凍傷気味のみかん箱   作:凍傷(ぜろくろ)

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オリジナル。
NTRに抗うなにかを見たかった。


幸せってなんだっけ。……いや、知らんが?

 ───誰かを好きになって、一緒の時を過ごして、喜びを感じて……そんな時間を何度も経験して、手を繋ぎ、笑い合う。子供の頃から“この子と一緒に居たい”と思っていた人とそんな関係でいられて、俺、西岡正彦は幸せだった。

 

 だからちょっと早すぎなんじゃ、とか思う小学六年の頃に、彼女に告白をした。周囲が「女と遊ぶとかだっせー」とか妙な意地を張る中でも、彼女と居ることを選び続けて男子に馬鹿にされたいつかを思いつつ。

 思えば随分と「西岡って変わってるよねー」と女子にもからかわれたもんだ。それでも俺は、女子だからとどうしてか見下したり馬鹿にし始めた男子よりも、彼女と居ることを選んだ。昔っからばーちゃんに言われていたことだからっていうのももちろんあった。

 

 “女の子にはやさしくしてあげなさい”

 “いつか、女の子と遊ぶことが恥ずかしいなんて思う日が来るかもしれない”

 “だけど、そんな感情に流されて、一緒に居たいって思う子を傷つけちゃいけないよ”

 “正彦。お前は『本当はどうしたいのか』をちゃあんと選べる子になりなさい”

 “だけど、男の子に厳しくしろってわけじゃないから、理由もなく傷つけちゃいけないよ?”

 

 結構いろいろ言われた気がする。でも、両親よりも祖父母が好きだった俺は、それはもう女の子にやさしくした。ともに笑って、ともに燥いだりした。結構男子としての意見や女子としての意見交換をしたり、楽しいって思えることへの差なんかを知って、お互いに驚いたりして。

 そんな中で、彼女……近所に住んでいた東山美幸は大人し目でおどおどながらも話せば返してくれる子で、詰まりながらも頑張って話してくれる彼女にいつしか惹かれ、やがて……この子と一緒に居たいと思うようになった。

 微笑むと可愛い。大声で笑うなんてことはしなかった彼女だけど、くすくすと笑う顔を見ると自分も嬉しくて、気づけば学校が終わったあともよく一緒に居るようになって。

 そんな日々を小学校低学年から高学年まで続けて───いつもの公園、二人きりの時に勇気を振り絞って。

 

「美幸。俺、これからもずっと美幸と一緒に居たい」

 

 告白、なんて言えたものだったのだろうか。正直自信がない。けれど美幸も、

 

「う、うんっ! わたしも、ヒコくんとずっと一緒に居たい!」

 

 微笑むと可愛い彼女が、全身で嬉しいを表現するかのように返してくれたから、俺も笑った。笑って、ドグシャアと地面に倒れた。全身で表現と言ったからには抱き着かれたわけでして。小学生の頃って、ほら、結構男子より大きい女子って居るわけでして。

 なので砂場に倒れた俺と彼女は、顔を見つめ合ってからキャハハと笑った。

 

  それからの日々は、より一層に楽しかった。

 

 都会とは言えないような場所の幼馴染なんて、大体は同じ中学に通う。俺と美幸も例外じゃなくて、そこで一緒の日々を過ごして、勉強をして、運動をして。運動、っていうのもマラソン大会~だとか体育祭~なんてものの前準備として体を鍛えた~っていうのが大体。

 一緒に朝のジョギングをしたり、体が固いから~っていう彼女のストレッチに付き合ったり。座り、足を広げて、体をペタンと地面につけられるようになった瞬間のあの達成感を、今も覚えている。抱き合って、やったやったと燥いだいつかが懐かしい。

 

  中学卒業、そして高校。

 

 中学の頃に凹凸がはっきりし出した彼女に照れつつ続いた関係は、高校でも続いた。一緒の高校に入り、慣れた様子のままに傍に居て、笑い合って。親の知り合いのお店で一緒にバイトをして、そんな頃から夫婦みたいだ~なんて店長に揶揄われても、俺も美幸も照れはするけど笑顔になれた。

 そんな気持ちを、言葉にするのは結構恥ずかしい。でも、俺は言う。

 

「美幸」

「うん、なに? ヒコくん」

「好きだ。いつも一緒に居て、笑ってくれてありがとう」

「うゆっ……! う、あぅう~……! う、うん……! わたしも、ヒコくんのこと、好き、です……大好き……!」

 

 好きと言われて、気持ちを告白されて、照れる美幸は可愛くて。周囲にどれだけ揶揄われようとも、恥ずかしさを理由に彼女を傷つけるような言動だけは、意地でもしないのが俺の心の誓いであり誇りだった。だって、それは俺の本心じゃないから。

