もう、二度と会うことはないと願っていた。
俺という汚らわしき存在を忘れて、清らかなる生を送ってほしいと。ただ切に願っていた。
……信じていた。
「んふ、くふふ、ふふふふふふ。あぁ、ようやく会えた。あぁ、永く、永く待ちわびたぞぅ、孝仁」
「……っ」
知らず、手に力が籠る。
彼女の笑みはまるで晴天に咲く花のようであり、上気した頬は無上の愛らしさを秘めていた。
天狐様が笑っている。幸せそうに笑っている。
赤く血濡れた尾を、ゆらゆらと揺らしながら。
「なぜ、だ」
「んにゅ?」
「な、なぜ……ぅ、あ、どうして……」
足にじっとりとした温もりが伝わる。靴下から染み込んだ液体は、赤い色をしていた。
見間違うはずもない。
これは、あぁ……なんてことだ。
「く、管狐様が……ち、血が……」
「……」
血が、血が流れている。先ほどとはまるで違う、血溜まり。
やめてくれ。そんな、どうかやめてくれ。
動いてくれ、頼むから。起き上がって、なんてことはないと笑ってほしい。
消えないでほしい。
もう俺の目の前で、誰も傷付かないでほしい。
異常な状況が混乱を招く。
脳は既に冷静な判断を拒み。
「治療を……早く、病院に……」
ふらふらと夢遊病者のように。おぼつかぬ足取りで倒れ伏す彼女の元に向かう。
悲しげに泣いていた、あの子の元に……。
「……なぁ、孝仁」
「へ?」
「なんで天音を、見てくれないんじゃ?」
ぞわり、と背筋が粟立った。
言葉に籠った無感情と、あまりに純粋な笑顔が不釣り合いすぎて。一瞬、本当に彼女が言葉を発したのかさえ分からなかった。
……優先すべきは、彼女の方だったか。
そのことに気付いたころにはもう、全てが遅かった。
己は何もかも、間違えてしまった。
「……これのせいか? 孝仁は、これのせいで儂を無視するのか?」
「なっ、お、お止めください!」
ザリ、と彼女の
恐ろしく嫌な予感がした。
取り返しのつかないことが起きると、確信した。
故に叫ぶ。
「あ、貴女様を疎かにしてしまったことは、徹頭徹尾俺のせいです。俺の、浅慮が責任です。管狐様は、何も、なんの責も……!」
「……んー」
「お願い申し上げます。どうか、その御足を、どうか」
「……」
彼女の表情からは何も読み取れない。
ただ深い藍色の瞳が己を見つめ、何かを考えているようだった。
背筋に冷たい汗が流れる。早く、早く説得しなければ。
地に伏す管狐様の命は刻一刻と失われていく。いかに妖怪とはいえ、腹を貫かれて無事なはずが……!
「うむ。やっぱり、駄目じゃな」
「なっ!?」
なぜ。
「だって孝仁、こやつのことばかり考えてる。天音がおるのに、ずっとこれのことばっか」
少し拗ねたような表情で。
「そんなの、ずるい」
「――」
……どうして、失念していたのだろうか。
管狐様が今こうして、倒れているのは。
紛れもなく、天狐様によるものだったのに。
それに気付いた瞬間、己の口から出たものは説得の言葉ではなく。
純粋な疑問符であった。
「……な、ぜ?」
「ん?」
「く、管狐様は……貴女を、慕っておいででした。彼女には、貴女しか……貴女たちしか、いないと……」
涙ながらにそう訴える彼女は、とても切なそうで。
心から、皆さんを想っていて。慕っていて。
だのにどうして、貴女はそんな。
「同じじゃよ、孝仁」
「へ?」
「だって天音には、孝仁しかいないんじゃもん」
「……は?」
俺しか、いない?
