天音さんと出会い、三週間が経った。
彼女との生活は意外なほど和やかに過ぎている。
何事もなく。穏やかに。
平和な日々を送っている。
その、はずだ。
ガチャリ。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさいなのじゃ、孝仁っ。今日もよく頑張ったのぅ」
明るい笑顔で、天音さんは己を出迎える。
小さな狐の刺繍がされたエプロンが似合っていた。
温かな光。
心が安らぐのを感じる。
「……む。この香りは、魚ですか」
「おお、そうなのじゃ! 今日は鯖が安くてな、つい買ってしもうたわ」
「そうですか」
そう言って、彼女はからからと笑う。
此方としては頭が下がる思いだ。
天音さんには、
何もしないのは不平等だからと。
彼女は初日から己に朝食を作ってくれた。
有難い、と思う。
同時に申し訳ない、とも。
「……あの、天音さ」
「ほらほら、何をしておる。料理が冷めてしまうぞ? ほれ。早う、こっちに来い」
「……はい」
無理はなさらず。
己に手料理など、分不相応です。
このようなことはしなくても。
その言葉をいつも吐き出せないでいる。
喉元までせり上がったそれを、止められている。
他ならぬ彼女の手によって。
遮られている。
まるで、聞くことを拒んでいるような。
……頭が少し、痛む。
「いただき、ます」
「うむ。いっぱい食べるのじゃぞ」
広い部屋にあるちゃぶ台の前に座って。
両手を合わせ感謝する。
眼前には古典的な料理が並んでいた。
鯖の塩焼き。味噌汁。白米。沢庵。
日本の伝統を感じさせる和食。
箸で鯖の身を解す。
焼きたてなのか、白い湯気が立った。
随分とよいタイミングで帰ってきたらしい。
痛む頭を無視しつつ、一つ摘まんで口に入れる。
「……大変、美味しいです」
「ほ、本当かっ?」
「はい。よく塩が馴染んでいますね。焼き加減も絶妙です」
「にゅへ、えへへへ。やったぁ」
愛らしく彼女は喜ぶ。
両手を頬にやり、くねくねと体を捩っている。
本当に、愛らしかった。
彼女の喜ぶ姿を見れて、己は幸せだった。
だが、分からない。
分からないんだ。
何故、貴女は喜んでくれる。
己なんぞの言葉で。
どうしてそんな、幸せそうに。
やめてくれ。己は罪人だ。
決して、幸福を覚えてはいけない。
「孝仁」
「……っ。はい、何でしょうか」
名を呼ばれる。
朗らかな顔で、優しく。
藍色の瞳で覗かれる。
「仕事はどうじゃ。上手くいっとるのか?」
しご、と?
ああ、そうか。仕事、か。何故。
そうだな。ええと。急に。
最近は。そんなことを。
「は、い。最近は、帰りも早く。問題、ありません」
「そうかそうか。それは、よかったのじゃ」
安心したように彼女が笑う。
お気に召す返答だったようだ。胸を心の内で撫で、安堵する。
……はて。
己は一体、何を考えていたのだったか。
とても重要な。
酷く、根幹に関わることだった、気が。
ずいっ。
器が目の前に差し出される。
「ほれ、味噌汁も飲んでみぃ。お前さんは、合わせ味噌が好きらしいからの。作ってみたのじゃ」
「へ? は、はい……ありがとう、ございます」
器を受け取り、感謝する。
確かに、己の好みではあるが。
いつ、言ったのだろう。
疑問に思いつつも、汁を啜る。
「……! 美味しい、です。それに……」
「……」
懐かしい。
涙が出るほどに、ああ。
この味。この香り。この器。
嘗ての幸せが全てここにある。薄暗い部屋。優しい手の感触。
ああ、ああ。
ずっと、あのままでいられたなら……。
どれほど。
「……それに、何じゃ?」
「っ、? すみ、ません、はい。大したことでは。その、お気になさらず」
不意に、現実が意識を呼び覚ます。
しまった。
天音さんの目の前で、何たる無礼を。恥ずかしい。厭わしい。
彼女を置いて、他のことを考えるなど。
失礼の極みだ。申し訳ない。
早く別の話題に。
「にゅふふ、じゃがお前さんよ。そんなに慌てられては、寧ろ気になってしまうぞ?」
「あ、いえ。本当に、大したことはないのです。ただ、少し。懐かしいと感じただけで」
「ほう、懐かしいか」
「……はい」
「ほう、ほう。にゅふふふふふ、なるほど、のぅ」
すっ、と目を細められる。
笑っているような。観察するような。そんな目つき。
疑念を覚える。
懐かしいという言葉の、何に彼女は納得している。何に笑みを浮かべている。
そこまで興味を引くことだったろうか。
分からない。
分から。
「母を、思い出したか」
「ぁ」
駄目だ。
意識なき警告が脳裏を掠める。
考えるな。
奈落に潜む理性が囁く。
それは。
思い出しては。
『ごめんなさい……孝仁』
扉が閉まっていく。
太陽は月に追い出され沈んでいる。
明かりはない。
だが己は起きていた。
見つめていた。
消えていく。
あの人が。暗闇に。
己の、大切な家族が。
私を置いて。どこかに。
……。
どうして。
ぺちん!
