フォックス・ハント   作:簑都薇

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 空が近かった。

 エレベーター特有の上昇に伴って発生する身を引き落とされるような慣性はすぐに掻き消えた。猛烈な速度で遠ざかる地面と小さくなっていく低層建築物群。しかし視線の奥、東京エリアの縁を並び立つ漆黒の柱モノリスだけはいくら待ってもその存在感を失わなかった。

 

 縦一.六一八キロメートル、横一キロメートルという超巨大建築物モノリス。ガストレアの生理活動を致命的に制限する特殊な電磁波を放つバラニウムを積み立てあげて構築された結界である。元東京都、元神奈川県、元千葉県、元埼玉県の一部を囲うようにして関東平野に打ち立てられている。

 その外は未踏査領域と呼ばれガストレアが跋扈している。イチカも何度か入ったことがあるが、奥へ進むごとにガストレアは勢力を増していき、何度目かの侵入でこれは人類が生存圏を拡張するのは無理だなと諦めがついた。

 

「見て見てイチカちゃん! 高いね! 何メートルあるのかな?」

 

「今の時点で高度七〇〇メートルちょいですね」

 

「落ちたら気持ちよさそう!」

 

「片道バンジージャンプですか。死にますねそれは」

 

 生存圏が限定された人類は建築物を縦に伸ばす手を取った。針みたいに細長い建築物群が東京エリアにいくつも建てられ、東京エリアの外景を円錐に変えた。

 かつてスカイツリーこそが東京で一番高い建物だったのだと言われてもイチカは正直ピンと来ない。近々スカイマイルタワーという高さ一七〇〇メートルものビルが、元の計画から位置を微調整した後、着工を開始するらしい。中に一つの都市を作って人口密集問題を解決するというから驚きだ。

 

 イチカはエレベーターのガラス窓から視線を引き離すと改めて自分の服装を見直した。

 

 今のイチカは様変わりしていた。

 厚手のニットワンピにツバ付きキャップ。透明感のある黒のシフォンスカートから覗く両足は黒く、タイツを穿いている。カラスが人の姿をとったらこんな感じになるだろうなと自分でも思う。

 当然、その背にはコンパクト化した大鎌を収納したギターケースがある。

 

 IISOを出る際、「イチカちゃんはファッションにこだわりある方?」と聞かれたので首を横に振ったら婦人服店に連れ込まれたのだ。曰く依頼の打ち合わせまでは時間があるのでボロ切れで会う訳にはいかないということだった。

 ボロ切れとはなんだボロ切れとは。バサバサして格好いいじゃないかと非難しようとしたが、出てきた子供服もなかなかにバサバサしていたので黙って着た。「ファッションの採点項目がバサバサしてるかなんだ。他にはあるの?」という突っ込みは聞かなかったことにした。ちなみに、他にはない。

 

 東京エリア第二区という内地特有の高層ビル故に、エレベーターは目的の階につくまでまだ時間がかかりそうだった。そこはイチカたちを招集した民警の事務所だった。

 沈黙に耐えかねたのかヒフミが声を弾ませてイチカの目を覗き込んだ。

 

「そうだ、イチカちゃんっ。今までのプロモーターはどんな人だったの?」

 

 なんだその元カレの話を聞こうとする今カレ的スマイルは。

 気まずいなと目を伏せながら脳裏に歴代被害者を思い浮かべる。

 

「一人目は女殴ってそうなハタチの男で、実際襲ってきたので軽くどついたら三行半を叩きつけられました。二人目はちょっとヤバ目のレズJKで、こいつも襲ってきたので押し倒したらなんだか気に入られちゃって、ひと月ほど活動を共にしました。三人目はゴムボールみたいなご老人。四人目は思い出したくもないガチクズでやっぱり襲ってきたのでやり返しました。五人目は…………比較的まともでしたが暴力しか取り柄のなさそうなやつでした」

 

「イチカちゃん、ひょっとしておかしなフェロモンでも出てる?」

 

