――遠い昔。
夏休みが終わる直前。
フェアちゃんは、わざわざ私の家に遊びに来て、こんなことを言った。
「――いやー、やべーわー、宿題終わってねーわー!!」
あからさまに、わかりやすく。
「やべーわー!! マジやべーわ!! このままじゃ先生に怒られちゃうわー!! いやー!! まずいわー!! ホントにまずいわー!!」
聞こえるように、わざとらしく。
「マズいんだよなー!! どうしよっかなー!! 時間がねーんだよなー!! もっとお手伝いがいればいいんだけどなー!!」
「……」
で、それを聞いた私は。
「そうなんだー」
……と、淡白に答えるのである。
「……」
「……」
セミの合唱が会話の間隙を埋め、このまま『完』の字がせりあがってきてもおかしくない空気。
「――いやそこは手伝うよって言えよ!! 親友が困ってんだぞ!!」
しばらくして。
フェアちゃんは、大絶叫をかます。
「えー?」
で、まぁ、私も私で。
挑発するみたいに、『わざとらしく』返す。
「ごめーん。私バカだからワカンナーイ」
「わかってんだろうが! 明らかに! 性格悪いな! あたしに皆まで言わせる気かよ!?」
「皆まで? ミナマデ? 外国の街か何か? わかんないな~~~、何かやってほしいなら、ちゃーんと言ってくれなくちゃ~」
どんどん顔を赤らめていくフェアちゃん。
醜いまでに歪んでいる、と自覚出来るまでに笑う、私。
私の核心は割と薄汚い。
借りが作れる!! とかほくそ笑んでいたっけ。
「言ってみ? フェアちゃん」
言う。
まるで、犯人を追い詰める警官みたいに言う。
「私に、どうしてほしいのか」
言う。
宛ら、生徒の悪事を暴こうとする先生みたいに言う。
「スナオに、言ってみたらどうですか?」
「……っ」
……すると。
やがて彼女は、俯いて。
「……くれ」
「ん?」
「――だあぁぁ、もぉ!!」
続いて――
荒々しい怒号をかますと。
「……助けて、くれ」
とうとう、観念したように、言った。
「あたしの宿題。手伝ってくれっ!」
「――うんっ」
そして、私は……
それに気を良くして、言うのである。
「助けてあげるっ!」
『あたしがいても『足』手まといだろ』
そういうことらしいので、私とスカイさん、二人でセイちゃんの後に着いて行った。
果たして三人、フェアちゃんの住処へと辿り着いたのだけれど……
……正直、何事かと思った。
「……なにこれ。世紀末?」
スカイさんの声も、心なしか呆然としている。……当然だ。目の前に、それだけのものを見せられているのだから。
ガラスが割れ、ほとんど枠のみとなった引き戸。散乱する植木鉢の欠片。上り框には土が撒き散らされ、何者かが土足で上がり込んだことを物語っている。
まだ、最後に見てそう経っていないはずなのに。
そこは、見るも無残な状態になっていた。
フェアちゃんを助けてほしい――センちゃんが、あれだけの剣幕で言うのだから、ただ事ではないとは思っていたけれど。
……どういうことなのだろう。
まさか……こんな事態になっているだなんて。
「……お邪魔します」
とにかく、中へと入るけれど、そこもまた目も当てられない状態だった。
雑で乱暴な強盗に、これ以上ないくらい暴れ回られたみたいだ。
私もこれまで、色んなアクション映画を観てきたけど。その中でさえ、ここまで凄惨な状況は見たことがない。
……ただ事じゃない。い、一体何が……
「みんなは?」
「……こっちです」
センちゃんに問いかけると、彼女は居間まで連れていってくれる。示された通り、そこには残りの三人が身を寄せ合っていたけれど……誰もが意気消沈している。
いかにも、目の当たりにした現実を、受け入れられていない様子だ。まともに受け答えが出来るようにすら……思えない。
「……な、」
何が。
先に思った疑問が、口を衝いて出る。しばし、それに答える子はいなかったけど。
「……『トウ』ダ」」
やがて口を開いていたのは、ショーちゃん――ダイトウカンショーちゃん、だった。
「あのヤローガ、オレたちの留守を狙ってきやがったんダ」
「トウ……?」
「……トウチュウエイ。あたしらの、因縁の相手です」
気持ちの整理がついたのだろうか。