「なーんじゃ! お前さんも可愛いとこがあるではないか!」
「……ぇ、ぁ?」
いつの間に隣へ移動したのか。
ぺちぺちと、天音さんが己の肩を叩く。
嬉しそうだ。
楽し気に笑っている。優しい目で見つめられる。
本当に、それだけか?
「いやぁ、すまんすまん。ちと急かし過ぎたようじゃ。許しておくれ」
「天……音、さん?」
髪を撫でられる。
幼子をあやすが如く。ゆっくり、ゆっくり。
丁寧に撫でさすられる。
理解が出来なかった。
彼女は何を言っている。何故、謝罪をしている。
急かし過ぎたとはどういう意味だ。何かを期待しているのか。
こんな塵にも劣る、己に。
であれば、それは一体……。
「ふふ、にゅふふふふ。しかし、選りによってなぁ。くふふ」
「……っ」
……否、今はそんなことを考えている場合ではない。
この状況は不味かった。
彼女との距離は三寸もなく、少し動けば体が触れる。
無論、許されるはずがない。
一刻も早く退かねばならぬ。
彼女の美しい手を、これ以上汚してはならぬ。
だのに。
「まさか、あんな女を思い出すとは。くくく、はは」
「……っ、ぅ」
「ああ全く、いじらしいのぅ、愛いのぅ、孝仁」
「天音、さ……っ」
「よぅし、よし。もう、大丈夫じゃ。全てを忘れて、ずぅっと、ここに居ればよいからな」
動けない。
彼女の甘い声色が己を縛る。小さな手が安寧を運ぶ。
撫でられる度、耳元で囁かれる度。
心が停滞を望んでしまう。
この安らぎを享受したいと、願ってしまう。
何もかもを、忘れて。
そんなこと、許されるわけがないのにな。
この、人殺しが。
「っ、失礼! 頭を冷やしてきます!」
「ぁ……」
半ば逃げるように立ち上がり、シャワー室へ駆け込む。
部屋を出る瞬間、彼女が何かを呟いた気がした。
「んむぅ、中々手強いのぅ……」
シャアアアアアアアア。
「……」
項垂れて、排水溝へ流れていく水を眺めている。
無感情に。機械的に。
頭を冷やすという作業を行っている。
されど、一向に心は落ち着かず。
それどころか、冷静になればなるほど騒めくのだ。
心が。
何かがおかしいと。
このままではいけないと。
強く、強く叫ぶのだ。
「……は」
馬鹿馬鹿しい。
おかしいとは何だ。よもや、この生活が?
どこに不可解な点がある。
この穏やかな暮らしの、どこに。
大体にして、これを疑うということは、彼女を疑うということだ。
それこそありえない。
彼女が己に何かをするなど。
そんなこと。
彼女は。
天音さんは。
「……」
シャアアアアアアアア。
「……」
……天音さんは。
どうして食事中、ずっと己を見つめるのだろう。
瞬きもせず、自身の御飯を口に入れるときすら。
ただ、じっと見つめる。
勘違いではないはずだ。目が合えば、にっこりと微笑んでくれるから。
それだけではない。
食事中以外でも、彼女の視線の先は此方に向いている。
以前はそうでなかった。
暇な時間はゲームをしたり、読書をしたりしていた、と思う。
そうだった、はずである。
だのに今では、彼女が娯楽品を手にすることは無くなってしまった。
代わりに、己を見るのだ。
にこにこと、本当に嬉しそうに。
尻尾をふぁさふぁさと揺らしながら綻ぶのだ。
花の咲くような笑顔で。
それは、異常である。
「いつ、だ……?」
冷水を頭から被りつつ、呟く。
いつからだ。
彼女はいつから、己を見るようになった。その理由は何だ。
否、否。違う。
それよりも、もっと疑うべきことは。
「何故、私は疑問に思わなかった」
どくん。
水の冷たさとは別に、頭の奥が震えた。
初めてホラー映画を見たあの感覚。
じわりじわりと、寒いものが押し寄せてくる。
己は今、何を考えているのだ。
果たしてそれは、考えるべきものなのか。
疑問に思えないのは、どうでもよい証なのでは。そんなわけがない。
考えろ、考えろ。
何か取り返しのつかないことをしてはいないか。
或いは、されてはいないか。
疑うべきではない。
あの御方を、疑ってなどいけない。
だが、それでも。
「天音、さん……貴女は、一体」
ガラガラ。
「ん、しょ。入るぞー、孝仁」
「……は?」
思考が、停止する。
視界から入る情報、耳に伝わる振動、微かな空気の揺れ。それら全てに理解が遅れる。
微かに絞り出せたのは、言葉ならぬ譫言。
「な、ぁ……っ」
「にゅへへ」
悪戯っ子のような笑みを見せ。
天音さんが口を開く。
「お背中お流しします、のじゃ」
深い藍色の瞳が、己を射抜いていた。