意気揚々と雑巾を取り出したはいいが。
正直、この広大な屋敷を全て掃除するのは不可能に近い。
何せ一週間が経った今でも、手についていない場所が何箇所かあるのだ。
無論長い月日をかければ出来なくもないが、その間に違う所が汚れてしまっては本末転倒。
今なお効率的な方法を考えてはいるものの、我が愚鈍なる頭脳に期待はできない。
結局いつも通り掃除するしかないのか……。
「……」
雑巾を床に滑らせ、拭いて、濡らして、絞る。
絞ったのならまた拭き始め、乾いたのならまた濡らす。
その作業を延々と機械的に続ける。
人によっては苦痛に感じるかもしれないが、己にはちょうどいい。
むしろ今までこなしてきた仕事に比べれば大分楽である。
己は特に何も言わず、雑巾を這わせた。
「ふぅ……こんなところか」
そうして黙々と掃除を続けていると、終わるころには昼前になっていた。
これでようやく一つの廊下を掃除し終えたのだ。先は果てしなく長い。
さて、昼食にはまだ少し時間があるので、和室の掃き掃除だけやってしまおう。
この家は和洋折衷を取り入れており、立派な畳が敷いてある部屋があるのだ。
雑巾とバケツを収納庫にしまい、箒を取り出して向かった。
比較的近かったため、ほどなくして到着する。
「……失礼します」
すっ。
断りを入れ、膝をつきながら静かに襖を開けた。
そうするべきお方がおられる可能性があったからだ。
かくして、予想は的中する。
「……ん、お前ですか。出口はそこです、疾くお帰りを」
「そういうわけにもいけません。清掃に参りましたゆえ」
「聞こえなかったのならもう一度言います。読書の邪魔なので、早く消えてください」
「それは大変失礼を。ですが、ここを終えねば午後の清掃が終わりません。決してお邪魔はしませんので、何卒、ご勘弁をいただきたく」
正座を崩さぬまま、深く頭を下げる。
「……ちっ、なら早くやりなさい。煩くしたのなら追い出しますが」
「ありがとうございます」
今一度、より深く頭を下げる。
やはり彼女は寛大であり、優しき心の持ち主である。
このような無礼を許していただけることには感謝しかない。
己は努めて静かに立ち上がり、清掃を始めた。
「……」
「……」
さら、さら。
ぺらり……ぺらり。
箒が畳の目に沿って規則的に動く音と、紙が擦れる音が混在している。
己はその空間を、不謹慎ながら心地よいと思ってしまった。管狐様はきっとお怒りだろうが。
ここはとても静謐で、厳かで、気が引き締まるのだ。
そんな状況が心地よいとは我ながら変だと感じるものの、胸に到来する安堵とも取れる心地に、ただ安らいでいた。
それが、顔に出ていたからだろうか。
静かなる演奏を、鈴の鳴るような声が破った。
「……お前は」
「……? はい、何でしょうか」
手を止めて彼女の方へ向く。
そして。
「お前はどうして、そんなにも愚かなのですか」
その細められた目を見て、己は自分の失態を悟った。
「……申し訳、ありません」
「……っ」
どうしようもなく羞恥が籠る。
分不相応の安らぎを感じた末路がこれだ。何度反省しても、この浅ましさだけは治らないらしい。今すぐにでも消えてしまいたい。
彼女も声を失い、呆れてしまっている。
そう、思ったのだが。
「ぅ、別に……んん、別に、謝る必要はありません。ただ私は、どうしてそんな愚かな真似をしているのかと問うているのです」
「……? それは、どういった」
「分からないのですか……?」
彼女は心底馬鹿にしたような顔つきで、薄く人差し指を畳に這わせた。
次いで、指の腹を見せてくる。
「ん」
「……ええと……とても愛らしいお指です……?」
「ば、馬鹿ですかお前は! 違います、そうではなく……! ほら!」
「え、ええと……」
ずいっ、と人差し指を向けてくる彼女に己はどう反応したものだろうか。
感想を求めているわけではないらしい。
ならば……。
「う、美しく思います」
「……はぁ、もういいです。つまらない世辞を述べるくらいなら、素直に分からないと言ってください」
「いえ、世辞を述べたわけでは……」
「……はぁ」
ため息をもう一つ、呆れたような、馬鹿にしたような顔で彼女は口を開く。
「この部屋を見て気付きませんか? それとも、お前はそこまで頭が残念だと?」
「……すみません。綺麗だとしか、自分には」
「何だ、分かっているじゃないですか。そう、この部屋は綺麗なんですよ。腹立たしいほどに」
「へ……?」
てっきり呵責されると思った己は、どこか肩透かしになってしまう。
この部屋が綺麗……それが、どうしたのだろうか?
