フォックス・ハント   作:簑都薇

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Breathe and Bimanual movement#4

 17

 

 きゃあ、という悲鳴が頭上から降ってくる。

 少し顔を上げれば、空をレールが縦横無尽に走り、レール上をビビットカラーの車体が駆け抜けている。遠ざかっていく悲鳴は興奮した乗客のものだ。

 

 氷鷺イチカは遊園地に来ていた。仕事のためなどではなく、ただ遊びに。

 奇しくもひと月ほど前にガストレアを退治した、あの遊園地だ。

 あのときとは異なり客も多い。『狐狩り事件』を発端とした再開発補助金のおかげでショッピングモールに生まれ変わるらしく、閉園間近ということで最後の思い出作りにと、遠ざかっていた客足が戻ってきたらしい。今日一日それなりに、というか年齢相応にはしゃぎまくったイチカとしては改築するなら遊園地として新しくなって欲しかったが、世の中個人の思い通りにはならないようだ。とても残念に思う。

 

「そんなにジェットコースター乗りたかったの?」

 

 視界を滑り抜けるジェットコースターを睨んでいると、ベンチの隣からヒフミの声がかかる。

 

「…………いえ。もっと高所からもっと高速で飛び回ったこともあるので乗りたいとかそんなことは全く」

 

 ジェットコースターに乗ろうとしたイチカだったが、規定の身長制限に引っかかっていた。今は不貞腐れて、ヒフミと二人ベンチに並んで座っている。

 

「う、うん。しばらくしたらまた来ればいいんじゃないかな。あと少しで届くんでしょ」

 

「一センチです。三日とせずに届きますッ」

 

 言ってすぐに三日はいくらなんでもないだろうと思ったが、黙る。成長期なんだからすぐ伸びるはずだ。近いうちに雪辱を晴らしに来てやると心の底で誓う。

 

 けらけらと声を出して笑うヒフミの横顔を覗き見するように窺う。

 組んだ当初は道楽お嬢様だと思っていた。一時は裏切られたような気持ちさえ抱いた。今は、少しは見直している。相棒だと思っている。

 

「ムクとはどうなったんですか」

 

 イチカの突然切り出した話題に、ヒフミは表情一つ崩さずぼんやりとした笑みを浮かべる。

 

「いつ聞くかなと思ってたけど、今か」

 

「はい」

 

「遊園地に誘ってくれたのも疲れさせる作戦だったり?」

 

 なんのことだとヒフミをよく見れば、首筋は汗びっしょりで頬も赤くなっている。イチカの遊園地最短攻略作戦に付き合わされたせいで体力の大部分を消費してしまったらしい。アトラクションに夢中で全然気付けていなかった。

 

「いえ、それは考えてませ……はい、作戦通りです。IQ二百十の高度な作戦です」

 

 イチカはさりげなく数値を盛った。

 ヒフミはふぅと息を整えるとイチカの目を見つめる。

 

「長くなるけどいい? 私の話はいつも長いんだ」

 

 それからヒフミが語ったのはイチカの心を冷えさせるのに十分な内容だった。

 ムクの関与が隠蔽されたこと、省庁間の争い、厚労省主導の侵食率検査の義務化と『子供たち』の部隊、警察のバラニウム装備化、その影響として起こりうることの数々。そして、ムクへ提案を行ったこと。

 

「侵食率が国に管理されれば危険域の子は生きられなくなるだろう。……結局、お父さんと同じことをしているんだ」

 

 ヒフミは疲れ切ったように声を湿らせる。

 ヒフミが天童ではなく楝と名乗ったのは、父親とは別だと言い張りたかったからかもしれない。

 

「彼女は提案を飲むだろう。それが彼女にとって最も利益となる選択だ。私も煽ったから、ノリノリで乗ってくれるんじゃないかな。執行対象の子供も、彼女はなるべく生かしてくれるだろう。私に復讐するための重要な戦力になるからね」

 

「……まだ一つ。はっきりしていないことがあります」

 

「というと?」

 

「櫃間篤郎の件です」

 

 櫃間篤郎の名はネット記事で確認していた。

 ヒフミは控えめに目を伏せて微笑む。

 

「続けて」

 

「あなたは私と出会う以前からムクを捕捉していた。やろうと思えばもっと早く解決できたはずだ。でもそれは、あなたにとって望ましい結果ではなかった。人を動かそうとする人間は特定の状況を待ち望んでいる。あなたは待たずに作ろうとしたんだ。

