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室内を巡る暖房はイチカには効き過ぎていた。断熱効果の薄い窓際に擦り寄るようにして外を見やると、アスファルト一面に白い絨毯が敷かれていた。横断歩道の脇に立つ信号機の屋根から白塊が崩れて落ちる。
雪が降っていた。
道を過ぎる市民たちは身を強張らせて我先へと足早に足跡を残して雪を踏みつけていくが、降りしきる雪がすぐにそれを補完していった。
「じゃあそいつは未踏査領域に消えてったんだな?」
イチカはファミレスの窓から視線を引き剥がすとテーブル向かい側の蓮太郎に言葉を返す。
テーブルにはプラスチック製のカップが四つ。ポテトとハンバーガーの載ったバスケットも四つ置かれている。
「はい」
キツネとの空中ダンスを終えたイチカはあの数十分後に救助された。屋上からビルのエントランスに担架で運び込まれたイチカはそこでヒフミと合流。その頃には『呪われた子供たち』特有の治癒力で軽い運動ができる程度には回復していたので、ヒフミに連れられる形でこのファミレスに入った。焼肉の方が良かったな、お肉食べたいなとは思ったが言わなかった。ハンバーグは肉じゃないとイチカは思っている。
そこには何故か蓮太郎と延珠もいた。
事情を聞けば、あのホールのガストレアを駆除し終え解散するタイミングで「この後空いてる? てかお茶しない?」と蓮太郎と連絡先を(勝手にイチカと延珠の分まで)交換し、彼らをこのファミレスに呼び寄せたらしい。イチカが重傷を負っているときにヒフミは逆ナンしていたということになる。
「じゃあ日頃いるのも未踏査領域ってことか? エリアのどこかに潜伏してる訳じゃなくて」
「いえ、それは早計だと思います。私の追跡に気づいて、一旦未踏査領域を経由しただけかもしれません。派手に攻撃に回らず、追跡に専念すべきでした」
「『ガストレアには知能は存在せず、ただ生得的な本能によって行動する下等生物である』って教科書に載ってるけど?」
カップを両手で持つヒフミに、イチカと蓮太郎が首を振った。
「確認ができてねぇだけだ。奴らの中には時々人間以上に賢い個体がいる。プロモーターを続けるなら、早いとこそう考え直したほうがいいぜ」
「はい。死ぬので」
「え、守ってくれないの? 一緒に戦うのに?」
「いや守りはしますけど……」
既に五度守れていない。
とにかくとイチカは喉を鳴らした。
「アラートが鳴ったのは第二区という内地。エリア内に潜伏場所があるとしても、そこから第二区までの間でなぜ発見されなかったんでしょうか」
「……潜伏場所が第二区だからじゃないのか?」
「ならば今までの出現に疑問が生じます。潜伏場所と『子』の発生地点との間で目撃はされていない。どれも点として、現場で目撃されています。移動経路という線ではない」
「…………わからん。誰の目にもつかない場所がそうたくさんあるとも思えないしな」
「あるいは、認識されない移動経路を持っているか」
蓮太郎が片手で髪をくしゃくしゃに掻いて、何かに気づいたように背筋を伸ばした。
「そもそもあのビルに現れた個体が俺たちの追ってるキツネとも限らねぇよな? なんせ今までの出現で補足されていない」
「それに関してはあれが倒さなきゃいけないキツネって解釈で問題ないと思うよ」
「根拠は?」
うーんとヒフミが顎に手を当てて唸る。
「とりあえず倒してみて、それで同じようなケースが発生しなかったらキツネってことで」
「それこそ確認できてないだけで、実はキツネは潜伏し続けていたってオチにならねぇか?」
「なっちゃうねぇ。このまま倒してもシコリは残っちゃう」
困った困ったと、全く困ってなさそうにヒフミが笑った。
イチカはあれこそがキツネだと直感で確信しているが、あくまで無根拠なので押し黙るしかない。
「……今回の襲撃に話を戻しますか。方法についてはやはりわからない部分が多いですけど」
キツネがなぜあの場に現れたのか。ガストレアが知能を有するのは現場では半ば常識だが、それにしても民警戦力が集まったあのビジネスビルに急襲をかけるのは異常だ。
ガストレアが招集場所を感知する道理がない。そもそも集まっていることをなぜ察知できるというのか。
それにやはり内地の高層ビルへの急襲も気になる。
未踏査領域から一直線であの場に突っ込んだ訳でも、どこかの潜伏場所から飛び出してきた訳でもないのは当時の民間人のSNS投稿から確認している。第二区に突然現れたのだ。