 自分の気持ちに嘘はつかない。本意じゃない気持ちで人を傷つけるのは最低な行動だと知っている。だからって、本意だろうと人を傷つけていいわけじゃない。

 女の子にはやさしく。でも、美幸には特別やさしく。男子に冷たいわけじゃない。付き合いは自然と悪くなってしまうけれど、美幸のことが好きだからを心から語ると、「だーもういい! とっとと東山ンとこ行って幸せになりやがれこのバカップルがー!」と真っ赤な顔の友人に怒られた。

 そんな友人の言葉に、クラスメイトが笑顔になって、ひゅーひゅーなんて言ってくるのは毎度のこと。だからって男子たちとまったく交流がないわけでもないから、たまに一緒になると、恋愛相談なんかされたりもした。それは美幸も一緒だったらしい。

 

「うんよしわかった全く参考にならん。お前らが特別すぎるだけだわそれ。てか小学ン時にずっと女子にやさしくとか出来るヤツがすげぇわ!」

「どーしてもなんか距離取っちまうよな!? 俺も家近くの幼馴染って言える女子とか居たけど、もはや挨拶すらしてねぇレベルだし……今さら声からけても“は? なに?”とか言われそうで怖ぇえ……」

「それな。なんかとりあえず家近い女子に話しかけてみました感満載でな」

「だよなぁ……ああ、小学の頃の俺のアホー……」

「正彦はいいよなー……東山、性格もいいし笑顔可愛いし、言っちゃなんだけどスタイルもこう……なぁ?」

「自慢の恋人です」

「っかー! 胸張んなコノヤロー!」

「羨ましいぞチクショー!」

 

 そんな風に男子が騒ぐ中、女子の方も大体は似たような会話をしていたらしい。

 その会話相手の中に、件の家の近い幼馴染って言える女子が居たらしく、俺と美幸とで引き合わせて……疎遠になっていた関係は修復。高校を卒業する頃にはすっかり腕を組んで登下校するようなカップルになっていた。

 

  大学進学、許可を得て同棲。

 

 思えばよく関係が続いているものだな、なんて思う時はある。

 でも俺と美幸は日々を感謝しながら生きて、たまたま大学近くに親戚が構えている店があって、そこで二人してバイトをする日々。

 誰よりも一緒の時間を過ごして、一緒に学んで、一緒に経験を積んで、大学卒業を期に結婚。式は家族間だけの小さなものにした。二人で溜めた貯金は結構な額だったけど、なんというか……不思議と、俺も美幸もそうしたいって思ったのだ。だから、親しい友人にはわたしたち結婚しました的な手紙や、住居が分からない人にはメールを送った。何人かはメーラーデーモンさんがオヘンジを下さったけど、まあいろいろありました。

 

  そして、社会人───

 

 夫婦となってからの日々も決して腐らず前向きに。お互い支え合って、苦しい時には弱音を吐き合って。

 そうした日々が何年か続いても、やがては順応していったある日。

 妻が、浮気をしていることを知った。

 会社も同じ、とはいかなかった俺達は、より生活が安定するまでは子供は……と納得し合っていた。そんな妻が、ある日、家で自分の会社の上司と。

 具合が悪くなって、たまたま帰った日だった。

 妻が男とベッドに腰掛け、肩を抱かれながらキスをしようとしているところを目撃した。

 男の方は……大学の頃からなにかと美幸に声を掛けていた先輩だった。

 瞬間、今まで信じていたものが崩れるのを感じた。いったいいつから俺は、なんて考えが浮かぶ。思えばあの先輩は、中学の頃から見たことがあったような気もする。遠目だったからはっきりとは覚えていない。けれど、美幸を待たせた下校のいつか、校門前で待ち合わせた時、たびたび声をかけていた男が居なかっただろうか。

 

「え……ひ、ヒコくん……!? なんで、どうしてこんな時間に───」

 

 こんな時、どうしたらよかったんだろう。

 駆け寄って、男をブン殴る? それとも写真を撮る? 問いただす? 分からない。だって、こんなこと、これっぽっちも考えたことがなかった。誰よりも信じていた人に裏切られた。そのことだけが心を抉りに抉って、見たくもない光景を見てしまって、頭がなにも考えてはくれなかった。そもそも、俺達の寝室で“そういうこと”をしようとしているという事実に、心が完璧に砕かれた気分だった。好きだったのは、大事だと思っていたのは自分だけだったということじゃないか。だというのに、日々を励まし合っては、浮気をさせるために自分達の住む場を維持していただって? はは……はははは、ははははは! なんだよそれ! なん……っ……なんだよ、それ……!

