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「う゛う゛ぇ゛ぇ゛ん゛。肩が痛いよ゛ぉ゛、イ゛チ゛カ゛ち゛ゃ゛ん゛」
イチカの目の前には鼻水ズビズビ女がいた。ヒフミだった。
艶やかに光を反射する革製のオフィスソファに身を投げ出しながらヒフミがぐずり、ヘビみたいに上半身をくねらせている。見ていてこんな風にはなりたくないなとイチカは思った。
東京エリア第三区、楝民間警備会社は内地特有の高層ビジネスビルのワンフロアに位置していた。窓から覗く景色は夜空の闇と街の光で上下二分されていた。下がった室内温度はイチカには快適だった。
「しっぷぅ゛、しっぷぅ゛どこぉ……ッ」
ソファに寝そべったままヒフミが執務机に腕を伸ばす。ソファと執務机にはそれなりの距離があるので、腕はゾンビみたいにふらふら揺れるのみで目的物は掴めない。
執務机の上は訳のわからない書類が塔を乱立させている。今どき教科書も完全電子化されているというのに珍しい。イチカは難儀しながらもようやく湿布袋を見つけて、ソファの方へ投げた。ヒフミの頭部に落ちてぺしゃんと音を鳴らす。
「みっともないので止めてください。どうしたんですか」
「急に動いたから筋肉がビックリしちゃったんだよ……湿布貼ってイチカちゃん」
「えぇ……自分で貼ればいいじゃないですか」
「お願いぃ」
「あなたって人は……」
ファミレスで湧き上がった拒絶感は、イチカの中から消え失せていた。
別に彼女がどういう道を歩もうと、私には関係のないことだ。燻るような気に入らなさはあるが、処理不能なら気にしないようにすればいいだけのこと。
でも少しだけ彼女がどこまで行けるのかが気になった。それを知れば、あるいは自分も。
自分も、なんだ? なにを考えているんだか。自分の思考のはずなのに、気付けば見当違いの方向を向いていることに気づく。
無意味な思考を打ち切って、現実に戻る。
ヒフミはイチカの返答も聞かず上着を脱ぎ始めていた。
「……仕方ないですね」
「あ、そのまま肩も揉んで!」
「全力全開で揉み砕きますがいいですか?」
「なにそれっ、悩み苦しみ全部ぶっ飛びそう! やって!」
「やりませんよ肩壊しますよ」
ソファに座るヒフミの背中に回る。肩をはだけさせて、程よくついた肉に浮かぶ肩甲骨に沿って湿布を貼る。彫刻作品のような肢体はイチカが軽くデコピンすれば砕けてしまいそうなほど脆く見える。いや、実際砕けるだろう。『呪われた子供たち』の身体スペックにはそれを可能とするだけのパワーがある。
ヒフミがこんな風に隙を晒すのは危機感の無さ故か、信頼故か。
色素の薄い柔肌は室内暖房により温まったことで血行が良くなり薄桜色に火照っていて、思わずドキッとする。
「彼らが民警の妨害をする理由はなんだと思う?」
急な話に最初、理解が追いつかなかった。昼頃に対峙した、こちらを殺害しようとした民警のことだと遅れて気付く。
彼らはガストレア駆除後、ヒフミによって警察に突き出された。イチカの記憶では民警間の争いに警察が関与することなどなかったので意外の感が大きい出来事だった。
「それは……報酬を独り占めしたいからでしょう。平良笙子が政府とは別口に設けたあのキツネの討伐報酬、緊急時とはいえ額が大きすぎますから。金に目が眩むのは民警の習性です」
「そうだね。でもおかしいと思わない? 妨害に執心して、その場にいない他の民警に取られちゃったら意味がないのに。彼らはそのリスクに一切の焦りを見せなかった。高い懸賞がかけられているのはキツネ本体であって、『子』じゃない。他の民警に『子』を押し付けて、自分たちはキツネを追う。こっちの方がいいんじゃないかな」
左右対称になるように、ヒフミの肩に二枚目の湿布を貼る。
「別働隊がいたのでは? 自分たちは民警を妨害し、仲間がキツネを追うんです」
「鋭い。でも調べたところ彼らに仲間はいなかったよ。ワンペアのみのちっちゃい事務所だった」
「じゃ、じゃあ、彼らにそこまでの想像力がないからで」
「その可能性は否定できない。でも彼らに確実な報酬があるとしたら?」
雲行きが怪しくなり、手が止まる。
「それはどういう……」
