暗い暗い海の底。
そこは光が届かない深海にある一つの基地だった。
周りはゴツゴツとした岩で囲まれ、自然にできたにしては不自然な形に削り取られている。巨大な岩石を削って作られたこの基地はかつてここにいた姫曰く、駆逐艦達の努力の結果、らしい。頑張って噛み砕いたのだろうか……だとしたら相当苦労した事だろう。
「……フゥ」
そんな事を考えながら、私は最後の板を壁に打ち付けて息を吐いた。
今私は穴の空いた壁を修繕しているところだ。この基地は土台はしっかりしている癖に内装が適当なのよね。
壁はコンクリートの部分もあればベニヤ板で適当に打ち付けただけの部分もある。流石に浸水すると困るから外周部分はしっかりしてるけど……。まぁ、そんな適当な工事をしていたのが原因かは不明だが、時々この基地は突然壁が壊れたりする。水中にあるし、湿気もあるから木材部分が傷みやすいのは仕方ないだろう。
だが、この基地で壁が壊れる一番の原因は……。
「……ア、見ツケタ、離島ダ」
ふと、廊下の先から聞こえた声に顔を上げる。予想通り北方棲姫が立っていて、資材を幾つか抱えたままヨロヨロとこちらに向かっていた。
その瞬間、私の思考は時が止まったかの様にフリーズした。
「離島、コノ資材ハイツモノ部屋ニ置イテモ……」
「チョット待チナサイ、一旦床ニ置イテ———」
急いで注意したが時既に遅し。北方棲姫は床にあった板に躓いてしまった。倒れる彼女と散らばる資材がスローモーションになって見える。
だが、次の瞬間……何故か北方棲姫は大きく体の向きを変えて廊下の壁に激突した。
北方棲姫は見た目は幼い少女だが陸上基地という種類に入る個体である。当然体の強度も陸地が基準だ。彼女が突撃するという事は陸地がこちらに向かってくるという事に等しい。
そんな彼女が壁に激突すればどうなるか。
当然、壁の方が砕けるに決まっている。
次の瞬間、数少ないコンクリートの壁が盛大に吹き飛び、北方棲姫は隣の部屋へと消えていった。
そもそもどんな転び方をすればそんな勢いがつくのだろうか。
ご覧の通り、我らが深海基地の壁の半分は彼女によって穴が開けられており、それを修復するのは専ら私の仕事だった。初めは北方自身にやらせようとしたのだが、金槌を打ち付けた瞬間に壁が再び吹き飛んだので、慌てて止めさせた。
新たにできてしまった壁の穴を見つめながら私は深い溜息をついたのだった。
◇◇◇
無駄な労力が重なり、肉体的にも精神的にも疲れた私は一休みしようと台所に立ってコップにオレンジ味の燃料を注ぐ。柑橘系の爽やかな酸味と後からくる甘味を堪能しつつ、私も随分と此処に馴染んできたなぁと深く息を吐いた。
北方棲姫に殺されたと思ったら深海棲艦になっていて、三人分の記憶がある所為で意識は混乱するし、頭痛は酷いし、熱があるかの様に体はフラフラするしでもう大変だった。まぁ、飛行場姫を吹き飛ばす時は三人の意識が同じ方向に向いたおかげで全然辛くなかったんだけど。
「……ハァ」
飛行場姫を沈めてからの日々は何とも奇妙なものだった。
私は北方棲姫に体をぐちゃぐちゃにされた記憶があるから自然と彼女の姿を見ると警戒してしまうのだが、向こうはそんな私の気持ちを知ってか知らずか積極的に近付いて来た。
腕を握られたり体を撫でられたり……正直に言えば再び腕を折られたりするんじゃないかと頭の中は恐怖でいっぱいだった。
何度か同じことを繰り返し、不安だった私は思い切って彼女に理由を尋ねた。その結果、彼女はただ自分の力を制御できる様になった実感が欲しかっただけなのだと知った。
「コンゴウニ教エテモラッタ!!」
腕を握る事で相手に力が入っているかを教えてもらうこの方法は、北方棲姫が大好きな金剛に教えてもらったやり方なのだそうだ。