 心が腐っていく。けれど、理性はまだまだ“待った”をかける。落ち着けと。お前が愛した相手はそんなクズなのかと。そりゃ信じたい。けど、現にこんな場面を見てしまって、なにを信じればいい? ああそうさ、そういう可能性を信じたいさ、当たり前じゃないか。それでもどんな理由があるにせよ、他の男に肩を抱かれ、目を閉じキスを待ってしまっている妻の姿を、どう捉えれば自分を納得させられる。

 どんな理由があっても、脅迫されていたんだとしても、拒否をして“助けて”と、“こんなことになってしまった、でももう一度頑張らせてほしい”と言ってくれたなら、いくらだって辛い想いも背負い込もう。

 でも……俺の姿を見ることで見せる反応が、俺がここに居ることに驚くことだけなのはどうしてなんだ。なにか言ってくれ。頼む。余計なことを考えてしまう前に、こんなことになった理由を……俺が、いろいろと考えてしまう前に……頼むよ。

 

  どれだけ願っても状況は動かない。

 

 だから、俺の頭は上手く回らないながらも、余裕がないままに動いてしまい……“初めての浮気で、自分達の住む部屋でコトに及ぶ、なんてことがあるのだろうか”。なんてことを考えてしまった。あるかもしれないし、ないかもしれない。

 結果として、俺はその場から逃げ出した。情けないなって思う。きっと、誰が見たってそう思うんだろう。なんのために体を鍛えて来たのか、なんて思うこともきっと何度だってあった筈だった。でも……いいことなんてのは続いてくれない。いや、今までがきっと幸せすぎたんだ。いいことづくめで、いや、そう思うようにして浮かれすぎてたんだ。

 あの二人がいつから、なんて結局分からなかった。

 だって、逃げ出した先で車に轢かれて、俺はあっけなく死んだんだから。

 

 

 

 

-_-/西岡(東山)美幸

 

 ───後悔ってものを知っている。

 ずっとずうっと、それこそ今でも心から愛している人を、自分の所為で失った。

 後悔ばかりが心を蝕む日々が続く。仕事はとっくに辞めてしまった。ううん、あんなことになる前に辞めるべきだったんだ。

 わたしは心から、西岡正彦さんだけを愛している。この気持ちは、小学校の頃から一度として変わったことはない。ヒコくんがわたしの心を覗けたなら、きっと重いなんて思ってしまえるほど、わたしは彼のことが好きで、とても好きで、大事だった。

 それが、どうしてあんなことになってしまったんだろう。

 

  言うまでもない。わたしが、彼の気持ちよりも目先の安定を優先してしまったからだ。

 

 わたしたちはどんなことでも話し合って支え合って生きて来た。

 最初の頃は、それがこんなにも心強い絆になるだなんて思ってもいなかった。

 そう、最初こそ、あの時あんなことがあってさー、なんて語り合う程度だったんだ。それでも、わたしもヒコくんもそんなお互いのことを知るきっかけが欲しくて、話し続けた。

 例えをあげてみるのなら、交換日記みたいなものだったんだと思う。お互いのことを知りたくて、助けられるなら助け合いたくて、お互いを知って、自分に出来ることなら支え、支えられてきた。

 それでも出来ないことはきっとあって、それがたまたまあの時のことで……ずっとずうっと、しつこく言い寄ってきていた先輩だった男性が上司になっていたあの会社で、ひどい失敗をして、それを理由に追い詰められた。

 逃げ道を塞がれて、このことをお前の旦那が知れば、なんて脅されもして、同僚も味方に取られて、居場所を無くされて。拒否をして頑張り続ける日々は続いた。ヒコくんには言えないまま、辛いことがあって……と言うと、励ましてくれる彼が本当に本当に心の支えだった。でも……会社に行けばそうはいかない。味方の居ない世界で仕事が終わるまで待って、嫌がらせも始まって、味方どころか敵しか居なくて。

 運も間も悪いことに、ヒコくんも仕事が長引くことが多くなって───今思えばそれも相手が仕組んだことだったのだろうけれど、気づけば孤立してしまって、心にも余裕が持てなくなって───……一度だけの関係を迫られて、散々拒否しても逃げ道を塞がれて、終いにはヒコくんの会社にも報告して、あいつを潰してやろうか、なんてことまで言われて。

 ヒコくんが働いている会社が、上司の親が経営しているものだと言われて、いつでもどうとでも出来るんだとさらに脅されて。

 

  どうにもできないまま、うなづくしかなくて、わたしは。

 

 でも、そのたった一度の瞬間……散々拒否をして、それだけはと言っても下卑た笑みで『そうじゃなければ許さない』という条件を飲むしかなくて、ヒコくんとわたしの自宅となっているそこで肩を抱かれた瞬間を、彼に見られてしまった。

 どうして、なんて声が聞こえて、ハッと部屋のドアへ目を向けて、そこに彼が居ることに気づいて。瞬間、わたしは……正気に戻れたんだと思う。

 

  なにをやってるのわたし!

