今目の前で殴られている男はこの世になんの利益を生まないような男だ。サラリーマンとして二十四年間生きてきたが、リストラされたことをきっかけに人生のドン底に落ちてしまったクソ。
その衝動でギャンブルに依存し、アルコールに依存し、仕舞いにはサラ金にまで手をかけるようになってしまった人物。典型的なクズ人間だ。これじゃあダメなんだと、海の上で、もがいてはいたようだが、とうとう力尽き、沈んでいった。息ができない海の中では、彼のもがきはなんの意味もなかった。仕方がない。彼は元々そういう星の生まれだ。サイコロの目が一二三しか出ないような、どうしよもうもない男なのかもしれない。
タイラー・ダーデンがいれば自ずと彼はその優秀さを買われてスペース・モンキーの幹部にはなれるだろうが、あいにくそんな人物も現実世界にはいない。世界を壊すことも、クズが成功者を負かすようなことも、この現実世界にはありはしないんだ。それはこんな山奥で殴られ続けている彼もわかっていることだろう。
「ッ……!!」
男の願望である強い男とは真逆の人生を歩んできた末路。虐げられて、嬲られて、それから捨てられる。弱者の悲鳴には表現がない。彼自身は訴えることもできないのだ。ただ彼の身体はやめてくれと必死に汚い血飛沫こちらに飛ばす。よっぽど彼よりかは優れているのかもしれない。
「ねぇ、それ以上やったらダメなんじゃない?」
僕の横にいた女性がそう呟いた。綺麗に整えられた長い黒髪を左手でいじりながら、右手に持った携帯を眺めている。こんな時にでも自分の容姿に気を遣っているのがなんとも彼女らしい。
車のヘッドライトに照らされたその表情は、なんともつまらなさそうな顔をしている。ほんとはこんな場所にきたくなかったというのが伺える。
彼女は僕の視線に気付いたのか、僕の方に顔を向けた。整った顔立ちとその表情が見事にマッチしていて、思わず見惚れてしまうほどだ。
「なに?」
彼女の問いかけはそれだけ。彼女の言葉はいつもどこか抜けている。何に対する質問か、何に対する答えなのかはこちら側が考える必要がある。それを考えるだけで日が暮れる。いや、もう深夜なんだけどね。
僕は首を横に振ってその質問に正直に答えた。
「いや、君の顔があまりにも綺麗だったから、つい見惚れてしまった」
なんともまあ呑気な応えだ。すぐ目の前には殴らているクズがいるというのに……我ながらすごく不謹慎だと思う。クラスの子にでも話せば怪訝な表情を浮かべるのは間違い無いだろう。しかし、彼女の反応は違っていた。何やら含んだような笑みを浮かべ。こちらに近づいてくる。
「なになに?惚れた?惚れたの?和樹君惚れちゃった?いいよ、これ終わったらさ、ヤろうよ。今度はもっと激しいヤツでさ」
しまった。思わずエンジンを掛けてしまった。鍵はどこにしまったかな。今はボタン式か。
「ヤるのはいいけど、君の愛はとっても重いからまた予定を組んで今度またヤろう。朝から晩まで付き合うよ」
これでいいかは判らないが、このくらい言っておけばいいだろう。否定も肯定もしないような会話がちょうどいいんだよ。
彼女は僕の言葉に対して、にこやかに頷いた。
「いいよぉ?予定組もうか。その時は上物を取り揃えておかないと……君も使うよね?もうそろそろ使ってもらわないと愛が爆発しそうだよ……で、いつヤる?明日?それとも明後日?」
意外と早いな。思い立ったがなんとやらというのはこういうことを言うのだろう。まさしく日本の女性だ。まあ、大和撫子かどうかは置いといて。
僕が彼女の二度目の質問に答えようとしたとき、クズを殴っていた男が腰を上げながら僕たちに話しかけた。
「その辺にしとけヴァージンども。ヤるヤらないの話はホテルについてからでもできるだろ。料金プランを見てからでも遅くない」
彼を殴るのに飽きたのか、タバコに火をつけながらそう呟いた。フゥーッと白い煙を吐きながら、アザだらけの男性をつまらなさそうに見つめる。とても君らしい回答だ。冗談で返せるところが中々個性的だ。僕も君のように答えようか。
「その通りだね。いま僕たちがヤるのは違うね」
「そうだ。カタカナじゃない方の殺るほうだ」
僕たちの意見は自ずと合致する。目を合わせながら僕が頷くと、男性もまた頷いた。阿吽の呼吸と言っても過言では無いだろう。そう感じると自然と笑みが溢れる。
「なんだよ気持ち悪い」
「いや、ただこの構図が面白くてね……まるでヴィセント・ベガとジュールス・ウィンフィールドみたいだなって」
