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あれ以上ヒフミの言葉を聞いているとどうにかなってしまいそうだった。
ヒフミが話すたび、心の奥底でどうしようもない感情が昂ってくる。無性に切なくなって、目を抑えたくなってしまう。
真っ白な雪が肩の上につもるのも気にせず、イチカはただ歩き続けていた。舗装されたコンクリートの道の脇は殺風景な家屋から次第に崩れた廃墟に変わり、とうとう剥離して粉末が散らされた土の面になった。不思議なことに道路だけはずっと綺麗なままだった。
イチカの足が向かっていたのは東京エリア外縁部、モノリスに近い外周区だった。かつてイニシエーターになる前に住んでいた下水道を無意識のうちに目的地としていた。
東京エリアは四十三区制で構成されている。第一区の聖居を中心として数字が大きくなるほど外縁に向かう。イチカが住んでいたのは第四十三区、つまり東京エリアの端の端。未踏査領域から侵入するガストレアは多く、それだけに危険には対処を余儀なくされた。廃墟から適当に見繕った農具は当然バラニウム製ではなく、戦うのは心底骨が折れた。隠れるように下水道へ身を隠すのは道理だった。
逃げているなと自分でも思う。ヒフミにも、自分に対しても。
目的地である第四十三区へと繋がる鉄橋が目の前に伸びる段階になって、ようやくイチカは心の平穏をわずかだが取り戻すことができた。
戻ろう。そして謝ろう。彼女を気に入らないならそのままでもいい。でも逃げ出すのだけは、だめだ。
振り返り、気合いを入れ直そうと頬を叩くとぴしゃりと良い音が鳴った。
そのとき視界の端、廃墟群の隙間を見覚えのある防寒フル装備のボブカット少女が通り過ぎた。イチカの元同僚にして幼馴染、荊都椋だ。
まさか頬を叩いたのを見られたかと恥ずかしくて顔を赤くしかけるが、対するムクはイチカのことなど感知していないようだった。ムクは病的なまでにふらふらと体を揺らしながら足を進める。
心配になって呼びかけるがイチカの方など一瞥もせずに廃墟のひとつに入っていった。
いよいよ本気で心配になってきたイチカはムクを追って件の廃墟の中に足を踏み入れる。
中にはホームレスが暮らしていたのか弁当の箱類やペットボトルが散乱して腐臭が漂っていた。鼻腔を刺すツンときつい悪臭に鼻頭に皺を寄せる。だが腐臭以外に、外周区時代に嗅ぎ慣れた下水道の匂いが微かながら混ざっていた。
ムクの残り香だろうか。あるいはムクもまたイチカと同じくあの実家とも呼べる下水道に里帰りしたのかもしれなかった。
気にせず、スニーカーの底でゴミを踏み潰しながら進んでいく。
いや、その二つ以外にもまだ……。
「なんですか……これはッ」
目の前の景色に思わずまなじりが裂けんばかりに開かれ細い悲鳴が出る。三つ目の匂いの正体は目の前で壁に寄りかかっていた。
腹部を赤く染めた男の死体が項垂れていた。
年齢はおそらく三十代半ば。腰にはガンポーチが取り付けられている。自衛のために銃の所持が許された現代においても携帯は御法度。それが許されているのは警察、自衛隊ともう一つ、民警のみだ。
イチカの脳裏に男の土手っ腹を大鎌で抉り抜くムクの姿が過ぎる。
ゾッとした直後、男の腹部に見える赤に混じった紫色の液体が視界に映り別種の悪寒がする。
ガストレアの体液。ウィルス注入。
経験からしてこういうときの直感は外れない。
瞬時に身を翻して地面を蹴り後方、廃墟の扉を通り過ぎて外へと転がり出る。飛び出したのに一拍遅れて廃墟の壁が爆発したが如く粉砕破裂。
舞い上がる砂塵の中から有翼の異形が姿を表す。
有翼のガストレアである。あの男は感染したのだ。感染源は? まさか、ガストレア化したムク?
