*
ぎぎぎと音を立てて、光の弧が膨らみ円になる。
マンホールを押し上げて、イチカとムクは地上に出た。
ふへえと出たばかりのムクがイチカもろとも地面に転がり込む。ここまでイチカを背負ったのだから無理のない話だ。
イチカたちは外周区のひび割れたアスファルトの上を並んで仰向けに転がっていた。
潜っていた間に雪が降り出したらしく、まるで白い絨毯が敷かれたよう。突き刺さる冷たさも今は心地良い。
下水道はメインの経路から枝葉状に支流が伸びて広範囲に対応している。内地で飛び込んだあの地点は枝葉にあたるので、そこからメインに移動して外周区まで戻ったのだ。
内地直下のマンホールで手当を受けたことと生来の再生能力で出血は既に止まっている。ムクは銃弾摘出の手際が良い。
血の轍も内地のあの場所で途切れているので追っては来れないはずだが、用心して水が溢れる下水道トンネルを経由した。そのせいでムクもイチカも膝から下がずぶ濡れだ。だが匂いや血痕の類はそこで完全に途切れたはずだ。
『呪われた子供たち』だから風邪を引くことはないが、包帯代わりにブロード生地のスカートを引き裂いたのもあって足元が少し心細い。一番上等で内地に侵入しても違和感のない服だっただけに途方に暮れそうになる。
だが。
瞼を下ろして、すぅと息を吸う。生きて戻って来れただけ十分な結果だ。
「ほい、イチカ」
すぐ隣からのムクの声に目を開けると、顔のすぐ上に菓子パン入りの袋があった。
不意に袋が落ちてイチカの顔にぺしっと音を立てる。思わず目を瞑ってから両手で覆うように持つ。見れば賞味期限が切れていない。おそらくあのスーパーマーケットの売り物。
「……盗んだんですか」
「そのためのポケットだからねぇ」
ムクははにかんで片手でぽんとコートのポケットを叩いてみせた。
ムクの分は、と思ったら、ムクがまた一つポケットからパンを取り出して見せた。
彼女は時折こういうふうに、思いがけない強かさを見せる。
「何でもかんでもポケットに入れるの、やめた方がいいですよ」
「問題ないよぉ。何入れたか忘れるほどアホじゃないから」
「それ、もしかして遠回しに私のことアホって言ってます?」
「どうだろ。大切なもの入れとか言って色々詰め込んだ箱をどこに置いたか忘れるような人にはそう言ってるけど」
「……子供の頃の話でしょうそれ」
よく覚えているなと頬が緩むのを感じる。
盗品であることに抵抗はあるが、今はムクの気持ちへのありがたさが勝った。
お礼を言おうとした瞬間、視界が一転して暗くなる。
風切り音と共にひらひらと純白の羽が舞い落ちる。
仰向けのまま天上を見上げて眩い陽光に目を細めると、視界に勢いよく少女の顔が飛び出す。むすっとした表情のじと目に射抜かれて腰が浮きそうになる。
隣のムクが「うげっ」と失礼な声をあげるのも意に介さず少女がさらに顔を沈めて、イチカの鼻先すれすれに顔が迫って思わず息が止まる。
「ちょうだい、パン」
「いつにも増して圧が強いですね、ツバサさん」
「今日の私は押せ押せ押し倒せの気分」
その少女のシルエットは通常人のそれとは大きく異なっている。
本来上腕があるべき部位から先が羽毛に覆われ鳥類の翼となっていた。ガストレアウィルスの影響で変異したのだ。
『呪われた子供たち』の中にはウィルスが強く働いて骨格から人を外れる者がいる。
驚くべきは人間大にも関わらず飛行可能という点だ。おそらく実在の鳥類よろしく骨は空洞化しからだが軽量なためにできる荒技。
弾かれ者が集まる外周区でも、彼女のような異形は疎まれがちだ。詳しくは聞いていないが、特定のコミュニティに属してはいないらしい。
手が限定的にしか機能しないから生活も難しく、ときどきイチカの成果(ゴミ漁り)をわけたりする仲だ。
翼があるからツバサと勝手に呼んでいるだけで名前は知らない。彼女自身でさえ知らない。
思わず頬が緩んで、地面に手をついて起き上がる。
彼女がこうして現れたということは、いつものあれが始まるのだ。
「今日はなに見つけてきたんですか」
「んー、モノリスのてっぺんに変なシール貼ってあった。ピンクい奴」
「ピンクい?」
「えっちなやつだった」
「えッ………………け、建造スタッフのいたずら、ですかね?」
「いやいや、クレーンでブロック積み上げるんだから関係ないんじゃない? 赤目が登って貼ったんだよ」
ツバサは飛べるから、度々こうして空で見た景色を教えてくれるのだ。イチカは彼女の話を聞くのが好きだった。
外周区暮らしなのに汚れが一切見られない純白の翼を見やる。
「私も欲しかったです。翼」
「そんな便利なものじゃないよ、肩は凝るし」
