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『あなたもイニシエーターになって東京エリアを守ろう』
コンクリート打ちっぱなしの壁面に貼り付けられたポスターにはそんな標語と共にイチカと同年代の少女が武器を掲げていた。
両耳にピアスを揺らし、右目の下にはスペードのペイント。柄が悪そうな格好だが、我が意を得たりといったにこやかな笑みがそれを打ち消していた。イチカの記憶が確かなら、序列五百五十位という高位序列者だったはずだ。存分に目立てて良かったなと内心穏やかになる。
なぜか牛乳みたいな匂いのする廊下を歩いていると、傍の一室で職員がざわめき立つのを肌で感じる。
「また戻ってきたの」
「やはり『死神』か。わざとやってんじゃないか」
「『プロモーター殺し』め」
愉快ではないので黙って通り抜け、イチカは待ち合わせの談話室に入った。部屋の中央には刑事ドラマでよく見るような半透明な壁が立っていて、その向こうにはイチカの居住スペースからは入れない作りの扉があった。
遊園地でのガストレア退治から一週間が経とうとしていた。腕を欠損した加里屋はプロモーターを続行不能になり、ペア関係が解消されたイチカは
ここに戻ってくるのは五度目になる。
民警の死亡率はイニシエーターの方が圧倒的に高い。民警のシステムが、ガストレアに対抗しうるイニシエーターをプロモーターが後方で監督するという形を基本とする以上、必然的にガストレアと直接対峙するイニシエーターが死にやすいからだ。
それだけではない。プロモーターである通常人──九年前に現れたガストレアによって多くを失った『奪われた世代』の胸中にはイチカたち呪われた子供たちへの憎悪が渦巻いている。
住む場所を追われ、家族を奪われ、ガストレアの脅威に肩を振るわせながら狭いエリアで暮らすのは彼らにとって苦痛だ。原因であるガストレアと同じ特徴を持った『呪われた子供たち』に彼らが聖人的に振る舞えないのは仕方のないことだろう。彼らは『呪われた子供たち』の赤い瞳にガストレアを幻視し、恐怖している。
だからイニシエーターは人間扱いされない。民警にとってイニシエーターは道具であり消耗品なのだ。
そんな中でイニシエーターであるイチカのみが帰還するというのは、はっきり言って異常だった。イチカはこの場所に他の子が帰ってきたなんて話を一度も聞いたことがない。
いつからか『プロモーター殺し』とか『死神』とか不名誉な二つ名がついた。何度聞いても慣れない呼び名だった。
そのとき向こう側の扉が押し開かれて、ジャケットを着た男と防寒フル装備のボブカット少女が入ってきた。加里屋隆と荊都椋だ。
二人は、というよりムクの距離が一方的に近かった。加里屋にぴたりと寄り添うように隣を引っ付いていた。腕が通っていないためにひらひらと揺れる右腕部分の袖に小柄な体を押し付けるようにして歩いていて、なんだかいじらしい。イチカの記憶にあるムクも同じようにして引っ付いていたなと懐かしくなる。
ムクとは外周区時代からの付き合いだった。一個しかないパンを二つに分け合って食べたこともあるし、イニシエーターになったのも一緒だった。ここまで共に過ごしてきた。
「よう、俺より元気そうだな。俺の腕をちぎった恩人さま」
「手に職があると人間余裕が持てるものです」
「手も職もなくなった俺に言うかそれッ」
鼻をひくつかせて加里屋が着席。ムクはその後ろに立つ。両腕を合わせてソワソワしているのは武器がなくて心細いからだろう。
「まあ、なんだ。今日付けで俺とお前のペア関係は一切解消されたよ。仮処分じゃなく書類上、正式にな。まったく、清々するぜ」
「プロモーター側が殉職した場合、イニシエーターのそれより処理が二、三多いんですよね。イニシエーターには浸食抑制剤の配布があるのに、不思議です」
「さすが慣れてんな。多分だが、マッチングが実質プロモーターを軸に行われるからだろう。あと俺は別に死んでねえ。殉職ってのは違ぇだろ」
「失礼しました。殉職の方が言い慣れていたもので。それで、私はあなたたちの事務所に続投ですか」
イチカが聞きたかったのはその一点だけだった。
プロモーター側がなんらかの要因で民警ライセンスを剥奪された途端、そのイニシエーターはIISOに戻される。