センちゃんが、それに続いていた。
「いるんですよ。フェア姉がそうであるように。ブラックレースにも……スター選手ってやつが。トウチュウエイはそのうちの一人で、同じくらいの実力のフェア姉を、一方的に敵視しています」
その因縁が、どこから始まったかはわからない。しかしフェアちゃんは、どうやらその『お眼鏡』に適ったらしく――
時に、皮肉を言い。
時に、嫌味を言い。
実害は無かったものの、旅人に付き纏う蛇のように、何かにつけて執拗に絡んできていた。
……今日までは。
「……そいつが、あたしらが留守にしてる間に、襲ってきた。あたしらの『大事なモノ』まで奪って、姿を晦ませた。フェア姉には……どうも、居場所の見当がついてるみたいで。さっき、家を飛び出したっきり……」
「……帰ってきてないの?」
センちゃんは、ゆっくりと頷く。トウチュウエイ。どんな人かはわからないけれど、突然現れ、ここまで暴れ回る人なのだ。どんな人となりなのか……は……想像に難くない。
そしてフェアちゃんもフェアちゃんで、この子たちを置いてどこかへ行ってしまった。
無事に帰ってこれるかどうかも……今や、定かではない。
「……どうしよう」
センちゃんは。
俯き、肩を震わせる。
声も、それを追うように震える。四人の中で、最もしっかり者に見えたその姿が、萎んで見える。
「もし……フェア姉に何かあったら……あたし……あたし」
「……ごめん」
それに続くエンゲツちゃんの声もまた、か細く震えていた。
「あたしが……あたしがちゃんとしてれば。あいつに対抗出来てたら、こんなことには……」
「……」
波紋が広がるように、リョホーちゃんも。
それまで強気に振舞っていたショーちゃんも、同じように、震え出して。
……ただでさえ薄暗い家の中に。
更に重く、暗い空気が漂い始める。
痛々しく、すすり泣く声すら響き始め。
私は――他に、どうしようもなく。
唇を軽く噛み。
視線を下げてしまった。
「――、」
その時。
隣に立っていたスカイさんが、深く息を吸うのを、感じた。
「――泣くなッ!!」
……放たれた言葉は。
これまでに聞いた、どんな彼女の声よりも――熱と、感情に、満ちていた。
全員の視線が、彼女に集中する。
スカイさんの顔は、怒りにも、励ましにも、水を向けようとしているようにも見える、何にしても、激情一色に染まっていた。
見たことのない表情を。
浮かべていた。
「泣いたって、何にも始まらない」
彼女は、言う。
「泣けば誰かが助けてくれるの? 泣けばどうにかなってくれるの? どうにもしてくれないもののために、エネルギーを割いてやる暇なんか今はない」
「す、スカイさん……?」
「苦難に直面したから。悲劇を目の当たりにしたから。それが自分じゃどうにも出来ないからって、泣いて留まって、誰かがどうにかしてくれるのを待って物臭に甘えたがるな!」
私の、困惑の声すらも意に介さずに。
その目は、ぎろりと、四人を見つめていた。
「――私は、そういう奴が、一番嫌いだ」
彼女らは。
呆気に取られたのか、単に返す言葉が無いのか。
無言で、何も言わず、彼女を見つめ返していたが。
「――あっ」
スカイさんは、反応を待たず、踵を返す。
歩き始めた彼女に、一瞬だけ躊躇った後に、着いて行った。
その足は、家の外、門の前にまで行って――
止まっていた。
「……スカイさん?」
「――やっちった」
名を呼ぶと。
彼女は、片手で顔を覆う。
その下から覗く瞳は……
恥ずかしそうに、緩んでいた。
「……今の、オフレコでお願い」
「……」
……それに。
私も、微笑んだ。
その豹変は――彼女にとっても、想定内のものではなかったようだった。
「……びっくりしたよ。いきなりあんなこと叫び出すから」
「いやはや。セイちゃんもまだまだですな~。言っちゃだめだ、言っちゃだめだって、必死に押さえてたのに」
いつものように、後頭部で手を組む彼女だけど。
その動作も、今の私には、ほんの照れ隠しのように見えた。
「……抑え切れなかった。なんかさ」
同族嫌悪ってやつかもね――と。
「なんか……昔の自分みたいでさ」
「……」
……なんというか。