「なんか別のも羨ましいです」
イチカはそっとツバサの発達した胸部から目を逸らした。
「おはなしした。パンちょうだい」
彼女が飛んでる最中に見た景色とかを話す代わりに食べ物を差し出すのが最近の習慣だった。
「……えー」
ムクから貰ったものだしと視線を投げると、やれやれとため息が返ってくる。
「イチカが決めていいよ。もうムクのじゃないし」
「決まり。じゃあ食べさせて」
ツバサが体を前のめりにして口を小さく開けて迫る。
無防備な表情が近づいて、思わず唾を飲み込んだ。
雛に餌付けするみたいで一瞬変な気分になるが、思い直して包装を開けてパンを差し出した。
ぱくぱくとものすごい勢いで啄んであっという間にパンが姿を消す。相変わらずいい食いっぷりだ。見てるこっちまで満腹になる気がする。
「え、もひとつくれるって」
眠そうな半目でツバサがぼやく。
「言ってない。アホドリはどっかいけ」
ムクが鋭く咎める。
「ふっ、知らないんですかムク。アホウドリの翼は一部が黒いんですよ。たぶんハクチョウです」
「ハクチョウも子供の頃は完全な白じゃなくて灰色混じりの翼してるよ」
「彼女の胸部は大人ですよ?」
「んーん、まだ成長する」
「全部筋肉だろうがよぉ」
「ちがーう」
「じゃあ確かめてやるよぅ!」
野獣の眼光でムクが飛びかかってツバサの胸部をまさぐる。きゃあと黄色い声があがるが、すぐにその指を止めてため息を吐いた。
「自分の手が届かない距離にあるものに手を伸ばすって……なんて虚しいんだろうね……」
勝手にダメージを受けたムクが膝から崩れ落ちた。
イチカはそんなムクを無視してツバサに視線を向ける。
「毎日来てもいいんですよ」
「ん、いい、今のままで」
ツバサが白翼を震わせて伸びをする。
「飛び回ってなんか面白いもの見つける。しょっちゅう食べ物もらえるほど面白いものないから……だからいっぱい飛び回らなきゃ」
「でもそれって危ないんじゃないですか? 別におはなしがなくたって……」
別にイチカとしては、土産話がなくとも食べ物を分ける気でいるのだが。
とはいえ外周区で暮らす以上、理由のない贈り物を怖がるのは自然な反応かもしれない。イチカも前に痛い目に遭ったことがあるから、その気持ちは分かる。
「だめだめ、イチカ。マヒしちゃだめだ。タダ飯食いなんだぞ、コイツはぁ!」
復活を遂げたムクが信じられないとばかりに眉を跳ね上げる。
「私もお金払ってませんけど?」
「危険は冒してるからぁ、命はカネで買えないんだぞぉ」
「でも……飛べるんですよ!?」
思いがけず声が大きくなる。きっと今のイチカの目はめちゃくちゃキラキラしている。
「なにが、でもなんだよぉ……」
キラキラ光線に射抜かれたムクが後退る。
なおも続けて照射されるキラキラ視線レーザーに負けてムクが眉を歪め唇を締め付けて苦い顔をする。
とうとう根負けしてムクがその口を開いた。
「まあ……その、週一くらいなら」
「一週間パン一つで生活しろって言うんですか、このケチ!」
悲しいかな、この場にムクの味方はいない。
「あ〜もうッ、お腹空いたら来ていいよ」
「ん、了解。毎日三回来る」
「三食要求してるぅ!? ムクたちも食べれてないのに! 図々しい奴は帰れ!」
きしゃあとムクが牙を剥いて拳を振り回す。
ツバサはその全てを軽いステップで避けた。
「ん。じゃあ、またいつか」
余裕綽々といった眼差しでツバサがイチカに視線を投げた。
ひゅっと風を切る音と共にツバサの体が浮かび上がり、風に乗ってあっという間に遠くへ飛び去る。
ムクは飛べないながらに駆け回ってツバサを追うが、飛べないので当然その拳は届かずとうとう諦めて戻ってきた。
なんだか偉業を成し遂げたみたいなすっきりした表情でイチカを見る。
「よし! 害鳥は追い払えたね!」
「毎回やっててよく飽きないですね」
今のところムクはツバサに全戦全敗だった。
*
イチカたちの住処がある下水道区画は地上を経由したほうが早い。
廃墟の影で目立たない場所にあるマンホールを開けて、タラップを降りると温かい空気が肺に入り込む。
旧式LEDのぼんやりとした灯りが広い洞穴の闇にグラデーションを描いていた。近くの発電所からちょろまかした電気を利用しているらしい。
イチカはムクと並んで、音を立てないようにと忍び足で歩いていると、聞き慣れた軋みが鳴り響く。錆びついたドアの音。
かつんかつんと軽い足音が続いて、闇の向こうから一人の老人が姿を表す。
眉間には深い皺が刻まれていて神経質な印象がある。この老人こそがイチカとムクを育ててくれた恩人だった。
「どこにいっていた。イチカ、ムク」
沈んだ声音で尋ねられる。