 

 自分の奥底から叫ぶ声。それに喝を入れられるように動いて、わたしの肩を抱いている男を突き飛ばした。「なにしやがる!」なんて叫ぶソレを無視して、ただただ駆けた。彼を追って。ヒールなんて履いたって追い付けない。彼と続けているジョギング用の靴を取り出して、履いている内に上司が追い付いて、わたしの肩を掴んで無理矢理わたしを自分の方へと振り向かせる。そんな上司の頬を思い切りブッ叩き、わたしは叫んだ。

 

「クビにでもなんでもすればいい! 脅迫だってなんだってすればいい! わたしは───わたしは! あの人が居てくれるならそれでいい! 他になにもいらない!!」

 

 追い詰められてどうかしていた。周囲に味方が居ない恐怖に怯えていた。言い訳なんてどれだけでも溢れてくる。でも、じゃあその所為であの人を無くすんだとしたら? と訊かれれば、それらの恐怖なんて何処吹く風だった。

 そうだ、他の脅しなんてどうでもよかった。ただ、ヒコくんが頑張ってきたものが、わたしの失敗の所為で無くなってしまうことが苦しかった。そんな弱さに付け入られた。他の脅迫なんてどうでもいい、我慢も出来たしやがて乗り越えてやるつもりだった。それでも少しずつ心は弱っていたんだろう。

 でも、きっと大丈夫だ。ヒコくんと会って、ちゃんと話をして、今回が初めてだったって証拠もあるんだ。ただ追い詰められていただけじゃない。録音していた周囲の言葉がいっぱいある。それでも失敗と責任はあるのだからと受け入れようとしていた自分にも相当呆れるけれど、またここから始められる。

 今度は間違えない。どんな脅しにだって屈しない。だから───

 

「───………………ぇ?」

 

 …………だから。だれか、めのまえのこうけいを、うそだといってほしい。

 

「あっ……ぁ……あ、あぁぁああ……!! あぁああああああああああっ!!」

 

……。

 

 

───……。

 

 

 愛しい人を失った。即死だったんだそうだ。

 原因は信号無視。お高い車に乗って、とんでもない速度で運転していたいい歳をした男性と、まだ若そうな女性の所為で、ヒコくんは死んだ。

 さらに言えば運転していたのは上司の父親で、秘書である人と浮気ドライブの真っ最中に事故を起こしたらしい。

 「仕事の途中だったんだ! 秘書と居るのは当然だろう!?」なんてどれだけ言おうが、どこの世界にお洒落をして明らかに仕事用とは思えない車で仕事に出る社長と秘書が居るんだろう。社長はあっさりと立場を悪くして、そうなってからはもちろん上司も肩身の狭い思いをし始め……た途端、周囲の同僚や先輩や後輩が、彼がやってきた悪行を公表し始め、上司はあっと言う間に追い詰められ、退職。もちろん上司が運営していたわけではないから、社長が捕まろうが会社は代理を立てて続いた。

 けど、わたしは退職した。わたしが失敗した、と思ったものも、上司がでっちあげて押し付けたものだったことも分かった。似たようなことをされた同僚が何人も居て、代理社長が探りを入れてくれたお陰で分かったことだ。

 でも……今はもう、どうだっていい。

 

「………」

 

 葬儀も終わって、お義母さんやお義父さん、お母さんお父さんに散々と慰めの言葉をもらっても、心はまるで動かなかった。

 ただただごめんなさいとしか言えない。気づけば誰も居ないこの家があるだけで、そんな世界に残されたわたしは、ただただ泣くことと、上司が一度でも触れたものを狂ったように破壊し、処分することしかできなかった。

 

「………」

 

 時々、両親や義両親が様子を見に来てくれる。

 電話だけでいいのに、とこぼすと、きまって「こんな状態なのによくもそんなこと言えたもんだ」みたいに返される。

 言われて、鏡を見てみれば、幽霊と言われれば信じてしまえるくらいの存在がそこにいた。

 でも……それでいいんだとも思えた。身形をきちんとしていた頃は、あんな会社でも、結婚していると知っていようが声をかけてくる男性は居た。こんな格好だったら近づきたいと思う人も居ないだろう。

 わたしは生涯……彼の、ために………………

 

「…………」

 

 生涯? 彼のために? ……その彼が居ないのに?

