「自分は、元宮孝仁と申します」
元宮孝仁は変な人間だ。
どこがと言われれば困る。
だが、知らない者が家にいて。それを追い出さず、逆に自分が出て行ってしまうのは変だと思う。
おかげでみっともなく騒いでしまった。
その後、酷く申し訳なさそうに謝るのも、何だか変だ。
ましてや土下座をするなんて。
あの時は本当に驚いた。
やっぱり孝仁は変な奴だ。
でも、悪い奴ではない。それだけは、決してない。
「しかし、天狐様に献上するにはあまりに不相応かと」
「け、献上て、お前さんなあ。……別に儂、そこまで偉くないからの?」
「はは、御冗談を」
「いや言ってないが!?」
天狐様と、そう呼ばれた。
いつものことだ。別に違和感はない。
ただ何故か、彼にはそう呼んでほしくなかった。
天狐だからと、遜らないでほしかった。
自分は。
天音は。
皆が思うような、偉大な存在ではない。
勘違いしているのだ。
周りの妖狐達も、この者も。
自分は単なる臆病者だ。
傷付くのが怖いからと、千年間山に籠っていただけの、ただの狐だ。
結局、彼もそうなのか。
緩やかな諦観が心を包み。
「んー、あー、その、なんじゃ。まずお前さんは、天狐という存在についてどれほど知っておる?」
「……今日初めて耳にしました」
全てが、弾けた。
衝撃だった。
頭を鈍器で殴られたような、そんな驚愕。
知らない。
この男は。
元宮孝仁は、自分を知らない。
「ふむ、そうか。……え、そうなのか?」
「はい、浅学の身を恥じるばかりです」
胸の奥がぐるぐるとなった。
これは、恐怖だろうか。それとも、期待だろうか。
気付けば彼に問うていた。
ならば何故。
名前だと思っていたから。
その口調は。
昔からの癖である。
何故、自分を敬う。
特に意図があるわけではない。
「そ、そうか……」
聞けば聞くほど、天音は恥ずかしくなった。
一体、何を誤想していたのか。
彼に身勝手な欲望を押し付け期待するなど。
情けない。
視線を落として頷く。
もう、よそう。
彼の言葉が遠くなる。
「ですがそんな習慣に関係なく、貴女様は敬うべきお方であると認識しています」
「……へ!?」
凄く聞こえた。
一言一句、取りこぼすことなく。
何とも現金な耳であった。
「どうか御自覚下さい。貴女様は、極めて尊い存在であると」
「ぁ、ぇ、尊、い? 儂が?」
生きていて初めて言われた。尊い存在などと。
力を讃えるでもなく、容姿を褒めるでもなく。また畏れるでもなく。
天音を。その存在自体を。
彼は尊んだ。
顔が赤くなるのを感じる。
胸がざわざわとして、どうにも落ち着かない。
天音には嘘が分かる。
それは彼女が騙されんとするために生み出した術だったが、今回ばかりは裏目に出た。
彼は本当に、自分を。
ただの天音を。
天狐だからではなく。
心から、敬ってくれている。
そう考えると、何だか慌ててしまい。
言葉がつっかえたように、出なくなって。
「ええとな、それで天狐というのはじゃな、ええっとぉ」
「焦らずとも自分は聞きます。おや、お茶がもうありませんね。お代わりは?」
それは嘘だった。
湯呑にはまだ半分ほど中身が残っている。
術を使うまでもなく、それが嘘だと分かった。
でも、不快ではない。
彼の嘘は、お日様のように温かかったから。
「……まあ、あれじゃ。長生きな狐のことじゃよ、天狐とは。うむ」
「……」
「じ、冗談じゃ冗談! だからそんな目で見るでない!」
軽いやり取りが楽しかった。
友人と話すなら、こんな感じなのかなと思った。
ご機嫌を伺わず。見栄も張らず。
自然体で話せるのが楽しかった。
「いえ、十二分に凄いと思いますが」
「ふにゅ? ……そ、そうかの? 儂、凄いかの?」