その翼に一瞬ムクが形象崩壊を起こしたのではと恐ろしすぎる想像をするが、違う。
プロレスのマスクを被ったような白い頭部に漆黒の胴体。カギ状に曲がった嘴は鋭利極まる。最近も見た特徴を持つこのガストレアはモデル・イーグル。ワシだ。
ならばカラス因子のムクは関係ない。
安堵に胸を下ろすが、であれば感染源はどこに消えたというのか。
反射的に背負いギターケースのハンドルを握り締めて。
ふと。
なぜ必死になってガストレアと戦おうとしているのか。
そんな疑問がイチカの脳内を跳ね返った。
ヒフミには生きるためだと答えた。事実上の寿命を伸ばすには浸食抑制剤が必要で、得るにはイニシエーターとなるしかない。だから生きるためには戦わなければならない。
それは確かに事実だったが、監督役が見ていない領域でまではその限りではない。だからこの瞬間だけはイチカは戦わずともよかった。
でも選択肢には逃走など最初から最後まで浮かばなかった。それどころかイチカの足は自然とガストレアに向いていたし意識の九割は戦闘用に切り替わっていた。ただ残る一割だけが立ち止まっていた。
それが、まずかった。
肌が気体の微細な振動を捉えその先、背後を振り向く。
そこには巨大化したヘビがいた。シンプルな造形、おそらくステージⅠだ。
針のように細く赤い舌をチロチロと見せたヘビガストレアは地面を這い回り螺旋を描いてイチカを囲い、その領域を一瞬で狭める。おそらくこのまま締め付け圧死させたあと時間をかけて丸呑みするつもり。
だがそのスピードはイチカに比べれば数段遅い。
瞬時に目を赤くさせ覚醒状態に移行したイチカは地面が砕けるのも構わず強く蹴り付けると高く跳躍、トグロの範囲から抜け出す。
が、ヘビガストレアのヒモ状胴体が揺れるとほぼ同時にその巨体が跳躍。空中でその胴をまるで地面を這うようにしてうねらせながら迫る姿を見て、イチカは自身の判断ミスを悟り顔色を失う。
空中で身を這わせる特徴的な動き。このガストレアはトビヘビの因子を持っているのだ。
まずい。食われる──。
「ハアアアアアアァァァッ」
突如として隕石もかくやという非常識な速度でオレンジ色の影がイチカ目の前の擦過。
飛行するヘビガストレアの頭部にパァンと音を立てて直撃し、インパクト音と共に大気が揺れ撒き散らされた衝撃波が周囲一体の砂塵を吹き飛ばす。
ヘビガストレアはその頭部をコンクリートに叩きつけられ断末魔もあげずに一切の動きを見せなくなる。
下手人たる少女、藍原延珠はツインテールを振り落として地面に足から着弾し、衝撃で砕けた建材が巻き上がる。
延珠は赤く輝く瞳で廃墟のワシガストレアを一瞥。
片足だけで小さく跳躍し空中で身を捻りざま、巻き上がっている瓦礫の一つに跳び回し蹴りを叩き込む。
弾き飛ばされた瓦礫が、飛びあがろうとしていたワシガストレアの胸部へ狙い過たず着弾、鋭い破片が肉に埋まり込み噴血する。
のみに留まらず続けて三度の瓦礫射撃によりその機能は完全に破壊された。翼を動かす筋肉は裂けてしまったのでしばらく飛び立てまい。スピード特化型のイチカをして舌を巻く運動速度と的確な判断。
全てが終わった後になってイチカはようやく着地した。
「延珠、なんでここにッ」
「追ってきた。急に飛び出したのだろう? 心配したぞッ」
そういう割に延珠の口には白いヒゲが可愛らしくついていた。牛乳は飲んだらしい。
直後ガゴンという音が鳴りイチカと延珠の立つ地面が一転して影となる。
ハッとして見上げると先の大格闘の余波で廃墟に亀裂が走り、二階部分の建材がこちらめがけて落下していた。
イチカは咄嗟に延珠を連れて避けようとするが、延珠は気付いていながら動かない。
「────天童式戦闘術一の型十五番ッ」
横合いから飛び込んだ黒い影がイチカと延珠の間に風を纏って割って入る。
青年、里見蓮太郎が地面を踏み鳴らし腰を落とし、足元の砂塵が螺旋を描く。