 

「美幸ちゃん。こんなこと言うのもなんだけど…………美幸ちゃんもまだまだ若いんだから、ふんぎりをつけるのもいいと思うの。正彦を想ってくれるのは、そりゃあ私達も嬉しいけど……私達はね、美幸ちゃん。あなたが再婚したって、全然───」

「そんなこと言わないでください!!」

「ぁ……み、美幸ちゃん……?」

「わたしにはっ……わたしにはヒコくんだけです! 彼じゃなければ嫌なんです! それなのに、それなのにわたしはっ……!」

 

 ヒコくんが死んでしまった原因を、義両親は知っている。

 上司の手口が知られることとなる前に、わたしから義両親に話したから。

 二人は…………怒らなかった。いや、正確には怒ったのだろう。ただしそれは、その状況に対してだけ。「マサのやつも、最後まできちんと向き合っていりゃああんなことにはならなかったろうに……いつだって土壇場で度胸が無いんだ、あの馬鹿は」なんてお義父さんは言って。「美幸ちゃんも。困ったことがあったなら、それがたとえどんな不幸に引きずり込むようなことだろうと、相談してみればよかったの。……あのね、美幸ちゃん。正彦は、あなたにかけられる迷惑なら、重いだなんて思わずに笑顔で背負えるのよ? だから、それを背負わせなかったあなたにこそ、私は怒るわ」なんて、お義母さんは言って。

 でも……その、言われたことをわたしは、何処で役立てればいいのだろう。

 手遅れになってしまい、戻らないものにこそ伝えたいことは、もうどうしたって届かない。

 

  だからわたしは今日も、正彦さんが残したもので醜く生き、空虚に生きる。

 

 心が癒えるまではゆっくり休みなさいと言ってくれた両親と義両親には感謝しかない。一緒に、と言ってくれたけれど、考えたいこともあるし、誰かと住めば、きっと甘えてしまう。甘えてしまえば、ヒコくんのことが薄まってしまうに違いないから。

 だからわたしは、ヒコくんの残した部屋で、僅かな彼が居た証に包まれながら───そう思っていた時だった。

 閉めていた筈の鍵が開かれ、玄関ドアが開かれる音がした。

 え、なんて声が無意識に出て、部屋から出て玄関側を見てみれば、無遠慮に上がり込み、どすどすとこちらへ歩いてくる───かつての上司。

 

「!? な、なんで!」

「……合い鍵くらい作ってるに決まってるだろ? お前が俺を突き飛ばして、あいつを追った時点でいろいろさせてもらってたんだよ。まああの時はあいつが死んじまうだなんて思いもしなかったけど。状況が落ち着いたら、せいぜい楽しませてもらうつもりで居たのに……ったく」

「こ、こなっ来ないでっ……来ないで!」

「会社からは追い出されるし、親父もおしまい。こうなったらもう好き勝手に生きるしかねーだろ? ……っはは、ひっでぇ顔。これがかつては狙ってた美人さんとか嘘だろって思うけど……お前らの所為で俺はおちぶれたんだ、せめて旦那の名前でも叫びながら、俺を楽しませてくれや」

「───!!」

 

 瞬間、これから自分がなにをされるのかを悟った。

 そうなれば、行動は早かった。床を蹴り、部屋に戻るのではなく部屋を出て、興奮をそのままに本能の衝動で動くように走って追ってくる元上司を確認しながら───駆け込んだのはダイニングキッチン。

 わたしがなにをするつもりなのか想像がついたのか、勢いよく追ってきていた元上司の足は途中で止まった。

 

「お……おいおい、なにを……はは、どうせそんな度胸なんて無いんだろ? 包丁なんて構えたって───」

 

 そう、包丁を構えたのだ。この身を穢されるくらいなら、自ら手を汚したって構わない。そもそもこんなクズが居なければ、あんなことにはならなかったのだから。

 

「い、いやっ……悪かった、大体お前があんな冴えない男となんて付き合うから悪いんだろ? せっかく俺が中学の頃から口説いてやってんのに見向きもしねぇしさぁ。高校大学と同じトコに来るもんだから素直になれねぇだけかと思っていろいろやってやったんだぜぇ? だからそんな───怖ぇことすんなよなぁ!!」

「!」

 

 包丁を構えたことで距離を取っていた元上司が、傍にあった椅子を投げてくる。咄嗟に避ける、なんてことは出来なくて、身を捩るくらいが精々。体に鈍痛が走った瞬間、元上司はわたしに飛びかかって来て───

 

 

   ……この人は、いつ、わたしがこの包丁を───

 

 

 ブッシャアアアアと血が弾けた。

 

「え?」

 