ムクがさっとイチカの背後に隠れてしまったので、イチカが答えるしかなくなった。
努めてなんにもないふうにイチカは嘘をついた。
「外周区を一周してきたんです。ムクとのデートです」
「それはウソだな」
「うそじゃないですよ」
「いいや、うそだ」
イチカの冗談に笑いもしない。
「一時間前、内地で強盗騒ぎがあった。十数人もの『呪われた子供たち』が店を襲ったんだそうだ。すぐに警察が駆けつけて鎮圧はされたが……二人、捕まっていない子がいる。お前たちだろう」
この老人は下水道から出てこないのに、地上の情報をどこからか調達してくる。
「……違います」
目を逸らして、視線が冷たい廊下に落ちる。
「目を見て言えないのか」
「……わかりました」
息を吐いて、目を閉じる。観念して目を開けると、老人を見上げた。
「私たちですよ。悪いですか。お医者さんが必要なんです。だって、おじいちゃん──」
続きは言えなかった。
パァンと破裂音。視界が一挙に横にずれて、頬が痺れる。なにが起こったのかわからなかった。
え、と口から音が漏れて、恐る恐る老人を見る。
悲しい目。枯れ切った目。裏切られたような目。
その手のひらが振り切られていて、そこでようやくイチカは自分が叩かれたことを理解する。
「お前は間違った選択をした」
そんなのはわかっている。思わず表情が強張る。
「殺し、盗み、嘘をつく。悪に染まるな。正しいことをするんだ。間違ったことをすれば必ず罰を受ける」
カッとなってイチカは老人を睨み上げた。
「そこに、因果関係はないはずです。それとも、私たちがこんな境遇なのは生まれてきたこと自体が悪だったから、とでもいうつもりですか」
「部分的にはそうだ」
「そんな考え方、誰も幸せにならない」
「この末世に幸福などないよ」
「あなたは……ッ」
思わず叫びそうになって、奥歯を噛み締める。
イチカはこの老人を好いている。彼のためならなんでもしてあげたいとさえ、正直なところ思っている。でも彼の持つ世界観だけは受け入れがたかった。
病的なまでの自責自縛から解き放ってあげたかった。
だがそんな力はイチカにはない。
イチカの背後でムクが身じろぎした。ムクは彼の悪癖にとうに見切りをつけているので、遠くで静観していることが多い。今回は避難できなかったから、イチカの背中にぴたりとくっついていた。
「お前たちが私のことで気を揉んでいるのは知っていた。だが、こんなことをするとは思わなかった。……言い出したのはムクか?」
「二人で話し合って決めたことです」
イチカはムクを庇うようにして、老人の視線を遮った。
老人が皺が深く刻み込まれた瞼を震わせる。
「倫理とは人のうちに宿る神であり、未来を作る規範だ。お前は自身の中の神に背いているんだ」
「私の中に神様がいるっていうなら、もうとっくに死んでます。死人は私を生かしも殺しもしません。生かしてくれたのはあなただ。あなたに死んで欲しくないだけなのに。それもダメなんですか」
「ダメだ。正しくない」
「正当な手段で、できるならやってる。違うからこうして」
「そんなものは言い訳に過ぎない」
「でも!」
「この世に仕方のない悪など存在しない。因果は巡り、悪を行なったものに罰を与えにくるのだ」
イチカはこの老人の掲げる不確かな考えが憎い。
「……あなたは違うじゃないですか」
「なに?」
「こんなところに居着いて、私たちを育てて、いたずらに寿命を縮めてるあなたが因果を説くんですか。公正さが機能しているならあなたはこんな」
「……それが罰なんだよ。私の」
それはまるで、イチカたちを育てたことが間違いだとでも言うような。
「あなたは間違ってません。なんにも間違ってません! だから、罰なんて受けなくていいんです!」
上擦った叫びが下水道をこだまする。
老人の瞳は暗い井戸底のように冷えていて。
「私はあの村で罪を犯した。お前たちを育てたのは、産み落とした責任をとるため。罪滅ぼしをするため。今の私は正しく罰を受けている。だからお前が気にする義理はどこにもない。ないんだよ」
「ちがう」
イチカは自分の言葉はこの老人には届いていないことを、どこまでも届かないことをようやく悟った。
「ちがうのに」
それがたまらなく悔しくて、顔をくしゃくしゃにして外に走った。
*
イチカたちが根城にしている下水道区画はアリの巣城に通路が伸びている。その一画、影に隠れるようにしてイチカは壁の前で体育座りをしていた。
足元でどこからか迷い込んだアリの後進が地面を張っていた。アリは孤独じゃないんだなとイチカは投げやりに思った。
膝に顔を埋めるようにすると、懐からぎゅううという情けない音が鳴る。
