凍傷気味のみかん箱   作:凍傷(ぜろくろ)

43 / 72
 オリジナル。過去に執筆していた筈なのに、なんかいつの間にか無くなっていたブツです。

「あれ? こういう内容のもの、書いてたよな……? あれ? 執筆中小説一覧に無い……なろうの方にも、ない……あれ? 書いてたよなぁ!? あれぇ!? あれどこいった!? 確か鏡割って、やーのやーの騒ぐ鼻炎薬がきっかけのー……!!」

 などとここ数日騒いでおりました。
 幸い、使っているテキストツールの自動バックアップ機能の相当過去の方で発掘することが出来ました。
 3万5千字の、忘れられた未完作です。


先に立つ後悔があればな……

 最近、心がとても幸せだと叫んでいる。

 毎日の夜、目を閉じるのがもったいないと思えるくらいには、日々が楽しい。

 仕事は、そりゃあ大変だ。時間を掛けて、苦手なものを吸収して落ち着けるまでは、言った通り本当に大変で、けれどそれがきちんと吸収出来てからは効率も上がったし……誰かに感謝されることがあれば、また頑張ろうって思えた。

 何より妻のためにと思うと、心がわくわくしたんだ。

 大学で出会い、卒業と同時に結婚した最愛の人。鼻炎持ちで、ほぼ毎日薬を飲んでは、「喉が渇きます……」とか「眠いです……」とか言って、俺に甘えてきたりした。可愛い。眠くなるのは辛いだろうけど、鼻炎薬無しだと妻の鼻が本気で死ぬ。くしゃみ鼻水は散々するし、ティッシュで拭うから鼻の下も傷ついてしまうしで、冬場なんかは鼻の下にクリームを塗っているほどだ。なので、この間も薬を買ってきたばかりだ。新しい会社のなんたら~って鼻炎薬。鼻炎薬は時折会社を変えて服用したほうがいい、なんて聞いたことがあるから、今回もそうしてみた。妻も普通にありがとうと言ってくれた。可愛い。

 そんな可愛い妻の、両親もとてもやさしい人で、同時に怒るととても怖い人だった。

 そんな家族と、家族になることを誓い、一緒になってからも続く日々がとても眩しい。

 そのためなら、と残業にならないように効率良く仕事を進め、誰かに手伝いを求められれば手伝いはするけれど、次はこうならないように、と改善案を出し合っては進めていった。

 そうして今日も仕事が終わる。

 家に帰れば妻が迎えてくれて、一緒に食事をして、風呂に入って。

 最近は夜を誘ってもご無沙汰だけど、「明日のあなたの体が心配だから」と断られてしまえば続く言葉もない。

 大丈夫だから、なんて言ったって届かないんじゃしょうがない。ていうか休み前も誘ってみれば、出かける用事があるから、と躱される。その時の顔がもうやばいくらい申し訳なさそうで、誘うこっちが申し訳なくなってくるレベル。

 なにがあった、とツッコミたいけど、用事なら仕方ない……と言いたいけど、ううん、ここだけが不満。

 けれど、まあそんなこともあるだろう、って今日も明日も頑張って生きていく。

 

  そんな自分宛に小包が届いたのは、妻が出かけ、俺が休みの日だった。

 

 中身はDVD。

 透明のケースに入った、いかにも安物でとりあえず焼きました、といった感じのものだった。

 ……どうにも、大学時代、彼女と出会う前にこれと似たようなシチュをエロ同人で見たなぁ……なんて嫌な予感を味わいつつ、DVDを再生。

 再生作業をしている間……というか、DVDプレイヤーを起動している間、なんとなーく予想は固まってきていた。心の準備が、大学時代の自分のおかげで出来ていた、と言ってもいい感じ。

 そして映し出されるは……妻の痴態。

 自分じゃない男の上で、幸せそうに体を上下させている、妻の姿だった。

 固定して置かれているカメラの先のソファで、丁度男の顔が見切れている状態で映っている。ていうかこの家を自分は知っている。これは───

 

「───……」

 

 あー……なんて現実逃避したくてしたくてたまらない、意識の全てが気の抜けた声を出した気分。

 けれども妻の下になっている男の声が聞こえた瞬間、あ、こいつ俺の友人だ、って意識が戻ってきた。丁度カメラの視覚外だったのに、声で一発確認。友人だったわ。

 

(ああそうか、ようするに喧嘩売ってんだなこの野郎)

 

 激しい怒りは……不思議と湧かなかった。あるいは、沸いたからこその静かな怒り。

 DVDの内容をコピーして(簡単に出来た。さすが安物適当焼き)、データを保存、別のDVDに焼いて枚数を増やした。

 それに一筆添えて、親しい知り合いらに送り届けた。

 それから弁護士を用意、周囲からの信頼っていう逃げ場を完全に潰したのち、二人を完全に囲んだ。

 

「ち、違うんだ松彦! これはっ……」

「何を間違えば友人の妻とのハメ撮りをその友人に送ってくんだよ」

「───っ……ま、松彦さんっ、これはっ……」

「うるさいよ裏切り者。俺散々言ってきたよな? 裏切られたら全力で潰すって。結婚する時だって、裏切られない限り永遠の愛を誓うって。俺の親のことを話す上で、散々言っておいた筈だ。それを乗り越えてまで一緒になりたいって言ってきたのに、よくもまあ……」

「ひっ……ちがっ……違うんです! あ、の……これは……!」

「なぁ沙織。俺言ったよな? たとえば無理矢理だろうとなんだろうと誰かに迫られた時は全力で抵抗して、たとえば俺のミスの所為でそれをカバーするために脅迫されて、なんて状況だろうとお前と一緒なら頑張れるから、そんなものは断ってくれって。で? 違う? なにが違うんだって?」

「っ……あの……お願いです、聞いてください、松彦さん……! どうしてこうなったのか、わたしには───」

「わからないって? ……んで? 忠吉? 人の妻寝取った気分はどーよ。最高か? 最高だよな? 人の信頼裏切ってまでやったことだもんな」

「松彦……違うんだ、俺にもなにがなんだか……!」

「だから。何を間違えば友人の妻とのハメ撮りをその夫に送れるんだっての。行為中も随分と幸せそうだったよなぁ? それで? なにが間違いなんだ? 俺がお前を友達だ~なんて思ってたことか? 俺がお前に妻を自慢したことか? まあ、もうなんでもいいよ。慰謝料はきっちり払ってもらう」

 

 二人は違う違うと言うばかりで、具体的な理由は言わない。俺が食い気味に言葉を被せたからってこともあるだろうけど……単なる浮気だからだろう。理由なんてあるわきゃない。

 そんな行為のために、自分の妻と友人だった俺から慰謝料請求をされることになり、急にそんな額は払えないってことになり、親に殴られ、親に借りてまで払うことになった。

 老後は夫婦静かに暮らすのが夢なの、と言っていた、やさしい人たちだったのに、余計な心労が増えたんだ、当たり前だ。

 妻は自分が結婚前から溜めていた貯金からお金を支払うこととなり、「いつか子供が出来た時にって言ってたのに……この馬鹿!」とこちらも親に叩かれていた。

 忠吉はマッチョな親に殴り倒され、片腕を持ち上げられた上で頭をガンゴンゴチャゴチャと踏み付けられまくっていた。しかし一度だけで、しかも本当にわからないのなら、と……離婚だけはしなかったようだ。心が広い。

 けど……当然、相手の両親にも自分の両親にも妻の雪子にも、やさしい目などされていなかった。誰一人幸せになれないのに、なんでほんと……浮気なんてするかなぁ。

 ちなみにDVDはすぐに各方面からひとつ残らず突っ返されて、「頭からも消し去りたい! なんて不愉快なもの送りつけてくれたの!」と怒られた。

 特殊な性癖の男が気に入らんとも限らんし、知り合いの、あくまで女性に渡したので当たり前だ。

 ていうか……うん。大学の頃から思ってたけどさ? あのー……なぁ? 主人公の幼馴染とか親友女子とか妻とか、寝取りものではよくあるけど……最後にDVDとか送りつけてくるやつほんと馬鹿だろ。

 自分で破滅の証拠を用意してどーすんだか。

 まあ、それを受け取っといて復讐もせずに泣き寝入りする主人公こそ馬鹿だとは思うが。それが、どちらかが望まぬ方向で行なわれたものなら悲しいことだ。けど、双方幸せそうに浮気しているものなら、喜んでバラ撒いてしまっていいと思う。相当空しくなるけれど、復讐にはなるだろうから。

 俺? 俺は…………ちっとも気が晴れないよ。悔しくて悲しくて仕方がない。

 悲しいのに悔しいのに、好きって気持ちがちっとも消えてくれない。好きだから悔しくて悲しくて、憎しみがぐつぐつと沸き出し続けている。

 でも、結局こんなもの、どちらかが心に決着をつけなきゃ終わらないから……俺は、彼女を切り捨てることで決着をつけることを決意した。

 裏切ったのはあちらの筈なのに、なんでこんなに罪悪感が沸くんだろう。自分の気持ちがわからない。

 ごめんな、沙織。これからひどいことを言う。ごめん。ごめんな。

 

「松彦さん! ごめんなさい! 許してください! ごめんなさい! 離婚だけはっ……お願いします……!」

「嫌だよ。生涯愛するって誓った。一途に愛し続けるって誓った。でも、それはあなたがきちんと俺の方を向いてくれているのなら、だ。なんで別の男に体許す女を生涯愛さなきゃいけないんだよ。愛せるわけないだろ? なんなら親父さんに訊いてみりゃいいさ。同じ男として、そんな女性を愛せるかって」

「ちがっ……違うんです……! ~……あれは、本当にあれ一度きりで……結果的にああなってしまって、言い出せるようなものじゃなくて……! あ、あの、許されるようなことじゃないっていうのは、分かっています……あんなことになってしまって、なにを、って思うかもしれません……! でも、お願いします……あなたの傍に居させてください……! 本当にっ……本当にどうしてあんなことになったのか、わからないんです……!」

「……なぁ。映像の中で随分と忠吉に愛してるって言われて、幸せそうな顔してたよな。お前は愛してるって言われれば他人に体を許すのか? 随分とまあ熱に浮かされたように愛してる愛してる言ってたよな、お前も、あいつも。あんな言葉を向けるのは俺だけだってずっと思ってたのに。……違う、こんなこと言いたいんじゃない。自慢の嫁だった。本当にお前のことを愛していた。けど……~……っ……くそっ……! あのな、婚前の約束ひとつ守れないやつと、これからもなんて絶対に無理だ。どんな理由があろうと互い以外に体を許さないこと、って結婚前に誓ったよね?」

「っ……お、おねがい、します……! あなたを、あなただけを愛しているんです……! この気持ちに、嘘は……誓ってありません……!」

 

 っ……迷うな。決めただろ、俺。突き放せ。裏切りには真っ直ぐに向き合わなきゃ、俺は……っ!