「出てません。それともあなたもやべー奴なんですか」

 

「やばくないよ、全然ッ。あはは……」

 

 慌てたようにヒフミが腕を振り回して否定した。話盛り過ぎたかなと少し後悔していると、エレベーターが目的地に到着して電子ベルが鳴り、駆動音と共に扉が開く。

 

 中は壮観だった。

 天井から吊り下がった豪奢のシャンデリアといった建築要素もそうだが、イチカの目を引いたのはなにより集められた無数の人間たちだ。

 大人と子供がほぼ同じ割合で見受けられる。そのほぼ全員がブラッククロームの武器を見せつけるようにして携帯。プロモーターとイニシエーターだ。武器を持たないものは社長格の人間だろうか。

 

 用意された椅子に素直に着席している者は少なく、多くは壁に張り付いて他の民警を威嚇していた。

 その中に見覚えのあるパンクロックファッションもいた。大量のピアスに右目下のスペードマーク。IISOのポスターで見た高位序列者。彼女のような強力なイニシエーターまで集められた事実に胸がざわつく。

 ざっと見渡したところこの場にいない高位序列者は我堂関係と片桐兄妹くらいだった。前者は単体でここに集まったレベルの戦力を保有しているし、後者は民警の下請けなど受けない性格と知っていたので不思議はない。

 

 既に民警の陣取りは済んでいるらしく、空いていたエレベーター付近でヒフミと並んで立ち尽くす。

 到着早々ヒフミがスタッフを呼び止めた。

 

「ここかなり高階層だけど防火設備ってどんなのを使ってるの?」

 

「天井にスプリンクラーが。ホール内にも一定数の粉末式消火器を設置しています」

 

「スプリンクラーは水道に直接繋いであるタイプ? 不凍液などの混合はしてますか?」

 

「いえ。水道には繋がっていますが、一旦水を屋上の水槽に送り、その分の水を利用する方式をとっています」

 

「つまりあまり長くは散水できないわけだ」

 

「あなた、さては防火設備オタクですね?」とイチカ。

 

「まあね〜」

 

「否定してください」

 

 そのとき到着を知らせる電子ベルが鳴り、横のエレベーターが開く。中にはブラックスーツめいた制服に身を包んだ中肉中背の青年と、彼の相棒だろう少女が並んでいた。少女は青年の肘を巻き取るようにして腕を挟ませている。仲が良いのだろう。見ているだけでこちらまで頬が緩んでしまう。

 

 どんな奴かなと青年の顔を見て、すぐに後悔した。ひどい不幸顔だった。見るだけで運気が吸い取られて今にもゾンビ化してしまいそうなほどだ。

 

 対して少女は幸せそのものが隣にいるといった有り様で元気に跳ねていた。どの季節でも通用するだろうコートの裏地にはおしゃれなチェック柄が入っている。編み上げブーツの底は厚く、もしかしたら何か仕込んでるかもしれない。大きめの髪留めからはツインテールが伸びていた。ファッションマスターのイチカをしてなかなかのバサバサ度合いだ。

 

 今度真似しようと密かに思っていると、横のヒフミが飛び出した。驚いている間に青年に突進をしかけ──何故か抱き付いた。

 

「れ゛ん゛た゛ろ゛う゛く゛ぅ゛ん゛!!」

 

 最初ロバの鳴き声かと思ったが、違う。ヒフミが鼻水びしょびしょにしながら叫んでいるのだ。

 

「なッ」

 

「蓮太郎ッ。妾はこんな女知らないぞッ。誰だッ」

 

「待て延珠ッ。誤解だ!」

 

 延珠が足を踏み締めぷんすか怒っていた。

 あ、蹴るなこれとイチカはその後の惨劇を悟る。事態を収めようとヒフミを蓮太郎から引き剥がした。ヒフミと一緒に鼻水でできた銀の橋が剥がれ落ちる。うわ汚いな。

 