空腹で、惨めな気分が重くなった。
「ああ、こんなところにいた。探したよぉ」
頭上からの声に目元をくしゃっとさせて顔を上げるとムクがイチカを見下ろしていた。
「おじいちゃんトシだからさ。脳みその皺が顔に移って脳みそツルツルになっちゃったんだよ。だから新しい感じのこと言ったって無駄なんだよぉ」
「ひとりにしてください」
そのとき不意にイチカのお腹が一際大きな音を鳴らす。
にししとムクが揶揄うような笑いが聞こえて、恥ずかしさで頬が熱くなる。
「お腹に誰かいるみたいだけど。ひとりじゃないみたいだね」
「……こ、このまま胃液で消化するのですぐにひとりになります」
「意地張るなよぉ。パン持ってきたんだからさぁ」
ムクがコートのポケットから惣菜パンを取り出して、イチカの前に見せる。
「それ、ムクのでしょ」
「半分こしよ」
「……いいんですか」
「今回だけだよ」
ムクは取り出した惣菜パンを器用にちぎって二つにわける。その片方をイチカによこした。
イチカはしばらくつまんだその片割れを見つめてから、ぱくと頬張ってみる。半分だったが、二人分の味がして。
「元はと言えばツバサにパンいっこまるまるあげたのが悪いんだからね」
舌の上で広がる幸福を感じるのが精いっぱいで、ムクの小言も甘く感じる。「こいつ聞いてんのかぁ」という目線に微笑みで返すと、ムクが柔らかくため息を吐いた。
「まあ。イチカのそういうとこ、ムクは好きだけど」
「私も。……私もムクが好きです。おじいちゃんも、ツバサちゃんも」
「アホ」
「アホじゃないです。脈絡なく暴言吐かないでください。アホじゃないので」
「そんなふうに、手を広げてみんなにあげるよーってするからダメになるんだよ。ひとりに絞って」
「……そう、ですね」
確かにそうかもしれない。この手で一度に掴めるものはきっと限られている。
ならば今一番掴むべきは。
「ムク、ありがとう。おかげで元気出てきた気がします」
「たぶん食べたからだけど。もらえるなら礼は受け取っとく」
「おじいちゃんと話さないと。耳にタコができるぐらい繰り返せばわかってくれるかもしれません」
「パワープレイだなぁ。ノイローゼになるかもね」
「そこまではしませんよ。……おじいちゃん次第ですけど」
ムクの呆れ半分なため息に、イチカはふっと笑った。
*
ムクに別れを告げてから通路を軽い足取りで歩く。迷路みたいに入り組んだ下水道区画だが、イチカは経路を熟知していたので難なく目的地にたどり着く。
緊張で肺がきりきり痛むのを、ひとつ深呼吸して和らげる。
目の前にある鉄扉の向こうが老人の寝室代わりだった。
こんこんと硬い金属面をノック。
反応はない。いつも通りだった。彼は耳が遠い。それを知っていてもマナーとしてイチカは無意味なノックをこの数年止めることなく行い続けていた。
錆だらけのドアノブを回して、重い鉄扉を押し退けるようにして開く。ぎぎぎと軋む音が響く。どちらかというと、この軋む音で老人はイチカたちの入室を知ることが多い。
漏れ出した光がイチカの視界を明るくする。
ぼんやりとした光を放っているのは部屋中央にぽつんと置かれたカンテラ。床からぼこぼこ生えてきたみたいにボックス型の収納家具が不規則に乱れ置かれている。どれも外周区から拾ってきたジャンクで清潔感は皆無だ。
部屋の壁際、イチカに背を向けて老人がパイプ椅子に座っていた。
「おじいちゃん。……話しても、いいですか」
返事はない。
「怒ってるんですね。じゃあ私が話すので聞くだけでいいです」
むすっとした言葉が狭い室内を跳ね返った。
「私はあなたがしたことを知りません。だから、それの重さもわからない。でも私が今ここに立っていられるのはあなたのおかげなんです。その事実だけであなたを語れる。あなたは罰を受けるような人じゃない」
自分が少し恥ずかしいことを言っている気がして、膝をもじもじと擦り合わせた。
「何度でも言います。今が悪い状況なのは、悪いことをしたからなんかじゃありません。無関係です。非科学的です。因果関係なんてありません」
返事はない。
「それでもあなたが因果だとか罰だとか徳だとか、そういう不確かな考えを持ち続けるなら。私があなたの代わりにいいことをいっぱいします。そうすれば、私を育てたこともいいことになりますよね」
イチカはひとつ息を吸って。
「私、いい子になります。あなたが私たちを育てたことを後悔しないように、私が生まれたことを祝福できるように、いい子になりますから」
宣誓するように言い切ってみせる。
「だから、もう自分を責めないで」
それでも返事は、ない。
妙だ。
