「ねーねー! トレーナーが貧乏って本当なの?」
以前から思ってたんだけど――
トレーナーさんって、意外と懐かれやすい性分なのだろうか。
「お給料とか低いから暮らしにくいって聞いたんだけど!」
「そりゃ、オレらからしたラどこだって薄給だロ」
「ってかホントに大の大人なんですか? どう見てもあたしたちと同い年なんですけど」
「……食べる?」
「うぜぇ……」
目的地へと向かう道中。トレーナーさんは、見事に四人組に取り囲まれ、質問の雨あられに晒されている。
不機嫌そうに零す声も、彼女らの耳には届いていないようだ。まともに答えてないのに、全く諦める素振りも無い。
体格か、それとも雰囲気か……同族だとか思われてるのかもしれない。本人からしたら、迷惑以外の何物でもなさそうだけど。傍から見る分には、面白い絵面だった。
「そろそろ教えてくれてもいいじゃない~?」
それを傍目に、先導するフェアちゃんの背中に、スカイさんが言った。
「私たち、どこに向かって歩いてるのさ~」
「悪いな。もうそろそろだ」
フェアちゃんはただ、それに淡白に答えるだけ。頑なに、それ以上の情報は口にしてくれなかった。
……そんな彼女に連れられるまま、歩き出して数分ほど。現在地は、裏路地。
表の煌々としたライトを避けるように、小規模なお店が点々と建っている。
ガラの悪そうなお兄さん――すら見当たらない。そもそも、動くものが満足にない。この世の終わりってこんな感じなんだろうな、なんて考えすら浮かぶその場所に――
何か、耳目に値するものがあるように思えない。
あたしの覚悟を見せる――彼女はそう言っていた。豪語にも関わらず、まさか案内する先に、一目でわからない何かが待ち受けてることはないはずだ。
一体彼女は――
私たちに、何を見せようとしているんだろう。……
……
いや、本当にそう思ってるんだろうか、私は。
必死に、わからない振りをしているだけで――
わかってるんじゃないか。本当は。
これから彼女が、何を見せるつもりなのか。
どこへ。
連れていこうと、しているのか……
「……ん」
やがて。
周りの建物と何ら変わらないように見える建物の、扉の横。何者かが立っているのが目に入る。
黒服にサングラス、スキンヘッドの大男――明らかに、一般人じゃないとわかるそれ。
その人物の目が、こちらに向けられる。無論、私は彼を始めて見るし、ここに何があるのかもわからないのだけれど――それにも関わらず、体勢を整えると、一礼していた。
「こんばんは」
そして、恭しく挨拶する。おぉ、とフランクに挨拶を返すのは、フェアちゃんだ。
……やはりというか、なんというか。面識があるらしい。
「今日は連れがいる。……『VIP待遇』で頼む」
彼女は、男に歩み寄ると、何かを渡す。彼はその中身をざっと確認すると、確かに、と応じ、携帯電話を取り出した。
そうして、何事かを電話口で連絡すると、建物の扉を開ける。
「……どうぞ。お連れ様方は、ここでお待ちを」
「……」
お連れ様――きっと、私たちのことだろう。お互い、目を見合わせたけれど、勝手の分からない場所で、無視するリスクには変えられない。
「じゃ、行ってくるわね! また後で!」
「あのなァ、遊園地行くんじゃねぇんだゾオメー」
「今日も何事もないといいね」
「またね……」
フェアちゃんと四人組が、各々口にしつつ、ぞろぞろと扉の中へ入っていくのを見届け――
言われた通り、その場で待つ。
スカイさんも居合わせているのだ、またしりとりみたいなことを提案するか、と思ったけれど。それはなく。
重い……とまでは行かずとも、気まずい空気がそこに流れた。
「ん」
数分くらいだろうか。
スカイさんが、小さく声を上げた。
それに応じて目を向けてみると――そこには。
「……へ」
「おぉ……」
一見すると、町工場の業者みたいな恰好。
黒ずんだ肌とスキンヘッド、そして目測――2mはあろうかというほどの長身。
見るからに強そうな大男が、姿を現していた。
「お待たせしました」
それと同時。
フェアちゃんたちを導いた黒服の男が、スーツの懐から何かを取り出す。
手渡されたそれは……ピンバッジ?