否、否。そんなことは決して。
「よ、妖狐の皆さんが……管狐様がいらっしゃるでは、ありませんか」
「……あれらは天音を見ておらん。あれらはただ、天狐という偶像を見ているだけにすぎぬ」
彼女はそう言って、初めて俺から視線を外し、続けた。
「結局、あれらに必要だったのは圧倒的な力と権威よ。妖の時代が終わった今、生き残るにあたって、
「人間達にも、周りの妖怪にも牽制となるからの」
「実際、儂が妖狐の長と祭り上げられてそれなり経つが……種族単位の抗争は一度も起きんかった。ただの、一度もな」
目を細める。
おかしくてたまらないとばかりに、嗤う。
「くふふ、馬鹿な話よの。千年引き籠っておっただけの狐一匹に怯えよって」
「まっこと、愚かな話じゃ」
「……」
「未来を見た」
「もしもの話。或いはの結果。神の気まぐれによる、賽の目」
藍色の瞳が遠くを見る。
どこか寂し気につぶやいた。
「……天狐でない儂は、一人じゃった」
「あの山で一匹、ずぅっと孤独に生きておった」
「それを辛いとは思わん。それを悲しいことだとは思わん。だが……」
今一度、彼女は目を細める。
そして何かを……濁り固まった何かを吐き出すように、言った。
「今まで儂の周りにいた存在が、天音ではなく、天狐という理由で集っていたのが……少し、寂しかった」
「あれらは天音なぞいらんのだ。求めているのは、慕っているのは結局、儂の力だけじゃった……」
ぽつりと呟かれたそれはきっと、彼女の本心なのだろう。
全能に近い彼女だからこその苦悩、寂寥。
なまじ見えすぎてしまう彼女は、可能性の全てが真実になってしまう。
言わなければならないと思った。
たとえ不相応でも、俺の一言で彼女が僅かでも救われるのならば。彼女の寂しさを否定したかった。
しかし。
「……そんな、ことは」
ないと、何故俺が言い切れるのだろう。
何の力も持たない俺が、どうして違うと否定できるのだろう。
すでに彼女は答えを出してしまっている。そしてそれを覆す真実を、俺は与えてやれないのだ。
「……」
……妖狐のみなさんは、ちゃんと天狐様を見ている。
慕っているのは、貴女の人格である。
貴女は決して孤独ではない。
そんな口先だけの慰めを、どうして。どうして言えようか。
……傲慢が過ぎる。
俺は結局、最後まで誰も救えない、役立たずの屑だった。
「……優しいのぅ、孝仁は」
「っ」
胸が軋む音がした。
違う、優しくなどない。断じて俺は、善良な人間ではない。
今、この状況がいい証拠ではないか。真に善良な人間ならば、彼女を悲しませなどしなかっただろうに。
その勇敢なる心を持って、彼女を救えただろうに。
途方もない無力感が襲う。
この世で最も価値のない存在は俺なのだと、そう実感させられた気がした。
いつだってそうだ。
俺は――
「いいや、孝仁は誰よりも優しい子じゃ。それは儂が、一番よく分かっておる」
「て、天狐様っ?」
不意に思考が途切れる。
鼻腔を通る、蕩けてしまうほどに甘い花の匂い。顔面の表皮から感じる、滑らかな着物の感触。
遅まきながら理解する。
俺は今、彼女に頭を抱きしめられているのだ。
「よぅし、よし。今までよく頑張ったのぅ。いい子、いい子じゃ」
「ぁ、ぐ……お、おやめください。このような、行為は、あまりにっ」
「んーん、だめじゃ。孝仁は今までいーっぱい傷ついたから、その分ずぅっと甘やかさねばな」
「く、ぁあ……っ」
今すぐに退くべきであると理性が警鐘を鳴らしている。彼女を穢してはならないと叫んでいる。
だのに、動けない。
頭を優しく撫でるこの指が、掌が、どうしようもなく俺から抵抗力を奪っていく。
溺れたいと思ってしまう。
優しい囁き声が、ぼそぼそ耳を擽った。
「なぁ、孝仁。そんなに自分が憎いか……? 母を殺したということが、許せぬか……?」
「っ、な、なにを……」
「くふふ、天音にはぜーんぶお見通しじゃ。何があったのか、これからどうするかも、なぁ」
「……!」
僅かに意識が浮上する。
霧がかかったような頭が、少しずつ鮮明になってくるのを感じた。
天狐である彼女が己の過去を知っている。それ自体に不思議はない。ああ確かに、この御方であればそのようなことも可能であろう。
だが不可思議なのは、己の記憶。
そんなわけがないというのに。あり得ないというのに。
俺は数度、彼女に過去を告白した覚えがあるのだ。
「あ……ぁ?」
「くふ、くふふふ。思い出してきたか? いや、思い出すというより、明るみになったと言ったほうが適格かの」
「お、俺は。俺は、確かにあのとき……!」
「ああ、そうじゃ」