「ヒフミさん、知り合いなんですか」

 

「ううん。初対面みたい」

 

 正気かこの女。

 

「ほら延珠。聞いたろ。こいつと俺は初対面で何も、一切何も関係ない。だから落ち着けって!」

 

「まだだッ。妾のおっぱいレーダーはこやつを危険だといってる。過去に何もなくてもこれから起こるかもとな」

 

「お前すげぇな占い師か。俺の運勢も占ってくれ」

 

「死ぬまで大凶だ。でも悲観するな蓮太郎。妾がいれば大吉だ。しかも妾のおっぱいも大きくなる」

 

「最後の、俺へのご利益か?」

 

 息を吐いて蓮太郎は頭の後ろをぽりぽりと掻くとこちらに向き直った。

 

「まあ……色々あるよな。生きてりゃ人に抱きつきたくなる日もある。だから深くは聞かねぇよ。でも一つだけ言わせてくれ。なんでアンタ俺の名前知ってんだ?」

 

「うーん、蓮太郎って感じの顔だったから。蓮みたいで」

 

「俺の顔面が穴だらけに見えてんのか?」

 

「妾は別に今からでも穴を開けても良いぞ蓮太郎。パンクケイというのだろう? なんだか蓮太郎に似合いそうだッ」

 

「ファッションで穴を開ける気はねえよ。ぜってー痛ぇだろ。頼むから勘弁してくれッ」

 

 そのとき一画からくすくすと女の子たちが笑う声。蓮太郎は一転して顔を真っ赤にして項垂れた。

 見かねたヒフミがあたふたしながら世間話を切り出す。

 

「で、でも意外。民警が他の民警を雇うことなんてあるんだねー。あ、でもそのおかげで蓮太郎くんと会えたから、私としてはラッキーです!」

 

「下請けです。たまにありますよ」

 

「そうなんだ。あれ、蓮太郎くんは?」

 

「トイレに行ったのだ」

 

「あの一瞬でッ? すばしっこいんだね彼!」

 

「かったりぃとか言いながら一瞬で消えましたよ」

 

「ちなみにどのタイミングで?」

 

「『で、でも意外』のタイミングで」

 

「え、あの子話聞く気ある? それとも私が嫌われてる?」

 

「まあいきなり抱きつく人は嫌われるでしょうね」

 

「当たり前なのだ。立派な淑女(レディー)はみだりに抱きついたりはしない」

 

「じゃあ何するの」

 

「股間を蹴る」

 

「…………い、イチカちゃんはそういう人嫌い?」

 

「この後のペアの信頼関係と能率に響くので黙秘します」

 

「沈黙が答えになっちゃってるよそれ」

 

 会場のドアが開き、一気に静かになる。

 静寂が支配した空間をヒールの床を叩く音だけが通り抜ける。

 見れば煌びやかなワインレッドのドレスを着こなした妙齢の女性が壇上に上がっていた。記憶が確かならイチカたちを呼び出した事務所の代表だ。乱暴者が多いプロモーターを見事な手腕で制御しきる女傑、平良笙子と言ったか。

 着席していた社長クラス全員が立ち上がるが、それを手で制して着席を促す。全員が着席する。

 

「集まっていただき感謝します。ご来場いただいたということは現時点で既に依頼内容に合意したものとこちらは判断します。依頼の概要については各事務所の窓口に伝わっているとは思いますが、改めて私の口から説明させていただきます。

 二週間前に東京エリアに出現したガストレア・ステージⅢ、通称キツネ。私どもの依頼はこれの討伐です」

 

 背後のパネルにキツネの荒い空撮映像と成功報酬額が投影される。その額にイニシエーターの数人が泡を食ったように目をひん剥いた。プロモーターに驚くものがいないのは招集時点で知らされていたからだろう。

