天音さんと暮らし始めて、三週間が経った。
彼女との生活は存外なほど静かに過ぎていく。
問題もなく。緩やかに。
のどかな日々を送っている。
ガチャリ。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさいなのじゃ! 今日も遅くまで頑張ったのぅ、孝仁」
花が咲いたような笑顔で、天音さんは己を出迎える。
小さな狐の刺繍がされたエプロンを見て、心がほっこりとした。
よく似合っている。
彼女に渡すべきか迷ったが、買って正解だった。
本当に、よかった。
「……ん。美味しそうな匂いですね」
「にゅふふ、そう言ってもらえて何よりじゃ」
嬉しそうに彼女は目を細める。
それを見て、己も綻んだ。
懐かしい匂いがした。
幸せがここにあった。
だが、己は。
「おやすみなさい」
天音さんが来てから、三週間が経った。
彼女との生活は穏やかに過ぎていく。
不満などはない。あるはずがない。
己は幸せな日々を送っている。
ガチャリ。
「ただいま、帰りました」
「おお、孝仁! よう帰ったの。ご飯、もう出来とるぞ」
「ありがとうございます」
「……ん」
天音さんは薄く笑い、掌を差し出す。
僅かな硬直。
逡巡の末、その御手に己の手を重ねた。
細く柔らかい感触。
「にゅへへ、えへへ」
「……」
彼女は頬を緩ませ、己を連れていく。
手を振りほどくべきだ。
どうして握った。
彼女の手を汚してはならない。
理性が叫ぶ。
分かっている。分かってはいるのだ。
しかし。
それでも。
「孝仁の手はおっきいのぅ。それに、あったかい。優しい手じゃなぁ」
「……恐縮です」
悲しませたくない。
こんなにも嬉しそうに輝く光を、曇らせたくない。
否、全ては言い訳だ。
結局お前は、怖いだけだろう。
彼女を否定して嫌われるのが、ただ。
恐ろしいだけだろう。
この、薄汚い卑怯も。
「ご馳走様でした」
天音さんと同居し始めて、三週間が経った。
不自由はなく、安穏を得ている。
彼女との生活はとても幸せだ。
己は喜びに満ちた日々を送っている。
その、はずなのだ。
ガチャリ。
「……ただいま帰りました」
「おかえりっ、孝仁!」
ぎゅっ。
扉を開けた瞬間、天音さんが胸に抱き着いてくる。
ぐりぐりと頭を擦り付けてくる様子に、心から愛らしさを覚えた。
「……ふふ。そんなにしては、御髪が乱れてしまいますよ」
「にゅふー。だって、孝仁が直してくれるじゃろ? ならいいもーん」
「おや。であれば、次からはご自分で……」
「わ、わぁー! う、嘘じゃ嘘じゃ! んなこと思っておらん! ぜーんぜん、なっ?」
「ふふふ、冗談です。……さぁ、部屋に行きましょう」
彼女の手を取って歩く。
普段通りの光景。
普段通りの習慣。
普段通りの、幸福。
ああ、何と素晴らしいことだろう。
ここには己が求めていた全てがある。
願わくば、このままずっと。
天音さんと暮らして行けたなら。
それは叶わな。
「あ、天音さん。そこは自分で洗います。どうか、どうかご勘弁を……」
あまねさんと暮らして、三週かんがたった。
わたしは、しあわせな日々を過ごしている。
おいしい食事。
あたたかいお風呂。
なにより、愛しいかのじょの存在。
「ただいまかえりました」
「おかえりなさいなのじゃ、孝仁」
はなが咲いている。
とても綺麗な、月よりもきらめく華が。
私を優しくつつんでいる。
今日のご飯はなんだろう。
たのしみだ。
な。
「あまねさん、その。少し、近い気が」
あまねさんからさんしゅうかん。
わたしはしあわせな。
もうこれいじょうはいらない。
ずっとこのままで。
に。
「ただいまかえりました」
「いただきます」
「いい湯ですね」
「あまねさん、口にソースが」
か。
「温かいです。本当に、温かい」
「ただいま、帰りました」
「おやすみなさい」
が。
「そんなにくっ付かれると、歩きにくいのですが」
「あまねさん」
「美味しいです。これは、合わせ味噌ですか?」
「……ただいま帰りました」
お。
