ピピピ、ピピピ。
無機質な機械音が瞼をこじ開ける。
枕元に置いた携帯を手探りで探し、触れた。
遅れて音が消失する。
もう朝が来たのか。
頭が重い。目の奥が痛む。特に夜更かしをした覚えはないのだが。
溜息を吐く。
早く出勤の支度をせねばと、立ち上がろうとして。
「……は、ぁ?」
「すぴー、すぴー」
誰かがいる。寝ている。
少女だった。布団に包まって、穏やかそうにすやすやと。
家の布団ではない。あれほど綺麗な布団は持っていなかった。
極めて不可解な光景。
一体、どういう……いや。
そうだ、思い出してきた。
ぼやけた頭が次第に覚めてくる。
己は昨日、この少女と出会った。
人ならざる、人外の少女と。
それだけではない。
彼女の話を聞き、一緒に食事を取りもした。
色々な言葉を交わした。
そして。
「……ああ」
寝室を、同じとしたのだった。
見当違いな罪悪感が襲う。
その話は散々したはずだ。議論の末、納得もしたはずだ。
だからこの感情は、彼女にとって失礼だ。
そう分かってはいるのだが。
胸を押さえ、よろよろと立ち上がる。
ちゃぶ台に置いたままのペットボトルを取り、蓋を回して飲み下す。
元々半分程度だった中身が完全になくなったのを認めて。
そこで漸く、一息をつく。
「ふぅぅ……」
……一先ず、出勤の支度をするとしよう。
悲しいかな、非現実が家を訪ねて来ても、この三年で身についた習慣に揺らぎはない。
水しか出ない洗面台で顔を洗い、髭を剃る。
服をスーツに着替え、洗濯籠に寝間着を入れる。
髪を整えつつ、朝ご飯の用意をする。と言っても、コンビニで買った総菜パンしかないが。
後は食事を取り、鞄の中身をもう一度確認して準備完了だ。
今度こそ戸締りには気を付けて。
ただ、その前に。
「朝ですよ、
「んん……んー」
彼女の名を呼ぶ。
昨夜、寝る前に教えてもらった御名前を。
最大限の敬意と感謝を以って呼ぶ。
天音さん。あまねさん。
美しい響きを持つ名だった。体を表す、よい名だと思った。
やがて身を捩り、寝ぼけ眼のまま彼女は答えた。
「んんぅ……おはよーなのじゃ、孝仁。ふわぁ」
「おはようございます。まだ眠たいのであれば、どうか無理をなさらず」
「んーん。お見送りすると、言ったからのぅ。寝るわけにはいかんよ……ふわぁ~」
「……っ」
起き上がり、小さく口を開け欠伸をする。
とても愛らしい姿だが、如何せん恰好がよろしくなかった。
彼女は今、昨夜見た着物を召し替え、寝間着姿となっている。
それが通常なら問題はなかった。
いや別に、異常でもないのだが。
現在着衣しているのは旅館の浴衣のようなもので。
しかもどうやら、寝相もよい方でもなく。
必然、着方は崩れ。
だから、今の彼女の姿は。
「……どうか、お召し物をお直しください」
「うにゅ? おお、すまんすまん。いつも一人じゃから失念しておったわ。朝から貧相なものを見せて悪かったのぅ」
「いえ、そのような……っ。あ、いえ、決してじっくり見たわけではなく。ですから、その」
「にゅははは。別にそんな慌てんでもよい。気遣ってくれたのは分かる」
「……ありがとうございます」
本当に有難い。
心よりそう思える。
己の不出来を、気遣いと評してくれる彼女に。その寛大さに、思慮深さに。
ただただ、己は感謝した。
「んしょ、んしょ。……よし。それで、もう行くのか?」
「朝食を済ませば、すぐに。ですがその前に、色々と説明をさせていただきたく」
「説明? 何のじゃ?」
「天音さんの食事と、日中の対応についてです。昨夜にも言いましたが、一応ということで」
「あー、うむ。あれか、うむ。……も、勿論覚えとるぞ?」
やはり覚えていないらしい。
かなり眠たげな様子だったので、無理もないか。
彼女に向き直り、口を動かす。
「では確認を兼ねて、もう一度」
「おう、何でもばっちこいじゃ!」
「はい。まず第一として、当たり前ですが、天音さんが何かをする必要はありません」
「……ふにゅ?」
「ここに今日の朝食と昼食があります。非常に簡素ではありますが、今日はこれでどうか御堪忍を」