「キツネを狩ることで得られる、取れるかどうかもわからない報酬以外に、妨害を行うことで得られる報酬があるとしたら、彼らは焦ることなく妨害に集中できるよね」
あまり想像したくない景色が脳裏を過ってイチカは眉を顰める。
「……誰かが雇っているということですか。自分達が狩りに集中できるように。ライバルをライバルに潰させて」
ソファ前に設置されたセンターテーブルの上でヒフミの端末が鳴動する。
「さすが早い」
ヒフミが何者かに感嘆の声を漏らしつつ端末を操作し、メッセージを見る。イチカからは背中越しで見えなかったが、そのとき確かにヒフミが笑ったように感じた。
「中学時代のお友だちに調べてもらったんだけどね。出てきたよ、あの人たちの雇い主」
ヒフミがこちらを振り向いて画面を見せる。淡白な文章と共に事務所名が記載されていた。お金の流れを辿った先で、その事務所に行き着いたらしい。
「お友達って同い年ですよね。こういうのって一般の高校生にできるんですか」
「もう一般でもないし高校生でもないから、彼女」
ヒフミが姿勢と共に端末を戻す。
「……でも、聞いたことない事務所ですね。新参でしょうか」
「違うよ。存在しない事務所」
「存在しない? ……ああなるほど。ダミー企業を用意して、自分たちが雇ったという証拠を掴ませないってことですか」
「半分当たり」
半分とはどういう意味だ。イチカの浮かばせた疑問を、ヒフミが遮る。
「そういえばムクって子と会ったんだって?」
「はい。気になったので連絡を取ったのですが、出ないんですよね」
四十三区付近の廃墟に入るムクを、イチカはこの目で目撃していた。その廃墟にはプロモーターの遺体があったが、その件とムクとは無関係だとわかっている。ただ少し気になった。イチカの胸の奥で違和感がざわめいていた。
「もう寝てるのかもしれません。あの子、暇さえあれば私の背中で寝るような子だったので」
「仲が良かったんだね」
「大事な仲間です」
窓は夜の暗黒で染められていた。いつかの夜もこんな風に黒一色だったなと、遠い夜の記憶が溢れ出す。目を閉じれば、背中にあの夜の震えた体温まで蘇ってしまいそうなのでやめた。
「それに……夜は怖いことでいっぱいでしたから。外周区は夜になると怪物で溢れるんです」
ヒフミはそれだけで、怪物とはガストレアのみを指した言葉ではないと悟ってくれたらしかった。
「どうやって夜をやり過ごしたの?」
「目を瞑ってただ祈ってました。いなくなれ、いなくなってくれと。……でも、いつも消えてくれるわけじゃなくて……」
言葉が詰まる。この先を、ヒフミに言っていいのだろうかという問いが、イチカの思考を支配した。
目の前でヒフミが無防備に肌を晒している理由が危機感の欠如と信頼感のどちらに起因するかは分からない。だが、
たち消えた言葉を、ヒフミが拾った。
「私の妹も、夜が怖いって泣いてた」
「妹さんがいるんですか。ヒフミさんってもしかしてお姉さんなんですか?」
「妹がいるんだからお姉さんだよ。なに言ってるのイチカちゃん」
背中越しでもヒフミがムッとしたのが分かった。
「私とイチカちゃんはお姉ちゃん仲間だね」
「私に妹はいません。……多分ですけど」
物心つく前に外周区に放置されたイチカは母親の記憶がない。もしかしたら知らないだけで兄弟姉妹がいるのかもしれないが、それを確かめようとは思えなかった。捨てるには相応の理由がある。再会を果たしたとしても互いに不幸になるだけだろう。
「いるでしょ、ムクちゃんが」
ヒフミの言葉に胸の底がむず痒くなる。言葉を返すのも恥ずかしいので話題を変える。
「そんなことよりなんで、民警なんかになろうとしたんですか」
「お昼に言った通りだよ」
「小さな勝利で希望の未来へレディゴー、でしたっけ。あれは理念であって、きっかけじゃないでしょう」
「ああ、そういうこと」
ヒフミはイチカの茶化しをさらっと受け流した。窓が切り取った夜空を見つめて小さく唸る。記憶の中から過去を掬い上げているのが分かった。
しばらくして音を漏らすように小さな声で言葉を続けた。
「小さな頃、家に暴徒が押し寄せたことがあるんだ。ちょうど『呪われた子供たち』の能力に世間が気付き始めた頃だった」
ヒフミは手慰みしながら苦笑する。
