元宮夫妻は、端的に言って変わった人達だった。
片や扉が開かないからと蹴破り、片や国の救急活動に叱責するくらいは、変であった。
こんな価値のない己を、大事そうに抱えるくらいには。
おかしな人達だった。
「大丈夫だ。もう、大丈夫だからね」
朧げな意識のまま、しきりにそう言われて。
強く手を握られて。
あれよあれよという間に、俺は救急車へ運び込まれた。
その時のことはよく覚えていない。
ただ、どこか騒がしかったような気がする。耳元で大きな声がして、けれど全然煩くはなくて。
とても温かい気持ちになったことだけを、覚えている。
意識があったのはそれまでだ。
急激に視界が暗くなり、俺の世界は一度、そこで閉じた。
途切れる瞬間。
このまま消えることができれば、どんなに幸せだろうと。
そう思った。
次に目を覚ましたのは、真っ白の壁が夕焼けに照らされた頃だった。
日付の感覚は酷く曖昧で。後に聞いた話では、丸一日以上寝ていたらしい。
原因は、栄養失調と睡眠不足、加えストレス過多と水分不足。
二つほど心当たりはなかったが、そういうことらしかった。
「……」
未だ体は動かないため、眼球だけを彷徨わせる。
白、白、白。
呆れるほどに白である。他にあるのはこれまた白いベッドと、何やら腕まで伸びた透明の管。中を通る液体。
数秒も要せずに、ここが病院だと理解した。
俺は彼らに運ばれ、連れてこられたのだ。
疑問が浮かぶ。
それはある意味、当然の疑問だった。
彼らは一体誰なのだろう。
どうして、俺なんぞを助けたのだろう。
何の必要があって。何のメリットがあって。
彼らは、俺を。
ガラリ。
「……ん? お、おおおおっ、孝仁君! 目が覚めたかい! よかった、本当に……!」
「ぁ、ぅ」
「ああいや、起きなくていいよ! 辛いだろう? ちょっと待っててくれ、今おじさんが美味しい林檎を……」
「ぇ、ぁ」
困惑。
このときの感情を表すなら、それに尽きる。
いきなり扉を開けて現れたかと思えば、笑顔で喜ばれ、矢継ぎ早に何かを言われる。
さらに彼はごそごそと籠から果物を取り出し、皮を剥き始めた。
出会って五秒も経たぬ内に行われたこの行動。
必然、勢いに取り残された俺は硬直していた。
どうしたものかと、思考を回し。
ゴン!
「ごはぁっ!?」
「……!?」
突如として飛来した鞄が、彼の横顔を殴りつけた。
手に持った果物とナイフを落とさぬものの。すごい速度で首が曲がっていた。
本当に大丈夫だろうか?
そう思ったのも束の間、開いた入り口から底冷えのする声が聞こえた。
「アナタ……?」
「ひゃ、ひゃいっ」
「私、言ったわよね? アナタは声が大きいから、孝仁君が起きたら、静かに優しくしてって」
「あ、で、でも。ほらこれ、林檎を」
「は?」
「何でもありません」
しくしくと泣いて、彼は部屋の隅で皮を剥き続けた。
俺よりも二回り以上大きな体が、今だけは酷く小さく見えた。
鬼のような形相をした女性はその様を見て、ふん、と鼻を鳴らし。
表情を一変。
柔らかな笑顔で俺に話しかけた。
「ごめんなさいね。あの人、煩かったでしょう? でもどうか、怖がらないであげて」
「……」
目元が優し気に緩まる。
俺は何となく、この人が悪い人ではないと確信した。
その眩しさに少し、目を細め。
「あれは、ああいう病気なの」
「……」
すん、ってなった。
よい笑顔で吐かれた言葉に、何と返したものか。何と擁護したものか。
それは今になっても、思いつかなかった。
「流石に酷すぎないかなぁ。……ほら、剥けたよ」
「あら、これ以上なく正確な表現だと思うけど。……ありがと。ん、しょ」
皿に盛られた、兎を模した林檎が見える。
その一つに爪楊枝を刺し、彼女は聞いた。
「大丈夫? どこか、具合の悪いとこはない? 林檎、食べられそう?」
「……ぁ、ぃ」
彼女の問いに肯定する。
本当は、別にお腹が空いたわけじゃなかった。ただ、あまりに心配そうに見つめるものだから。
安心させたくて、嘘を吐いた。
胸がじくりと痛む。
誤魔化すように、小さく口を開けて。
「よかった。じゃあ、はい。あー……」
「待って。その前に水を飲ませたほうがいい。きっと喉が渇いているし、何よりいきなりは胃によくないからね」
「……!」
色々な意味で衝撃が走る。
どうして喉が渇いていると分かったのか、という驚きと。貴方がそれを言うとは、という驚きが。
案の定、女性はもの凄い微妙な顔つきで彼を見ていた。
「……なら、アナタが飲ませてあげて。私、両手塞がってるし」
「うん、任された。……え、何か怒ってる?」
「怒ってない」
「あ、はい」
またもや小さくなった彼は、いそいそと水を取り出し、キャップを緩める。
飲み口をゆっくり此方に向け、傾けた。
僅かに空いた口の隙間から、新鮮な水が入ってくる。
