ピピピ、ピピピ。
緩慢に目を開ける。
見慣れた天井が、ぼやけて揺れる。
布団から腕を伸ばし、手探りで携帯を探した。上へ、下へ、不器用に。
やがて、硬い感触が指先に届く。
ピピピ、ピ。
「……ふ、ぅ……っ、はぁ」
重い息を吐きつつ、二度三度、目を瞬き。
霞む像が鮮明になった頃、漸く体を起こした。
拍子に布団が捲れる。
人影は、ない。
「……」
無言で立ち上がり、寝具を丁寧に畳む。
それが終えたら、今度は洗面台へ。
足取りは存外に軽い。何の障害もなく、数秒で目的地に着く。
実にスムーズだ。
いつもなら、もう少し。
騒がしい。
ジャー。
パシャ、パシャ。
ゴシ、ゴシ。
キュッ。
「……ふぅ、ぅ」
顔の洗浄も完了した。
濡れたタオルを洗濯籠に入れ、息をつく。
さて、次にやるべきことは何だったか。
確か。
確か。
起きない彼女を再三呼ぶ、必要はなくなり。
彼女の乱れた髪を整える、こともなく。
愛らしく強請られ、着替えを手伝うことも……。
「……ああ」
着替え。
そういえば、まだ己は寝間着のままであったか。
いかん。早く着替えねば。しっかりせねば。
このままでは、彼女に。
「は」
自嘲するように、息を吐く。
いつまで寝惚けているのだ、お前は。
休む暇はない。
準備をしろ。時間は有限である。限られた命の使いどころを考えろ。
お前は生きているだけで害悪なのだから。
これ以上、誰かの迷惑をかける前に、消えなければならない。
終わる準備を。
人生で初めて為す、正義の準備を。
早く。
「……っ」
服を脱ぎ、籠に入れる。
質の良い布を傷めぬよう、優しく。されど急ぎ着替える。
不相応な姿から一転、見慣れた姿へ。
一瞬にして草臥れたサラリーマンとなった己は、急ぎ足のまま居間へ戻った。
まずは朝食を。
卵やパンの買い置きがあったはずだ。今日は適当にそれらを焼いて頂こう。
もはや料理とも言えぬこの杜撰。
己の不足に恥じ入りつつ、冷蔵庫を開け。
驚愕する。
「これ、は……」
中には、ラップをかけられた器があった。
一つではなく、二つ、三つと。大小様々な器が並べられていた。
それは伝統的な朝食。
焼き鮭に味噌汁。沢庵に白米。
多過ぎず、少な過ぎず。健康に気を遣った、彼女らしい。
優しい朝食。
知らず、腕が伸びる。
僅かに震えた指先が、器に触れたとき。
「なっ」
まるで魔法が解けたかのように包みが消え、茶碗から湯気が溢れた。
目を疑う光景。
しかし幻覚ではない。
指に伝わる確かな温かさが、現実を証明していた。
硬直は数瞬。
慌てて器をちゃぶ台に持っていく。
冷ましてはいけない。その一心だけで足を動かした。
やがて全ての器を移し終え。
食欲を刺激する香りを立たせながら、朝食は並んだ。
変わらぬ朝の風景。
そこに一つ、不自然な空きがあったが。
努めて気にせず、両手を合わせた。
「いただきます」
感謝をする。
姿なき親切に、心から。温もりの残滓に有難みを覚える。
ありがとうございます。申し訳ありません。
さながら、蜘蛛の糸に縋る罪人の如く。
命を頬張った。
「……美味しい」
誰に伝えるでもなく、口から言葉が漏れた。
習慣がそうさせたのかもしれない。
もう、聞く相手もいないというのに。
「……」
そうして、黙々と食事を続け。
食べ終えたのは、それなりに時間が経った後であった。
少しゆっくりし過ぎたか。駅に間に合えばいいのだが。
仕事用の鞄を確認し、必要な書類が揃っていることを確認する。食器を洗うのは帰ってからにしよう。
玄関へ向かった。
以前より小奇麗になった靴を履き、扉に手をかける。
ガチャリ。
空いた隙間から日差しが差し込む。
いい天気だ。
本当に、眩しい。良い日和だった。
「……」
立ち止まって振り返る。
明かりを消したため、薄暗い廊下が見えた。
かつての静寂。日常の帰還。
歓迎すべき孤独である。己が求めた終幕である。