「私の母は」
「喜んでもらえて、嬉しく思います」
「いけません、そのような……!」
か。
「おやすみなさいませ」
「どうして私は」
「これですか? 天音さんの、お土産にと思って……」
「明日は晴れるといいですね」
し。
「何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ」
「天音さん……!」
「私は、私は……!」
「生きてはならな」
い。
薄暗く光るディスプレイを眺めている。
書類に記入すべき情報を見つけた。即座にペンを走らせる。
書き終えた。
マウスのホイールを動かし、画面を進める。
そして繰り返す。
何度も。何度も。
「……」
己の仕事は単純明快である。
故に特別な技能はいらず、また誰かがやるべき仕事でもない。
そう、誰だっていいのだ。
だから己がやっている。
ただ、それだけのことだった。
不満はない。
いや寧ろ、有難いとすら思っている。
低能な人間が身の丈に合わぬ仕事をしても失敗するだけだ。
大きな問題を起こす前に止めてくれた。
皆さんには感謝の念が堪えない。
そんな、皆さんなのだが。
「ちょっと、小林さんも休み……? これで何人目よ」
「確かに、最近多いよねぇ。橋本君と後藤さんも風邪だって言ってたし。流行ってるのかなぁ?」
「……」
パソコンの画面から目を離し、ちらりとオフィスを見渡す。
少ない。
明らかに人数が減っている。
どうやら、風邪が流行っているのは本当らしい。
気を付けねば。天音さんにでも移したら大変である。
無論、天狐たる彼女が簡単に風邪を引くとは思えない。
それでも、もしもという事があった。
その場合己はどうすべきか。
病院に連れて解決、とはいかないだろう。
何せ彼女は人外であり、人間の薬が効くとも……。
「……?」
なん、だ?
既視感がある。
酷く懐かしいような、恥ずかしいような。
一度これを考えた覚えがある。
いつだったか。
会って間もない頃、に思えるが。
となれば、三週間前か。いや、感覚的にはもっと前な気がする。
だがそれはおかしい。
己は彼女と出会って、三週間しか経っていない。
本当に、そうか?
「おっす、元宮! おはよーさんっ」
不意に声がかかり、思考が途切れる。
明るい男性の声であった。
己は、この声の主を知っていた。
ついさっきにも聞いた名である。
「……っ? おはよう、ございます。後藤さん」
やや戸惑いつつ返事をしてしまった。
失態だ。相手は、朗らかに挨拶をしてくれたというのに。
申し訳ない。
ただ、それが戸惑いの原因でもあった。
後藤さんが己に挨拶をするなど、この三年間で初めてのことだ。
何かあったのだろうか。また己がやらかしたのだろうか。
風邪を引いていたそうな。もう大丈夫なのか。会社に来ているなら、治っているはず。
よかった。
しかし、何故。
頭の中が疑問で埋まる。
未だ硬直している己に、彼は笑いかけた。
これもまた、初めての光景である。
「なんだこれ、全部仕事か? ったく、俺にも分けろよなー」
「は、い?」
「あんま無理すんなよ。今まで悪かったな。んじゃ、これもらっとくから」
「ぁ、後藤、さん……」
手を伸ばすも、既に彼は歩き去ってしまった。
己の仕事を持って、すたすたと。
益々訳が分からない。
彼はどうしていきなり、こんなことを。
周囲の人間もそう思ったのか、数人が彼に話しかけていた。
「おはよう、後藤君。久しぶりね。風邪はもう治ったの?」
「おっす。おはようさん。めっちゃ休んだからなー、もうばっちりよ!」
「な、なんか雰囲気変わりましたね、後藤さん。……さっきのあれ、どうしたんですか?」
「あー? おお、これか。まあ、ちょっとな。欲しい腕時計があってよ」
「わぁ、出世狙い? 真面目~」
「後藤先輩まじで腕時計好きなんですね。そう言や、橋本も買ったらしいっすけど」
「ああ、橋本な。実はあれ、俺が選んだやつなんだよ」
「え、そうなんですか!?」
わいわいと、彼らの話は広がっていく。
いつもの光景である。