「パルプか?ふざけんな、そんなんじゃねぇよ。大友と水野だよ」
「君は邦画が好きだなぁ。ヤクザ映画はあんまり好きじゃ無いんだ」
「見とけ見とけ。あれは名作中の名作だ」
僕らの会話はいつもこんな感じだ。どこにいてもどんな時でも核心をつくような言葉なんかない。しかし、その中には確実に何かがあった。例えば今がそうだ。僕たちが見つめている先には、先ほどまで殴られていた男性がいる。きっと彼からしたら、僕たちは殺し屋かヤクザにしか見えないのかもしれない。
「ちょっと金田、邪魔しないでくれる?もうちょっとで堕とせそうだったのに……」
金田は短い金髪を適当に掻きながらため息を漏らした。
「俺の所為じゃない。お前がエンジンかけすぎなんだよ。燃費が悪いのが目に見えてるから、寄ってくるものも寄ってこない」
「なに?私がアメ車だって言いたの?」
「旧車は大抵燃費悪いだろ」
「言っとくけどこれでも24なんだけど」
「ああ、見た目と歳だけ見たらハイブリッド車かもな。大事なのは中身だ。人間も車もな」
金田は葦波とテキトーに会話をしながら吸っていたタバコをピッと彼女の方に投げ捨てた。彼女は愚痴りながらその怒りを足に変え、そのタバコを踏みつけた。なんともまあ彼女らしい。理性的なところがあまりない。どんな風に育ったらそんなことができるのか、教えて欲しいくらいだ。
「しかも、こいつはお前には振り向かない」
「は?まだ噛みついてくるの?」
「噛みついているのはこいつが飼っているペットの方さ」
「……君たちの会話に僕を巻き込まないでくれよ。それに彼女はペットじゃない」
「その静かな怒り方は誰の影響だ?マイケルか?お前はいつからコルレオーネに改名したんだ?」
ならば君がフレドで間違いない。僕の話はよせ。君たちには関係のないことだ。
いきなりの話の振り方に僕は少しばかり怒りを感じたが、流石にこんなところで怒ったところで、なんの意味もないことくらいは知っている。僕はため息をついて金田に話しかける。
「ほら、僕の話はよせ。獲物が逃げるだろ?」
「そうだ、確かにそうだ。おい、今の会話聞いたか?」
男性は今のうちに逃げようとしたのか、這いつくばうように、その場を後にしようとしていた。その逃げる身体は金田の一言で、凍ったように動かなくなる。寒いのか、身体震えているようにも見える。
「まるで田村一等兵のような歩き方だな。役作りに熱心なのはいいことだぞ」
僕はあえて、なぜ這いつくばうように歩いているのかという質問を金田にすることはせず、彼のジョークに笑みで答えた。足の向きが逆になっているのを見れば、自ずと答えがわかるもんだ。人間は言葉にしなくてもわかる生き物なんだ。それを忘れてはいけない。
僕たちは後ろを向いて固まっている男性の顔を見るべく、彼の前に立った。膝を曲げ、コンビニで屯しているヤンキーのような座り方をすると、男性と若干同じ視線になった。
「ええッと……なんていう名前だっけ?」
「森田」
「森田さん、貴方なぜ僕たちがこうしてるかお解りで?」
「うっ……うっ……」
「わからないってよ」
「んじゃあ、解るまでやるか」
「ま、まって!まって!!」
金田が森田さんに近づこうとすると、必死な形相でその行動を止める。手だけを左右に激しく揺らし、地面に頭をつけて、やめてくれと懇願する。
金田はそんな森田さんを見ながら、胸ポケットからタバコを取り出した。
「なあ、森田。お前もうダメだろ。サラ金を返すあてもないし、職もない。使える通帳はもうウチが買い取ったし、クレジットも銀行も全部ブラックリスト入り。あるのは免許証のみだが、その免許証も先日のジャンプでもうなくなった。おまけにお前の名義にも信用がねぇから、家すら借りられない……缶コーヒー買うのにも苦労してるだろ?」
「……ッ!!」
金田の言葉に再度身体を震わせる。どうやら頭で理解してるが、感情がそれを理解できていないらしい。
「もうアンタは終わりなんだよ。わかったか?」
「だ、だからって殺すのは……!!」
「殺す?なんで僕たちが森田さんを殺すの?」
僕がそう言うと、森田さんは顔を上げた。目を見開き、微かに残っている手の力で身体を少し持ち上げた。
「確かに貴方の借金を立て替えたのは僕たちだ。要するに権利を僕たちは買い取ったわけだ。煮るなり焼くなりするのは自由。だけど、それをしたところでお金にはならないよ」
「じゃあどうするか」
「君自身を売るしかないよね?」