 あなたが引き寄せたかった状況は、この櫃間篤郎という男が主導となって狐狩りを解決すること。もっと言えばスポロシストのメンバーを吸収した状態で、階級を上がることだったのではないですか」

 

「なんでわざわざ? 彼である理由は?」

 

 イチカは言葉に詰まる。それは見当もついていない。

 

「彼はキャリア組で直に警視になりますし、父親の櫃間正は現警視総監だ。スポロシストは東京エリアの底に巣食う寄生虫。別の形で生まれ変わらせて彼が掌握することで、動きやすくなる……とか」

 

「ふわふわし出したね。でもまあ、近いかな」

 

 ヒフミは視線をイチカから逸らす。見ている先は、ベンチ前を通り過ぎる親子連れだ。子供はアトラクションに夢中になったのか率先して前を歩き、早く早くとねだりながら両親の手を引いている。

 

「荊都椋がやろうとした分断が実際に今起きたとして、『子供たち』と通常人類、どっちが勝つと思う?」

 

「……『子供たち』でしょうね。身体スペックが違いすぎますから」

 

 ヒフミは浮かべた視線を落としてかぶりを振る。

 

「勝つのは私たち側だよ。『子供たち』は確実に負ける」

 

 意味がわからずヒフミの横顔を見返す。

 

「身体能力が通常人よりも圧倒的に優れているのに負ける理由。それは子供だからだよ。子供で、かつ統率の整った集団を形成していないから。じゃあ、時間が経って、彼女たちが軍隊的な統率活動を可能としたとき何が起こるか」

 

「なんです?」

 

「戦争だよ」

 

 大袈裟な物言いに冗談だろうとヒフミを見返すが、彼女の表情は真剣だった。

 

「生存権をかけた種族間戦争。損得勘定で動かない、生存本能で動き続ける地獄の闘争」

 

「起こりっこない」

 

「起こそうとする人間がいる。だから必ず起きる」

 

 ヒフミの確信のこもった口調に知らず寒気がする。

 

「条件さえ整えば、だけどね。だからその時が来るより早く、彼を封じる必要がある。あっちはその気になれば百年だろうと待てる気質だから、退け続けるより引き込んで釣り上げるのが一番被害が少なくて済む。

 その人が所属している組織が、東京エリアにも食指を伸ばそうとしてた。だから」

 

 ヒフミは喉を引き攣らせるようにして言葉を続ける。

 

「入り口になり得る警察組織の腐敗を促した」

 

 イチカは知らず息を吐いていた。楝ヒフミが目的のためなら手段を選ばない人間であると、ようやく完全に意識できた。

 彼女はどうしようもなく、悪人だ。

 

「今回の件、櫃間篤郎という男がスポロシストを解体したことになってるけど……彼はもう一つ別の組織に所属している。五翔会っていうね」

 

「五翔会……?」

 

「櫃間篤郎がスポロシストを潰し、警察内にその根を張り巡らせれば、五翔会も東京エリアをこれまで以上に自由に動ける。東京エリアに根を張ってくれるならあとは根伝いに本体まで辿ることも、難しいだろうけど可能になる。狐狩りをするなら、狐の巣穴は塞いでからじゃないと」

 

 リスクに見合うとは思えなかった。

 

「何を、そんなに急いでいるんですか」

 

「『子供たち』が人類の敵足り得る年齢になる前に、五翔会は潰さなきゃいけない。五翔会の目的はガストレアの殲滅とその後の世界統治。だけど、その中心人物の目的は違う。彼──グリューネワルト翁の目的は『子供たち』の抹消」

 

「抹消?」

 

 排斥ならわかるが、抹消……?