身を捻るとほぼ同時に放たれる掬い上げるような神速のアッパーカット。それは滝を登る魚が水という制限を超え峰に掛かる雲まで飛翔する様に似ている。
「『
武術家の研ぎ澄まされた拳打が芯を通り抜け瓦礫は粉砕。真っ二つに割れた破片はイチカらを避けて地面に落ちる。すごい。
蓮太郎はすぅっと息を吐いて残心を解き、延珠に向き直った。
延珠が自慢げにイチカに微笑んで、蓮太郎の胴に抱きつく。
「カッコよかったぞ蓮太郎ッ。さすが妾のフィアンセだ」
蓮太郎は懐にある延珠の頭に手をぽんと置く。
「延珠、お前わざと避けなかったろ。俺が間に合わなかったらどうするつもりだったんだよ?」
「蓮太郎は間に合う。正義の味方だからな」
「お前ってやつは……まったく」
そうボヤく蓮太郎の顔はまんざらでもなかった。
「その……怪我は大丈夫ですか」
「俺? 怪我なんかしてねぇぜ。ちゃんと芯を──」
視線に気づいた蓮太郎が忌々しげな表情で右手を見るとその顔を背ける。
蓮太郎が瓦礫を粉砕させた右手の、その四指の付け根あたりが裂け、奥からブラッククロームの光沢が露出していた。
「なんでもねぇから詮索はやめてくれ。……それよりお前の相棒も連れてきてる。早く行ってやれよ」
「そうだぞ、妾の体越しにイチャイチャしていたのだ」
「コイツ、俺を背負いながらあいつを抱き抱えて跳んできたんだよッ。意外と器用だろッ。延珠お前ッ、変なこと言うなよなッ」
「いいやイチャイチャしていたッ」
「してねぇッ」
「あ、こりゃしてますね。汚いな。どこまでいったんです? まさかもう手も繋いでッ? い、いやらしいですあなたを軽蔑しますッ」
「だからしてねぇってッ。あ、いや、落ちないよう手は掴みはしたけどよ。あいつ怒って顔真っ赤にしてたぞ」
「ほらイチャイチャしてたッ」
「不安定だったんだから仕方ねぇだろ許容してくれッ」
肩を怒らせながら拳を握り締めて蓮太郎が震える。
そのとき地面が軋む音が鳴った。
見れば上半身を地面に擦り付けたワシガストレアが這って左右の家を壊しながら逃走を開始していた。
「逃がすかよッ。──なんだッ?」
シャーと特徴的な叫びが鼓膜を叩く。
延珠の脚撃により沈黙したはずのヘビガストレアが鎌首をもたげ臨戦体勢を取っていた。が、やはり延珠レベルのイニシエーターによるダメージは重いらしく頭部を持ち上げるのにやっとといった有り様だ。
「こっちは俺たちが片付ける。だから先にいけ」
ベルトから拳銃を引き抜くと蓮太郎は油断なく構えつつヘビガストレアに照準。
「任せます。任されました」
彼らならステージⅠ如きに遅れをとるはずがない。イチカは意識を一瞬でワシガストレアに向けて疾走を開始する。
もちろんヒフミの存在は忘れていなかった。この先にいるという根拠のない確信があった。イニシエーター特有の条理を超えた第六感がそう告げていた。
果たしてそれは違いなかった。
大通りを右に曲がったワシガストレアに追いつかんとショートカットの要領で跳躍して廃墟を飛び越える。体を締め上げる強烈なGの直後に身を包む浮遊感。視線の直下、家々の隙間の細い裏路地にヒフミと見覚えのない少女を発見する。
家屋を見渡して都合のいい接地場所を見定める。傾度のある三角屋根へいったんの接地、衝撃を斜め下へと逃しながら滑るようにして路地裏へ転がり込む。
「ヒフミさん、その子は?」
突然の落下イチカに見覚えのない少女が絶句した。
対するヒフミはまったく驚いていなかった。割と神経が太めなのかもしれない。
乱暴な別れをしたばかりで気まずくなるかと思ったが、ガストレア出現という緊急時にそうはならずに済んでよかった。ヒフミもまた民警として値する精神構造をしている。
「イニシエーター。プロモーターを、その、なくしたらしいよ。だよね恵ちゃん」
言いづらそうな言葉に発声を一度止め、ヒフミは沈痛げに顔を陰らせる。
恵という少女はイチカの視線を受けるとこくりと頷いて肯定して見せた。