スカイさんの言動って、いつも浮世離れしていて。
同じ『種族』でありながらも、根本的に違う存在なような気がしていて、何となく、距離を感じていたのだけれど。
安心した。
なんだか少し、安堵していた。
彼女もまた、私とさして変わらない……
同じ『ウマ娘』なんだな、と。
「……んー?」
なんて、微笑ましげに見ていることを悟られたのだろうか。
彼女は、私と目を合わせると、いつもの、悪戯っぽい雰囲気に瞳を緩ませた。
「まるで自分とおんなじ、とでも言いたげだねぇ」
「え……え? いやいや、そんなことないデスヨ?」
「ってことは、自分とは違う存在かもって思ってたわけだ。うーん。ちょっとショックかも~」
「いやいや。そんなこと、ナイデスヨ?」
「どんどんカタコトになってるよ~?」
けらけらと笑うスカイさん。
恥ずかしげに頭を掻く私。
先の激情はどこへやら。
どこか藹々とした空気に、場が包まれそうになった頃――
「……あ」
ふと、スカイさんの向こう側。
外れた視線の先に――私は、それを見ていた。
薄暗い景色の中でも、まるで篝火のようによく目立つ、真っ赤な髪――
「フェアちゃん!!」
その持ち主の名を叫ぶと。
彼女は、そこに立ち止まっていた。
口が、私の名を結んだように見える。
ただ、それを確認する間もなく、私たちは、彼女の元に駆け寄った。
「大丈夫!? 怪我は……!」
「お前……なんでここに」
「センちゃんに呼ばれてきたの。そしたら、トウってやつが、フェアちゃんの家を襲ったって……」
「……ちっ、アイツ余計なことを」
「余計って……」
見たところ、彼女に怪我はなさそうだ。ただ……そんな言葉は、心外だった。
彼女も、勇気を振り絞って私の元まで来てくれたろうに。何も……そんな言い方、しなくたって。
「……何があったの?」
ともかく。
改めて、彼女に問う。
「外に飛び出したって聞いたけど」
「……トウに会ってきた」
「!」
……嘘。
会って来た!? トウに!? この事件の――首謀者に!?
「『あいつら』の大事なもんを盗んだってことは、それが人質だってのはすぐに推測が付いた。その挑発に乗ってやったまでだ。ご丁寧に『レース場』の目の前で待ってやがったよ。にやにや嫌らしく笑いながらな」
「……なんて言ってたの。向こうは」
「何でもねーよ。勝負しろって言われただけだ」
本当に何でもないことのように。
彼女は言った。
「一週間後。三対三のチーム戦だ」
「……!」
「まぁ、向こうはあたしがメンバーを集められないことに気付いてる」
だから実質、三対一になるだろうがな――
彼女の声は……普通だった。恐れも怯えもなく、淡々と事実を述べているだけのように聞こえる。
でも――それは彼女だけの話だ。傍から聞いた側からしたら、そんなとんでもない話は無かった。
それがまだ『普通の』レースなら――まだしも。
「ほ――本気なの?」
『普通じゃない』レースを観た側からしたら……
心配せずには、いられない。
「ブラックレース……ってことでしょ? それで三対一なんて」
「あぁ……さぞ『楽しい』レースになるだろうなぁ」
空を見上げる彼女は、それを恐れているようには見えない。
まるで他人事のように、そこを流れる雲のように、軽く、ふわふわと、答える。
「まぁいいさ。どうせこんな、くだんねぇ人生なんだ」
レースの上で果てられるのなら。
それで本望だよ――
まるで世捨て人みたいなその言葉は……彼女の、本心のように思えた。
声にも瞳にも、迷いはない。
嘘一つなく、忌憚なく。
強大な敵に、立ち向かおうとしている――それが感じられた。
たった一人で。
誰の助けも求めずに。
……解決しようとしている。
そんな風に、見えた。
「……」
その姿に、かつての彼女の姿が重なる。
そして、重なったその姿に、トレーナーさんから話された過去が共鳴する。
……何も知らなかった。確かにそうだった。
何も知らずに、知った気になって、彼女に呼びかけていた。
自分勝手に、勝手気ままに、彼女を私の夢の中に引き込もうと、試みていた。
ふわふわと浮かぶ風船のように、中身のなかった想いが、感情が、
熱を帯び始めたのを感じる。