 ステージⅢとしては桁がいくらか相場を高く外れていた。それだけキツネを危険視しているのだろう。普通、特異なガストレアには星に因んだコードネームが日本国家安全保障会議(JNSC)などの認定のもと与えられる。どうやら政府としてはキツネの脅威度は大したものではないらしい。この平良笙子という女はキツネの脅威を正しく理解しているようだ。

 だが本来こういった特別報酬をちらつかせて民警を躍起にさせるやり方は防衛省がやるもので、民間の人間が賞金を懸けるのは初めて見る。目的がわからず、警戒する。

 

「これはあくまで成功時の報酬です。

 今まで七度もエリア内部に姿を表し、感染者を増やしては逃亡して行方知れずとなるのは皆さんご存知かと思います。このような醜態を我々が晒しているのは何故だと思いますか? 原因は明白です。皆独自にキツネの手がかりを追っているためです。

 私どもの目的は協力体制を構築することにあります。

 通常以上に情報を共有し、キツネを狩るのです。協力いただいたペア全員には少額ではありますが参加報酬の用意があります」

 

「気にいらねぇな」

 

 男の声が割って入った。卓に足を乗せた柄の悪そうな男だ。

 

「安全圏にいながら俺たちにだけ働かせて、リーダーをしたっつう政府向きの実績を作りたいだけなんじゃねえか」

 

 なるほどとイチカは内心で納得を得た。

 民警には『IP序列』が与えられる。ガストレアの討伐数をはじめとした貢献度によって序列は昇格する。基本的にはペアの強さの指標として語られることが多いが、あくまで序列に響くのはポテンシャルではなく貢献度。民警戦力を先導してエリアを守った場合も戦果としてカウントされる。

 そして政府は特殊な案件を高位序列者に優先して下すので、企業としては実績作りは大きな要素となる。

 懸賞金はあくまで実績のコストということか。

 使われることには慣れていた。

 隣を見ればヒフミが渋い顔をしていた。なにが気に入らないんだろう。

 

「もちろん我々の民警戦力もキツネを追います。ただ、あなたたちと違ってたとえ討伐したとしても報酬は少額になるでしょうね」

 

 傍であちらのプロモーターと思われる男がクソがと毒づく。それを見て招集メンバーの数割が馬鹿にした笑みを浮かべる。

 件の柄の悪そうなプロモーターもにやけていた。納得したらしくそれ以上の介入はなかった。

 

「それに私が指揮を取る訳ではありません。あくまで通常以上の協力をお願いしたい、というだけです。上下関係は存在せず、命令と服従は事務所間においては控えていただきたい。

 キツネはエリア内に潜伏している可能性があります。このエリアは現在、今にも感染爆発が起こるかもしれない瀬戸際に立たされている。

 ──市民の安全を守ることを第一に考え、早急にキツネを狩るのです」

 

 そのときいくつもの警報が鳴り響く。聞き慣れたアラート音が民警各員の端末で唱和。

 ガストレアアラート。東京エリア中に張り巡らされた各センサーがガストレアを熱的に検知、周囲十キロ範囲の民警へ自動的に通達しているのだ。

 互いに視線を交差させつつ端末を見る。

 場所は──東京エリア第二区、その一画。

 

「ああ、窓! 窓に!」

 

 突如としてイニシエーターの一人が悲鳴をあげる。見れば平良笙子の背後、大窓を指し示して──そこに大きな影が躍り出る。と同時に強烈な破砕音が鳴り響き、ガラス片を弾き返しながらそれが室内に侵入する。

 

 それは有翼の異形だった。

 翼を生やした四つ足歩行のシルエットはグリフォンを思わせる。全身は甲冑めいた硬い装甲に覆われ、プロレスのマスクを履いたような白頭からはカギ状に曲がった鋭い嘴が伸びている。背後に三対の巨大な翼が非対称をとって広がっているが、よく見ればそれは触腕の集合体だと気付く。細長い尻尾は意志を持つように波打ち、先端にある赤の一つ目が周囲を窺っている。おそらく第二の脳として危険を察知する役割を持つ。

 