イチカが考えつくのは、監視網に察知されない超高域飛行で未踏査領域から第二区直上まで向かい、そこで急降下して襲撃するくらいのものだ。
ありえないなと内心でかぶりを振る。
知能があるとしても計画的すぎる。そもそもなぜそんな真似をするというのか。潜伏場所があるという疑いを無駄に持たせる効果しかないではないか。
だが、と蓮太郎が言葉を続ける。
「だが、理由、つまりはなぜ襲ってきたのかについては心当たりがある。フェロモンだ」
「フェロモン?」とヒフミ。
「それなら妾も知ってるぞ。イロケというやつであろう?」
「延珠が言ってるのは『性フェロモン』ですね。同種の異性を誘引する力があるから、よくガを引き寄せるトラップなんかにも使われてます」
「なるほどヒフミが出してるやつだな」
さらっと延珠は蓮太郎をガ扱いした。
「出してないよ」
「どうだ蓮太郎、妾にもセーフェロモン感じるか?」
「十年早ぇよアホ」
「わかった。蓮太郎が性的に発達しきるまで待ってやる」
「俺はもう十分発達してる。お前には早いつってんだ」
「ホッとしたぞ。前に風呂で見たのより成長されると妾としても困る」
頬を染めながらの延珠の発言に、ヒフミが顔を真っ青にして尻を浮き上がらせる。
「ちょ、ちょっと! お風呂で何してんの!」
「してねぇよ何も! コイツが言ってるのはたぶん俺の筋肉だ」
「え、筋肉でできてるの? 肉体改造したの?」
「してねぇよ! 子供の前で何言ってんだアンタ」
「そもそもなんで筋肉丸出しにしてるの? 絶対、絶対っ、えっ、えっと、とにかくっ、あれなやつじゃん!」
「全裸だからだよ。風呂に入ってたんだから当然だろ!」
「ぜ、ぜんら〜〜!?」
単語ひとつで情報処理をやめたヒフミが顔を真っ赤にしてダウンした。
「なぁなぁ蓮太郎。いい加減妾と一緒に風呂に入らないか?」
「入らねぇよ。お前一人で入れるだろ」
「相棒同士、そういうこみゅにけーしょんも必要だぞ。なあ他の家でも入るだろ、イチカ?」
視線を空に放って記憶を探る。
確かに前の相棒の中にはイチカと共に風呂に入ろうとした者もいた。全員ぶん殴ったが。
「入りますね」
「は、入るのか……」
呆然とカルチャーショックを受ける蓮太郎から見えない角度で、延珠が悪い笑みを浮かべた。なにか、余計なことをしてしまったような気がする。
蓮太郎がストローを咥えながらぼやく。飲み終わると、つまりだなと言葉を続ける。
「これまでの討伐中に民警に付着したフェロモンを辿ってきたんじゃないか? あの場には『子』の駆除をおこなった民警が多くいた。お前もそうだろ」
蓮太郎が皿のポテトを二、三本一挙に摘む。
イチカは顎に手を当てて思案する。
「……なるほど。ありえますね」
「あれがキツネって仮説が正しいとするならだが、アリの『道しるべフェロモン』を連想したんだ。
働きアリはエサを発見したとき、その道しるべフェロモンを分泌しながら巣に帰るって知ってっか? フェロモンで巣とエサの間に道を作るんだ。すると他のアリもエサの場所を感知して集合。各自でエサを担いで巣に貯蔵する。
フェロモンは極低濃度で機能するから鼻じゃ検知もできねぇ。イニシエーターでもよほど鼻が良くないと無理だな」
「私たち民警はエサってことですか」
「安心しろ。黙って食われるつもりはねーよ」
しかし自分でフェロモンをつけ、それを時間差で利用して襲撃までするだろうか。知能がある、という言葉で片付けてはいけない意図を感じる。
「しかしお前もよく知ってんな。ファーブル昆虫記とか好きなのか?」
「いえ特には。強いて理由があるとすればIQの高さですかね。二百あります。知能が溢れ出ちゃってもうすっかり大人です」
その態度に蓮太郎は勝ち誇ったようにふっと息を吐く。
「そういうところで謙遜するともっと大人に見えるぞ。まだガキだな」
「誰が鳥頭のアホガキですってッ」
「俺そこまでは言ってねぇよ」
そのとき着信音が鳴る。蓮太郎は懐から携帯端末を取り出し画面を覗くと、苦虫を噛み潰したような顔をして席を立つ。
「悪ぃ。ちょっと出てくる」
延珠もぴょんと跳ねるように席を立った。ツインテールが不機嫌そうに揺れる。
「さては木更だな? 顔がニヤけていたぞ」
「この顔がニヤけ面に見えんのかよ」
「いや、不幸面に見える」
「顔面から滲み出てるってか。そこまで絶望的かよ、俺は!」
「妾も話す! テイクアウト何がいいか聞くのだ」