とはいえ事務所側からすれば使い慣れた道具が他所に渡るのは避けたいところ。そういった事情から事務所が望めばイニシエーターを引き続き別の所属プロモーターのペアとすることができるようになっている。
これがあるから、イチカとムクは長い間ともに大瀬フューチャーコーポレーションで働けたのだ。
イチカとムクについて理解がある加里屋の表情に影が差した。ああ、ついにか。
「……いいや。悪いが、お前はもうウチの事務所にはいられない」
「そうですか。まあ……妥当な判断ですね。遅すぎるくらいです」
きゅっと胸が締め付けられるように痛んだ。努めて平静な声音を維持する。
五人もプロモーターを潰してきたのだから当然だろう。抗議などするものか。その資格はないのだ。
社長は荒んだ者も多い民警関係者としては珍しく屈託のない人で、よく秘書の高波を困らせてはいるものの間違いなく善人の部類だ。ぽっちゃり体型だからノッポの高波と並ぶと漫才師にしか見えないし、彼の柔らかい雰囲気に絆される者も多い。イチカもその一人だった。
「……まーあれだ! 社長もついに損きりができるだけの手腕を得たってことだ! 俺としては鼻が高いぜアギャハハハハ。あこれ笑うとこだぞ腕ジョークってやつだ」
「それをジョークと言い張る面の皮の厚さは評価します。一度社長と高波さんに漫才の極意を伝授してもらっては?」
「あの人ら別にお笑い芸人じゃねえぞ」
ムクが擦り寄ってきて、半透明な壁に手のひらを乗せた。釣られてイチカも壁越しに手のひらを合わせる。
加里屋は空気を読んだのか席を立ってムクに譲った。
「そーいうわけだからお別れだね。イチカぁ」
「そう、ですね。ずいぶん長い時間、一緒にいた気がします」
「まあ一生の半分は過ごしたね。たぶんこの記録は破られないと思う」
「破りますよ。長生きすればいいんです。気合いです」
「無茶いいなさる」
イニシエーターの寿命は短い。
ガストレアウィルスの恩恵で傷は再生し病気にもならない『呪われた子供たち』だが、体内の浸食率が一定を超えると浸食抑制機構は破綻しガストレア化してしまう。
戦闘中に殉職するか、戦闘の結果ガストレア化するか。イニシエーターが辿り着くのはその二つに一つだった。
これを、とムクが胸元から折り目のついた一枚の古びた写真を取り出し、板下の隙間からこちらに滑らせて渡した。
そこには白銀の世界があった。写真中央奥に伸びていく道に被写体の女が立ち、こちらを振り返って何事か撮影者に語りかけている、そんな写真だった。傍に立つ木々の黒を真っ白な雪が覆い隠すほどの豪雪。白く濁った雪空と白い地面に継ぎ目はなく、そのまま歩いていってしまえば空に足が届く気さえする。ガストレアによる破壊のあとは一切見られない。
そこがどこなのか、誰が撮ったのかは分からない。とにかく大戦前に撮影されたものということしかはっきりしていなかった。
大戦前は日本中を飛び回っていたという老人に見せたところ、飛騨山脈の麓だろうということだった。山の形を見ただけでわかると豪語していたが、おそらく適当こいたのだろう。
別にイチカたちにアウトドア趣味があるわけではなく、特別この景色に心打たれたとかそんな話でもない。ただ、少女が生き抜くには過酷だった外周区時代、辛い現実を忘れここではないどこかを夢想するために使用した。カラス因子を持ってるくせに翼も持たないイチカたちにとってこの写真は空想の翼だった。
間違いなくムクにとって宝物だ。思いがけない餞別に目頭が熱くなる。
「泣くほど要らないなら捨てていいよぉ」
「捨てませんッ。大事にします」
写真を優しく折りたたんでポケットにしまいこむと、見計らったように加里屋が咳払いをした。面会時間が終わりを告げようとしていた。
名残惜しさを覚えながらも今生の別れではないのだと思い直す。東京エリアは狭い。民警として働いていればいつかまたきっとどこかで出会うはずだ。
「こっからの話。お前の次のプロモーターは決まってるらしい。聞いたことない事務所名だった。何があるか分からんから気をつけろよ」
加里屋はムクの肩に手をやって離席を促す。ジャケットを整えて扉を引き開くとこちらに真剣な眼差しを向けた。
「頑張れよイチカ」