 まさかの高度七〇〇メートルへの襲撃に目を見張る。

 イニシエーターの直感が、こいつこそ民警が追い、そして逃げられてきたステージⅢ、キツネだと囁く。自ずと目が赤熱。感覚が捉える肉体が実在以上に拡張される。

 

 民警の反応は素早かった。

 出現後わずかコンマ秒で武器を握りそれぞれの攻撃手段を実行。中にはバラニウム武器を振り上げて突貫するイニシエーターまでいる。それぞれの得物が唸りを上げ風を切り裂いて迫る。その全てが一撃必殺の域に達した絶技。

 こんなものまともに食らえばひとたまりもない。この場でキツネは終わるのではないか。背負い式ギターケースの口から飛び出させた持ち手を握る力が自然と緩まり、

 

 その瞬間、ガストレアの肉体が爆発的な膨張を起こし、直後に体内から黄金色の粉塵が噴き出る。視認できるサイズぎりぎりの粒子が室内を一瞬にして包み込んだ──そう知覚した頃には既に術中にはまっていた。

 むっとする熱気が通り過ぎたと感じると、突如目が燃え盛るような痛みを発して反射的に目をつむる。炎症を起こした目が涙を分泌する。肺にも入り込んで軽度ながら呼吸も苦しくなる。

 目潰しだ。刺激粒子。生物学的な催涙ガス。イチカの脳裏にカメムシの放屁が過ぎる。

 おそらくプロモーターだけでなくイニシエーターでさえ反射的に目をつむっている。

 ガストレア戦闘において民警は常にディスアドバンテージに立たされる。既にこの場全員がやつの初見殺しの術中に陥っていた。

 しかもガス熱のためかスプリンクラーが誤作動し室内全域に散水。冷たい水が体に降り注ぎ体温を奪う。泣きっ面に蜂とはこのこと。

 

 だが不幸は重なる。イチカにはガストレアの次の手が読めていた。外部刺激の断絶、おそらくその次に来るのは──。

 

「伏せてええええええぇぇぇ!」

 

 感覚だけで隣のヒフミを捉え、風を切って肩から体当たりし諸共地面へ押し倒れる。

 直後に頭上を突風が擦過する。大気を削り取る死の弾丸が瞬間にして百超放たれたのをイチカの聴覚が捉える。

 百超。交接腕は一つじゃないのか。そこまで考えてハッとする。

 なぜこの巨体が高度七〇〇メートルまで到達できたのか。あの翼を形成していたのは触腕だった。その全てが空気を放出する機能を有しているのなら、イカの水中ジェット噴射の要領であの巨体を飛ばすだけの推進力を得ることも可能なのではないか。催涙ガスの生産も考慮に入れると、あるいは体内でエンジンよろしく爆轟反応を起こしている可能性すら。

 

 床に膝を突いてなんとか起き上がる。続けて男女を混合した悲鳴が鼓膜を切り裂くように室内を跳ね返る。

 忘れていた。あの弾丸にはガストレアウィルスが充填されている。

 未だに痛む目を苦労して開けると、目の前に惨劇が広がっていた。視覚喪失状態でのウィルス莢乱射は民警戦力に確かなダメージを与えていた。

 運悪く頭部を破壊され即死したプロモーターをイニシエーターが抱きしめて、何事か叫んでいた。

 倒れたプロモーターに駆け寄り起こしたイニシエーターが、直後にその胸をガストレア化したプロモーターの爪で穿たれ死んだ。

 咄嗟の出来事故に混乱と催涙ガスによる視認性低下によってモデルスキッドの幼体相手に苦戦するプロモーターがいた。詰めを誤り不意打ちのウィルス莢狙撃を受けて倒れる。そのイカガストレアの銃口が、いまだ硬直しているイチカを向いて。

 

「イチカちゃん、集中!」

 

