「お恥ずかしいところを、お見せしました。申し訳ありません」
「んー?」
両手で可愛らしく湯呑を持ち、こくりこくりと飲んでいる彼女に向け、己は頭を下げた。
ちゃぶ台と額が接するほどに。
「ぷふぅ。……何を恥じることがある。全ては儂の説明不足が招いた結果じゃ。お前さんが謝る必要はない」
「分を弁えぬ狼藉を働きました。自分は糾弾されるべきです」
「それを言ったら儂、不法侵入からの半泣き扉ドンドンじゃぞ。よっぽど儂のほうが狼藉者じゃろ」
「しかしそれは、何か理由があってのことで」
「だったらお前さんも同じじゃ。其方にもきっと理由があった。ならば儂だけが許される謂れはない」
「そんなものは」
「あるのじゃよ、孝仁」
きっぱりとした、力強い肯定。
何故分かる。
そう言おうとして、しかし口を噤んだ。
これでは、親に我儘を言う子供か。
宥められている。気を遣われている。
申し訳なかった。
己は酷く、手を煩わせていた。
「……」
「……あー、また変なこと考えとるな? もし儂に迷惑をかけているとか思っとるなら、今すぐやめよ。それお前さんの勘違いじゃから」
「あ、いえ、その、はい。分かりました、すみません」
「うむ」
彼女が満足そうに頷く。
ふぁさふぁさと尻尾が揺れた。その気分を表すように、右へ左へと。
ご機嫌の様子。
反対、此方は顔から火が出る思いだった。
何から何まで見透かされて。
暫くは不用意な思考を止めようと、固く誓った。
「にゅふふ。全く、最初から素直にすればいいものを。社畜とは皆、お前さんのように難儀な性格なんかのぅ?」
「……どうでしょうか。自分は社畜ではないので、存じ上げませんが」
「にゅはは、そうかそうか。……え、嘘じゃろ?」
突然表情を無くし、ごそごそと懐を漁りだす。
やがて取り出したのは、やや細長い紙、だろうか。表面には読めない文字か何かが書かれていた。
それを掌に置く。すると、独りでにくるくる回り始める。
奇怪な光景。
そして十周ほどか。
回転していた紙が、不意にぴたりと止まった。
その先を示すものは。
「あの、これは」
「ちょいとお前さん、立って歩いてみよ」
「はい」
未だ理解が及ばぬが、歩けと言われたので歩く。
狭い部屋を右往左往。
変化はすぐに気付いた。
「……紙が、動いて?」
「おお、何じゃ驚かせおって。やはり社畜ではないかお前さん」
「そうなのですか?」
「む、そうではないのか?」
お互いに首を傾げる。
現状分かるのはただ一つ。
己がどこに行こうと、紙は此方の方向を指す。
磁石に吸い寄せられる方位磁針のように。
ぴったりと先を向ける。
だが疑問だ。
それがどうして、社畜と繋がるのか。
「自分は、己を社畜などと思ったことはありません」
「じゃが札がお前さんを指しておる」
「納得しかねます。大体にして、その紙、いえその札は一体何なのでしょうか」
「これか? これは社畜探しの札じゃ」
「……」
社畜探しの、札。
何だそれは。
そんな限定的な札があるのか、本当に。
いや、己が無知なだけだ。世界は広い。ないとは言い切れぬ。
疑うのは失礼だ。
失礼、だが。
「……なる、ほど」
「す、すまん! 冗談じゃ冗談! だから無理に納得せんでよい。ほんとは探しものを見つける札なんじゃよ」
「なるほど」
「便利じゃぞー? これがあれば大体は何とかなるからのぅ。正に万能札じゃ」
「それは凄い」
「そうじゃろそうじゃろっ? どれ、お前さんにも分けてやろうか。儂ならいつでも……」
素直に驚嘆する。
言葉のニュアンス的に、具体的でなくても探せるのだろう。お世辞なしに凄まじい札だった。
また彼女の言葉からは信頼が感じられる。
使ったのは一度や二度ではないはずだ。
であれば恐らく、今回も。
その対象は。
「……またの機会に、是非。ところで、いくつか確認しても?」
「ふにゅぇ? あ、ああ、別に構わんが」