 目の前が一気に真っ赤になるくらいの赤の飛沫。

 浴びているのは元上司で、出ているのはわたしの首。

 そうだ。この人はいつから、この包丁が自分を傷つけるものだ、なんて勘違いしていたんだろう。

 わたしは元々、穢されるくらいなら自分で穢そうと思っていただけだ。

 ヒコくんの居ない世界になんて興味がない。それがここ数日でよく分かった。

 同僚も先輩も後輩もみんなひどい人ばかりだ。両親と義両親にはどれだけ感謝しても足りない。でも、生きる気力も湧かないのなら、もう仕方がない。

 上司や社長が落ちぶれてからの同僚やらの報告になんの意味があったのだろう。

 もっと早くに、それは勘違いだ、上司の罠だと言ってくれたなら、どれだけ今を変えられただろう。

 こんな考えは今さらだってわかってる。でも───

 

「───」

 

 声は出ない。噴き出る赤に、ショックで気絶でもするかもしれないな、なんて思っていたのに、痛みはあってもひどく冷静だった。ただ、呆然としている元上司の手にこの包丁を握らせて、わたしは笑った。包丁の掴み方に油断はない。指紋は付かないようにした。手荒れ防止のために、普段からゴム手袋をつけて調理をするわたしだ、包丁には彼の指紋しかないだろう。

 元上司は悲鳴をあげて駆けだした。よっぽど混乱していたのか、包丁を持ったまま、血まみれのままで。

 そして───わたしはその場に崩れ落ちて……彼と築き上げた平穏を、二度も自分で穢してしまったことを、心から謝り…………やがて、動きを止めた。

 

 

 

 

 

-_-/西岡正彦

 

 ───……とおいとおい、遠い昔の夢を見ている。

 もし神様が居るのなら、と息絶える前に願ったいつかの夢。

 走馬燈を見るかのように、一瞬が長い長い夢のように感じたあの日。

 身体を圧し折る塊に乗った、驚愕を絵に描いたような表情の二人が俺を見ていた瞬間。

 ああ神様。どうか許されるのなら、あの日、あの時。自分があの人に告白する前に───

 

「───…………ヒコくん?」

「───、っえ……?」

 

 呼ばれ、霧がかかったような、ぼんやりとした光景が一気に晴れる。

 目の前にはかつての美幸。

 まだまだ小さな……そう、この見覚えのある懐かしい場所と背格好は、間違えるはずもないあの瞬間。

 もし神様が居るのなら、と息絶える前に願ったように、どんな奇跡が起こって……記憶を持ったままにこの瞬間に戻れたのか。

 それとも今こそが現実で、あの瞬間までの俺は、今の俺が夢に見た光景だったのか。

 ……いや、そんなことはどうでもいい。

 願ったように、今に、この瞬間に、俺が立っているのなら。

 俺は何を願おう。

 

  あんな未来に到達しない“これから”だ。当然だ。

 

 答えはとても簡単に、決まった。

 だから言う言葉なんて決まっている。揺るぎようがない。当たり前だ。当たり前だから当然だ。

 

「美幸。俺、これからもずっと美幸と一緒に居たい」

 

 いつかと同じ、この言葉を。

 ああ、忘れるものか。無くしたりするものか。

 確かに未来においてはあんな浮気めいた光景が待っているのかもしれない。

 けれども戻った瞬間、“今の俺”が確かに抱いていた、あの瞬間も確かに抱いていたこの娘への恋心は、決してなくなったりはしていなかった。

 だったらどうすればいい? そうだ決まっている、ああならない未来に到達すればいい。

 さあ、いつかのようにタックルが来る。抱き着きという名のタックルが。

 それを受け止め、倒れないように踏ん張ってみるのも、未来改変の第一歩になるかもしれない。

 そう思っていたのに…………

 

「ひこっ……ひこ、くん……ひこっ……ひぐっ……う、うぁっ、うあぁあああっ! ぁあああああああああっ!!」

 

 抱き着いてきたのは間違いなかった。でもそれは、その勢いで俺ごと砂場に倒れるなんて力強さはなくて。俺との距離をゼロにして、抱き着き、大声で泣く、なんてものだった。

 

「み、美幸? どうしたんだ? え、嫌だったか? ああいや嫌だったら抱き着いてこないよな、え? じゃあなんで?」

 

 思ってたのと違った……なんて思ってしまっても、ああなるほどとも思えた。

 あの未来が俺が勝手に想像してしまっていた未来なら、こんな光景も普通だったらそうなっていた未来の一つと言えるのだ。

 だったら俺は、これからのこの娘を全力で愛し、また支え合って行こう。

 こんな機会は普通じゃ有り得ないのだから。

 

(───そういえば……)

 

 学生だった頃に、友人が勧めてくれた小説があったっけ。妻に裏切られた中年が、事故にあって告白前の過去に戻るってやつ。

 この状況もそれに似ているんだろうけど……

 

(……捨てられないさ。未来において本当に裏切られるんだとしても、その瞬間までは確かに幸せだったんだから)

 

 走馬燈の中で思ったこともある。

 あ、死ぬ、って思ってしまった時、混乱し尽くしていた頭がようやく冷静になってくれたからだ。

 そんな時に思い至ってしまった。思い出してもしまった。

 肩を抱かれていた美幸は震えていた。よくよく思い出せば涙も滲んでいた。男ばかりがニタニタしていたあの光景で、なんで誰よりも俺があいつを信じてやれなかったのか。

 一度目から自宅で浮気するやつがいるだろうか、なんて考えだって、脅されているのだとしたら話は別だ。それに……あの男、思い出せば俺を轢き殺した社長と苗字が同じだ。と、いうことは?