 

「……どちらにしろもう…………あなたにはもう、っ……け、嫌悪感、しか……ありません。信じたいって、あんな映像を見たあとでも思ってしまうくらい、あなたを愛していた。……いや、正直に言えば今だって好きだよ。嫌悪のお陰で全部が裏返ってくれるほど、ちっぽけな愛情じゃなかった。~……くそ、くそ……! ちくしょう……! どうしてっ……どうして……!」

「松……彦さ……ん……」

 

 絶望を滲ませた表情で、涙をこぼす妻を、俺は……拒絶した。そうすることしかできなかった。なにか理由があるのなら、どんなことでもいいから聞きたかった。仕方ない、と心が納得してくれる理由を話してくれたなら、俺は……! でも妻や友人から出てくる言葉は“わからない”だけ。そんなものを、どうやって理解して受け入れて、これからも……って頷けっていうんだ。

 だから俺は行動するしかなかった。友人ともに家から追い出し、あとは弁護士に全部を任せて。

 号泣するほどに書くことを嫌がっていた離婚届は、彼女の両親が問答無用で書かせ、提出することで受理された。

 晴れて自由の身。家にあった元妻の私物は全部彼女のもとへ送り、俺もさっさと支度を済ませると、この家をあとにした。

 だってDVDの映像に映っていた場所が、俺もよく知る友人だったあいつと奥さんの家のリビングだったんだもの。そんなやつらがよく来るこの家。もしやこの家でも、なんて考えたらもうだめだった。あの一回きりだ、なんて言葉を裏切られてしまったあとでどう信じろっていうんだ。もう嫌だほんと、なに考えてりゃあんなことが出来るんだ。どういう心を持って育てば、友人や、将来を誓い合った相手をこんな風に裏切れるんだ。

 ああ、ちなみに忠吉は会社をクビにされたらしい。俺の知り合いの中に、あいつが務めてた会社の社長が居たからだ。ちなみに女社長。もちろんDVDを贈った。

 不倫の理由なんかはハッキリしなかったが、まあ結局はただの浮ついた気まぐれだったんだろう。心を込めて毎日自分の気持ちを伝えていたというのに、それのお返しが不倫とか……ああもう本当になにを考えて生きていればそうなるのだろう。

 子供が居なくてよかったと思う。居たとしたら、俺はその子を自分の子供かどうかを疑い、自分の子だと証明出来ても不信感を完全に拭うことなど出来なかったろうから。……エロ同人を知っている所為でそんなふうに考える一方で、自分じゃ幸せにし切れなかったのだという事実が悲しくて仕方がない。

 

「……人生、やり直してぇなぁ……」

 

 ただ……不思議に思うことがあった。映像は確かにあの一つだけで、日付はちょっと前。妻が急によそよそしくなって、誘っても深い悲しみを帯びた顔で断る日の前日あたりで。そして……そして。結局聞き出せなかったけど、あのDVDはいったい……誰が送ったものだったんだろう、と。

 忠吉も奥さんの雪子も自分じゃないと否定していた。じゃあ……?

 

……。

 

 のちに、手にした慰謝料を使って借りたアパートで、細々と暮らしている。調べた結果、本当にあの一回きりの浮気だったらしく、期間も長くない浮気は大した額は請求できない。とはいえ安アパートくらいならしばらくは生活出来るし……心が落ち着いてくれるまではと、ぼーっとする日が続いた。

 ……なんだろう、昔はお金が欲しいって思ってたのに、手の内にあってこんなに空しくなるお金があるだなんて思わなかった。お金はお金なのにな。

 

「……はぁ」

 

 引っ越しの時に挨拶に回ったけど、意外なことに隣の部屋の住人が高校時代の知り合いだった。

 中泉太平(なかいずみたいへい)。アフロヘアーに憧れていたけど、校則を破るつもりはなくて、大真面目に先生に“アフロヘアーって校則違反になりますかね!?”と訊ねた、当時の勇者である。

 太平、だから“たっぺー”と呼んでいる。俺は今井松彦。だから“まっつん”と呼ばれていた。

 

「よっすお帰りおつかれー。まっつんこれから用事ある? 無いなら飲まねーか?」

「よっすたっぺー。いいぞー、疲れてるから酒飲みたかった」

「おっしゃ。いやー、友人がギフト送る練習だとかで缶ビールの詰め合わせ送ってきてさー。あ、悪い、酒はないんだけど、いいか?」

「いーよ。酔えりゃ問題ない。美味けりゃバンザイ。高価なものなんて俺達にゃ似合わないだろ」

「っははー、言えてら」

 

 仕事が終われば、どちらともなく互いの部屋へ行って、仕事の愚痴や上司への愚痴をこぼしては、酒だビールだ野郎の手料理だので盛り上がり、一緒に酔っ払って……それが、なんだか今は楽しくて。

 

「っぱはー……! てかさぁまっつん? お前結婚とかしてたんじゃなかったっけ?」

「たっぺー、お前相変わらずキッツいとこザクっとくるよなー」

「へ? もしかして離婚したとか? それとも別居中?」

「離婚。不倫相手が友人で、合体動画をDVDに焼いて送ってきやがった」

「ぶっふ! ばっかだなそいつ! 自分で動かぬ証拠差し出して、断罪してくださいとでも言いたかったのか!?」

「いや、ないだろ。違うんだ違うんだ言いまくってたし」

「余計にアホだな。なにやりたかったんだそいつ」

「ていうか、お前も彼女居ただろ高校時代。えっとたしか───草薙美乃梨」

「あー……遠恋中に好きな人出来たんだと。しっかり別れを告げに俺のところまで来て、泣きながらごめんなさいされたわ」

「あー……いいなぁ、ちゃんと愛されてたんじゃん」

「遠距離じゃなけりゃあなぁ……でもさぁ、俺毎日電話したし、好きだって言ったりしたんだぜー……?」

「罪悪感はあったけど、それがスパイスみたいな感じになっちゃったんだろ」

「あー……ちくしょう、一途で馬鹿を見るのって男の役目なんかなぁ……」

「そうでもないだろ。クズな男とかフツーに居るし」

「てか恋人居るのに手ェ出す時点でそいつもよっぽどクズだよな」

「もしくは草薙のやつがしっかり恋人が居るって言ってなかったとか?」

「───……」

「…………」

「飲むか」

「んだな」

 

 何回目かのカシュッ、って音。そして、ブォィンという缶ビールを叩き合わせる音。

 ごふごふ飲んで、ぱはーと息を吐けば、自然と涙がこぼれ落ちた。

 

「……なんで…………真面目に好きで居続けたやつらが、泣かなきゃなんねぇんだろうな……」

 

 たっぺーがこぼす。言われるまでもない。俺だって思ってたことだ。

 

「誘惑するような奴が居なけりゃ、全てが上手くいった……なんてこともないんだろーな……」

 

 俺もこぼす。だって、そうじゃなけりゃあ一途に好きな相手の誘いを断って他と、なんてアホで最低なことなんてしない筈だ。

 むしろ嫁の場合……そだな、たとえば…………いや。

 

「理不尽だよなー……や、まあさ? 俺は結婚する前でよかったかなーとは思うけど。お前の場合結婚してたんだろ?」

「あー。正真正銘の不倫で離婚だ。しかも幸せそうに合体してるDVD付き。なんの特典だよってなぁ?」

「あー……なに? お前のナウいムスコ、友人のよりちっさかったとか?」

「いや、行為が終わるとあいつが足腰立たんくなるくらいはご立派様」

「エロ同人とは真逆のパターンだなおい。あれか? サイズ的に丁度良かったとか?」

「いや…………あー、なるほど。そういうことか」

「まっつん?」

「や、ある日にさ、意識飛ぶほど執拗にヤったことがあったんだけどさ。その時に半分トびながら、あいつが言ってたことがあったんだ。その時はなんのこっちゃだったけど……まあ、なぁ。ああその。……やっぱり、松彦さんのが一番……とかぼそぼそ言ってんの。まあ、つまりその時既にってことだろ」

「その友人本気で殴りたいな。いや友人とかいう呼び方、俺も巻き込まれてるみたいで勘弁だわ。クズ男な、クズ男」

「まあ、友人ヅラする中であいつを抱いてたわけだからなぁ……」

「それほんとクズだなおい」

 

 ただ、その言葉を言われたの、DVDの日付のもっと前なんだよな。あれが初めての浮気なら、妻はいったい、なにと比べて───いや。

 

「……それでさぁたっぺー」

「なんだーまっつん」

 

 ぐい、とビールをひと飲み。缶を畳の上にゴドスと置いて、訊ねてみる。

 

「お前これから先、彼女とかどーするよ」

「あー……出来れば欲しいなーとは思うんだぜ? でもさぁ、もしかしたら女性ってそもそも男を裏切るように出来てるんじゃ……とか考えると、踏み出せねぇよなぁ……」

「わかる……わかりすぎて困る」

 

 誰かひとりのために生きてみれば、その相手は別の男と合体して、そいつに愛してるとかおっしゃってました、とかほんと相手のことなんて信じられなくなる。

 なにが“違うの”だよ、違うんだったら違う理由のひとつでも言ってみせてくれっての。結局なんにも言葉が続かないまま終わったし、自分の欲望の深さを人のやさしさの所為にして濁しただけじゃねぇか。

 

「……ちくしょう。~……ちくしょうっ……好きだったなぁ……」

「わかる。好きじゃなきゃ遠距離なんてしねぇよ……ちくしょう」

 

 裏切られなければきっと幸せでいられたのだろう。裏切られなければ、きっと今も隣で愛を届けていたのだろう。

 でも、それらを彼女らはあっさりと砕いた。砕いた上で、家族にまで迷惑をかけて、両親の老後の夢まで砕いてみせたのだ。本当に、クズどもだ。

 本当に、誰一人として幸せにならなかった。浮気なんて、本当にクズの所業だ。

 どうして別れてから関係を持つ、それだけのことが出来ないんだろう。キープしておきたいからか? ……そうだろうな。

 

「んじゃ、あれだな。もうこうなったら、どっちが先に女作ってゴールインするか勝負だな。ま、俺バツイチじゃないから、俺の方が確率高そうだけど!」

「ほざきやがれ、そういうのは部屋ァもうちょい綺麗にしてから言いやがれってんだ」

「おー!? 言いやがったなこのやろー! いいぜそんじゃあ俺の本気見せてやるぜぇ! ほえ面かくなよコンチクショー!」

「おうっ! 俺だって生活習慣見直して、こんなダルダルおっさん状態から抜け出してやるっての!」

「おうやってみせろやこらー!」

「やってやろうじゃねぇかこらー!」

 

 だっはははははと笑って、半分以上も減った缶ビールをもう一度ゴインと叩き合わせた。

 そうして笑って笑って……少ししたあと。

 

「…………ところでさぁ。まっつん、まだコーラとか……好き?」

「ああ、ゼロコーラとかデカペットで買って飲んだりすることあるな」

「そうそれ。…………デカペット開ける時さ、ペットボトルに映る自分のツラ見て、フケたなぁとか太ったなぁとか思うこと、ない?」

「…………お前それ言うなよ」

 

 あるよある。経験ある。デカペット開ける時、そのボトルにおっさんが映ってるのに気づいて、うわー……俺こんな顔なんかぁ……ってなる時。

 “これから鏡を見る”って意識して鏡に向かったわけじゃないその顔は、本当になんていうかくたびれた顔をしていて、結構ショックを受けるのだ。

 なんてことを二人で笑いながら話して、時に泣いて、ヤケになって歌ったりして、その日は潰れた。

 翌日、頭痛に苦しみながらも会社で仕事をこなして、家に戻って。おかえりを言ってくれる人が居ない、ただただ暗い部屋に入った時……なんでか涙がこぼれた。

 

……。

 

 人は順応していくものだって聞いたことがある。

 あんなひどい破局を味わって、もう恋なんて、って思っていると、案外本当に機会なんてものには恵まれないもので。

 気づけば女を連れて来たたっぺーが、上機嫌で彼女を紹介して、まあ順調な付き合いを出来ているようで。段々と俺との付き合いも薄れていって、俺もまた、仕事に打ち込むようになって、交流は少なくなっていった。