話の大筋が見えてきた。
探しものを見つける札。
社畜。
妖狐。
ブーム。
ばらばらだった単語が結びつく。
答えを急ぐように、己は問うた。
「貴女様は社畜を探していた」
「まあ、そうじゃな」
「その理由は、妖狐界で社畜ブームが起こったから」
「うむ、そうじゃ」
「……そして札を使い」
「その結果、ここに来たというわけじゃな」
まとめるとそういうことらしい。
思わず、目元を抑える。
安物の電球が瞼を照らした。
……どうしてそうなる。何故己が選ばれた。己以外にも、もっと働いている者はいる。社畜とは到底言えない。そもそも社畜ブームとは何だ。どんなブームだそれは。あっていいものなのか。
「っ、ふぅぅ……」
「あぅ……その、なんかすまん」
「いえ、気になさらず」
今日はよく頭痛がする。それも多種類の痛みだ。
努めて無視をし、口を開く。
「この際、細かい質問などは致しません。ですが一つ、どうかお聞かせください」
「う、うみゅ……うむ」
これだけが分かっていればいい。
であれば、他の雑多な疑問は直ちに塵となる。
これだけを知りたかった。
先のやり取りで芽生えた、もう一つの本心。
彼女の言葉を聞いて、思ったのは。
「貴女様は、本当に望んで、会いに来たのですか?」
「……? どういう、意味じゃ」
「自分は一度だって聞いていません。貴女様が真にそうしたいという、理由を」
「じゃから、それは」
「それは理由になっていません。ブームが来たから、どうなのです。貴女様は一度も言っていない。貴女様自身が、何を思っているのかを」
「……っ」
己は妖狐界について知らない。
それが何だ。
社畜ブームとか、そんなものは知らない。関係ない。
彼女の心が聞きたい。
ここに来るに至った、決意に至った理由を。
他ならぬ彼女の口から。
……もし、この優しき少女が、望まぬ行いを周りに強制させられているのなら。
覚悟は決まっている。
さあ、どうか。
「お聞かせください。貴女の本当の理由を。どうか、どうか」
「……」
顔を伏せている。
己は待つ。
耳が垂れている。
ただ待ち続ける。
やがて、ぽつぽつと話し出す。
小さな声だが、聞き逃すことはなかった。
「……聞いても、幻滅せぬか?」
「無論です」
「……ぜ、絶対、笑わぬか?」
「約束します」
「嘘ではないなっ?」
「違えたならば、腹を切ります」
「そ、そこまではいいが……うみゅぅ。分かったのじゃ。ちょっと待っておれ」
ごそごそ。
再度手を懐に入れ、札を取り出す。
見た目は先程の札と似ているが、一体何をするのか。
そう考えた矢先だった。
『ねえ見てよ
『白姉の価値観はおかしい。鞄なんて美味しくないのに、喜んでる』
『いや黒江の方がおかしいからね!?』
『うふふ。ほんとに二人は仲良しさんねぇ』
「……これ、は」
声がしている。
複数の女性の声。明るい声、気怠げな声、優し気な声。
それだけではない。
四角い、横長の長方形が浮かんでいる。
中に映るのは、五名の人影。
否、彼女らは……。
『人間はご飯作ってくれる。私はお腹一杯。人間喜ぶ。正にウィンウィン』
『社畜ちゃんに奉仕させてるの黒江くらいだよ……まあ、喜んでるならいっか』
『そうねぇ。私もどっちかというと、尽くし尽くされみたいな関係だし。
『あ、確かに。えー、じゃあもう、私達が社畜ちゃんを甘やかす時代じゃないのかなぁ。えーやだ~』
『白姉は昔からそう。やっぱり頭がおかしい』
『だって可愛いじゃん! 社畜ちゃんって健気でか弱くて……』
『はあ。また始まった』
尾が生えている。
獣の耳が生えている。
尻尾はゆらゆらと。耳はぴこぴこと。
金色の者。白色の者。黒色の者。茶色の者。
そして、銀色。
尾の数も様々だ。九本ある者もいれば、四本だったり一本だったり。
間違いない。
彼女らは。