 銃声に重なるヒフミの声で我に帰る。ヒフミの銃撃を受けたイカガストレアが痙攣を起こし、逸れた銃口から飛び出したウィルス莢がイチカの足元を穿つ。

 ハッとして辺りを見回して、この混乱を作り出したキツネを探す。──いた。キツネは大窓近く、平良笙子が立っていた壇上で鎮座していた。

 背部にあった翼は触手として解かれていた。おそらく先日イチカが駆除したガストレアと違って、あれら全てが交接腕として砲塔代わりになるのだろう。スプリンクラーの散水で濡れた触手を震わせるとそれらを重ね合わせて再び翼状に整形し直し、背後に向き直る。

 

「おい逃げるぞ! 撃てッ撃ちまくれ!」

 

 甲高い男の叫び声にプロモーターが一斉に銃撃。鼓膜を破る発砲音が重なり、いくつもの銃弾がキツネを貫いて体内に埋まり込むが意に介したそぶりは全く見せない。

 翼が膨らんだかと思えば、直後に凄まじい勢いで突風がイチカらに殺到。咄嗟に腕を顔の前にかざして風圧から身を守る。ジェット噴射だと気づいた時には既にキツネは外へと飛び出していた。

 

 その光景にイチカは目を疑った。不意打ちを決め、ガストレア感染を起こし、ここまで有利な盤面を作り出しておきながらなぜ逃げるのか。

 ふとイチカは自身が平気で視覚を確保している事実に気づく。

 スプリンクラーの水が空気中に漂う粒子ごと眼球の粒子も洗い流したのだと気付くのにそう時間はかからなかった。水の勢いも既に弱まっていて視界がひらけている。

 周囲に意識を向ければ民警戦力も反撃のターンに移行しようとしていた。

 まさか、それを悟って?

 いや違う。イチカの直感がそれは的外れだと告げている。なにかがおかしい。

 イチカの前髪を風が揺らす。高階層故の強風が、割れた大窓から吹き込んでいるのだ。

 

 不意に腕を強く引っ張られる。傍のヒフミがイチカの腕を掴んでいた。目が合う。これが初戦闘のはずなのに何故か慣れた表情。

 

「離してください。キツネを追います」

 

「焦らないでイチカちゃん。今は生き残ることだけ考えて」

 

「でもッ。今ここでやつを倒せば終わるんです」

 

「ここは高度七〇〇メートルだーってさっき言ってたでしょ。どう追いかけるの? 落ちたら死ぬよ」

 

「落ちながらでも。墜落する前に倒します」

 

「なにを焦ってるの? まだ始まったばかり。生きていれば、次はある」

 

 ヒフミが腕を離す。身を屈めて視線の高さを合わせ、諭すような声で包む。

 

「今全てを終わらせる必要はないんだよ」

 

 その言葉にイチカは顔を歪める。脳内でざわめくような焦りが勢いを増した。今、必要なのだ。イチカには。

 目をつむり、ゆっくりと口で息を吸う。ガストレアとの戦闘真っ最中の騒々しい空間にいながら、イチカは自分の呼吸音が大きく聞こえた。異音みたいだった。

 やけに息苦しくて。──きっと催涙ガスのせいだ。

 決然と、目を見開く。

 

「いえ……。ここで終わらせます。死んでも倒します」

 

「イチカちゃん、待って!」

 

 ヒフミの制止を振り切るように地面を強く蹴り、大窓めがけて駆け出す。

 民警もキツネの『子』も全部無視して、世界にキツネとイチカだけが存在すると知覚し直す。

 視線の先、キツネがジェット噴射でビル森の隙間を猛烈な勢いで過ぎ去っていた。だがスピード特化型のイチカならば追いつけるはずだ。

 直感でここと見定めた接触地点を脳内で描き、規定した接触時間通りに到達するような運動を脳内で叩き出す。

 

 最初は歩き出すように小さく一歩ずつ。だんだんと速度と歩幅を上昇。やがて踏み込んだ足が床を砕き、衝撃で床を覆っていた水が飛沫をあげ散るのと同時に文字通り吹き飛ぶほどの加速感がイチカの身に加わる。脳内で描いた最適運動を再現するように、全身の筋肉の動きに細心の注意を払いながら斜め上向きの大跳躍。