「案内は、こちらの者が務めます。中をお進みの際は、こちらのピンバッジを忘れずにご着用ください。これらの通告に従わなかった結果として起きた損害には、こちらは一切の責任を負いかねます」
ではどうぞ――男は再び扉を示し、説明通り、褐色肌の男がまず中へ入る。ぽかーん、とする私の背を、トレーナーさんがやや乱暴に叩いていた。
……お前が先頭だ、ってことだろう。恐れをなしてしまったけれど。まさかここまで来て、引き返すわけにもいかない。
彼女の促しに従って――
歩き始める。
扉の先には、まず階段。簡素な蛍光灯が照らしているだけで、ところどころが黒く塗れており、お世辞にも整備されているとは言い難い。
視覚だけで拒否反応が出るそれを、決死の思いで下っていくと――
やがて辿り着くのは、狭い踊り場だ。
人五人ほどしか入れないであろう、狭小な空間。そこには、一枚の扉が鎮座しており――
……そしてその扉というのが、また異様だった。
大きな黒塗りの――エアロックみたいに厳重な、鉄製の扉。
それに、大男は手を掛け。
ゆっくりと、開け放った――
『――!!』
――瞬間。
はち切れんばかりの声の奔流が、外へと、流出してきていた。
正面から暴風を受けたみたいに、思わず一歩後ずさる。
それを耐え、改めて向けた視界の中。扉の先に広がっていたのは――
「……!」
……すり鉢状に作られた客席と、砂と芝の入り混じったコース。
――レース場、だった。
「……」
それを目の当たりにして、私は息を呑む。
こんなところにレース場がある、という事実にしても、そうだし。
……自分の想像が、どうやら当たっているらしい、という事実にしても、そう。
――あぁ、まさか、と思った。
でも、そんなわけない、と、信じていたさ――信じたかったさ。
でも、目の前にした現実は雄弁で。そしてそれ以上に非情だった。
……これは。
「……ブラックレース、だな」
絶句する私に代わり、口にするのはトレーナーさんだ。
イクノさんの、あの熱弁が思い出される。
そう――それは、正真正銘。
世に有名な違法競技。ブラックレース――だった。
「たまげたねぇ」
スカイさんの声は、いつも通りに軽めだ。
それでも、色は曇っているように聞こえる。
「こんな近場でブラックレースがやってた上に……あの子が関わってるなんてねぇ」
「い、いや。まだ、関わってるって決まったわけじゃ」
「ここまで来てそう思わないのは、むしろ不誠実だよ~」
そう、なのかもしれない。見苦しいを通り越して、愉快ですらあるか。
彼女は参加する、とは言っていなかったものの。
ああして扉を通って進んだ以上――何の関わりもないはずがない。
……フェアちゃんは。
あの違法で、危険と言われる競技に、きっと――
「ボーっとしてんな、行くぞ」
けれど、状況は、そんな私を待ってはくれない。
大男さんは、しばし待ってくれていたけれど、やがて先導を再開する。
私は、トレーナーさんに言われるまま、再びその背中に着いて歩いた――
「――やぁお嬢様方!」
――刹那だった。
私たちと大男さんとの間に、見覚えのない男が割り込む。
それは、かっちりとしたスーツに、七三分け、仰々しい黒縁眼鏡をかけた、いかにも真面目そうなサラリーマン、って感じの人だったけれど――
私は。
ぞくり、とした。
軽薄そうに細められた目に――
得も言われぬ恐怖を、覚えていた。
「まだお若そうに見えるのに、こんなところに来るとは! もしかして
「え……?」
ゴマを擦るように上擦った声が、耳に入った傍から、滑り落ちていく。
やがてそれは声なき警告となり、私の本能に訴えかけてきた。
この男は、
危ない、と。
「いえ……あの」
「あの~すみませ~ん」
しどろもどろになる私と入れ替わりに、スカイさんが前に出てくる。凄まじいもので、こんな状況になってなお、彼女はいつもの調子を失っていなかったが――
「私たち急いでるんで~、どいてもらえますか~?」
「まぁまぁそう言わずに! お時間は取らせませんので!」