 まあ、そんなもんだ。大した理由があったわけでもない。お互いにそういったことは慣れている。

 顔を合わせれば無言でハイタッチをして、お互い上手くやってこーやって笑みだけ交わして通り過ぎる。そんな日々が数年続いた。

 

……。

 

 俺、あいつと結婚するんだ。その言葉をたっぺーから聞いて、俺は笑顔で祝福できた。相手は本当によく出来た人だ。たっぺーも俺にはもったいないって照れくさそうに言う。

 でも誰にも渡す気はないんだろ? なんてからかってみれば、たっぺーは彼女を抱き寄せて当たり前だって胸を張った。

 ほどなく二人は結婚。溜めた金で家を買ったそうで、アパートからは出て行った。

 それから二人がどうしているかは知らない。

 俺は変わらずここでお金だけを稼いでいるような日々を過ごしている。

 人との交流は最小限。そうしたいわけでもないのに、生活習慣がそれ以外を許してくれない。

 たまに同じアパートの住人や、会社の人と挨拶を交わす以外、この口が動くことはもうあまりない。

 どうしてこうなってしまったんだろう、なんて思い出したみたいに口から漏れた時、涙がこぼれた。

 

……。

 

 ある日───……そう、離婚からもう何年も経ったある日のこと。

 ニュースで、ある薬が問題になった、という話が出ていた。

 なんだなんだ、と見てみれば、いつかどこかで見たようなパッケージの薬が画面に取り上げられていた。

 〇〇社の鼻炎薬。

 ……思い出した。俺が、元妻に買って渡したものだ。新発売だからと、一層効くといいな、とか笑い混じりに話して渡したっけ。

 それがどうかしたのか? と番組をみていると、どうにも……この薬がかなりヤバい効果を出してしまうことが、出てから数年経った、今さら発見されてしまったとか。

 その効果というのが、飲み合わせ、食べ合わせによって、ある特殊な条件下で“ひどい幻覚作用を引き出してしまう”といったもの。

 たとえば……目の前の人が全然違う人に見えてしまったり、頭がぼーっとしてしまい、不安感に襲われて、近くの人に身を寄せてしまう、だとか。

 

「………………え?」

 

 嫌な答えが頭に浮かぶ。

 妻は言った。俺を愛していると。俺だけを愛していると。行為の最中、あんなに、真っ直ぐに、愛していると妻が口にするのは俺だけだと思っていた。

 じゃあもし、友人の上で腰を上下させていた時、彼女の目に映っていた目の前の人間が俺であったなら? 俺だと認識してしまっていたら? 友人も、同じ状況だったなら? そういえばあいつも鼻炎持ちだった。妻ほどじゃないけど、新しい薬でも探すかな、とか言っていた。

 ……もし、妻がそれを聞いて分けたのだとしたら? 遊びに行く、と言った先で、あんなことになってしまったのだとしたら? あの日は奥さんも居た筈だ。けど、急に用事が出来た可能性だってある。いや、妻は俺以外の男とは決して二人きりになる状況を受け入れるヤツじゃなかった。じゃあ……? いや、それも今はいい。

 妻は、俺が“妻が眠気に耐える姿”が好きなのを知っていた。たまに、鼻炎薬を飲んで眠さに耐えている姿を定点カメラで写したのを、俺に見せてくれたりした。恥ずかしいんですけど、と。

 じゃあ。じゃあ……じゃあ……! もしその時にも同じつもりで置いていた定点カメラで撮れてしまったのが、あの行為の映像だったとしたら?

 

「…………俺は」

 

 あの頃に、こんなニュースの情報なんてない。あの薬がこんな副作用を起こすなんて知らなかった筈だ。

 妻は、違うとしか言わなかったんじゃなくて、言えなかったんじゃないか? 原因がわからなかったから、言おうにも言えず、言っても信じてもらえないと思ったんじゃないか?

 誰が信じるんだ、急に不安になって、目の前に愛する人が居たから抱いてもらいました、なんて言って。

 友人だって奥さんを、雪子を死ぬほど愛していた。人前じゃ滅多に見せなかったけど、偶然見てしまった奥さんへのベタ惚れ度は尋常じゃなかった。

 じゃあ……薬の所為で見えてしまっていた俺の妻の姿が、あいつの奥さんとして映っていたのであったなら?

 

「………」

 

 ……憶測でしかないのに。俺は、それが真実だって……受け入れてしまった。

 妻なら絶対に言わない。許してくださいと、結果を謝罪するだけだ。以降、俺に誘われたって……きっと自分の体は穢れてしまったから、と。抱いてもらう資格なんてないと、断るに決まっている。それがいつかからあの日までの拒絶だったんじゃないか?

 そして……そして。罪悪感なんて仕舞っておけるあいつじゃない。俺に対しては“隠し事なんてしたくない”って、訊いてもいないのに暴露してくるようなやつだった。つまり───

 

「そう……そうか。そうだったのか」

 

 ……DVDを送ったのは……お前だったんだな、沙織……。

 どういう形であれ、俺に裁いてほしかったんだ。それだけの覚悟を決めたつもりだった。

 でも、本気で怒る俺を見て、見たこともない俺を見て、謝らずにはいられなかったんだ。

 許してください、と言われた。傍に居させてください、と言われた。でも俺はそれを許さなかった。

 慰謝料請求に頷きはしても、離婚届を書きたくなかったのは………………

 

「……はは……馬鹿だなぁ、俺……」

 

 結局なんにもわかっちゃいない。愛してる愛してるとどれだけ言ったところで、裏切られたと思い込んでなにもかもを拒絶してしまった。

 薬を買ったのは俺。それを妻に渡したのも俺。あんな副作用があるだなんて知らなかった、なんていくらでも言える。でも、だったら新しい会社の薬じゃなく、今までの会社のをローテすればいいだけの話だったんだ。

 

「ごめんな沙織…………ごめん、ごめんなぁ……」

 

 誰も居ないことにも慣れたと思っていた部屋で、一人謝りながら涙をこぼした。

 酒も飲まず、頭の中で思い切り後悔というものを巡らせながら、幸せの様々を壊してしまった自分を呪いながら。

 

 

───……。

 

……。

 

 …………あれから……随分と長い時間が過ぎた。

 会社で認められて昇進もしたし、貯蓄も随分出来た。たまに贅沢を、なんて思って高級料理の店なんかに行ってみるんだけど、ろくに味の善し悪しもわからんかった。確かに他の店よりは美味いんだろう。でも、通い慣れた馴染みの店の数倍もの値段の価値があるのか、なんて言われれば、俺は首を横に振れた。

 ただ……妻の手料理が恋しい。自炊をしてみて、腕をあげてみても、どうしても理想に届かない。

 会社で部下の女性に言い寄られたこともあったけど、どうしても元妻と比べてしまう。

 結局お金ばかりが溜まり、女性関係では枯れた生活を過ごしては、だらだらとした日々を過ごしている。

 部下にだらしない姿は見せられないから、って一応身嗜みも私生活自体もそう小汚いわけでもないけれど、家に戻ったって趣味があるわけでもない。

 精々で部下連中が遊びに行ってもいいですかーなんて言ってくるのに対し、普通のアパートだぞーと言いつつ了承、時には盛り上がりつつ、部下のやる気を上げては今日もまた普通の日々に埋もれていく。

 

「ていうかですよ先輩! 先輩はもう結婚とかしないんですか!?」

「やーめーろシュウ。俺にはもうそういう、誰かの人生を背負う資格なんてないんだよ」

「えー……でも先輩ほんとに優良物件じゃないっすか。俺貯金額教えてもらった時、目ン玉飛び出るかと思いましたもん」

「ええいやめいと言うのに。ていうか人の懐事情を暴露するんじゃない」

「え? 部長って結婚してなかったんですか? お弁当とか持って来てるから、わたしてっきり……」

「もう何年も前に離婚してるんだ。いやー……すっげぇ美人ですっげぇいい人で、俺も初めて会った時は驚いたもんだなぁ」

「離婚って、まさか部長が!?」

「いやおまちょっ!? まさかなに言ってんだばかっ! むしろ部長がハイパーベタ惚れ状態だったって! ていうか先輩にあんま失礼な口をだなっ……! 教育係の俺の立場がっ……!」

「部長がベタ惚れ……!?」

「あ」

「……シュウ。明日振りたい仕事が急に沸いて出たからヨロシクな……」

「ワ、ワーイ……部長の仕事手伝えて、光栄ダナー……」

 

 日々は相変わらずに進んでいる。

 たっぺーから子供が小学生になったーなんてメールが届いたりした。

 俺は……やっぱり出会いなんてない。きっともう、心が望んでもいないのだろう。

 時間が経過するたび、ただただ人にやさしくなっていく自分を自覚するたび、思うのだ。幸せだった頃に戻りたい、と。

 

……。

 

 気づけば両親が亡くなっていた。

 時間を見つけては夫婦水入らずの旅行などをプレゼントしていたが、連絡が取れなくなり、心配になって実家に戻ると、二人は眠るようにして逝っていた。

 布団で、寄り添うようにして。苦しさなんてひとっつもないくらいに、ただただやすらかな寝顔だった。

 涙は流れなかった。ただ、「おやじ……おふくろ……俺……孝行できた?」なんて小さく呟いて、なにも言ってくれない二人に苦笑をこぼして……葬儀のための準備をして。

 動かない両親を眺める日々が過ぎ、やがて葬儀が始まって。

 どこで聞いたのか……そこに元妻が来てくれて。

 

「沙織……お前……」

「……お久しぶりです」

 

 雰囲気は変わらない。けど、白髪が増えた彼女がそこに居た。

 手を伸ばせば届く距離。けど、相手はそれを望んでいないように感じた。

 

「……あれから、どうしてた?」

「……はい。細々と仕事をしながら……お父さんとお母さんに孝行していました」

「……そか」

 

 きっと、会うたび会うたび謝ったのだろう。自分でも気づかない内にそうなってしまったことに対して、どう心を籠めれば誠心誠意、なんて言葉で謝れるのかもわからないまま。

 

「沙織」

「……はい」

「……すまない」

「……………………ぇ?」

「数年前に……ニュースを見た。俺がお前に買った、あの鼻炎薬の……」

「………」

「すまない。……すまなかった。お前は全然悪くなかった。むしろ“そうなってしまって”も、お前は俺を愛してくれていただけだったのに……」

「…………結果は……変わらないのだと思います。わたしの体を松彦さん以外に晒してしまい、あまつさえ愛しているだなどと言ってしまった時点で…………わたしに、松彦さんに愛してもらう資格などなくなっていたのです」

「ちがっ……違うっ……! それは───」

「なのに…………っ……別れるのが辛くて……! 松彦さんの望む通りに裁いてもらおうと、そう思ってDVDを送ったのに……! わたしはっ……愚かにも許してくださいなどと……傍に居させてくださいなどと……!」

「沙織……」

「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさいっ……!」

 

 沙織は……尽くしたがりだった。

 俺なんかの何処がいいのか、告白してくれて、愛を教えてくれて。

 過去の親の事情があって、男女の関係には抵抗が、と言っていた俺に寄り添って、ゆっくりと時間をかけて……尖ったトラウマを削って、穏やかな心へと変えていってくれた。

 そんな彼女があの日に豹変してしまって、けれどそれはあくまで俺を愛していたからにすぎなくて……誰が悪いかと言われれば、あんな薬を売った会社が悪いのか、それともまんまと買ってしまった俺が悪かったのか。