「あの、さすがに何か反応が欲しいんですが。……おじいちゃん?」
近づいて、椅子に座る老人の背に手のひらを当てて揺する。
老人の枯れ衰えた上半身がゆらりと、横に立つイチカに倒れこむ。
「…………えっ?」
老人の軽い重量がイチカの骨張った肩を押して、突然の事態にもろとも倒れてしまう。視界が滑り、背中に走る衝撃。
イチカと老人は、暗く狭い部屋の固いタイルの上に並ぶかたちで転がっていた。
「おじいちゃん……?」
近寄って老人を抱き起こす。
息をしていない。心臓も動いていない。
あまりに脈絡がないものだから、思考が勝手に原因と結果を紐付けしようとして。
イチカとの口論が、老人の命を保っていた最後の命綱を切ってしまったのではないかと、そんな非論理的な考えが浮かぶ。
違う。今考えることは原因じゃない。
助けることだ。
「ムク……ッ。おじいちゃんが、おじいちゃんが……!」
肺を引き絞るような叫びが下水道空間を反射する。
咄嗟に脳から知識を引っ張り出して蘇生処置の真似事を試みる。
仰向けにした老人の胸の辺りに両手を重ね合わせ、規則的なノッキング。
止まってしまった心臓を無理やり動かし、止まってしまった呼吸を代わりにイチカが担い、続ける。
イチカの半端な知識を総動員して行うが、意識はおろか呼吸も復帰しない。だが続ける。無意味かもしれないノックを続けることを続けて。
「もう無駄だよ」
気付けばムクが扉の前に立っていた。冷め切った目でイチカを見下ろしていた。
そのときになってようやくイチカは自分の肩が激しく上下していることを知覚した。
『呪われた子供たち』の持久力があってなおの疲労。いったいどれだけの時間続けていたのか知るよしもない。
老人は動かない。
続けないと。何百回目かのループを開始するため手を老人の胸板に載せようとして、その腕をムクに掴み止められる。
「無駄だよ」
「諦めないでください──!」
ガゴン、と。
耳が痛くなるような、金属同士が引き擦り合わされる音が頭上から響いた。
イチカもムクも硬直し、音の発生源を凝視する。
音の正体はすぐにわかった。マンホールの開閉音が、下水道伝いにここまで伝達したのだ。
外から吹き込んだ寒風が温度を下げる。
誰だ、と疑問が浮かぶ。この下水道に点検の手が伸びたことはない。ツバサでもない、彼女に持ち上げる腕はない。
例えば野良で居場所がない子供たちが、居場所欲しさにこの下水道に入ったとか。違う。
無性に嫌な予感がして、心音がうるさく思考を邪魔する。なにか圧倒するような、思わず足が退くような、そういう気配を察知する。足音。ここから逃げろという警鐘。根拠のない確信があった。
音が近づく。
ドア枠の向こうに広がる暗闇が、橙色の光に押し除けられて消えていく。
カン、と硬い音を立てて鋭利な靴先と共に現れたのは長身痩躯の男。
闇と同化する黒いフードを被っているせいで、暗闇の中に痩せ衰えた顔だけ浮かぶ。右手に弱々しく灯るカンテラを提げ、左手には銀の短剣。
落ち窪んだ眼窩は男の年齢を同定不能にしている。その肩には雪が積もっていた。
背後で足を擦る音。仲間がいるのか。
男の不気味な視線がイチカに突き刺さる。
「硬直しているな。袋小路で逃げ場がないのか」
男の言う通りだった。
なぜか体が一瞬固まる。遅れて『呪われた子供たち』の知覚が、目の前の男を恐怖しているという事実に気づく。ばかな。ありえない。イチカとあの男との間には絶対的な差がある。いつも通り、力づくで切り抜ければいいだけ。
だが動けない。
「逃げ道は用意していなかったのか。それとも考えていなかったのか。後者らしいな。それを考えるとどうしようもなくなるから考えなかった。先を見なかった。……哀れだな、赤目」
「……あなたは、なんなんですか」
「俺か? ──俺は、死だ。これからお前たちに降りかかる死だ」
「なんで」
「なぜここがバレた、か。簡単だ。お前たちを囮に使った赤目のグループがいただろう。そいつらの口を裂いて喋らせた。正確な場所は奴らも知らなかったから、近くにいた赤目に『聞いた』。五人目でようやく知ってるやつがいて幸運だったよ」
イチカは目元に力が入るのを自覚した。目の前にいるのは敵。
老人の傍から立ち上がって、ムクを庇うようにして一歩前に出る。
直後、暗影に隠れて見えなかった男の腕が持ち上がり、胴体ほどの大きさの白い物体が硬い通路に跳ねる。
それを見てイチカの喉がひうっと痙攣を起こす。
「足元に転がっているのがなにか、わかるか?」
白い物体は翼だった。見覚えのある白翼。
ツバサの片翼。
付け根のあたりは薄赤で染まっていた。強引に引きちぎられたのだ。
なんで。じゃあツバサは?