「……グッ。絶対面倒になるからやめてくれ。たまのインプットに贅沢しただけなんだ。ずっと味合わなかったら忘れちまう。お前だって家でハンバーガー食べたいだろ? でも絶対突っ込んでくる」
「材料もやしだけでハンバーガーが作れるのか? お肉とか滅多に買えないだろう?」
「ムリだ」
「ムリではないか!」
二人を急かすように鳴り続けていた着信コールが、不意に途切れる。
「これは怒るな」
「まずい。行ってくる!」
そういうと二人合わせて店頭に飛び出していった。
「……騒がしい人たちですね」
「楽しそうでいいと思うよ」
「ちなみにあなたも含めて言ってます」
「やめてよ照れる」
褒め言葉に聞こえたらしい。
ヒフミがほっと息を吐いて、イチカの体を見やった。
「でも大怪我じゃなくてよかったよ。頑丈なんだね」
「…………これでも結構しんどいんですよ。今も身体中ぽきぽき鳴ってます。それに、正確には頑丈だから、ではなく再生能力があるからですね。あなたが会いにくる直前は血みどろスプラッタでした」
「えっ、そんなすぐ治るの!」
「治ります。むしろ私は遅い方です」
「人によって違うの?」
「そうですね。……いい機会だから教えておきます。基本的に『呪われた子供たち』の再生能力は因子に大きく依存しています。それでも再生速度はガストレアには遠く及びませんし、再生できる範囲も限界も同じくです。まあ、因子によっては死んでも生き返るような子もいるかもですけど。
ただ、これは私の経験則なんですが…………侵食率が高くなるほど再生能力は上がります。大人たちは個人差だと言ってますけど、絶対に違う。同じ因子、スペックを持った者同士で比較できることがないから分からないんじゃないかな。それだけガストレアに近づいたってことなんだと思います。
だから、異様な再生能力を見たら寿命が近いと考えていいです。外周区で暮らしてたとき、そういう子をいっぱい見ました。これ、たぶん教科書には載ってません」
「じゃあ遅い方のイチカちゃんは長生きできるね」
「それだけ長持ちする道具ってワケです。存分に使ってください。プロモーター」
「そうくるかー、あはは……」
半ば考えなしに嫌味が飛び出てしまった。困ったように笑うヒフミを見て、しまったと舌を噛む。イチカの対人能力はほぼ最低レベルにあった。
話題がなくなり、気まずい沈黙が流れる。
ビジネスビルでの一件でイチカはヒフミの静止を無視して無謀な真似をした。イニシエーターはプロモーターの監督下に置かれるべきなので、これを理由にペア解消というのもあり得る。
それは、イチカとしては避けたい事態だった。今、離れるのはダメだ。
通路側に座るヒフミから顔を背けるようにして、窓をぼうっと見る。母親と手を繋いで歩く子供が、楽しそうな足取りで雪の絨毯に足跡を残していた。その足跡は、すぐに降りしきる雪で覆われて消える。
「イチカちゃん、見て見て!」
騒がしい声に振り返るとヒフミが右手で右目を覆って、左手でフォークを握りしめていた。
こちらが向いたのを確認するとフォークを思い切り右目に突き刺す。赤い液体がぶしゅっと飛び出る。
「え、なに、なんですかッ、大丈夫ですかッ?」
仰け反りながら驚くこちらを見て、ヒフミが笑いながら右手の平を開いて見せる。はち切れた調味料の小袋があった。
「たらーん。ケチャップでしたー」
前言撤回。さっさと離れたくなってきた。
「食べ物で遊ぶのやめませんか? 腹立つので」
「ご、ごめん。他の子には受けたんだけどな」
「まずケチャップ如きを血と見間違えるヒトなんていませんよ。悪趣味な子供騙しです」
「……いやさっきキミ」
「なんですか。なにか言いたいことでもあるんですか」
「なんでもないよ」
普通胸元あたりも汚れそうだが、指先以外ケチャップの手は免れている。ヒフミはウェットティッシュで指先だけ拭う。
「イチカちゃんって外見るの好きだよね」
よく見ればテーブルの上には四つのグラスが新たに現れていた。ヒフミがいつの間にかに持ってきたらしい。窓を見ていて、ヒフミが席を立っていたことにも気づかなかった。ドリンクバーで適当に選んできましたといったレパートリーだった。
よく考えればお嬢様のはずなのに庶民的なファミレスに慣れすぎな気がする。いわゆる不良お嬢さんなのだろうか。
「…………いえ。ただこの人たちは今もエリア内にキツネがいると知ってるのか、気になっただけです」
「それなら知らないと思うよ」
「は?」