 ……どの道、いまさらどんな言葉を並べたって、お互いの溝は埋まらないのだろう。

 

「裏切り者、なんて言って……すまなかった。結局俺は、結婚の時に誓ったなにもかもを守れなかった。お前のことも、お義父さんお義母さんのことも……」

「松彦さん……」

「ご近所さん、仕事場の身近な連中……いろんな人が幸せになるたび、どうして俺はこうなってしまったんだろうなぁ、なんて考えることが多くなった。どうしてもなにも、裏切りだと判断する前に、もっと話し合うべきだったんだ……」

「いえ……いえ。あの時に話し合いをしても、わたしも松彦さんも……原因がわからなかったのですから、どうしようもなかったに違いありません。……園部さん夫婦の家にご招待されて、雪子さんがお知り合いの急なお誘いに家を空けることになった時点で、わたしも帰るべきだったんです。同じ鼻炎持ちと聞いて、松彦さんのやさしさを……その、じ、自慢したくなって、持ち歩いていた鼻炎薬を渡してしまって……」

「……お前はいつでも、俺のことなら些細なことでも胸を張って自慢していたものなぁ……」

「愛していたから…………本当に本当に、心の底から……愛していましたから。大学で出会って、時折見かけるたびにどんどん好きになって、雪子さんと知り合いだと聞いて、男性を紹介してもらうなんて初めてのことをしてもらって……」

「初対面じゃ、どもりすぎてて何を言っているのか分からなくてなぁ」

「あ、当たり前、です……。それまで人と積極的に関わろうだなんて思わなかったわたしなのに、あなたに会えて……一目見て、心が痺れるみたいに震えて……! 二目見て、傍に居たいと心が惹かれて、どうしていいのか分からなくなって、想いをぶつけたい衝動にばかり駆られて、でも失敗したくないから、初めてお化粧などの勉強もして、髪だって切って、精一杯好かれる努力を頑張って頑張って……! そんな時に友達になってくれた雪子さんに紹介してもらって、友達になれて……どれほどわたしが嬉しかったか、わかりますか……?」

「俺の中じゃ、沙織は最初からとんでもなく綺麗な人だったからなぁ。急に雪子に紹介されて、真っ赤な顔でお友達になってください、は正直“なんで俺?”なんて思ったもんだよ」

「~……!」

 

 葬儀も終わり、誰もが帰った家で二人、昔話に花を咲かせる。

 あれほど裏切り者が憎い、なんて尖っていた心なんてもう丸く、俺があんな薬を買わなければ、なんて罪悪感ばかりが胸を突く。

 なのにこいつはちっとも俺を恨んじゃいなくて、俺が歩み寄れば、穢れてしまった自分にそんな価値はないとばかりに泣きそうな顔で距離を取る。

 ……すまない。ああ……すまない、すまない。そうだ、お前は本当にそういうやつだった。

 いっそ病的なまでに俺のためにを貫いて、尽くしてくれて。俺に少しでも誤解されたくないからと同窓会だろうが男性との距離は取っていたそうだし、俺の男友達に紹介する時でさえ、“自分の気持ちは松彦さん以外には向きませんから”を体現するかのように、俺にひっついて離れなかった。

 

「お前はあれから───その、誰かと一緒になったりは」

「……誘われることは、数人に。けれど、断りました」

「沙織……」

「重い女だと呆れられるかもしれません。でも……本当に、松彦さんだけなんです。なにをしている時も、あなたの顔が頭に浮かんで、それだけで嬉しくて。……なのに、松彦さん以外に自ら触れてしまったことが……吐いてしまうほどに、悲しくて、苦しくて……」

「───……」

 

 涙を滲ませながら呟く沙織を見て、いつかの疑問が頭に浮かんだ。

 彼女が覚えているかはわからないが───

 

「……沙織。聞いておきたいことがある。お前は、その……忠吉とはあのDVDの一度だけと言っていたよな」

「はい。誓って、それは本当です」

 

 それだけは譲れない、とばかりに姿勢を正し、涙も散らせた真っ直ぐな顔で、沙織は答えた。じゃあ───

 

「じゃあ、その。いつか……覚えているだろうか。俺がその、お前を激しく求めてしまった時に、お前がこぼした言葉で……“やっぱり松彦さんのが一番……”って……言っていたのを」

 

 話している最中に気づけるものがあったのか、沙織の顔は真っ青に───なるどころか、真っ赤になって余計に涙が滲み、口は波線になるくらいきゅうっと閉ざされ、目はぐるぐる状態になった。

 え? なにその反応。白髪が多く目立つ歳になっても元妻が可愛い。

 

「ぁ、の……あの、あれを、聞いてっ……!? ていうかわたし、言っちゃって……!? あっ……い、いえ、松彦さんにはいつだって誠実に居たいわたしです! 虚言なんてわたし自身が許せません! ので…………の、で……その……あのっ……!」

 

 ……言われる前に、なんか分かってしまった。ああこれ、あの時から誰かと関係がーとかじゃないわ、と。

 

「ゆふっ……雪子さん、に……その、相談されたことがありまして……! だ、旦那のっ……アレ、が……小さくて、気持ちよくなれない、とか……! わたたわたしはあの、松彦さんのご立派様がとてもそのっ、大きかった、ので……その気持ちがわからなくて……! な、なのであのっ……ごごごめんなさい松彦さんっ……! 松彦さんという人がおりながら、わたしはっ……じじじ自分の指で、いたしてしまいましたっ……!」

「───」

 

 元嫁がかわいい。ていうか一途に過ぎる。なのに俺はそれを信じられなかった。

 先に立つ後悔がないってのはこういう時に思い知るのだろう。

 もしくは……たとえあんなDVDを見てしまったのだとしても、離婚せずにともに歩めれば……俺はこの歳までずっと、こいつのこんなところを傍で見ていられたろうに。

 疑惑が残っていたとしても、あの鼻炎薬の情報が出た瞬間、薄情にも掌を返すような勢いで彼女を愛す自分に反吐が出るけど、それはきっと疑い続けて一緒に暮らすよりはよっぽどマシなんじゃないかと思えた。

 

  ああ……悔しいな。悲しいなぁ。

 

 自分がちっぽけに思えて、実際ちっぽけだからこんなに寂しくて、仕事でしかなにかを残せない自分になったのだろう。

 部下からは慕われている。上の人らにだって認められている。でも、じゃあそれ以外で俺に何があるのか。……なにもないじゃないか。仕事をして、家に戻って、趣味らしい趣味もなく過ごす毎日。

 こいつと別れてから思い知った。俺は本当に、こいつを構うか愛でるくらいにしかすることがなかったのだ。アホだ。

 それまでの大学までの時間、俺は何をしていただろうか……もう、そんなことさえ思い出せない。

 

「……? なぁ、沙織? さっきから気になってたんだが……触れた、とか自分から、とか言うけど、忠吉とはその、肉体関係は……」

「……あの時のわたしが見ていたのは松彦さんです。ので、その……“いつも通りには動いてはいた”んですけど、あの……」

「……忠吉の、小さい、とか言ってたんだよな、雪子が」

「言い訳になりますけど……その。入っては、いなかった……です」

「───」

「でもっ、他人の、松彦さん以外のモノがわたしのあそこに……っ……体に触れていたことは紛れもない事実です! わたしの体はっ……穢れてしまいましたっ……!」

「いやいやいやいやいや! 入ってもいないのになんで体を上下させる意味が!?」

「わっ……わ、たし。その……っ……松彦さんが相手なら、触れているだけで幸せで、気持ち良くて……!」

「───」

 

 ……うん。俺の嫁、可愛いままだった。愛は重いんだろうけど、可愛いままだった。信じきれなかった俺だけが愚かだった。それが悔しくてたまらない。

 思えば見切れた部分は多々あった。音ばかりを意識して、大事なところは見えていないからってそのまま鵜呑みにしすぎていた。でもたとえば、聞こえてきていた音がこいつが幸せだから溢れてたものが、忠吉の下腹部との間で弾けていただけだったら? 言う通り、こいつは俺に触れているだけで、いっそむぎゅーっと抱き締め続けただけで、とろりと表情をとろけさせて震えるような、自分で言うのもアレなんだけど、俺大好き人間だった。

 つまり、俺が悪い。

 

「………沙織」

「はい……」

「その……話、したい。話したいこと、いっぱい、あるんだ。時間、あるか? 聞いてほしい。聞かせてほしい」

「…………はい」

 

 結局俺達はこれまでの誤解や、会わなかった時間を潰すみたいに語り明かし、それでも……元の鞘には戻らなかった。

 今さらなのだ。親の囁かな夢を潰しておいて、なにを今さらって話だ。

 それに……沙織は自分の親に、必要以上に関わらないでくれと言われたらしい。もう、ただ静かに暮らさせてくれと。

 俺の親は幼い頃に離婚した。寄り添うように逝ったのは再婚相手だ。子供の頃から夫婦喧嘩に巻き込まれて散々な想いをしてきたから、離婚し、再婚してくれた時は本当に助かったと思ったもんだ。

 だから裏切り者は許さないと心に誓った。浮気されたのは父さんだったから。ひどい裏切りを受けて、だからこそあの女(実母)に詰め寄り、逆切れされて、喧嘩ばかりだった。

 でも、再婚してからの父さんは幸せそうだったから……だから決めた。裏切られるまでは裏切らない……そんな自分になろうって。

 そんな頭の固い、女には苦手意識さえあった俺だから、沙織に会うまで出会いらしい出会いもなかったけど……

 

「───ああ、ほんとうに……だめだなぁ、俺」

 

 呟いた時、一緒に深く深く息を吐いたら、体の力がドッと抜けた。

 仕事人間で、他にすることなんてなかった俺は、食生活だって適当になり、身嗜みさえなんとかなっていればと全てが適当になっていた。

 それでもこいつの前でだけはと崩れそうになる体に喝を入れて、「すまん、ちょっといろいろあって疲れたみたいだ」なんて、葬儀のことで誤魔化すことでその場をしのいだ。

 

……。

 

 日常は続いていく。

 休める時はきっちり休むことにして、栄養のあるものを食べるようにもして。

 でも……生きていてもただ時間を浪費するだけなんじゃないか、なんて考えがどこかにこびりついたまま、ただただ日々を、月日を、年月を過ごした。

 結局、やっぱり、沙織ともう一度、なんてことにもならなかった。

 あれから何度かは会った。その時に提案もした。けれど沙織が頷かなかった。

 自分はもう穢れているからと、決して頷かなかった。そんなことはないとどれだけ言おうと自分が許せないのだと。

 もしあの時に穢れてしまったのだとしても、あの時お前は離婚は渋っていただろう、と言うと、あの頃の自分は我がままだっただけだからと。

 そうして泣きながら謝られて……また、別れて。

 やがて……定年退職して、細々と暮らし、たまに来る元部下に相談等をされたり、遊びに行きませんかと誘われたり。

 そんな時間が何日も何か月も何年も続いて……やがて、独りのまま没した。

 財産は孤児院にでも、と保険屋と相談してたから大丈夫。

 どうせ、有っても使い道のないものだから。

 家族も親戚も居ない。こんな孤独な男に、届けたい宛なんてないのだから。

 

  ……。

 

 その後、眠りについた俺に、誰かが教えてくれた。

 ある一人の老婆が、俺の死を知ると、涙をこぼしてお辞儀をしたのち、自ら命を絶ったと。

 どうして自分がそんなことを知り得たのかは……よくわからない。

 ただ、なにもない真っ白な世界でそれを知って、私は、自分は、俺は──────

 

 

───……。

 

 

……。

 

 遠い昔の夢を見ているような感覚。

 うっすらと目を開けると、眩しさに驚いて……眩しさに慣れた視界で見つめる光景に驚いた。

 

「ぁ……れ…………? ここ…………実家…………か? いや……あそこはもう……」

 

 壊して、処分したはず。

 父さんたちが逝ってから、もう維持していけないからと。

 なのになんで……いや、それより……おかしい。あの頃よりも全然新しい気がするし、……!?

