように理由にできるだけの過去を持ちながら、それでもと宣言したヒフミを見て、その告白を受けて、この人のようになりたいと。
そう思ったからだ。
ただ、そうしたいと思ったから。心の奥深くで強く願ったから。これで過去が消えるわけじゃないと知りながら、そうありたいと望んだから。資格がなくても意味がなくてもそれでもなお強くそうありたいと選んだから。あの人が輝いて見えたから。その光の一端に触れたかったから。隣に立ちたかったから。一緒に夜を越えたかったから。なにより──同じ景色が見たかったから。
ああそうか私は。
氷鷺イチカは楝ヒフミに恋したのだ。
その瞬間、頭の中でスイッチが切り替わった。
まるで無駄な脳領域を巡っていた血流が、今は全く別の、今まで見向きもしなかった領域で流れ始めたような、そんなむず痒い錯覚。
その感覚がイチカの体に今再び立ち上がる力を与える。
感覚が捉える世界がこれまでになく拡張されていく実感。
世界の美しさとそれに内包された自身の存在を同時に体感する。息を胸いっぱいに吸い込めば呼吸の深度が増す。
目を開ける。
氷鷺イチカはただ未来だけを見ていた。必要なのはそれだけと知っていた。
自分が今から再会するであろう相棒の顔が、闇夜の中、ちらつく眩い光度を伴って現れた。
次の瞬間には空気を肩で切り裂いていて。
腕の中にヒフミの体温があって。
目の前にヒフミの驚いた顔があって。
背後でムクの息を呑む音を聞いた。
いつ駆け出したのか、イチカにも分からなかった。
イチカの知覚が予兆を捉えるよりも早く、思考が予測を終えるよりも早く、肉体が地を蹴り出すよりも早く、イチカの意識は空間を渡っていた。
予期できる道理などない。だけども、世界はそう動くのだという根拠のない確信が、条理を超えた超直感が、イチカの身を動かしていた。
非常階段を登ったばかりのヒフミに抱きつく格好のイチカは、突進の勢いままに距離を渡る。地面と並行姿勢をとるように身を投げ出し、ヒフミ諸共ビル屋上から飛び降りる。風が身を押し上げる浮遊感に包まれる。
直後に背面を暴風が叩きつけ、頭上でけたたましい断裂音が鳴り響く。ムクの射程距離のある斬撃がたった今イチカの背を擦過し、向かい側に立つビルを両断せしめたのだ。
視界が滑り、ビル壁が視界の真上と足元をそれぞれ高速で通り過ぎる。
鼻先のヒフミと目が合う。頷きが返ってくる。こんな自殺同然の状況にあってなお彼女の視線には信頼の灯があった。それがただひたすら嬉しかった。
不意に背後から押し潰すような殺意の投射がイチカを突き刺す。ムクが追ってきたのだ。
耳元を掠める豪風。迫る地面。
落下までおよそ三秒。
だがイニシエーターにとっては永遠。
イチカの腰に回されたヒフミの腕に力が入る。
それだけで彼女が何をしようとしているか悟る。声も頷きも不要だった。なんせ鼓動が重なるほど近く抱き寄せられている。
イチカは抵抗しない。一時的に運動制御を全てヒフミに受け渡すかたち。
腰が捻られると同時にヒフミが片腕を跳ね上げ、おそらく背後に追い縋るムクへとライノの銃口を向ける。迫る地面、落下まで残り二秒。
三発の銃声が耳朶を鋭く叩いたと知覚したときには既に背後で同数弾ける金属音。ムクが大鎌で銃弾を弾き落とした音。
イチカはムクが単純な銃撃で敗北してくれるとは考えていなかった。ムクが銃弾を避けるのではなく弾くと分かっていた。ヒフミが
だからイチカはワンテンポ早く大鎌を翻し無造作に振り下ろしていた。
大鎌切先は空気を切り裂いてイチカの足元を高速で滑り抜けるビルのコンクリ壁に深く突き刺さる。
直後、大鎌を握る腕に強い力が働き、イチカの身を大鎌貫通地点に縫い付けようと急制動がかかる。瞬発的な運動軌道変更に肉体が引き締まり視界が揺れる。彼我の距離が一瞬にして肉薄。
振り向いたイチカの視界が空を仰ぎ、超至近距離に迫るムクの姿を捉える。
この距離は一挙一足の領域。