「それが、死だ。予感しろ。これからその汚れた身に降りかかる死の重さを」
瞬間、イチカの爪先から脳天へ憤激が駆け上がった。
力を解放。感覚が捉える肉体が実在以上に広がる錯覚。全身の細胞が騒がしく狂乱。
イチカの両目が赤熱する。
『呪われた子供たち』の人外の踏み込みがコンクリートを砕き、イチカの肉体を前方に投げ出す。
身が引き締まる加速感も一瞬、男へ向かって飛びかかりざま振り放つ型なしの拳。
不意に男が跳ね上げた手のひらがイチカの魔拳を掴み受けたかと思ったら、勢いをそのままにイチカの肉体が前に引き込まれる違和感。
思い描いた運動軌道が抹消され、つんのめった瞬間、腹部に鈍い衝撃が突き刺さる。横隔膜が揺らされて意識が一瞬飛びかける。
イチカの腹部には男の振り上げた掌底。そのまま突き上げられ、掴まれた手首を軸にしてイチカの肉体が回転。突進の勢いを完全に利用され、出鱈目な勢いで宙に投げ出される。高速で滑る視界に天地を見失う。
背中から地面に叩きつけられてハッと目を見開く。
イチカの視界いっぱいに男の靴底が迫っていた。
隙を与えない踏み付け攻撃に、死に物狂いで肘を地面に叩きつけて反動で横に転がる。
直後、脇腹のすぐ横を凄まじい勢いで靴底が擦過し地面をにじりつける。直撃していたらと思うと悲鳴が漏れる。
腹這い状態から起きあがろうと地面に手を突いた瞬間、背中に重い激痛。なす術なく地面に擦り付けられて、衝撃で肺の空気を全て吐き出す。
膝がイチカの背骨をみしみしと踏みつけていた。男の全体重が膝一点に集約し、未発達の矮躯を容赦無く押し潰す。
激痛に悶える間もなく、ぐいっと肩を極められる。先に掴まれた腕が極められ、みしりと筋肉が裂ける激痛。うまく力が入らない。
イチカは男によって完膚なきまでに組み敷かれてしまっていた。
「お前たちはこの末世で懸命に生きようとしたのだろう。そのために他者を犠牲にしたのだろう。それは別にいいんだ。俺たちも同じことをしてきたし、今もしている」
「ふざけるな! あなたが私たちのなにを」
抵抗しようと力んだ瞬間、後頭部を激しく打ち付けられてふいにする。
「だが気づいていないな。お前たちに未来はない。この生活を続けてなんになる? 社会から認められずただ食って寝て奪って殺す。だがその先には、なにもない。幸福はお前たちを待っていない」
イチカの上で男の重心が揺れたと思ったら、首筋にぬるい鼻息がかかる。
目と鼻の先に男の死人めいた顔があって、心臓が止まりそうになる。
「無駄だ。お前たちの生存は何も産まない。その過程で消費される命が可哀想だと思わないか? ……もう、いいだろう。諦めて、いいんじゃないのか」
目の前を遮るようにして銀閃が走り、ひうっと苦鳴が漏れる。
息がかかるほど近くにナイフのきらめき。汚れ一つない刃面に、激痛と恐怖でくしゃくしゃになったイチカの無様な表情が映り込んでいた。
バラニウムではない。傷はすぐに治る。だがそれでも痛いのは怖い。
「ヒトはな、幸せになるために生きてるんだ。そのために他を取り込み糧とする。だがお前らはどうだ? この先に幸福が待っていると本気で思っているのか?」
男の粘性を持った指先がイチカの毛先を尊厳なく弄ぶ。
「ありはしないよ。お前らに生きる価値はない、生きようとするだけの価値はない。もう、頑張らなくていいんだ。ここで終わりにしてしまえばいい」
腐指はイチカの髪を丁寧に梳かす。
ねっとしとした愛撫に体の芯が震える。伸ばした髪束に短剣の刃が当たると無抵抗に刃先が滑り込んでカット。
男はまるで宝物を扱うような丁寧さで切除したばかりの髪束を鼻先に当て、空気を吸い込む。
歓喜に震える男の恍惚とした吐息に本能的な恐怖を覚える。