 

「っ!? へっ!? ぁ、うぉあっ!? 手がっ、って背も! いやそれよりこんな飛び起きてっ……うおおなんだこれ腰痛くないっ……おわあっ!?」

 

 起き上がって、背の小ささに驚いて、手が小さいことに驚いて、皺がないことに驚いて、父の再婚相手が大事にしていた鏡に映る、自分の姿に驚いた。あ、あと腰痛がないことね。

 

「うへぇえあぁ……! こ、こんなことって……あるのか? 若返ってる……んじゃないよなぁ」

 

 どちらかと言うまでもなく、過去に戻っている。だって、あの鏡は俺が割ってしまったもので、初めて再婚相手の母を泣かせてしまったものだったから。

 それが無事ならもう間違い無い。再婚相手が居て、鏡が割れてないなら……俺はまだ中学生だ。この頃はいろんなやつにチビだとかからかわれていた。

 ……少し冷静になって部屋の中を見渡す。再婚相手の母親……奈津美さん……いや、母さんの部屋で寝た記憶は一回だけ。俺が初めて母さんを母さんって呼んで、喜びのあまり抱き着かれて、そのままよろけて俺がテーブルに頭ぶつけて……お恥ずかしながら気絶した日だ。

 さすってみれば、なるほど、痛む頭。おお……あの日に戻ったわけだ。

 戻って…………戻? モ?

 

「!!」

 

 戻った……戻った!? じゃあ───じゃあ俺はっ! もう一度、沙織とっ……!

 そんなことを考えた瞬間、体は駆けて、頭打ったくせに急に走ったからよろめいて、なんとか体勢を保とうとしたところを布団に指が引っかかって(昔よくあったなんか妙に足に引っかかる布団カバー)、さらに足を踏ん張っておっとっとしたところで出入口の柱に右足の小指を強打。

 

「¶〇×◇▼≦■×!?」

 

 言葉にならない絶叫を放ち、倒れて悶絶。しかしこれしきで転がってなどいられない。ド根性で体を起こして、びっこ引きながら……なんとも懐かしき黒電話を発見。そういえばこの頃は父さんの趣味で、形は黒電話だけどどの回線でも全然使えるこれを使ってたっけ。ジーコロジーとダイヤル回すと、突っ込んだ指の位置と回転距離とでプッシュされる番号が変わるっていう、ちょっと面倒だけど使えるっていう電話だ。内部は一応プッシュ式と変わらない。……ああまあ電話の説明はどうあれ、それの前に立って、ジーコロジーと回したところでじゃりりりりりりんっと鳴る電話。

 思わず「おわぁっ!?」と叫びつつも、ええいすぐに出て要件終わらせて───とジャリンッと受話器を取ると、

 

「はいもしもしこちら竹垣ですが!」

『ぁ……あのっ……すいません、た、竹垣さんのお宅で、あって……ますよ、ね……? あ、あの、あのあのっ、松彦さんは……いらっしゃい、ますか……!?』

「───」

 

 ぁ。これ嫁だわ。俺がするより先に嫁から電話あったわ。

 

「……沙織、か?」

『───! 松彦さん!? 松彦さん松彦さん! あぁあああああ松彦さっ……ぅ……ぁ、わぁああああああっ……!!』

「ぇど、どどどうした沙織!? 沙織!?」

『まひゅっ……ぐすっ……ま、まふひこはん、でふよね……!? ぐすっ……わ、わたしの知ってる、松彦さん……ですよね……?』

「ああその。辛いかもしれないけど、あー……“鼻炎薬”」

『……はい。わたしも、それを知っている沙織です……っ』

 

 もしや、まさかを願ったけれど、どうやら沙織も記憶を持ったままこの時代に戻ったらしい。

 ああいやいや、らしいじゃなくて。くそ、落ち着け、ていうか俺もうほんとやばい、こいつのこと好きすぎてやばい。あの時結局一緒の道は歩けなかった所為で、もう……リセットされたなら、もう穢れてなんていないだろう、なんて……そう言いたくて、でも俺から言うのは穢れてたから嫌だった、なんて言うみたいで嫌すぎて。

 

「さっ……沙織っ!」

『ひゃ、ひゃいっ!』

「前の時は頑なに頷いてもらえなかった……だからって今の状況で、お前に言うと……前のお前が穢れているからと認めているようで言いにくい……けど。そ、それでもっ……それでも! 俺はお前が好きだ! もう一度……俺の隣を歩いてくれないかっ!?」

『……~……恥知らずで、ごめんなさいっ……! わ、わたしもっ……過去に戻ったのなら、もう一度松彦さんの隣を胸を張って……歩けるんじゃないか、って……! また一緒にって言われるたびに嬉しかったくせに、あの出来事だけが苦しくて……でも、松彦さんが死んでしまったと聞いた時、どうしてわたしは傍で看取ることさえ出来なかったんだって、悲しくて、悔しくて……! ごめんなさい松彦さん、ごめんなさい……! 誓った言葉を守れなかったのはわたしもなんです……! きっと最後まで、傍でって……あれだけ心に誓ったのに……!』

「さおっ……~……! ……は……、……らず、なもんかっ……なにが恥知らずなもんかっ!! 今度は神になんかじゃない、お前にこそ誓う! 俺はお前を裏切ったりなんかしない! 見捨てたりもしない! だからっ……」

『松彦さんっ! わたしをあなたのお嫁さんにしてください!!』

「いやそれ俺のセリフ!? ていうかプロポーズくらいこっちからさせてくれない!? 大学の時もお前からだったろうが!」

『いやです譲れません! 松彦さんは、わたしが幸せにするんです!』

「OH……」

 

 心も口調も、時間が経つにつれどんどんと肉体の調子に引っ張られるみたいに戻っていく。

 おそらくそれは沙織もで……本当に、随分と久しぶりに、くすくすという彼女の笑い声を聞いた気がした。

 

「……あのー、松彦くん? 電話の前で盛大な告白劇だったけどー……お母さん、そろそろ声かけてもいいかなー……?」

「うひょおあっ!?」

 

 そしてそんな青春真っただ中劇場を、あろうことか義母……もとい母さんに聞かれていた。

 もうすっごいテレテレ笑顔でおそるおそる訊いてくる母さんは、普段からむっつりというか……ものごとに興味を示さなかった俺が、ああも熱心に青春劇場をしていたことに大変興味を示したようで。しかしせっかく母と呼んでくれたのに、ここで踏み込みすぎては失敗するのでは、と……そんな感じで恐る恐るな空気。

 

「い、い、いや、母さん、これはそのっ……なんといいますか……!」

『え……お義母さん!? あ、あのっ! あの時は誤解だったとはいえとんだご迷惑をっ……!』

「落ち着いて沙織! 今それ母さんに言っても絶対通じないから!」

『はうあそうでした!』

「?」

 

 なお、大学で出会ってからも結婚してからも、沙織は結構な天然というか、おっちょこちょいな部分が多々あった。まあ、そんなところも好きだったんだが。

 

「えっと……母さん?」

「……! は、はいっ、お母さんですよっ? なにかな松彦くんっ」

 

 あら嬉しそう。

 

「中学生の分際で、結婚を前提に付き合いたい人が居る、って言ったら……驚く?」

「!?」

 

 素直に驚かれた。

 

「えっと……松彦くん? こう言うのもなんだけど、子供の頃に夢中になったものって、大体数年で綻びが───」

「あ、大丈夫。他のことは分からないけど、電話先の人に関しては夢中で居られる自信がある」

 

 それも数十年単位で。むしろ一生だろうとドンと来いだ。……はぁ、やだねぇほんと、一度は信じられなかったくせに。裏切り者とまで言ったくせに。

 でも、だからこそ、あの後悔を胸に一生愛し続けることを誓います。

 

「……松彦くん。ちょっと電話先の子と話させてもらっていいかな」

「あ、うん。どぞ」

 

 素直に“うん”なんて言葉が出る。

 俺にとって、やっぱりこの人は心底“母さん”なのだ。

 

「もしもし、少し話をさせてもらっていいかな」

『ほう……そちらから会話を求めるとはいい度胸だ』

「───…………アノ、マツヒコクン? ズズ随分トダンディーナ声ノ婚約予定者サマデ……」

 

 あー……ソレ多分お義父さんです。

 お義父さん、沙織のこと溺愛してたからなぁ……さっきまで大声で松彦さん松彦さん言ってたし、気になって来たんじゃないかな?

 

『婚約!? 今婚約と言ったか!? うちの娘はまだ中学生だぞ! キミ! 名前を言いなさい! 住んでる場所は!』

「ふえっ!? あ、あのっ、竹垣四槻(たけがきしづき)、40歳、ドモホノレンリンクノレを使っています!」

『ドモッ……え!? いやそんなことは聞いていないが!? というかキミは女性なのか!? 40歳!? むむむ娘とはどういう関係だー!!』

 

 なお、母さんも結構な天然さんである。父さんと俺、結構好みのタイプ似てるのかもなぁ。そしてお義父さんは沙織のこととなると暴走しがちだ。よく奥さんのみさきさんにスリッパで頭スッパァンされてたし。

 それから電話を代わると言っても「お母さんに任せて!」と聞いて貰えず、電話先のお義父さんわちゃわちゃ話し合いを続け───

 

……。

 

 なんか次の休みの日に家族総出で会うことになり、その休みの日が今日で───

 

「松彦さん!」

「沙織!」

 

 顔を見た瞬間に、まだ幼さの残る二人で全力疾走、ドラマのワンシーンのように抱き合った。……というか勢いが付きすぎて正面衝突ばりにどっかーんと。しかし互いを絶対に離さず、至近距離で互いの泣き顔を見たら……もうだめだった。

 あの頃の思い出が一気に浮かんできて、俺達は抱き合ったまま大声で泣き合った。

 そうなるとね、もう完全に二人の世界。遅れて走ってきた双方の両親にいろいろ声をかけられたりしたけど、もうね、だめだった。

 人前だ、というよりは天下の往来……というよりも、うん。無様披露宴になっても後腐れがないようにと、お互いの実家の中間にある喫茶店を選んで集合したんだけど、車から降りてお互いを認識したらもう全部ダメでした。

 や、多少はカッコよく再会したいとは思ってたんだよ? でもさ、やっぱり俺、こいつのこと本当に本当に好きだったんだなって、顔を見たら心からそう思えちゃって、走っちゃって、抱き合っちゃって、泣き合っちゃって。初めてくる喫茶店の駐車場で、そりゃあもう他のお客様から生暖かい視線をほしいままにしましたともさ。

 あとで誠心誠意、マスターさんに頭を下げよう。

 というのも、この店は前の俺達の行きつけの喫茶店だったのだ。まさかこんな頃からあったとは、なんてのは中学生で移動手段が限られているからこそ言える言葉だろう。

 扉を開けるとシャランコンシャラァァンと鳴るのも変わってない。好きだったんだよなぁこの音。

 

「……いらっしゃい」

 

 久しぶりに入っての第一印象。……マスター若ッ!

