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その夜イチカは、懐かしい夢を見た。
*
「見てください。
自営スーパーマーケット、電化製品スペースに並ぶ無数のテレビの中で、リポーターが興奮げに叫ぶ。
カートを押していた氷鷺イチカはぽけーと見上げていた。
「座間元首相が今朝息を引き取ったことに関して、二代目聖天子様が見解を示されるとの情報が──」
リポーターを囲む市民は皆一様に視線をあげていた。カメラマンが視線の先を映し出す。白レンガ作りの艶やかな西洋建築。その場所が東京エリア第一区聖居だとわかる。
そのとき群衆のざわめきが一際増す。
純白のバルコニーから現れたのは純白のドレスを着込んだ女性だった。
真っ白なドレスに目を引かれて、イチカはやるべきことも忘れて見入っていた。画面外で叫ぶリポーターの言葉も一切入らないくらい。
脇腹を小突かれて現実に戻る。
「いたっ。痛いですムク。骨当たってます」
体を縮めながら隣を見ると灰色ニット帽を被ったムク。イチカの押す買い物カートに軽い所作で食料品を投げ込む。
カートの中は食料品が満載され、ひと山を形作っていた。
「当ててんのよ」
「肘当てられても嬉しくないです……」
「じゃあどこならいいのぉ?」
「ど、どこもだめですッ」
ぎょっと身を引く。
むふふと笑ったムクだが、テレビに気づいて不機嫌そうな表情になる。
「こんなの見て何になるの。内容わかるの?」
「綺麗な服だなって見てただけです。いや、内容ももちろん分かりますけどもね!」
ほんとかよと半目でじとっと見つめられて、思わず目を逸らす。
テレビ画面を曖昧な瞳で見上げたムクは、イチカがテレビを見ていた理由を悟ったらしい。はあ、と小さくため息をついてイチカに視線を投げる。
「欲しいの? だめだよ。おじいちゃんも言ってたでしょ、白は汚れが目立つって」
「白と黒と、あとなんでしたっけ」
「赤とか青とか、純粋にその色のやつ」
「ふふっ、原色っていうんですよ」
「忘れてたやつに頭いいアピールされてもムク困るよ」
「……まあいいです。どうせ白なんて似合わないし」
そう言ってイチカは自分達の服を見下ろした。
ムクは灰色ニット帽に茶色系のコートを着ていた。ぶかぶかポッケに手を突っ込んでいるのは彼女の癖だった。
イチカはグレーのパーカにブロード生地の同じく灰色スカート。
よく見ればだいぶ生地が痛んで笹くれ立っているし、いくら公衆トイレの比較的綺麗な水で洗っても抜けきれなかった汚れが沈着している。だが元の灰色のおかげで注意深く見られなければ汚れは見えない。
イチカたちは『呪われた子供たち』という特殊な生まれのせいで親から捨てられ、今はマンホールで暮らしていた。
ちゃんとした洗濯などできた試しがないので、白い服を着るのは厳しいだろう。
思わず暗くなりかけて、これではいけないと頭を振る。
「取りあえずは白い服が似合う女の人になるのを夢としておきます」
「ちっちゃい夢だね」
イチカはムッとして唇を尖らせた。
「ならムクの夢はなんですか。さぞ、おでかい夢なんでしょうね」
うーん、とムクが顎に手を当てて唸る。
「将来の夢はお嫁さんだね。やっぱり」
「ませすぎですね」
「いや別に男に興味はないんだけどさ。ほら、玉の輿ってあるじゃん?」
玉の輿考える八歳児ってなんか嫌だなとイチカは思った。
「で、でもそしたら子供とか……」
思わず赤面して、胸の前で人差し指同士をつんつんとする。
氷鷺イチカ八歳はかなりのマセガキだった。
「作るわけないじゃん」
一瞬、ムクが遠くを見て。
「いいお母さんにはなれないし……こんな地獄、生まれた子供がかわいそうだ」
「ムク……?」
ムクの見ているものがわからなくて、不安で声が震える。
思わず伸ばした手に気づいたのか、ムクが振り向いてもはや見慣れたにやけ顔を作った。
「可愛い服が欲しいならおじいちゃんにねだれば?」
「……いえ、いいです。そんな無理をさせられませんし」
「ねだれば動いてくれるとは思ってんだ」
「…………」
「まあおじいちゃん甘いからね。くれるとしても灰色とかになるだろうけど」
ムクが頭の灰色ニット帽を摘んでさらに深く被った。
「お気に入りですよね、それ」
「当たり前じゃん。プレゼントとか生まれて初めてだしぃ。一生被ってると思うよ。真夏も」