何も言う必要はない。
だが、口は動いた。
「行ってきます」
バタン。
返答を期待しない、独りよがりの報告。
愚かだと理解してなお行う己は、紛うことなき狂人だった。
……まあ、いいだろう。
どうせ残り少ない人生だ。変な拘りなど、捨てて構わない。
ああ、そうだ。
捨てると言えば、帰ったら身辺整理をしないと。
大変申し訳ないが、辞表も書かねば。
後は色々な手続きを踏んで、貯金をあの人達に渡して。
今まで結んだ契約も解約して……。
おや、意外に忙しいか。
とはいえ、やることが決まっているのは有難くもある。
それを目指して生きればいいだけなのだから。
全てが終わるまで、恐らく数週間程度。
せめて、誰の迷惑にもならないように。
これ以上、彼女の思いを汚さないように。
精一杯、生きれたら、いいな。
そう思って、いたのだが。
「お、おおお前。も、もう来なくて、ぃいいいからっ!」
「……は?」
「く、くクビだっつってんだよ! わ、分かれよ! お願いだからさぁっ」
「――」
出社早々。
汗だくになった課長が、顔面蒼白で駆け付け。
開口一番。
己は解雇の命を受けた。
思考が白に染まり、言葉を解する機能が著しく低下する。
理解ができなかった。
何故、いきなりそのようなことを。己はまた、不始末を起こしてしまったのか。
しかしどうにも、様子がおかしい。
異常な発汗が見て取れる。一体、何をそんなに慌てて。
否、怯えて。
「た、た、頼むよ! もう来ないでくれ! しし知らなかったんだ、お前が。あ、貴方が、あんな!」
「落ち着いてください。一度話を……」
腕を伸ばし、一歩、彼との距離を詰めて。
絶叫。
「あ、ああああああああ!? や、やめろぉ! 来るな、来るな来るなぁ! 化け物がぁ!」
「……っ」
逃げるように後退り、よろけ、尻もちを付く。
両足をバタつかせ叫ぶ。涙すら浮かべて、必死に。
終いには頭を抱え、蹲るようにして懇願する。
来ないでくれ、近づかないでくれ、と。
明らかな異様。
もはや己だけでは解決できぬ。一先ず、誰かに彼の介抱を頼まねば。
助けを求め、周りを見渡し。
ぞわり。
「だれ、か……、ぁ」
見られていた。
座っている者。立っている者。コーヒーを飲んでいる者。仕事をしている者。
オフィスにいる全員が、笑って。
目を細めながら、己を見ていた。
吊り上がった細目。
それはちょうど、狐に似ていて……。
「っ、申し訳ありません。誠に勝手ながら、本日限りで仕事を辞めさせてもらいます」
「ぁあ、あああああ……来る、狐の化け物が来るぅ……やだぁあああぁっ」
「……今までありがとうございました。それでは」
踵を返し、足早に会社から出る。
すれ違った会社員はやはり何も言わず、己に笑いかけていた。
にこにこ、によによ。
吊り上がった目と、色のない微笑み。
「はぁ、はぁっ」
訳も分からず、帰り道を駆ける。
焦燥感が胸を巣食っていた。
何かを決定的に間違えた、そんな気がしてならなかった。
呼吸が苦しい。
走る。走る。走る。
「はぁっ、はぁっ……」
横切る通行者が己を見ていた。
にこにこ、によによ。
誰も彼も機械的に笑っていた。
狐の目で笑っていた。
輝く太陽が己を見ていた。
さんさん、こんこん。
眩しく笑っていた。
可憐な花が己を見ていた。
ふわふわ、しゃんしゃん。
妖しげに笑っていた。
何だ、これは。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
何が、起こっている。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ!」
一心不乱に走り続け。
気付けば見慣れた道へ来ていた。電柱の街灯が寂しげに点在している。
右へ、左へ。
記憶を頼りに足を動かす。
もう少しだ。もう少しで、家に……!