男は全く引かず。
それどころか――
「せめてお話だけでも――」
「……!」
その細腕が。
私たちの方に近付いた。
「――っ!?」
――その時。
その手が、ぐりん、と上方向にねじ上げられる。
「――っだ!? いっ、ったたたたっ!?」
眼鏡の男が、痛々しい悲鳴を上げる。思わず、その腕を辿った先には――別の手。
先ほど見た、ずんぐりとした、褐色の手。
「――オニイサン、ダメ」
――あの大男さんは。
彼の背後から、片言の日本語で言っていた。
「コレ、ヴィップ。ツイカリョウキン、ヒツヨウ」
「あ、あぁ!? VIP!?」
「ツイカリョウキン、ヒツヨウ」
「ちっ……んだよ」
一見コミカルに聞こえるその声に――しかし眼鏡の男は、忌々しげな声を漏らしていた。
「もっと分かりやすいようにしとけってんだ……面倒くせぇな」
そして……大男さんの腕を、乱暴に振り払うと。
ぶつぶつと、何やら文句を口にしながら……私たちの元から、立ち去っていた。
「スミマセン、」
呆気にとられる私たちに、大男さんは言う。
「ウシロ、ミテナカッタ」
「あ、いえ。全然」
無表情だけれど、その端々からは申し訳なさが滲み出ている。心なしか、ちょっとしゅんとしているようにも見えた。
「ありがとうございます。助けていただいて」
「……モンダイナイ。コレ、シゴト」
ツイテキテクダサイ――そう言って彼は、改めて先導を始める。
私たちは、お互いに頷き合い。今度こそ置いていかれないよう、気を取り直して、その背中に着いていく。
……
……けれども、だ……
「隙あらば割り込み、かぁ」
今や私の隣を歩くスカイさんは、私の胸のもやもやを言語化してくれていた。
「とんでもない場所だね。私たちが『初見』だって一瞬で見抜いたってわけだ」
「それか、若い女はカモになるって思ったかだな」
光栄だね、とトレーナーさんも、嬉しくなさそうに言った。
「着いてったらどうなってたんだか……まぁ、『お友だち』になれたのは確かだな」
「……要らない友だちですね」
「『VIP』だからって油断しないようにしないとね~。まぁ、もう大丈夫だとは思うけど」
「……」
……ここまで、なんとなくふわふわと、非現実的な感覚だった私。
今ので、やっと理解出来た。ここは――『普通』の場所じゃない。
私たちが知る場所ほど、寛容な世界じゃない。
生易しい領域じゃない――ってことが。
油断したら、隙を見せたら。すぐに奈落の底へ真っ逆さま。
弱きが食われ、強きが生きる。ある意味で正直で、単純な。
弱肉強食の、世界――
「……」
増大する一方の不安を、なんとか飼いならしながら。
歩くこと、しばらく。……やがて私たちは、個室に案内された。
個室といっても、大方想像できるような豪華なもんじゃない。観客席にただくっつけただけみたいな……簡素な個室だ。
その扉を、大男さんが開ける。
その中は……
「……おぉ」
見てくれは薄汚れていたけれど、それなりに整理されていた。
空調が利いているのか、見た目ほど暑くはない。中心には、五人くらいは座れそうな長いソファ。
真正面には、机と、何かの資料。そしてレース場が見渡せるように嵌め込まれた、分厚そうなガラス。隅には観葉植物―。
……なるほど。
黒服の男さんの言葉と併せると、ここは、つまり――
「VIP席、ってか」
「みたいですね……」
私たちが中に入ると、扉が閉められる。どうやら、彼は中に入らないらしい。外で番人をする、ってことだろう。
公式の競レースでも、こういうVIP席――貴賓席が用意されることがあるらしいけど。
似て非なるものだろう。場所的な意味でも。待遇的な意味でも……
「おぉ~、思ってたよりいい感触だ~」
……こういう時、スカイさんの神経の図太さを羨ましく思う。
こんな状況にも関わらず、彼女は早速ソファへと飛び込み、品評するがごとく寝転がっていた。まるで家猫、緊張してないって意味ではいいかもしれないけど、その、私たちが座れないです。
「空調も利いてるみたいだし、私ここに住めちゃうかも。家賃おいくらですか~?」