僕がそう言った時、森田さんの目から光が消えた。顔を上げた時に見えていた驚いた表情には、確かに希望の光があった。きっとなんとかなるって心のどこかにあったのかもしれない。そんなわけないのにね。
「森田さんの借金を買い上げた金額が……確か三千万くらいだったね。それから僕たちが買い上げてからの利息が一日で三割、それで大体三ヶ月は過ぎてるから、八億一千万くらいだね」
「そ、そんなの……そ、それは暴利だ!!」
「いままで吃りだったのに、ここにきて雄叫びか?まるで溝口だな」
「金田、森田さんにはそんな大層な思想を持ち合わせてはいないよ」
金田はタバコを吹かしながらつまらなさそうに上を向く。フゥーッと先ほどのように白い煙を吐きながら、星を見上げていた。これは僕に説明を任せる合図だ。
「あのね、森田さん……これは暴利じゃない。確かに無茶苦茶な金額だと思うけど、そうじゃないといけないんだ。筆頭然的法則ってやつだ」
「な、なんで……」
「僕たちが儲からないから」
「……うっ」
「貴方は僕たちから三ヶ月も逃げ続けた。それは誇りに思うべきだ。僕たちの力なら本来三日以内には見つけれるはずだった」
「泳がしたの間違いだろ?希望を与えるな」
横槍が入ったが、僕は森田さんに話しを続ける。
「それで膨れたんだよ。森田さんはこの借金に絶望しているけど、これはここまで逃げた証……所謂名誉ある傷だ」
「深い傷だけどな」
金田は吸っていたタバコを僕に渡す。いつも言っているが僕は吸わない。君はいつから若年性アルツハイマーになったんだ。僕は手を左右に振り、いらないとアピールするが、彼はそれでも勧めてくる。ゆらゆらしてる煙の匂いが服につくから素早くタバコを取り、足で揉み消した。
「さて、本題はここからだ。お前には八億を払えることはできない。いくら俺たちだからって、缶コーヒーを買う金すらねぇ奴からむしり取ることはできない。ならどうするか、お前のものを売るしかねぇ」
「……う、うる……?」
答えがいまだ導き出せないのか、金田の言った一言を呟いた。察しが悪いのは、もはや犯罪に等しいことだ。
金田はため息混じりにだからと続けた。
「お前を売るんだよ。脳や臓器、それに血管や皮膚……あらゆるものを売る。こっちにはそういったパイプがあるから安心しろよ。お前みたいな奴でも何億にもなるんだぞ。本気出せばね」
「ひっ……!!」
森田さんは僕たちの顔を見ながら小さく悲鳴をあげた。折れた足を曲げて、伸ばして、なんとかその場を後にしようとするが、匍匐前進はバレている相手には効果がない。
僕は森田さんに諭すように言った。
「森田さん、そんな怖がることじゃないよ?貴方はただ寝ているだけでいいんだ。そしたらもう意識もクソも戻らないから……これ以上に最高な死に方なんてないよ?」
「こいつの言うとおりだ。みんな所謂安楽死や長寿の上で死ぬ大往生を羨望しているんだ。それに近いもので死ねるなんていいことだぞ?」
「森田さん、それに貴方の死はこれから色んな人たちを助けるものになるんだよ?この世にどんだけドナーを待っている人がいると思う?」
森田さんはとうとう涙を流した。
「そうだ。臓器や心臓はドナー、骨は標本、脳は研究所。生きている人間の脳は珍しいし、それに脳は解明されていない部分が多いから高く売れる……要するにお前の声以外の部分には使い道があるんだ」
「そうそう、だから怖がることなんてないよ。貴方の死は、貴方の人生以上に硬貨な死だ」
「アーサー・フレックか?」
「どうだろうね。トラヴィス・ビックルかもよ?」
もっとも、森田さんには正義という文字は似合わないけどね。僕たちを見ながら怯えている彼を見てそう思いながら、僕は話を進める。
「じゃあ宴もたけなわってことで……森田さん、最後に残す言葉は決まってるかな?」
「うっ……うっ……」
「決まってないらしいな。じゃあ、早速始めるぞ……葦波」
金田の言葉に反応して、葦波が金田に近づいていく。彼女は今だに怒っているような表情をしており、まだ先ほどの言葉に納得していないといった感じが滲み出ていた。
金田はそんな彼女をあしらうこともなく、彼女から注射器を手渡されると、左手で森田さんの腕を掴んだ。
「そのまま運命に従え。それがお前の唯一の救いだ」
「……最後に一ついいですか」
森田さんは項垂れた様子でそう呟いた。僕と金田は顔を見合わせる。金田は首を僕の方に小さく動かし、注射器をそっと彼の腕から離した。
どうやら僕に裁量権を持たせてくれるらしい。
「なに?最後の言葉見つかった?」
「……妻と子どもたちには幾らか入りますか?」
「妻や子どもたちって……」