脳裏に廃墟の中で発見した胴を貫かれた男が過ぎる。彼は民警で、彼女の相棒だったのか。
イチカは眉をひそめた。
相棒を失ったときの感情を何度も体験してきたが、目の前の少女の無反応さに違和感を覚える。
イチカはかぶりを振った。悲しみの対処法は人それぞれだ。違和感を抱くのはナンセンスだった。
「彼なら知ってます。廃墟の中で見かけました」
恵は縮こまるようにして頷く。視線は地面を舐めている。
こういう消極的な反応を、イチカは前に見たことがある。諦念を心の中央に置いた人間は、外界からの刺激に反応を示さない。
あるいはこれが恵という少女の、相棒を失ったことへの反応なのかもしれない。
そう納得すると恵が不憫に思えてくる。
「……崩落したので会うのは難しいと思います。ごめんなさい」
「…………」
恵は薄く口を開け、何事か発声する。だがイチカの聴覚では捉えきれなかった。ショックが抜けきれていないのか。
「イチカちゃん。彼の仇を取りにいこう」
「はい」
ふんすと鼻を鳴らすヒフミが、今は頼りに思える。
「恵さんは、私が担ぎます。……失礼」
恵の矮躯を背負おうと手首を掴もうとして。
逆にきゅっと引き締めるように手首を握られる。
思いがけず力が強い。感情の抑制が効いていないのか、無制限の握力がかかりイチカの手首がみしみしと軋む。
「……あの、痛いんですけど」
恵は夢遊病者のようにゆらゆらと顔をあげる。
その表情を見てイチカは思わず呻いた。
恵は眉間に深く皺を寄せ、眉弓の影に浮かんだ目からは涙が出ていた。恐怖と諦念が刻まれた表情で、今も絶えず口を薄く開いて何事かを呟いて。
ここでイチカは、恵が先ほどから繰り返していた無音の発声内容を知る。
「怒られるの。ごめんなさい」
「えっと、意味がよく……」
言い終わる前に路地裏の突き当たりで影が動くのをイチカの広い視野が捉え、反射的に身構える。
飛び出すようにして現れたのはカーゴパンツを穿いた男だ。その手に抱えているものを見てイチカは目を剥く。
ドイツのヘッケラー&コッホ社が十七年に開発したアサルトライフルHK433である。およそ軍用小銃の完成系とも呼べる熟練した設計から、生産開始から十数年経とうというのにガンナーからの支持は厚く、愛銃とする民警も多い。
銃口の先はこちらを、イチカを指していた。
窮地を前に知覚できる時間が数倍に伸びる。
男はストックを肩に押し込んで、頬を寄せて照準。
一目でこちらに殺意があると知れた。犯罪者崩れが多い民警の中には他の民警を殺害して手柄を独り占めしようとする輩がいる。
自分で思考するタイプのイニシエーターを不意打ちで殺すのは民警間戦闘では定石。
この場ですべきことは分かっていた。回避と相棒を安全な場所へ移動させること。
イチカは咄嗟に隣のヒフミを抱きかかえようと手を伸ばし、
不意に後ろへ引かれて、その手が虚空を過ぎる。
首だけで振り向くと恵がイチカのもう片方の手首を強く掴んでいた。目が合う。少女は冷め切った表情。慣れが伺える。
「怒られるの。ごめんなさい」
「お前……」
イニシエーター同士、ましてスピード特化型のイチカは大した筋力は持っていないため、恵の膂力によって完全にその場でピン留めされた。
先ほどの違和感に合点がいく。
恵の相棒は廃墟の遺体ではなく今現れた襲撃者だろう。おそらく廃墟の遺体は彼らの手にかかった被害者。
恵の恐怖と諦念の浮かんだ顔を見るに、彼女はプロモーターの道具として調教されているのかもしれない。
だがその先を考える余裕は今のイチカにはない。
銃口は変わらずイチカを睨んでいた。回避しようにもイニシエーターの力で動きを封じられている。軌道を読んで細かい動きで避けるというのは大雑把なイチカにはできない。大鎌を満足に振るえれば致死軌道の弾丸を二、三発程度叩き落とすことはできるだろうが、この状態ではそれも不可能だ。
とれる手段がなかった。もう笑っちゃうくらいどうしようもなかった。