ムクが雄叫びを上げながら捩じ込む大鎌よりも早く、柄を支点に強引に振り上げた足をムクの胴めがけて突き込む。運動軌道がほぼ上下反転する強引な宙返り脚撃はガードを掻い潜りムクの肋骨に突き刺さって、ムクの肉体を一転して直上方向へと打ち上げる。
着弾した瞬間、イニシエーター特有の膂力を間接的に受けた空気が破裂しインパクト音が夜を響き渡って、押し退ける反動で足元のコンクリ壁に放射状の亀裂が走り、直後に耐久限界を超過した壁が割れ消し飛んで内部直通の大穴が出現。大鎌切先が抜け落ちてイチカとヒフミが空に投げ出される。
蹴りの動作で投げ飛ばされそうになっていたヒフミの腕を握り絞ると同時にビル内部へと放り投げる。自由落下の代償でヒフミの身には甚大な運動がかかっているが、イチカにはヒフミが死なないという確信があった。
コンクリ剥き出しの床に奇妙な受け身をとるヒフミを見届けるやいなや、イチカの身が重力方向に引き落とされる。視界に飛び上がってくるコンクリの壁面でヒフミの姿が見えなくなり、そのまま壁面は恐ろしい速度で上滑りする。
死に物狂いで大鎌に弧を描かせ、コンクリ壁に突き刺し制動をかける。
コンクリートをガリガリと削りながら落下し続けるが、その度に腕に鈍い反動が伝わる。イチカの骨格が悲鳴をあげ脱臼しそうになり痺れが五指を解きにかかる。だが今度はもう離さない。
雄叫びを上げながらの身体操縦。足を壁面に蹴り付け、摩擦で靴先がすり減る。
跳ね上げた視界に、上方数十メートルの距離を隔ててムクの赤眼を捉える。
ムクは重力にただ身を任せ直下のイチカめがけて落下しようとしていた。背後に引かれる赤眼の尾が恐ろしい速度で視界に落ち迫ってくる。
気付けばビルの壁を蹴っていて。
イチカの肉体が上昇を始めた。
ふっと肩の負荷が消え、イチカの矮躯は跳ね上がったように直上へと弾け飛ぶ。直後に猛烈な勢いで空気が壁となって迫り、締め上げられるような痛みに歯を食いしばる。叩き落とすような強烈なGがイチカを襲い、だが上昇は止まらない。
遅れて背後で銃声連なる。
ムクが運動軌道を微修正、イチカは振り返らずして理解する。置き土産の弾丸三発はムクの回避可能位置だけを容赦なく潰す軌道をとっている。ムクの姿勢から軌道を逆算するまでもなく、イチカには弾丸のとる軌道が理解できていた。
銃弾より早く、背後に螺旋の暴風を生み出しながら、ひと息の間も無くイチカとムクの距離が縮まる。
そして一刀の間合いへ。
目が合う。爆ぜる指先。互いの大鎌が螺旋軌道を描き、互いの命を狩り獲らんと空を裂いて吠え迫る。
ムクの凶眼が裂けるほど見開かれ、大鎌切先が加速する。自暴自棄に、自分の身を壊しながら生き急ぐように激進する。肉体強度の限界を超えた必滅必殺の速度。ムクの方が早い。ムクの大鎌切先の方が早くこちらに到達する。
イチカの知覚も思考も肉体も全てが直後に起こるイチカの避けられない死を予言する。イチカはこれから確実に何の間違いもなく必ず死ぬ。それがお前の運命である。だからお前はもう大鎌を握る指先に力を込めなくていい。その腕を振り払わなくていい。だって、死ぬんだから。意味なんてないんだから。なんにも変えられやしないんだから。誰もお前の生など望んでいないんだから。理由なら捨てるほどたくさんある。
それがなんだっていうんだ。
死ぬからなんだよ。意味がないからなんだよ。変えられないからなんだっていうんだよ。誰からも望まれない? そんなのわかってる。だからそれでなんだっていうんだ。何が言いたいんだお前は。
知ったことじゃないんだよ。
続ける理由ならもう持ってる。
指先に力が入った。
「まだ、だあああああああああッ!」
五指を閃かせイチカの大鎌は螺旋軌道を続行、刃は背後に振りかぶられている。
するとイチカの腕に確かな重みが跳ね返ってくる。弾ける金属音。
ハッと目線だけで振り向く。
弾丸がイチカの大鎌に激突していた。
イチカの振りかぶった大鎌は、背後から迫る一発の銃弾、その弾道延長線上のただ一点に捻り込まれていた。