「妹は私とは歳が離れててね。彼らは妹が、『呪われた子供たち』なんじゃないかって怖がって…………殺そうとしたの。自分たちも赤目に殺される、だからその前にって。妹は、確かめるためにつけられた傷が顔にまだ残ってる。 もうだいぶ見えなくなったけどね」
あなたは赤目を恐怖しないんですか、という問いは出したくなかった。確認するのが怖かった。
「私は何にもできなかった。彼らの血走った目を見つめて、ただ震えてた。──これと同じこと、もっと酷いことがその時期起きてたのを知ったのはそれからすぐだった」
ヒフミは一拍置いてから言葉を繋げた。
「去年、座間元首相が『子供たち』の手で命を落としたのは知ってるかな」
「東京エリアが一番荒れた時期ですね。覚えてます」
それはイチカとムクがイニシエーターになろうとした時期でもある。
ガストレア大戦終結当時の日本代表だった座間首相は、人口の致命的な減少を解決しようと全国の産婦人科に堕胎・中絶を禁じた。この政策によって『呪われた子供たち』は数多く産み落とされ、そのいくらかが外周区に捨てられ川で殺された。リーダーの座を聖天子に譲渡した座間元首相は一政治家に戻ったが、去年、自身の政策で産まれた『呪われた子供たち』に首の骨を折られて亡くなった。
この事件は大々的に報道され、エリア内の『奪われた世代』の恐怖・不安を加熱させた。中には外周区を連日連夜訪れ、『呪われた子供たち』を発見次第、危害を加えるといった過激な活動も見られた。
イチカとムクの外周区生活が終わった最大の理由は、イニシエーターを夢見てといった前向きなものではなく、『奪われた世代』が作る憎悪の網を掻い潜り続けることに限界を感じたからだ。
ただしイチカがIISOに収容されてしばらくして、外周区への干渉は暗黙の了解で薄れたと聞く。
「……うん。表沙汰にはなってないけどね、ちょっと良くない人が、ちょっと良くないことをやろうとして、何もかも台無しになりそうだったんだよ、あの頃。同じ規模の事件がもう一つでも起きてたら、たぶん今度こそもう、終わるんじゃないかってくらい。
私はこの時も何にもできなかった。ただ家の中で震えてた。
……そんなのもう嫌だから、なったんだと思う。民警に」
何故表沙汰になっていないようなことを知っているのかは聞かなかった。
「……そうですか」
「私思うの。あの暴徒たちも、普段は愛しい人に愛を囁き、子に是非善悪を説き導く普通の人間だと。完全な悪ではないのだと。恐怖の作り出す抗えない流れに負けたからあのような暴挙に出たのだと。……恐怖の起点さえなくなれば、『子供たち』を受け入れてくれるって、そう信じてる」
ヒフミの声音が芯の通ったものになる。イチカでさえ彼女が本心からこのような言を発しているのだと分かった。
ただ彼女は気づいているのだろうか。その『恐怖』の発生源はガストレアと『呪われた子供たち』であり、その二つを抹消さえすれば平穏を獲得できるという最短の解決策に。
「ひきしゅっ」
ヒフミの控えめなくしゃみで現実に戻る。ヒフミの白い肩がぶるぶると震えていた。
「うぅ、イチカちゃん。私いつまで胸丸出しにしてればいい? 風邪ひきそう」
「ご、ごめんなさい。もう終わりました」
粗方湿布を貼り終えていたので、ヒフミのはだけた衣服を直す。ヒフミは肩を回すと大きく伸びをしてみせる。
「ありがと、イチカちゃん。なんか楽になったよ」
「……そんな即効性はないと思いますけど」
「イチカちゃんが貼るとすぐ効くんだよ」
「人を湿布怪人みたいに言うのやめてください。この湿布ゾンビ」
「張り裂けた筋肉だって秒で治るね」
「もうそれ湿布の効用の域を出てます」
ヒフミがにへらと笑いながら立ち上がり、テーブル脇に置かれていた肩提げバッグを持ち上げるとこちらを振り向いた。
「イチカちゃん、今日キミに会えて良かったと本心から思う。キミに恥じないよう、私も私で頑張るよ」
真っ直ぐ見つめてくるヒフミに思わず背筋が伸びる。自信満々に胸を張る姿は、イチカの想像するお嬢様そのものだ。
「どこか、いくんですか?」
ふふっとヒフミが薄く笑って白い歯を見せた。
「ちょっと夜のパーティーに繰り出してくる!」
どこ行こうとしてるんだコイツ。