「あなたこそ。民警以外にできる仕事ないでしょうに」
「いやそれがな俺お笑い芸人になってエリアを爆笑の渦に巻き込もうと思うんだ」
「やめておいた方がいいと思います」
「あそうならやめとくわ。じゃあなクソガキッ」
「クソガキですってッ?」
「じゃあアホガキだッファハハハハ。お前との肉は美味かったぜ」
笑い声を残して二人とも扉の隙間に体を差し込むと去っていった。
「……さよなら。相棒」
一気に静かになった室内をしばらく見つめて、よしと頬をぴしゃりと叩く。そのときがちゃりとイチカ側の扉が開いて職員と目が合う。小気味のいい打擲音が響いた。
誰も見ていないと思っていたイチカはちょっと恥ずかしくなって根負けするように目線をぷいと逸らす。
なんでもマッチングが完了したので別室まで来て欲しいとのことだった。加里屋が言っていた新たなプロモーターが既にこの施設に訪れているのだ。
職員に連れられて牛乳みたいな匂いのする廊下を歩き抜けていく。新しい相棒について思案しているとすぐに目的地点に着いた。無機質な感じがする真っ白な扉を前にして心臓が重くなったみたいに痛んだ。
この扉の向こうで待っているプロモーターは、自分の新しい相棒がプロモーター殺しだと気付いたとき、どんな顔をするだろう。別のイニシエーターを取れないものかと拒絶するか、このままイチカを受け入れるか。イチカのかつての相棒たちは、プロモーター殺しなんて物騒な二つ名を前に舌なめずりさえしてみせた。自分ならこのじゃじゃ馬を制御できる、いや屈服さえさせてしまえるという自信があったのだろう。結果は身体欠損の末の引退か、戦死の二つに一つだったが。
プロモーターなんて危険な仕事をやろうとするのは犯罪者崩れか、そうでなくとも暴力しか取り柄のない人間だ。
筋肉だるまか、珍走族崩れの女か。
どんな奴であろうとイチカに拒否権はない。
南無三とドアを押し開いて入場。
入った途端に鼻腔をシャンプーのいい香りがくすぐる。匂いのもとは部屋中央、ガラステーブルの向かい側に着席している女だ。黒のセーラー服を着ている。透明なテーブル越しに見える特徴的なスカートにはどこかで見覚えがあった。確か結構なお嬢さま学校だったはず。癖の強いカーリーヘアの毛先が肩にぽよんと乗っていた。
場違いな女との対面で思考がフリーズする。
女の人形みたいにはっきりしたまつ毛が上がってこちらに気づいた。座席を指す手の動きと「どうぞどうぞ座っちゃって」の声に従って着席、膝を突き合わせる。真正面の女は「えっとね、えーっとね」とまごついている。
ここはイチカから自己紹介した方がいいのだろうかと考えていると女がぎゅっと目を閉じて開眼、決意に満ちた瞳でイチカを見た。
「最初に何から始めるべきだと思う?」
全然決まってなかった。
「わ、私に聞かれても……自己紹介とかでしょうか」
「それだッ」
手のひらの上に拳をポンと叩きつけるとカバンの中からファイルを取り出して──ちらっと金ピカのキーホルダーが見えてちょっと欲しくなる──イチカと女の前にそれぞれ並べる。
見ればお互いの情報がまとめられている。加里屋の言葉通り、彼女の事務所は聞いたことがなかった。前情報とは違って既に書類上ではイチカがイニシエーターとして彼女のライセンスと紐付けされていた。思いがけず仕事が早い。
ただ、彼女のライセンスの発行日はひと月前だった。新人か。
「新しく始めるからね。あなたは記念すべき最初のイニシエーターさんです」
内心で納得していた。民警業界に足を踏み入れたばかりの彼女はおそらくイチカの来歴を文字でしか知らない。実体験に基づいていないから『プロモーター殺し』を前にして無反応なのだ。
「私は楝ヒフミ。あなたのプロモーターになって、社長もやります。ヨロシクッ」
にっこにこの笑みを浮かべながら差し出してくる右手をイチカは遠慮がちに握手した。この人が社長で本当に大丈夫なんだろうか。
「ひふみって、漢数字の一、二、三って書いてそう読むんだあ。なんだか漫画のスピード線みたいで、素早く見えない? シュバババって」
あなたは見えません。
「氷鷺一花です。今日付であなたのイニシエーターに──」
そのときヒフミが履歴書を指差して叫んだ。
「あっ。名前に同じ『一』がある!」
え、だから何?