ふっとイチカの頬が緩む。
ムクは目をまんまるにして怪訝な視線をこちらに向けた。
「なんだよぉ?」
「いいえ、なんにも」
外周区に捨て置かれた幼き日のイチカは、なにも一人で生き抜いたわけではない。
赤子同然だった頃、イチカを、ムクを育ててくれた老人がいた。
彼がいたから生きてこれた。彼から物書きや力の制御法、庇護なくして生きる術を教わった。けれど名前だけは教えてくれなかった。
今イチカたちがマーケットにいるのは、その老人を救うためだった。
「だからまあ、おじいちゃんの病気もさっさと治そう。イチカにプレゼントあげるまでは長生きしてもらわないとさ」
「物欲しさにやってるんじゃないですけど……」
半目になりながら店内を見渡す。
イチカたちはこのスーパーマーケットに買い物をしに来たわけではない。
盗みをしに来ていた。
外周区はほぼ廃墟といった有り様だが、イチカのような訳アリの人間が隠れ住んでいる。内地で構築される表社会とは完全に切り離されているせいで、外周区には特有の社会が組み上がっていた。
イチカはずっと老人の庇護下にあったから外周区の社会事情を詳しく知らないが、闇医者の類が存在するのは想像がついた。
老人の体調が医者を要するものだと悟ったイチカは、知り合いの『子供たち』を経由し医者まで取り次いでもらうことを条件に、彼女たちの「仕事」、つまりは食料集めの強盗を手伝うことになった。
「で、どこ狙うの?」
ムクの声でイチカは思考に沈む。
既にカートは満杯だ。あとは出入り口を突破するだけだ。可能なら突撃を認知されるのはできる限り遅くしたい。死角を通って加速、そのまま出入り口を突き抜けるのがベストだろうと強盗素人のイチカは考えていた。
「難しいですね」
見回すと棚が低い。
「死角を作らないように低くしてあります」
「シカク? 棚は四角でしょ。ムク知ってるよ」
「違います。見えない領域を死んだ角度と書いて死角というんです。ムク知らなかったですね」
むふんと得意げに鼻を鳴らす。ついでに背も逸らして自分を大きく見せた。
「なんで死んだ角度なの? 入ったら死にそうでヤなんだけど」
我が意を得たりといったイチカの表情はムクの無遠慮な質問で瞬く間に崩れ去った。
こういうときは強行突破するに限る。氷鷺イチカは脳筋だった。
「…………しかし死角がない。強敵ですね」
「たぶん。届かないからじゃない?」
「届かない?」
ムクが顎で指した方を見るとレジで背の低い老婆が会計を行なっていた。なるほどあの背で品出しをするなら高度にはある程度の制限がかかるのだろう。
老婆の姿を見て、事前に話し合い封印していた罪悪感が燻り出す。余計なことを考えていると手が鈍るのは分かりきっていたから思考を停止していたのに。
思わず目を細めると、隣でムクがふっと息を吐いた。
「……でもでもよく知ってるね、死角とか。そんなむつかしい言葉ムク知らなかったぁ」
「……まあIQ二百なので」
思いっきり無知を誤魔化したが、ムクは小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「わーっ、すごーいっ。てんさいーっ」
「もっと言ってもいいですよ」
でもイチカは単純だからそんなの気付かず得意げになる。
「すごーいっ。アホみたいーっ」
「アホは褒め言葉じゃないですけど?」
──そんなわけもなく、ムクの侮辱に抗議の声を上げる。
ムクはべーっと舌を出した。わあ、腹立つ顔だ。
「ふん!」
悔しがってなどいないとイチカは視線をずらす。
ムクの鈴が鳴るような軽い声音を聞いていると、いつの間にかに罪悪感がまったく消えていた。不思議だ。
「そもそも私たちが変に策を講じる意味もないかもですね。仲間が足止めしてくれるはずですし」
作戦はシンプルだ。
ムクとイチカが店内で普通に買い物を行う。時間が来たらカートごと店を突破してそのまま逃走。追手は控えている仲間が食い止める、というのがイチカたちが知らされた作戦だった。
この作戦は追手を止める仲間のリスクが圧倒的に高い。
イチカはこれを、盗人ビギナーのイチカたちに任せるより、慣れている彼女たちが担当した方が成功率が高いからと推測していた。理に適っている。
ムクが一瞬冷ややかな目でイチカを見た。
「だといいねぇ」
