限界社畜にロリババア狐が病んでいく話   作:石田フビト

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三十二話 愛しき運命

 更に時が経ち、孝仁は高校三年生となった。

 この先の進路を選択する大事な時期である。つまり、このまま進学するか、それとも働くかの二択。

 そして当たり前のように、彼は就職を希望した。

 

 ……まぁ、概ね予想通りではある。 

 孝仁の性格を熟知した紬にとって、その選択は特に違和感があるものではなかった。

 もっとも、彼女の両親である二人は納得いかなかったようだが。

 

「私は、兄さんの好きにすればいいと思いますよ」

 

 思考の末、紬は兄を肯定した。

 たとえ就職を否定したとして、結果は変わらない。どちらにせよ、彼は家を出る気なのだ。

 紬にとって就職も大学進学も差異はない。

 ただ彼が家にいるか、いないか。それだけだった。

 

「ありがとうございます、紬さん。おかげで決心がつきました」

「……いえ」

 

 あぁ、恨めしい。

 己が小学生だという身分でなければ彼と一緒に付いて行ったものを。

 ただでさえ最近は告白が増えて疲れるのだ。今までは家に帰って兄がいるから何とかなったが……あぁ、もう考えるのはよそう。

 なに、あまりにしつこいなら数人程社会的に抹殺すればいいだけの話だ。

 だから考えるな。兄がいなくなった日常のことを。

 死にたくなるから。

 

「……私も弱くなった」

 

 二人に意思を伝えに行ったのだろう。

 彼の温もりが残るベッドを摩りながら、枕へ倒れこむ。

 深く息を吸えば兄の匂いがした。当たり前だ、ここでいつも寝ているのだから。

 この匂いも暫く嗅げないと思うと、辛い。

 今のうちにめいいっぱい吸っておこう。

 

「はぁ、ぁ……」

 

 じんわりと、紬の頭が蕩けていく。

 より甘く、より危険に。

 ぼんやりとした心地のまま彼女は考える。

 

 ……兄が就職を希望するのは分かっていた。

 信じたくない事実だったが、それはもう仕方がない。

 ()()()()()進めるだけだ。

 

「ん、ん……」

 

 もぞもぞと体を布団に擦り付ける。

 少しでも意識するよう、念入りに紬という存在を残しておく。

 ふと、体の一部がやけに熱く感じた。

 煮えたぎるような、深く重い熱だ。

 

「ん、ぁ……」

 

 構わず体をくねらせる。

 枕に顔を押し付け、息を吸う。

 擦りつける。

 嗅ぐ。

 繰り返す。何度も何度も。執拗に。

 

「ぁ、あぁっ」

 

 心の内で、愛しき存在を想った。

 儚く尊い存在である。

 誰にも渡さない。

 あれは自分だけの。

 大丈夫、大丈夫。

 

「……ぁ、は」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――そうなんですか。ふふ、それは災難でしたね」

「いえ。元はといえば自分のミスです。吉田さんには申し訳ないことをしました……」

「兄さんが負い目を感じる必要はないと思いますが……。大体その、吉田さん? が兄さんに仕事を押し付けたのが原因なのでしょう?」

「だとしても、俺がきちんと断るべきでした。そうすればあんな」

「んー、もう。兄さんは優しすぎです! 一々そういうことを気にしていては疲れちゃいますよ? もっと雑に生きるべきです、雑に」

「ざ、雑ですか……」

 

 電話越しに、戸惑いがちな兄の声が聞こえる。

 顔を見なくても困っているのが想像できた。きっと眉を少し下げて、申し訳なさそうにしているのだろう。

 試しに目を開けてみると、寸分違わぬ姿がカメラに映った。

 髪の毛一本すら予想通りである。

 紬はくすりと笑って、電話を続けた。

 

「ところで、もう仕事には慣れましたか? 確か今日で、大体一年でしたっけ」

「ええ、はい。……そうですね。まだまだ勉強すべきことがありますが……取り敢えずは、何とか」

「それはよかったです!」

「……ありがとうございます」

 

 孝仁が頭を下げる。たとえ言葉しか伝わらなくとも、彼はこういった礼儀を忘れない。

 それを見て紬は益々笑みを深めた。

 十七台あるカメラの一つを、愛おしそうに撫でながら。

 