「え、いや、儂」
「それと、もしインターホンが鳴った場合は決して扉を開けてはなりません。これさえ守っていただければ、あとはお好きなように……」
「いや儂が来た意味ぃ!!」
天音さんが叫ぶ。
艶やかな銀色の耳と尾が逆立った。
己は自身の失態を悟った。
「儂、お前さんの世話をするために来たんじゃが!? これではただのにぃとなんじゃが!?」
「しかし」
「ええい、何じゃ! 何か申し開きでもあるのか!? 儂をにぃと扱いする、正当な理由が!」
「大変申し訳なく思います」
深く頭を下げる。
理由とも言えぬ、愚かな言い訳を口にした。
「昨夜、家事全般が出来ぬと仰っていたので、そうだとばかり」
「……」
迂闊だった。
少し考えれば、彼女が寝ぼけて言ったという可能性も大いにあった。
それを勝手に決めつけて、独りよがりに気遣った気になって。
また勘違いをして、彼女を傷つけて。
恥知らずとは正に己のことだった。
「本当に、愚かでした。すみません」
「あ、いや、その、別に。全然、うむ。全く、大丈夫じゃ」
「許されぬことをいたしました」
「いやもう全然! ぜーんぜんじゃ! ぎゃ、逆に儂も悪かったかなぁ、なんて……」
「ありえません。天音さんが悪いなど、全ては勘違いした自分に責任が」
「ぐおおおお……! む、胸が痛いぃ……!」
「っ!? お待ちを、直ぐに薬を買ってきます!」
「そうではないぃ……! ちょ、待て!」
薬を買いに行こうとする己と、それを止める彼女。
一進一退の攻防。
勝負を制したのは彼女だった。
あと数秒、彼女が己の誤解を解くのが遅ければ、今頃町中の病院を巡っていたことだろう。
そもそも人外である彼女に人間用の薬が効くとも限らず。
またしても己の愚行を止めてくれた彼女には、もはや頭が上がらない。
少しでも恩を返せたらいいのだが。
さて、そんなやり取りの後。
出勤の時間も間近となり、急いで朝食を取ろうとしたところ。
「儂も一緒に食べるのじゃ。何かもうお腹すいたしのぅ」
と、疲れた顔で言われたので。
現在己と天音さんは、古びたちゃぶ台を挟み、向かい合いながら朝食を取っていた。
彼女と食事をするのはこれで二度目。
拭い切れぬ場違い感を覚えながら、パンを口に入れた。
「……」
「……なあ、孝仁よ」
「……ん。はい、何でしょう」
「これは何じゃ?」
「ローストビーフ丼ですね」
「……なら、それは?」
「……? 惣菜パンです」
「食べているものに大きな隔たりを感じるのじゃが」
はて、そうだろうか。
「そうでしょうか」
「……それ、いくらするんじゃ」
「大体百円ですね」
「……じゃあ、これは」
「確か、三千円ほどでした」
「やっぱおかしいじゃろ」
「……?」
首を傾げる。
いまいち彼女の言いたいことが分からない。
二千円程度ではやはり不相応であったか。
それとも味が気に食わないか。
何にせよ、謝るべきだ。
「すみません」
「せ、責めとるわけではない。ただ儂に気を遣って、こんな高いものを買わんでも」
「高くなどありません。寧ろ、安すぎるほどです」
昨晩、食事を終えた己はスーパーに直行した。
最近の店は二十四時間営業なので有難い。
そこで、彼女の御飯を吟味したのだが。これが中々見つからない。
深夜ということもあり品薄の状態で、さらに財布には一万円ぽっきりしかなく。
結局買えたのは、妥協に妥協を重ねたものだけだった。
今日は貯金を下ろして行こう。
そう心に誓った。
「いやいやいや。お前さん、何か誤解しとるぞ。儂、いつも社で煎餅齧っとるだけじゃから。適当な安いやつで全然構わんから」
「分かりました、煎餅ですね。帰りに買っておきます」
「何故そうなるんじゃ……?」
危ないところであった。
全く失念していた。
彼女は己がいない間、ずっと部屋にいるのだ。必然、訪れるは退屈の二文字。
お菓子や娯楽類も買っておかねば。
買うものリストが更新された。
ふと、腕時計を見る。
針は遅刻を刺そうとしていた。
「こほん。よいか、孝仁よ。そもそも儂に食事は……」
「申し訳ありません。駅に遅れます故、お話の続きは後ほど」