「今なら『執事』も着いてきます、ってか」
「まともな人だといいですね……」
『――ご来場の皆様にお知らせします』
とかなんとか思っていると。
部屋の中に、控えめな音量の放送が響く。
『第5レース出走のお時間が近付いてまいりました。『発券』をご希望の方はお急ぎください。出走後の発券は対応し兼ねます。出走者の概要に関しては、お手持ちのパンフレットで――』
「……? 発券? パンフレット?」
「ブラックレースは、違法賭博の温床だからな」
トレーナーさんは、困惑する私の脇を通り抜けて、ソファへと近づく。依然としてごろごろしているスカイさんを、軽く蹴ることで退けていた。
「『発券』がどういうシステムかはわからんが、『賭けたい』ならさっさとしろってことだろ。……パンフレットってのはこれのことだな」
ソファに腰を下ろしたトレーナーさんは、机の上の資料を手に取る。私も覗き込んだ……それは、数ページ程度の冊子みたいだった。
目がちかちかするんじゃないかってくらい、カラフルで、派手な売り文句と、多様な写真。トレーナーさんが、それを流し気味に捲ると――
「!」
――不意に、目に飛び込んできていた。
見覚えのある赤髪と、でかでかと記載された、『名前』が。
常勝無敗の『紅い閃光』――
『ルビーフェア』。
「チームともに有名人みたいだな」
トレーナーさんは、悪そうに笑った。
「つまり『こいつ』が、『パドック』の代わりってわけだ」
「……」
確かに、レース場にそんな場所は見当たらない。
スペース的に設けられなかったのだろうか。それとも予算の兼ね合いか。割といい手法なように感じた。……
……はは。
「……有名人みたいで、何よりだよ」
「……アリオンちゃん」
スカイさんが、心底に心配そうに声を掛けてくる。私は……精一杯に平静を保ち、視線を返して応じた。
うん……大丈夫。大丈夫。
気にしないよ。今更。
受け入れるよ、もう。
認めたくない現実を。
知りたくなかった、事実を……
『――ご来場の皆様、大変長らくお待たせいたしました』
その時。
新たな放送が流れた。
『第5レース、出走者の入場です』
瞬間、私たちの視線が、ガラスの向こう側へ向いた。
それなりに離れた位置からでも、その姿は確認できる。
数にして16人――個性豊かな外見をした、ウマ娘たちの中に。
フェアちゃんと。
あの四人組が、混じっていた。
「突っ立ってないで座れよ」
ガラスに張り付き――
ごくり、と固唾を呑む私に。トレーナーさんが、呼び掛けていた。
「あたしたちは、
「……」
それは、彼女なりの気遣いなのだろう。一瞬は、反発しかけたけれど。
どうせレースを止めることなんて、出来っこない。……大人しく、彼女の言う通りにすることにした。
『――出走のお時間となりました。発券が終了します――』
ちょうどその時、放送が続き。
出走者たちが、ゲートに入り切る。
レース直前特有の、何度も触れて来たはずの静寂は――
今日ばかりは、ひどく不気味に感じた。
『――今、スタートが切られました!』
それを破るように――
少女たちが、一斉に走り出す。
『――、――……!!』
先の穏やかな放送に代わって、スピーカーからは喧しい実況が響いている。
本来なら気が散るであろうそれに、全く意識が向かないのは、それだけ目の前のことに集中しているからだろう。
ショーちゃんはそこから少し後方、前から5番目。
リョホーちゃんは更に後ろで7番目。
センちゃんは11番目で、肝心のフェアちゃんは――
……14番。
「……」
その走りは、見るからに苦しいそれじゃない。
余裕をもって、敢えて最後尾についている感じだ。
レースに、そういった走りをする戦術があることを、私は良く知っている――
「……ここまでは普通のレースだね」
スカイさんが、独り言のように言う。確かにその通りだ。
ここまでは、普通のレース。コース自体は……ダートなのか芝なのかよくわからない性質なものの、それ以外に特筆すべきところはない。