 でもこの時からいらっしゃいの言い方変わってない! ちらりと見れば、沙織もくすくす笑ってる。そして俺と目が合うと、幸せそうにほにゃあと微笑んだ。可愛い。

 ともあれ既に電話で六人テーブルを予約していたので、ささっと案内されての着席。

 他の席とも離れていて、窓も遠い……なんというかいかにも秘密の相談事、できます、的なテーブルだ。

 あー……一度も座ったことなかったけど、そういやマスター、恋人の破局とか夫婦の離婚話しとかをするのにここを使ってもらえたらなぁ……とかこぼしてたことが……。

 

「さて、それでは改めて。私が沙織の父親の梅野三太です」

「はじめまして、沙織の母の梅野双葉といいます」

「~……あ、改めまして……! 梅野沙織です……!」

「これはご丁寧に。僕が松彦の父の竹垣一郎です」

「はい~、私は松彦くんのは、は、母親……♪ の、竹垣四槻(しづき)です」

「おお、あなたがあのドモホノレンの」

「それは忘れてください……っ……!」

 

 母さん、顔真っ赤である。

 

「初めまして。僕は竹垣松彦です」

「ほう……キミが」

 

 ねっとり、とした目でお義父さんに見つめられた。それからさらにジジロジロジロジィ~ロジロと、テーブルに座りながら見れる個所をとことんまでに見つめられる。

 

「ひとつ訊きたいのだがー───なぜ娘はあなた方の家の電話番号を知っていたのか。いや、そもそも───キミと娘はどこで出会ったのか」

「「………」」

 

 ちらりと二人、見つめ合う。そしてこくりと頷くと、

 

「「前世で」」

「いや冗談とかいいから」

 

 即座にお義父さんからツッコミが入った。

 お義父さん。梅野三太さんは、ダンディーで落ち着いた雰囲気を持つけど、かつて一緒に居たという幼馴染(男)の所為でツッコミがクセになってしまったらしい。

 

「いえ、本当です。前世、と言っても今より未来で、俺と沙織は夫婦でした」

「はい。その時は大学で初めて会ったのですけど、わ、私の方から松彦さんに猛アタックを仕掛けまして……!」

「雪子に猛アタックでいっちゃいなさいって言われたらしくて、大学でタックルされた日のことは忘れません」

 

 腰から下にドッガァとぶつかる見事なタックルだった。

 でもね、沙織。アタックってそうじゃないんだよ。そう雪子に説明された翌日、バレーボールを持って登場した沙織に、俺と雪子は戦慄した。いや、懐かしい。

 

「いやしかしな、そんなことが現実に……」

「えっと、じゃあ手っ取り早く……父さん、俺の小遣いって今どうなってるっけ」

「全部預かってるよ? 使い道がないから~って、毎月分、今日まで全部」

「よし。じゃあ今それ全部受け取ること、出来るかな」

「いいけど……なにに使うんだい?」

「宝くじ。一等を有り金全部分当ててあげる。って言っても、ロット6だけど」

「……父さん、出来るだけ松彦のお金の使い道には口は出さないつもりだけど、無駄遣いは見過ごせないよ?」

「大丈夫、信じて父さん。今日は俺が母さんを母さんって呼んで、気絶した記念日なんだ。その日の当選番号は覚えてる。ガキだったから、無駄に宝くじの一等に憧れててよく見てたんだ」

「───……うーん、まあこれはお小遣いとして松彦にあげたものだから、僕が文句言うのもあーだこーだ言い募るのもお門違いだね。いいよ、渡そう」

「ありがとう」

 

 常に持ち歩いているのか、財布を……ヤケにデカくブ厚い財布を取ると、ズチャアアアと札束を取り出し……いや多い多い! 子供の小遣いにいったい月いくら渡そうと思ってたの!

 

「松彦には沙奈枝のことで嫌な思いさせちゃったからね。その分の慰謝料って意味で、お小遣いを増してたんだ。……驚くってことは、未来の僕は松彦にこれを渡さなかったのかな?」

「俺が遠慮したんだ。高校でバイトし始めてから父さんの会社、ちょっと傾いてさ。その頃丁度家のリフォームをした所為でお金が少なくて。だから俺の小遣いで良ければって」

「……なにが原因か、分かるかい?」

「えぇっと、たしか───霞沢玖珠男(かすみさわくすお)って人が会社の金を勝手に使って、その上他社の女性にちょっかいだしたら、それが契約会社の社長令嬢だったとかで、一部の大事な契約が~、とかそんな話だった筈」

「───ほう」

「……? 竹垣さん? いったいなにを───」

 

 お義父さんが父さんに声をかけるけど、父さんはにっこり。

 

「梅野さん。僕は松彦の言うことを信じますよ。この子にあのカス……もとい、霞沢の名前を言った覚えはありませんし、金遣いが荒いのも女性にだらしないのも知っています。社長の息子だからと態度ばかりが大きくて、社長も出来れば任せたくはないって言っていたほどです」

「なんと……」

「それでなんだけど、父さん。ロット6でお金が当たったら、もしものためにそのお金を持っていて欲しいんだ。どれだけ父さんが注意していようと、他人がいつ行動するかなんてわからない。だったら、落ち込んだ時に支援できたほうがよっぽどいいと思う」

「───……あのなぁ松彦ぉ……あまり父さんを見くびらないでくれ。原因が分かっているなら出来ることだってあるさ。あ、でも僕もその宝くじ、一口買わせてもらうね?」

「父さん……かっこつかないよ……」

「……くすっ、はい、なら……松彦くん? お母さんも一口買わせてもらうわね。……梅野さんもどうですか?」

「………………まあ。まあまあまあっ、あなたっ、私、宝くじなんて初めて買うわ……どうしましょう、どきどきする……!」

「ぁ、あー……はぁ、こうなったら妻は止まらんからなぁ……。まあ、その、松彦くん……だったか」

「はい」

「キミの言葉が本当だとして、私はなにを以ってキミを沙織の婿として認めたのかな?」

「あ、いえ、僕じゃなく……その。沙織が」

「───」

「………」

「……いやあの。キミ……その、男として情けなくなかったかね……?」

「お義父さん……アポを取って、正装して、花束と菓子折り用意して、緊張しながらお義父さんとお義母さんが待つご実家に行って、通されて、向かい合ったら、とっくに沙織に説得され尽くされていた僕の気持ち……わかりますか……?」

「………………なんか……………………すまん……」

 

 陰の差した落ち込み方があまりにもあんまりだったためか、お義父さんはなんか顔に手を当てて謝ってきた。ずぅうううん……と暗雲を背負ったような雰囲気で。

 

「ああ……ああそういえばそうだったなぁ……。私も義父に挨拶に行ったら……双葉が既に両親を説得してあって、あとで種明かしとばかりに聞かされてみれば、あとはもうむしろ“この男がどんな言葉でプロポーズするのかを楽しむだけだ”なんて内心思われたらしくてなぁ……」

 

 お義父さんが遠い目をしながら、スンッ……と鼻を鳴らした。目が……目がめっちゃ潤んでる! だよね! ですよねそうですよね!? めっちゃくちゃ緊張して、なんならお前のような男に娘はー! とか殴られる覚悟だってあったのに、なんかこっちの出方をうずうず待ってるんですもの! なんか悲しくなるよね! ていうかだからお義父さん俺のことあんなに気に入ってくださったんで!? “松彦くん! 君は私の息子だ! 友だ! 同志だ!”っていう言葉にはそういう意味が含まれてたんですね!?

 

「……松彦くん。グラスを持ちたまえ」

「え、は、はい」

 

 おず、と水が入ったグラスを持つと、チン……とお義父さんが持つグラスと合わさられ、音を立てた。

 

「松彦くん。キミは友だ。同志だ。息子だ、と認めてやりたいところだが、まだまだキミの人となりを私は知らない。だから……これから見極めさせてもらうよ。あぁ、せっかくだから宝くじは一口買わせてもらおう。もちろん、妻の分も、娘の分も」

「お義父さん。実はそれ、結婚の許可を得に行った時に言われました。あの時と同じに息子だ、がないのが悲しいことですが、どうか見守っていてください。中学生になにが出来る、なんて言われたらそれまでですけど、必ず沙織を幸せにしてみせます」

「む、ぐ……そ、そうか。……ちなみに、その時双葉はどうしていた?」

 

 こしょり、と。身を乗り出して、訊ねてくる。

 俺はそれに静かに……疲れた顔をして、伝える。

 

「……お義父さんの後ろでスリッパ持ってました」

「ああうんなんかもう信じる。ていうか婿に来てくれ、妻と娘に囲まれて、愛する妻と娘だが、なんというか発言権というか、こう……威厳とか崩されまくっている気がするんだ……!」

「休み前の夜にコンビニ酒をダンディーに飲むのが好きでしたよね。よく付き合ったものです。安物のキャンディーとかチョコとか噛みながら。俺、そこでお義父さんに、妻と二人でパン屋を経営するのが夢だったんだって教えてもらいました」

「双葉! この子が私達の義息子だ! 沙織! いいね! 彼を絶対に幸せにして、彼に絶対に幸せにしてもらいなさい!」

「お父さん!」

「お義父さん!」

「あなた!」

「いやぁめでたい! 松彦くん! キミ、キャッチボールとか出来るかね!?」

 

 興奮気味のお義父さんに、ニッと笑って「もちろん! 竹藪入って竹トンボ作って飛ばすのでも、水鉄砲で遊ぶでもなんでも付き合いますよ!」と言った。

 お義父さんはダンディーな見た目とは裏腹に、子供っぽい遊びに憧れている。俺と沙織が結婚した時はもう俺もそういう遊びはちょっと……って歳……まあ大学卒業あたりだったけど、ともかくもう恥ずかしい年齢だった。

 けど一度じーさんまで生きればそういう遊びは“やらなきゃもったいない”になっている。年老いて動けなくなってからやりたい、なんて思ったってもう遅いのだ。

 

「えぇっと……では───」

 

 父さんがきょとんとした顔で言う。

 そう、なんやかんや認めてもらったので、喫茶店での会合は終了、ということに───

 

「沙織」

「はい、松彦さん。───マスター」

 

 ならない。

 そう、この喫茶店に来ておいて、あれを頼まないなど。

 

「ご注文、お決まりでしょうか」

「“マスター自慢のとっておきふわとろオムライス”を六つ、お願いします」

 

 沙織が淀みなく長ったらしい名前を言う。と、マスターの眉がピクンと吊り上がる。

 

「これはこれは……まだメニューにも書いていなければ、誰にも話していない、昨日完成したばかりのメニューを……しかも思い浮かべていた、言いづらいからむしろ注文したくない名前を淀みなく……。お嬢さん、キミはいったい───」

「真のダンディーは自分から詮索しない、ですよ?」

「……これはこれは。自分の信条まで言われては仕方ありません。お待ちを、今とっておきを作ってきます」

 

 まだまだ若いマスターが、頼れる兄貴のような背を見せながら厨房に入っていった。

 代わりに、調理担当をしていたらしい……あ、長曾我部長曾根(ちょうそかべながそね)くんだ! 長曾我部長曾根くんが若い!