染み渡るようだった。
こんなに水が美味しいと思ったのは、初めてだった。
「大丈夫かいー? ゆっくりでいいからねー」
「ん、ん……」
喉を動かし、必死に水を求める。
一度体に入ったことでスイッチが入ったのか、飲んでも飲んでも満たされない。
制御しきれない本能に、危険を感じ。
「おっと、一旦休憩かな。大丈夫、焦らなくていいよ。大丈夫だからね」
「ぁ、あ」
「大丈夫、大丈夫」
優しく頭を撫でられる。
叩かれることもなく、罵倒されることもなく。
大丈夫と言われる。
まだ、会って数日のこの人に。
笑いかけられる。
「林檎はどう? まだ難しいかしら。欲しくなったら、いつでも言ってね」
「ぅ、ぁ」
俺は無性に泣きたくなった。
喜びと虚しさ。
混在する感情が胸の中で暴れていた。
大声で叫びたくもあったし。声を押し殺して噛み締めたくもあった。
全く、気持ちの悪い衝動である。
そうして、数分。
水分と固形物を摂取したことで、幾ばくかの余裕が生まれ。
それを見計らってか、彼が口を開いた。
「……ん、落ち着いたかな。ごめんよ、どうやら俺も焦っていたようだ。本当に、ごめん」
「ぃ、いぇ」
緩慢に首を振る。
まだ本調子とは言えないが、これぐらいは出来た。
「……違うな。すまない、そうじゃないんだ」
「……?」
「孝仁君」
彼は俺の目を見て。
唐突に、膝をついた。
「君と、
「……ぇ、ぁっ?」
「本当に、すまなかった」
頭を付ける。
病室の床。汚いわけではないが、人が踏むそれ。
そこに頭を付けている。
土下座。
彼は人間の尊厳を、投げ出していた。
「ぁ、う」
「許してくれとは言わない。これは、俺の自己満足だから」
「ち、がぅ」
何故、貴方が謝る。
俺には理解できなかった。
だって、こうなったのは俺が。
「おえ、が。だめな、子、だかぁ」
「……」
「お、おぇが、もっ、と。いい子、だった、ぁ」
「……そうか」
俺のせいだ。
全部、全部。俺の不出来が両親を不幸にしてしまった。
申し訳ない。
ごめんなさい。
目から熱い何かが溢れる。
止めどなく、零れる。
「ぅ、うぅ、ぁ……っ」
「……あの屑に責任を取らせたのが間違いだった。君に、辛い思いをさせてしまった」
ぎゅっ。
体を上げ、彼の手が俺の手に重なる。
優しく、確りと握られる。
そこには二度と離さぬという、強い意志を感じた。
「孝仁君。どうか、俺の願いを聞いてくれないか」
「……?」
「君の今後についての話だ」
「ぁ……」
そうか。
俺には、これからがあるのか。
生きねばならない。
だが、どうやって。
俺はどうやって生きればいいのだろう。
もう生きる理由も、価値も、ないくせに。
「君には選択肢がある。一つは施設に入り、そこで生活すること。そうすれば里親が見つかるか、独り立ちするまでは、安全に暮らせる」
「……」
「でも俺は、我儘を。この願いを、聞いてほしいと思う」
「ぇが、ぃ?」
「そうだ。身勝手で、傲慢な願いさ」
言葉のわりに、彼の表情は緩やかであった。
握られた手が温かい。
包み込むような笑顔で、彼は言った。
「俺は君を、養子として迎え入れたいと思っている」
「……へ?」
「ああ、養子って分かるかな。簡単に言えば、同じ家族になるってことなんだけど」
「で、も……」
言葉の意味は分かる。その意味も、未来も。
だが、それは、いいのか。
こんな俺が彼らの一員になるなど、許されるものなのだろうか。
彼らは善良で、高潔で、緩やかだ。
春の温かい匂いがする。
壊してはならない。
断るべきだ。
だが。
「約束する。君が今まで耐えてきた辛さを、丸ごと忘れるくらい、幸せにすると」
「ぁ、う」
「……もういいんだ、自分を責めなくても。君は悪くない。君は悪い子なんかじゃない」
「だから君は、幸せになっていいんだ」
「ぁ、あ……!」
幸せだった。
自分が不幸だと思ったことは、一度もない。
辛くなどなかった。
あれが俺の日常で。嫌なことなんて、全くなかった。
でも。
一回だけでよかったんだ。
たった一回だけで。
俺は、俺は。
「今までよく、頑張ったね」
「あああぁ……っ」
生まれたことを、肯定されたかった。
いらない扱いじゃなくて。
申し訳なさそうじゃなくて。
ただ、笑って。
抱きしめてほしかった。
「大丈夫だ。これからはもう、全部大丈夫だ」
「ぅぅ、ぁああ、あああああっ」
体を包む温かさに。
しきりに言われる、大丈夫という言葉に。
俺は救われた。
目から流れる液体を拭うことなく。
意識が途切れるまで、何かを吐き出し続けた。
十二歳の春。
俺はこの日、伊藤ではなくなり。
元宮になった。
思えばこれが、最初の過ちだった。
身分不相応の幸せを願って。
温かさに目が眩んで、その手を掴んだ。
愚かな話だ。
本当に、どうしようもない。
俺はどこまで行っても、罪人だった。