 直後に猛烈な勢いで空気が壁となって迫り、叩き落とすような強烈なGがイチカを襲い、締め上げられるような痛みに歯を食いしばる。

 

 イチカの体は放物線を描いて上昇運動を開始していた。見る見る内に建築群が遠ざかり、小さく見える。

 視線の先、飛翔するキツネはまだこちらに気づいていない。

 跳んだ後になって気づいたが、接触前に気づかれて方向転換された時点でイチカの落下死は決定してしまう。今更ながらに死の恐怖が湧き上がるが、もう跳んだ手前なるようにしかならんと押し込める。

 

 ふと視線を拡散させると、自分が東京エリアのほぼ全部を見下ろす位置にいることに気付く。ミニチュアみたいに小さな街は、足を投げ出せば壊れてしまいそうなほど。

 直後にもたらされる慣性力と重力が相殺される瞬間。万物のしがらみから解放されたような心地になる。この呪われた身に翼が生えているかのような、そんな都合のいい妄想が脳内を過ぎる。

 腕を背に回してギターケースから持ち手を抜き取り、大鎌展開。しゃんというスライド音を聞き流し、視線をキツネに戻す。

 

 ──最高点到達。落下開始。

 

 重力の楔がイチカの肉体を掠め取り落下運動が開始される。

 凄まじい勢いで迫る地面に心臓が死神の冷たい手で握られている感触すら起こる。壊れるまで落ち続けろと万有引力が神の如く刑を宣告。

 キツネが気付いた。主翼兼スラスター役割の翼の角度を変えようとする。

 が、遅い。

 落雷めいた速度で大気を切り裂き、飛翔するガストレアへと落ち迫る。そのスピードは振り上げたバラニウムブラックの刃が空力摩擦によって赤熱するほど非常識的な値を叩き出している。当然それを振るうイチカの肉体もまた空気分子の洗礼を受け、手足がバラバラになりそうなほどに軋みを吐き出す。

 

 耳をつんざいたのは大鎌の唸り声か、イチカの叫びか。

 

 脳内で策定した軌道と寸分違わず同じ線を辿って、大鎌がキツネを喰らわんと振り下ろされる。地球が定義した位置エネルギーを全て破壊力に変えて与えられる斬撃は、並のガストレアならば接触した瞬間に生じた衝撃によって肉体が吹き飛ぶ域に達している。

 

 その切先が、弾かれる。

 

 着弾と同時にエネルギーが衝撃波になって分散し、イチカとキツネごと周囲一体の空気を押し出して大音量を奏で立てる。のみに留まらず傍のビルの窓ガラスを全て破砕、内側に飛び散らす。

 イチカの大鎌を握る腕に鋭い痺れが走り、体を押し上げられるように跳ね退けられる。

 対するキツネもまたその巨体を大きく下へ向けて姿勢を崩している。肉体を覆っている甲冑めいた外殻に弾かれたものの、その内臓を確かに揺さぶった感触があった。

 

 だがこれでイチカが落下によって蓄えたエネルギーは霧散したことになる。あとは重力に引かれて直下に落下する以外にない──その事実にイチカの芯がさっと冷える。

 不意に視界を過ぎる緑色の線形物体に、思考より先に反射がイチカの肉体を動かし、全身の筋肉をたわませて縮こまる。

 耳元を掠るギリギリの回避にゾッとするのも束の間、尻尾を振るい上げたのだと遅れて気付く。おそらく尻尾の牙もウィルスを注入できる毒牙なのだろう。

 だが空で溺れているイチカにとっては藁の紐に過ぎない。

 