「数年前に別れた女房と子ども二人のことだな」
なるほど、森田さんはその家族を心配しているのか。確か奥さんは四十過ぎていて、子ども達は小学生だったな。四十過ぎていては、再婚も難しいか。少なくとも奥さんにお金を渡して欲しいってことか。
僕は今だに表情が見えない森田さんに諭すように話しかける。
「安心して欲しい。僕たちは貴方の借金をチャラにする手伝いをしているだけで、残りの金額も全部むしり取ろうという邪智暴虐なクソ野郎じゃないよ」
「珍しいな、日本からか?」
「元を辿れば古伝説と詩からあれを書いているから正確には違うよ」
「博識は悪役に向かねぇよ」
「……い、幾ら入りますか?」
弱々しい森田さんの言葉に僕と金田は再度顔を見合わせた。しまった、森田さんの明細書を持ってくるのを忘れた。発案者の僕が忘れてしまってはどうにもならない。
僕は金田に首を横に振ると、葦波が僕の肩を叩いた。後ろを向くと彼女の顔が目の前にあり、先程とは違い笑顔だった。彼女の手には明細書が握られている。うっかりの僕を見越してあらかじめどちらかが持ってきてくれたんだろう。
僕は森田さんに話しかけた。
「森田さん、ここに明細がある。貴方の借金がどう膨れたか。まあ、一日三割の九百万ずつ増える計算だから単純なものだけど……。それに加えて、僕たちの儲けとここまで連れてきたガソリン代、手配してある車なんかの代金を含めてる……。それを差し引きした金額を家族に渡せばいいね?それにも手数料かかるけど、いいよね?」
森田さんは僕の言葉を聞き、やっとその顔を上げた。アザだらけになった顔には湿った土がついている。元から汚い顔立ちであるがため、もっと汚さが僕たちに主張していた。こんな人でも結婚できるんだ。人生捨てたもんじゃない。
森田さんが見やすいように紙を広げて、ゆっくりと近づける。彼は目を細めながらその小さな文字を目で追っていく。どんどんと険しい表情になっていくのがわかる。
「わかった?この金額だけ取るよ?いくらで売れるかで変わってくるけど、そのうちの八割以上は売った手数料としてもらう。そして残った金額を家族に渡すわけだけど……葦波、もう金額わかってるよね?手数料引いて残りいくらになるの?」
「いっ、いや……いやだ!!」
「待って、計算中」
首を横に振る森田さんを見ながら、紙を小さく折り、森田さんの胸ポケットに乱雑に入れた。一応、渡しておかないと、トラブルになるからね。
「出たよ……えっと残るのは一万八千円」
「んで、お前の豚たちに送る手数料を引けば……まあ、残るのは二千円くらいか」
「よかったね、森田さん。牛丼の大盛りを三人食べられるじゃないか。しかもお釣りが来るし」
共食いにならなくてよかったな。そんな吐きセリフを口にしながら、金田は再び森田さんの腕を持ち上げて、注射器をゆっくりかざした。
ハラハラと涙をこぼす森田さんは首を横に振りながら必死になって嫌だと呪文のように唱える。そんな彼を見て、金田は鼻で笑い、一瞬だけ僕を見た。
「おい……人生最高の瞬間なんだぞ?なのにお前は逃げるのか?」
「ああ、今のこの状況にぴったりなセリフだね」
「いやだぁぁ……いやだぁぁ!!」
注射器の液体がゆっくりと森田さんの腕に入っていく。その瞬間から森田さんの力のある声は段々と弱くなっていく。
即効性のある薬は高価なものだが、躊躇いなく使う。なぜならその分儲ければいいから。
「森田さん、じゃあね。家族に残った分渡しておくよ」
意識が朦朧としている森田さんの頭をそっと撫で、僕は上を向いた。
綺麗な星が幾つもそこにはあり、まるで彼を祝福しているようだった。どうやら星たちも彼の仲間入りを祝福してくれているらしい。山の風が妙に気持ちがいいのもそのせいだろうか。
「おい、眠ったぞ。予定通りドクターのところに行く。今日中に終わらせないと、俺も俺で忙しいんだ」
「それは僕も同じだ。早く家に帰らないとね」
「ねぇ、私が来る意味あった?」
「あったよ。僕が嬉しい」
「お、いいこと言うねぇ。ほんとに今日ヤらないの?ヤろうよ」
「無理だ。こいつはペットにべったりだ。お前の入る隙はねぇよ」
「金田……」
「あんま怒るな。早いところ済ませるぞ」
僕たちの会話だけが静かに響き渡り、そして消えていく。僕たちに残るのは汚い金。そう、土がついた醜く、穢れた汚い金だけが僕たちの懐を温かくする。
二話目も書いてあるのですが、いつ投稿するかは未定ですね。何せ仕事が忙しくて……。
続けられるように頑張りたいものです。