「でも、本当によかったです。兄さんの仕事がうまくいって。ふふ、最初の姿が嘘みたいですね」

「あぁ、その節は大変申し訳なく」

「いえいえ。兄さんの弱音が聞けて嬉しかったですよ? 兄さん、いっつも一人で抱え込んじゃうんですから」

「……すみません」

 

 そう、この電話は何も初めてではない。

 というか、彼の空いている時間を見計らってはしょっちゅうしている。

 仕方がないのだ。己はもう、一日に一回兄の声を聞かないと死ぬ体になっているのだから。

 つまりこれは生命維持のための行為であり、決して寂しいとか、そういうことではないのだ。

 うん、寂しくなんてない。

 もう実質同じ部屋に同棲しているようなものだし。

 

「ふふ。謝らなくていいですよ。困ったことがあればいつでも言ってください。私が相談に」

「そんな、紬さんにまでそのような」

「……私に、まで?」

 

 目を、細める。視線の先には彼の姿がある。

 彼の輪郭をゆっくりと指先でなぞりながら、口を開いた。

 

「はい。実は有難いことに、最近俺に良くしてくれる先輩がいまして」

「……あー、清水さん、でしたっけ」

「……? 失礼、言ったことがありましたか。そう、清水さんです」

「えぇ、はいはい。清水さんですね。あの、女性の」

 

 とん、とん。

 人差し指で彼の胸をタップする。指先に返ってくるのは、カメラの硬さだけだ。

 

 ……。

 

「はい。それで清水さんにはよく仕事の相談をしていただいているんです。お忙しい中なのに、大変丁寧に教えてもらって……」

「そうですか。それはよかったですね」

「ええ、しかもこの前などはお食事に誘われて。きっと俺が早く馴染むよう、気を遣って……」

「でも行かなかったんですよね」

「……え、えぇ、はい。流石にそこまで懇意に甘えるわけにはいかないと、思って」

「はい、とてもよい判断だと思います」

「……あの、紬さん?」

「はい」

「その、なにかご気分を害することを言いましたか?」

「いえ、全く」

「……そう、ですか」

「はい」

 

 兄が自分以外の異性に好意を持っている。それは当たり前のことである。何も不思議ではない。

 だから何も感じることもない。そんな必要はない。

 間違いなく彼の好意は友愛や、尊敬の類である。

 

 話にすらならない。

 ああ、全く眼中にない。 

 ない、が。

 

「……すみません。随分と長話に付き合わせてしまいました。では、そろそろ」

「え、あ」

「はい? どうしましたか?」

「……いえ、何でもありません。おやすみなさい、兄さん」

「はい。紬さんも、おやすみなさい」

 

 プツン、と電話を切る。

 すぐさまヘッドフォンを耳に装着し、彼の生活音を傾聴する。

 いつもならそこで意識を彼に割くのだが、今日ばかりは集中できなかった。

 それは先程の話に出てきた存在。

 

「……清水秋穂。年齢は二十七歳。昔から責任感が強く、困っている人間を放っておけない。独身。趣味は造花。男性経験は二度ほど。いずれも女の方から振った。理由は価値観の不一致……」

 

 普通の女だ。

 見た目も別に優れているわけではない。また紬のような天才的頭脳も持ち合わせていない。

 普通だ。あまりに、平凡だ。

 こんな存在を彼が好きになるわけがない。それはない。ありえない。

 

 だが……逆ならどうだ?

 もしこの女が言い寄った場合。彼に告白し、好意を伝えた場合。

 誰よりも優しい彼は、果たして断れるのだろうか。

 誰かを傷つけてまで、彼は自分の意思を貫くだろうか。

 

「は」

 

 下らない妄想である。

 そんなこと、彼の性格を誰よりも知っている自分が分からぬはずもない。

 あぁ分かるとも。

 

 くそったれだ。

 

「……ふぅ」

 

 昂る感情を努めて抑え、息を吐く。

 大丈夫、大丈夫である。すでに布石は打ってある。

 何も心配することはない。己の頭脳は完璧な未来を予想している。

 

「……」

 

 紬は引き出しから一枚の写真を取り出す。

 妙齢の女の写真だ。どこか彼の面影を感じる、人の好さそうな顔つき。

 とても子供を捨てるような人間には見えない。

 そんな彼女の肩を優しく叩いて囁いてやりたい。

 

 なぁ、伊藤佑香。

 子供を捨てて生きる人生は楽しいか?