「……フェアちゃん」
……果たして私は。
黙ってなど、いられなかった。
「一人でなんか、行かせない」
一人で戦おうとしている彼女に。
孤独に立ち向かおうとしている彼女に。
私は、言った。
「――私も、」
――私も。
協力する、と。
「……はぁ?」
フェアちゃんは、私の言葉に、頓狂な声を上げていた。
「協力? お前が? あたしに?」
「うん。そのレース! 私も参加する!」
「……何言ってんだよ。お前は正規ウマ娘だろ」
私としては、大真面目に、冗談抜きに、言ったつもりだったのだけれど。
フェアちゃんは、どこか馬鹿にするみたいな、皮肉めいた口調で笑っていた。
「ブラックレースになんぞに首突っ込んだら、何言われるかわかんねぇぞ」
「はは。かもしれないね。……でもいいよ。何言われたって」
でも……大丈夫。心配には、及ばない。
だって私に、恐れも、怯えもない。今の心は……単純な、ただ一つだけ。
「……『親友』を助けられるなら。どんなことを言われても構わない」
そう――
ただそれだけ。
あなたを助けたいという、バカらしいほどに単純で、愚直なまでに純粋な、それだけ。
「どんな危険なレースだろうと、それでどんな怪我を負っても、どうでもいい!」
本当に――ただ。
それだけ。
「だから、一緒に走ろう、フェアちゃん!」
手を差し出す。
たった一人で、巨大な敵を倒そうという彼女に、差し伸べる。
「一緒に、戦おう!」
真っ直ぐに、彼女に。
呼びかける。
「……」
彼女は何も言わない。
目を見開き、驚いていたようだけれど。
やがてそれも収めると、私を見つめて。
何かに気付いたみたいに、笑っていた。
――そう。
「……なるほどな」
冷ややかに。
笑っていた。
「それが、『策』ってことか」
「え……?」
「そうやってあたしに協力を取り付けて……」
その眼もまた。
侮蔑的で、軽蔑的で。
「その見返りに……『夢』に協力しろってんだろ」
「――……」
夢。
私の夢。
みんなで、大舞台で走りたいという、夢。
「……冗談じゃねぇ」
フェアちゃんは、続ける。
「言ったろ。あたしにも……守らなくちゃいけないものがある」
自分の我儘のために、誰かを犠牲に出来ない。
「あいつらには、あたしが必要だ。あたしがいなきゃダメなんだ。……あたしの望みのために、あいつらを路頭に迷わせるわけにはいかない」
自分の理想のために、誰かを振り回せない。
「何より……あたしは、そんな手で絆されるほど、簡単なつもりはねぇよ」
自分の夢のために――
誰かを、見捨てることなんて、出来ない。
「……お引き取り願うぜ」
フェアちゃんは言う。
「あたしにはもう……関わらない方がいい」
私に言う。
「あたしもお前も」
もう、
違ういきもの、なんだからな――
……そう。
突き放すように、言っていた。
「……」
「……」
「……」
フェアちゃんは、それ以上は何も言わない。
言い過ぎたと思ったのか、それまで灯っていた蔑みの色も鳴りを潜めていた。
三人、お互いに視線を交わし合い。
夜更けの静寂が、場を包む。
「……、」
それを肯定と受け取ったのか。
フェアちゃんの足が、動く。
私の脇を通り過ぎようとした彼女の――
「――、」
その前に。
私は、立ちはだかった。
フェアちゃんの表情が、不愉快そうに歪む。
「……なんだよ」
苛立たしげに言った彼女に――
「……いらない」
私は。
言った。
「見返りなんか、いらない」
そう。
元より――そのつもりだったから。
「あ……?」
「友達を助けることに、見返りなんていらない!」
それは綺麗事じゃない。
それは理想論じゃない。
私は本心で、あなたの力になることを望んでるんだ。
「……いつもそうだったよね、フェアちゃんは」
……思えば、そうだった。
彼女は、いつの日もそうだった。
「一人じゃどうにもならないことも、一人で解決しようとしてた」
小さなことも、大きなことも。
一人で、どうにかしようとしていた。
「苦しくても、辛くても、全部、抱え込んできた」
不器用な優しさだったのかもしれない。
彼女なりの気配りだったのかもしれない。
「誰の手も借りずに……今まで、生きてきた」