「時間です」
テレビ画面の左上がちょうど九時を指し示した。打ち合わせていた時刻。作戦開始だ。
ムクと目を合わせ、ひとつ頷き合う。
「ま、なんとかなるって」
緊張感のないところが、今はイチカには救いだった。
「IQ二百がついてます。安心してください」
「まあムクもおんなじくらいなんだけどね」
「じゃあ合わせて四百ですね。誰にも負けません」
「それでいいのかぁ。頭悪いぞそれすっごく」
すっと深く息を吸い込む。腹のあたりに力を入れると、全身の細胞にまで意識が向くような錯覚。感覚が捉える肉体の範囲が実在以上の範囲に拡張。
イチカとムクの瞳が同時に赤熱する。
横長のハンドルに四つの手が並び、押し出す二人の怪物の足が合図もなしに同時にセラミックタイルを踏み鳴らす。
パァンという破裂音と共に身を引き締める加速感。高速移動の反動で背後に突風を巻き起こし、左右の陳列棚が吹き退けられて倒壊する。
突然の事態に買い物客から悲鳴が上がるが、気にしていられない。速攻で事態を終わらせなければ。
足を止めることなく続けて人外の脚力でカートごと自身を蹴り出す。
ガガガと車輪が高速回転し硬い床を蹴って、ひと息の時間もかからず出入り口まで突っ込む。
不意にうなじのあたりがカッと熱を持つ。この感覚をイチカは知っている。
直感に従って視線を真横、出入り口そばのカウンターへ。
レジ打ちをしていた若い男性店員のひとりが跳ねるように飛び上がり、護身用の──持ち出すのは違法のはずだ──拳銃に手を伸ばしていた。音で異常を察知したのだ。速い。
カートを押すイチカと店員の目が合う。一瞬の交錯。世界がスローに見える錯覚。
不慣れだが殺意の乗った手捌きで銃口をこちらの胴に向けるが、一手遅い。
タイルが砕けるのも構わず鬼人の踏み込み。
再加速を受けたイチカの肉体は放たれた銃弾を背後に置き去りにして前進する。
砕けたタイルが反動で舞い上がり、突き抜けた銃弾が地面を抉るのを視界外に知覚しながら、出入り口に突撃する。
もの凄い勢いでカートが出入り口のアクリルに激突。
次の瞬間、力づくで打ち破られたガラスが細かく砕け散って破砕音楽を奏でる。
が、すぐに店員の怒号で消える。身が竦みそうになるが、今止まればおそらく死ぬだけだ。
怒号を背後に置き去りにして、駐車スペースのアスファルト上をムクと共に走り出す。
買い物帰りの人垣を通り抜けようとして、囲んだ群衆から発せられる突き刺すような殺気に目を細める。
そのとき、左右から無数の手の雨が不意に飛び込んできた。
イチカは絶望的な表情でそれを見た。
接触すればイチカたち人外の行進に巻き込まれて怪我をさせてしまう。
鋭い痺れが脳髄を突き刺し、咄嗟の脳内演算。
知覚できる時間単位が改変され、世界がスローになる。
手雨の軌道を全て予測。短く呼気を吐いて、予め計算した運動を筋肉に連続入力。
赤眼の残光が蛇のように曲がり、その荒れ狂う雨の穂先からカートとイチカ、ムクを弾く。風に捲られる病葉同然の挙動に肉体が嫌な軋みを吐くが、なんとか人垣を抜けて道路に飛び出る。
あとは脚力勝負。
警察車両を呼ばれるより早くイチカたちは撤退できる。残る不安要素は店内、近くの客からの車両に乗る追手だが、それは仲間が時間を稼いでくれる手筈だ。もはや心配事はない。
そう思っていたからこそ、背中にバイクの駆動音を浴びせられて一瞬硬直してしまった。
「くたばれ、『赤鬼』ぃぃぃ。この婆が地獄に送ってやるぅぅぅッ」
「バイクババアだ!」
思わず振り返るとそこには散弾銃片手にバイクにまたがり、片手で器用に疾走する老婆の姿があった。先ほどイチカが見た店員だ。勝手に抱いていたイメージと違ってかなり元気かつ凶暴。
『呪われた子供たち』の脚力は人外レベルだが、今は食料を満載した買い物カートを押しての疾走。バイクの全力疾走を相手取るには無理がある。現に背後のバイクとの距離が恐ろしい勢いで圧縮されている。散弾銃の間合いに入るのも時間の問題だ。
冗談じゃなく殺される──。
肩を並べて走るムクが息を呑む。
わけが分からなかった。
事前に仲間から聞いていた作戦通りなら、店員の追跡は彼女たちが妨害するはず。しかし、彼女たちの姿はおろか、戦闘音さえしない。
なにかアクシデントが起こった? 彼女たちが動けない何か。まさか既に制圧された? 無事なのか?
