フォックス・ハント   作:簑都薇

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Breathe and Bimanual movement#2

 *

 

 

 起きあがろうとすると脇腹がずきりと傷んだ。

 

 立つのもやっとだったのでヒフミに肩を借りようと声を出したら、同時に彼女も同じような旨の声をかけてきて、イチカは思わず目をまんまるにしてしまった。仕方ないので互いに支え合う変速的な二人三脚で、屋上まで上がることにした。

 スチールドアは凹んだせいで開くのに難儀した。結局力づくでこじ開けることにした。イチカは割と脳筋だった。

 

 耳に痛い金属の断裂音を聞いた直後、ビル森の隙間を縫って突き抜けた強風がイチカの髪を弄ぶ。

 コンクリの床には深い亀裂が刻まれていた。

 中央、白い絨毯の上でムクが仰向けになっていた。

 戦闘の余波でイヤーマフは外れてイチカの足元に転がっていた。灰色ニット帽も出血で赤い染みができていたし、コートもボロ切れ同然だったが、裾から覗く柔肌は既にほとんど再生していた。

 折れていた手足も内出血が引いて白い肌になっている。雪と一緒に溶けてしまいそうで。

 ムクに照準を向けるヒフミを手で制して、イチカはムクへと近寄った。

 

 落ち着いた今なら、戦闘中にはできなかった思考の続きができる。

 ムクが見せた脅威的なまでの再生速度。

 カラス因子に再生特化の能力などない。あの再生速度はあり得ない。だが現実にムクの筋繊維は即座に修復された。

 思い当たる事象があった。侵食率が危険域を超えた子供のそれだ。

 考えられる可能性のひとつが、既に高濃度のウィルスを注入しているパターン。

 だがそれは考えにくい。臨界点に達した子供の症状は千差万別で、戦闘が可能な場合もあれば、全身マヒを起こす場合もある。市民の前でガストレア化するのがムクの目指す勝利条件ならばそんな博打は打ってはいけない。

 記憶を探ってムクが怪我をしたときのことを探そうとする。ない。記憶の中でムクは一度たりとも怪我をしていない。再生するたびに侵食は上がるとはいえ神経質なまでにムクは損傷を恐れていた。そもそも積極的に戦闘に参加することはほぼなかった。

 神経質ではないとしたら。つまり、ほんの少しの侵食上昇でさえ致命的な状態にあったとしたら。

 合点が入った。ムクが生き急ぐ理由も、死を前提とした作戦を立てた理由も。

 ムクの侵食率は既に危険域にあるのだ。

 放っておいてもすぐに死ぬから、だから生き急いでいて、だから命をすぐ捨てるような真似ができた。

 

 ムクが生きる未来など、はじめから存在しない。

 

「死んだと思った?」

 

「いえ、生きてると確信してました」

 

 ふっとムクが自嘲げに顔を歪ませる。

 

「こんなボロクズになってんのに、死なないもんだな。化け物っぷりもここまでくるか。魂は死んでるのに、肉体が勝手に生きようとするんだ」

 

「私の、勝ちですね」

 

「そうだね。でも、そんだけだ」

 

 特大の嫌味とでもいいたげな笑みが返ってくる。

 

「ムクみたいなイかれた化け物はこれから先も出てくる。外周区に赤目を追いやったんだ。下地はとっくの昔に構築されてる。そういう、滅びへの流れみたいなものがもう出来上がってるんだよ。何したって無駄さ。ムクを止めたところで、リミットまでの時間を稼いだだけ。いずれ無意味だったと気づく日が来る。残念だったね」

 

「そんなこと」

 

「わからないって? 未来は希望で満ちているって本気で思ってるの? いいや違う。それを本当はわかってるはずだ。何も変わらない。希望などありはしない」

 

 この身は無力で、何も変えられずに死ぬのだ。

 それはたぶん、認めたくないが事実だ。

 イチカは事実を受け入れなければならない。

 ムクを倒したって変わらない。それはもうその通りで。

 

「それでも」

 

 それでも、という言葉はその発言を認める言葉だ。

 

「続いた一秒で、何かが変わるかもしれない」

 

 認めた上で異を唱える言葉だ。

 時間稼ぎでいい。今全てを放り出す必要はない。わかりきってる答えが目の前にあっても、知ったことじゃない。わからないじゃないか。まだ、わからないんだ。そういうふうに期待し続けたいんだ。認めて諦めてしまうのは嫌だから。

 眉を曲げてムクが視線を投げる。

 

「時間稼ぎでいいじゃないですか。たとえ一分一秒、いや一呼吸であっても、その時間には意味がある」

 

「時間は……ムクには死神なんだよ。希望だとか期待だとか、そんなものを持てるイチカにはわからない。この世に救いはない」

 

 救いはない。今はない。そうだ、イチカにはムクの気持ちはわからない。だから、かけるべき言葉はないし、無理に捻り出してもそんな言葉に意味はない。イチカの言葉はムクには届かない。意味はない。

 でも、喉を突いて言葉は出る。意味がなくとも。

 

「今は、何もできることはないけど。でも、いつかは。……いつか、ムクに届くような言葉を見つけるから、だから、それまで待っていてくれませんか」

 

 ムクは一瞬きょとんとした表情になるが、次第に口元が苦笑気味に緩む。

 

「……根拠はなんだよ。時間ねえっつってんのに、いつかって。間に合わないいつかに意味はないよ?」

 

「ありません。根拠のない確信ってやつです。そして間に合わせます」

 

「なにそれ」

 

 ムクはぷっと噴き出して笑う。久々に見た気がする。

 やがてムクは眠るように目を閉じる。もう、戦う意思はない。

 

「ほんと……イチカはアホだな」

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