背にかかる温もり。
柔らかな唇の感触。
絡みつく、彼女の肢体。
「……正直な?」
耳元で声がする。
先ほどよりも、少し落ち着いた。
されど底知れぬ深さを秘めた声音。
或いは、隠そうとして漏れ出た、深淵。
「遅かれ早かれ、こうしようとは思っていたのじゃ」
彼女が何かを言っている。
いつもの調子で、朗らかに。
しっとりとした吐息が背筋を擽る。
内容は理解できなかった。
したく、なかった。
「とは言え、本来ならばもう少し時間をかけて、じぃっくりお前さんを愛でたかったのじゃが……」
くるり。
首を回した状態のまま、器用に彼女は体を反転させ。
にこり。
「あのようなことを、されてはのぅ……?」
あの日と同じ。美しい花が咲いていた。
目を細め、どこか蠱惑的な魅力を感じさせる、深い笑みで。
僅かに紅潮した頬。
珠の如く滑らかな肌。
藍色の瞳が覗いている。どろどろと、奥底で何かが渦巻いている。
ただ一人、己を見つめて……。
「……っ」
歯を食いしばる。
己は、何を、他人事のように。
逃げるな。
全てお前のせいだ。彼女がこうなったのは、お前が狼藉を働いたからだ。悪を行ったからだ。
卑怯者め。
責任から逃げるな。思考を放棄するな。安寧を許すな。
考えろ。
彼女を正気に戻す方法を。今、すぐに。
「申し、訳、ありません。自分は一体……貴女に、何を」
「……ふにゅ?」
固まっていた体が、漸く意思を取り戻す。
そのままに口を開いた。
我ながら情けない、酷い声だった。
「……一体、どんな不敬を、致してしまったのでしょうか……」
「……」
目標は説得。
彼女の目的が殺害ならば特に問題はなかった。いや、勿論己なんぞを殺し、その御手を汚すことを推奨するわけではないが。
己が彼女の機嫌を損ね、今の状況になったのであれば、話は単純だった。
しかし現状として、己はまだ生きている。
それが分からない。
何をしたいのか。
己が何をしてしまったのか。
聞かねばならない。聞いて、謝罪しなければならない。
説得をするのは、それからだ。
「お聞かせください。貴女はどうして、このような――」
「くふっ」
瞬間、溢れる。
はち切れた風船のように。
水素と酸素が化学反応を起こしたように。
熱された金属が水に触れたように。
笑う。
「くふ、くふふふっ。くはははっ。あはははぁ……!」
「天音……さん?」
笑う。笑う。笑う。
彼女が笑う。顔は笑っている。
ただ、その碧眼だけが笑っていない。笑わずに、己を見つめている。
瞳の中に蠢く何か。
己にはその色が分からない。
怒りでもなく、楽しさでもない。愉悦でもなく、憎しみでもない。
侮蔑、優越、失望、無関心、嫌悪、好奇。
知らない。
それ以外の色を、受けたことがない。
己は底辺だった。
誰もが見下した。嘲った。嫌った。
「くくくく。まさか、この期に及んでそんな質問が来るとはのぅ……流石というか、らしいというか」
だから、分からないのだ。
彼女が今向けるこの感情を。その名前を。
「……どうして、と問うたな? にゅふふ、答えなど決まっておるわ」
何なんだ。
どうして貴女は、そのような目で己を見つめる。
これでは、まるで。
貴女が。
「儂が」
ぴとり。
優し気に、柔らかく。
両の手が己の頬を包み込む。
目が合った。
彼女は、ふわりと微笑んで。
「孝仁を愛しておるからじゃ」
「……は?」
あい、して?
なん、いや、そんな、うそだ。
嘘だ。嘘だ。
彼女が、己なんぞを。
愛すなどと。
世迷言だ。勘違いだ。ありえるはずがない。
あってはならない。
だって、貴女は。
「好きじゃよ、孝仁」
「ぅ、ぁ……っ」
違う。
違う違う違う。
違う!