だからイチカは諦めて目を閉じた。
そして柔らかい感触に包まれた。体のコントロールが全て奪われて体勢に微調整が入る。
「もう動いちゃダメだよ。当たっちゃうから」
「えっ──?」
見れば目の前にはヒフミの柔らかい体温があった。銃口からイチカを隠すようにして鼓動が重なるほど近くに抱き寄せている。しかしその目は銃口を凝視している。
直後にタイプライターの打鍵音に似た銃声が連続し、弾丸が大気を削りながらイチカ、その前で壁となるヒフミへと殺到。
ヒフミが危ない。ぎゅっと目を瞑る。
ソニックブームが耳元を擦過し、しかしイチカに痛みはない。何が起こった。
全ての弾丸が外れていた。
正確にはイチカが寸前身を置いていた空間は削り取られているし、イチカたちを通り過ぎた弾丸は背後の家屋に埋まり込んでいた。
プロモーターの練度が低いためか。一発二発ならそれもあるだろうが、知覚できただけで数十発の弾丸が放たれている。現に男の小銃は撃ち切りでマガジン一個分の弾丸が発射されていた。その全てが外れるなど奇跡が起こりでもしない限りは。
しかし現実に、弾丸は外れた。
目を疑う結果に一瞬、イチカも恵も、襲いかかってきたプロモーターでさえ思考が凍結。
ただ一人ヒフミのみが動く。
いつの間にかに握っていた
遅れて思考を取り戻した男が撃ち切ったライフルを放棄、太もものサブアームに手を伸ばす。思い切りがいい、練度はそれなりにある。
しかしヒフミがトリガーを引く方が早い。
三発の銃声が耳朶を鋭く叩いたと知覚したときには既に一発が男の手を穿ち拳銃が落下。残り二発が肩とふくらはぎを貫き、男が痛覚反射で引き倒れる。卓越した射撃精度に理解が遅れる。
イチカの中にあった楝ヒフミのイメージが現実を拒絶していた。
銃弾が外れたのではなく、銃弾を全て避け切ったという不可解への強引な理解が一周遅れてイチカの頭蓋を貫いた。銃弾が発射されてからでは当然遅いが、トリガーを引く指の動きで弾道を予測し、反動による跳ね上がりや誤差を含めて算出した全軌道から身を引きさえすれば理論上は可能。
そんな馬鹿なこと起こるか。
「まだだよイチカちゃんッ」
ヒフミの叫びで反射的に拳を握る。
あ、と声を漏らして恵がイチカの腕を離して重心を後ろへ。全力逃走の姿勢に入る。
だがイチカの身体操術の方が速い。ヒフミへと向けていた手を一転、恵の頬へ鞭打ちの如く叩きつける。地面を踏み締めていない状態で放つ拳打は、しかし着弾と同時にイニシエーター特有の超膂力を余さず伝達。恵の脳をシェイクし、肉同士の衝突音を置き去りに、その矮躯を遥か後方、ある家屋の壁へ激突させて壁面陥没。壁内に埋まり込んでようやく止まる。
吹き出した砂塵の中、仰向けになって痙攣する恵を視界に収める。彼女もまた被害者なのだろうが、拘束する必要があった。
振り返ってヒフミに向き直る。
「イチカちゃん」
「はい。『まだ』ですよね」
背負ったギターケースから大鎌を抜き出しざまに各部を展開。カラスの嘴めいた三日月型の黒刃が空気を切り裂いてあらわとなる。
直後に背後から腹の底を突き上げる地響きが伝わり足元を揺らす。イチカとヒフミを巨大な影が覆い、爆裂音と共に建材の破片が飛び散り弧を描いて傍に落ちる。
足を踏み換え身を捻って背後へ向き直る。
翼を失ったワシガストレアが家屋を薙ぎ倒しながら這い迫り、二人を食い殺さんと大口を開け叫びながら頭部を前に突き出していた。突進の勢いは凄まじく、口から吐き出される耳をつんざく雄叫びは威嚇か断末魔か。
回避は考えない。背後にはヒフミがいる。
足を地面に擦り付けるようにして小さく開脚、埃を舞い上がらせながら腰を下ろし強く踏み締める。野球選手のバッティングフォームよろしく大鎌を上段に振りかぶる。背後で漆黒の刃がガストレアの赤目を鈍く反射する。
最適な間合いにガストレアの頭部が突き入るのと同時に大鎌が螺旋軌道を開始。