 

「長曾我部長曾根くん、この頃からここで働いていたんですね……」

「驚きだな……ていうかほんと若い。当たり前って言えば当たり前なんだけど」

 

 長曾我部長曾根くん。本名、虎鉄元哉(こてつげんや)くん。元哉、の文字がモトチカ、と読めることから、マスターに長曾我部長曾根くんと呼ばれ始めた。

 長曾我部長曾根くんは長髪型鬼太郎ヘアーで、長い髪から片目だけを覗かせた……隠れイケメンだ。

 普段はそんな髪型だけど飲食店でそれはアウトなので、きちんと髪を綺麗に纏めて身嗜みもきっちり。厨房スタッフなので客に見られることは滅多にない。オムライス頼まれた時は別だけど。

 ……ところでいつの間にか隣が沙織になっているんだけど。ホワイ?

 

「ちょっとてんちょー? 俺に接客やらせる気ですかー? 契約違反で訴えますよー、コノヤロー」

「厨房しかやりたくないっていうのは知ってるからちょっと待ってなさい! 接客やらせるなんてひとっことも言ってませんでしょう!」

「てんちょー、口調口調、喫茶店に相応しいダンディーになるんじゃなかったんすかー?」

「やっかましい! ……ですよ!」

「あ、だめだダンディー、ダンディーに向いてない」

 

 長曾我部長曾根くんは人が苦手である。そのくせ高校では結構な武勇伝を残したそうで……ていうか今高校か。

 寝取り男子と寝取られ彼女を病院送りにした武勇伝……! ステキだ……!

 

「はぁ……あー……そういや虎鉄ー? お前彼女居たよな? 最近どうよー」

「もう口調とかガン無視ですね。あー……なんか浮気してるっぽいんで今証拠収集中ッス。あとちょっとでガンスト可能なくらいの証拠が集まります」

「ガ、ガンスト……?」

「顔面ストレートっす。あー……持論で悪いンすけど聞いてくださいてんちょー。俺、男女平等パンチとかいう言葉嫌いなんスよね。外道の所業を行なった存在に性別求めて裁きなんざ出来るわきゃねーでしょ。なのであいつに証拠突きつけて、逆切れしてきたら平気で顔面ブン殴ります。前々から気になってたんスけど、クズに性別って必要なんすかね? 女だから殴りたくないとかアホでしょ。相手はそんな優しいことなんざ考えちゃくれない。裏切られたのはこっちなのに、な~んでこっちが性別で気遣いなんざしなきゃなんねーんですか」

「いや、キミ結構鍛えてるから、男女平等でもパンチは危険だと思うよ?」

「鍛えてるヤツに、殴ってヨシって思われるほどのクズ行為をするのが悪い。性的暴行なんざ興味ねーっす。“人”として許せないから殴るんす。女だから~とか、怒ッてる時にンなもん関係ありますか?」

「まあ、うん。わかる」

「あと自分が悪いって分かってンのに“あなたも悪いのよ……”とか言って責任押し付けるやつとかほんとクソです。寂しかったのって、じゃあその寂しさを久しぶりに会えた彼氏にぶつけやがれよ。なんで他の男に走るんだよ。それで“あなたも悪かった”? 頭イカレてんでしょ。だから殴るんす。殴れるんす。だって───クズ全般に話って通じないじゃないっすか」

「うーわーすっげぇ説得力」

 

 声がこっちまで聞こえる中、父さんがめっちゃ頷いていた。まあ、元母親がほんと影で外道の限りを尽くしていたから仕方ない。

 あ、あの、でも沙織がすっごい影背負って泣きそうなんで勘弁してください。あれ薬の所為であってこいつほんと悪くないんです。

 抱き締めて頭を撫でてやると、きゅうっと抱き着いてきて、小声でごめんなさい言いながら泣いてしまった。ああああああもう!

 

「ふむ……我が子よ。ひとつ訊いていいかい?」

「え……なんでしょう、お義父さん」

 

 既に我が子言われてる。どんな心境の変化が……って言うまでもないか。

 

「沙織は……あちらの彼の浮気話が聞こえた途端、真っ青になってしまった。……もしやと思うが、未来においてなにか……?」

「……沙織?」

 

 真っ青になり、泣いてしまうところまで見られて、なんでもありませんは絶対に無理がある。

 俺は沙織に声をかけると、彼女は……もう一度ぎゅうっと俺の体をきつく抱き締めてから、俺をみあげつつ……こくりと頷いた。

 

……。

 

 で。

 

「へいお待ち───ってのは喫茶店っぽくないな。……お待たせしました、マスター自慢のとっておきふわとろオムライス、六つになります」

 

 オムライスが運ばれてくる頃には、俺の頭にはタンコブ四つ、頬にはビンタ痕が往復分で二発ずつ刻まれていた。

 知りようがなかったとはいえ、俺の早とちり(?)で未来の家族を不幸にしてしまったからだ、むしろ誰かに殴られたいとずっと思っていた。本当に、家族不幸な男でごめんなさい。

 

「しかし、まあ、我が子の気持ちも分かる。男として、の話になるが。母親が浮気をして、父親を酷く罵倒、自分にも産まなければよかった、とまで言って他の男と出ていく……か。それは、裏切りは許せなくもなるだろう」

「しかしその……鼻炎薬、だったか? は、本当にそんな効果を? 松彦、会社の名前は憶えているか?」

「うん。忘れられるわけがない」

 

 覚えている会社の名前を父さんに告げる。と、父さんは顔を青くして「まさか」と呟いた。

 

「父さん?」

「……梅野さん。困った案件です。その会社の名前、社長が新しく設立しようと計画している社の名前と同じなのです」

「なんですって……?」

「社長はそちらの会社を息子に任せ、様子を見ようとしていると聞いたことがあります。……恐らくそんなに先の話になったのは、息子さんの教育が難航したから、だとは思いますが……」

「ではなんだね、そのクズな男の所為で、沙織はっ、我が子はっ!」

「はい……というかあの、松彦は“我が子”扱いで固定なんですね……」

「もちろんだとも。今時、思いやりのある子だ、私はこの少年が気に入った。未来の記憶があろうが、その未来において私達より長生きしようが、どうしたって今ここに居るのは私より若い、私の娘を嫁に欲しがる子供だ。精神年齢が私達より高いのだとしても……彼は今、中学生で、私達は大人だ。他になにか判断材料が必要ですか、竹垣さん」

「………………いえ、そうですね。ええっと、沙織ちゃん?」

「は、はいっ、お義父様っ」

「───(お義父様っ……)」

 

 あ。今、確かに父さんの胸に親愛の矢が刺さるのが見えた。

 こう、トチュンッて……見事に射抜かれた。

 

「なるほど……いいものですな、我が娘、というのは……」

「ははははは、でしょう?」

「ええ、こほん。……それで、沙織ちゃん? きみは鼻炎持ちだというが、安定して飲んでいられる薬は?」

「前の頃は市販で買っていましたけど、これからは病院にかかって、そこで処方してもらおうと思います。それならきっと間違いはないでしょうし、その、出来れば……松彦さんの傍で飲めたら、と……」

「……ああ、なるほどなぁ。そんなことがあっては、鼻炎薬を飲む、という行動自体が怖いものに思えてしまうのも頷ける。しかしすまない、さすがにこの歳から同居同棲を認めるわけにはいかないんだ。せめて高校、松彦が一人暮らしを始められる頃からにしてほしい」

「えっ……いいんですかっ!?」

「そこまで期待に満ちた目で言われると、断り辛いよ。未来の義父としては余計にね。いいかい沙織ちゃん。世の中は随分とまあ汚い事柄で溢れている。だから、もう思い知ってはいるだろうけれど……他人の家で、たとえそれが友人の家でも、奨められたものや、常備しているものだろうと迂闊に口にしてはいけないよ? それが薬なら猶更で、自分が一人で招待されたのならもっとだ」

「……はい。もう、死にたくなるほどに後悔して、胸に刻み込みましたから」

「うん。覚悟が出来ている人の目をしている。こんな歳の子にそんな目が出来るなんて、思ってもみなかった。……梅野さん」

「はは、竹垣さん。今さら断ったりなどしませんよ。それに、我が子の話ではロット6が当たるのでしょう? 必要資金などそこから出せばよろしい」

「なるほど、それはまあ気楽に考えられますね」

 

 はははと父さんとお義父さんが笑う。その横から、お義母さんがこちらに声をかけてくる。

 

「あ、あの、松彦くん、だったかしら? その……私の趣味は───」

「ぬいぐるみ、ですよね。広く言えばお裁縫」

「そうなのっ! ね、ねぇ松彦くん? 男の子にこんなことを聞くのはちょっと抵抗があるのだけれど……お裁縫、好き?」

「……嫁の誕生日プレゼントに、お手製の手袋を伝授してもらうくらいには」

「~……っ……! 沙織ー! あなた本当に素敵な相手を見つけたのね! お母さんとっても嬉しいです!」

「は、はいっ! 松彦さんは最高の、自慢の旦那様ですからっ!」

 

 むんっ、と胸を張られた。

 と、ここでそわそわうずうずしていた母さんが動く。

 

「それじゃあ……ええっと、沙織ちゃん? 沙織ちゃんは私の好きなこととか……」

「家事、ですよねっ、お義母さまっ! お義父さまや松彦さんのために家事をすることが心から好きだったと聞きました!」

「そうっ! そうなの! 好きな人と大事な子のために、その人たちがより輝けるように、健康で過ごせるように支度する行動……! そ、それも松彦くんが母さん、って言ってくれたからもうお世話が嬉しくて嬉しくて……っ!! ね、ねぇ松彦くんっ!? その、今日、一緒にお風呂、入っていいっ!? 家族なんだから、その裸のお付き合いというか……せ、背中を、流させてくれないっ?」

「あ、すいません、俺そういうの沙織としかしたくないので」

「まああああああああああああああっ!!」

「あらあらぁああああああああああっ!!」

「なにににににににににィイイイイッ!?」

「あー……松彦? そういうのは父さんらからは隠れてやりなさい……というか報告せんでよろしい」

「ァはい」

 

 そりゃそうだった。

 誤魔化すようにオムライスをスプーンで掬い、一口。

 ……ホワッ、美味い! 未来において食べたものよりちょっぴり粗削りっぽさがあるものの、この時点で十分美味しい……!