一刻も早く逃げなければ死ぬだけでは済まないと直感する。
イチカはなりふり構わず、涙も唾液も撒き散らして必死の抵抗を行う。寒いのにじわりと汗がにじみ出る。額に玉粒の汗が浮き上がる。
満足に力が入らない足掻きは男の体重を支えることなどできない。万事休す。絶望的な事態に目の前が真っ暗になる。
「なにをぐずぐずしてるのッ。さっさと殺しなさいよッ」
新しく女の声が入る。
男の引き連れた仲間のうちのひとり。
男が興を削がれたなと舌打ちすると、女は唇を噛み締めて真っ赤な顔で睨み返す。
「そうだ。他にも仲間がいるかもしれねえ。ちんたらしてると逃げられるぞ」
「いいえ、殺す前に、他にも仲間がいるのか聞きましょう。無駄な捜索をしなくて済むでしょ」
「…………そうしよう」
女の声が呼び水となって、他の声も混ざり始めた。中には老人と同じ高齢の老婆もいた。頬が弛んでいて、笑えばきっと周りを安心させるだろう雰囲気があった。だがその老婆も震えながら、イチカたちをどう処するかの話し合いに加わっている。
見ればムクもまたイチカと同じく組み伏せられていた。顔を地面に押し付ける姿勢で、その表情は窺えない。
「私たちが、あなたたちになにかしましたか……?」
八つの並んだ瞳がイチカを見下ろした。
「しただろう。今朝内地を襲撃したばかりだ。忘れたのか?」
イチカの上で男が囁く。
「誰も傷付けてません。おかねのほうは……ごめんなさい。でも」
「でも? 帳尻つく訳がないだろう。それに、この場にあの店の人間はいない。だから謝罪も受け付けない。問題としているのは盗みをしたことそれ自体ではない。お前が生きていること。そして生きるために内地を襲撃したこと。この二つだけだ」
困惑する一方で、彼らがイチカに対して怯えているのが感じ取れた。
彼らはイチカが暴れると思っているのかもしれない。なら、その誤解を解けば。
「私たちは、ただ生きていければ、それだけで十分です。外にも……出ません。あなたたちの前にも現れません。だからお願いです。許してください」
「だめだ」
「うそをつけ。お前らは虎視眈々と機会を狙っている。復讐の機会を」
「総理大臣殺しておいてよく言えるな!」
そんなことは知らない私はやっていない。きっとひどい勘違いをしている。誤解を解こうとして。
ここでイチカは、なぜあのスーパーマーケットの店員が護身用の銃を違法にも関わらず持ち出していたのかを知る。東京エリアは今、元首相を『子供たち』が暗殺したという衝撃的なニュースによって過敏になっているのだ。
そんな時勢に、イチカは内地で暴れたのだ。
心の芯が急速に冷え込んだ。
「待って。違います。私はそんなことしてません」
「赤目は皆同じだ。外周区で放置するのは間違いだった。結託して私たちを殺す気なのよ」
「駆除しましょうッ。早くして!」
「殺されるかもしれない。その前に、今ここで」
「話を聞いてッ」
イチカの声は、彼らにはオオカミの遠吠えに聞こえているかのようだった。野生動物に話しかける人間はいない。
彼らの中のイチカは、会話するに値しないと位置付けられている。そう悟って、表情を失う。
「見ろ。そして聞け。これがお前たちの生まれ落ちた世界の声。お前たちが『呪われた子供たち』と呼ばれる由縁。誰もお前たちの生を祝福しない。その産声は呪いに塗れている。悲しいよな。辛くて堪らないよな。もう全てを投げ出してしまいたくなるだろう。後生大事に持つほど価値ある命じゃないだろう。そのことを、身に染みるほど理解したはずだ。なあ、違うのか?」
違う。自ずと、抵抗する力が強まる。
だが言葉は出ない。宣言できない。認めてしまっている自分がいる。
「わかっている、わかっているさ。お前の
そうなのか──?
