白い湯気が立っている。
微風に揺れ、ふらりふらりと踊っている。
汁を飛ばさぬよう、慎重に麺を啜った。
ずるずる。ちゅるちゅる。
「……」
「……」
いつぞや己が作った、不出来なものではなく。
きらきらと輝く四角いお揚げ。純白のコシがある麺。だしの利いた汁。
全てが一級品であった。
また味は勿論のこと、その温かさも。
彼女の優しさを示しているように思えた。
「……ん。大変、美味しいです」
「そうか」
「はい。以前、自分が作ったこともありましたが。今考えても、あれは貴女様に対し不敬であったと」
「儂は」
己の言葉を遮り、彼女は続ける。
「……あの日食べたうどんが一番好きじゃ。こんな、紛い物よりもな」
「……」
吐き捨てるように言われたそれに、己は何と返すべきか。
十中八九、お世辞だろうが。果たして否定する資格があるのかと問われると、弱い。
加え、彼女は自らを卑下していた。
慰めるべきだ。しかし、何と言葉にしたものか。
ああでもなし、こうでもなしと考えて。
結局己は愚昧に、ただ、器に浮かぶ茶色を眺めるだけだった。
「……」
「……」
沈黙が重い。
そう感じたのは、今日が初めてだった。
いつもは。いつもならば。
彼女が明るく話を振り、己が答える。何気ないやりとりに、深い思いやりを感じて。
有難くもあり、申し訳なくもあった。
今もそうだ。
己は彼女に気遣われている。
悟られて、いるのだろう。
己が言わんとすることに、彼女はきっと気が付いている。
その上で黙ってくれていた。
最良の別れをするために。後悔のない終わりを迎えるために。
僅かに頭を下げる。
これが感謝なのか謝罪なのかは、己にも分からないが。
頭を下げ続けた。
ふと、沈黙が途切れる。
「……最近の」
「はい?」
「最近の、仕事の調子はどうじゃ? 何か……不満や、辛いことはないか?」
「……」
ああ、本当に、この御方は。
そっと目を細めて感じ入る。
どこまでも人のことを考えて。心を配って。
そんな価値、己にはないというのに。慮ってくれて。
優しい方だ。
だからこそ、言わねばならない。
万感の思いを抑え、口を開いた。
「全く、問題ありません。近頃は風邪が流行っていたようですが、それも終息に向かい。加えて、定時に帰れる日も増えました」
「そう、か……」
「はい。故に心配は不要です。自分は……」
「ぁ……」
顔を上げ、彼女の目を見つめる。
藍色が揺れた。捨てられる子犬のような表情だった。
前にも一度、これに似た光景を見た気がする。
いつだったか、思い出せないが。
胸がじくじくと痛んだ。
……今は考えるな。それは、決心を鈍らせる毒となる。
目を閉じて、開く。
そして出来るだけ、表情筋を緩めて。
少しでも安心してくれたらと願って。
言った。
「もう、大丈夫です」
「――」
彼女の瞳が、一際大きく見開かれる。
やがて目尻に悲痛が浮かび。粒が形になる直前、顔を伏せられた。
か細く、震えた声で問われる。
「……どうしても、いかんのか?」
「はい」
「……お前さん、幸せそうにしておったではないか」
「幸せでした。この先ずっと、続けばよいと思うほどに」
本音である。
彼女と過ごした日々の記憶に虫食いはあれど、そこに疑念はない。
間違いなく己は幸せだった。
だが、それでも。
「……でも、だめなんじゃな」
「……はい」
別れなければならない。
彼女のためにも。己のためにも。
彼女は天狐だ。妖狐達を束ねる、神に等しき御方だ。
己は罪人だ。永遠に罰を受けるべき、穢れた存在だ。
単純な話だったのだ。
いつの日か確信した事実。己と彼女では、住んでいる世界が違う。
あの日、彼女は否定したが。
これが現実であった。
「……ご馳走様でした」
「……」
手を合わせ、感謝する。
深く深く、食材の枠を超えたところまで。今までの全てを。
感謝する。
「天狐様、食器は」
「よい。洗う必要も、ない」
ぱちん。
彼女の指が軽快に鳴る。
それだけで、食器は消えた。器も箸も、消えてしまった。
もはやちゃぶ台に、温かさはなかった。
色の抜け落ちた表情が気にかかる。
次いで、自嘲した。
そうさせたのは誰だ。考えるまでもない。己である。
己が彼女を悲しませたのだ。
