なんだこれはなんだこれは。
何が起こっている。いや、何がいる? 目の前にいるこれはなんだ。
どういうことだ。意味が分からない。分からない。
分から、ない……。
紬は脳みそが焼き切れる感覚を覚える。かつて、これほどまでに思考を回したことがあっただろうか。
すでに紬の中では数時間ほどの体感時間が流れている。
つまりそれは、現実で数秒が経っているということ。
沈黙はまずい。何か話さなければ。
何か、何か。
「……おかぁさん。この子、誰ぇ?」
ようやく口から出た言葉は、しかして己のシミュレーションとは異なっていた。
顔を背けるべきではないのに。彼に言葉をかけるべきなのに。
事前に用意していた全てが崩れ、頭の中が真っ白になっていく。
それは全く初めての感覚だった。
「んもう、前から何度も言ってるでしょ? この子は孝仁君。紬のお兄ちゃんになる子だよ」
「おにぃ、ちゃん?」
そう。おにぃちゃん。兄だ。
目の前にいる彼は、己の義兄となる人物なのだ。
分かっているそんなこと。
そんな、ことは。
「――」
……そう。そうだ。
彼は兄なのだ。であれば友好的に接さなければならない。あくまで無駄な労力を減らすために。
彼の好感度を上げるべきだ。うん、上げておいて損はない。
だから。
「わあああ……! おにぃちゃん、おにぃちゃん!」
「え、ちょっ」
彼の体に抱き着いた。
ばれないよう、思いっきり息を吸う。
服から香る柔軟剤の匂い。その奥に隠れた、彼の匂い。
そうか、そうか。
彼はこういう匂いなのか。
いや、よい情報収集になった。これで更なる友好的行動が取れるようになるだろう。
他意は、ない。
「おっと危ない。……こら、紬。嬉しいからって、いきなり抱き着いちゃだめだぞー?」
筋肉が何かを話している。
まぁ興味はない。
今はそれより、彼の生体情報を集めるのが先だろう。
体を擦り付ける。息を吸う。指で彼の体をなぞる。
あぁ仕方がない。仕方がない。
「この子は紬。俺と日葵の可愛い娘だ」
「むすめだー! かわいいー! うおー!」
ナイスだ筋肉。
これで彼も状況を把握できただろう。
正直今は忙しくてそんなことをする暇がなかったため、有難い。
「すー、ふー」
……ふむ。
少し落ち着いたか。ならばここで一つ、自分も状況を整理しよう。
まず、彼はなんだ?
明らかに普通ではない。いや、身体的特徴だけを捉えるのなら一般的な人間の幼体だが。
身長も普通。頭髪も普通。目の色も普通。筋肉も普通。
顔も……あれ、なんかかっこいい。凄くかっこいい。
「すぅう、ふぅうう」
……まぁ、外見は置いといて。
問題は中身である。
視覚から得られる情報、また触覚、嗅覚、聴覚からも感じられる彼の情報。
彼の中身。
彼の心。
彼という存在、彼という魂。
それは……。
「はぁ……」
あぁ、なんて
そうか……これが。
これが、美しいということなのか。
「……ほら、ご飯冷めちゃうから、入った入った」
「はいったはいったー!」
ぐいぐいと彼を引っ張る。
いっそはしたないほどに、体を擦り付ける。
彼の困った顔が見えた。
……綺麗だ。
歪で、哀れで、傷だらけの彼。
他者を憎むこともできず、また自分を許すこともできない、泣くこともできない、どうしようもなく愚かな彼。
しかもこれは、生まれ持ったものだ。
後天的に得たものではなく……自分と同じ。
そう、紬と同じように、生まれた時には与えられていたもの。
彼は同じだ。望んでもないのに、何かを押し付けられたものだ。
……あ。
「……ふふ」
小さく微笑む。
そうか、そういうことだったのか。
紬は全てを理解した。
彼は己の運命なのだ。
ようやく分かった。自分は心が無かったのではない。
彼が、己の心だったのだ。
欠けたパーツがぴったりと収まるように。
彼が己の半身で、彼が己の愛だったのだ。
愛……愛!
なんと甘美な響きだろう。今まではただの文字列としか思わなかったそれが、とても好ましいものに思えてくる。
愛、愛……もし彼が、己を愛してくれるなら、それは。
「……?」
肩に手を置かれた。
それで……、?
??
どうして剥がそうとしている?
どうして離れようとしている?
???
意味が分からない。
そんなこと、させない。
「これからよろしくね! おにぃちゃん!」
「――」
絶対に。
「よろしく、お願いします……」
「うん!」
もう、離さない。
伊藤孝仁が元宮孝仁になった運命の日から、数年が経った。
いや、まだ数年しか経っていないと言うべきか。体感ではもう何十年も彼と一緒にいる気がする。
実質、熟年夫婦と呼んで相違ないだろう。
彼のことならば何でも分かる。
身長から細かい癖まで。彼に関する一つ一つを全て脳内に刻み込んだ。
今なら目を瞑っても完璧に彼をイメージすることができる。
やはり、自分が妻だったのだ……。
「兄さん、お風呂が沸きましたよ」
「あぁ、ありがとうございます」
丁寧に頭を下げる彼を見て、紬は喜びと切なさを覚える。
彼から伝わる敬意はとても心地よい。しかし同時に、どこか彼との隔たりを感じてしまう。
まさにジレンマだ。
彼にはどこまでも美しくあってほしい。なのに自分は、それを寂しくも思っていた。
「でも……俺はまだいいので、紬さんが先にお入りください」
「そんな、兄さんもお疲れですし」
「いいんです。それに、お疲れというなら紬さんもでしょう」
「私、ですか?」
「はい。日葵さんから聞きました。学級委員、頑張ってるそうですね」
「あ……」
柔らかく、孝仁が笑う。
少し目を細めて。いつもは真面目に固められた口元が、ほろりと綻ぶ。
これを見ると紬は駄目だった。考えていたこと、こうしようと計画していたこと。
その全てが包み込まれてしまう。
彼のやさしさに、甘えてしまう。
「誰かをまとめるということは、決して簡単なことではありません。どれだけ紬さんが優秀でも、それは変わらないと思います」
「……はい」
「いつもお疲れ様です、紬さん」
「……はぃ」
言葉尻が小さくなる。
正直小学校程度ならば一日で掌握できる小さな箱庭だが、それは言わなかった。
今はただ、この温もりに浸っていたかった。
「……じゃぁ、その。お先、いただきますね……?」
「ええ、どうぞ。ごゆっくり」
「……ありがとう、兄さん」
紬は考える。
もし紬という女が頭脳に秀でて生まれたのなら、孝仁という男は
どこまでも他者を尊び、幸福を願う。
自らを省みることはなく。
他者の喜びをこそ、己の喜びとする。
誰かを恨むこともなく。
この世に起こる全ての罪は、自らによるものだと戒める。
まさに彼は聖人のようだった。
頼まれもせずに十字架を背負い、奇跡も起こせぬ手で他者を救う。
その姿はあまりに尊く痛ましい。
だが愛おしい。
「大好きです、お兄ちゃん……」
ぽしょりと呟く。
冷えた廊下は暗く、呟いた声には何も反応しない。
それでいい。
彼を愛するのは、自分だけでいいのだ。