普通に普通な、どこにでもあるレース――
「――!」
でも。
間もなく私たちは、それが普通じゃない所以を見ることになった。
エンゲツちゃんの後方を走っていたウマ娘が――
加速し、並んだかと思うと、そのまま、横方向に『ズレた』のである。
……そう、『ズレた』。
最大限にオブラートに包めば、そうだ。
でも私の目には、正直、そうには見えなかった。
それは偶然とか、事故とかじゃない。明らかに意図的な動き――
――『攻撃』、に見えた。
ただエンゲツちゃんは、ひらりと身を翻してそれを回避。
逆に『攻撃』をかましたウマ娘が、バランスを崩し、背後のバ群に呑まれてしまった。
それを皮切りに――
バ群全体に、異様な動きが広がり始める。
ある者は、脚を引っかけようとする。
ある者は、明らかな『斜行』をし、進路を妨害する。
ある者は、服の裾を掴み、邪魔をする。
ある者は、出走者の身体そのものに手を掛け、押しのけようとする――
「……」
……なんだこれ。
なんだ、これ。
一瞬にして別世界に飛ばされたような気分だ――あれ。おかしいな。
私たちは、ついさっきまで。
レースを、観ていたはずでは。
誰もが。
前に出るために、前に出させないために、ありとあらゆる手を尽くしている。
誰もそれを咎めないし、
むしろ、それを受けて盛り上がる始末だ。
『――!! ――!!』
心が現実から切り離されて、急速に遠ざかっていくのを感じた。……
……こんなの。
こんなの、レースじゃ、ない――……
「……もう滅茶苦茶だね」
スカイさんが、ぽつりとつぶやく。
珍しくその声には、分かりやすい侮蔑を感じた。
「文字通り何でもあり、ってわけだ。お金のためとはいえ……ウマ娘としての『矜持』は失いたくないね」
「それでも連中は、変わらずに走れてる」
一方トレーナーさんは――
飽くまで冷静に、それを分析していた。
「チーム『スイコ』だったか。なるほど。伊達に有名人じゃないらしい」
まぁ確かに、そこは、彼女の言う通り。
敵味方入り乱れる、混沌としたレース展開の中でも、彼女らはほとんど動じていない。
それどころか――その混乱に、上手く乗じているように見える。
その証拠とばかりに――
いつの間にか、フェアちゃん以外の四人が、先団を独占している。
他の出走者たちは、それに気付いていないのか。
目の前のことを処理するのに、いっぱいいっぱいなのか。
どちらにせよ、レースは終盤にまで差し掛かり――
刹那。
深紅の影が、バ群を切り裂いていた。
「――!」
「おっ」
「へぇ……」
それまで蔑み一色だったスカイさんが。
冷酷なほど冷静だったトレーナーさんが。
それぞれに、驚きの声を漏らす。
私も私で、目を見開いていた。
後方に待機していたフェアちゃんが。
混沌に塗れたバ群を、一気に追い抜き――
先団を走る四人すらも、抜き去り――
先頭へと、躍り出ていたのだ。
レースはそのまま、終盤を過る。
彼女が先頭のまま。後方に四人を控えたまま。
終わりを迎えていた。
『――!!』
歓声は砲声となり――
私たちのいる個室を、びりびりと震わせる。
場内の赤髪が、観客席に手を振り、その顔がこちらに向けられたのを感じた。
互いの視線が交わった気がするけれど……
私はそれに。
歓びを乗せることは、出来なかった。
「付き合わせて悪かったな」
夜の繁華街。
あの四人組が、スカイさんと一緒になって、トレーナーさんに絡んでいるところを目の前に見ながら、歩いていく。
同じように、私の隣で見守っているフェアちゃんは……確かに、申し訳なさそうな声で言っていた。
「でも、お前に隠し事はしたくなかった」
「うん……ごめん。正直今でも、あんまり整理着いてない」
……けれど、今日の出来事で。
彼女が、何をしているかは分かった。
どういう世界で生きているかも、分かった。
でも、だからといって……それを簡単に受け入れられるかどうか、は、また別の問題だった。
「……どうして」
どうして、
あんなことをしているの?