 

「……あは」

 

 写真を握りつぶす。念入りに、執拗に。

 怒りではない。これは決して、恨みではない。

 むしろ感謝ともいえる。彼女の愚かな行為のおかげで、自分は運命と出会えたのだ。

 

 あぁ、ありがとう。

 そして期待している。とてもとても、期待している。

 

「もうちょっと、我慢……ですね」

 

 もはや心にモヤはない。代わりにあるのは興奮と期待。

 ゆっくりと、静かに指を下腹部に滑らせていく。

 今日も彼との逢瀬があるのだ。これ以上、余計な思考を挟みたくなかった。

 

 彼女の美貌が煌めく。美しく、妖艶に。見たもの全てを虜にするほど。

 

 うっとりと微笑む。

 

 散り散りになった写真を、足で踏み躙りながら……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、運命の日がやってくる。

 長く待ちわびた瞬間である。

 本当に長く……気が狂うほどに長かった。

 何度カメラに映る彼の姿で慰めただろう。何度録音した彼の声で自分を抑えただろう。

 だが、それももう終わり。

 紬はやっと、彼を手に入れれるのだ。

 

「ふん、ふふーん」

「うわ、マジでやべぇじゃん。グロ」

「ちょっ、誰か救急車救急車……!」

「うふ、うふふふふふ」

「警察も呼んでこい! めっちゃ殴られてる奴がいる!」

「あははは、あはははははは」

「なんだこれ、マジか。一応撮っとこ」

「ねえ、なんか凄い音したけど、何があったの? いい加減見せてよ~」

「駄目だ! 人が轢かれたんだよ! くそっ、道路に飛び出しやがった!」

 

 パシャリ。

 

 指をスマホに押し付ける。

 長方形に映るは愛しき彼の姿。

 殴られて、血だらけで、絶望しきった彼の姿。

 

「……ごめんなさい、兄さん」

 

 スマホを操作し、情報を拡散していく。

 車に轢かれた元母親と、殴られる元息子。世間にはさぞ面白く映るだろう。

 使い捨てのアカウントは瞬く間に炎上し、非難されて、熱狂した。

 

「……ふふ」

 

 この先の展開が、紬は手に取るように分かる。

 分かるから、こうしたのだ。

 全ては、彼の心を手に入れるためだけに。

 

「……紬様、車の用意ができました」

「あぁ、もう少し待っていてくださいね。もう少し、あと少しだけ……目に焼き付けておきますので」

「……承知しました」

 

 黒服の男が一礼して下がる。

 名前は憶えていない。一々そんなものに脳のリソースは割けない。

 というか、どうでもいい。

 

「ああああああぁぁぁぁぁぁ……っ!」

 

「はぁ……綺麗……」

 

 見よ。

 彼が涙を流しているぞ。

 あの彼が。涙を流すことすら許せぬと戒めた彼が!

 泣いている……。

 傷ついている。

 悲しみに暮れ、絶望し、死にたがっている。

 

「本当にごめんなさい、兄さん」

 

 野次馬の喧騒の中、ぼそりと呟く。

 

「……でも、こうでもしないと。私はずっと兄さんの妹のまま」

 

 手を伸ばした。

 細い指が孝仁を招いている。

 

「母親とも和解して、過去の遺恨もなくなって……いつか、結婚もしてしまう」

 

 そんなこと。

 

「そんなこと、許せるわけないじゃないですか」

 

 口元を三日月のように歪ませ、笑う。

 頬を恍惚に染め上げ、うっとりと見つめる。

 

「耐えられるわけ、ないじゃないですか……」

 

 目元を悲しげに沈ませる。

 開いた指を、握りしめる。

 

「貴方は私の幸福。貴方は私の心。貴方は私の愛」

 

 踵を返し、黒服が用意した車に乗り込む。

 無機質な車内だが気にならなかった。

 彼女の心には彼がいるのだから。

 

「出してください」

「はっ」

 

 窓から彼の姿を見つめる。

 小さく見えなくなるまでずっと、見続ける。

 紬は夢心地のまま。

 

「……これから。これから始まるんですね。私と、彼との愛が。あぁ、長かった……」

 

 さぁ、存分に溶け合おう。

 

 愛しき我が運命よ。

 

 私と貴方が、同じになるまで。

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