覆い隠された何枚もの層が剥がれる。剥がれ、崩れ、覆っていたものが露わになっていく。
それは必ずしも鮮明な記憶ではなかった。擦り切れて殆ど思い出せない記憶もあれば、断片的なシーンもあった。
笑い、悲しみ、後悔し、絶望し、喜び、憤怒し、諦観する。
生きてきたはずの中で記憶にない映像が流れ込んでくる。ありえた未来、もしもの結果、或いはの結末。
しかしいずれに、いずれにせよである。
数多の可能性の中でなお、変わらぬ最後があった。何層にもある記憶の最後の瞬間。
元宮孝仁は天狐様の提案を断り、自害を行った。
「お前さんは何度も何度も何度も何度も……儂の目の前で、死んでしもうたよ」
「はっ……はぁ、はぁっ」
「舌を噛んで、車に轢かれて、屋上から飛び降りて、首を吊って、体を燃やして、包丁を刺して、毒を飲んで、川に溺れて」
「ぅ、ぐぁ、ああぁっ!」
蘇ってくる。熱にも似た灼熱の痛みが。
思い出してくる。少しずつ酸素が失われ、冷えていく感覚が。
内臓が飛び出す痛みが。迫ってくる地面が。体中を蝕む毒の苦しみが。
リフレインする。何度も、何度も。
死の、感覚が……。
「か、はっ、あ、ぁ……っ」
「痛かろう? 辛かろう? あぁ、なんと可哀そうにのぅ」
「あが、ぅ、く」
「よし、よし。もう大丈夫じゃ。儂がおるからの。もうなーんにも心配せんでもよい。怖いことなど、何もないぞぅ」
……自分の命を惜しいと思ったことはない。そんなものはあの日、倒れ伏した母の亡骸と共に喪ってしまった。
だが、だとしても。俺は依然として生きる物であり、いかに自己を憎んだとて、痛みという電気信号を拒むことはできなかった。
それはとても単純な事実だ。生物ならば備わっていて当然の機能だ。
痛いものは危険で、恐ろしい。故に遠ざけ、二度とそんな目に遭わないようにする。
あまりに当たり前の本能。
そのような何億年と確立してきた機能を、俺のような三十年にも満たない塵がどうこうできるはずもなく。
俺は
「はぁ、ぁ、はぁっ、はぁ!」
「うん、うん、怖かったのぅ。暗くて、寂しかったのぅ。ほれ、ぽん、ぽん……ぽん、ぽん……」
「ぅ、あぁ……」
温かい。
頭を優しく撫でる手と、背を静かに叩く手は、なんと柔らかく温かいのだろう。
心の内にある恐怖が解けていく。このまま永遠にこうしたいと願ってしまう。
……或いは、その方がよいのだろうか。
「……なぁ、孝仁、孝仁」
「……は、い」
「儂の願いを、聞いてはくれぬか? とても小さな、小さな願いなのじゃ……どうか、頼む」
「……」
幾度となく繰り返された死。それは紛れもなく己の愚かさの証明であったが。
しかし、それと同時に。
死んでは戻し、死んでは覆い隠したということは。この記憶の積み重なりは。
つまり……。
「頼む……」
「……はい」
「……!」
……俺はゆっくりと首肯した。
未だ顔が見えぬ状態であるが、だとしても、彼女が喜んだことが分かった。
……あぁ、そうだ。
俺はもう、認めなければならないのだ。
何度も目を背けてきた事実から、向き合わねばならないのだ。
「じゃ、じゃあの。えと、そにょ、……ぇを」
「……?」
「う、うぅ……な、なま、名前を! 読んでっ、ほしい、のじゃが……駄目、か?」
「……」
名前。
それを呼ぶことの意味を、俺はもう知ってしまっている。そうだ、あの日、あの夜。俺はその意味を知ったのだ。
……思えばあれが分岐点であった。
彼女らの介入があってこそ、己は自らの間違いに気付けたのだ。
そして、彼女に渡した……そう、確か今も着けていたはずだ。
静かに彼女の両腕に手を置き、体を離す。抵抗は感じなかった。
代わりに見えたのは、もにゅもにゅと口を動かしてこちらを伺う、可憐な少女のみ。
まるで親に叱られた子供のような。どこか懐かしい、とても愛らしい姿が、そこにはあった。
また視線を動かせば、髪には月の留め具が輝いている。月光の光に照らされて、眩むほど美しかったことを覚えている。
そうか。まだ、着けてくれているのか……。
「……っ」
「……」
一つ、息を吸う。
今この瞬間だけは、何の思考も挟まなかった。
過去も、未来も、罪も、後悔もない。どこまでも純粋な、想い。
……認めなければならない。
俺は。
元宮孝仁は。
「好きです、天音さん」
彼女を……天音さんを、一人の異性として愛している。
そして。
「――ぁ、あ、天音も。あ、天音もね! 天音も……あ、あぁ……!」
「……はい」
「あぁ、あああぁっ、好き、だ、大好き! ずっと、ずぅっと前から、ぅ、好き。孝、仁、あぁ、孝仁ぉ……!」
「はい、天音さん」
……彼女も俺を、愛しているのだ。