凄いと言われたのが嬉しかった。
聞きなれた言葉であるのに。
千年生きた事実など、どうでもよかったのに。
彼がそう言ってくれるだけで、頬が緩んだ。
自分のありのままを尊重されて。
気軽に言葉を交わして。
何気ない行動の一つ一つに、深い気遣いを感じて。
だからきっと、天音は勘違いしてしまったのだ。
目の前の男が。
真面目を絵に描いたような、不器用な男が。
まるで物語に出てくる。
聖人か何かだと。
そんなわけ、あるはずがないのに。
「ならば何故っ、貴女はここにいる。こんな身窄らしい部屋に、醜穢な男の前にっ、何故だ!」
「……」
男は。
元宮孝仁は人間だった。
彼もまた、苦しみながらに生きる、ただの人だった。
「貴女は本来、ここにいるべきではない。私のような存在に、笑いかけてなどはいけない。私のような、汚らしい者に……!」
そんなことを言わないほしい。
そんな、悲しいことを。
血を吐くように、掻き毟るように。声を荒げて。
傷付かないで。
どうか、傷付けないで。
「っ、貴女だって、本当は分かっているはずだ。目の前の男は、自分と相対するには不相応だと。これは酷く、醜いものだと」
彼が口を開く度、ずきりと胸が痛んだ。
感じたことのない痛みだった。
苦しくて、切なくて、悲しくて。
何処も怪我していないのに、涙が滲んで。
不相応なんて、思ってない。
醜いなんて、あるはずがない。
だって孝仁は、こんなにも。
「は、ぁっ、ぁあ……!」
止めなければ。
思考が一色に染まる。
足りない頭を捻って言葉を作る。
これ以上、彼を苦しめないように。少しでも救われるように。
何か言わねば。
何か、決定的な何かを。
考えろ。
何か、何か。
『わあ! じゃあ今度連れてきてくださいよ! 私見てみたいなぁ、天狐様の社畜ちゃん』
……あ。
口を、開いた。
「妖狐界では今、空前の社畜ぶーむなのじゃ」
我ながら、馬鹿だと思う。
何だ社畜ぶーむって。空前とか、絶対言う必要なかったろうに。
彼も茫然としていた。
突然意味不明なことを言い出した自分を見て、言葉を失っていた。
恥ずかしい。
もうどうにでもなれ。
やけくそになって続けた。
「……何ですか、それ」
案の定、彼は呆れて。
へなへなと座り込んでしまった。
羞恥を覚える。
頭のおかしい奴だと、思われただろうか。
それでもいい。
彼が傷付かないなら、それで。
思わず笑う。
臆病者の自分も、随分と絆されたものだ。
いや、だからこそ、か。
浮かんだ笑みを隠すように、お代わりを求めた。
どこか冗談めかして。
あんなことを言ったのだ。
大して期待はしなかったが。
「……はい。少し、お待ちを」
薄く。
本当に薄っすらと。
枯花よりもなお儚く。
彼は笑った。
……何だ。
そういう顔も、出来るのではないか。
天音は臆病な狐だ。
生まれついての性か、それとも環境がそうさせたのか。
千年経った今では最早分からぬが。
いつも何かに怯えて生きてきた。身を潜め、隠れ、息を殺して。
波風を立てぬよう、災難を避けるよう。
誰とも関わらずに生きてきた。
彼女はそれで幸せだった。
少し寂しくもあるが。裏切られるよか、ましである。
そんな彼女が、千年の時を生きて、ぽんと。
唐突に。
貴女様は天狐となりました。どうか妖狐達をまとめてくださいと言われて。
勝手に社に入れられ。
狐の最上位と慕われ。
かと言って、抵抗するのも怖くて出来ず。
逃げることも可能だが、この先ずっと追われるのも嫌だし。
結局、山に訪れた妖狐達の言われるがままになってしまった。
天狐様。天狐様。
私達の偉大なる天狐様。
天音はその呼び名が苦手だった。
まず自分は、そう呼ばれるに値する存在ではない。