 ……真実なんてわからない。分からないなら、あいつが美幸に絡んでくる全てから、美幸を守れる俺になればいい。

 ざまぁなんて知らない。言ってやれることがあるなら、あいつを信じてやれずに死んだ俺にこそ。どんな辛い未来だって、あいつと一緒なら頑張れた筈だ。あいつがあのゲス先輩に脅されていたんだとして、俺を信じて一緒に辛い道を選んでくれなかった事実があるとして、信じてもらえなかった俺にこそ“ざまぁみろ”を届けよう。

 

  ……さあ、ここからスタートだ。

 

 俺の妄想が何処まで未来に届いてくれるかは知らないけれど……俺の“こいつが好き”って気持ちは、冷静になればあんな程度じゃ消えないってことを…………ああうん、精神も鍛えようね、俺。

 

「美幸。好きだよ。たぶんね、美幸が思っている以上に俺、美幸のことが好きだ」

「わだじなんて愛してるもんっ!! ヒコくんだげだもんっ!!」

 

 なにおう? 愛を出されちゃそれ以上がないじゃないか。あと泣きながらで、しかも叫ぶように言うから声がヘンテコになってるし。“わたし”が“わだじ”に聞こえることなんて本当にあるんだな。漫画とかの中だけかと思ってた。

 

「そっか。じゃあ未来は安泰だな。俺も、美幸のことが好きで、大好きで、愛してるよ」

「ヒコくっ……ふ、ふえっ……ふゎぅぁっ……あぁあああ……!! ぁああああん……! うぁあああああぁぁぁぁ……!!」

 

 ぎゅみー、と俺を抱き締めたまま、泣き出してしまった。渾身とも思えるくらいの力でギュミミーミ・ギューミミ。

 未来なんてどうなるかわからないもんだよな。俺が妄想した未来自画像なんて、きっと大外れもいいとこだ。

 それをこれから証明していこう。いつまでも、この娘と一緒に───ふむぐっ!?

 

「んむゆっ!? ちょむぐっ!? みゆぅーむむむむ!?」

「ふむっ……は、むっ……ちゅっ……んふっ……はっ……ヒコくん……ヒコくぅん……!」

 

 ……ところで。俺の初キスが、なにやら突然奪われたのだが。

 や、どうせ美幸に捧げるつもりだったからいいんだけどさ。初告白の次の瞬間にキッスとか……しかもディープとか、ええと……美幸さん、俺のこと好きすぎじゃないですか? あ、でも子供ならではっていうのもあるよなぁ。こう……線引きがない……とか? うん。大人になるにつれて、まだディープは許さない~とか出てくるところ、あるしね、うんうん。

 でも……それをどれだけ保たせられるかが、俺の未来を大きく変えていく……そういうことなんだろう。やることが決まっているのならやるだけだ。さあ……頑張ろうか。

 …………頑張るのはいいけど、いつまでキスをするつもりなんだろう。いや、嬉しいからいいんだけどね? ……いいんならいいか。

 軽く心で頷いて、こちらからは抱き締めることもせず、戸惑いのままにされるがままだった俺も、美幸に合わせて深く深く、キスをするのだった。ぎゅうっと抱き締めた途端に、さらにさらにむぎゅーと抱き締められたのは、愛ゆえに……でいいのだろうか。俺の妄想ってやさしかったんだなぁ……現実での抱擁はとても力強いものだったよ。まるで“二度とうぬを離しはせぬ!”とか雄々しく全身で語られているかのようだった。

 雄々しいなおい。

 

……。

 

 翌日。

 チュンチュンチュン……チチチチ……と小鳥が鳴く早朝も早朝。母の声で起こされると、どうしてかニッコォオオオとかつてない微笑みを浮かべた母に、玄関に行ってやりなさいと言われた。よく分からない。

 しかしながら、妄想とはいえ未来においては親より先に死んでしまった俺。しかも浮気されたショックで事実確認もせずに駆け出し、愚かにも高級車に轢かれて死んだなんてアホウな俺だ。親にはきちんと孝行したいと考えているので、言われたことに不満はそうそう抱かない。

 

「んむー……」

 