 

「根絶と言い換えてもいい。一人残らず滅ぼして、もう生まれないようにするって意味だ」

 

 できっこない。イチカは耳を疑う。地球上から特定の人種を抹消するようなものだ。異常な執念にゾッとしたものを覚える。

 ヒフミは続ける。

 

「では、どう滅ぼすか。私が彼なら、『子供たち』に力と思想を与え、集団を構築させ、世界を揺るがす軍団に仕立て上げる。そうすれば、あとは勝手に世界が『子供たち』を滅ぼすだろうから」

 

「ずいぶん、その方のことを理解しているふうに言いますが」

 

「直接聞いたからね」

 

「直接?」

 

「うん。半年前くらいかな。私に会いに来て、これから東京エリアで起こすことを教えてくれて……勧誘してきたの。別に私を人材として欲しいんじゃなくて、ただ、昔救った患者をみすみす死なせたくないっていう医者としての彼が発露した結果だとは思うけどね」

 

 そう言ってヒフミは自身の額に指を当てて、見えない穴をなぞるように愛おしそうに撫でる。

 

「その方とは……親しいんですか」

 

 躊躇いながらも尋ねると、ゆるく頭を振った否定が返ってくる。

 

「ベルリンエリアにいた頃に助けてもらったの。それだけだよ」

 

 もう聞かなくなったエリア名を聞いて、イチカは息を呑んだ。

 

「ベルリン? いつですか。まさか」

 

「ヴァルゴ危機のとき。まさにベルリンが滅びようとしたタイミングで私は現地にいた」

 

 ステージⅤ(ゾディアック)処女宮(ヴァルゴ)──光輪を背負った球場物体で、放電能力を持ち、光輪をセイル(帆)として推進力を得る。現状、唯一確認された再生レベルⅤの個体。

 月低軌道上で休眠状態だったが、二〇二九年に軌道から外れベルリンエリアに落下。ドイツのイニシエーターによって完全消滅させられた。分子レベルでの規格外再生を行うヴァルゴを消滅させた方法は現在をもって確認できていない。

 ベルリンエリアはヴァルゴ危機を乗り越えた後、内紛で滅んだ。

 なぜか恐ろしい気持ちが込み上げてきて、話題を変える。気になっていたことを聞く。

 

「その人が『子どもたち』を恐れるなら、なぜその恐怖を増加させるような真似をするんですか。ひとつの集団にまとめれば、脅威だって……」

 

 いや、とイチカはかぶりを振る。なんとなく、グリューネワルト翁という人物が恐れているものに当たりがついていた。

 

「……集団としての脅威よりも、突出した個を恐れている?」

 

 ヒフミは首肯する。

 

「私は昏睡してたから知らないけど、あの人は見たんじゃないかと思ってる。空から落ちてくる直径四百キロの巨大肉塊が、たった一人のイニシエーターに完全消滅させられる光景は、彼の目にはどんなふうに映ったのかな」

 

 きっと想像したはずだ。その力が自分たちに向く可能性を。──そう、ヒフミが思っているということは、ヒフミ自身がそういうふうに『子供たち』を恐ろしいと感じるからでもあるのだろう。

 イチカは内心で納得していた。今までイチカが発した化け物という自称を、ヒフミは一度として否定していない。きっとヒフミは『呪われた子供たち』の危険性を正しく把握している。それ故に、そのままでは決して人間に受け入れられないという現実を直視できている。

 

「タイムリミットは『子供たち』が人類の敵足り得る年齢に達した時点。だから、五翔会に関しては急ぐ必要があった。私の行動で、何人もの命が失われたとしても、戦争が起こるよりはマシだと判断した」

 

 ヒフミは感情が見られない声音で言い切る。

 

「五翔会の魔の手が伸びるということは、犠牲者も出てくるということだ。私はそれを、必要経費と考えている。割り切ってしまっている。狐狩りの解決が遅れたことで起きてしまった七十三人もの死者を」

 

 ヒフミは胸元で拳を握りしめ、目を伏せる。

 

「結局、私は部外者ってことだ」

 

 それは罪の懺悔に似ていた。

 

 だからイチカは息を深く吸い込んで一音一音をはっきりと発音する。

 

「あなたは間違っています」

 

「うん」

 

 ヒフミは全て受け入れるような表情で、黙って頷く。

 

「自分を数に入れてようがいまいが、人を犠牲にするのは間違っています」

 

「うん」

 

「他人を利用する姿勢も間違っています。なにもかも、間違っています。そんなやり方で、あなたの望むような結果は決して訪れません。絶対に。私が断言します」

 

「うん。その通りだ。だけど止まるつもりはない。私はこのやり方しか知らない」

 

 ヒフミは話を切り上げるように、目を閉じる。

 

「これでおしまい。私とあなたの関係も。さよなら、イチカちゃん」

 

「ついてきますよ、私は」

 

「……え?」

 

 ヒフミが目を見開いて理解不能といった表情をする。

 

「私はあなたについていきますよ。あなたが嫌がっても」

 