私は、思わず問いかける。
『真っ当な』仕事は、しないの?
……なんて。
「……まぁ」
フェアちゃんは。
いかにも答えにくそうに、答えていた。
「あたしにも、止むを得ない事情ってのがあるんだよ」
「何……なんなのその事情って」
「悪いな。それは言えない」
「……隠し事、してるじゃん」
「……悪いな」
不満だった。
不服だった――何なら、今すぐ掴みかかりたいくらいだった。
けれど、私の中に残った僅かな理性が、それを阻止していた。
そこまで行ったら、取り返しがつかなくなると。私を……諭していた。
「お前の提案は、魅力的だよ」
そんな私に――
フェアちゃんは言う。
「でも、やっぱりダメだ。付き合えない。あたしには、あたしの居場所ってもんが既にあるし……」
それに。
「守らなきゃいけないもんも、ある」
「……」
目の前で、陽気にはしゃぐ四人。
いかにも楽しそうなその雰囲気が、途端に儚げな、今にも消えてしまいそうなもののように映る。
幼くすら見えるその様子が。
安易に砕けてしまいそうなほど、脆いもののように見え出す。
「……あたしはあたしで、勝手にやるからさ。お前はお前でやってくれ」
続けるフェアちゃんに。
私は、何も言えなくて。
「無理に同じ場所を目指すことも無いだろ。……応援してる」
「……」
……ただ。
ただ、俯くしか、出来なかった。
「今日はありがとね~、フェアちゃん」
……何も言えないまま、変えられないまま、彼女らの住処に辿り着く。
スカイさんは、すっかり慣れたように、声を掛けていた。
「またこの子たちの手料理を食べに行くよ~」
「やめてくれ。歓迎はしたけど、食料は有限なんだよ」
「えー! ダメなの? 自分で買ってくるってさっき言ってたわよ?」
「オメー……いつの間にそんな密約交わせるほど仲良く……」
「にゃはは~」
まぁ、それならそれでいいけどな――結局それを受け入れたフェアちゃんは、四人を引き連れて中へ入っていく。
ろくに見送りの言葉もかけられていないからか、後ろ髪引かれてそうだったけれど。それでも最後には、特別声もかけずに、家の中へと姿を消してしまっていた。
「はぁー……」
散々弄られに弄られたらしいトレーナーさんは、特大のため息を吐き出していた。
「ったく……今日は散々だ……」
「おつかれさまでーす。なかなか楽しい時間でしたぞ~」
「ぶっ飛ばすぞコノヤロウ」
「……」
軽口を言い合う二人にも、私はろくに反応出来ない。
心の中がすっかりかき乱され、整理がつかない。
「……まぁなんだ。色々思うとこはあるだろうが」
それでも、トレーナーさんは、無慈悲なまでに言う。
「時間はあたしらを待っちゃくれない。……明日からまた、トレーニングを再開するぞ」
「……」
俯くしか出来ずにいると――
……軽く、小突かれてしまった。
「返事」
「……はい」
零した言葉を、彼女はしっかり受け取ってくれたらしい。
よし、と短く言い、スカイさんの方へと目を向ける。
「オメーも、サボりはほどほどにしろよ。オメーんとこのトレーナー、ここ最近ずーっとそれで悩んでんだからな」
「おっ、そうなんだ~。じゃ、もっと出てあげないとね~」
トレーニングは普通出るもんだろ――呆れたようにそう言って。
私たちもまた、各々の『家路』を歩む。
繁華街の喧騒に紛れながらも、お互いに有り触れた会話ひとつも交わさず――
……やがて目的地、学園へと辿り着いた。
「それじゃあな。また明日」
トレーナーさんは、トレーナー寮の方へと行き。
「じゃ、行こっか~」
「……うん」
私たちもまた、その背中を見送りつつ、寮の方へと足を向ける。
「まぁ、さ」
しばらく歩くと。
スカイさんは、口を開いた。
「みんなそれぞれ、自由に生きられない理由があるもんさ」
悟ったかのように。
私を、諭すように。
「無理に付き合わせることは……ないんじゃないかな、ってセイちゃんは思うけどなぁ」