走って。走って。
そして。
「はぁっ、はぁっ……は、ぁ?」
着かない。
おかしい、どうして、なんで。
走っても走っても、家が見つからない。
まさか道を間違えたか。いや、この通りで合っているはず。
見覚えがあるのだ。
己はいつも、ここの道を通って帰宅している。
ならば、どうして。
何か。
何かないか。
他に、帰る手立ては。
「……! そうだ、電柱。電柱には、確か血痕が……」
思い出した。
あの日、あの夜。己が住むマンションを確かめた方法があった。
目線より僅かに上。やや黒ずんだ、汚い赤を目印に。
再び走り出す。
二本、三本。電柱を見ながら、道を曲がって。
愕然。
「は?」
電柱が立っている。
一本道に、夥しい量の電柱が。
否、本数が密集しているのではない。一本道が異常に長いのだ。
先に終わりが見えないほど。遠く、長く、道が続いている。
遅まきに脳が警鐘を鳴らす。
急ぎ引き返した。
だが遅い。既に曲がり角は消えていた。
前方と同じ、終わりなき直線が見える。
等間隔に並ぶ電柱が己を見ている。
思わず、譫言が口から漏れた。
「ぅ、あ……」
ふらふらと、電柱に背をつく。
それは倒れぬための、有効な防衛反応だったが。
次にとった行動が悪かった。
背中を支えるコンクリートの感触。その確かな感触に、縋りついて。
己は見た。
見てしまった。
「……何、故」
血痕。
目線のやや上にある、赤く黒ずんだそれ。
記憶と寸分違わぬ、こびり付いたそれ。
そんな、ありえない。
現実から逃れるように、走り出す。
もはや前か後ろかも分からず。
ただ、走った。
「……はっ、はっ」
あれも、これも、それも。
全て同じだ。
同じ電柱、同じ血痕。
立ち並んで、等しく笑う。
景色は動かない。代わりに変わるのは空。
日が昇るよりも早く走って。
世界が、茜色に染まった。
「はっ、はっ、はっ」
いつしか足は緩やかに。どろどろ走りを止めて。
膝を折る。酷く、呼吸が乱れていた。
疲れからではない。
怖いのだ。
常識外の現象が。
四方からの視線が。
どうしても、家に帰れないことが。
恐ろし――。
「違、う」
違う。
そんなことはどうでもいい。己など、どうなってもいい。
分かっている。
何が、起こったのかは問題ではない。
誰が、起こしたのかが問題なのだ。
「ぁ、あぁ……」
己は知っている。
世界を支配し、這い蹲らせるその所業。
こんな事が出来る御方は、知る限り、彼女しかいなかった。
「そんな、はずが」
すぐさま理性が否定する。
馬鹿な、お前の勘違いだと。
だって、己は昨日、彼女と話して。
お別れを済ましたのだ。
彼女は泣いて、こんな己を、惜しんでくれて。
だから贈り物をした。
嬉しかったから。
苦しかったから。
己はあの夜、別れを口にして。
それで。
それで。
彼女は、さよならを言わなかった。
「……ぁ」
カラン、カラン。
軽やかな音がする。どこか、懐かしい音だった。
己が元宮の姓を受けて、少しの頃。
気遣われ、あの人達に連れられた小さな祭り。
カラン、コロンと。
下駄の音を大きく響かせて。義妹が楽しげに笑っていた。
そうだ。そうだった。
あの日もこんな、夕暮れで。
「……」
目を閉じ、開く。
茜色の道路。
体が鉛のように重い。
唇を噛み締めた。
鈍い痛み。
現実への回帰。
……。
名前を呼んだ。
「天音、さん」
「そうだよ、孝仁」
鈴の鳴るような声色。
柔らかな、想いを乗せて。
「貴方の、天音だよ」
ぎゅっ。
背後から、手を首に回される。
顔の距離が縮まる。
「んふふ」
彼女の吐息が耳にかかる。
触れるほどに近く、桃色を寄せて。
ぱくり。
「つーかまーえたぁ」