後悔はなく、自責だけが降り積もる。
懐かしい。
そうだ、思い出した。
元宮孝仁という人間は、こんなだったな。
全く、救い難い。
「……では先に、お風呂をどうぞ。自分は後に入ります」
「……やじゃ」
ぷい、と横を向かれる。
「天狐様」
「……一緒に、入れば」
「なりません」
「……」
顔は伏せたまま。
その場から一向に動かないことを確認して。
「……分かりました。でしたら、自分が先に入ります」
「……っ」
「ですがどうか、軽率な行動はなさらぬよう」
努めて冷酷に。
釘を刺すが如く、言い放つ。
「お願いします」
「……」
縮こまる彼女の姿を見つつ、居間を出る。
そうして、浴室と居間の中間まで。
長い廊下を歩いた。
不意にしゃがみこむ。
「っ、ぅ」
両手で肩を抱き、千切れるほど強く握りしめる。
喉の奥を必死に閉めた。
汚いこれを、聞かせないために。
「ぅ、ぐ、ぁ……がっ」
寂しげな顔。
悲しげな顔。
悲痛な顔。
虚ろな顔。
花が曇っていた。
「ぁぁぁあ……っ!」
疑問だ。
どうして私は、生きているのだろう。
声なき叫喚が廊下の暗闇に消えていった。
十数分後。
湯舟には浸からず、シャワーだけを浴びた己は寝間着に着替え。
上質な布の感触に居心地の悪さを覚えながら、居間へ戻った。
彼女は未だちゃぶ台の前に座っている。
驚かせないよう、あえて足音を響かせ。
己の存在を伝えた。
「……ただ今、上がりました。どうぞお次へ」
「……」
返答はなく。
ただ、小さく頷いて。彼女は顔を見せぬまま己の横を通り過ぎた。
耳と尻尾は垂れ下がり。とぼとぼ、銀色は沈んでいく。
背を見ることはしなかった。
もし、廊下の薄暗い闇に消えゆく彼女を認めれば。
己はきっと何もかもを捨ててしまう。確信があったのだ。
現在、自己嫌悪と自己嫌悪の天秤は辛うじて、此方に傾いている。
だが少しでも気を抜けば、かたり。
皿は彼方へ沈み。己は彼女を想い、最悪の選択をするだろう。
このままでいい。
貴女のなさりたいことを。
幸せになれるのなら、それで。
「いいはずが、ない」
がり、と歯を噛み締める。
心を引き締める。緩みかけた決意を、今一度再燃させる。
彼女はここにいるべき存在ではない。
対し己は、瞬きのうちに死ぬ刹那の記憶だ。すぐに忘れる、価値のない風景だ。
だのに。
『天狐様は、君に執着してる。恋とか愛とかを超えて次元で、ね』
彼女は囚われている。
何かがそうさせた。己の中にある汚い何かが、彼女を捕らえていた。
許されざる醜行。
罰せよ、罰せよ、解放せよ。
己から彼女を解放させねばならない。
そのためならば、己はこの時、悪魔にもなろう。
「……お許しを頂くつもりはありません」
どうか、忘れてほしい。
彼女はこれからも生きていく。想像もできない、長き時を。
その旅路に、どうか己を連れて行かないでほしい。
綺麗さっぱり忘れて、新たな歩みを始めてほしい。
どうか、幸せになってほしい。
「……」
夜も遅い。
歯を磨いて、布団に入ろう。今日を終わらせよう。
もう、終わらせよう。
洗面台へ向かった。
途中、水滴の音が聞こえたが。歩みを止めず進み続けた。
やがて到着し、歯ブラシを手に取る。そこからは早い。
義務的に、機械的に。反復動作を行う。
その際、鏡は見ないことにした。
現在自分がどういう顔をしているかなど、容易に予想がついた。
ぐちゅぐちゅ。
「べ」
ジャー。
白い液体が渦を巻き、次第に流れていく。
汚らわしさがより穢い所へ。排水管を通って合流する。
最期は浄化され、跡形もなく消失する。
「……は」
嘲笑う。
己はこれと同じだ。
当の昔に、最期は決定されている。
恐怖はない。ただ、虚しい。
生まれてきた意味が分からなかった。生まれなければよかった。
水の流れる音を無機質に聞きながら。
あの日の川を懐かしく思った。
「……これで、よし」
布団を敷き終わり、一息をつく。
無論、彼女の寝床である。己は廊下で寝ればよい。
幸いにして毛布を発見した。
あとは座布団を枕代わりにすれば完璧だ。
肌寒い季節になってきたが、一夜くらいは越せるだろう。
問題なのは。
「孝仁」
「……天狐様」
やはり、彼女だ。