 しかし、俺はこんなに寝起きに弱かっただろうか。瞼が重い。

 ともあれ、顔も洗わずに言われるがままに玄関へと行き、ゴッチャアと扉を開けてみれば……ガッコへ行く準備万端の、美幸の姿が。

 ……んん? ワッツ? あれ? なして我が家に来とっとや? いっつもガッコの途中で合流出来たら~とかそんな約束だった筈なのに。ていうか俺の妄想未来だとそうだった筈なのに。

 

「えへへ、おはよ、ヒコくん。来ちゃった♪」

「…………あ、お、おう、あ、み、みりん?」

「みりん?」

「ああいやいやっ! ど、どうしたんだよ美幸っ! 昨日うちに来るなんて言ってなかっただろっ!?」

「うん。せっかく恋人さんになったんだから、少しでも一緒に居たいな~って」

「───」

 

 未来の嫁がかわいい。

 ヘタに精神が未来妄想で成熟してしまっている所為で、にっこり微笑む幼女がめちゃんこかわいい。そんな幼女に告白して恋人になった俺なんだが、恋人として好きって気持ちと、おさなごを愛でたいという大人な気持ちがごっちゃになってしまっている。

 そんな戸惑う俺をよそに、美幸は自然な動きで距離を詰めると、ぽすんと俺を抱き締めた。この頃はまだ美幸の方が少しだけ背が大きいため、俺の胸に美幸の顔が納まる、なんてことはない。けどまあそれがなんだというのだろう、だ。俺も美幸の背に手を回すと、きゅむと抱き締め……なんとなくこう、雰囲気的に寂しがっている……? ような気がする彼女の背をやさしく撫でた。

 

「美幸? どうかした?」

「……んん。背、ちっちゃくなりたいなー……って」

「?」

 

 よく分からんことを言われた。しかし次の瞬間には軽く屈むと、無理矢理俺の胸に顔を埋めて、ぐりぐり~っと顔をこすりつけるようにして……まあ、その。納まった。

 

「美幸?」

 

 戸惑いつつも、ちらりと見上げてくる美幸の頭を撫でてみる。……と、ほや~……と力を抜いて安心するかのような安心フェイスがそこに誕生した。ああうん、胸に抱いて撫でるとこうなるところは、俺の妄想そのものなのな。

 

「あらあら、美幸ちゃんに言われた時は驚いたもんだけど、正彦、あんたほんとに美幸ちゃんと恋人になったのねぇ」

「ウェッ!? なっかか母さん!?」

「小学生で抱き合ってなでなでとか、いや~……初々しいのか近いのか早いのか眩しいのか尊いのか」

「んぐっ……~……初々しくて速くて眩しくて尊いんだと思うよ。その……よくわかんないけど」

「あっははそうねぇ、全部でいいわよねぇ。さ、ほら美幸ちゃん上がって上がって。美幸ちゃんも朝がまだなら食べていきなさいな」

「いいんですか?」

「もちろんよ。あ、ところで……っと、正彦、ちょっとそっち行ってて」

「? いいけど……」

「……美幸ちゃん?」

「……? はい……?」

正彦のお嫁さんになる気は、あったりする?

「……! ありますっ! 絶対、絶対絶対、ヒコくんじゃなきゃ嫌ですっ!

「ふふふふっ……そう。じゃあ、これから花嫁修業とかしてみる?」

「はいっ!」

 

 何事かを小声で言ったあと、二人は花嫁修業がどうとかで笑い合った。

 しかしそこに待ったをかける俺一人。

 

「待って母さん!」

「あら。正彦?」

「美幸だけ修行とかずるい! 俺だって花婿修行とかするから!」

「…………あらあら」

「……! ヒコくん……!」

 

 決意は変わらない。俺は俺の出来る限りで、この子を幸せにするんだ。今度こそ、妙なことなど起こさないために。

 

……。

 

 さて。

 

「ヒコくんヒコくん♪ えへへー、ヒコく~ん♪」

 

 登下校に自宅での時間、はたまた外出して遊び時も、美幸は俺の傍にとてもとても居たがった。その勢いは、まだまだ娘が可愛くて仕方がないを地で行くお父様が俺に対して嫉妬するくらいで。

 心の底からるんるんさんだ。幸せそうでなにより。

 そして俺も頬が緩みっぱなしだ。かわいい。




よく過去に戻ったカップリャが、告白前であることに気づいて告白をやめる~とかありますが、まあそんな程度の気持ちじゃそりゃあ……とか思いますよね。
 こ、この野郎~~~っ、いつか裏切るに違いねぇ~~~っ!
 とか思っても、裏切られるまで愛しまくって自分に夢中にさせようって気概がこれっぽっちもねぇのです。
 きみさぁ~……ほんとに好きで居続けてもらう努力、した? そうツッコミたくなる。
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