千年間食っちゃ寝の生活をして。傷付くのが怖いから、偶に術を研磨して。
やたら増えた尻尾も、木に引っ掛かって邪魔だからという理由で一本にして。
特に努力もせず。
野望も持たず。
そんな長生きだけが取り柄の、おばあちゃん狐。
それが天音だ。
少なくとも彼女はそう思っている。
別に、彼女らが嫌いなわけではない。
自分を慕う心に、嘘がないことも分かっている。
ただ怖いのだ。
どうしても、あの日のことを思い出してしまって。
七百年前。
今とは違う山で暮らしていた天音の元に。
実は一度、妖狐達が集ったことがある。
そこには天音よりも高位の狐もいた。
代表が言う。
『これから人間達と戦を起こす。お前も妖狐ならば、手を貸せ』
冗談ではなかった。
人間と言えば、あれだ。
昔、天音がただの狐だった頃。銀色の珍しい毛皮だと追い回された記憶がある。
あれは怖かった。
だから普通に、断った。
『え、無理』
天音は追い回された。
妖狐の面汚し。意気地なし。恥を知れ。
後ろから火やら氷やらがびゅんびゅん飛んでくる。
もうめっちゃ怖かった。
生き延びたのは正に奇跡だった。
天音は例え同胞でも、安易に気を許してはならぬと悟った。
その日からか。
天音は術を学ぶようになった。
勿論、教える師はいない。
前回襲われたときの見様見真似で、色々やってみることにした。
なに、時間はある。
気長にやろう。
そうして、現在。
彼女を傷付けられる存在は、神を除けばいなくなっていた。
その神も、天音を善性であると認めている。
天狐になるとはそういうことだ。
神に認められし神獣。
奇跡の体現。
絶対的上位者の約束。
それでも、天音は臆病だった。
考えずにはいられない。
もし自分が力を失えばどうなる。
今は大丈夫かもしれない。なら明日はどうだ。
天狐と呼ばれる内はいい。地位が落ちればまた襲われるのでは。
彼女達は自分を慕ってくれている。
じゃあ、全員が同じ土俵に立ったら?
黒江は気遣ってくれるだろうか。
白愛は変わらず話してくれるだろうか。
管奈は敬語をやめないだろうか。
九瑠璃は笑いかけてくれるだろうか。
何処にでもいる妖狐となった自分に、果たして。
彼女らは変わらず接するだろうか。
……答えは、否だ。
推測ではない。事実だ。
天音には千里先の未来が見える。
あまねく可能性、或いはひょっとした結末。
あれが無ければ。これがあれば。
人が一度は思うような仮想を、彼女は見ることが出来る。
だからこれは事実だ。
力を持たなかった天音の周りに。
彼女らはいなかった。
たった一匹。
山でいつものようにのんびりと。
空を見上げながら。
天音は孤独に生きていた。
「……」
特段、悲しくはない。
そんなものだろうとは思っていた。
怒りも落胆も覚えない。
全く予想通りの結末だ。
答えは出た。
天狐でない自分に、態々関わろうとする物好きはいない。
……いや、一人いるか。
「……」
その男は、変な奴だった。
天音が九尾でも。
黒狐でも。白狐でも。管狐でも。
仙狐でも。
金狐でも。
気狐でも。
空狐でも。
銀狐でも。
野狐でも。
人間の女だったとしても。
その男は玄関で土下座した。
そして尊ぶ。
天音の全てを。
それが当然の義務だと言って。
「……ふ、ふふ。にゅふふ」
笑いが溢れる。
おかしくて堪らないと。我慢出来ないと。
愛らしい少女が、妖艶な女の色を見せながら。
「大丈夫、大丈夫じゃよ」
少し強張った、黒髪を撫ぜる。
優しく、優しく。
よく眠れるように。怖い夢を見なくて済むように。
彼の頭をゆっくり撫でる。
「……全部。お前さんの怖いもの、ぜーんぶ儂が」
天音が孝仁の家に来て。
三週間が経った、ある夜の一幕。
「壊してやるからの」