大気を切り裂いて大鎌の切先は狙い過たず脳天を直撃。『呪われた子供たち』特有の膂力によって生み出された極大モーメントが切先一点に収束、強靭な頭骨に抵抗なく埋まり込む。飽き足らず衝撃がガストレア体内を伝播し抉り抜け、その肉体を斜め真っ二つに切り開く。
両断された死体はイチカとヒフミを避けるようにして両脇にそれぞれ逸れてアスファルトを削る。摩擦による制動を受け、しゅうしゅうと肉が焦げる匂いを発して完全静止。
死亡を確かめるまでもない。大鎌を折りたたんで背負ったギターケースへ捻り込むと、覚醒状態を解いて目を元の黒色に戻す。
「まあすぐに終わらせましたが。ヒフミさん……?」
振り返ったイチカが目にしたのは、こちらに倒れかかってくるヒフミのセーラー服だった。不意の重量に重心が置き去りにされて、ヒフミもろとも地面に転がり込む。なんとかヒフミの後頭部に手をやるが、結局ヒフミを下にして地面に倒れた。
ヒフミのお嬢さま然とした顔面が至近距離にあって、思わず顎を引く。
「よかった。イチカちゃん、怪我はない?」
ぐったりとするヒフミに嫌な予感。視線を下げ、服を染める赤を見て、喉が自ずと引き攣る。双丘の麓、胸部ほぼ中央に光をてらてらと反射する赤い滲みがあった。
バツが悪そうにヒフミが笑う。
やはりあのプロモーターの銃撃で……。
「どうして庇ったりなんかしたんですか……」
「や、撃たれそうだったし。つい」
「射線上には彼のイニシエーターがいました。おそらくバラニウム弾じゃない」
「それがなに?」
「私なら治ります。でも、あなたたち人間はそうはいかないんです! わからないんですかッ」
「撃たれたら痛いよ。死ななくても、死ぬほど。そういうの、平気な人なんていないよ」
平気だ。
「それにキミ固まってた。痛いの怖がってる子供、見ないふりはかっこ悪いでしょ?」
イチカは絶句する。
「カッコつけて死ぬんですか……あなた、筋金入りの大馬鹿ですね」
「夢追い人はそうでなきゃね」
「意味がわかりません」
イチカとヒフミの間に柔らかい空気が流れる。
ヒフミが息を吐いて身を起こそうとする。釣られてイチカも身を退かして、先に起き上がる。難儀していたヒフミの手を取って、引っ張り上げるようにして立たせる。
ヒフミはそれが当然といったふうに立ち上がった。
「あの……怪我は。あれ……?」
「怪我? してないよ」
──は?
「じゃあなんで苦しそうなんですか」
「いやさっきのシュバババって時の反動でちょっと筋肉痛がね。イタタタタって」
「……なるほど。じゃあこの血はなんですか」
「いやいやこれケチャップだよ。ファミレス出るときついちゃって。ああヤダ恥ずかしい」
ヒフミが頬を染めて赤い胸元を手で隠す。
ここまでくれば鈍いイチカにも分かった。
「なるほど。血がケチャップの全身オムライス人間だったんですね」
「腐るねそれは。私そんな匂いしてる? 漏れちゃってる?」
「良い匂いです。なるほど、そうか………………なるほど」
頬に別種の熱さが込み上げてきて、イチカはすんと静かになる。ぷいと顔をヒフミから逸らした。
「私で遊びましたね?」
「そんなことないよ。イチカちゃんの勘違いに乗っかっただけ」
「人の心を弄んで楽しいですか」
「いつも心を痛めているよ」
「ならやめてください」
「やめたいんだけどねぇ」
家屋を反射して蓮太郎と延珠の叫び声が届く。どうやら向こうもガストレアを駆除し終わったらしい。
さてと、とヒフミが息を吐いて、撃ち倒したプロモーターに向かう。また撃たれるかもしれないとイチカも、今度は前に立つ形で追う。
男は銃弾が貫通した右手ごとふくらはぎを押さえつけていた。銃弾は鎖骨下動脈などの主要な血管を外れているらしく出血は控えめだ。
接近に気づいて男が睨み上げるのも構わず、ヒフミがしゃがみ込んで視線を交える。
「聞きたいことがちょっとだけあるんだ。協力して欲しいんだけど、いいかな?」