家族のことで。
親御さんのことで。
あれだけ、苦しんでいたのに――
「……お前」
「――でも、もういいんだよ」
私が、知るはずのない『家族』のことを口にしたからだろう。
彼女は目を見開き、声を漏らすも。
私は、続ける。
「もう、一人で抱えなくていい。独りで苦しまなくていい。我慢――しなくていい。一緒に抱える勇気も、苦しむ覚悟も、私は決めてきた」
その目的は、最初は違っていたけれど。
本当は、そのために知ろうと思ったんじゃないけれど。
でもその方向を変えることだって、今や容易い。
「だから……」
だから。
だから、お願い。
「お願い。協力させて」
あなたを。
今度こそ、あなたを。
今日こそは。
あなたを――……
「あなたを――助けたいの」
「……」
彼女の顔から、余裕にすら見えた冷たさが消える。
信じられないものを目の当たりにしたみたいに、瞳が揺れる。
「――いいね」
そこで、私と肩を組んできたのは――
スカイさんだった。
「一時はどうなるかと思ったけど……見上げた覚悟だ」
「スカイさん……」
「そういうわけで、私も協力するよ」
声は、やっぱりいつも通りだったけれど。
その端々に、私に負けないくらいの、意志の強さが滲む。
淡い水色の瞳が、フェアちゃんを緩く見つめる。
「3on3なんでしょ? なら私たち二人が加わればちょうどいいじゃん。人の留守を狙う悪代官に、正義の鉄槌を下してやろうではないかー!」
「悪代官じゃないけど……」
「……なんで」
空気を和ませるためだろうか。よくわからない冗談をかますスカイさんに――というより、私たちに。
フェアちゃんは、ポツリと零す。
「なんで……そこまで」
「……嫌だなフェアちゃん。本気で言ってんの?」
それに。
私は……淀みなく、答えた。
「――友達を助けるのに、
理由なんか、いらないでしょ?」
「――……」
「でもさ~」
彼女は、今にも崩れ落ちそうだった。
対照的に、マイペースなスカイさんは。水を差すように言う。
「大丈夫なのかな。君のトレーナーさん的には」
「え? トレーナーさん?」
「だって、ブラックレースでしょ~? 許可してくれるとは思えないけどなぁ」
「……まぁ、きっと大丈夫でしょ」
そんな、当然のような疑問に。
私はなおも、淀むことなく答えた。
「だって、『あの』トレーナーさんだよ?」
きっと、色々理由付けて。
なんだかんだで、協力してくれるよ、と。……
『――ダメに決まってんだろ』
……なんていう。
私の軽い考えを、電話の向こうのトレーナーさんは、ばっさりと切り捨てていた。
「……え」
話がまとまりそうだったから。
いざ、トレーナーさんに連絡してみたら、そんな有様。
呆けた声を漏らす私に、彼女は返す。
『え、じゃねぇよ。むしろなんで許してくれると思ったんだ』
「い、いや。でも、だって」
『でももだってもねぇ。……考えてもみろ。お前はまだクラシック上がったばっかの新米だけどな、それでも正規ウマ娘であることには変わらねぇんだぞ』
そんなウマ娘が、ブラックレースに参加したなんて知れてみろ。
『公式のレースにどんな影響が出るか、わかったもんじゃねぇ』
「で――でも、トレーナーさんは、フェアちゃんが学園に入ることには反対しなかったじゃん! なんで――」
『そりゃ、ルビーフェアは『今』ブラックレースに参加してるだけだろ。正式デビューしてない以上、あいつがいくら裏のレースに手を出してようが関係ない。文句を言ってくる連中がいようが、これからの走りで証明していけばいい』
だが、
『確かにブラックレースは、厳密には出走自体に問題はない。だが世間がそんなに寛容だと思うか? そんな格好のスキャンダル、誰がどこで利用して、どんな揚げ足取りに繋げるかわかったもんじゃない。……お前はそのために、今度こそ競争人生を無駄にする気か? あれだけ迷惑をかけたのに?』
発端はあたしかもしれないけどな。
その背中には、他人の期待や過去も負っていることを忘れるな。
『……お前のその、誰かのために、平気で自己を犠牲に出来る精神は美徳かもしれない』
責めるように言っていたトレーナーさんは。
一転して、諭すような声色になる。