 真横を過ぎてピンと張った尻尾を側面から掴む。腕力任せに引き込んで、反動で直進、ガストレアの背中を蹴り込むようにして騎乗。

 掴み直した尻尾で自身を固定しつつ、大鎌の内刃をガストレアの喉元に滑らせる。

 内刃を甲冑の隙間に潜り込ませ、肉に食い込む感触に、いけると確信する。

 

 そのとき水平線が傾く。

 落とすつもりかと尻尾を握る力を強めて、全身を撫ぜる強い風にハッとして顎を跳ね上げる。

 視界いっぱいにビル壁の灰色が迫っていた。

 キツネがその巨体で壁を削り取るようにして背中を押しつける。肩から思い切り叩きつけられ、車の追突よろしく衝撃がイチカの全身を駆け巡り思考が途切れる。全身が擦り切れそうな激痛に矮躯が痙攣。

 離すものかと尻尾を掴む指は既に虚空を掴んでいる。

 

 しまった、と思ったときにはキツネはジェット噴射で加速していた。イチカを置き去りにして瞬く間に遠くへ行ってしまう。

 再び感じる重力の楔。脳裏を過ぎるのは地面に叩きつけられ柘榴のように飛び散る自身の血肉。

 

「こなくそっ!」

 

 死に物狂いで大鎌に弧を描かせ、コンクリ壁に突き刺し制動をかける。

 コンクリートをガリガリと削りながら落下し続けるが、その度に腕に鈍い反動が伝わる。

 そのときガクンと一際大きな反動が痺れと共に腕を走り、持ち手が五指をすり抜ける。

 今度はしまったとは思わなかった。

 追い縋るようにして、直上に取り残された大鎌を掴もうと指で空を掻くが、当然届くはずもない。──終わった。

 ここで死ぬ? 生きている理由も分からずに?

 頭の中で責め立てるような音が鳴り出していた。

 

 気付けばビルの壁を蹴っていて。

 

 直後に背を衝撃が打った。

 水面を切る石のように地面をほぼ水平に跳ね続けて慣性が死ぬまで転がり続ける。地面に接触するたび全身を細切れにせんばかりに衝撃が襲いかかり、思わずうめき声を漏らしかけるが、舌だけは噛み切らないように懸命に歯を食いしばる。内臓がひっくり返るような衝撃。十数度の跳ね返りでようやく慣性を殺し切り、大の字になって地面に突っ伏す。

 

「ぐっ……あっ……」

 

 ひどい耳鳴りがして、天地の感覚が掴めない。視線を定めようとしても、目が勝手にあらぬ方向を向く。ひゅうひゅうと喉を引き攣らせ、息も絶え絶えに腕を地面に突きようやく仰向けに向き転がる。

 全身が衝撃でズタボロになっていて、呼吸するだけで死にそうな激痛が走った。

 息苦しいのは呼吸しようとしているからだと気付くが、やめられるわけもない。

 ただ眼前に広がる空が青くて、思わず手を伸ばす。

 

「空……近い、ですね……」

 

 そこでようやく自分がまだ生きている理由を悟る。

 ここは地面ではなく、低層ビルの屋上なのだ。

 とはいえ階数にしておよそ二十五階分以上の高度を落下したらしく、生きているのが不思議なくらいだ。

 

 口を引き攣らせて喘ぎを漏らしつつ、なんとか身を起こしてビル森の隙間を見上げた。

 キツネはもはや点のサイズでしか認識できない距離を行っていた。

 イチカが捕捉した直後に急降下し、その姿をモノリスの影に消した。どうやら東京エリアの外、未踏査領域のあたりに降りたらしかった。

 一応の手がかり獲得にホッとするのも束の間、膝がくず折れて屋上に倒れ込む。色々と限界だった。

 ひどく疲れたなと思いながら、イチカは瞼を下ろした。

蓮太郎(二巻)「民警が民警を雇うなんてこと、あるのか?」

  • トイレ行ってたから聞いてないぜ
  • 数ヶ月前のことなんて覚えてねえぜ
  • (常弘と朱理が存在しない世界)
  • うるせえ
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