しっとりとした髪を艶やかに垂らしつつ、廊下の入り口に彼女は立っている。
見た目だけなら愛らしい少女であるが。
その立ち姿、表情からは恐ろしいほどの色気といじらしさが感じられる。
正に魔性。
今すぐにでも抱きしめてあげたい。慰めてやりたい。一緒になりたい。
そんな邪な感情を抑えつけ、目を合わせる。
「お湯加減は、いかがでしたか?」
「孝仁がおらんから、冷たかった」
「そうですか。でしたら、今後は妖狐の皆様とお入りを」
「嫌じゃ。儂は、孝仁だけがいいのじゃ」
「そう、おっしゃらず」
「……」
頑なな姿勢。
これ以上話しても進展はないと判断し、彼女に近づく。
否、正確には、廊下の入口へと。
「……それ。どうするつもりじゃ」
「自分は廊下で寝ます。天狐様はどうか、あちらの布団でお休みください」
「……っ」
ぐい、と裾を握られる。
上目遣いで睨まれた。大きな藍色の瞳が、己を見上げていた。
「そんなの、駄目に決まっておろうっ」
「何故ですか」
「な、何故って、それは、風邪を引くかもしれんし。か、体だって、きっと傷めるのじゃ」
「一日くらいならば、自分は平気です。どうかご心配なさらず」
「ぁ……っ」
「では」
優しく手を解く。
分かりやすい拒絶の行動。口外に別れを告げる。
明日にはもう、貴女はいないのだと。
そう伝える。
思いのほか、それは効果があったらしく。
抵抗なく彼女の横を通ることが出来た。
去り際に一言。
「おやすみなさい」
「……!」
呟き、眼前の闇を見据える。
ここで終わるのだ。彼女と己の生活は。
余計な感情は捨てろ。今はただ、為すべきことを為せ。
表情が消える。
廊下の冷たい床に足を伸ばし……。
ぽすん。
「孝、仁!」
「っ……? 天狐様、何を?」
背中に軽い衝撃が走る。
小さく柔らかいものが背に当たる感触。痛みはなく、本当に触れるだけの、軽い衝突。
関係ない。足を進めろ。
しかし己の意思に反して、この体は動かなかった。
よもや術をかけられたかと懐疑したが、直ぐに霧散する。
縛られるような感覚はない。あの時感じた、強制力ともいうべき何かが。
であれば、これは。
「嫌じゃ、嫌じゃ! こ、こんな、お別れは嫌じゃ!」
「……天狐様」
顔は見えない。
だが、この声を己は知っている。
叩かれる扉の中で響いた、湿っぽさを含んだ声。悲しみに満ちた声。
子供の泣き声。
……。
己、は。
「お願い……お願いじゃ……これで、最後じゃから。だから、だからぁ……っ」
「……」
本当に、これでよいのだろうか。
足は動く。彼女を置いて、行くことができる。
それで終わりだ。彼女との生活も、歪な関係も。
願っていたはずだろう。お前も。こんな生活は、早く終わらせるべきだと。
お前の、望みは。
「……天狐、様」
「ぐすっ、ぐすっ。孝仁、孝仁ぉ……!」
……違う。
己の望みは、ただ。
彼女を幸せにしたかった。
分不相応の望みと知って、なお。己は願った。
彼女と己は別離しなければいけない。このままでは、互いに不幸になるだけだ。
退廃的な暮らしに未来はない。彼女にはもっと、輝かしい未来が待っている。
それに疑いはない。
だが。
だからといって、それが、彼女を泣かせていい理由にはならない。
こんな、別れは。
『ごめんなさい……孝仁』
「……」
笑って別れよう。
最良の未来のために、最良の別れを。
俺にはそれができなかったから。せめて、彼女とだけは。
笑顔で。
背を僅かに離し、振り向く。
そして。
「天音さん」
「ひぐ、えぅ……ふぇ?」
名を呼ぶ。
天音さんの顔がきょとんと上がり、よく見えた。
目には大粒の涙が浮かんでいて。目元と鼻は赤く腫れている。
痛ましさを覚え、指の中節で涙を拭った。
脳が警鐘を鳴らす。
構わず、続けた。
「どうやら、思ったよりも廊下は冷えるようで」
「ひ、え? あ、今、な、名前……へ? へ?」
「やはり風邪を引いて、会社の皆様に迷惑をかけるわけにもいきません。故に、天音さん」
「ぁ……」
手を握る。
先ほどは解いた手を、身勝手にも包み込む。
後悔はしていない。
何故なら、彼女はこんなにも。
「どうか俺と、一緒に寝てはくれませんか?」
「……うん。うん!」