 ヒフミは困惑気味に唇を開く。

 

「……話聞いてたかな? それとももっと直接的に言わないと伝わらない? 私はウソの自分を見せていた。騙していた。あなたの頭の中に、あなたにとって都合がいいだろう理想像を作ったんだよ。氷鷺イチカを動かすための楝ヒフミを」

 

「知ってますし、気付いていましたよ」

 

 ヒフミはため息を吐く。

 

「また頭良さそうぶってる……」

 

「あッ。やっぱり私のことをアホだと思ってたんですねッ? 頭良さそうじゃなくて実際に知能指数が高いんです! ……じゃなくて! 本当に、あなたが私を利用してたのは気付いてたんです。下水道のあとも、ムクと決着つけに行くときも。でも別にいいかなって」

 

 イチカはベンチから立ち上がって、ヒフミの前に立つ。スカートの端が風に煽られて揺れる。

 

「白い服しかないって普通にウソですよね」

 

 ヒフミは困ったように笑った。

 

「流石に無理やりだったかな。そうだよ」

 

「理由は私に目立つ服を着せて、相手の手札を誘き寄せるため。実際カメラ映りは良かったでしょう。私たちの行く先はすぐにバレたと思います。……言ってくれれば、別にもっとド派手な服だって来ましたよ。金ピカしゃらしゃらって感じの服でも」

 

「そんな趣味の悪いお洋服うちにはないよ」

 

「あなたは千寿夏世が言った追手に気付いていた。そして、それに千寿夏世が、あるいは千寿夏世に匹敵する誰かが気付いていることに気づいていた。懸賞金よりも将来的なメリットが大きい、テロ行為の関係者を倒したという実績欲しさに動く人たちに。彼らに追手の対応を任せて、ムクのもとに辿り着く予定だったんだ。

 ……あなたは、最悪の場合追手が誰かに殺されるか、追手にその誰かが殺されることを許容していた。前者であればイニシエーターがテロ行為に加担したという事実を闇に葬れる。後者であっても、ムクを処理するまでの時間は稼げる。実際に追手側のプロモーターは殺害され、イニシエーターの罪は軽くなっています」

 

 ヒフミは薄い笑みを浮かべる。

 

「私はねイチカちゃん。人の命を、火に焚べる薪だと思っちゃうんだ。火を絶やさないためなら、投じるべき燃料だって。キミの命も、もちろん私の命も。……何も感じない。命を焚べることに」

 

「なら、なんで苦しそうなんですか」

 

 ヒフミは顔を隠すように手を掲げて、そこで動きを止める。その動きを見てイチカはやはりと確信する。

 

「この方法しかないと考えるからやってるんでしょう。そうするしかないっていうのは、そうしたいって感情とは別物、でしょ?」

 

「キミは……」

 

「あなたが本当にしたいことが、他にあるはずなんです。だから、ついていきます」

 

 ヒフミはムッとした表情を浮かべる。

 

「私のやり方を許容しちゃうの?」

 

 イチカはかぶりを振った。

 

「まさか。絶対に許しません。でもあなたが今までやったこと、私が知ってることも知らないことも、どこかに知らせたってあなたは抵抗するでしょ」

 

「うん、私は止まるつもりはない。あらゆる手段をもって黙殺する」

 

「なら、いいです」

 

「……よくはないと思うけど」

 

「私にはあなたを罰する手段はない。なら別のやり方をするだけです」

 

 イチカはヒフミの前に仁王立ちになって、びしっとヒフミの顔を指差した。

 

「あなたに信じさせます。人の強さを。あなたが他人を動かそうとするのは他人を一切信じていないからだ。善性も心の強さも無力だと思い込んでいるからだ。なら、あなたのそんな思い違いをぶち壊します」

 

「どうやって」

 

「小さな勝利を一つ一つ掴み取って、見せてあげます。あなたがまた、信じる強さを取り戻せるように」

 

 あなたが思うほど、世界は絶望だけではないのだと。

『恐怖』を見据えたまま、けれど負けてしまうのではなく。

 希望を信じられるように。

 信じる強さを取り戻せるように。

 

「憎悪や恐怖の起点が流れを作るというなら、希望だって継承されるはずです。そんなふうに、あなただけじゃなくみんなが良い方向に変わるんです。『子供たち』だとか……そんな()()()()()そのうち関係なくなります」