この男の言う通り、全て終わっているのか。そんな。そんなことは。
口の中で異音が鳴って、それが噛み締める力のあまり砕き割れた奥歯の音と知る。
全身の筋肉が錆びついたドアのように悲鳴を上げる。心臓は無意味なノックを続ける。
限界を超えた運動の強制によって全身の筋繊維が弾け飛ぶ勢いで破断。てこの原理と蓄積負荷の掛け合わせによって主要な骨格が軋み歪み砕ける。しかし構わない。
このとき、氷鷺イチカの中には一切の思考が存在しなかった。
ただ炭化した感情だけが肉体を突き動かし、肘の可動域を無視した運動を強制実行した。男のいう生きるだとか死ぬだとかは、もはや脳内に残っていなかった。ただ漆黒の本能があった。
背中に乗り上げている男がワンテンポ遅れて異変に気づく。
男の固め技は完璧だった。力を入れようものなら筋肉は破断し激痛が走る。赤目といえど痛みは感じるから、極まった状態は必然、制圧完了を意味していた。あとはいたぶるだけでよかった、きっとこれまでもそうだったように。
だが今回は違う。これからも違う。
男の息を呑むかすかな音をかき消すようにイチカの雄叫びが下水道を反響する。ふっと背中から重しが消え去り、過剰な力が解放されてイチカの矮躯が空を跳ね上がる。
硬い通路の上を転がり、背中を打ち付ける。手を突き上半身を跳ね上げ、はっとして男を見上げる。
男は靴底を地面で擦り減らしながら着地ざま、拳銃をドロウ。その銃口がこちらを向いて。
自ずと、手が後ろに擦り引かれ、その指先に触れる冷鉄。農業用大鎌。下水道に入り込むガストレア退治用にイチカが使っている。けして武器には向かない武器。
知覚できる時間単位が改変され、世界の進行速度が奇妙に停滞する。
──殺せ!
イチカの中でノイズ染みた叫び。
ここで奴らを逃しても第二の襲撃が来る。逃さずここで根絶やしにしろ。
追い返して、逃げるという選択肢。ありえない。今日、同族に裏切られたばかりではないか。居場所などないのだ。
だから、そう、これは仕方がない。
大鎌に力が入り、
そこでイチカの指先は凍った。
びくともしなかった。
だめだ、まだ最後のひと押しが足りない。氷鷺イチカの人格を奈落に突き落とすための、最後の要素が。
そのとき視界に、組み伏せられたムクが入る。
男の仲間によって組み敷かれ、抵抗することなくされるがままになっている。完全に諦めているのだとひと目でわかった。そんな目をしていた。
──その瞬間、氷鷺イチカの中で思考と肉体が分離するのを感じた。
『この世に仕方のない悪など存在しない。因果は巡り、悪を行なったものに罰を与えにくるのだ』
脳裏で爆ぜる老人の声。
そうかもしれなかった。でも。降りかかる死が結果だというのなら私は。
私は、振り払う。
「ほぉらおちた」
脳内活動が爆発的活性を得る。知覚できる時間単位が改変され、視界に映る世界の動きがこれまでになくスローに。こちらを見る男の表情が歪み、笑顔に変わる様を全て捉える。
五感で取得できる情報量が通常の数十倍に拡張され、彩度が嫌味なまでに増す。世界の美しさと自身の悍ましさを同時に体感する。
銃を引き絞る指の速度も、その銃口が指し示す致死軌道も、彼らの足がこれから先に踏み込む座標もすべてを知覚におさめた。
息を全て吐き出して目を閉じる。呼吸を止める。
その先を見る必要はもうなかった。
自分が今から殺すであろう人間の顔を、闇で塗りつぶした。
*
背中で震える体温で、イチカの意識は現実に戻る。
自失してくずおれたイチカを、ムクが抱きしめていた。
指先から大鎌が擦り落ちて、ガゴンと硬質な音を闇の中に響かせる。
たった今まで驚くほど軽かったのに、質量が変化したかのように重く感じた。
「いいんだよ、それで。そうするしかなかった。しかたなかった。苦しくなることないよ」
イチカの耳元でムクが囁く。仕方なかった。そのワンセンテンスがイチカの脳内を広がって、冷え切ったイチカの体温を溶かした。
ふと自分の服を見下ろして、灰色は汚れが目立たないという言葉を思い出した。なるほど、確かに目立たない。
そして確信する。おそらくこの先、氷鷺イチカはこの生き方しかできない。だから、もう白い服は着れない。そうでなければ、自分が汚れた存在であるという事実を誤魔化せなくなる。なにせ白生地は汚れが目立つ。
だが今は。
確かにムクを守ることはできた。それだけで十分な結果だ。
ならばなぜこんなにも苦しいのか。