「仲良くしようね!」
「……よろしくお願いします」
何故同じ漢字が入っていると仲良くなろうという流れになるのか全く理解できなかった。自分が対人能力に劣るのは経験で薄々気付いていたが、こういうのが普通なのだろうか。
「私の方が数字大きいね」
……違う気がする。
「しかし運が悪いですね」
「運? 今日は滅多にない幸運に恵まれたと思うけど」
「何かいい事あったんですか? いえ、今はキツネ騒ぎの真っ最中、試運転にしてはハードな時期ですよ」
「ああそれね。大丈夫、準備はしっかりしてきたから」
準備?
「何を隠そう楝民間警備会社は、そのキツネ事件を根本的に解決するために作りました。なのでイチカちゃんには東京エリア中を回ってもらうことになります! 覚悟してね」
「へぇ、プロモーターライセンスの発行日をご存知ですか。ひと月前ですよ。キツネが現れたのはそれ以降、二週間と少し前です。当初は別の目的で作ろうとしていたのでは?」
「細かいねイチカちゃん。でも今言った通りだよ」
とすると非正規の手段で即座にライセンスを獲得したのか。性急な手段に思わず眉をひそめてしまう。
「提案なんですが、民警なんてやめませんか? どんなイメージを抱いて入ってきたのかは知りませんがロクな職業じゃないですよ? 少なくともアルバイト感覚で始めていいものじゃありません」
「職業に貴賎はないよ。それにずっと続けるつもりだよ」
そういう話を言っているのではなく。
「危険度の話をしているのです。あなたも『奪われた世代』ならわかるはずだ。ガストレアは化け物で、あなたたち人間が敵う相手じゃありません。化け物には化け物を当てて共倒れさせればいい。
見たところあなたは育ちがいいのでしょう? わざわざ奈落に落ちる必要がどこにありますか」
「じゃあ落ちないように飛ぶよ!」
「話聞いてました? ドヤ顔やめてください」
ふんすと得意げに鼻を鳴らすヒフミに、イチカはため息をついた。困った。話が通じない。
イチカが知る人物の中でヒフミに一番近いのはムクだろう。ほわほわ系という言葉がイチカの中でしっくり来た。だがムクのほわほわがダウナーならヒフミはアッパー。対処の方法が違うらしい。
大半のプロモーターが身に纏っている剣呑な雰囲気は全くない。お嬢様学校の人間であることを考えるとお金持ちがお遊び半分で民警になったんじゃないかとさえ思う。もしそうなら三日と持たず彼女は死ぬ。死なない内に痛い目を見せてお帰りいただくしかない。
さてどうするか。
怪我もさせずに怖い思いをさせるにはと考えていると、電子音楽が室内を流れた。街頭で聞いたことがある、有名な赤穂浪士系魔法少女萌えアニメの主題歌だ。ヒフミの着信らしかった。
イチカのイニシエーターとして最適化しかかっている知覚が、それをガストレア絡みの依頼だと断定する。
「来た」
思わず呟いた声が予期せずハモる。ヒフミもまた呟きを漏らしていた。
なぜ悟った。偶然?
驚いて瞼をかっ開くイチカをヒフミが一瞥すると通話の相手と二、三の応対をし通話を終了。姿勢を正してこちらをまっすぐ見据える。
「さっそく最初の依頼だよイチカちゃん。依頼主は同業者。内容は最近エリアを危険に晒し続けているキツネ絡み。始まるよ──『狐狩り』が」