「それ、は、間違いだ。勘違いだ! 貴女が私を、好くなど……!」
「……くふふ。間違い、か」
かつての邂逅。己の前に、四つの人影が現れたあの夜。
己は彼女が向ける、特別な感情を理解した。
彼女が抱く、好意を自覚した。
だがそれは、決して愛ではない。
所謂、優しい人間が虫の亡骸に向ける、僅かな同情。
体を無残に食い破られる死骸を見て、憐れみを抱くように。
刹那の思い遣りを向ける。
とどのつまり、彼女の執着とは。感情とは。
そういった、一瞬の気紛れでしかないはずなのだ。
「……っ、そうです。どうか目をお覚まし下さい。貴女という御方が、こんな男に騙されてはいけない」
「……ふむ」
好意はあるのだろう。
本当に、彼女は、どこまでも優しい方だから。こんな男にも、最低限の友好を認めてくれた。
相応しくないと感じた。
己では、彼女の友人にはなれぬと確信した。
道に吐き捨てられ、踏み躙られたガムを、友達と思う者はいない。
これはそういうことだ。
だから別れるべきだった。
これ以上、貴女の清らかさを汚さないために。
必要な離別であった。
まだ間に合う。
今からでもいい。彼女を己から引き離さねば。
妖狐の皆様とも約束したのだ。
口を動かせ。
彼女を説得しろ。それがお前に与えられた、最後の仕事だ。
「……目の前にいる人間は、ただの卑怯者です。憐れみを誘うように滑稽を晒す、一匹の害悪です」
目は合わせられず。
俯きながら、ぼそぼそと口を開く。
全て本音だった。
すらすらと言葉が吐かれる。胸の内が零れていく。
いっそ、不自然なほどに。
「貴方が今抱いている感情は、愛などではない。決して、ない」
失敬を通り越した、最低。
しかし止まらない。止まることが許されない。
堰を切ったように溢れ出す。
己の、想いが。
「勘違いをしているのです。きっと、大きな勘違いを」
「違う。させてしまった。自分が汚い手を使って、歪めてしまった」
「だから、こんな私を好きだと宣うのです。欠片ほどの価値もない私を、愛していると」
「ありえない」
「だって、そうでしょう。私が何をした。貴女に一体、何をしてあげれた」
「あの日貴女と出会ってから、何を」
唇を噛む。
噛んで、噛み締める。鈍い痛みと、鉄の味。
全てが醜かった。
汚かった。
「……何も、ない」
「……ふ、はは。そうだ、俺は何もやってない。貰うばかりで、返すことすらできない愚か者だ」
「あまつさえ、約束を忘れ、厚顔無恥に暮らしていた」
「許されるものか」
「否、許してなるものか」
「だから、だから……っ」
一際、強く唇を噛み。
顔を顰め。
ぶちりと肉が裂ける音を聞きながら、絞り出した。
「俺という存在を、どうか、愛さないでください……」
罪人の告白。
笑える話だ。散々、彼女の想いを否定しておきながら。
結局は自分のことばかりで。
どうしようもない。
本当に、どうしようも……。
「それは、何故じゃ?」
「……な、ぜ?」
聞こえた内容の不明さに、思わず顔を上げる。
彼女は変わらず、微笑みのままで、己を見ていた。
反対、己は混乱して。
「だ、から、それは。俺が、罪人で」
「罪人とは何じゃ。……孝仁のことか? ならば一体」
聖母のような笑みのまま。
ずいっと、顔を寄せ。視界に藍が広がり。
「お前さんは、何をしたんじゃ?」
「ぁ」
ピキリ。
覗き込まれる。
胸にある、根幹を。引きずり出される。
飲み込まれる。
貪られる。
「教えてみよ、この儂に」
景色が崩れる。
電柱は壊れ、家は融解する。
空が堕ち、地面が沈んだ。
「お前さんの口から聞きたいのじゃ。見るのはもう、十分じゃからな」
「ぁ、ああ……!」
手を伸ばす。
届かぬと知ってなお、求めるものがあった。
回帰する。星が瞬く。
流転する。花が綻ぶ。
伸ばした手が縮んでいく。
「さぁ、孝仁」
「――」
……俺、は。
二十四のとき自殺を図った。
涙が出るほど美しい川に、重りを背負って入水した。水の匂いと、重い冷たさ。
二十二のとき母を殺した。
綺麗な桜が咲いている、暖かい春の日のことだった。倒れた体と、流れる血。
十八歳のとき一人暮らしを始めた。
元宮夫妻に、これ以上迷惑をかけたくなかった。未熟だった。愚かだった。
十二才のとき母にすてられた。
しまる扉。とてもしずかな夜。
九さいのとき父と母がりこんした。
どうして二人は、あんなに怒っているのだろう。
……。
……。
俺は、望まれぬ子だった。