「……これで髪の毛一本でも落ちていれば、お前を散々罵れたのでしょうが……残念ながら埃一つ、塵一つありませんでした」
「……」
それは、喜ぶべきことなのでは。
愚昧な思考のままに、そう口を開こうとして。
「いい加減気付かないふりはやめなさい」
「……!」
「本当は、毎日毎日無駄な掃除を繰り返すお前が、一番よく分かっているはずです」
「……それ、は……」
息が詰まる。喉の奥に綿を無理やり詰められたような圧迫感を感じた。
彼女は止まらない。
「まだ分かりませんか? なら分かりやすく言ってあげます。全部無駄なんですよ、お前のやっていることは。全部、全部」
「……っ」
無駄。
たった二文字の言葉が、恐ろしく胸に染みわたる。
それはきっと、この家に来てから……いや、もっとずっと前から感じてきた不安だ。
だから己は目を逸らそうとしていた。
やるべきことがあると、言い聞かせていた……。
「……はっきり言って、この家は異常です。この部屋はおろか、床や浴槽、庭まで一つの塵すら落ちていない。髪の毛一つすら、いつの間にか消えている。お前が掃除していない場所にも関わらず、です」
「しかしっ……しかし」
「はっ、信じられませんか? それとも本当に、全く心当たりがないとでも?」
「……」
心当たりは……ある。
あるに決まっている。拭く前から綺麗になっている廊下も、掃く前に消えている塵も。
人間が暮らすなら出て当たり前のそれが、ここにはなかった。
雑巾は相変わらず真っ白のまま収納庫に眠っている。
バケツに貯まった水は透明のまま用水路に流れていく。
分かっているのだ。
だが、だが……それでも。
「無駄です」
「……!」
「無駄なんですよ……何をしても、ここは穢されない。壊すことも直すこともできない。外に出ることすら、許されない。だからお前が今していることも、何の価値もないんですよ」
ため息交じりにそう呟く彼女は、どこか疲れた様子だった。
何かを諦めたような、寂しい表情。あるいはずっと前から、そんな気持ちを抱いていたのかもしれない。
まるで幾億の実験に失敗した科学者のごとく。
その表情には、深く積み重なった諦観があった。
声をかけるべきだと思う。
だが己は何も言えない。ただ立ち尽くすのみの、つまり彼女の言う通り、何の価値もない存在だった。
少し、沈黙が流れて。
「そうですね……試しに、えい」
「! 何を……っ?」
いきなり、管狐様が本の頁を破こうとした。否、破っている。
そこに込められた力は見た限り本物で、震える手も、嘘には見えずに。
しかし……それなら。
「……ちっ、これでも成人男性を片手で持ち上げるくらいの力はあるのですが。全く、忌々しい」
「これ、は」
無傷。
頁が破られる音も聞こえず、彼女の苛立ちを含む声だけが聞こえる。一体、何が起こっているのだろう。
訳も分からず困惑していると、突然本が飛んできた。
完全に意識外だったため、慌ててキャッチする。
「見てみなさい」
「……はい」
ぱらぱらと紙をめくる。
指に感じるのは何の異常もない、柔らかな紙の感触である。
少しすると、栞が挟んである頁に着いた。恐らくここが、先程彼女が破こうとした場所。
恐る恐る見つめると、やはりそこは無傷であった。
「……っ」
「疑うなら、お前もやってみなさい。まぁ、結果は見えてますが」
ごくりと唾を飲み込んで、指を慎重に這わせる。
皴一つない、滑らかな手触りだ。まるで新品のように色褪せもない。
或いは、彼女が嘘をついて……いや、それはないか。
騙す必要があるほど、己には価値がないのだ。まして彼女の性格からして考えにくい。
所詮一週間の付き合いで何を、とも思うが。
「……」
さりとて、異常は理解した。
どうやら彼女の言うことは本当で、己のやってきたことには何の意味もないらしい。
まあそれについては追々考えるとして、まずは彼女だ。
口ぶりから察するに、彼女は現状に不満を抱いているのは間違いない。外に出られないとも言っていたか。
己なんぞは何の役にも立たないが、もしかしたら力になれることがあるかもしれない。
そんなことを考え、本を返そうとし……。
「管狐様、もし自分に、……!?」
「ん? 何ですか?」
赤、紅、アカ、赫、赩、あか。
彼女の美しき指に、赤が流れている。
赤、赤、ああぁ……。
「それ、は……」
「……あぁ、さっきので切りましたか。ほんと、この紙はどうなっていやがるんですかね。仮にも妖狐の肌を裂くなんて」
「血……ち、血が……」
「結構深く……ん? お、おいお前、どうしたんですか。何をそんなに震えて」
「は、ぁ……はぁ、はぁっ」
ぽたり、彼女の指から赤が落ちる。
赤が、流れる。
思考が赤に染まった。
それは駄目だ。
あれは命が流れる。それだけは駄目だ。クラクションと、シャッター音が煩かった。
「お、おいお前」
赤は駄目なんだ。あれは人を冷たくしてしまう。二度と会えなくしてしまう。
赤が流れる。
それはとても、とてもとても恐ろしいことだ。
「聞いてますか! ちょっと、ねぇ!」
胸の中に焦燥感が濁っていく。
パトカーが警鐘を鳴らし、サイレンが脳を揺さぶった。
動かなくなった愛しきと、水たまりになった赤。
あれをもう一度、見るのか。
また、あれを。
……治さなくては。
「少しお待ちください、急いで帰ってきます」
「へ? なっ、ちょっと!」
湧き上がる衝動に突き動かされるまま。
彼女の静止も聞かず、己は部屋を飛び出した。