「……なにそれ」
……その言葉に。
返した言葉は、知らず知らず、尖っていた。
「諦めろってこと?」
「そーゆーわけじゃないけど……最悪それも、視野に入れとくべきじゃない~?」
「……知った口利かないでよ」
もやもやと、どす黒い感情が胸の中を満たし始めたのが分かる。
自分の家の中に、土足で上がり込まれたみたいに。
……口にする言葉も、更に鋭くなる。
「……心外だな~」
それに応じてか――
スカイさんの言葉もまた、攻撃的な色を帯びた。
「セイちゃんは、飽くまで善意で忠告してあげてるのに」
「余計なお世話だよ。あなたには関係ないでしょ」
「え~? そんなこと言っちゃう~? そんなんなったら、もう何も言えないじゃーん」
「うっさいな……何も知らないくせに」
「だったら訊くけどさぁ、」
そうして向けられた視線も――また、鋭利だった。
「――キミはあの子の、何を知ってるの?」
「……そんなの」
「知らなかったじゃん。何も」
「――、」
淡白なまでに、現実を突きつけられて。
私は、何も言えなくなる。
湧き上がってきた怒りが、頭を支配していた熱が。
急速に、失われていくのを感じる。
「……」
口を動かしても、声は出ない。
言葉は、紡がれない。
胸を満たしていた黒い感情は、今や霧散して。
驚愕に似た理解が、広がるばかりだ。
……そうだった。
その通りだった。
私は、知らなかった。
何も、知らなかった。
彼女が、共同生活を送っていることも。
危険なレースに関わっていることも。
……どうして、そんな境遇に置かれたのかも。
何も、何も、知らなかった。
どの口が言えるのだろう。
どの口が語るのだろう。
私は彼女を知っているだなんて。
彼女のことを、理解している、だなんて。
……知り合ったばかりであるはずの、スカイさんですら。
知っていた事実を、ずっと、知らなかったのに……
「……」
「……」
歩みは止まらないけど。
互いの空気は、停滞した気がする。
人気のない路地なのも、相まって。
それに抑え込まれたように、口を開けない。
それは執拗に居座っていたけれど。
気まずさに耐え兼ねたのだろうか。
やがて、寮の前に辿り着いた時。
「……ごめん」
スカイさんが。
ぽつりと、それを追い払っていた。
「言い過ぎた」
「……、うぅん」
私もそれに、ぽつりと返す。
逆上は愚か、否定すら出来ない。
……彼女の言い分は。
冷静に考えれば、至極真っ当だった。
そうだ。
そうなのだ。
出口の見えないトンネルみたいで、入り組んだ迷路みたいで。
複雑で、煩雑な事情。……私にも、私のやるべきことがあるのに。
いくら夢だからって。目標だからって。レースに関係ないところでいつまでも足踏みしていられるほど、甘くもない。
自分の将来を考えるなら。
真っ当に未来を思うなら。
こんな浮ついた願い――さっさと、捨てるべきだ。
とっとと。
諦める、べきなんだ。……
……
……でも。
でも、それでも。
それでも、やっぱり、私は……
「……じゃ、また明日ね」
……私とスカイさんは、同じ寮だけど、階が違う。
階段を上がろうとする私に言って、立ち去ろうとする。
「――スカイさん」
私は。
その背中を、呼び止めていた。
彼女は素直に応じて、立ち止まり、振り返ってくれる。
電灯に照らされて、短めに切り揃えられた芦毛が、篝火のように映えて見えた。
「……ありがとう」
「……」
何に対してかはわからない。
けれど、そう言わないといけない気がした。
目を丸くした彼女は。
口端を綻ばせていた。
「……どういたしまして」
先ほどの鋭さなど、見る影もない。
優しく、柔らかな声色で言って――
彼女は、改めて歩き去る。
……私も、部屋に戻って。
荷物を投げ出すと、徐に窓を開けた。
サッシに上半身を預けながら、夜空を見上げる。
星は。
いつもより、遠くに感じられた。