 

「そんなもので変わるなら……」

 

「はじめからこうはなっていない、ですか? なんでそう言い切れるんですか」

 

「分かるからだよ。なんだって、私には」

 

 喘ぐように叫ぶヒフミを黙らせるように、イチカはベンチに向かって飛び込む。ベンチに膝立ちで乗り上げるかたちで、ヒフミに抱きつく。

 まさかこんなふうに抱きつくとは思わなかったらしく、ヒフミは控えめな悲鳴をあげて身をよじる。

 

「えッ、なに急にッ」

 

「あなたは私がこんなふうに抱きつくなんて予想できなかったじゃないですか。それと同じで、あなたが予想できない何かが起こって、事態が変わるかもしれない」

 

 腕の中でヒフミが身を縮こませる。彼女の吐く息が震えているのがわかった。

 

「イチカちゃん。それは綺麗事だ」

 

「はい。キラキラしたものは大好物なんですよ。実は」

 

「起きないかもしれない」

 

「なら、起きるまで耐え抜きます。何もかもが滅ぶというなら、滅びまでの時間を少しでも伸ばします。そういう、時間稼ぎをし続けます。起きるまで続ければ起きるんですよ。知ってました?」

 

「……滅茶苦茶だね、キミ」

 

 ヒフミを離して、イチカは再びヒフミの前に立つ。

 顔をくしゃくしゃにするヒフミを見て、イチカはムクに敗れた夜、何もかもを投げ出したくなったあの夜、同じことをヒフミが語って聞かせたときの悲しそうな表情を思い出す。

 あれは、あの言葉を彼女自身が信じていないから出た表情だ。あるいは、信じたくて言葉に出したのかもしれない。信じたいけど信じきれないから、あんな悲しそうな表情をしていたのだ。

 でもイチカはヒフミの言葉をあの夜に信じた。

 なら今度はイチカがヒフミに、その言葉は信じても良いんだよって伝える番だ。

 

「そういうわけで、ペアは続行です。……その、あなたさえよければ、ですけど」

 

「…………」

 

 沈黙が続くのでヒフミを見上げると、ヒフミの表情が固まって、瞬きひとつせずにじっと見つめていた。

 

「どうしたんですか?」

 

「……や、結構強引に迫った割に、控えめなんだなって」

 

「私一人で決めることじゃないですから」

 

 ヒフミはハッとした表情を浮かべると、遠くを見つめ息を吐く。

 

「そうだね。……一人で決めることじゃ、なかったんだ」

 

 人間はそう簡単には変わらない。

 ヒフミの悪癖もすぐには変わらないし、もしかしたらずっと変わらず、イチカを一方的に影から操るのかもしれない。

 イチカは自分のことをそれなりに賢いと思っているし、なんなら同世代で一番頭いい子だとさえ思っている。でもやっぱりどうしようもなく子供な部分があって、たぶんそれはヒフミみたいな悪い大人からすればつけいる隙なのだろうことも理解している。

 

 同時にヒフミもまた致命的とも言える欠点がある。

 物事の流れを操作しようとする思考は、他人の理解を決して得られはしない。なにより世界は個人の思うようには動かない。

 ヒフミの選択が、ヒフミの意思とは反対方向の結果に繋がることは容易に想像できる。そうでなくともヒフミはただの人間だ。道半ばで倒れてしまうかもしれない。

 

 だが同時に、思いがけない好転だって起こるかもしれない。

『呪われた子供たち』の侵食を完全に止める方法が見つかるかもしれない。

 世界が『子供たち』を、ただの人間として受け入れる日が来るかもしれない。

 ガストレアの脅威がなくなって、誰もが好きなように世界を渡れるようになるかもしれない。

 イチカの背が三日で一センチ伸びて、ジェットコースターにだって好き放題乗れるかもしれない。

 イチカが胸に抱く『いつか』は、そんなふうに明るいものだ。

 

「まだ、返事を聞いていません」

 

「返事って?」

 

「ペアを続行する気があなたにあるのか、です。私にはありますけど……」

 

「立派な淑女はみだりに抱きつかないそうだよ」

 

「いきなり抱きつくような子はお嫌いですか」

 

 ヒフミは顎に指を当てて、うーんと唸ると、イチカをまっすぐ見つめる。それから柔らかく笑った。

 

「黙秘します。この後の相棒関係に影響が出ますから」

 

 了

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