一瞬、聞き間違いかと思った。
「消息が掴めていないガストレアがどっかにいます、なんて皆知ったらパニックになるからね。民間と政府が連携して情報は統制してる。たぶん事件が解決しても、それなりの機密レベルで秘匿されるだろうね。
イチカちゃんはいなかったけど、あのあとその辺の説明があってね。蓮太郎くんは怒ってた。民間人を他所のエリアに移すべきだって。パニックは必要経費と割り切る考え方だね」
対処できない危険なら伝えずに内々で処理する。
市民の心の安全を考えるならそれが一番なんだろうか。少し納得できない気持ち。
イチカはそれを無理やり飲み込んだ。いつもしていることだった。
「忘れてしまいそうになりますけど、東京エリアの平和と破滅の均衡は常にギリギリなんですね。だから暗い手を使ってでも保つしかない。戦いもしない彼らには理解してと頼んでも無駄でしょうが」
「んー、それは違うと思うな。彼らはちゃあんと戦ってると思う」
「何とです?」
「目に見えない不安や恐怖と。とっても手強い敵だよ。目に見えない敵に、勝利は見えないから」
ヒフミがイチカにグラスを差し出して笑みを作った。
「だから、ここは一旦勝ったんだって思えるように、小さな勝利を掴み取って見せてあげないと。彼らがまた、信じる強さを取り戻せるように。きっとその先で『呪われた子供たち』も受け入れられると思うから」
イチカは聞いていて胸の奥がむず痒く感じた。
どうしてこの女は恥ずかしげもなくこう言うことを言い切ってみせるんだ。どうして。
決まっている。彼女は何も知らないからだ。
気付けば灰色の感情が喉を突いて出ていた。
「あなたみたいな夢見がちな情熱を持っている子、IISOにも少しはいましたよ。でもほとんどは抑制剤や満足な食事を手に入れるために入った子でした。
自分が生きるためにです。社会がどうとかじゃない。私もそうです。
私はそれが悪いことだとは全く思いません。むしろ自然なことだと思います」
それは止まらなかった。
「それに、一般人は日々の生活に追われて民警の活躍なんか目にも留めませんよ。留めたとして、彼ら視点ではその『小さな勝利』とやらは平常運転、あって当然のものにたちまちすり替わる。いえ、既にすり替わっている。
イニシエーターが、いえ同じ人間であるプロモーターが殉職しようと素知らぬ顔で居続ける。払った犠牲に見合った変化は決して訪れない。足跡は残らない。世界は善人では溢れていない。
あなたのそれは──綺麗事ですッ。そんな理由で民警になったなら今すぐやめてください」
言葉の速度が跳ね上がって。
言い切ってから、すぐにしまったと息を呑む。熱くなりすぎだ。口論をするつもりなんてなかったのに。
ヒフミの発言を否定したくなる気持ちが胸の底で震えていた。心を乱されていた。
注文を運んできたウェイターが空気に耐えきれずUターンする。
ヒフミがすっと息を吐いて瞬きをした。人形みたいなまつ毛が照明を受けて光を返していた。
「善人だから善行を積むわけじゃないと思うんだよ。万全な環境にあって、他人を助ける余裕を捻出できるから良い事をするんだ。それができる人を善人と呼ぶんだ。自分の身を顧みることなく善行を働けるのは、きっと聖人と呼ばれる類の人だけだよ。聖人は、確かに世界で溢れてはいないね」
ヒフミは自分の言葉を再確認するように一音一音をはっきりと発話した。
「でもみんなに余裕ができれば、それだけ誰かを助けられる誰かが、善人が増える。『呪われた子供たち』も『奪われた世代』も関係なく」
「…………」
「イチカちゃんの言う通り、綺麗事だね。あはは」
頬に手を当てて困ったようにヒフミが笑った。
違う。そんな顔をさせるつもりじゃなかったのに。
何か言わなければとぐちゃぐちゃの思考から言葉を探す。なにか元気づける言葉。
「本当に実現したいなら、民警ではなく政治家を目指すべきでしょう」
「……うん。やっぱりそうだよね。お父さんにも言われたよ」
ばか。今かける言葉はそれじゃない。
「…………それで変わるのは、ご近所さんレベルですよ」
「……うん。そうだね。でも、絶対に無駄じゃないよ」
そう言ってのけるヒフミの表情はもう儚さなど感じられないもので。
そこでイチカはそれ以上見ていられなくなった。
目を伏せて立ち上がる。驚いたヒフミの制止を振り切り、一人店外へ飛び出た。
店頭に並ぶノボリ旗を突っ切ると横合いから「おい会計はッ」と蓮太郎が裏切られたような表情で見ていた。