渦巻く思考は、不意に膨れ上がった殺気で現実に引き戻される。
はっとして顔を跳ね上げると、バイクの老婆が散弾銃の有効圏内に入っていた。ねめつける二個繋ぎの銃口。まずい、散弾の軌道は予測が難しい。何発かは当たる。致命傷を避けることに注力すればいけるか? いや、一発でも当たれば疾走速度が落ちて詰みだ。
焦る思考とは別に肉体だけが反射的にカートを握る手に力を入れていた。経験上、直感に逆らうのはよくないと知っていた。
「ムク、手を離してください!」
「おっけぇ」
隣でカートに働いていた力が消失し、イチカの二本の腕だけで支持する。押しかかる重圧が一瞬にして倍となる。
ふっと息を吐いてハンドルを握る手を逆手に掴み換え、ひと思いに跳ね上げる。
腰を捻り、舞い上がったカートを一回転させる要領で背後──迫るバイクに投げ飛ばす。
満載にしていた食料品が空を舞い散って、バイクとイチカの間にカーテンが下りる。
婆が咄嗟の状況変化に目を剥く。照準が曖昧になり、巻き込み横転を恐れてハンドルを切る。きゅるるというブレーキ音。これで、どうだ。
しかしイチカは老婆の執念を測り損なっていた。
パァンという炸裂音が耳を貫き悪寒が走る。
「なッ……!」
不安定姿勢でのまさかの散弾銃発射に目を疑う。
高速で放たれたシェルが破裂し封入していた散弾が放射状に乱れ飛び、絶望的な飛散パターンを描く。
だめだ、これは避けられない。
軌道予測も回避も諦め、死に物狂いで横のムクに向かって飛びかかり覆い被さる。
直後、イチカの背中に火を浴びたかのように鋭い熱が迸る。激痛に電流を受けたかの如くのけぞり喘ぐ。思考が真っ白になり、一瞬だけ死を感じる。生命の危機に体の芯がピンと張る。
ワンテンポ遅れて二人分の重量が『呪われた子供たち』特有の脚力によって加速を受け、瞬時に横方向に肉体が投げ飛ばされ距離を大きく渡る。
横っ腹に衝撃が走って、地面に受け身も取れず叩きつけられたのだと悟る。
「イチカッ」
「だい、じょうぶです……ッ」
今にも気を失いそうになるのを、自分の名を呼ぶムクの叫びで食い止める。
弾丸は背面の柔肉を喰い抉って通り抜け、猛獣に爪で切り刻まれたような跡を残していた。深く割れた傷口からは血液が噴き漏れて地面に血溜まりを描いていた。
イチカは先の跳躍で路地裏深くに滑り込んでいた。表通りから騒がしさが近づいている。ここも安全ではない。
血で足が滑りそうになるのを震える膝を叩いてなんとか立ち上がる。
逃げなければ。なにか、なにかないのか。
膝から力が抜けて崩れ落ちそうになるのを、復帰した思考が無理やり歯を食いしばらせて防ぐ。
溢れ落とした視線の先にあるものを見て、これだと悟る。
脇目も振らず膝を突く。冷えたコンクリートの硬い感触が跳ね返ってくる。
隣でムクがぎょっとするが、イチカの指が伸びた先を見て何をしようとしているのか悟ってくれたらしい。
足元にはマンホールがあった。
イチカは不潔さも気にせず、抉り穴にそっと指を突っ込み、蓋を浮かす。力を解放した状態なので重さは全く感じない。
耳が痛くなるような重い擦過音を鳴らしてどかすと、嗅ぎ慣れた悪臭が漏れ出し鼻の奥がツンとする。
開けきって露わになる円状の闇。
「つかまって」
ムクが差し出した肩に支えてもらう形で、穴に飛び降りる。
直後に起こるゾッとするような浮遊感。足が空を蹴る。本来の昇降用に取り付けられたタラップがすぐ横を高速で滑り抜け、すぐに両足が地面を捉える。
タンと硬い音が地下空間を跳ね返るのも束の間、やや乱暴に振り落とされ、あわや顔面から地面に転げそうになるのを腕を突いて防ぐ。
ムクは一転して跳躍しその姿を消し、ぎぎぎと音が鳴ったと思ったらすぐに隣に降り立つ。マンホールの蓋を閉じたのだ。
下水道空間には地上の喧騒は届かず、静寂に支配されていた。
痛みに喘ぎながらもなんとか立ち上がる。
「ムクは一人で帰れますね?」
「……一人でなにしようとしてるの」
「あの子たちも逃がさないと」
ムクがむっと表情を険しくする。
「イチカのアホ。ムクたちは囮にされたんだ。ムクたちを大人たちが追って、手薄になったところを丸ごと盗み出すつもりだったんだよ」
「でも、助けがいるかもしれません!」
思わず叫んだせいで、散弾銃で抉られた背中が鋭く痛み出した。
足元にはぽたぽたと傷口から漏れた血液が滴下していた。きっと地上にも足跡よろしく血痕が続いているはずだ。時間が経てば血を辿ってマンホールに行き着く可能性がある。思考する時間は限られている。
「イチカはムクがどうなってもいいの?」
ムクが細いまつ毛を震わせて潤んだ目でイチカを見上げる。
「……そんなのダメです」
ムクを一人にすることはできなかった。