「さあ、今日からここが君のお家だよ」
「……大きい、ですね」
病院での出来事から二週間。
幸いにも体調は回復へと向かい。一週間ほどで、俺は平常と変わらぬ状態まで治っていた。
残りの一週間は親族の手続きやら何やらを行い。
ちょうど今、それを終えたところであった。
目の前には立派な家が建っている。
外装がしっかりとした、清潔感のある家だ。
「あはは! そんな緊張しなくてもいいさ。何の変哲もない、ただの家なんだから」
「いや、その……はい」
顔を伏せる。
正直に言って、ここで生活する未来が想像できなかった。
俺が知っているのは、あの狭い部屋だけで。まして、彼らと暮らすというのだ。
不安である。
本当に俺は、ここに来てよかったのだろうか。
「……うん。じゃあほら、入った入った! 孝仁君、いや、孝仁のためにもご馳走を用意したんだ」
「ご馳走、ですか? そんな、俺なんかに。……すみませ」
「おおっとぉ! 謝るのはなしだぞ。もう親子なんだ。こういうときは、な?」
バチコーンッ、と音がしそうなウィンクをする。
透かし考え。その意図を察し、呟いた。
「……ありがとうございます」
「イエス!!」
親指を立て、彼はにっかりと笑う。
それがあまりにも嬉しそうだったから。思わず、俺も顔を綻ばせた。
ガチャリ。
「ちょっと、男二人でいつまで家の前にいるの? もうご飯出来たんだから、早く入りなさい」
「む、すまん!
「さ、家に入ろう」
背中を軽く押され、前に出る。
玄関の入り口には日葵さんの姿があり、俺を優しく見つめていた。
二秒、三秒。
遅まきに足が動き出す。
入口が近づく。胸の奥がざわざわとして、落ち着かない。
彼女の横を通り、玄関の中に入った。
そして、傷んだ靴を脱ぎ……。
「……んぅ?」
「……へ?」
女の子がいた。
俺よりもずっと小さい、五歳くらいの女の子が。
不思議そうに見つめられる。
首を傾げ、こてん、こてん。
その子は日葵さんの方を向いて口を開いた。
「おかぁさん。この子、誰ぇ?」
「んもう、前から何度も言ってるでしょ? この子は孝仁君。
「おにぃ、ちゃん?」
もう一度顔を見られる。
最初は目をパチパチとして。
やがて意味が分かったのか、にんまりと目を細め。
「わあああ……! おにぃちゃん、おにぃちゃん!」
「え、ちょっ」
勢いよく抱き着かれる。
姿勢が崩れ、倒れかけたところで。
ぱし。
「おっと危ない。……こら、紬。嬉しいからって、いきなり抱き着いちゃだめだぞー?」
背を支える、彼に。
いや、
多少の、抗議の意を込めて。
「……」
「……ん? あははは! すまんすまん。そういや言ってなかったな」
どこか悪戯が成功したような、ワザとらしい笑い声。
片手を離し、彼女の頭に手をのせる。
ゆっくりと撫でられ、彼女は気持ちよさそうに顔を緩めた。
「この子は紬。俺と日葵の可愛い娘だ」
「むすめだー! かわいいー! うおー!」
「……まあ、見ての通り。どう考えても日葵似だ」
「……」
いや、まあ、確かに顔つきは似ているが。
このお転婆な性格は貴方似なのでは。
疑惑は口から出ないものの、確信が胸で燻り続けた。
「そんなわけないでしょ。……ほら、ご飯冷めちゃうから、入った入った」
「はいったはいったー!」
元気よく彼女が声を上げる。
距離が近いので、耳がキーンとした。
というか、一体いつまでくっついているのか。彼女もこんな俺と抱き着いて、本当は嫌なはずだ。
今はテンションが上がって、正常な判断ができていない。
加え彼女はまだ幼かった。
両手で肩を掴み、優しく引き離そうとし。
「これからよろしくね! おにぃちゃん!」
「――」
笑う。
明るく、どんな光よりも眩く笑う。
汚い影すら覆い尽くし。
離すこともできず。
俺はただ、愚昧に頷いた。
「よろしく、お願いします……」
「うん!」
それからというもの、俺の人生は全く騒がしいものとなった。
騒がしく、愉快な。
快い音がする、そんな毎日を送った。
引っ越しをしたため、中学では知らぬ同級生しかおらず。
入学早々、学校生活の終了を予期したが。
存外そのようなことはなく、驚くほど和やかに日々は過ぎた。
友人関係も僅かに生まれ。
俺は初めて、放課後に友達と遊ぶという偉業を成し遂げた。
心の底から、楽しいと思えた。
養父となった敦司さんとは何度も釣りに行き。