「にゅ? あっ、待っ」
パンの残りを口に放り込み、鞄を取る。
中身は確認していない。書類に不足がないことを天に祈るばかりだ。
急ぎ足のまま玄関に向かう。
素早く靴を履き、扉に手をかけ。
ガチャリ。
「た、孝仁!」
焦ったような声が聞こえた。思わず足を止め、振り返る。扉は開いたまま。
視線が交差する。
彼女は数度、深呼吸をして。
ふわり、と笑った。
「いってらっしゃい、なのじゃ」
「……はい。行ってきます」
バタン。
今度こそ、扉が閉まる。
己は暫し立ち止まり、やがて駅に向かって歩き出した。
ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
景色が急速に過ぎていく。
いつもならその様を、ぼうっと見ているのだが。
今日は視線を少し下げ。
手元の携帯電話に注目していた。
薄暗い画面には、文字が羅列している。
「……」
天狐。
千年の時を生きた狐。
神に等しき存在。
千里先を見通す、妖狐含め狐達の最上位。
神獣。
善性で、人を害すことはない。
尾は四本。九本の説もある。
毛色に関する記述は特に見当たらない。
天音という、名前も。
「……」
電源を切る。
何だか酷く、彼女に対して失礼な気がして。
愚かなことをした。
天音さんは天狐である。
他ならぬ、本人がそう言った。疑いはない。
なら天狐の全てが、書かれている全ての事柄が、彼女の本質なのだろうか。
たかたが手に収まる程度の長方形に、彼女の全てが詰まっているというのか。
否。
断じて否だ。
天音さんの尾は一本だった。
天音さんの毛色は美しい銀色だった。
天音さんの優しさは、善性なんて言葉じゃ言い表せないほど、温かかった。
天音さんは。
天音さんは。
己が知る、天音さんは。
「……っ」
何を、考えた。
下唇を強く噛む。
強く、強く。
いっそ突き破れたらよかった。
噛み千切れたならよかった。
そうすれば。
胸の中に沸いた、蛆虫にも劣るこの感情を。
汚穢よりなお醜い、この欲望を。
少しでも誤魔化せたかもしれないのに。
『まもなく、○○。まもなく、○○です。右側の扉が……』
「……」
はい。
すみません。
畏まりました。
はい。
申し訳ありません。
はい。
承りました。
はい。
はい。
大変、申し訳ありませんでした。
深夜にて。
扉を開ける。
鍵は掛かって、いない。
ガチャリ。
「……ただいま、帰りました」
「おかえりなさいなのじゃ! 遅くまでよう頑張ったのぅ」
ぱたぱたと、彼女が出迎える。
花が咲くような愛らしい笑顔だった。
灯りとは関係なしに目を細める。
そうせねば、とても見られなかった。
「……んにゅ? どうしたんじゃその袋は。やけに沢山あるが……」
「後ほど説明いたします。……まずは食事にしましょうか。遅くなって申し訳ありません」
あと一ヶ月。
彼女との契約はそこで途切れる。
昨夜交わした、この世でたった二人だけが知る契約。
彼女は願い。
己は応えた。
だからせめて、あと一月だけは。
「あぅ……そ、その、朝言えなかったんじゃが。儂、別に食べなくても」
「今日は稲荷寿司を買ってきました」
「いただこう!」
しおらしい顔が一転、朗らかなものに。
尾を左右に揺らしながらちゃぶ台に向かっていく。
座布団に行儀よく座る姿の、何と愛くるしいことか。
頬の内側を噛む。
遅れて、血の味がした。
「……」
「ふんふんふーん。にゅふふ、ふふ」
彼女を見ていると、ふと忘れそうになる。
己があの日犯した罪を。
己の受けるべき罰を。
己が人殺しという、その事実を。
忘れてはいけない。
元宮孝仁。
己は、お前は。
喜びも感じず。
不幸も求めず。
自傷も許さず。
永遠の眠りすら、安寧として。
ひたすらに苦しみながら生きるべき存在だ。
……それでも。
「んもう、何をぼけっとしておる! 早う来んか、孝仁」
「……はい、今すぐに」
それでも、どうか、あと一月だけ。
あと一ヶ月だけ。
彼女の願いが叶うその瞬間まで。
己が役目を終える、その日まで。
どうか。
彼女と関わることを、お許しください。