 思わず沙織を見ると、沙織も一口食べて目を輝かせ、俺の方を見ていた。

 

「おっとと、せっかく来たのに食べないのももったいない。梅野さん、いただくとしましょう」

「そうですな。どれどれ…………───おお、これは……!」

「あら……! 本当に美味しい……!」

「───これは」

「ええ、竹垣さん、これは……!」

「あ、梅野さん? 四槻で構いませんよ」

「しづきさん……ええ、では私も双葉で」

「まあ、では双葉さんで」

 

 はも、と食べた途端、父さんとお義父さんは顔を綻ばせ、母さんとお義母さんは味付けについての追求を始めた。特に母さん。

 それからは皆さま無言。のんびりながらも食べ終えると、満足いった顔で喫茶店を出て───そのまま最寄りの宝くじ売り場に行って、好きなだけロット6を買って。

 名残惜しいけど予定もあるので各人ここでお別れってことになって、俺と沙織はぎゅうっと抱き締め合って……

 

「沙織。今度、都合のいい日を教えてくれ」

「え……松彦さん?」

「ああその、良かったらデートに……」

「松彦さん……っ!」

 

 デートの約束をすると、沙織はそりゃあ喜んでくれた。……が、「ああ待ちなさい我が子よ、いやもう松彦くんでいいな。松彦くん」あいや待たれいとばかりにお義父さんに止められた。

 

「お義父さん?」

「キミたちはまだ学生だ。それも中学生。義務教育が終わるまでは流石に一人一人での距離のある移動は認められんよ。交通費だってばかにならん。……否定的な話し方を始めた途端、頬を膨らませんでくれないか、沙織」

「お父さん嫌いです」

「ぐおぉっ!? ~……ふ、ぬくっ……ッフフフ……! 甘いぞ沙織……! 父という存在はな、先の娘の幸せを想えば、いくらでも悪役になれるのだよ……!」

「……うそです、大好きです、お父さん」

「ふぬぅっく!!」

「……お義父さん。沙織はその。離婚問題の時に、パン屋を畳んでまでお金を出してくれたことを知ってます。……それに、老い先短い自分たちが負担にならないように、って……勘当って方向で縁を切ったことも」

「………」

 

 ふぬっく、のところでドパァと涙を流したお義父さんが、続く俺の言葉に両手で顔を覆って泣き出してしまった。

 お義母さんは「夢だったパン屋まで畳んじゃって……はぁ、本当に仕方のない旦那様ですね」と微笑んで、おいおいと泣くお義父さんの背中をやさしく擦っていた。

 

「話せば話すほど絆が強くなるなぁ……なぁ松彦。父さんとはなにかこう……ないのか? 感動話とかっ」

「ぇ……いや。アパートに引っ越して、高校時代の友人に偶然出会って、そこで馬鹿やりながらお金稼いで……父さんと母さんには迷惑かけたから、って……旅行をプレゼントするばっかで……」

「……え? いや。え? ……その言い方って、もしやそのー……実家にはてんで帰って来なかった……とかか?」

「……絶対に幸せな家庭を作るって言って結婚したのに、孫も抱かせてやれなかった俺が、どうやって父さんと母さんの前にノコノコ顔を出せるんだよ……」

「松彦くん……そんなこと言わないで。どんなことがあったって、松彦くんは───」

「……ごめんなさい、母さん。俺、その時代で母さんが大事にしていたあの鏡、割っちゃったんだ」

「───!!」

「母さんは泣きながら許してくれた。でも、俺の人生で母さんを泣かせたのなんてあれが初めてだったんだ。……許されたって罪悪感なんか消えてくれない。俺は結局、家族に傷跡ばっかり残す奴なんだって分かってからは……ほんと、本当に、さ。家族に会うのが怖くて怖くてたまらなかった。だから……俺が居ないところでなら幸せになってくれるんじゃないかって」

 

 だから旅行をプレゼントした。俺が学生のうちは、俺が新入社員のうちは、俺のことで面倒ばっかかけていたから、せめてそれからの人生を楽しんでほしかった。

 実際、鏡を割ってしまったあの頃から、どう接したらいいかも分からなくて、怖くて。沙織との結婚式の時も、父さんは泣いて喜んでくれたけど、母さんは……。

 

「会わないことが、孝行になるって本気で思ってたんだ。母さん、俺が実家に帰ると絶対に目を合わそうとしなかった。だからチケットだけ置いて……何回目かからは手渡しじゃなくて輸送することにして。……俺のことは嫌いでも父さんを愛してくれるならそれでいいって思ったから」

 

 ……でも。

 

「……でも。二人が亡くなって、遺品の整理をしている時に、母さんの日記を見つけた」

「………」

「そこに、母さんの気持ち、全部書いてあった。母さんは悪くないのに、俺に対してごめんなさいって、そればっかりで」

「松彦くん……」

「ごめんなさい、母さん。そんなものを読まなきゃ踏み出せもしなかった自分で、ごめんなさい。生きていてくれている内に謝れもしなかった息子で、ごめんなさい。俺……もっと歩み寄ればよかった。踏み込めばよかった。ぶつかっていけばよかった」

「なにっ……なに言ってるのっ!? 松彦くんはちゃんと気持ちを込めてくれたんでしょう!? お母さんは松彦くんが、人の大事なものを壊しちゃった時に謝ってもくれない子じゃないことくらい知ってます! わたしはきっと、それを聞いて、泣いていても許したんでしょう!?」

「松彦。僕は、キミが理由もなく誰かの大切なものを壊す子じゃないことくらい、ずっと見てきて知っているつもりだよ?」

「父さん……」

「……なにか理由があったんだろう? 壊してしまった当時は言えなかったことでも、今なら言えるんじゃないかい?」

「………」

 

 理由は……あった。

 なにも俺は誤って壊したわけじゃない。

 ちゃんと……そう、壊そうと思って壊したんだ。

 

「当時は……きっと、言っても信じてもらえないって思ったんだ。母さんは泣いていたし、父さんは母さんを抱き締めたまま、初めて……俺を睨んでた。子供心に、あぁ……これ、だめだ……って、なんとなくわかった。……理由も、さ、すごくくだらないんだ。なんだそりゃ、って言われて拳骨くらって怒られる先しか、幼稚園児だって考えられる理由だった」

 

 当時を思い出すだけで、自分が情けなくて、でもあの時の心細さを今でも鮮明に思い出せて、二人から視線を逸らしてしまう。けど、逸らした先には沙織が居て、俺の手を握ってくれた。そして逆側の手は何故かお義父さんに握られて、こくりと頷かれた。

 

「夢を見たんだ。あの鏡から、目の無いお婆さんが出てきて、寝ている母さんの首を絞める夢を。一度だけじゃなくて、何度も。最初はただのおかしな夢だって思ってた。でも……あの、さ、母さん。俺が母さんに、こんなお婆さん、知ってる? って訊いたこと、覚えてる?」

「…………待って、松彦くん。それ、本当に? 本当にそのお婆さんが鏡から出てきて、私を……?」

 

 黙って頷く。すると、母さんは顔を真っ青にして父さんに縋りついた。

 

「お、おい? どうしたんだ? お婆さんが……なんだって? 目の無い……って?」

「……私の祖母が……」

「祖母が?」

「……昔に、ね、なにを思ったのか二階の窓から屋根に乗って、足を滑らせて……落ちたの。瓦屋根で、お婆ちゃん……毛糸の靴下履いてて、それで滑っちゃったらしくて。でも……普通なら、よっぽどおかしな落ち方しなければ命には別状なんてって高さだったのに……お婆ちゃん、顔から落ちたらしくて。詳しくは教えてもらえなかったけど、落ちた場所に釘かボルトみたいなのが二つ連なって飛び出てた場所があったらしくて、両眼を貫いて脳に達しちゃってたって。もちろん即死で」

「じゃあ、目が無いお婆さんっていうのは……」

「松彦くんに教えてもらった特徴、全部合ってるの。そして……お婆ちゃんね、私のこと、嫌ってたの。お母さんのこともあまり好きじゃなかったみたいで、逆にお父さんのことは溺愛してたみたい。なのに、落ちて死んじゃう前に、私にって……初めてなにかをくれたの。それがあの鏡で……私はそれが嬉しくって」

「いや……四槻? それ、相当曰く付きのものだったんじゃないか? おばあさんは四槻のこと、嫌っていたんだろう? なのに急にものを渡して死ぬって……」

「そ……そう、よね。今になって冷静に思うと、ううん、松彦くんの夢のことを聞いてから思うと、相当に危険……よね」

「なんで急に鏡をくれることになったのかとかは言ってなかったのかい?」

「えっと……それが、特には。ただ……“大事に持っておくんだよ”って。“それが目印になるから”、って。」

 

 訊ねてみた父さんが、逆にドン引いてた。うん、それ、たぶん、母さんをイケニエ的ななにかにしたかったとか、はたまた死んでまで鏡の世界からやってきて母さんを謎の死で殺そうとしたとかそんな話なんじゃ……?

 

「ただね、お母さんが……あ、夫の母じゃなくて、私のお母さんなんだけどね? 言っていたことがあるの。そう……そうだ、思い出した。どうして忘れてたんだろう。……松彦くん」

「え、あ、はい」

「鏡を割ってくれて、ありがとう。あの……あの鏡はね、人の魂を食べて、願いを叶えるって云われてきた鏡なんだって。お婆ちゃんが亡くなってしばらく経った時、私が鏡を持っているのを見て……そうだ、お母さんが顔を青くして教えてくれたのよ。所持者の魂を喰らって、願いを叶えるって。お婆ちゃんはきっと、私とお母さんを……誰の所為とは悟られないまま、お父さんから離したかったんだと思う。でも、夢に現れている最中に、鏡を割って願いを壊した人が居た」

「…………え?」

 

 困惑しながら自分を指差すと、母さんは真面目な顔で頷いた。

 そして、同時に納得出来たこともある、と。

 

「たぶん松彦くんが過去に飛べたのは、願いを叶えたから。言ったらあれだけど、お婆ちゃんの魂を使って願いを叶えたって結果になるんだと思う。後悔して、やり直したいって……沙織ちゃんとやり直したいって思ったんでしょう?」

「あ……」

 

 そっか、と妙に納得が出来た。

 戻った先で、まず確認できたあの鏡。なんであのタイミングだったのかといえば、俺が鏡を割ってしまう前だったからだ。

 そして多分……鏡が、願いを叶えた張本人だから。人ではないけど。

 

「と、いうことは……?」

「ええ、一郎さん。鏡は、願いを願った上で破壊します。今の段階ではまだお婆ちゃんの魂が宿っていると思うから。壊さなければたぶん、わたしか、鏡に近しい誰かが死んじゃうことになると思うから」

「目印になる、と言った通りか。恐ろしい……孫にあたる人にすることなのか、それが……」

 

 お義父さんが溜め息混じりにそう言う。

 逆に父さんは、願いを叶えるには壊さなきゃいけないのか? と首を傾げている。

 

「一郎さん? それって?」

「いや、鏡が松彦の願いを叶えたとして、どうして子供の頃に壊した鏡が、老人になってから死んだ松彦の願いを叶えたんだろうか、ってな? 子供の頃の松彦の願いなんて、鏡を割った瞬間なら鏡を直したい~とか、四槻を悲しませたくない~とかだったんじゃないか?」

「あ……」

 

 それならなんとなく想像はついてる。

 なので、オムライスをきちんと完食してから、軽く挙手をして答え合わせ。

 

「たぶん、壊した人が死なないと願いは叶えられないんだと思う。それを知ってたから、そのお婆さんは誰よりも先にさっさと死んで、渡した先の誰かが死ぬ瞬間を待ってたんじゃないかな。死んだ瞬間、その人よりも自分の願いを叶えてもらうために」

「ま……松彦くん。それ、って……」

「俺さ、沙織とやり直したいとは思ってても、過去に戻りたいだなんてこれっぽっちも思ってなかったんだ。だとするなら、この過去に戻るって部分、どっから来たのかな」

「───! お婆ちゃんの、願い……!?」

「たぶん。そのー……お婆さんにとっての息子さん? が、母さんの母さんに出会うより前に戻って、息子さんを独占したかったんじゃないかなって」

「~……!!」

 

 想像がついたのか、母さんは口を押えて顔を真っ青にした。

 ともかく、そんな願いの影響で……沙織のことを考えまくってた所為で沙織を巻き込みつつ、こうして過去に戻った、というわけで。

 “沙織と過去に戻ってやり直す”。混ざってしまった願いの先がこれなら、俺は嬉しいしかないわけだけど。

 だって、ここからなら母さんも父さんも、お義父さんもお義母さんも、自分の夢を諦めずに済むのだから。

 




 そして唐突に終わる。
 人の魂をくらって願いを叶える~なんていう、よくありの設定で一本書いてみたいなーと思った時、あ、じゃあこちらも今ではよくありの不倫やら浮気からの過去に戻る系のお話と混ぜたらどうじゃろ? って感じの作品。
 当時youtubeでホラー動画ばっかり見ていて、その影響で書いた作品です。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。