私は金剛本人に会ったことはないが、その様子を嬉しそうに話す北方棲姫の姿から想像するに、きっと優しい艦娘なのだろう。
艦娘、かぁ……
自分の部屋に帰って鏡を見る。そこにいるのは記憶にあるどの自分とも違う姿。
髪は漆黒、自慢のストレートヘアはウェーブのかかった髪へ、提督に褒めてもらった帽子も、吹き流しも、赤いネクタイもない。無表情な青白い顔に映える真っ赤な瞳は見方によっては宝石とも血だまりとも表現できる。
「……アナタハ、ダレ?」
鏡に映る己への問いに返事はない。
ただ無表情な少女がこちらを見ている。生きているのか、それとも死んでいるのか、それすらわからない。気力のない、人形の様な顔だった。
「……ワタシハ、ダレ?」
答えの見つからない問いに立ち尽くしたまま、私は死んだ様に生きている。
◇◇◇
少女は夢を見ていた。
キラキラと光る水面の下、水中に浮かんでいた体をゆっくりと起こして浮かび上がる。海面に出れば綺麗な満月が辺りを照らしていた。何となく手を伸ばして月を掴もうとしてみる。
その時に少女は気付いた。
自分の手が、何時もの幼い小さな手ではなく、血色の良いすらりとした大人の腕だった。
「……これは?」
驚愕した少女は自らの全身を見回した。
何時もより高い視界、長い手足、スタイルの良い体は紺色の着物に包まれている。
そう、その姿は間違いなく少女が嘗て人間をその身に乗せていた頃の姿そのもの。もう本人ですら忘れてしまった本当の自分であった。
呆然と立ち尽くしていると、胸元にいつも掛けている指輪が一瞬だけ光り、目の前に人影が現れる。その姿は自分が憧れる少女の姿に瓜二つだった。
しかし、少女には目の前の存在が彼女とは違う存在だと気付いていた。髪型を除けば違いなど一切無いのに、彼女ではないと確信できた。
そんな少女を見て影の少女は笑みを浮かべると、徐に拳を構えた。それは少女が憧れる彼女と同じ構え。
影は構えたまま、静かに少女を見つめている。
「……私に、教えてくれるの?」
彼女を真似して構える。
影は一度だけ頷くと、一気に少女へと踏み込んでくる。思わず真正面から迎え撃とうと腕を振った。その腕を掴まれ、逆に引き寄せられる。それに合わせる様に繰り出されるカウンターが少女の腹部に直撃し吹き飛ばされた。
「……ぐ!?」
追撃を警戒して身構えるが、影は動かず静かに少女を見つめ続けていた。首を傾げた少女に影は同じ構えを見せる。まるで攻撃を待っているかの様に。
「……今のをやれってこと?」
影は頷き、改めて構えをとる。
それに頷き、今度は少女から攻撃を行う。すると、影は先程の少女の様に真正面から迎え撃とうと腕を振る。その腕を掴み引き寄せつつ掌底を叩き込めば影は吹き飛んだ。
あまりにも簡単に吹き飛んだので思わず掌を見つめていると、影は立ち上がって歩み寄ってきた。そして小さく頷くと幻の様に消えていった。
「あれは、一体……」
その瞬間、意識が浮上する様な感覚を感じた。夢の終わりが近づいているのだ。
少女はその流れに逆らえないまま、意識を一度深い眠りへと沈めていった。そして一気に現実へと引き戻され、少女は目覚めた。
◇◇◇
「……アレ、ユメ?」
目が覚めた少女……北方棲姫は自らの全身を見回し、それが何時もの幼い少女の体であることを確認すると、ベッドから飛び降りて小さく伸びをする。
徐に夢で教わった構えをしてみるが、小さな体では思う様に動かせない。折角教わったコンゴウの技なのに使えないのは勿体無いと彼女は落胆した。
「……早ク、大キクナラナクチャ」
密かな想いを胸に、工廠へと走り出した少女の胸元で白銀の指輪が静かに輝いていた。