それに嫉妬した紬ちゃんを、釣った魚で宥めるのが元宮家の恒例となった。
きっと敦司さんが取られると思ったのだろう。彼女は決まって俺の腕を抱きしめ、動きを拘束した。
彼女もまだまだ親離れができないようで。
少し、温かい気持ちになった。
養母の日葵さんからは、よく敦司さんの愚痴を聞かされた。
と言っても険悪なものではなく。どちらかというと、惚気のような。
自分達を大切にしすぎるとか、お人好しすぎて心配とか、そんな話。
料理を手伝ったときもそうだ。
彼はこの触感が苦手だから細かくして。紬は辛いのが嫌だから、甘口にして。
家族を想う、彼女の優し気な声色に。
また少し、温かい気持ちになった。
元宮家での生活は、まるで春に感じるそよ風のように柔らかく。
笑顔に満ちたものだった。
辛い時も、幸せな時も一緒になって。
未来を歩んだ。
気付けば高校生活の終盤。
俺は人生の大きな選択を迫られていた。
即ち、大学へ進学するか、就職するかの選択を。
俺の意思は決まっていたが、相談しないわけにもいかない。一人で勝手に決めるなど、そんな不孝は許せなかった。
そこで二人に相談したのだが。
これが中々に、意見が分かれた。
敦司さんと日葵さんは、俺に大学へ行ってほしいようだった。
「勿論、孝仁が本当に働きたいなら止めないよ。でも俺には、どうにも焦っているように見える」
「孝仁君。私達に迷惑をかけるとか、思っちゃだめよ? もう一度よく考えてみて。私達は、家族なんだから」
より多くの選択肢を。
もっと沢山の経験を。
今までよりも、ずっと楽しい生活を。
二人は願っていた。
しかし、そんな二人だからこそ、俺は。
俺は。
「私は、兄さんの好きにすればいいと思いますよ」
「働くも、進学するも、決めるのは兄さんです」
「迷うことはありません。望むように、お進みください」
手を重ねられる。
俯いて悩んでいた俺の、頭を撫でる。
情けない話だ。
小学生の義妹に慰められるなんて。兄失格どころか、人間失格である。
これではよっぽど彼女の方が大人だ。
情けない。情けない。
「……それに。どちらにせよ、兄さんは行ってしまいますから」
呟くように言われた言葉。
その真意は測りかねたが、彼女のおかげで決心はついた。
家を出よう。
そして、自立しなければならない。
少しでも恩返しをするために。
少しでも負担を減らすために。
俺という異分子は、消えるべきだ。
楽しかった。幸せだった。
だがそれは、俺がいたからではない。寧ろ、俺が彼らの生活を曇らせていた。
俺がいなくても。否、いないほうが彼らはもっと幸せになれたはずだ。
足を引っ張り、不必要な負債を強いた、役立たず。
それが俺だった。
「……」
……違う。
そうじゃないだろう。
お前は、本当は。もっと何か、理由があったろう。
彼らを言い訳にもせず。自分の過去を言い訳にもせず。
もっと大切な、何かが。
……。
……ああ、そうか。
俺は、彼らに。
敦司さんに、日葵さんに、紬さんに。
恩返しがしたいのだ。
今までもらった分、全部なんて言えないが。
少しでも返したい。彼らにもらった幸福を、ほんの少しでも大きくして返したい。
それだけだったんだ。
大層な理由も、過去もいらなかった。
俺はずっと前から。
あのとき、開かない扉を蹴破られてから、ずっと。
彼らに、ありがとうが言いたかったのだ。
結果的に言うと、俺は就職に成功した。
元々成績は悪くなかったことに加え、念入りな面接の練習が実を結んだらしい。
家からそう遠くはない、地方の会社だった。
酷く、ありがたい。
その日は全員でお祝いをした。
テーブルを埋めるご馳走と、クラッカーの音。
食べる前、俺は、俺自身の想い、そして、今までの感謝を伝えた。
たどたどしく、とても面接では受からない言葉だったが。
二人は涙ぐみながら、俺の身勝手を許してくれた。
和やかな祝会は夜遅くまで続き。
俺はこの日、大人になった。
次の朝。
眠たげな頭を振るい。
さて、残るは一人暮らしの準備を……と思ったところで。
どこから情報を得てきたのか、紬さんがここにした方がよい、との助言をもらった。
実際、家賃も会社までの距離も理想的だったため。
二つ返事で、そこのアパートに泊まることにした。
しかし、紬さんがやけに笑顔だったような気がするが、あれは何だったのだろう。