弾丸は弾かれなかった。火花を散らしながらブラッククロームの刃の上を滑り、弾道を逸らされた弾丸が──ムクの左肩を撃ち抜く。
「──ハァッ?」
ムクの表情が凍る。
驚いているのはイチカもだった。
狙ってやったわけではなかった。狙って起こせるようなものでもなかった。イチカにはそれがただの偶然なのか、ヒフミの計算による魔弾なのかは見当もつかない。だがこの弾丸はムクの柔肌を突き破り、一瞬の思考凍結効果を確かにムクへ与えた。そしてイチカには大鎌を一振りを完遂するだけの時間を与えた。
しかし今更痛みで止まるムクではない。死にたくなるような痛みを何度受けたと思ってやがる。即座にムクの両目に殺意が再点火される。
「らああああああッ!」
「ざけんなやクソがあああぁぁぁッ!」
『呪われた子供たち』特有の膂力によって生み出された極大モーメントが大鎌の切先一点に収束。互いの喉笛を啄み抉らんと伸びる二振りの大鎌螺旋軌道は、その対称性ゆえに両者の中間地点、互いからすれば正面で交差する。
大鎌切先が無音の衝突。
次の瞬間、破鐘を突いたような鈍い大音声が吹雪を切り裂いて鳴り響く。
切先で啄み合うイチカとムクの大鎌刃面に亀裂が走り、刃全体が完全に砕け割れていた。
バラニウムが破片となって飛散。空を舞い踊って、ムクとイチカの間に破片の雲が下りる。
イニシエーター二人の災厄的膂力を受けて爆発したように弾け飛ぶバラニウム片はもはや散弾銃や破片手榴弾のようなもの。『呪われた子供たち』であるイチカらからすれば絶対に浴びてはいけない。
だが、イチカは飛び込んだ。
鋭利な破片は血だらけの白ワンピを裂いて、イチカの肌を食い抉る。この傷は消えない。構わない。
バラニウム片の雲を抜けて、ムクの眼前に躍り出る。壁面に蹴り付けるように叩きつけた両足はコンクリを陥没させてイチカの身に制動をかける。
壁面を踏み締め腰を落とす。右腕を引き絞る。
上向きの慣性と重力が完全に相殺される。
深呼吸をする。
ムクの顔が息の吹きかかる距離にあった。イチカはようやく本当の意味でムクと目があったような気さえした。
ムクの顔にいくつもの感情がよぎる。
その全てが、顔面に打ち込まれたイチカの拳で塗り潰される。
技巧も何もないただのストレートパンチがムクの顔面にのめり込み、鈍い打擲音を残して未発達の矮躯が跳ね上がる。螺旋の暴風を生み出しながら直上へ打ち上げられ、高層ビル壁面を駆け抜け、勢いままに最上層を超えて夜空まで吹っ飛ぶ。くるくると力なく躍るムクの肉体は、すぐに思い出したように重力に引き落とされてビル屋上へと弧を描いて落下、肉が凄まじい勢いで叩きつけられる爆音が一回鳴って以降沈黙する。
ムクがもう動かないことを、イチカはそれだけで理解する。
思い出したように全身から力が抜けて、指先から大鎌がすり抜ける。
寒い。血を流しすぎた。
ふっと体が沈み込む感覚。重力に引かれてイチカの肉体が落下する。背面をゾッとするほど冷たい風が嬲る。
無限に続く奈落へと落ちていくようで。
意識が落ち切る間際、引き上げられるような力を知覚した。
瞬間、肩に脱臼しそうなまでの力が働き、ついで奇妙な浮遊感に包まれる。
横っ腹に衝撃が走って、地面に受け身も取れず叩きつけられたのだとようやく悟る。だが死んではいない。
「うぅ、痛いホント痛い肩外れたかも全身の骨砕けたかも頭柔らかくなっちゃう、やだぁ……」
並んで仰向けになったヒフミの情けない悲鳴で、自分がまだ生きていることを理解しようとして、だめだ、できない。何が起こった? あの高度からの落下は受け止めた人間もただでは済まないはずだ。
ぜえぜえと肩で息をするヒフミに、同じく青息吐息で視線を投げる。
「よく………引き上げられましたね……」
「天童式合気術一の型一番『
すごいな天童流。
思わず笑いが込み上げてきて、すぐに痛みで引き攣る。
意識から追い出していたが、今のイチカは生きているのもやっとの死に体だった。本音を言えばもう今すぐにでも病院に駆け込んで治療を受けたいところだが、まだやることがある。