『けどな。自分の時間を、誰かのために割くしかしないのはバカのすることだ』
いいか、と。
『固執するべき時間を間違えるな』
お前の人生は――
お前にしか生きられないんだからな――
……と。
「……」
「……」
「……」
三人――
押し黙る。
スカイさんに言われた時こそ、軽薄なまでに構えていた私だったけれど、冷静に考えてみれば、許可してくれるわけがないのである。
夢のためとはいえ。
目標のためとはいえ。
世間的に、明確に忌避されていることに――
……手を染めさせるわけが、ないのである。
「……」
言葉が出ない。
覚悟を決めたはずなのに。
変えようのない現実を目の当たりにして、気持ちは簡単に委縮していた。
考えを巡らせて。
思いを回らせて。
一瞬でも、
それを手に取ることすらも。
自分の中に、選択肢として、留め始めた。……
『――と、まぁ』
トレーナーさんは、言った。
『ここまでは、建前の話でな』
……で。
思いもよらない言葉に。
「……へっ?」
私は、頓狂な声を上げた。
静寂。
ルビーフェアたちの家の中、広がっていたのは、静寂であった。
『……』
スカイに一喝されて以降、一同はほとんど動かずに、それぞれに思案に耽っている。
その形の細かな部分は異なっているものの、主題に関しては共通していた。
――これでいいのか。
このままでいいのか。
これでいいわけがない。
このままでいいはずがない――と。
誰もが口を開かなかったのは、沈黙がそれだけ重かったからか。
それとも、そうするだけの『勇気』を、誰一人持てなかったからか。
「……なァ」
何にしても――
それでも、と、ダイトウカンショーが、その思いを口にしていた。
「この生活始めテ……もウ、何年ダ?」
「……わかんない。もう、一年経ったのかな」
応じるのはエンゲツだ。いつもは明るく、前のめりな彼女も――
今ばかりは、消え入りそうな声を発する。
しかし、それから続く言葉はない。誰もが再び言葉を紡がなくなる中で――
「……なァ。オレたちは、何カ変わったカ?」
ショーは、再度虚空に問う。
「何か変えたくテ、何か変えられルって思ッテ、ここまで来たはずだロ」
自分を変えたくて。
「運に恵まれテ、なんとカ今日まで生き延びられタ」
住処を変えたくて。
「でもヨ、それで何が変わったんダ。オレたちは、何か変えられたのカ?」
思考を変えたくて。
「親はくたばったのカ? 家は燃えたのカ? 嫌なことは無くなったのカ? 運命は……変わったのカ?」
……運命を。
変えたくて。
「……なァ、お前ラ」
無言は肯定だった。
ショーはそれをよくわかっている。
虚空へ飛ばしていた問いかけは。
明確にそこに集った『仲間』へと向けられた。
「もウ……覚悟を、決めるべキ時なんじゃねぇのカ」
「……そうかもね」
空気に押さえつけられていたかのように――
それまで、ガゲキホーセンは動かなかった。
だが、彼女の言葉を受けて、それこそ、覚悟を決めたように。
その場に、立ち上がる。
「……みんな、聞いて」
これから、ルビーフェアは、無謀な戦いに赴く。
自分たちでは、及びもつかないレースへと臨む。
それを知って。それを受けて。
……庇護されてばかりの自分たちでは。いられない。
つまりはこれは、転換点だった。
いつまでも変わらずにいられると、信仰していた自分たちの。
だが、どんな雛も、いつかは成長し――
巣立たなければ。
ならないのである。
「……フェア姉が、レースを終えたら」
だから、言う。
彼女は、絞り出すように、言う――
「……『あれ』を、渡そう」
言葉に。
彼女らは、誰もが、力強く、頷いていた。
――翌日。
「――よぉ」
昔ながらの、豪勢な和風の邸宅にて。
広大な座敷で、男の声が響く。
時代劇から飛び出してきたかのような、冗談のような玉座に鎮座する彼は――
目の前の人物を、嘲笑うかのような目で見下す。
「久しぶりじゃねぇか」
高圧的な態度と、侮蔑的な声色にも関わらず、『彼女』は、動じていなかった。
「――___」
名を呼ばれた彼女は――
――サファイアアリオンの担当は。
負けじとその目を、真っ直ぐに見つめ返していた。