俺がいなくなって清々したのか。自分の意見が通って嬉しいのか。
どうか、後者であってほしいと思う。
彼女は確かに、小学生とは思えぬほどに聡明だが。未だに一緒に寝ようとしたり、風呂に入ろうとしたりする、甘えんぼなところもあった。
だから、あの笑顔はそういう、無邪気なもので。
そうであって、ほしかった。
「……」
振り返る。
後ろには、輝かしい過去がある。
温かく、いつまでも浸っていたいと感じる、幸せな過去が。
前を向いた。
あるのは先の見えない光と影。蠢き、変化し、一瞬だって安定はしない。
俺は恐れとともに、期待を抱いた。
この先どうなっていくのか、どうしていくのか。
決めるのは自分だ。
足は重く、そして軽い。
矛盾した心内のまま。
未来に向かって、俺は歩き出した。
それから四年が経ち。
分からないことだらけだった会社にも慣れ、ミスも減り。
会社員との関係も良好で。
このままいけば、今年中に昇進ができるとのことだった。
「……」
道には綺麗な桜が咲いている。
あの日と同じ、春の季節。
俺が終わった日。
俺が始まった日。
温かな、春の日。
……いや、終わってなどいなかったのだ。
今ならば分かる。
俺はきっと、いらないから捨てられたんじゃない。
紬さんが高校に上がると聞いたとき。
俺は喜びと同時に、大きな心配を抱いた。
彼女は聡明だから大丈夫だと、頭では理解していても。辛いことがあったり、悲しいことがあったりするのではないかと、毎日不安に思った。
血の繋がらぬ俺ですらそうなのだ。
その親である二人がどう思うかなど、考えるまでもない。
「……」
結局、母は不安だったのだろう。
僅かな収入源と、育っていく俺。小学校を出れば中学、そして高校へ。
その間、彼女は俺を養っていかねばならない。
どれだけ俺がアルバイトをしても、得られる収益などたかが知れている。
何より母は、自分に自信がなかった。
本当に俺を育てられるのか。
育てていけるのか。あと何日続ければいいのか。
ならば一体、いつまで。
「……ふぅ」
全ては予測。
俺が描いた、愚かな空言。
ただその中で、確かなことがある。
敦司さんに聞いた、あの夜のこと。
俺を置いて家を出た母は、すぐに電話をしたそうだ。
荒い息と、涙声の懺悔。
ほとんど叫ぶように吐かれたそれは、悲鳴であり、恐怖であり、後悔だった。
ごめんなさい。
許して。
許してください。
助けてください。
どうか、助けてあげてください。
かつての手紙を思い出す。
くしゃくしゃになった、最後の手紙。捨てられなかった、最後の思い出。
今年の冬、家に帰省した俺はもう一度それを読んだ。
走り書きだったため、大人になった今でも解読には時間を要したが。
あれは母の字だった。
書いてあるのは謝罪、謝罪、謝罪。
よく分からなかった番号は、兄である敦司さんの番号だったらしい。これで助けを呼べと、そういうことだったらしい。
張られた五万円はそのまま取って置いてある。
特に理由はない。
何となく、使うべきでないと判断した。それだけである。
本当に、それだけで……。
「……っと、いけない。このままじゃ遅刻するな」
腕時計を見て、再び歩き出す。
桜があまりに綺麗だったので、つい考え込んでしまった。早く出勤せねば。
景色が過ぎ行き、今が過去へと変わっていく。
爽やかな風が頬を撫でた。
勘違いを、していたんだ。
会社に入って四年。できることが増えて、生活するための給料が貰えて。
元宮さん達との関係も上手くいって。
敦司さんとお酒を飲んで、日葵さんに怒られて。横では紬さんが、にこにこ楽しそうに笑っていて。
もしかしたらって、思ったんだ。
会社の皆さんと笑い合って、協力し合って。感謝して、感謝されて。
進む先が明るく見えて。
温かく思えて。
こんな俺でも。こんな、どうしようもない俺でも。
他の誰かに、幸せを与えられるんじゃないかって。
希望を抱いたんだ。
ほんと、馬鹿だよな。
もう少し早く、気付くべきだった。
お前が何かを望むとき。
幸せを願うとき。
決まって、お前は。
「――え?」
動きを止めて、限界まで目を見開く。
桜を見すぎないように、何気なく前を歩く人々を見つめて。
その中で見つけた。
こちらに歩いてくる、二人の男女。
そんな。
なんで。
なんで、貴女が。
「母、さん?」
母は、知らない男と手を組んで歩いていた。