ぱあ、と顔を綻ばせ。
目を細めた拍子に零れ落ちる、涙すら気に留めず。
貴女は笑う。
どんな花よりも愛らしく、どんな星よりも眩い笑顔で。
己を照らしてくれる。
「えへ、えへへへ」
「……」
こっちのほうがいい。
たとえ愚かだと罵られようと、中途半端だと吐き捨てられようと。
己はこれがいい。
勿論、不敬の対価は払うつもりである。
これが終わったら、死のう。
生きているだけで他者に迷惑をかけるのだ。これではもう、罰などと言っている場合ではない。
早急に終活を始めねば。
それが済んだら、誰もいない山で首でも吊って。ひっそりと死のう。
そう心に決めた。
「じ、じゃあ、早く行こ? ほれ、お布団に、な? な?」
「っと、そんなに引っ張らずとも大丈夫ですよ。ちゃんと、一緒にいますから」
「……にゅへ、えへへ。孝仁から、一緒にって。にゅふふ。うふふふ」
ぐいぐい引っ張る彼女の手に導かれ。
布団の前まで連れてこられる。
そのまま彼女は片手を放し、布団をぺらり。
小さな隙間に、小柄な身を差し込んだ。
片方の手は繋いだまま。必然、己の姿勢は崩れ。半ば倒れこむように膝をつく。
顔と顔が近づいた。
「……っ」
息を吞む。
無邪気に微笑む姿は、あまりに美しく。
そして妖艶だった。
「ん、しょ。……はいっ。孝仁も、おいで?」
「……少し、お待ちを。その前に渡したいものが」
「ふにゅ?」
「……」
「……?」
不思議そうに首を傾げられる。
「あの、手を」
「断る」
無表情。色という存在全てが抜け落ちたような。
深淵の瞳。己を覗き込んでいる。
握られた右手が、みしりと音を立て。
「……ならば、あそこにある鞄を取っていただけますか」
「理由は」
「秘密です」
「……」
数秒の沈黙。
彼女は右手の人差し指を曲げ、小さく呟く。
来い。
「……ほれ、鞄じゃ」
「ありがとうございます」
気付けば、横には会社の鞄が浮かんでいた。
特に驚くことはない。
空いている左手で鞄を開け、慎重に中身を取り出す。
「……? 何じゃ、それは?」
「もう少々お待ちを。あと……できれば、この箱を固定していただけると嬉しいです」
「う、うむ」
本来ならば、これを渡すべきではないのだろう。
別れの品というには簡素で。贈り物というにはセンスの足りない。
ありきたりで、平凡。
いかにも愚者が考えそうな、稚拙な行動。
衝動的な購入。
「……」
「……」
ぺらり、ぺらりと。
箱を包んでいる紙を丁寧に剝がしていく。
少しして、箱の姿が見え。
完全に剝がし終えた己は、彼女の眼前にそれを向けた。
「……開けろ、と?」
「はい」
「……ん」
半身を起き上がらせ、彼女は箱を見る。
その表情からは、不安と期待が織り交ざった。複雑な色が伺えた。
己が考えることは一つ。
貴女は、喜んでくれるだろうか。
彼女を喜ばせる。
拒絶した己に、資格はないと知りつつも。
この別れに、少しでも花を咲かせられたらいい。
そんなことを愚鈍に考えて、思わず止めてしまった。
彼女の細い指が箱にかかる。
緊張が走った。
時間の流れが遅くなる。それでも、少しずつ。
確実に開いていく。
一秒、二秒。
そして、ついに。
「……これ、は」
「……」
顔を伏せる。
羞恥か、臆病か。天音さんの顔が見れなかった。
耳に入る情報だけが頼りだった。
ぽつりぽつりと、彼女が口を開く。
「……孝仁が、選んでくれたのか?」
「はい」
「儂の……天音の、ために?」
「……はい」
「~~!!」
喜んで、くれただろうか。
僅かでも、心を動かせたら、いいな。
まあ、きっと。
すぐに、わすれられるのだろうが。
「はぁ、はぁっ。孝、仁ぉ……!」
「……? 天音、さん?」
あ、れ?
おかしい、な。
きゅうに、目のまえが、くらくなって。
「お前さんは、お前さんというやつは、本当にぃぃ」
「ぁ、う」
のしかかられる。
腕を、つかまれている?
すこし、いたい。
でも、それ以上に。
なんだか、ねむ、たい。
「はぁ、ぁあっ。こんな、こんなことをされては。天音は、あ、天音は!」
「ぁ……」
あまねさん。
「もう、我慢ならん……!」
どうか、おげんきで。
「我慢、できないよぉ……! 孝仁ぉ……!!」
さようなら。