『み、皆さん凄いです……! 私もいつか、あんな妖狐に……』
妖狐だ。
『ふふふ、
『きょ、恐縮です……』
『うんうん! 管奈ちゃんは大丈夫! こんなに可愛いし、小っちゃいし、もふもふだし!』
『きょ、恐縮です……?』
『白姉。それ理由になってない』
『大事なことだよ!?』
『今日一番の大声。凄くうるさい』
『……』
話しているのは四名。
金色の毛並みで、尾が九本ある妙齢の女性。
白色が眩しい、尾が四本の活発な少女。
転じて黒色の、同じく四本である落ち着いた少女。
最後に親しみのある茶色で、尾が一本の真面目そうな少女。
彼女ら四名の人外が仲睦まじく会話をしていた。
さて己は初め、五名の人影が見えると言った。
今でもそれは変わりない。
つまり残りの一名は、会話に参加していないということ。
否、消去法で求めずとも己は見えている。
一人静かに、煎餅を齧る少女を。
美しき銀色の、愛らしき少女を。
ぽりぽり。
『天狐様も迷惑そう』
『……ふぇ!? わ、儂!?』
ばきり。
その少女はいきなり話を振られ、困惑していた。
煎餅の欠片が宙に浮く。
『え~そうなのー? ごめーん、天狐様!』
『い、いや別に気にしとらんが……』
『申し訳ありません、天狐様。私達だけで騒いでしまい。煩かったでしょうか』
『ご、ごめんなさい……! 天狐様……!』
『いや、あの、ほんと、全然大丈夫じゃから……お構いなく』
その少女は顔を引き攣らせ、再び煎餅を食べようとし。
『あ、そういえば天狐様! 前回の集会で言ってた、社畜ちゃんの件はどうなったの?』
『ぶぇ!?』
ばきゃり。
今度こそ煎餅は粉々になった。
小さな破片がふよふよと浮かぶ。
その少女は哀れなほど、顔が真っ青になっていた。
『確かに気になる。天狐様、とびっきりの社畜を養うって言ってた』
『過去最強の社畜、とも言ってたわねぇ』
『空前絶後の、とも言ってました』
『そそそそ、そんなこと、言ってたかのぅ?』
『うん』
『言ってた』
『そうねぇ』
『言ってましたね』
『ふ、ふぅん……?』
ぽりぽりぽりぽりぽりぽり。
新しく取り出した煎餅を高速で食べる。
平然を装っているが、焦りは如実に表れていた。
視線があっちこっちに泳ぎ、手も震えている。
まるで天敵に怯える小動物のような、そんな姿だった。
『……も、勿論見つけたとも! ああ、そりゃあもうすんごい社畜じゃっ。だからこの話はこれで』
『わあ! じゃあ今度連れてきてくださいよ! 私見てみたいなぁ、天狐様の社畜ちゃん』
『かひゅっ』
目を瞑る。
もう、見ていられない。
『私も見たい。天狐様が見定めた人間なら、美味しいご飯作ってくれそう』
『あ、あの、白狐様、黒狐様。流石にそれ以上は……』
『まあまあいいじゃない、管奈。本当は貴女も気になっているのでしょう? あの天狐様が、どんな人間を養っているのか、ね?』
『きゅ、九尾様! そ、それは、その……』
一拍の静寂。
見ずとも分かる。全員が彼女に視線を向けている。
やがて明るい声が、どこかおずおずと聞いた。
『……あ、あれ? 天狐様、もしかしてまだ』
『で、できらあ! 過去最強で空前絶後の社畜、連れてきてやらあ!』
『やったー! じゃあ次の集会で――』
ぷつん。
声はそこで途絶えた。
目を開ける。
前にはぷるぷる震えながら、両手で顔を隠している少女がいた。
己は何も言わず立ち上がる。
買い物袋を漁った。
次に向かうは冷蔵庫。
目的のものを手に取る。
「これからうどんを作ります……お召し上がりになりますか?」
「……お揚げは?」
「安物でよければ」
「……なら、食べる」
「畏まりました」
冷凍のうどんをレンジに入れ、その間にお湯を温める。
二人前入れたのは初めてだった。
器を二つ用意するのも、多めにお湯を温めるのも。
チーン。
その日、己はここに引っ越して初めて、誰かと一緒に食卓を囲んだ。