また盗み聞きとは我ながら最低だが、理由も分かった。
ちゃんとした目的があるのなら、先の行動について理解できる。
彼が何故、己に謝ったのかは未だに分からぬが。
考えても栓無きことだ。
自分の仕事に戻るとしよう。
彼らから目を離し、視線をパソコンに向けた。
「……まあでも、後藤君が復帰してよかったわ。最近はみんな風邪で休んじゃって困ってるのよ」
「ははは。それなら大丈夫だ」
「へ?」
「もうすぐ、全員直るからな」
帰路に就く。
日はとうに暮れて。されどまだ深くはなく。
足取りもしっかりとして、歩いている。
街灯に頼る必要はない。頭は明瞭だ。
変わらずにあるのは手に持つ鞄。
そして、買い物袋。
「……」
違和感がある。
ここ最近、ずっとそれを感じている。
言葉には出来ない。
何がどう、具体的におかしいのかも分からない。
ただこうして帰り道を歩くことに、引っ掛かりを覚えている。
手の甲で額を擦った。返る痛みはない。
空を見上げた。深夜と呼ぶには少し早い。
鞄を見た。家に持ち帰る書類の量が減り、とても軽い。
膝を見た。いつもなら汚れている。
肘を見た。これもやはり、いつもなら汚れていた。
土下座をしなくなっている。
仕事の量が減っている。
体調が良くなっている。
別にいいじゃないか。
「……っ」
これだ。
己は先程、確かに何かを考えていた。
だのに、それがどういう内容なのかを思い出せないでいる。
この感覚は今までにもあった。
喪失感と焦燥感だけが取り残される、恐ろしい感覚。
だが、何よりも恐ろしいのは。
それが全く、嫌だと思えないことだ。
不快感もなく、拒絶感もない。寧ろ、安心すら覚えている。
忘れたところで何の問題があると、心の誰かが言うのだ。
違う。問題はあるのだ。あるはずなのだ。
『でも、心地よいだろう?』
ああ、そうだ。
彼女との生活は心地よい。幸せだと、声を大にして言える。
しかしそれでは、彼女はどうなる。
このままずっと彼女に世話をさせるのか。ふざけるな。ふざけるな。
己なんぞが、天音さんを縛っては……。
『何を言ってるんだ。彼女とは、あと一週間ちょっとでお別れじゃないか』
「ぁ……」
がさり。
買い物袋が揺れた。
己の足に当たったらしい。
いけない。これは、大切なものなのに。
『なぁ、孝仁。お前は決めたはずだ。この契約を守ると。それまでは、彼女と共にいると』
帰り道で見つけた、洒落た御店。
場違いを感じつつも我慢して、一つを買った。
天音さんに似合うと思って。
身勝手な感情のままに購入した、けれど大事な贈り物だ。
『お前はなーんにも間違っていない。このまま彼女と過ごせばいい。契約が切れるまで、ずっとな』
「このまま……ずっと……」
天音さんは、喜んでくれるだろうか。
喜んでくれたら嬉しいな。
貴女の幸せが、私の。
「残念だけど、そうはいかないのよねぇ」
「は……?」
声が、した。
艶やかな女性の声だ。
万物を魅了し跪かせる、魔性の声色。
一体、誰が。
『ちっ……邪魔が入ったか』
じゃま?
なんのことだ。
いや、それよりも確認すべきことは。
「貴女は……いえ、貴女、達は」
「うふふ」
振り返る。
声のした方へ。
そこには一人ではなく、四人の人影があった。
否。
人では、ないか。
「初めまして、元宮孝仁さん。いきなりだけど……私達とお話、してくださらない?」
「ごめんけど、拒否権はないと思ってね~」
「はぁ、疲れた。早く終わらせて」
「こいつが、天狐様を……!」
きらり。
茶色、黒色、白色、金色。
月明かりに照らされ、色取り取りに煌めく、人外の尾。
それには見覚えがあった。
だけでなく、その美貌。その麗しさにも。
「……ああ」
思い出した。
彼女が来た理由は、そうだったな。
あれ。
ああ、じゃあ、そうか。
これで、もう。
『でも儂、お前さんを次の集会で紹介せんといかぬし』
『紹介するなら、お前さんがいい。儂がそうしたい。それでは、いかぬか?』
『孝仁』
『孝、仁……』
契約、終わったのか。